考えたこと2

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新しいボールペン
久しぶりに文具売り場に行くと、新しいボールペンがあった。

SARASAという名前。
愛用のHI-TECの対抗商品だ。

ついに、ペン先がHI-TECと同じく、棒状のものが出てきた。
たしか、パイロットがペンの先端のボールをとめる3点支持の方法で特許があると新聞に書いてあったが、何か抜け道があったのだろう。

HI-TECのいいところは、絶対に最後までインクが使えるところだ。
今まで何本も使ったが、インクがなくなるまで必ず使える。(一度落としてペン先が壊れたことはあったが…)

SARASAはゼブラの製品。今まではノック式で出していたのだが、stickという名前でHI-TECと同じようなカタチのペンになった。

キャップについているクリップは厚いものにでも挟めるように、バネになっている。
ペン先を保持する部分はプラスチックだが、持つところがラバーグリップになっていて、そこがHI-TECと違うところ。
HI-TECは細いペン先をしっかり保持するために金属を使っているのだが、これで持つのかな…と思ったら、よくできていて、先の部分は回して取れるような構造になっておらず、ペン本体と一体になっている。だからプラスチックでもいけるのか…。
その代わり、ペンのお尻の部分を回すと中味が取れるようになっている。

書いてみると、HI-TECと似たような書き味。
インクは顔料系なので、水に強いとのこと。

どんどん良くなるなあ…。

それにしても、HI-TECと同じ値段でよくこんなペンが出せるなあ…と感心した。

思わず1本買って帰った。

しかし、帰ってからよく見ると、ラバーグリップで隠れて見えない部分が細くなっていて、インクの量が少ないのだ。

なるほど。

ゼブラの開発陣も、HI-TECに対抗するために考えたものだ。

とりあえず、この1本を使ってみることにするが、やっぱりHI-TECから浮気してはいけないということのような気がする…。


| | 考えたこと | 20:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
題名
印象に残る題名の本がある。

何となく、その時の自分の気持ちあらわしているような本だ。
必ずしも小説の内容と一致しているワケではないが…。

「青春の蹉跌」「僕たちの失敗」「見るまえに跳べ」「されど われらが日々−」「翔ぶが如く」「書を捨てよ、町へ出よう」などの題名が、本の内容とは関係なく、印象に残っている。

「青春」という言葉は、70年代の終わりくらいまではよく聞いた。
今も若い人は使うんだろうが、あのころよりもメジャーな言葉ではなくなったような気がするが、気のせいだろうか…。

「僕たち」という言葉もあまり聞かないような気がする。
あのころは、本の背表紙に「僕たち」と書かれていることが新鮮だった。

「見るまえに跳べ」は読んでいないが、あのころの若者に対するメッセージのような気がする。
今はどちらかというと、ちゃんと見てから跳べ、という感じかな。

「されど…」はこの文語調がいい。
「そうではあっても」や「それでも」では格好がつかない。「されど」われらが日々なのだ。
たかが題名、されど題名…ということだろう。

「翔ぶ」というのは、それまであまり見なかった文字だ。
このころから目につくようになって、今では名前でよく見る。
「飛ぶ」や「跳ぶ」よりも「翔ぶ」の方が、大空をかけるという感じがする。

「書を捨てよ…」も文語調だ。
これも、「書を捨てよう」では格好がつかない。

こうして見てみると、文語調の題名の本が意外に印象に残っているのか…。

そういえば、前に「夏は来ぬ」とか、ここにも書いた。

ここで挙げたものは、別に古文というほどのものでもないし、見ればわかる程度の文語調だから、これからも残っていくのだろうが、日本語の文語体はどんどん廃れていっている。

「天気晴朗なれども波高し」「仰げば尊し我が師の恩」「うさぎ追いし彼の山」「遠き山に日は落ちて星は空を散りばめぬ 今日のわざをなしおえて 心かろく安らえば 風は涼しこの夕べ いざや楽しき まどいせん」「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ」…

後半は昔の唱歌になってしまった…。

いい日本語だと思う。
「名前も知らない遠くの島から」というより、「名も知らぬ遠き島より」の方が美しく感じる。
短くて、すっきりしていて、いさぎよい。

言葉は移り変わってゆくものだが、文語体がなくなっていくのは残念だ。

本の題名で話を始めたのに、話が変わってしまった。すみません。



| | 考えたこと | 21:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
ものさし
子どものころ、うちには木で出来たものさしがあった。

母が洋裁をしていたので、長さが50センチくらいのものさしがいつも置いてあったのだ。

なぜか、数字の目盛りはなくて、代わりに黒い点が打ってあった。5センチおきに点が赤になっていたような気がする。
わざとなのか、使い込んで湿度によって変形したからか、凸型に反っていた。

今なら木のものさしなど、考えられない。
さっき書いたように、変形するからだ。

まだ当時はプラスチック製が一般的になる前だったから、ものさしは木だった。
特に、長いものはそうだっただろう。

小学校1年のときに、長さがわからなくて、テストでほぼ零点を取ったことを覚えている。

持って帰ったら、母が見て、定規の目盛りの読み方がわからへんの…と驚いていた。

しかし、小学校のときに使っていた30センチのものさしは、もうプラスチックだったと思う。

プラスチックに正確に目盛りを印刷する技術ができたんだろう。(よく目盛りが消えたけど…)

