考えたこと2

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デジカメ
今やデジカメ全盛期。

携帯電話も入れると、ほとんど一人一台と言っていいだろう。

最初はフィルムとは解像度が違い、おもちゃのようなものだった。
30万画素とかいう世界。

それが今や1000万画素を超えている。
これだけ短期間に2桁も増えたのはすごいことだ。

一流の写真家もデジカメを使う時代。

しかし、今までの写真という概念ではなく、デジカメは世界を変えている。
例えば証拠写真。
何枚撮っても大丈夫。
ハードディスクに入れておけば現像や焼き増しという作業は不要。
画素数が多いから、拡大してもきれいに見える。
だから犯罪現場を画素の多いデジカメで何枚も撮っておく。
後から必要なところを拡大する。
事件が終われば必要なファイルだけ残して、あとは消す。

今まで写真を使わなかったような場面でも、デジカメが使われる。

今までならスキャナを使って、スキャンしていたものを、一枚の写真で済ます。
字が読めるほど、画素が細かくなれば、それも可能だ。

また、仕事で写真を使うことも増えた。
新しい店の様子はどうだ?という電話に対して、写真を1枚とって添付して送るというような使い方も増えているだろう。

どこかが破損した、というような場合も、すぐに写真を撮って送ればおしまい。

コンピューターのトラブルも、こちらに来て、画面を携帯でカシャっと撮って、調べておきます、で終わり。

百聞は一見に如かず、という言葉がこれほど説得力を持ったことはないだろう。

一方で、サクラフィルムや富士フィルムはフィルム事業は大幅縮小(撤退?)した。
今フィルムカメラを使うのは、よほどのマニアだろう。

長い伝統の銀塩写真は風前の灯。

この変化はほんの10年間ほどの間でおきた。
銀塩写真数百年の伝統が崩れたのだ。

写真を仕事で使うには、すぐに見られることと、すぐに印刷できることが必要だった。
それと、大きなファイルを送るネット環境も必要だ。

それらがそろって、変化が起きた。

焼き増しの機械は印刷機になり、現像は不要になった。

DPEという言葉も、もうすぐ死語になる。

これだけ仕事の仕方を変えていて、あまり意識されていない。

おそるべし、デジカメ。





| | 考えたこと | 23:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
ペルツマン効果
運転時のドライバーの心理。

安全だと思ったら、却って危険運転をする。
それがベルツマン効果…、とドラマで言っていたが、wikipediaには載っていなかった。

正確には、「シートベルトをする運転手は、より危険な運転をするようになるという心理的効果」のことだが、本当にそれをベルツマン効果というかどうかはわからない。

いかにもアメリカらしい研究だ(と思う)。

安全だと思ったら、危険なことをするということが、ある種合理的であるからだ。

アメリカをはじめとする西洋の人たちは、人間は合理的なものという思い込みがある。
というか、そうであるべきだと思っているのかもしれない。
いや、そう仮定しないと、いろんなことが予想できないという感じかな。

古典経済学では、個人は常に合理的行動をする、という仮定をされていた。
最近になって、行動経済学というジャンルが出てきて、人間は必ずしも合理的な行動をしない、ということが、これも規則正しく定義された。

よく通販である、いつでも返品できますというような宣伝。
いったん手に入れたものは、ほとんどの人間は返さないというような心理的効果が説明される。
それが行動経済学の分野。

それに対して、東洋では人間はもともと非合理的なものだという考えがある。
人間はそういうものだ、という諦観がある。

これが東西の一番の違いではないか。
と、以前読んだ、「木を見る西洋人 森を見る東洋人」という本に書いてあった。

ベルツマン効果、いかにも西洋らしい。
人は安全だと思うと、より危険な運転をする…。
なるほど、と思うが、それが100%ではないはずだ。

そう、人はいい加減なものなのだ。



| | 考えたこと | 00:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
対バン
対バンという言葉を聞いたことがあるだろうか。

同じライブに出ることを対バンというらしい。

バンド仲間で、「こんど対バンしようぜ」というように使うらしい。

この「対」はなんの「対」だろうか。

一緒にという意味の「つい」という意味になるのか。
そうすると、「対バン」といのは、「一緒にバンドで出る」ということになって、まあ意味は通る。
ただ、彼らがそういう意識をして使っているとは思えない。
「ついばん」とはいわないからだ。

「対抗」の対とも考えられる。
バンド合戦というような(古いが)感じになる。
まあ、これも一緒にライブに出るということになる。
これなら、「たいばん」と読むことになるだろう。

わざわざ、一緒にライブ出ようぜ、とは言わずに、対バンしようぜ、と言うのだから、 競争心が表れている感じなのだろう。

どっちが観客の支持を得るか、勝負しようぜ、ということになる。

しかし、それをひと言で「対バン」という言葉にしてしまうのだから、日本語はすごい。

漢字という表意文字と、カタカナという表音文字を使って、自由に組み合わせて単語を作る。

そういう才能が若い人にある、というのは、喜ばしいことだ。

もうぼくにはついていけないが…。


| | 考えたこと | 23:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
犬の友だち
飼い犬が亡くなったのはこないだ書いた。
約1ヶ月経つが、亡くなってからいろいろ話を聞く。

向かいの散髪屋さんに聞くと、たくさんの人が関わっていたらしい。

近所のパーマ屋さんのご主人で、スキンヘッドのおじさんもその一人。
全然知らなかった。

なんとなく見かけで怖いような気がしていたが、亡くなったと聞いて花をくれてびっくり。
何でも、3年がかりで吠えられなくなった、ということらしい。
3年もずっと吠えられるのに耐えるのはエラい。

クリーニング屋のおじさん、佐川急便の配達の人など、いろいろな人が知り合いだったようだ。

いまだに、時々家の中をのぞいて通る人から、犬はどうしたん?と聞かれることがある。

犬は犬で、知らぬ間にコミュニケーションを広げていたということだ。

ぼくも、毎朝毎晩、クルマから降りて何となく違和感がある。

どうして犬がいないのか…。

あの、スキンヘッドのおじさんも、そう思っているのだろう。

Dog has got a friend.

犬の友だち。


| | 考えたこと | 16:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
今年の文化祭
今年の次男の文化祭は、仮設校舎。

学校の建て替えで、2年間そういう状態が続く。
ウチの次男はその学年にあたり、仮設校舎で2年暮らして、卒業。
新しい校舎に入ることはできない。
不運な学年といえば、そうだろう。

しかし、そういう状況の中で自分たちが楽しみ、お客さんも楽しませるということを考えられる学年でもある。

今年も古本市に行った。
さすがに本は少なかったが、中にいいのが一冊あったので購入。
ハードカバーで200円だった。

狭くなったので、模擬店も少ない。
焼きそばの店には長蛇の列ができていた。
それでも、みんな生き生きとして頑張っていた。

次男が出演するライブを見に行ったら、最初は客が少なかったが、最後はかなり生徒が集まってきていた。
ぼくには何の曲かわからないが、とにかくやたらうるい音楽だった。
まあ、あんなのもアリだろう。

その学校の校訓(というのかどうかはわからない)は、Man for othersという。

彼らの学年はMan for othersを地でいくことになる。
自分たちは、仮設校舎で、新しい人たちは新校舎。
2年間の仮設暮らしを経て、卒業。
そんな経験はなかなかできない。
それだから、損をしたということもない。

卒業式のときに、みんなはどう思うのだろうか。

Man for others.

