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2019.08.06 Tuesday
生きる目的
人間はなぜ生きているのか、という問は難しい。
若い頃はとかく忙しいから、そんなことを考えている暇はない。 でも、年をとって暇になってくると、そういうことを考える。 そう考えると、生きる意味などというものは、暇だから考えるもののようだ。 寿命が伸びたから、考えてしまう。 年をとって忙しい人は幸せだ。 そんなことを考えずに済む。 それに、今の時代、インターネットで情報過多になった。 クーポン欲しさにアプリを入れると、バカみたいにニュースが来る。 知るべきニュースだけならまだいいが、ニュースという名の暇つぶしになっている。 SNSもある意味同じだろう。 本当に知りたいものだけならいいが、それ以外の情報も入ってくる。 誰がどこでどんなものを食おうが、そんなことはどうでもいいのだ。 音楽が聞きたければ、なんとかミュージックを立ち上げてストリーミングすればいい。 映画が見たければ、なんとかビデオで、たくさんの映画から適当に選んで見ることができる。 ゲームがしたければ、適当にアプリを入れればいい。 何かについて知りたければ、検索をすれば一発で答えが出る。 こんな楽な生活をしていていいのだろうか。 しかし、これがまぎれもなく文明の進歩なのだ。 一昔前なら、気に入った曲があればレコード屋に行ってレコードを買い、それをターンテーブルの上に乗せて針を落とし、かしこまって音楽を聞いたもの。 それがパソコンで検索して、クリックすれば聞ける世の中。 いろんなことを早く簡単にできるようになった結果、人間は暇になる。 何のために生きているのか、というような問には一般的な答えなどない。 一人ひとりが見つけるべきものだろう。 それを考えずに済む人生は、忙しく過ごし、結果的にはいい人生。 だいたい、こんなことを考えても、仕方ないのかもしれない。 意味があるのは、それを商売にしている哲学者くらいなものだ。 デカンショ節は昔の学生が歌ったもの。 デカンショは「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」の3人の哲学者のことだ。 昔の学生は「デカンショデカンショで半年暮らし、あとの半年ねて暮らす」と歌った。 要するに暇だったのだ。 仏教思想に傾倒したショーペンハウエルは本の中でこう書いているらしい。 「人生の答えは、各自が古典や東洋の宗教をひもといて見つけてほしい」 哲学者でも、そういうのだからなあ。 だんだんと、人間には生きる目的などなく、そんなことは考えても無駄だという気になってきた。 そんなことを考えるくらいなら、もっとマシなことを考えたほうがいいのかもしれない。 「人間は考える葦である」と言ったパスカルは、同じ本の中で「人生は暇つぶしだ」とも言っている。 暇つぶしなのだから、好きに生きればいいということだ。 でも、何が好きかがわからないから困る。 結局は堂々巡り。 |
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