でも、長いこと木のものさしは家にあった。
母は、使い慣れたものさしがよかったんだと思う。

とにかく、軽いから、生地を測ったりするのに便利だったのだろう。
別にミリ単位の正確さが要求されるわけではなく、取り回しが効く方がよかったんだと思う。

まだまだプラスチック製は厚くて、重かったなあ。

今の子どもは木のものさしなど見たこともないだろう。

たかだか30年の間にすごい変化だ。

もう少しさかのぼれば、メートル法ではないものさしが一般的にあったのだから…。

世の中は気づかないうちに変わっていく。




| | 考えたこと | 01:38 | comments(4) | trackbacks(0) |
マイク・ロイコ
こないだ、ボブ・グリーンのことを書いたが、もう一人好きなコラムニストがいる。

それが、マイク・ロイコ。
どういうわけか、どちらもシカゴの新聞に書いていた。

ロイコは1932年生まれで、97年に亡くなっている。

ボブ・グリーンよりも、少し辛口のコラムを書く。

世間話風の書き出しで始まって、ホロリと終わるような話もあるし、最後の一行で、キツイ風刺をたっぷり効かせたような話もある。

クリスマス コラムという本に書かれている、世界で一番素敵なクリスマス・ツリーの話は本当にいい話だった。

でも、この人の本ももう古本でしか手に入らない。

最近は、長いストーリーを読んでいると寝てしまうので、短い話の本が多くなった。

いいコラムは、寝る前の心をスッキリさせる。

山本夏彦や山口瞳、佐藤愛子、曾野綾子、田辺聖子など日本の作家も好きだが、アメリカのコラムニストは(原文で読んだわけではないが)、歯切れがよくて、読みやすい。

グリーンとロイコ、枕もとにオススメ…だが、本屋で買えないのが残念。



| | | 00:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
少子化
少子化は問題であるという。

問題になっているのは、日本国内でお金を使う人が減ること、働く人が減ることかな。
でも、少子化というよりも、それに伴う高齢化の方が問題なのか。

さっきテレビを見ていたら、第二次大戦中の日本の人口が7千万人という数字が出てきたので、調べてみるとたしかに終戦の1945年に7200万人になっていた。

でも、その前の明治維新のころには3400万人くらいしかいなかったらしい。

そんなに少なかったのか…。

2006年がピークで1億2000万人。明治維新のころというと、ぼくらの親の、親の、親の、そのまた親くらいの世代。
たった4世代前だ。

4世代前の人口は今の1/3以下だった…何となくすごいことだと思う。

今のイギリスやフランスの人口が6千万人。

イギリスは日本とそんなに面積は変わらない。フランスは日本の1.5倍くらいの面積だから、日本が少子化といっても、人数そのものでいえば、イギリスやフランスよりだいぶ多いし、彼ら並みになるためには、まだ100年くらいかかる。

未来に目をやると、2050年の人口の予測は1億人でその時に3人に一人が65歳以上になるらしい。
もちろん、この高齢化率は世界一のようだ。

働き手の人数でいえば、まだまだ2050年でもイギリスやフランスよりは多いということか。

ロボットや機械化が進んで、ものを作るために必要な人は減っている。
サービスを生み出すために必要な人も減っていくだろう。
食糧自給率も低いし、住んでいる家も狭い。

問題は、高齢化ということだろう。

要は、70歳まで働けばいい、ということになる。

そういうことでいいのかな…。


| | 考えたこと | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
ツー・ファイブ
ツー・ファイブというと、コード進行について知っている人なら馴染みのある言葉。

ツー・ファイブ・ワンと言ってもいい。

その調の元になる和音(ハ長調ならドミソ)に行くときによく使われる進行。
ツーというのはもちろん2のことで、ハ長調ならレファラドの4つの音を重ねた和音。
ファイブというのは5のことで、ハ長調ならソシレファの4つの音を重ねた和音。
ワンはもちろん、ドミソの和音になる。

すごーくたくさんの曲の中で使われている。

この進行を意識したのは、キャロル・キングのレコードがきっかけだったと思う。

MusicというLPだったか…。
後にカーペンターズに取り上げられた曲や、他の人がカバーした曲もたくさん入っている、名盤だ。

キャロル・キングの曲には、やたらこのツー・ファイブの進行が出てきた。

通常はソシレファの和音からドミソの和音に行くのがパターンだが、そのソシレファの部分をツー・ファイブに分けて、最初にレファラドの和音を入れるのだ。

すごくモダンな感じがする。

わかってしまうと、ビートルズの曲にも出てくるし、オフコースの曲にも出てくるし…当たり前か。それほどよく使われるパターンだ。

その、ハ長調のツー・ファイブの進行の時に、ミ・レ・ド・シ・ラ♭・ソ・ファ・ミというスケールを弾くと…これがスゴイ響きになる。

先生曰く、ツーの和音の9thとファイブの和音の♭9thが入るので、気持ちのいいスケールになるとのこと。

よく使われるのは、ラ♭から1オクターブ上に行くパターンなのだが、これは「そういえば、よく聞くなあ」というフレーズになる。

ミ・レ・ド・シ・ラ♭・ソ・ファ・ミ…ラの音を半音下げただけのスケールなのだが、コードの響きと重なると、何ともいえない。

何度も書くが、音楽は不思議だと思う。





| | 考えたこと | 00:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
先祖代々
昨日アメリカの墓碑銘というのが出てきたが、そう言えば、墓はアメリカと日本では全く違う。

先祖代々の墓というのは、アメリカにはなさそうだ。
映画やドラマを見ていても、だいたい墓というのは一人のものだ。
そこに、その家の代々の人々が入っているというようなものはない。

これが一神教の影響なのだろうか?