有名なMITが授業内容をインターネットで公開するとき、いったい学校とはなにか?という議論があったという。

授業内容であろうか…、それはNoだ。

MITという場所に、MITの先生とMITの生徒が集まっている、そのことが学校の値打ちだという。
授業内容など、公開して使ってもらおう、というのが結論。

その場所に、その先生とその生徒が集う…、これが学校の価値。
建物は二の次なのだ。
もちろん、そこに集う先生と生徒は志を持っていないといけない。
それがMan for others。

あと1年半、そのことに気づく先生や生徒がどれくらいいいるのだろう。

明日もまた文化祭に行く。


| | 考えたこと | 17:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
口の形
日本語と英語の話者では口の形が異なる。

話す言葉で口の形が変わるというべきか。

ジュリア・ロバーツのような口が、代表的な英語話者の口だと思う。
横に広いのだ。
確かに、横に口を広げるようにすると、thやerの発音がやりやすい。
そういう発音をしているから、そういう形の口になる。

日本語には日本語に適した口の形があるのだろう。
そう思ってみると、日本人の口はあまり横に広がっていない。

口というのは、横に広がると、必然的に口角が上がって笑顔になる。
英語話者は愛想がよく見えるのは、そういうことか。(必ずしもそうではないが…。)

あの、黄色いスマイルマークの口がちょうど英語の口だ。

そういえば、海外駐在の帰国子女が日本の学校で、気持ち悪いといわれるという話を聞いたことがある。
それはなんとなく表情が違うということもあるのだろう。
どうしても、英語を話していると、口が横に広がるのだ。

えらいものである。
小さいころから話す言葉で、口の形が変わる。
口の形は、後天的な資質であると言える。

以前にも書いたが、小学校で英語の発音を教えるという話。
所詮、一週間に1回の授業で何ができるのか。
それほど英語に慣れることが大事なのだろうか。
きれいな英語の発音をしようとすると、口の形が変わるほどしないといけない。

挨拶やつなぎ言葉、wellやyou knowというようなものをいくら覚えても、あまり意味があるとは思えない。
これから英語が必要なことはわかっているのだが、小学校でやるのは無理があると思う。

そういう意味で、ぼくは藤原正彦派である。
国語、国語、国語でいいのだと思う。
英語を話す力はちょっとでよい。
話す内容がなければ、話しても仕方ないと思う。
だから、国語、国語、国語なのだ。

ただ、そういう国語を教えられる先生が少なくなってきているのも事実。

うさぎおいしあの山、という故郷の歌詞。
ほとんどの人が、ウサギがおいしいという意味だと勘違いする。
でも、大人になって、ああ、あれはウサギを追いかけるという意味だったんだ、と気づく。
極論すれば、わからなくてもよい。
そういう言葉の大切さを教えられる人がいたらいいと思う。

もちろん、ぼくが無茶を言っているのはわかっている。
先生方は一生懸命やっているし、時間がない、余裕もない、というだろう。

それでも…、とぼくは思う。

| | 考えたこと | 01:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
一個大隊
またまた、朝のドラマの話。

水木しげるがプロダクションを経営していることを、自分は一個大隊を率いている、という言葉で表現した。

彼は、1922年生まれで、実際に戦争に行き、南方で左腕をなくした。
現在、88歳になる。
そのせいか、朝のドラマを見ていると、軍隊の比喩が多い。

家庭を上手にやっていくことは、分隊で表していたと思う。

そういえばウチの親父も、テレビでコンバットという米軍のドラマを見ていて、伍長とか、軍曹とか言っていたなあ。

組織というものの基礎は軍隊だと思う。
いかに効率的に意思を伝え、有機的に動かせるか、ということが勝敗に関わる。
その上、極限状態を想定しないといけない。
e-mailで連絡するということはありえないのだ。

現場への権限委譲も当然あるし、それは事後承諾せざるを得ない。
そういう想定のもとで、組織のヒエラルキーができている。

通常の組織ともっとも異なるのは、負けるといなくなるということだ。
会社なら、売り上げが落ちるとか、つぶれるとかするが、人はなくならない。
どこかに動いていく。
その結果が失業保険であっても、とりあえず死ぬことはない。

ところが軍隊は違う。
判断ミスや作戦を間違ったりしたら、その軍が文字通り消滅する。
だから、必死にやらなければならない。

もちろん、平時と戦時は違うだろうが、ことが起これば、そういう機能を発揮すべく組織はできていなくてはならない。

そういう組織を体験した水木は、何かあると分隊や一個大隊という言葉を使い、軍隊ならどういう決断を下すか、という風に考える。
それがもっとも効率的で有効だと知っているのだろう。

実際には日本陸軍はろくなことをやっていない。
こないだも書いたが、ある時点以降はとにかく玉砕だ。
作戦もへったくれもあったものではない。
現場の意見よりも、遠く離れた参謀本部の建前が通る。
実際、物資もなく、何もできなかったのかもしれないが、兵を使い捨てにする、という思想はアメリカにはなかったと思う。

戦争映画を見ても、日本の映画は死の美学を追求する。最期はやっぱり死だ。捕虜になって生きるという映画は見たことがない。
戦勝国ということもあるが、アメリカの戦争映画はたとえ捕虜になっても誇りを捨てず、最後は脱走するというパターン。

だから、数少ない日本軍の捕虜は何でも話したらしい。
捕虜になる前に死ぬということになっているから、捕虜になったあとのことは記載がないからだろう。

別に戦争の話を書くつもりではなかったのだが…。

そういうワケで、今の80代の人の中には、分隊とか一個大隊というような言葉に実感がある人がいるということだ。

今のぼくらには、そういう感覚が全くない。
言い換えると、組織の基礎がないのだ。
それは平和で、いい国だということだ。
しかし、軍隊に代わる、組織の見本がない。

メーカーの現場はそれに近いところはあるが…。

何か、ないのだろうか。
そういうものが、必要とされていると思う。


| | 考えたこと | 22:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
You should stay out of this
これは、あなたの関わるべきことではない、という意味で使っていた。
直訳は、あなたはこのことの外側にいるべきだ、という意味。

木枯らし紋次郎の決まり文句に、「あっしには関わりのねえことでござんす」というのがあったが、それはIt is none of your businessと覚えた。

それよりもニュアンスとしてゆるいが、きっぱりとした感じがある。
関わってもいいけど、それはオススメしない、という感じ。

英辞郎を見ると、stayという単語はいろいろと使える単語のようだ。
でも、日本語にstayという言葉に1対1で対応するものがないので、どうしても使いにくいのかな。

stay with usというと、チャンネルはそのままで、という意味で使う。
番組の最後に言われるのだ。

同じような言葉に、stay tunedというのもある。
チューニングはそのままで、ということで、こちらはラジオで聞くことが多い。

stay out of my wayというと、私の邪魔はするな、という意味。
stay in officeというと、事務所にとどまるという意味から、現職にとどまるという意味になる。

Let's stay friendsは、あまりうれしくない言葉。友達でいましょう、というやつ。

意味はわかるが、使えない。

そういう単語ではないか。

You should stay out of this.

