考えたこと2

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落ちこぼれ対策
苫野一徳という若い教育学者が『「学校」をつくり直す』という新書を出した。
「落ちこぼれる子どもをなくす」というのが目的。

彼は1980年生まれの39歳。現在は熊本大学の教育学部の准教授という肩書き。
その紹介の記事を読んで、そのとおりだと思ったが、違和感が残った。

落ちこぼれが発生する原因について、結論としてこう述べる。

「学校に通う子どもたちが、どういうわけだか幸せそうじゃない。もちろん、幸せな子どももたくさんいるには違いありませんが、それでもやっぱり、何かがおかしいと思っている保護者や子どもたちは少なくないはずです。
理由はもちろん、人それぞれです。いじめ、体罰、過度の管理・統率、厳しすぎる校則、空気を読み合う人間関係、落ちこぼれ……等々。
でもこれらすべての問題の根底には、ある共通の本質がある。わたしはそう考えています。
結論から言ってしまいたいと思います。公教育が始まって、約150年。学校教育はこれまで、ずっと変わらず、基本的に次のようなシステムによって運営されてきました。すなわち、「みんなで同じことを、同じペースで、同質性の高い学級の中で、教科ごとの出来合いの答えを、子どもたちに一斉に勉強させる」というシステムです。
ところがこのシステムが、今いたるところで限界を迎えているのです。」

ぼくがずっと書いている「割合」がわからない大学生の問題も、もちろん小学校で習うことが身についていないという「落ちこぼれ」の問題になる。
数学という積み上げの学問で、割合の概念が抜け落ちると、その後に習うことの多くがわからないと思う。
それほど割合の概念は基本的な概念。
それがわからないということは、分数の概念がわからない、ということでもあり、それは90年代から指摘されてきた。

苫野氏が言うように、学年で教えることが決まっている、ということがその原因の大きな部分であるのは間違いない。
そのために、以前の単元がわからなかったり、忘れたりしている人は補習をしない限り、学び直しの機会はない。
だから、だめなのだという理屈はわかる。
彼はこうも書いている。

「ある新米先生からも、こんな話を聞いたことがあります。
「授業で時計の読み方について学習をしたんですが、理解できない子どもも少なくありませんでした。だから、その単元を何とか終えたときにはとてもホッとしたんです」
授業時数はあらかじめ決められていますから、その時間内に理解できなかった子どもたちは、結局わからずじまいのまま、次の単元に進んでいかなければなりません。でもその先生からすれば、とにもかくにも、授業自体は予定どおりにやり遂げたのです。
気持ちはよくわかります。でも厳しい言い方をすれば、それは教師としての責任の放棄です。教師の重大な責務の1つは、言うまでもなく、子どもたちの学力──それが何を意味するかについては、またあとでじっくり論じることにしたいと思います──をしっかり保障することにあります。理解できない児童生徒を放って、何とか授業をこなしていけばいいなどということはないのです。
でも、その先生を過度に責めてはならないとも思います。責められるべきは、やはりシステムなのです。「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で」学習する、150年も変わらず続く学校のシステムなのです。」

しかし、教育学者として何冊かの本を出してきた苫野氏なら、もっと言えることがあるはず。
そのシステムに甘え、「難しいことは塾で聞け」という先生も実際にはたくさんいる。
部活動がメインの仕事であり、教えることは「ついで」という先生もいる。
定期考査の前になると、「この問題を覚えるように」という数学の教師もいる。
実際に「高校の数学なんて世の中では必要ない」という数学の教師も実際にいた。
学校側にしても、必要な教科の教員を採るというより、「この部活」が指導できる教員を採る、ということもある。
こういう問題に蓋をしてしまってはいけない。

教育のシステムのことを言うのなら、もっと教員養成のシステムのことも言わないといけない。
それこそ、教育学の範疇だ。

学校のシステムにしても、教師が忙しいのは親への対応や事務仕事の面もあり、そのためには学校に事務を入れなければいけない。
きつい言い方だが、教師がその状態を口実に、教えることをサボっているという側面もあると思う。

その上、文科省の問題もある。
この状態で、小学校で英語を正規科目にして、プログラミングもやるという。
なぜ教育学者たちは先生の養成法を変えることが必要だと思わないのか。
日本中の教育学部で、大学院はできたとはいえ、学部では十年一日の如く、同じような教育をしている。
それを目の当たりにしているはずだ。

言っていることは正しいし、もっともだと思うが…。




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