もちろん、家や家族は大事な存在なのだろうが、死ねば一人で墓に入る。
先祖代々というのは関係なさそうだ。

日本では、墓といえば「家」である。

別に日本の神さまや仏様が家を大事にしているわけではない。
どちらかというと、中国の儒教から来ているような気もする。

でも、天皇の墓は一人ずつ別々だから、古事記の時代から墓と家が結びついていたわけでもなさそうだ。

いつから日本では先祖代々の墓というものができたのだろうか…。

葬式と仏教が結びついたのが、家と墓を結びつけた原因かもしれないなあ。

と思って、インターネットで検索してみたら、「葬式の辞典」というページに書いてあった。
日本で本格的に先祖代々の墓を祭るようになったのは、明治末期だそうだ。

そんなに近いとは思わなかった…。

ということは、先祖代々の墓といっても、たかだか100年くらい前までしか入ってないということだ。

それまでは、個人の墓がメインだったのか。

そういえば、歴史上の偉人の墓というのは、個人の墓だ。

そう思うと、先祖代々といっても、何となく値打ちがなくなってしまう。

そうか…、墓碑銘の代わりに辞世の句というのがあったのか。

ということは、西洋も東洋もあんまり変わらないということだ。

同じ人間の営みだから…。



| | 考えたこと | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
希望
ボブ・グリーンの「アメリカン・タイム」というコラム集から、「新聞記者の仕事」という記事を紹介する。

これは、オハイオ州立大フットボール部の元コーチが亡くなったときの墓碑銘のおはなし。

そのコーチは、時々暴力行為におよび、相手チームの選手をなぐってクビになったという経歴の持ち主で、世間は彼のことを誤解している…という記事だった。
本当は彼は親切で思いやりがあって、考え深い人物だったというのが、グリーンの書きたかったことだった。

グリーンは元コーチが病気になる直前、一緒に夕食をして、話を聞いた。
かれは「勝つということ」について、尋ねたのだ。

元コーチは言う。

「要するに、勝つことと同じくらい重要なことが何かあるんじゃないか、と君は訊いているわけだ。で、わたしも答えはイエスだと思うよ。勝つことよりももっと大事な何事かがあるんだ。」

それは何か、とグリーンが訊くと、

「偉大な伝道者の言葉があるんだけどね」と彼はいった。「父がいつも引用していたものさ。私が朗読するより、父のほうがずっとうまかったな。”死の訪れる夜にしてなお、希望は星を眺め、ささやかれる愛の言葉は翼のはばたきを聞く”」

「わかるだろ」と彼はいった。

「大事なことは、つねに勝つことじゃない。大事なことは、つねに希望を持つということなのさ。」

その記事を見て、元コーチの家族は引用された詩を、墓碑に刻んだ…という話だった。

最後にグリーンは書く。

新聞記者をしていると、腹が立ったり、シニカルになったりするようなことがたくさん起こるものだ。が、時として、すばらしい何事か−他のことすべてが報われるような何事かも起こるのである。

いい話だった。

「つねに勝つこと」と「つねに希望を持つこと」というのは意外な組み合わせではないか…。

アメリカの大学のフットボールコーチというのは、すごいプレッシャーの中で「勝たねばならない」仕事だったはず。
本当に厳しいコーチだったと思うが、その彼が詩を引用して「希望」こそが大事だという。


週末に3冊読んだが、ほんと、文庫を復活させるべきだと思う。





| | | 22:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
天賦の才
「天賦」というと、天が与えたものという意味。

「天賦の才」は、天が与えた才能ということになる。

落研では、新入生は必ず誰かの弟子となって、系図上の位置が決まる。
その時、弟子がいなかったとか、偶然部室にいたとか、そんな理由で決まる。
弟子が師匠を選べるわけではなく、入部したら決まってしまうという関係。
それでも、師匠は師匠である。

ぼくの師匠は落語がうまかった。
天賦の才というほど大げさなものではないが、生まれついての良さがあるように見えた。(もちろん、師匠は練習も熱心だったのだが…)

顔も良かったが、ぼくは師匠の「声」がうらやましかった。

いい声だった。
美声というわけではないが、キーが高めで、よく通る声だ。
そして、微妙な「かすれ具合」がよかったと思う。
落語ではよく使われる、「かすれ声」。音をのばしたときに、微妙にかすれる声だ。
噺の中では、一人で何人かを演じ分ける時に、上下(かみしも)だけでなく目線や表情を変えるのだが、一番大事なのは口調とそれに合った声だと思う。
その使い方がうまかった。

「声」は努力ではどうにもならない部分がある。

今でも、自分がやった落語のテープを聞くと、声が悪いなあと思う。

これは、生まれついてのものだろう…。
もちろん、努力でいくらでもカバーできるものだし、自分が受けなかった理由をそれにするつもりはない。
でも、いい声の人はうらやましい。

海辺で大声を出して、一度声を潰してしまうというような修行をするという話を聞くが、本当だろうか…?