覚えておこう。




| | 英語 | 02:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
手紙
仕事の関係で、手紙をもらった。
便せんで7枚もある、長い手紙だ。

先週、どうしても宴会に行けず、そのため手紙をワープロで打って、渡してもらった。
そしたら、3日経って手紙が着いた。

封筒の分厚さから、手紙の枚数がわかる。

今からちょうど2年前。
ウチの部署に2週間の実習で来た学生だ。

ぼくは直接の担当でもなかったが、とにかくその学生が描くマンガに感心した。

繊細な線画で、単純化して描いてあるのだが、目を線で描いたり、円で描いたり、場面によって使い分ける。
長い髪の毛が1本だけあって、その髪の毛でも感情を表現する。
時には顔を歪めて描いて、それがぴったり気持ちに合っていたりする。
そういう感性がすごい、と思った。
あんまりすごいので、「君、これ(マンガ)でやっていけるんちゃうか」と半分本気で言っていた。
もちろん、当人はそれは冗談だと思っていたみたいだが、ぼくは半分は本気だった。

ただ、マンガ家になるというのは、さくらももこも書いていたが、 大変な努力と運が必要らしい。
それで、半分だけ本気にした。

そんなわけで、その学生のマンガに触発され、ぼくもまねして描いた。
これがなかなか難しい。
かたちは似るが、やはり本物とは違う。
似たような線は描けるが、もうひとつ、「ツボにはまった」感じが出ないのだ。
だから、笑えない。やはり本物とは違う。
それでも、4コマのを2つくらい描いて、送った。

もちろん、仕事の話もしたし、ゴキブリの話題で盛り上がった事もあった。

当然だが、実習の課題は大変上手に仕上げた。
優秀な実習生だったと思う。

それが、苦労して社会人になって、宴会に来てくれた。
ああ、この会社でよかったなあ、と思える会社に就職したようだ。

そんな出会いを大切にしたい。

人生は短い。屁のようなものだ。

しかし、面白い。

こういう瞬間のために、人生はあるのだ。



| | 考えたこと | 22:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
フェデラー
男子のテニス界では、ナダルがトップに立った。

今まではフェデラーの天下だったが、去年あたりから体力の限界が来たのか、相手が強くなったのか、負けはじめた。
今年の全米はジョコビッチに惜敗した。

しかし、フェデラーが強い時は、負ける気がしなかった。

そんなに筋骨隆々ではないが、華麗なテニスで、回りを寄せ付けない。
シングルハンドのバックで、舞うように打つ、という感じ。
蝶のように舞い、蜂のように刺すという言葉は彼のためにあった。

どんなところから、どんな体勢で返しても、ボールは必ずコートの隅のここしかない、というところに落ちた。

それでも、フェデラーが負ける姿を見たときは、疲れたように見えた。
負けるわけがない、と思っていた人が負ける。
どんな王者でも、時は残酷だ。

フェデラーはどう思っているのだろうか。
自分のスタイルを変えようとか、思うのだろうか。
筋トレをして、まだまだ頑張ろうと思うのだろうか。

これからの彼がどうするのだろうか。

もう一度勝てるようになるのだろうか。
かつての王者は、ランキングが下がることにどこまで耐えられるだろうか。

誰も彼の心境はわからない。

強くなることは難しい。
トップに立つことも難しい。

しかし、強くあり続けることはもっと難しい。

当たり前のことだが、そう思う。


| | 考えたこと | 17:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
人生は屁のようなもの
朝のドラマで水木しげるの父親が、死の数ヶ月前、屁をしたあとで言ったという言葉。

人生は屁のようなものだ。
大きな音をたてて飛び出すが、あっという間にあとかたもなく消えてしまう。
笑われもするし、嫌がられもするけども、全てはつかの間だ。
とるに足らんつまらんもので、けど、やっぱり面白いものだ。

なかなか深い言葉だ。

これを祖父役の風間杜夫が、安来の言葉でいうと、何ともいえない味がある。

いろいろな人が人生は〜のようなものだ、と言っている。

〜の部分に入るものは、夢であったり、物語であったり、映画、川、小説、山登り、ジグソーパズル、花火など、いろいろある。
そして、〜に入るものより、その後の理由がその人の人生観を表す。

それが屁であった、ということ。

人生は短い。そして笑われたり、嫌われたりするものだが、結局つかの間だ。
どうでもいいものだが、やっぱり面白いもの。

人間はなんのために生きているのか、わからない。
そんなものが数十年のあいだ、世の中に存在する。
その世の中というものも、いつまで存在するかわからない。
そんな足もとがふらついたところで、生きている。
本当に「とるに足らんつまらんもの」だ。
それでも、面白いものなのだ。

日本人の諦観みたいなものが、表されている。
でも、最後のところで、ポジティブに生きていこう、ということになる。

全てはどうでもいいものなのだ。

その「どうでもいいもの」を相手に、笑われたり、嫌われたりしながら、あくせく意味をつけようとする。
それが人間の営みなのだろう。

そんな思いを表した言葉。

人生は屁のようなものだ。

本当にそうかもしれない。


| | 考えたこと | 21:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
ゲゲゲ、レレレ、ららら
ゲゲゲ、レレレ、ららら

これを見て、ははーんという人は、昭和の漫画家に詳しい人。

ゲゲゲというのは、ゲゲゲの鬼太郎。言わずと知れた、水木しげるのことだ。
レレレというのは、レレレのおじさんであり、描いたのは赤塚不二夫。おでかけですかレレレのレー、というのが決め文句。
らららというのは、もちろん鉄腕アトム。主題歌が「空を越えてららら」というところがそれにあたる。描いたのは巨匠、手塚治虫。

その3人の娘が、それぞれ父親を語っている。
そのタイトルが「ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘」。

ふーん、こんな本があるのか、とびっくりした。

普通なら、ここまで書いたら、その本を読んでみたということになるのだろうが、そうではない。

そのタイトルが秀逸なので、紹介しただけだ。

3人の個性あふれる漫画家たち。

親の業績で苦労したのではないか。

朝のテレビでは、水木の長女が小学校の時に、水木しげるの娘というのがばれて、イヤな思いをしていた。
だいたい、同じ年代になるのか。

いろんな苦労を経て、今は3人とも美術や制作の仕事をしている。
偉大な業績があった人の子どもは大変だ。

野球では長島や野村の息子はダメだった。
俳優は親子でやっている人もいるが、なかなか二代目は大成しない。
寺尾聰、中井貴一あたりは親の七光りを越えたかな。

逆に考えると、親が大したことがない場合に、子どもが大成するということになる。

そういう意味ではウチの息子たちも可能性がある。

楽しみにしておこう。



| | 考えたこと | 23:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
小学校の教員
小学校の教員を増やすという話がある。

発達障害や学級崩壊、親の問題など、ご苦労はわかる。
しかし、どうも納得できないところがある。

日本は少子化の時代を迎えている。
少子化というのは、子どもが少ないということだ。

実際ぼくらの小学校の頃は、1クラス45人くらいだった。
もう少し上の世代は、団塊の世代で、1クラス50人はいただろう。
その頃、先生はえらかったし、生徒はマジメだったかもしれない。
先生の言うことはきかないといけない、という暗黙の了解もあったと思う。
社会が今とは違う、という事も理解する。
それでも、今よりもクラスはまとまっていたのではないか。

ニュースを見るたびに、それにしても…、と思う。
45人から35人になったら、だいぶ違う。
昔はなかった、ボランティアやクラスの支援をやる学生もいる。
それで、どうしてまだ教員を増やさなくてはならないのか。
副担任という制度まで検討されているらしい。

まあ、今それが必要だというなら、それは仕方ない。

しかし、なぜそうなったのか。
それには理由があるだろう。

社会が変わった。
義理人情とか、共通の価値観がなくなった。先生はエライとか、大臣はえらいとか…。
家庭も変わった。
核家族化が進み、子育てが孤独な作業になり、不安になった。
親が完全に戦後化した。戦後の教育を受けた先生に習ってきた。

そして、先生が変わった。
戦後の教育大を出て、戦後の教育課程で育った先生だ。

子どもの小学校の時の先生をみても、頼りないというか、官僚的な人もいた。
若いのに、官僚的なのだ。

小学校4年で学級崩壊状態だった。
もちろん、いい先生もいた。
でも、こんな先生に習っていいのか、という先生もいた。

学校の体制もおかしな事が多かった。
前に書いたが、運動会はヘンだった。
先生同士で敬語を使わないのもヘンだと思う。
生徒と友だちのような会話をしているのもヘンだと思う。
教壇がなくなったのもヘンだと思う。
昼休みに掃除をするのもヘンだと思う。
掃除当番がなく、全員で掃除をするのもヘンだと思う。

親に問題はあると思う。

でも、親が問題あるということは、先生も同年代で、問題あるということだ。

ぼくは今の学校はオカシイと思う。

そして、それを変えるには、先生を変えないといけないと思う。
学校を変えるには、先生を変えないといけない。
これは、中学も高校も大学も同じことだ。
当たり前ではないか。

そのためには、先生の養成の仕組みを変えないといけない。
採用の仕組みを変えないといけない。
学校のシステムを変えないといけない。
その待遇も変えないといけない。
そのためには、人を増やすのではなく、待遇改善にお金を回すべきだ。

今の先生の問題は、その個人の責任ではない。
そういう人が選ばれる仕組みが間違っているのだ。

そんな当たり前のことを、やっていくしかないと思う。

早くやらないと、えらいことになる。

雇用、雇用、雇用ではない。
教育、教育、教育だろう。


| | 考えたこと | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
波の数だけ抱きしめて
なかなか粋なタイトル。
これはCDの題名だ。

ぼくは知らなかったが、そういう題名の映画があったらしい。
FM76.3MHz KIWIという放送局が舞台のようだ。
まったく見たことも聞いたこともなかったので、そう思っている。

このCDはその映画のサウンドトラック。
もともと知っている曲、題名は知らないが聞いたことがある曲、初めて聞く曲が混じっている。

この映画はきっと季節は夏で、海岸が舞台だろう。
KIWIというFM局で、かけていた曲が、このCDに入っている曲だ。

カーラ・ボノフのPersonally、バーティ・ヒギンズのカサブランカ、JDサウザーのYou're only lonely、ジェイムズ・テイラーとJDサウザーのHer town tooのデュエット、そしてTOTOのロザンナ…、80年代の懐かしい曲が並ぶ。

この頃はあまり洋楽のCDは買っていないが、テレビやラジオで何気なく聞いていた曲が多い。
サビのところにきて、あ、これかとわかる。

きっとほとんどが流行った曲なんだろう。

知らない映画だが、何となくストーリーが頭に浮かぶ。

そんなサウンド・トラック。

どうして、このCDを知ったかは、…。



| | 音楽 | 00:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
We are made for each other
ドラマの中で、決めゼリフがこれだった。

お互いに惹かれあっている男女がいる。
しかし、なかなかうまくいかない。
近づいては、仲違いし、お互いにののしり合う。
そして、しばらくして、仲直りする。


そこでいうセリフが、これ。
We are made for each other.
ぼくらは運命の糸で結ばれている、という字幕だった。


こういう表現もあるのか。

いつかは、うまくいくかな、という感じでドラマは進む。
いまだに、どうなるかはわからない。



| | 英語 | 01:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
議論
最近のテレビは民主党の党首の選挙一色だった。
管VS小沢の一騎打ちということになって、マスコミものった。
最終的には管が勝ったが、まあ、ぼくはどちらでもあまり変わらないと思う。
一長一短だ。

聞いていると、「議論」という言葉がよく出てくるが、これは何なのだろう。
みんなでよって、話をするという意味だろうか。
それはただの話し合いだろう。
議論というのは、そのテーマについてある程度の知識を持った人、または大局的に判断できる立場の人が、話し合って建設的な意見を出し合い、結論を出すということだろう。

その意味での議論はどれだけされているのだろう。

それぞれのテーマについて、議員のみなさんはどの程度知っているのだろう。

建設的な意見が出せるのだろうか。
そして、それを大局的な立場で実行できるのだろうか。
党の方針で決まっている事項であったり、パワーパーティ(圧力団体)の意向で決まっていたり、露骨な利益誘導が行われるのではないか。

議論とは、結論をある程度予想して実施すべきだが、それが決まっているというのはおかしい。

それでも、パワーパーティの意向が尊重され、たいがいの場合は、予想通りになる。

そういう議論のことを言っているのか。

そうではなく、建前ではなく本音で話し合うことはできないのか。

今や何が建前で何が本音か、それもわからなくなっているのだろうか。

議論、議論と言っている人は増えたが、本当の議論がどれだけできているか、それが問題だ。

パワーパーティの声を聞くのではなく、自分で調べ、それが妥当かどうかの判断をすべきだ。

それが本当の議論だろう。





| | 考えたこと | 00:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
妖怪がいなくなった時代
朝のドラマで、水木しげるがスランプになり、妖怪を描いてきたが、今やもう妖怪は流行らない時代になってきた、ということを言っていた。
そういう時代になってきた、という感じはぼくらも共通認識。