それは、「天賦」を越える…という一つの方法なのかもしれない。

今でも、よく通る声の人を見ると、うらやましい。

別に落語をするわけではないのだが、それは本当に「天賦の才」だと思う。




| | 考えたこと | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
しおり
読みかけの本にはさむ「しおり」。

文庫や新書についてくるのは、宣伝入りの長方形のもの。

時々お土産でしおりをもらうことがある。

金属でできているものや、紙だが四角ではなくページがわかりやすいように少し出っ張ったもの、きれいな絵が入ったもの…、いろいろある。

西洋ではブックマークという。
クリップ状になっていて、ページに留めておく。
いろんなデザインのものがあるが、どうも使う気にならない。

これは、たぶん本の紙の質が違うからだろう。

西洋のペーパーバックは、日本の文庫よりも紙が厚いような気がする。
紙がしっかりしているから、金属のクリップ状のものではさんでも、ページが傷まないのだろう。
日本の文庫や新書には無理なデザインのものが多い。

最近はきれいな「ひも」のタイプをよく見る。
これなら、入れておきやすいか…。

でも、結局は使わないなあ。

そこらにあるもので間に合わすことが多い。

カバーを読みかけのページにはさんだり、ページを折ったり、書き込み用のシャープペンをはさんだりする。

読みかけのまま、長いこと置いてあって、どこまで読んだかな…とずっと追いかけていくと、しおりのページにたどり着くということもある。

結局は、しおりを入れたことすら忘れているのだから、あっても意味がないという場合もある。

いつかは、これはいい、というしおりが出てくるかな…。



| | 考えたこと | 03:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
年齢
肝臓には星形細胞というものがあって、その数は遺伝的に決まっている。
その数が多い人は、アルコールに強い…というのをどこかで読んだことがある。

宴会といえば飲酒がつきものだが、たくさんのアルコールに強い先輩たちが、ある年齢に達するとだんだん酔っぱらって、酒に弱くなった…というのをみてきた。

ぼくはもともと星形細胞が少ない方で、あまり飲めないが、自分にもそんな時が来るということがわかった。

最近は飲む機会が減ったのだが、昨日の夜は久しぶりにたくさん飲んでしまった。

帰りの電車に乗ったら、何となく車内が暗い。
どうも、軽い立ちくらみ状態が続いているような感じで、何となく危ないなあという状態だった。

仕方なく、途中の駅で降りて、自動販売機でスポーツ飲料を買い、ベンチに座って飲みながらしばらく休んでいたらマシになった。

久しぶりの電車通勤なので、本を読もうとカバンにボブ・グリーンを入れていたのだが、とても読めるような状態ではなかった。

スポーツ飲料が効いたのか、家に着く頃には普通になっていた。

こんなふうに、年をとっていくのだろう。

飲み過ぎはイケナイ。




| | 考えたこと | 01:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
ボブ・グリーン
知っている人は少ないかもしれない。
グリーンはGreenではなく、Greene。

以前は文庫が出ていたが、今は入手できる本はあまりない。
シカゴの新聞のコラムニスト。

1947年3月10日生まれだそうだから、現在61歳か…。

何年か前にこの本は面白い、ということで借りた文庫を読んだが、本当におもしろかった。

何がどう面白いのか?と言われると説明が難しい。
人間について、出来事について、自分が思うことを書いている。
その書きようがおもしろい。
短い文章で生活を語り、友達を語り、人間を語り、社会を語り、人生を語る。

こないだ、どうしても読みたくなって、古本を何冊か買った。

一つひとつのコラムは数ページだが、読んでいて、そうやろな…と思える。
波長が合うという表現がぴったりかもしれない。

コラムやエッセイの類は大好きだが、説教臭かったり、説明がくどかったりして、ぴったりくると思える本は少ない。

最後まで読むものの、少し霞がかかったような気持ちになるものが多いなか、ボブ・グリーンの本は印象に残るものだった。

今は「アメリカン・ヒーロー」というコラム集を読んでいるが、有名人がいろいろと出てきて楽しい。
ちょうど10歳違いだが、ぼくも知っている人がたくさん出てくる。

実業家あり、ミュージシャンあり…。

ゴシップを書いているのではなく、その人の素顔を書く。

こういう人の文庫は残してほしい。

今は古本が手に入りやすいので助かったけど…。

こういう人にどれだけ会えるかが、人生の楽しみの一つだろうと思う。




| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
数字の意味2
こないだの続きで、たくさんの数字を眺めていた。

3人寄れば文殊の知恵という言葉があるが、あれは正しいと思う。

今日は個別のデーターを見ながら、現実の世界に戻って、みんなで「ああでもない」「こうでもない」という話をしながら、もう一度考えた。

特徴的な数字というものがある。
たくさんの数字の中で、最大とか最小とかいうもの。
それにはやっぱり意味があるようだ。

また、いくつかの要因の組み合わせで、初めてみえてくるものもある。
一つひとつのデーターを吟味すると、この2つの組み合わせはこうなる…という意味も出てきた。
真実は細部に宿る…。

もちろん、統計に100%というものはない。

でも、「ある程度確からしい」という情報はきっと出てくるのだ。

それらを組み合わせて、一つひとつの数字が表す意味をあらためて見てみると、「ふ〜ん…」というデーターが出てきた。

ぼちぼち、数字が語り始めたという手応えがあった。

こないだは、いくらやってもムリかな…と思っていたが、今日はそれなりの解釈ができる数字がぼんやりと浮かび上がってくる。

もうちょっと、寝かせて考えてみよう。

数字は本当に不思議だ。

| | 考えたこと | 21:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
ブルース
ブルースというと、最初に接したのは演歌。

伊勢佐木町ブルースとか、恍惚のブルースとか…。
小学校の頃、よく流行った。

今考えても、「恍惚のブルース」という題名はすごい。
何が、どう、恍惚なのか…。
恍惚の人、という小説があったが、この曲はそれよりも前に出ている。

日本の演歌のブルースというものと、西洋音楽のブルースは全く別物だ。

西洋のブルースは、黒人の音楽。
ゴスペルから発展したとも言われているらしい(wikipediaより)。

基本的には3つのコードで演奏される、12小節のパターンの繰り返し。
もちろん、ポップスやロック、ジャズの中でいろんな変形があるようだが…。

ブルースという名前は、ブルーから来ている。
「今日は気分がブルーだ」「マリッジ・ブルー」とかいう、何となく暗い気持ちという意味のブルー。
特徴的には、普通のドレミでいうと、ミ♭やシ♭が使われて、その音が「泣かせる」音になる。
♭と書かれているが、本当は半音ではなく1/4音くらいで、その音程のさじ加減がブルースの「ツボ」になる。

アメリカで生まれた音楽で、ぼくにはよくわからないが、ギターの先生に聞くと、ブルースから生まれた名曲はたくさんあるとのこと。
コードは3つなのだが、そのコードをいろいろと代理のコードで置き換え、さらにまた手前に2-5(Two-Five)という進行をつけ加えると、もとのブルースとは思えない複雑な進行になっていく。

先月から、ブルースの練習。

毎日やっていると、だんだん12小節が感覚的にわかってくる。

単純なものほど、奥が深い。

やっていると、そう思えてくるのがブルースの素晴らしさではないか。



| | 考えたこと | 00:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
高校の教科書
高校の国語の教科書がころがっていたので、何気なくみてみると、なかなか面白い。

小説では、村上春樹の短編が載っていて、初めて読んだが面白かった。
どうも、自分より若い小説家の本は読む気にならず、避けていたのだが、ちょっと読んでみようかな…と思わせる作品だった。

それにしても、変わったと思う。
もう35年ほど経つのだから当たり前か。

「表現」のところには、「意見を述べる」という解説があった。

意見というのは、自分と同じ考えではない人がいるから、明らかにしなければならない。
「生き物を殺すのはよくない」というのは、反対する人がいないであろうから、述べるだけの価値はあまりないということだ。
しかし、「どんな生き物であっても、殺すことはよくない」という意見にすると、「蠅や蚊はどうするか、害虫駆除は悪か?害虫は殺してもよいなら、この世に殺してもよい生き物と、殺してはよくない生き物がいるのか、それならその境界はどこにあるのか、そもそも生命にそのような差があるのか…」というような質問や反論が出てくるだろう。
反論が出てくるような意見こそが述べるに値する意見なのだ。
だから、情報を集め、単なる抽象的な意見ではなく、具体的に考えないといけない。

などと書いてある。

こんなことは、昔の現国の教科書には書いてなかったと思う。

教科書検定で歴史についてはいろいろ問題になっているが、現国の教科書にはちょっと感心した。

いいこと書いてありますよ。



| | 考えたこと | 17:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
ノートをとるということ
会議に出たり、セミナーに出たり、講習を受けたりするが、その時にノートをとる。

「ノートをとる」ということはどういうことだろう?

一字一句記録することではない。
それなら、ノートではなくレコーダーを使えばよいのだ。今はICレコーダーの性能も上がったし、簡単に記録することができる。国会の議事録みたいなものだ。

本当は、聞きながら、要点を整理し、「ここは大事」というところを書いていくということだろう。

学生時代、先生の中にはノートに書くべきことをひたすら板書する人もいた。
それを写しなさいということだ。
まあ、書いて覚えるという部分もあるし、学校だから、頭の中が白紙の状態を前提としているのだから、それも仕方ないとは思う。

でも、ノートがとれないという状況もある。

むかし、ずっとサボっていた工業数学という講義に初めて出たときは、まいった。
先生が何か言いながら、黒板に意味不明なことを書いている。(もちろん、マジメな学生には意味はわかっているのだが、ぼくにとって意味不明だったということ)
この時は、ノートに何も書けなかった。
黒板には数式が並んでいたのだが、記号も初めてみるものだし、そのまま書き写すくらいなら教科書をまず読んだ方がよさそうだった。
要は、あまりにも自分の能力や意識から離れていると、ノートをとる意味がないのだ。
何を書いたらいいのかすらわからない。

ノートがとれるということは、すでに話されている内容について、何かの意識があるということ、「わかっている」ということだ。

これは大変なことだ。

最近、話をしていて、ノートをとらない人をよく見る。

もちろん、習慣の問題もあるが、ひょっとしたら「わかっていない」のかもしれない。
ノートをとらないのではなく、「とれない」のかもしれない。

もしも、誰もが「ノートがとれない」状態なら、その話は意味がない話ということだろう。
まず、意識を上げることが必要だ。

これは難しい。

そんな話をすることは、話し手にとって、最も難しいことの一つだと思う。


| | 考えたこと | 21:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
数字の意味
人にはどうも適性というものがあって、何らかの志向性を持っているらしい。
それが何によって決まるのか、どういう経験で変化していくのかはわからない。
でも、適性検査によって表れる志向性は、何かをするときに影響しているのだと思う。

もともと、同じテストをやっていて、その結果、みんな違うパターンを示すのだから、何かを表しているハズだ。

その数字から、何かを引き出そうといろいろとやってみた。

一つひとつの項目はさほど大きな違いはないのだが、その項目がたくさんある。それらを一まとめにして関係を見ようとしても、何も出てこない。

要するに、数字はたくさんあるが、何もわからないのだ…。

誰もいなくなった事務所で、3時間ほど数字をいじくり回してみたが、成果なし。

たくさんの数字は、きっと意味を引き出されるのを待っている…そんな気がするのだが、その方法を見つけられない。

あとはこちらが考えるだけ。

きっと、わかってしまえば、なるほど…という意味が出てくるはずなのだが、今はたくさんの数字が意味もなく並んでいるように見える。

今日は時間切れでノックアウト負けだったが、少し頭に豆電球がついた。

きっと、答えは4つくらいのグループに分けて出てくるに違いない…。

どうやって分けるのか…数字の世界を離れて、現実の世界で考えないといけないのだろう。

明日も続きを考えるぞ。


| | 考えたこと | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
音のつながり
音のつながりと人間の感覚はどうつながっているのだろう。

それは後天的なものなのか、それとも先天的なものなのか…。

ドミナントモーションという音のつながりがある。
ソシレファという和音から、ドミソの和音に変化するというつながり。

小学校の頃、「起立・礼」のとき、ピアノで弾かれる「チャーン・チャーン・チャーン」という音楽…、その和音三つがドミソからソシレファにいって、ドミソに戻るというつながり。

この、2つめの和音から、3つめの和音に変わるところが、ドミナント・モーションといわれるもの。

終始感という感覚がある。
これで、終わりですよという安定感。

これは、ずっと西洋音楽を聞いてきたから、ドミナント・モーションに安定した感覚を覚えるのか?

生まれてから、ずっと邦楽しか聞いていなかったら、どうなるんだろうか?

音のつながりに、生まれる前からの刷り込みがあるのだろうか…。

音楽は不思議だ。



| | 考えたこと | 22:44 | comments(2) | trackbacks(0) |
日本語変換
文語体でよく出てくるのが「せざるべからず」という表現。

これは「しないべきではない」ということで、「するべきだ」という意味になり、二重否定という表現になる。

ぼくはAtokという日本語変換のソフトを使っているのだが、「せざるべからず」と入力すると、<否定の連続>という赤い警告の文字が出てくる。

たしかに、「せざるべからず」と書かれると、一瞬どっちかな?と思うのは事実。

だから、二重否定の表現は避けた方がイイ、とソフトが教えてくれるのだろう。

でも、「〜するべきだ」というのと、「〜しないべきではない」というのは、ニュアンスが違う。
単なる肯定と二重否定は違うものだ。

わかりにくくするために二重否定を使うのはよくないと思うが、そう書きたいときに、<否定の連続>と注意されると、ちょっと腹が立つ。
別に無視すればいいのだが、よけいなお世話とちがうか?と言いたくなる。

「そんなふうに思わないことはない」と書いても、<否定の連続>は出てくる。
でも、「そんなふうに思わないことはない」と「そんなふうに思う」とは違うのだから、仕方がない。

「違わないとは思わない」でも出てくるし、「遠くないとはいえない」でも出てくる。

別に、否定が連続してもいいではないか。

この種の変換ソフトが改良されればされるほど、それに従う人が増えてきて、日本語の表現が貧しくならないだろうか…。

そういえば、携帯電話の予測変換機能というのにも、時々うなってしまう。
ついつい、自分が書こうとしていた言葉と同じ意味になる候補を選んでしまうのだ。

字を打っていて、下に表示される順位の高いものを選ぶ方が、早いから、こころの中で「まあ、ええか…」と思いつつ、これでいっておこう、と言葉を選ぶ。

この機能がどんどん強化されていくと、また、恐いことが起こりそうだ。

そのうち、だれが書いても同じ日本語になってしまったりして…。


| | 考えたこと | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
やってみないとわからないこと
真冬に体育館を暖めるのに、どれだけのストーブが必要か…。

体育館は天井が高いので、カロリー量の多いストーブを入れても、熱が上に逃げるし、いったいどれくらいの熱量を入れたらいいのかわからない。

業務用の大きなストーブを数台置いたら、大丈夫ではないか??という人がいるかと思えば、いくら置いても暖房効率が悪いからダメだろうという人もいる。
一方で酸欠になったら困るという意見もある…。

暖房の専門家がいて、体育館の暖房の効率もみて、計算でどれくらいの熱量が必要か、人がたくさん入って、酸素は足りるのか…計算したらわかるのだろう。

しかし、どこにも専門家がいないので、迷っていても仕方ないからやってみた。

4台の業務用ストーブを置き、夕方から灯油を入れて、電源を入れ、ファンを回した。

結果はハッキリした。

今日みたいに暖かい日でも、業務用ストーブ数台ではとてもムリということだ。

ひょっとしたら、暖めることができるのではないかと思っていたが、2度ほど温度が上がって、そこからは少しも変わらない。
雑誌を読みながら、体育館の床に座っていたが、2時間ほどであきらめた。

やってみないとわからないことは、やってみないとわからないことが、よくわかった。

おかげで、来年の1月にやるイベントは、体育館ではできないということになった…。

また、振り出しに戻って、場所探し…。

それでも、やっておいてよかった。
やらずに見切り発車するよりは、やって止まった方がマシ。
ストーブのリース代はもったいなかったが…。

これは、やってみないとわからなかったことだった、と自分に言いきかせて、帰路についた。



| | 考えたこと | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
スーツ
スーツにも流行がある。

昔は三つボタンのスーツなどなかった。

その代わり、スリーピースのスーツがあった。
チョッキがついているヤツだ。

就職したときに、母が買ってくれたのが、スリーピースだった。
今は流行らないのか、ほとんど置いていない。
昔はアラン・ドロンが、スリーピースのスーツの宣伝をしていた。
彼が着るからカッコイイのはわかっているが、わかっていても、イイと思った。

買ってもらったスーツは、まずチョッキが着られなくなって、その後数年で完全に着ることができなくなった。

もちろん、太ったからだ。

それにしても、あの3つボタンというやつは、襟が小さくて、何となく学生服みたいで気に入らない。

そのうえ、今の若い人向けのスーツはすごくタイトになっている。
それが流行だというのだが…。
お下がりを無理やり着ている、体の大きな弟みたいに見える。

あれはきっと、スーツ屋の計略だろう。
少し太ると、すぐに着ることができなくなる。

ぼくはやっぱり2つボタンの、背中にひとつスリットが入ったやつが好きだ。

なんで、スリーピースは流行らなくなったのだろう…?

あれはあれで、カッコイイと思う。

学生服みたいな3つボタンよりは、よほどいいと思うのだが、もう感性が古いのか。

まあ、時代は繰り返すから、いつかまたスリーピースの時代が来るだろう。

60年代〜70年代のギャング映画のスターがよみがえる日がきっと来るはずだ。




| | 考えたこと | 22:29 | comments(2) | trackbacks(0) |
数字の力
最近は減ったが、一時ハイマウント・ストップライト(高い位置にあるブレーキランプ)は発光ダイオード(LED)の車が多かった。

景気が悪くなって、車両コストを下げるためにLEDライトが減ってしまったのだろう。

車によっても違ったが、後ろを走っていて、前の車がブレーキを踏んだときに、明らかにLEDのライトだと点灯が速い。
LEDのライトが点いてから、普通の電球のライトが点く。
目で見てわかるくらいだから、けっこうな時間差がある。

インターネットで調べてみると、電球が0.3秒、LEDライトだと0.002秒だと書いてあるページがあった。
もちろん、バッテリーの容量や配線、回路などによっても違うのだろうが、0.2秒違うとしても差は大きい。

時速80キロで走っていると、秒速22メートルだから、0.2秒で4メートルほど走ってしまう。

前のドライバーがブレーキを踏んでから、後ろのドライバーに知らせるのが4メートル違う…と考えると、この差は大きい。

だからLEDのストップライトを義務づけると、どれだけ事故が減るのか…そこが難しい。

以前、「メルセデス・ベンツに乗るということ」という本を読んだが、その中に書かれていたのが交通事故に関するデーターのことだった。
日本の警察には、交通事故の件数のデーターはあっても、なぜ事故が起こったのか、事故の結果、車はどうなったのか、歩行者はどうなったのかというようなデーターがない。
だから、車の安全性を高めるために、どうしたらいいのかということがわからない。
日本の自動車メーカーは海外で交通事故のデーターを調べ、安全性を高める設計をしているということだった。

もちろん、そのようなデーターを作るのは大変だし、それにかかるコストの問題もあるだろう。

でも、もしそんなデーターがあれば、LEDストップライトを標準装備にしたら、どれだけの追突事故が減り、どれだけの死亡事故が減るのか、それによって世の中のコストがどれだけ減るのか…そんなこともわかるようになる。

それが、数字の力だろうと思う。
一つひとつの数字には何の力もないが、人間の意図がそれに力を与えるのだ。

残念なのは、そんな意図を持って数字を集めようとする人があまりにも少ないことだ。

もしも、LEDライトの値段が電球よりも安くなれば別だが、もしそうでなければ、いつか海外でLEDストップライトが標準装備され、しばらくして日本でも標準装備になる…そんな日が来ると思う。

すでに、街中の信号機は、消費電力や視認性が高いということで、LEDが増えているのだが…。




| | 考えたこと | 17:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
落語をするということ
朝のドラマも、もうすぐ終わり。
落語への思い入れがあふれた、面白いはなしだった。

プロは落語を師匠から口移しで教えてもらうのだが、ぼくらは、カセットテープに入れたネタを何度も聞いて、ノートに書くことから始める。
プレイ、ストップ、巻き戻し…大学ノートに話している言葉をそのまま書いていく。

今なら老眼鏡をかけないと読めないような字で、びっしりと書いていた。
ネタのノートは今でもどこかに置いてあるはずだが…。

それから、何度も繰り返し聞く。
そして、ノートを見ながら、部室の高座で話す。
数週間がんばって、ネタを覚える。

覚えてしまったら、それで終わりではなく、そこからが始まりだ。

歩いているときや、電車の中や、寝るときなどに、覚えたネタを話す。
ついつい、顔が下手、上手を向いてしまうくらい、練習する。
これを、「ネタを繰る」という。

そして、先輩に見てもらい、仕草や目線、話し方などを直してもらう。

いよいよ、高座で本番モードで練習する。

そんな経緯を経て、舞台に出ることになる。

今朝のドラマでも言っていたが、落語をやる上で、一番大事なのは、お客さんである。

一人でやっていても、それは落語ではない。

演者と客席が一体になって笑いが生まれるとき、それが落語をやるということになる。

ウケたときは、何ともいえない充実感がある。
もちろん、逆の場合の方が多かったが…。

舞台を見てくれるお客さんの顔、こちらを見ている瞳、笑ってくれる声…、一人対大勢だがその大勢が一つになったような感じになる。

4年間やったが、本当に受けたことは数回しかなかった。

舞台にいる自分を見ている自分が、自分の外にいて、話している自分は、自分であって自分でない…そんな瞬間もあった。

お客さんには、面白くもない落語をたくさん聞かせてしまって、今では悪かったと思っている。でも、何度かは本当に笑ってもらえたと思う。

もう30年ほど前になるのか。



| | 考えたこと | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
51歳
年をとるということは、あまり良いことでもないと思いはじめたのは50歳になってからだ。

よく、ぼくよりも若い人が、「若いころに戻りたい」というのを聞いたが、ぼくはあまりそういうことは思わずに来た。
せっかく、若いころよりはいろんなことがわかったと思っているのに、元の戻るのはイヤだと思ったからだ。

それが、去年はああ、もう50歳かという気分だった。
そして、今年は51歳になった。
1年経ったから、当たり前のことだが、この感覚はなんだろう…。

本当に年をとったという感じがある。

50という数字の響きがそれを思わせるのか…。

肩こりがひどいとか、頭痛がひどいとか、腰が痛いとか、老眼がひどいとか、白髪が増えたとか、たしかに身体的にはきつくなっているが、それは40代の後半から始まっていたことだ。

そうすると、何だろう?

やっぱり、精神的にも成長しなくなったのかもしれない。

頑固になったような気もするし、今さら新しい考えにめぐり会えるような気はしないし、どんどん心が固くなっているような気がする。

ちょうど、しなびたミカンの皮が、ひからびて、固く、もろくなるような感じ。

水につけておくと、そんなこともなくなるのだろうが…。

どうやって、みずみずしい状態を保つことができるのか?がこれから先の課題だと思う。

いい音楽を聞いて、おもしろい本を読んで、楽しい人と話をする…そんなことが必要なのだと思う。

これは、意外と難しいことなんだろう。



| | 考えたこと | 00:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
クワイヤ

教会のコーラス隊のことをクワイヤという。
聖歌隊のことだ。

アメリカの黒人の聖歌隊で歌われる、黒人霊歌が、ゴスペルという音楽になる。

「天使にラブソングを」という映画で出てくるのが、最近では有名。
男女混声で、普通の聖歌とは異なり、手拍子を取ったり、身体でリズムをとりながら歌う。

よく知っている曲でいうと「聖者の行進」かな。

明るい歌だが、実はお葬式の歌。

聖者が街にやってくる時の行進には、私も加わりたい…という意味の歌詞が繰り返される。

一時、ゴスペルをよく聞いていた。

クワイヤに入りたいと思ったこともあった。(思っただけで実行できなかった)

ヨーロッパの教会の重厚なパイプオルガンも素晴らしいが、アメリカの黒人霊歌も素晴らしい。

ヘビー級のおばさんが、クワイヤの制服を着て、身体を揺らしながら歌うゴスペルを聞いていると、迫力がある。

ああいう音楽が、本当にノレる音楽だと思う。

宗教に歌や踊りはつきものだが、黒人霊歌はその最もモダンで洗練されたカタチではないか…。

ぼくは日本の神さまに親近感を持っているが、あれは一度聞いてみたいと思う。

ちょっと不謹慎かもしれないが、これはきっとかなわない夢なので、許してもらおう。

今年はコンサートを探して行くぞ…。


| | 考えたこと | 01:51 | comments(3) | trackbacks(0) |
宇宙の終わり
前に書いたが、エントロピーが増大するという熱力学の法則がある。

これは、平たくいうと(平たくしかわからないのだが…)、時間が経つとすべてが均一の状態になるということらしい。
ある場所が熱くて、ある場所が冷たいとしても、永遠の時間の後にはどこの温度も一緒になるということだ。

だから、宇宙は最終的には太陽のような恒星がなくなり、すべての空間が同じ温度になってしまう…ということになる。
それが熱力学の第二法則ということになると思っていた。

だが、今度は完全に均一の状態を保つこと自体が難しいことなので、そうもならないらしい…。
遠くの銀河を観測すると、どんどん遠ざかっているらしく、宇宙は膨れていっている。
しかし、いつかはそれが止まって、収縮にむかうかもしれない…らしい。

どうも、宇宙の終わりはどうなるのかはわからないということだろう。

もともと、宇宙の中にいて、宇宙のことを理解することにムリがあるような気がする。

だいいち、「宇宙の終わりが来るまでの時間」というものを考える事がどうも難しい…。

数に終わりがなく、いつまで数えても、常にそれよりも1つ大きな数が存在する、という言い方をすると「無限」というものがよくわかる。

でも、「宇宙の終わり」という言い方をすると、それは有限だろうし、だからといって今夜見ている星の光が、何億年も前の光だというのだから、宇宙がいったいどれくらいの大きさなのか、そんなことも想像すらできない。

子どもに、宇宙の終わりはどうなるのか、と聞かれたが、今日のところはそれを知りたいとは思うが、それを考えることは難しいと返事しておいた。






| | 考えたこと | 00:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
三月の「さ」
こないだ正月だと思っていたら、あっという間に三月になった。

例年、桜が咲くのは四月だが、去年あたりから開花が早くなったと思う。

三月末には桜が咲く。
本当に温暖化しているのだ。
神戸海洋気象台によると、去年は3月30日にソメイヨシノが咲いたとのこと。

今年は去年より冬が寒いような気がする。
冬が寒いと、桜は咲く準備が整うらしく、今年は去年よりも早いかもしれない。

となると、あと3週間ちょっとで桜が咲くことになる。

毎年書いているが、あっという間に桜の季節が来るなあ…。

三月の「さ」はさくらの「さ」。

そんな下らない語呂合わせしか思いつかず、今日は寝ることにする。



| | 考えたこと | 00:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
わからないもの
一番…というのは、今まで生きてきて、その中で一番ということで使われる。

ということは、本当の意味で一番…というのは死なないとわからないということになる。

だが、死んでしまった人のことを想像して、その人の一番つらかったことは何だろう?と考えたとき、それがその人の「死」にはならない。

「つらい」というのは生きている時間に経験することだからだろう。

「きっとあの時はつらかっただろう…」と思う「あの時」は「死」の時ではない。
その人が生きていて、活動していた時のことだろう。
闘病がつらかっただろう…ということはあるかもしれないが、それは闘病であって死ではない。

そんなふうに考えると、死というものは考えられないものになる。

考えられないものだから、死は怖いと思うのだが、どう怖いかもわからない。

わからない、ということを池田晶子さんは「存在しない」と言っていたんだろう。

ということは、この世で一番わからないものは「死」なのかもしれない。

だいいち、死というものがあるかないかもわからないのだから。


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