昭和45年が1970年。
万博を経て、いけいけドンドンの時代になる。
目標としていた欧米諸国に追いついて、追い越したという気分になったのが、1980年代。

その少しあと、ホンダがF1に参戦し、勝った。
フェラーリのイタリア人が、「あいつらは昼も夜も働いて、休みも返上でやっている。」というようなことを言った。
バカンスも取らずに働いて、何が楽しいのか、というような風潮。
たしかに、あのころの日本人は、モーレツからビューティフルへという言葉を忘れ、会社の調子がよく、何でもやれやれという時代だったと思う。
これぞバブル、ジャパンアズナンバーワン。

ぼくもその中にいた。
やたら開発が多く、一人当たりの仕事量が倍になって増えていく。
カネはいくらかかってもよい。商売を取ることが大事。採算度外視という状況。

そんな風になって、きっと妖怪がいなくなったのだと思う。
いなくなったというか、人々が妖怪というものにリアリティを感じなくなったということだろう。

田舎はともかく、都会では夜も明るくなったし、クルマが走っていない道などなくなった。
海水浴場では泳ぐが、一般の川で泳ぐなど、ありえない時代になった。
山に行っても、舗装路を通って、観光地のようなところしか行かない。

大多数の人がそんな風になって、妖怪はいなくなった。

ゲゲゲの鬼太郎の仲間の妖怪たちも、姿を現しにくくなった。

日本の近代化が完了し、欧米に追いついてしまったということだろう。
それがよかったのか、悪かったのかはわからない。
ただ、飢餓や病気でいつ死ぬかわからない、という状況はなくなった。
その代償が、妖怪がいなくなるということだったのかもしれない。

バブルがはじけて、失われた10年が過ぎ、ちょっと息を吹き返したかと思ったら、リーマンショック。

いよいよ、夜でも開いている店が増えた。
大きなスーパーでも夜の10時までやっている。
もちろん、コンビニは24時間営業。
テレビも24時間やっている。休みがない。

今の閉塞感の中で、また妖怪は出てくるのだろうか。

出てきそうにないなあ。



| | 考えたこと | 23:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
三振法
アメリカのドラマを見ていたら、三振法という言葉が出てきた。

wikipediaで調べると、Three strikes and you're out lawというらしい。

文字通り、野球の三振になぞらえた法律。
重罪が2回以上の経歴を持つものは、3回目に犯した犯罪が軽微なものであっても、有罪判決を受けたら終身刑になる、というもの。

アメリカは犯罪解決率が低いので、常習犯を終身刑にすれば、犯罪総数が減る、という理屈らしい。
実際、1994年に連邦三振法ができて、アメリカ国内の治安は著しく改善されたらしい。

悪いヤツは、悪いことをする、という信念に基づいた法律。
犯罪解決率が高ければそんな法律を作る必要はないが、ある程度低ければ、こういう考え方も犯罪の抑止力になるかもしれない。

しかし、アメリカは面白い。
何でもやってみるという姿勢。
やってみて、ダメなら考え直す。
禁酒法など、その最たるものだと思う。

ネットでみると、日本の犯罪検挙率は毎年下がっているそうだ。
ただし、殺人や放火というような重罪では高い数値になっているとのこと。
軽犯罪には腰が重いという感じか。

しかし、ネット犯罪やオレオレ詐欺など、犯罪の種類も増えてきたし、高度化?してきた。
それに対応できているかというと、ちょっと難しいかもしれないという印象。

警察という組織が、古い体質を残しているような気がする。

パチンコ業界とのつながりもネット上では散見される。
あまりにも射幸性が高い今の状況は、是正されるべきだと思う。

日本では三振法というのは受け入れられにくいと思うが、警察の組織変革とセットで考えないとイケナイ時が来るかもしれない。




| | 考えたこと | 21:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
的確な表現
入院しているときに、となりは全盲のおじいさんだったのは、書いたとおり。

この人、味のある人で、親戚の夫婦が見舞いに来たときに話をするのを、何気なく聞いていた。

弟の嫁   「あのXXはどないしてるんでしょうかね、兄さん。」
おじいさん 「いや、長いこと会わんな…。」 
弟の嫁   「まだ、大きな犬飼ってるんかしらね。」
おじいさん 「犬?犬てどんな?」
弟      「あれやがな。何やしらん、大きな犬。」
弟の嫁   「大きな、何やらいう犬、2匹も飼うてましたやんか。」
おじいさん 「ああ、あれかいな。最後に見たときは3匹飼うとったデ。」
弟の嫁   「3匹。へー。大きな犬を3匹ですか。」
おじいさん 「いやいや、大きな犬は1匹だけや。たしか、もう1匹は死んどる。」
弟      「そうかいな。死んだんか。ほなあと2匹はどんな犬や。」
おじいさん 「何や、あの、ハラするような犬や。」
弟      「ああ、足の短い…」
おじいさん 「そうそう、あのぶさいくな犬や。」

この話、もちろんダックスフンドの話だろう。
しかし、このおじいさんの表現がスルドイ。

ダックスフンド=ハラするような犬=お腹を地面にこすりそうになっている犬

この話を聞くともなく横で聞いていて、声を出して笑いそうになった。

何とも味のある会話だった。

3人が3人とも高齢であり、その3人が 話のなかで全てを理解し、まったく普通に話が流れていく。
大阪弁と相まって、何とも面白い。

ハラするような犬、この表現は覚えておこう。


| | 考えたこと | 22:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
ID制度
一時国民総背番号制などと言って、国民のIDをつけよう、という話があったが、消えてしまった。
また、今頃になって、話が出ているらしい。

ぼくは総背番号制というのは、なんとなくうさんくさいと思っていたが、しかし、今になって便利になるとも思う。
もちろん、国の目的は徴税である。

だから、個人営業主が反対するのは当たり前だろう。
個人営業主は所得の捕捉が甘い。

サラリーマンが反対するのは、ちょっと不思議だ。
10:5:3という割合で、所得が捕捉されているという。
サラリーマンは10割、あとの5と3の区別は忘れたが、いずれにしろサラリーマンの半分以下だ。
所得税に関する税金を増やそうと思うと、捕捉率を上げることが必要だ。
今のままでも、IDを導入すれば所得税は増える。

それ以外に、行政の無駄が減る。

今回の入院で、ID番号があるとどれだけ便利かということがわかった。
手首に巻いたIDのバーコードで全ての検査ができる。
それを呼び出すだけで、中央のコンピューターからどんな検査をすればいいかがわかる。
こんなに便利なものはない。
昔はたくさんの伝票を持っていったり、待っている間に事務の人が持っていったりしていた。
せっかくの設備が有効利用できない。
待ち時間が長いからだ。

そんなことをIDは解決した。

住民票や印鑑証明などの発行はIDカードでできるようになると、飛躍的に早くなる。

そのうえ、最終的には行政単位が関係なくなる。
国が一括管理できるのだ。
だから、国のコンピューターにそのIDが入っていれば、すぐに照会できる。
ということは、県、市町村の管理がいらない。

今でも、市が違うと、導入しているシステムが違う事例があるという。
こんなもの、同じにしないでどうするのか。
仕事のやり方が違うとか、いろんな理由をつけて、違うシステムを導入されたら統合が大変だ。
どうしてこんなことを地方に任せるのか。
少なくとも、データー形式は統一し、同じ様式にするべきだ。
だいたい、日本はカリフォルニアとほぼ同じ面積しかない。
人口は4倍ほどいるが、そんなものだ。
そんな大きさなのだ。

そうすれば、国の一括管理も夢ではない。
(情報漏えいやハッカーによる悪用もあるが、それは横においておく)

そうすれば、行政がスリム化できる。
IDの導入で行政のスリム化がどの程度できるのか、総務省かどこかで試算すればよい。

そうしないと、少子化で生産人口が減るのに、こんな非生産的な仕事に人手を取られてしまう。
公務員など、整理をしないと少子化はせまっている。
少子化と同時に高齢化も迫っている。

銀行のカードやクレジットカードの番号のシステムがそのまま使える。
あれの大きなやつと思えばいい。

フェイルセーフは必要だろうが、もうそろそろ時期なのではないか。
国民総ID化。
いくら消費税を上げても、やっぱり所得課税はやるだろう。

だから、IDをつけよう。
便利になるのだ。
問題点はいろいろあるだろうが、解決すべきだ。
アメリカのドラマでも社会保障番号がIDになっている。
事実上の国民総背番号だ。
向こうはサラリーマンも所得を申告するから、それでいいのだ。
日本も申告すればいい。

昔、そのことを公約にしたサラリーマン新党というのがあったが、なくなってしまった。

今こそ、みんなの党あたりがそれを公約に入れるべきだ。

そうしたら、もっと人気が出るだろう…?


| | 考えたこと | 01:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
海鳴りと蝉しぐれ
今日も本の話。

入院の事を言うと、せっかくだから、この本を読めと言われた。
それが藤沢修平の本。

「海鳴り」と「蝉しぐれ」の2冊。
どちらが藤沢修平の名作か?ということでもめて、その2冊が残ったらしい。
結局2対1で「蝉しぐれ」が勝ったらしいが、一度読むことを勧められた。
藤沢修平は読んだことがなく、初めて読んだ。
なかなか味がある時代小説だった。

まず、男性の小説だというのが第一の印象。
女性も読んで楽しめると思うが、これは藤沢修平が男性であり、その視点で書いているから仕方がない。

「海鳴り」は初老の男性。
老いを感じ始めるころの男性が主人公。
この気持ち、すごくわかる。
初めて白髪が混じり始めた髪の毛を見つけたときの話で、物語りは始まる。

人生の下り坂に入って、少しいったころ。
自分で自分の限界を知ったころ。
だいたいの自分の人生が見えるころ。
そんな時代の男性の気持ちがよく出ている。

結末は書かないが、上下2冊、一気に読ませる。

ああ、そういうことを思うんだよなあ、と思う。
誰しもが、この主人公のように、波乱にとんだ人生のドラマを迎えられるわけではないが、そう望む気持ちは誰にでもあるだろう。

「蝉しぐれ」は若い男性が主人公。
こちらのほうが、夢と希望がある。
しかし、藤沢修平らしい諦観があるのも事実。
この人が描く人生は二つとも、あきらめという気持ちが流れている。
その流れに逆らって、あがいてみるが、所詮ただのあがき。
流れに逆らうことはできない。

「蝉しぐれ」は若さが心地よい。
十分に波乱にとんだストーリー。
殺陣の場面もすばらしい。

この人が書く女性は、彼の理想なのだろう。
ヒロインは同じような女性だ。

さて、どちらが名作か?
一冊を選べといわれると、難しい。

年を取ったから、「海鳴り」のよさはわかる。
しかし、小説はストーリーを楽しむものだ。

そういう意味では、「蝉しぐれ」だろう。

しかし、難しい。

やっぱり「蝉しぐれ」かな…。


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山本周五郎 さぶ
病院で読んだ本の事を書く。
山本周五郎の「さぶ」という小説。

ひとことで言うと、重たい小説だった。
人間の一番醜い部分と、一番きれいな部分を書いて、無理がない。

人は一人で生きているのではない。
一人が生きるためには、多くの人が関わっている。
だから、時には風のにおいがわかるように、気持ちの余裕を持たないといけない。
作者は世の中は悪いことがたくさんあるが、よいこともあり、捨てたものではないという姿勢。

山本周五郎は実家にたくさんの本があり、名前は知っている。
うちの実家の両親、特に母が好きで、全集もある。
たくさんの本を整理したが、あの全集だけは捨てられないと母が言っていた。

20代のころ、一度文庫を買って読みかけたのだが、面白くなかった。
題名も覚えていない。
若すぎたのだろう。
当時は時代物では柴田錬三郎や司馬遼太郎、池波正太郎などを読んでいた。
柴錬や池波はやはりエンターテインメントだ。
小説の醍醐味を教えてくれた。
しかし、もう一段深い味わいがこの小説にはある。

どちらも、すばらしい。
ただ、種類が違うだけだ。

さぶという、純粋さをそのまま表したような、世に言う愚鈍な、だまされやすい人間と、もう一人栄治という少しひねくれた、ぶっきらぼうな江戸の職人でタフな人間を対置して小説は進む。

小説のほとんどは栄治の人生を書いている。、
自分がこういう境遇になったら、栄治まではいかなくても、同じようなことを考え、実行するだろうという気持ちになる。
しかし、そこで紆余曲折を経て、栄治は止揚する。
全てを飲み込んで、そしてより高い精神的な地点に上がるのだ。
ここがひとつの見せ場だろう。

二人の女性が登場するが、彼女らの役割も大きい。

そして、最初と最後はさぶ。
さぶの純粋さ、一途さが胸を打つ。

重たい小説だが、読後はさわやかだ。

山本周五郎という人は、全ての賞を固辞したらしい。
多くの著作を残しているが、ぼくが読んだのは、この本が一冊目。
名作といわれる一冊から入った。

若い人はなかなか読めないのではないか。
自分がそうだったから言うわけではないが、20代では難しい。
やっぱり、中年になってから、面白さがわかる。

この小説が、作者の晩年の作だからそうなのかもしれないが…。

しかし、名作である。

| | | 01:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
病院今昔
病院の中で、気をつけてみているといろんな制服の人がいる。

白衣、水色、青、紺の事務、ピンクなど。

白衣は医者で、水色は看護師。ピンクは事務職員で雇われている人。紺の事務は外部委託の人だろう。
上着が白で下が水色の人もいる。これは検査技師。
いろいろと専門化しているのだ。

本当にいろいろな職種がある。
昔は全て病院で雇っていたのだろう。
しかし、病院の中も様変わりした。

売店も何でも売っている。
昔のようにアンパンとミルクという感じではない。
病院で必要なものは全てそろっているし、職員のためのお弁当も売っている。
ファミリーマートもある。
食堂も3つもある。

掃除の人は外部委託だし、病院食も外部委託だろう。
電動のカートで運んでくる。

病院経営もある意味で楽になったのだろうと思う。

外部業者を探し、相見積もりを取って、競わせる。
掃除、警備、食事などは、そうなっている。

警備などは、非常階段のとなりに番号を貼った蓋のようなものがあって、何をするものかと思っていたら、警備の人が歩いてきて、そこに端末を入れて、抜き、去っていった。
ほー、そういうものだったのか。
見に来た証拠、というやつだ。

回る順序も決まっているのだろう。
そこに端末を入れれば終わり。
次の番号のところに行くのだ。

全てがシステマティックになっている。
委託の仕事は誰でもできるものでなくてはならない。

よくできたシステムだ。
電子カルテをはじめ、時間予約、設備予約、検査指示など全てIT化されている。

これだけよくなって、診察の精度はあがったか?

それが問題のような気がする。

ただ、時間当たり、たくさんの患者を見ること(検査すること)ができるようになった。
もちろん、それが儲けにつながり、第一の目的だろう。
それは達成された。

血液検査の部屋など、午前中見たらいっぱい並んでいたが、11時にはもう空いている。
検査の待ち時間が減ったからだ。
ややこしい伝票処理や、どれだけ血を採るか、何を検査するのか等、すべてオンラインである。
一本筋が通ったのだ。

だからといって、その結果を見るほうの腕は上がったのか。

検査、検査で、肝心の問診や触診をしていないのではないか。
患者の顔色を見て、話す声を聞き、どこが痛いのか、実際に触る。
そういうところが減ったのではないか。

風のガーデンというドラマで、緒方拳が町医者にこだわって、やっていた。
その人を診て、手当てをし、家で死なせてあげる。
そういう医療もこれからは必要だと思う。

データーはあくまでも参考だ。

ぼくはデーターを扱う仕事をしていたが、データーは自分の仮説の検証のために取る、という観点が必ず必要であり、データーだけで判断してはいけないと思う
別に仮説が間違っていても構わない。
それでも、仮説を立てることが必要だ。
それがあって、初めてデーターに意味が出てくる。

課長、部長はデーターを持っていったら、まず、君は何でこのデーターをとったんや?と聞く。
どういう仮説に基づいて、そのデーターを取ったのか?ということだ。
それをたたきこまれる。

医者にもそういう研修が必要ではないか。

門外漢のぼくが言うのもなんだけれど…。


| | 考えたこと | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
女性と男性の違い
女性と男性の違いは、染色体でいうとXXかXYかという違い。
女性はXXで、男性がXY。

男性のほうが一種類多いから、優れているという話を聞いた。
もちろん、二十年以上前の話。

優れているとは思わないが、Y染色体というのが性別を決める因子になる。
遺伝子上はXとYでどこがどう違っているのだろうか。
もう今頃はわかっているような気もするが…。

それにしても、男女の違いを思わされる今日この頃。

男性はロマンチスト、理想主義、権力志向、論理的…。
女性はリアリスト、現実主義、集団志向、感情的…。

あまりステレオタイプなことを書くと怒られそうだが、一般的にはそんな感じ。

しかし、染色体がひとつ違うだけで、どうしてこんなに違うのだろうか。

どこかに、男女の役割が反対になっている島があって、そこでは女性が男らしく、男性が女らしいというのを読んだことがあるが、本当だろうか?(もちろん妊娠は女性であるが…)
本当というなら、男女の区別は社会的、後天的なものだということになる。

しかし、物理的な差というものもある。
オリンピックの記録を見ても、男女の差異は明らかだ。
これはずっと続いてきた社会的な差の積み重ねだろうか。

これは難しい。
男女の役割が逆になっている事例があまりにも少ないからだ。
というか、ほとんどない。
それは自然の摂理だと思うのだが、違うだろうか。

昔読んだ渡辺昇一の本に、男女平等というのは難しいというのがあった。
女性と男性では体の構造が違うからだ。
だから、全て平等というのは難しい。
体の差が、機能の差を生み、それが区別を生む。
要するに向き不向きがあるということだ。
どう見ても、肉体労働には男性が向いているし、細かい仕事には女性が向いているというようなもの。

渡辺昇一はさらに、女性は母になるし、男性は父になるということを書いていた(はず)。
女性は母になって、子供を育てるべく生まれてきた、これは機能の差だ、という。

いまどき流行らない理屈だと思う。

しかし、一理はあると思う。

でも、いまどき大きな声では言えない。

もちろん、男女平等という考えには賛成だし、女性の社会進出にも賛成だ。
しかし、それをつきつめて、男女雇用機会均等が男女雇用結果均等になってはいけないと思う。

あくまで、機会の平等であって、結果の平等ではない。

それは当たり前だと思うのだが…。


| | 考えたこと | 23:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
看護婦さんの昼ごはん
今の大きな病院は、中にコンビニがある。

昼休みになると、大賑わいになる。
もちろん、お弁当もたくさん置いてある。
松屋のどんぶりというのもあった。

昼休みはコンビニの前のワゴンで、熱々を販売している。
それを買っているのが、看護婦さんたちだ。

お昼はみんな忙しいのだろう。
病棟の看護婦さんたちに休みはあまりない。
いつもポケットに入れているPHSがナースコールに反応し、呼び出される。
そんな毎日の中での昼ごはんは、松屋のどんぶりになるのか。

病院には管理栄養士や薬剤師、看護師、医師など、健康に関わる人たちがたくさんいるが、その人たちがコンビニに来て、昼ごはんの買い物をしているのを見ていると、気の毒な気分になる。

人の健康を守る仕事をしている人が、昼休みもろくに取れず、コンビニ弁当をかきこんで仕事をする。

使命感があるからこそ、できるのだろう。

そういうぼくも、普段の昼はろくなものを食べていないが…。

健康を考えると、ちゃんとゆっくり食べるのがいい。
しかし、それが難しいひとがたくさんいるということだ。
そういう風にして、日本はやってきた。

茶髪の若い看護婦さんもたくさんいるが、みんな礼儀正しい。
普段は知らないが、仕事で礼儀正しくできるというのは、当たり前だがたいしたものだ。

文句言いのおじいさんに文句を言われても、キレたりしない。
我慢強く、じっくりと説明する。
時々、横で聞いていておかしなこともあるが、それは医師の指示が悪い。

病棟の看護婦さんの仕事は大変だが、目の前に困っている人がいるだけに、やらざるを得ないのだろう。

アメリカでは看護師の地位が日本よりも高いと聞く。

日本もそうなることを望む。


| | 考えたこと | 16:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
排泄
入院して思ったことは、年をとると子供に戻るということ。
4人部屋だったが、昨日も書いたとおり、男性はダメだ。
やれ、ここがイタイとか、そこがうっとうしいとか、そんな文句ばかり。
もっとも、年は80くらいだろうと思うが…。

看護婦さんが、今日治療したばかりだから、今日は我慢して…と言っても、こんなものは余分やから取ってしまうとか、気持ち悪いから外せとか、そんなことばかり言う。
やっぱり男は生命力が弱いなあ、と思う。

女性のほうが出産するだけ、強いような気がする。、
やっぱり生命力がちがうのだ。
だから、女性のほうが平均寿命が長い。
総体に、病院の中の女性は男性よりも元気そうだ。

しかし、見ていて自分もそうなるのかと思うと、情けない。
せめて、じっと我慢して、看護婦さんに、そんなに我慢しなくてもいいですよ…、などと言われたいものだ。
泣きたいときになっても、泣かないでがんばる。
そういう風に教えられてきた男性が、ああなっていると思うと、戦後生まれはよけいにダメだなあと思う。

特に困るのが排泄。
これはシンドイ。
歩けなくなると、トイレに行けない。
だから、管をつけるということになる。
これが情けない。
それだダメなら、紙おむつ。

うーん、これもつらい。

生きるためには、そういうものも我慢しないといけない、という分別があればいい。
または、こういう状態になったら、もう生きたくないという分別でもよい。(今のところは認められないが…)

しかし、何かわからないうちにそういう状態になって、そのまま生きるというのは情けない。

人間にとって、排泄というのは、大切なものだ。
食べれば排泄しなければならない。
排泄が生死に直結する。

子供も、いつオムツが外れるか、いつ一人でトイレに行けるかがとても大切。
まあ、それができないまま大きくなる子供はいないが、つまづく子供はいるだろう。

しかし、大人になって、排泄行為が一人でできないのはつらい。

普段、簡単にトイレに行って、排泄しているが、これはすごいことなのだ。

口の中から、食道を通って、胃で消化し、十二指腸、小腸を通って吸収し、大腸で肛門になる。
水の場合は、腎臓を通って、膀胱から尿路の順だ。

これだけの過程の全てが正常に働いてこそ、排泄ができる。

どれひとつ調子が悪くなっても、正常に排泄はできない。

だから、いざとなったとき、排泄をどうするかというのは大問題だ。

家族に「排泄問題についての対応」という文書を残しておくことが必要かもしれない。


| | 考えたこと | 20:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
女性の強さ
病院にいると、つくづく女性は強いと思う。

病棟のディルームというのがあるが、そこで談話しているのは、たいがい女性。
とにかく、話をする。
どうも、見知らぬ人とでも、話しているらしい。
病気の話、病院の話、医者の話などなど。

おまけに、女性の場合は年が離れていても関係ない。
車椅子に乗って、点滴をしている女性と、見舞いに来たらしい女性、もう一人の元気な女性。
話しているのを聞いていると、丁寧語の使い方で知り合いではないとわかる。
どの先生が下手だとか、誰が主治医でよかったとか。
ベテランの入院患者になると、いろんなことを知っているようだ。
病院の中でも、ソーシャルアクティビティをしている。
女性は本当に社会的な生き物だと思う。

男性は本当に弱い。
弱いというか、病院にいる男性の姿は、仮の姿という感じ。
場違いなところにきて、困っているという気がする。

昔の大部屋は、ベッドを仕切るものもなく、話ができた。
最近の病院は一人当たりのスペースも広く、カーテンで仕切れるようになっている。
だから、よけいに話をしなくなる。
20代のころ、入院したことがあるが、あの時は隣の人とも話した。
隣の人も40代くらいだったなあ。

しかし今は患者の高齢化が進んだ。
ぼくのいた部屋も、ぼく以外はみんな80代。
なかなか話も合わない。

顔を見ると会釈をするが、話すネタがない。

だから男は弱いのだ。

強いのは家の中と会社の中だけか。

| | 考えたこと | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
息子と娘
病院で見ていると、息子は冷たく、娘は暖かく見える。

うちは息子二人だが、病院で見ていて、自分のことを振り返っても、やっぱり息子というのは冷たいものだと思う。
別に冷たくしようとして、冷たくするわけではない。
暖かくしようとするのだが、やり方がわからないのだ。

見ていると、娘はご飯も食べさせてくれるし、いろいろ細かい気遣いができる。
息子はみているだけ。
特に、父親と息子はそういうものだ。

親も頼らないし、子も頼られようとはしない。

「ほな、帰るで」
「ああ」

というような会話。

これが娘なら、ちょっと違う。

「お父さん、もう帰るわね。ちゃんと毛布かけて寝てよ」
「ああ、わかった。お前も気いつけて帰れよ」

という具合。

そんな違いは、どうしてもある。

親子の情は変わらないと思う。
しかし、息子には息子の役割が、娘には娘の役割がある。

息子はあまり小さなことに気をつけたりしない。
死んだあとのことを、考えてしまう。
この年やから、葬式はどこで、香典は辞退して、祖供養はどうして…。

でも、娘は違う。
死んだあとのことなど、考えない。
とにかく、死の瞬間まで生きていてほしいと願う。

そんな気がする。

ぼくは娘もいないし、娘になったことがないので、そう思うのだが…。

病院に1週間いると、いろんなことを考える。


| | 考えたこと | 22:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
人間模様
先々週から検査入院していた。

病院の大部屋にいると、いろんな人間模様がある。

ぼくのとなりのおじいさんは、目が開いているが、全盲だった。
おそらく、年をとってから、目を悪くしたのではないか。
色のことを言っていたから、先天的なものではない。

そのおじいさんは、前にもこの病院に入院していたことがあるらしく、看護婦さんの声で名前を当てていた。
外れたときは、誰々さんはまだおるか?と聞いて話をする。

きっと話を聞かされる看護婦さんは、忙しいので、次の用事をしたいのだろう。

それでも、お構いなしにおじいさんは話す。
以前入院していたときには、面白い話を聞かせてあげたという。
西宮のえべっさんはなぜ今のところにあるかという話。

最初に漁師の網に引っかかって、その家に祭られていた。
しかし、漁がピタッと止まったので、えべっさんをここにおいておくのが悪いのだろう、ということになり、もう一度釣った場所に戻しにいった。
戻すときに、えべっさんに、何か不満があったのかと聞くと、もっと多くの人に祭ってほしいという。
そこで、戻すのをやめて、灘に祭った。
そうすると、そこはいい水が出るようになり、宮水という酒の元になった。
そして、もう少し東に祭ってくれということになり、今の場所になったという話。

若い看護婦さんは、へー、そうだったんですかと相槌を打つ。
これこそ、ヒューマンスキルの見せ所。
明るい声で、いくら表情が見えないといっても、笑顔でいう。
数分間にわたって、その話を聞き、一段落したところで、「私、次のところで仕事があるので、失礼しますよ。また、聞かせてくださいね。」という。

これがすごい。

次のところがあるので、失礼します、で終わる人が多い。
でも、この若い看護婦さんは、「また、聞かせてくださいね」と言った。
さすが…、と横で聞いていて感心した。

これぞ人付き合いの極意といってもいいだろう。

いくら笑顔で愛想よく相槌を打っていても、それでは、失礼しますでは50点。

こういう勉強はどこでするのだろうか。
どこで覚えるのだろうか。

そういう教育は大切だと思う。

| | 考えたこと | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |