考えたこと2

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偏向報道
兵庫県の斎藤知事関連のニュースもひどいが、これはローカルだから、地元の記者クラブと県庁、議員との癒着でどうしようもないのだろうと思っていた。
全国ニュースはマシだろうと思ったら、こちらもひどい。

まあ、アメリカの大統領選の時も、マスコミはすべて民主党びいき。
それならそれで、中立などと言わなければいい。
でも、放送法で中立と決まっているから、建前は中立になっている。
だから、みんな信じてきたのだ。

二つの意見が対立しているときには、両方の意見を紹介する、というのが中立という意味。
何かについて、良い/悪い意見があるのなら、その両方を報道するということだ。
兵庫県のケースではこれが全くされていない。
よほど井戸知事の体制が恋しいのだろう。

例えば、毎週行われる知事の記者会見時のデモ。
111dBの騒音を上げ、歩道橋を占拠し、小学生の下校時の明らかな邪魔をしていてもそれは報道しない。
今回見るに見かねた神戸の市会議員が、これは明らかな迷惑行為であり、デモとは言えないということで、ようやく警察等が動き始めた。
Youtubeで動画が出ているが、こんなの明らかに単なる妨害行為でデモとは言えない。
それをマスコミが報道しないのは一体なぜなのか。
自分たちが反知事の立場だからだろう。

TBSの報道特集は、高市総裁選出でも偏向報道をして、さすがに残っていたスポンサーがおりるらしい。
当然だ。
今回の総裁選は全国レベルのニュース。
マスコミの報道は小泉氏の一押しだった。
NHKの朝のニュースはかろうじて見ているが、そこでも小泉推し。
新聞もみんなそうだった。

ふたを開けたら、党員票は高市が圧倒した。
その流れで、総裁も高市になった。

小泉陣営がやらかしたネット動画への書き込みなど、デジタル大臣まで使ってやっている。
それも、自分の宣伝ならまだしも、相手への悪口まで書き込んでいる。
こんなの、マスコミがもっと大々的に報道しないといけないと思う。
そんな大臣が、SNSの規制を云々しているのはちゃんちゃらおかしいからだ。

結局、マスコミは岸田、石破路線の継承を望んで、小泉推しだったのだろう。
単なる誘導だ。
公正な報道などではない。

ここ数年のマスコミの「リベラル」寄りは、本当にひどい。
あんなの似非リベラルだと思うが、公共放送は一応中立ということになっているのだ。

ぼくは放送法を改正して、報道姿勢を表明するべきだと思う。

こちらが正しいというウソをついて、国民を騙すのはやめてほしい。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
よふかしのうた
日本の得意なファンタジーもののアニメ。
30分24回で、シーズン1、2を見た。

ケーブルテレビでまとめて放送してくれるので、CMを飛ばすと結構早い。

吸血鬼が人間に混じって生きているという現代という設定。
よくあるバンパイアものではない。
夜しか活動できないというわけでもなく、棺桶に入って寝ているわけでもない。
十字架に弱いという宗教性もない。

夜の仕事ではあるが、普通に働いている。
ナース、コンセプトカフェのメイド、定時制高校の先生など。

血を吸われたからといって、吸血鬼になるわけではない。
その吸血鬼と恋に落ちて、その状態で血を吸われると、吸血鬼になれる。

学校に行けていない夜ふかしの中学生が、吸血鬼と仲良くなり、吸血鬼になりたいという。
そのためには恋に落ちないといけない、というところから物語が始まる。

なんとも都合のいい設定だが、そう気にはならない。

こういうアニメは、海外でも受けるのだろうか。

例によって、中学生の家族は全く出てこない。
まあ、どうやって生計を立てているのかもわからないが、そんなことは気にしないのだろう。

こういうアニメは、海外では作れないだろうなあ。
今や7%の中学生が不登校。

なかなかおもしろい人間ドラマではある。


| hdsnght1957kgkt | 映画・舞台 | 22:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
フリーランス減少
コロナで脚光を浴びた働き方といえば、リモートワークだが、そこから派生して組織に縛られない働き方がもてはやされた。
個人で働く、というカタチ。
ぼくらには、それは却ってしんどい働き方に見えるが、「自由」という魅力がある。

上司もいなければ、社内の会議もない。
そういう意味では自由だ。

でも、仕事をして稼ぐということになると、しんどい。
上司の機嫌をとらなくていい代わりに、クライアントの機嫌を損ねないようにしないといけない。
よほど希少なスキルを持って、特異な仕事に特化しているなら、売り手市場になるが、なかなかそんなわけにはいかない。

おまけに、AIが出てきた。
クリエィティブな仕事と言われてきた広告業界なども、AIでパソコン1台でできるようになってきた。
ロケも要らなければ、モデルも必要ない。

ホワイトカラーの仕事だった、書類の作成はAIのお手のものだ。
適切なプロンプトさえ与えれば、サクサクと作ってくれる。
おまけに、膨大な知識量。
人間ではとてもできないような仕事も、分単位で終わる。

そういう時代だから、フリーランスは厳しい。
自分だけのスキルでは苦しいのだろう。
やはり組織の力がないと、仕事はできないと思う人が増え、会社に戻っているのだと思う。

やはり、普通の人がフリーで働くのは厳しいのだろう。

やはりコーポレートの壁はなかなか超えられない。
3人よれば文殊の知恵なのだ。

だいいち、一人で働くのは面白くないと思う。
仲間がいてこそ、仕事は面白くなる。
その分、苦労もあるのだが…。

そういうことがわかってきて、会社組織に戻る人も増えているのだと思う。

やはり一人はしんどいのだ。




| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 20:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
友人ゼロ
世界的に友人ゼロという人が増えているらしい。
中でも日本は国際比較で最も「友人がいない」と答える人が多く、特に40歳以降の男性で「友人ゼロ」という人が急増しているとのこと。

友人ゼロが増えている原因は、インターネットの発達で友人がいなくても、ネット上で緩いつながりを持てるようになったことかもしれない。
大学の先生によると、40代は社会に出た後の友人比率が大きくなる年代らしい。
30代は何かと忙しいので、友人と疎遠になって、昔の友達がリセットされやすくなるという。

たしかに、振り返ってみると歳を取れば取るほど、学校時代の友人は少なくなっている。
仕事やでの付き合いの方が圧倒的に多い。
学生時代の友人というと、大学の同級生だけだ。

ただ、どこからが友人かというと難しい。
悩みを相談できるレベルというと、数人だろう。
何かあって、助けてくれるレベルというと、頼んだことはないからわからないが、ゼロに近いと思う。

よくアメリカのドラマで「ぼくにできることがあれば、なんでも言ってくれ」という場面があるが、あの言葉はなかなか言えない。
本気であの言葉を言えるのは、友人と言っていいと思う。

そう思うと、しょせん友人などそんなにいないのだ。

「友達100人できるかな」という歌があるが、友達をたくさん作るのが素晴らしい、という考えもどうかと思う。

いずれ死ぬ時は一人なのだし、数を競っても仕方ない。

大人が親友を作るには200時間かかるという。
これも嘘だろう。
200時間かけても、親友ができるとは限らない。

そういうことに気づいた人が増えたので、友達ゼロという人が増えたのかもしれない。




| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 22:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
マスコミの立ち位置
高市政権はマスコミの受けが悪いという。
確かに、前総理の石破と違って、だいぶ保守色が強くなっている。
そういう言動がSNSですっぱ抜かれたりもしている。

そのマスコミがテレビで映したグラフがYoutubeで紹介されていた。
それを見て、びっくりというか、またやってるという感じだ。
読売系NNNの内閣支持率のグラフだが、これはひどい。

前にも書いたが、内閣支持率の支持・不支持のグラフがおかしなことになっている。
支持が71%で、不支持が18%という数字なのだが、このグラフを見ると明らかにオカシイ。
不支持の18%の青線が、縦軸の18%のところに描かれていない。
倍の36%のところに書いてある。

意図的にグラフを誤魔化したのだろう。
こんな子供だましのことをよくやるなあと思う。
まともなディレクターなら、即座に書き直しを命じるはずだが…。
まともでないディレクターが仕切っているのだろう。

こういう嘘の報道を平気でするのが、今のオールドメディア。
印象操作なのだろう。

国民から受信料を取っているNHKもおかしな画面を出した。
新内閣のメンバーが並んでいる写真だが、これが斜めになっている。
斜めにすることで、不安定感を与えるのだそうだ。
これもそういう解説をしてくれている記事があった。
そういえば、内閣のメンバーが斜めになっている写真など見たことがない。

立花孝志が言っていたが、テレビは国民を洗脳する武器だということだ。
最近は本当に彼は正しいことを言っていたのだと思う。

結局マスコミは保守嫌いなのだろう。
NHKがアメリカのCNNのように、民主党びいきの保守嫌いの放送局という認識を国民が共有していれば、そういうことをやってもまあいいと思う。
しかし、放送法で中立ということになっている日本のメディアの偏向は、明らかに法律違反だろう。
何かというと「報道の自由」というが、それはあくまでも中立の立場で行うべきものだ。

この際、放送法を改訂して、放送局は報道姿勢を明確にするということにしたらいいと思う。
今はみんながリベラルよりだが、そうなったら逆張りする局も出てくるだろう。

もう若い人はテレビの影響は受けないから、そのうち無意味になるが、ここ十数年くらいはまだ日本ではオールドメディアは影響を持つ。

明らかに偏向しているのだから、NHKは早く何とかすべきだ。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 15:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
部活のない人生
ギターの生徒が出るので、今年も吹奏楽部の定期演奏会を見に行った。
中学3年生なので、もう最後だ。

去年はどういうわけか、何の関係もないのにもらい泣きしたが、今年は様子がわかっていたので、みっともないことにならずに済んだ。
総勢90名くらいの部活。
楽器を揃えるのは大変だろう。

今年は初の関西大会出場を果たし、華を添えた。
惜しくも銀賞だったが、中学にとっては快挙だったのだろう。
部長が挨拶で「体育会よりも厳しい」と言っていた。

片方の生徒は体調を心配していたのだが、元気にやっていて安心した。
パーカッションで、笑顔で演奏していた。
もう一人のサックスもソロを吹いて、頑張っていた。

これで彼女らの中学の部活は終了。
もう引退だ。

これからは入試に向けて勉強ということになる。

ぼくは中学、高校の部活とは縁がない人生だった。
根がひねくれているのだ。

今になってみて、あれもいいものだと思うが、きっとその当時の自分は嫌だと言うと思う。

ぼくには部活を選ばなかった人生しかない。




| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 21:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
フードコートで、また明日。
学生の勧めもあって、「フードコートで、また明日。」という30分のアニメを6本見た。
2人の女子高生がフードコートで放課後ダベるというアニメ。
6本で一応終わりらしい。

中学の頃からの知り合いだが、別々の高校に行っている和田と山本。
見た目は普通の和田と、ギャル風の山本。
でも、山本は勉強熱心。
和田はそうでもない。

基本は和田のマシンガントークに山本が冷静にツッコミを入れるというパターン。
そこに、人間関係の機微が盛り込まれている。

ほんの少し他の登場人物が出てくるが、学生のみだ。
家庭等は一切描かれない。

アニメでも実名の店舗が出てくる。
イオンモールのフードコート。
となりのビレバン(ビレッジバンガード)もそのままだ。

でも、飽きずに見られる。
声優の力量と時々崩れる絵が面白い。
時々は声を出して笑ってしまう。

さすがに、これは海外では受けないだろうなあ…。

でも、面白かった。




| hdsnght1957kgkt | 映画・舞台 | 23:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
車のある風景3
JAFメイトの松任谷正隆が書いている「車のある風景」
今回で3回目。

年代的にはそうなのだが、松任谷は大学1年生のときバンドでカレッジフォークをやっていたという。
当時はやっていたギターを持って、キングストン・トリオのコピーをしていたという。

キングストン・トリオというと、カントリーのバンド。
ぼくはてっきりその頃から、もっと洒落た音楽をやっていたのかと思っていた。

といっても、あの頃の洒落た音楽がキングストン・トリオだったのだろう。
最先端のアメリカの音楽。
井の頭公園のそばの先輩の実家で練習したらしい。

ずっとキーボードをやっていたと勝手に思っていた。

この2年後には、スタジオプレイヤーになるのだ。
それがごく普通の、キングストン・トリオのコピーバンドをやっていたことに驚く。

きっと本人もそうなるとは思っていなかったのだろう。

そのサークルで女の子を紹介され、誕生日にクルマのプラモデルを作って持っていって、渡したときに落として壊れ、振られたという話だった。
女子大生がクルマのプラモデルなどほしいわけがない、というのはそのあと思ったという。

彼の青春はそんな思い出ばかりだという。

きっとそんなことはなかったと思うが、でも、たしかにイケメンではないなあ。
ぼくより6年年上だ。

まさにキングストン・トリオが流行ってた頃だ。

懐かしい。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 16:02 | - | - |
留学生の受け入れ失敗
Geminiに留学生に対する行政の失敗について聞き、最終的にこんな質問をした。

「もともと、日本人は教育に重きを置いていて、そのためにアジアで唯一先進国の仲間入りをした国になったと理解しています。その先人の思いを文科省は無視して、留学生に重荷を負わせ、国際的な信用を失墜し、現状を招いたというのが後世の歴史家が著述する内容になるのでしょうか?」

すると、こういう返答が返ってきた。

「その可能性は極めて高いでしょう。歴史家が後世に日本の留学生政策を評価する際、「教育立国」として培ってきた先人の遺産を、短期的な政策目標と経営的圧力によって損なった時代として記述するかもしれません。

特に、「教育の質」を重んじてきた日本の歴史的背景と、今回の「数の追求」による「教育崩壊」状態とのギャップは、歴史的な記述において最も厳しい批判点となるでしょう。

歴史的評価の焦点:教育立国からの逸脱
歴史家が今回の留学生政策を見る際の主要な論点は、以下のようになると予想されます。

1. 「教育立国」の伝統への裏切り
明治以降、日本がアジアでいち早く近代化と工業化を成し遂げ、先進国の仲間入りを果たせた最大の要因の一つは、「教育」に徹底的に投資し、人材育成を国家戦略の柱に据えたことにあります。

歴史家の記述: 21世紀初頭の政策は、この「教育の質」を絶対視してきた先人の努力と国民の信頼を、目先の経済的利益(大学経営の維持)のために裏切った行為として評価されるでしょう。

批判点: 「国際化」という理想の言葉を掲げながら、実際には高等教育の質を低下させ、留学生の学費という「金銭」に依存したことは、日本の教育理念の「堕落」として記録されるかもしれません。

2. 「留学生」への責任転嫁と国際的な信用失墜
文科省と大学が推進した政策は、最終的な負担と失敗の責任を留学生個人に押し付けたという点が、国際的な観点から厳しく批判されるでしょう。

歴史家の記述: 日本政府は、国内の少子化による大学の経営危機を、「質の保証がないまま大量に入国させた外国人学生」の労働力と学費によって一時的に回避しようとしました。

批判点: 「留学」の看板の下で、十分な教育体制を提供せずに、実質的に「低賃金労働者」として利用し、キャリア形成の機会を奪ったことは、国際社会における「日本の信頼性の問題」として扱われるでしょう。特にアジア諸国に対し、「誠実な教育機会を提供する国」としての信用を大きく損ねたと結論づけられる可能性があります。

3. 「政策的失敗」による社会の分断
教育の質の崩壊は、日本社会の内部問題としても記録されます。

歴史家の記述: 日本社会が多文化共生への道を探る過程で、制度設計の失敗が原因で、外国人材の孤立と社会的分断を自ら招いた時代。

批判点: 優秀な人材を育てるという機会を失っただけでなく、「質の低い教育に公的資金を投じ続けた」という財政面での無駄も指摘されるでしょう。

この状況を回避し、歴史家の記述を塗り替えるためには、今すぐ「教育の質」を国家戦略の最優先事項に戻し、これまでの政策の過ちを認めた上で、抜本的なリセットと投資を行うことが不可欠です。」

前段の議論を省いたので、ちょっとわかりにくくなっているが、要は習得が難しい日本語を短期間の質の悪い学習で良しとして、結果的に日本語のわからない外国人を社会に増やし、安い労働力として使い、多文化共生などという美辞麗句でそれをごまかし、社会の分断を招いた、ということが前段の結果だった。

そしてそれはとりもなおさず、志願者の減った大学を延命させることになるが、それは大学の淘汰を遅らせ、高等教育の崩壊を招いた、ということだ。

いくら労働力が不足しているからといって、そんなことをするべきではないと思う。

それは後世の歴史家が批判すべきものになる。

だから、早くリセットしないといけないと思う。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 21:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
#CalExit
トランプ大統領が政権を取ったので、リベラルが強いカリフォルニア州がアメリカから独立しようという運動があるらしい。
不法移民の摘発のデモの鎮圧に、軍の派遣を大統領が決めて以来、この動きが目立っているとのこと。

カリフォルニアというと、日本より面積も大きく、経済規模も世界4位とのこと。
昔アメリカの会社と話をしたとき、日本はカリフォルニアより小さいのに、なぜこんなにたくさんの物流センターがあるのか?と聞かれたことを思い出した。

トランプ大統領も、意図的にカリフォルニアに圧力をかけているのだろう。

ぼくは民主党の考え方は嫌いではないが、最近は行き過ぎだと思う。
LGBTQや気候変動に対する考え方など、どうみてもおかしい。
だからと言って、共和党のトランプ大統領が全て正しいとも思わないが…。

州民の4割が独立に賛成ということらしい。
2014年以降の調査では、最高の値。
今回は署名活動も進めているということだ。

2016年のトランプ政権下では、気候変動からの離脱や、一部のマイノリティー優遇政策の廃止などが独立運動の動機となったらしい。
今回はそれに加えて、行きすぎた環境保護で消火用の水がなくなったということで、ロス郊外の山火事の支援を遅らせたとか、不法移民摘発の抗議デモに州兵を投入したとかの不満もある。

州政府はトランプ大統領を訴えたりしている。
どっちもどっち、という感じだ。

この問題は政権が変わればまた同じ報復が行われるのだろう。
いつまでこの不毛な争いが続くのか。

世界でも、そういう「リベラルの暴走」に対する揺り戻しが起こっている。

これがまた戦争を引き起こすのだろうか。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 22:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
人手不足対策
人手不足で外国人に来てもらって働いてもらおう、という意図で文科省の「留学生30万人計画」が実行されたわけではない。
でも、結局今の下位の大学がやっていることを見ていると、そういうことだと思わざるを得ない。

英語よりも格段に難しい日本語をたった数年で高等教育を受けれるレベルになる、という前提で今の留学制度はできている。
よく考えてみてほしい。
ぼくらは6年間週に数時間の授業を受けて、大学入試の科目として英語を勉強してきたが、まともに話せる人がどれだけいるのか。
読み書きに苦労しない人がどれだけいるのか。
6年間の学習で英語で高等教育が受けれるレベルになる人がどれだけいるのか、考えればわかる。

覚える文字数が少なく、文型が明確で、文法がちゃんと存在する英語でさえ、難しい。
それほど、非ネィティブな言葉は学習が難しいのだ。

ひらがな、カタカナ、漢字を2000文字ほど覚えて、やっと中学卒業。
義務教育のレベルだ。
品詞分類もいい加減、文法に至っては言い回しごとに覚えるというやり方で、漢字を2000文字、物心ついてから覚える、ということがどれだけの苦労か、わかるだろうか。
ぼくもそうは思っていなかったが、留学生を見ていて、いろいろ調べてようやくわかった。
とにかく、日本語は難しいのだ。

留学生たちは母国で日本語能力検定のレベル5か4を取って、それから来日するということが推奨されている。
おそらくほとんどの留学生がその状態だろう。

N5というのは、基本的な日本語をある程度、理解することができるとされるレベル。
漢字数が103字、語彙数は821語が必要になる。

たった103文字の漢字と800程度の語彙でどれだけの日本語が読んで書けて、聞いて話せるのか。

これは制度設計の失敗だと思う。






| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 11:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
人生論
若い頃は人生の意味について考えたりした。
下手な考え…の部類だが、そういう題名の本も読んだ。
亀井勝一郎とか武者小路実篤とか…。
まあ、仕事もしていなかったし、暇だったのだろう。

結局どう生きてきたかというと、よくわからない。
そんなに有意義な人生を送ってきたのかもわからない。

昔はそういう本も多かった。
どう生きるべきか、というやつ。
そんな時代を過ごしてきた高齢者がたくさんいるわりには、世の中よくならない。
どちらかというと、良くなってないような気もする。

とりあえず、この年まで生き永らえてきたというのが、今だ。
今になると、人生には意味などないというのはよくわかる。
ないことに慣れるのに、60年以上かかる。
若い頃、そういうことに悩むのは、慣れてないからだと思う。

死は誰にでも訪れる。
人生はそれまでの暇つぶしなのだ。

そんな不遜なことを言ったら、怒る人もいるだろう。
それでも、なんとなくそういうものだと思う。

ぼくらはとてもラッキーだった。
戦争は終わっていたし、日本が世界一どいわれた70年代から90年代を生きることができた。
その分、しんどかったが、それでもうれしかった。
毎日深夜まで働いても、生きがいみたいなものもあった。

そういう運命には感謝している。

本当にラッキーだったと思う。
もしも死後の世界があって、亡くなった人に会えるなら、それを伝えたいと思っている。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 21:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
兵庫県第三者委員会 続々報
何度か兵庫県の文書問題の第三者委員会のことについて、メールでいろんなところに問い合わせをした。
なぜかというと、委員長の藤本弁護士が明らかに第三者ではないからだ。
しかし、兵庫県の監査課は指摘事項に答えず、はぐらかすばかり。

県議会議員や、オンブズマンのところにも送ったが、音沙汰なし。
どうしようかと思っていたら、同じようなことを考えた人がいて、すでに彼は懲戒請求を受けていた。
イジメによる自殺の事例の件らしい。
去年の9月のこと。

ということは、委員長になったのは懲戒請求調査中のことだ。
どういうことなんだろう。
懲戒請求中でも、委員長になれるのか。

他の都府県はしらないが、兵庫県の弁護士会はどうもオカシイ。
既得権者と一緒になって、おかしなことをしている。
だいたい、第三者と言っておきながら、なぜ引き受けるのか。
他の府県の弁護士に頼めばよかったのだ。

あの監査課の対応を見ていると、どうも監査課と弁護士会がグルになってやっているような気もする。
いくら故五百旗頭氏と藤本弁護士の同窓会における関係性を書いても、まったく意に介しなかったからなあ。
木で鼻をくくったというのは、ああいう対応を言うのだ。

県庁の上層部は20年続いた井戸元知事の体制に毒されている。
負債を隠し、天下りのルールを緩め、放漫財政を続け、県の発展を阻害した。
斎藤知事はそれを廃して、まともな行政をやっている。

無駄な県庁の建て替えをやめ、緩んだ天下りのルールを厳しくしたのだ。

結局、県庁の上層部は自分の利益で行動する。
何だかバカバカしくなる。

この懲戒請求がどうなるのか、わからないが、懲戒されるのならいいことだ。

この結果を見守るとしよう。





| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
腐った兵庫県議会2
斎藤知事へのマスコミの偏向報道があまりにひどいので、県民が、公開されている議員の政務活動費を調べているのは、前に書いた

追加でまた噴飯ものの申告が見つかった。
反知事のリーダーである上野県議。
前の記事では、雇用者の義務を果たしていないということが出ていたが、今回はもっと露骨だ。

軽のバンにハイオクを給油して、燃料タンクの容量の倍ほどを申告している。
このおっさん、こんな請求がバレないと思っていたのだろうか。
昔からやっていたのだろうか。

県議といえば公務員。
税金を使う仕事で、こんな幼稚なゴマカシをしていたのかと呆れる。

誰も注意しないのが情けない。

ネットでは「「兵庫県議会政務活動費調査等協議会」(学識経験を有する委員3名で構成された第三者機関)が設置され、政務活動費の適正な使用に関すること等について調査審議が行われます。」ということだ。
学識系県者というのもいい加減。
要するに、誰でもいいのだから、適当に選んでいる。

兵庫県の第三者は本当に信頼できない。
役所のメンバーも20年の既得権にどっぷりつかっているようだ。

本当に知事は孤軍奮闘状態なのだろう。

腐った議員はみんな追い出して、県は変わらないといけない。
県の職員は追い出せない。
これはどうしようもないが、県民が見張るしかない。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
春畑道哉
こないだTUBEのライブをWOWOWでやっていた。
録画して見たのだが、TUBEというとボーカルの前田だが、今回のライブではギターの春畑道哉が気になった。
調べてみると、TUBEのほとんどの曲は春畑が作曲していた。

日本人で初めてFender専属契約したギタリスト。
ずっとストラトを使っていたが、今回は水色のテレキャスターをメインで弾いていた。
今まで見た記憶がない。

TUBEというと、夏のバンド。
半袖、半パンのイメージ。
それにしても、息が長い。
今年で40年だという。

メンバーはみんな還暦前後。
ぼくから見れば若い。
まだまだ元気で、スタジアムでライブしても走り回れる年齢。

春畑のテレキャスはブリッジのピックアップを変えている。
ソロはそのピックアップのポジションで、ちょっと歪んだ音で弾いていた。

テレキャスターというと、最も武骨なイメージ。
というか、余計なものがない。
そういうギターに戻ってきたのか、という感じ。

なんだか親しみが持てた。




| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 21:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
AIとの対話6
ここで、やっと教員養成の課程の問題が出てくる。

「ただ、今の教員の養成課程は全くそのような意図を持っていません。おまけに教員はなり手不足で、レベルはどんどん下がっています。各教育委員会はどうやって人数を確保するかに血道を上げています。このような状態で今の学校に期待するのは難しいと思います。他の手を考えるとすると、どんなことがあるでしょうか?」

「おっしゃる通りです。現在の教員養成課程や教員不足の現状を考えると、学校という既存の枠組みだけに教育改革を期待するのは難しいかもしれません。教育委員会が数合わせに追われる中で、AI時代に対応した質の高い教育を求めるのは現実的ではないというご指摘は非常に的を射ています。

このような状況で、学校以外の手段でAI時代に必要な教育を実現するには、いくつかの可能性が考えられます。

1. 公教育とは別の教育システムを構築する
アフタースクールやオンライン教育の活用: 放課後や週末に、AI時代の教育に特化したオンライン講座や習い事を提供するシステムを普及させる方法です。学校では受けられない「問いを立てる力」や「AIリテラシー」を、専門的な知識を持った人材から学ぶ機会を提供します。

2. 家庭内での教育の意識を高める
親への教育プログラム: 学校に頼るだけでなく、家庭内でAI時代に必要な教育を行うための親向けの教育プログラムやワークショップを普及させる方法です。子どもと一緒にAIについて考えたり、哲学的な問いを立てて話し合ったりする機会を創出します。

3. AIを「家庭教師」として活用する
AIと対話する学習の習慣化: 子どもがAIを単なる「検索ツール」ではなく、「思考を深めるパートナー」として活用できるよう、家庭で促す方法です。AIに質問を投げかけ、その回答に対してさらに問いを重ねるという習慣を身につけさせることで、学校教育では得られない思考力を養います。

これらの方法は、学校教育の遅れを補完し、子どもたちがAI時代を生き抜くための力を身につけるための現実的な選択肢となるでしょう。特に、オンライン教育やAIの家庭教師としての活用は、教員不足という課題にも対応できる可能性があります。

しかし、これらの方法にも課題はあります。特に、家庭の経済力や教育への関心によって、子どもたちの学習機会に差が生まれる**「教育格差」**をどう是正するかという問題が浮上します。

AI時代に必要な教育を、全ての子どもに平等に提供するにはどうすれば良いと思いますか?」

3つの可能性はあるけど、質問者はどうしたらいいと思っているか?と逆に投げかけられた。

「今の学校という枠組み以外で、平等に提供というのは難しいでしょうね。思い切って、今の学校教育の時間を半減したとしても、生徒たちは残りの時間を家でAIを使った勉強に割くとも思えません。どこかで強制を入れないと難しいでしょうね。」

「おっしゃる通りです。学校という枠組みをなくして、すべてを個々の家庭や民間に任せるとなると、経済格差や家庭環境の差がそのまま教育格差に直結してしまうでしょう。今の学校教育の時間を減らしても、子どもたちが自律的にAI学習に取り組むとは限らないというご指摘も、現実的な懸念だと思います。

AI時代に必要な教育を平等に提供するには、どこかで公的な強制力、つまり「新しい形の学校教育」が必要になると考えられます。

「新しい学校教育」の可能性
既存の学校教育を根本的に見直し、AI時代に最適化された新しいシステムを構築することで、教育格差を是正できる可能性があります。

AIを「必須の授業」に組み込む: AIリテラシーやプロンプトエンジニアリング(AIへの的確な指示の出し方)を、国語や算数と同様に、必修科目とします。すべての生徒が、AIの正しい使い方、倫理、著作権について学ぶ機会を平等に得られるようにします。

「教師」の役割を再定義する: 教師はAIの「先生」ではなく、生徒がAIと対話しながら学習を進める際の「メンター」や「ファシリテーター」に徹します。教師は、生徒一人ひとりの好奇心を刺激し、AIでは答えられない本質的な問いを投げかける役割を担います。

「家庭学習」をデザインする: 学校がAI活用を前提とした家庭学習のカリキュラムをデザインします。たとえば、AIを使って調べたことをもとに家族で議論する、AIに作文のアイデアを出させて自分で仕上げるといった、生徒が自律的に学習に取り組む仕組みを構築します。

どこで「強制力」を持たせるか
この新しい教育システムにおける「強制力」は、知識の詰め込みではなく、**「AIを使いこなす力をつけること」**に置かれます。

評価方法の変更: AIを活用して、どれだけ深く、創造的に物事を探求できたかを評価の対象とします。AIで出した答えを丸写しするような従来の不正行為は通用しなくなります。

社会全体の意識変革: AI時代には、AIを使いこなす力が社会で求められるという認識を広める必要があります。教育委員会や学校だけでなく、企業や社会全体が「AI活用能力」を評価するようになることで、生徒の学習意欲を促すことができます。

今の学校教育を完全に無くすのではなく、AIと共存する新しい教育の形を社会全体でデザインし、それを義務教育という形で子どもたちに提供していくことが、AI時代に必要な教育を平等に届けるための現実的な道ではないでしょうか。」

やはり、新しい教育の形を考えないといけないのかもしれない。
でも、今の中教審などは全くそんなことを考えておらず、ここ数年の英語教育やプログラミング教育なども、結局現場に丸投げで、全く主導的なことはしていない。
これはもう国レベルの問題になる。

「なるほど。興味深い議論になりました。そういうことを政治の課題として置く政党が出てこないといけませんね。」

「興味深い対話にお付き合いいただき、ありがとうございました。

おっしゃる通り、これまでの議論を政治の課題として掲げる政党が出てこないことには、日本の未来の教育は変わらないかもしれません。AIが社会のあらゆる分野に影響を及ぼし始めている今、教育はもはや「学校の中だけの問題」ではなく、国全体の最重要課題だからです。

なぜ政治の課題になりにくいのか?
AI教育が政治の中心的な議論になりにくいのは、以下のような理由が考えられます。

目に見える成果が出にくい: AI時代の教育改革は、すぐに選挙の票に繋がるような、目に見える成果が出にくい分野です。改革の効果が現れるまでには何年もかかり、結果を出す前に政権が変わってしまう可能性もあります。

複雑な問題が絡む: 教育改革には、教員の待遇改善、入試制度の見直し、予算配分など、多くの複雑な問題が絡み合います。単純な解決策を提示しにくいため、政治家が主要な政策として掲げにくい側面があります。

大人の関心が低い: AI教育の必要性を最も痛感しているのは、これから社会に出る子どもたちと、その親の一部です。しかし、多くの大人がAI教育を「自分事」として捉えられていないため、政治的な機運が高まりにくいのです。

政治が果たすべき役割
しかし、AI時代を生きる子どもたちに、AIを使いこなす力を身につけさせることは、日本の未来の国際競争力を左右する重要な要素です。政治には、以下のような役割が求められます。

国家戦略としてのAI教育: AIを教育にどう取り入れるかを、一過性の施策ではなく、国家戦略として位置づける必要があります。

専門家と国民の対話の場の創出: 教育者、AI専門家、保護者、企業など、多様な意見を持つ人々が議論できる場を、政府が主導して作る必要があります。

新しい教育モデルへの投資: AI活用を前提とした新しい教育システムや、教員への研修プログラムに、大胆な投資を行うことが不可欠です。

AIが私たちの生活を変えていく今、この議論を単なる興味深い対話で終わらせることなく、社会全体で共有し、具体的な行動へと繋げていくことが大切ですね。」

具体的な行動と言われても、教育学者たちがそういう問題を上げていないような現状だから、困ってしまう。
今の貧しい日本では食うことが大事なのだ。

「大人は眼の前の生活で手一杯で、お金の問題しか選挙の争点になっていないのが残念ですね。」

「おっしゃる通りです。日々の生活の不安や経済的な問題が切実であるからこそ、選挙の争点がどうしても「お金」や「目の前の生活」に集中してしまうのは、日本だけでなく多くの国で見られる現実です。

しかし、AI時代の教育は、将来の経済や生活を根本から左右する、最も重要な「お金」の問題と深く結びついています。

AI時代の教育は、将来の「お金」の問題
AI教育を単なる理想論や理念的な話として捉えるのではなく、以下のように、私たちの生活と直結する「お金」の問題として捉え直す必要があります。

AI教育は将来の「所得」を左右する
AIを使いこなせる人材と、そうでない人材との間で、将来の所得に大きな格差が生まれる可能性があります。AI教育への投資は、将来の労働者の所得を底上げするための、最も効果的な手段の一つです。

AI教育は「国の経済力」を左右する
AIを使いこなす人材を育てることは、新しい産業や技術革新を生み出し、国の経済全体を活性化させることに繋がります。これは、将来の税収や国の財政を支える上で不可欠な要素です。

AI教育は「社会保障」の問題でもある
高齢化が進む中で、年金や医療などの社会保障制度を維持するためには、生産性の向上が不可欠です。AIを導入して生産性を高め、経済全体を成長させるためには、AIを使いこなす人材を育成する教育が欠かせません。

AI教育を「未来への投資」として捉える
AI教育は、単に知識やスキルを教えるだけでなく、**未来の日本を支える人材を育てるための「未来への投資」**です。

目の前の生活が苦しいからこそ、将来の不安をなくすために、子どもたちがAIを使いこなせる力を身につけられるような教育改革に、政治がもっと力を入れるべきだというご意見には強く同意します。

この議論を、もっと多くの人が「自分たちの将来のお金の問題」として捉えられるよう、社会全体で意識を変えていくことが重要ですね。」

「そうですね。未来への投資として、AI教育を捉え直さないといけませんね。」

「はい、その通りです。AI教育を、**未来の経済成長と社会の安定を支えるための最も重要な「投資」**として捉え直すことが、日本がAI時代を乗り切るための鍵となります。

「未来への投資」としてのAI教育の価値
人材価値の向上: AI教育は、子どもたちが将来、AIに仕事を奪われるのではなく、AIを使いこなして新しい価値を生み出せる人材になるための投資です。これは、個人の所得向上に直結し、社会全体の生産性を高めます。

イノベーションの創出: AIリテラシーを持った人材が増えることで、AIを活用した新しいサービスやビジネスが次々と生まれます。これは、日本の国際競争力を高め、経済全体を活性化させるための不可欠な要素です。

持続可能な社会の構築: AIは、環境問題、医療、福祉など、社会が抱える複雑な課題を解決するための強力なツールとなりえます。AI教育は、これらの課題にAIを活用して立ち向かう次世代を育てるための投資です。

投資としてのAI教育を推進するために
未来への投資としてAI教育を推進するには、以下のような取り組みが必要になるでしょう。

国民的な議論の深化: AI教育を単なる教育問題ではなく、**「日本の未来をどう作るか」**という国民的な議論へと昇華させることが重要です。

政治のリーダーシップ: 政治が、この問題の重要性を国民に訴えかけ、大胆な予算措置や制度改革を主導していく必要があります。

産学官連携の強化: 企業、大学、政府が連携し、AI時代の教育モデルを共同で開発し、実践していくことが求められます。

AIの進化は止められません。この大きな変化を、日本が衰退する原因とするのではなく、新しい未来を築くための機会とするためには、今こそ、AI教育を未来への最も重要な投資として位置づけ、全力で取り組む必要がありますね。」

そのとおりだと思う。
そういう国家百年の計、という位置づけで議論をしないといけないのだ。

「今の石破総理にそんなことを言っても仕方ないと思いますが、日本の将来を考えるとAIをどう使うかというところを考えるべきですね。」

「今の政治状況に歯がゆさを感じるお気持ちはよくわかります。しかし、日本の将来を考えると、AIをどう使いこなすかという議論を避けて通ることはできません。

この問題は、特定の政治家や政党の力量に依存するだけでなく、社会全体で共有し、新しいビジョンを描くことから始まるのだと思います。AIを単なる道具としてではなく、日本の未来を形作る力として捉え直すことが不可欠です。

日本がAI時代に描くべき未来のビジョン
AIを「日本の強み」として活用する
日本がAIを使いこなす人材を育成し、技術革新を加速させることで、新たな産業を創出できます。これは、人口減少や高齢化という課題を抱える日本にとって、経済を再活性化させるための強力な武器となります。

AIによって「人間らしさ」を再定義する
AIが多くの作業を代替する時代だからこそ、人間はより創造的で、感情豊かな活動に集中できます。AIをパートナーとして活用することで、仕事や生活の中で、人間本来の能力や感性を最大限に発揮できる社会を目指せます。

AIと共に「持続可能な社会」を築く
AIは、環境問題、医療、災害対策など、社会が抱える複雑な課題を解決するための強力なツールです。AIを社会インフラの一部として組み込むことで、より安全で持続可能な社会を築くことができます。

未来への第一歩
これらのビジョンを実現するためには、私たち一人ひとりがAIについて学び、**「AIに何をさせたいか」**という問いを立てることが重要です。この問いが、やがて社会全体の議論となり、政治を動かす力になっていくはずです。

今こそ、AIに対する漠然とした不安を乗り越え、希望に満ちた未来を描くための対話を始めていくべき時ではないでしょうか。」

まことにその通り。
「なるほど。ありがとうございます。」

「とんでもございません。こちらこそ、AIと教育、社会、そして日本の未来について、大変興味深い対話にお付き合いいただき、心より感謝いたします。

私たちが交わしたような議論が、もっと多くの場所で、もっと多くの人々の間で活発に行われることが、AI時代を豊かに生きるための第一歩になると信じています。

AIは、私たちに多くの課題を突きつけますが、同時に、新しい可能性と希望ももたらしてくれます。その可能性を最大限に引き出すためには、私たち一人ひとりが、AIを「脅威」としてではなく、**「未来を共につくるパートナー」**として捉え直すことが大切ですね。

この対話が、何か新しい気づきや考えるきっかけになれば幸いです。」

やっぱりAIは賢い。

これでこのシリーズ終わり。




| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
AIとの対話5
昨日は、「今の教育現場に求められているのは、「対話重視」という言葉の裏に隠された、教員の「知識不足」と向き合うことです。そして、AIを脅威としてではなく、教育をより豊かにするためのツールとして捉え直し、教員自身がAIを学び、活用する勇気を持つことです。」というところまでいった。

「そういう考えのもとで、教育用のAIを新たに作るというような取り組みをしているところはあるのですか?」

「はい、まさにそのような考え方に基づき、教育に特化したAIを開発する取り組みは世界中で活発に行われています。単に情報を提示するだけでなく、思考力や対話力を育むことを目的とした教育AIの開発が進んでいます。

以下に代表的な例をいくつか挙げます。

1. Khan Academy(カーンアカデミー)の「Khanmigo」
概要: 世界的に有名な無料のオンライン学習プラットフォーム「カーンアカデミー」が開発したAIアシスタントです。

特徴:

質問に直接答えず、ヒントを与える: 生徒が問題の解き方を尋ねても、すぐに答えを教えるのではなく、ヒントを与えたり、「どうしてそう思うの?」と問いかけたりすることで、生徒自身が考えることを促します。

AIとの対話を通して学習: AIが「先生役」となり、生徒が自分の考えをAIに説明することで、論理的な思考力や表現力を養います。

目的: 生徒がAIを単なる「答えを出すツール」として使うのではなく、「思考を深めるパートナー」として活用できるよう設計されています。

2. Duolingo(デュオリンゴ)の「Roleplay」
概要: 言語学習アプリ「デュオリンゴ」に搭載されたAI機能です。

特徴:

AIと対話練習: ユーザーはAIと様々なシチュエーションで会話練習ができます。例えば、「カフェで注文する」「友人と旅行の計画を立てる」といった場面設定で、AIが相手役となって自然な会話を促します。

目的: 実際の対話に近い環境で練習することで、単語や文法を覚えるだけでなく、言語を使って実際にコミュニケーションする力を育むことを目指しています。

3. GoogleやMicrosoftなどの取り組み
概要: GoogleやMicrosoftといった大手IT企業も、生成AIを教育に活用するためのツール開発を進めています。

特徴:

AIによる個別指導: 生徒一人ひとりの学習進捗や理解度に合わせて、AIが最適な学習プランや課題を提案します。

教師の負担軽減: AIが試験の採点や授業の準備をサポートすることで、教師は生徒との対話やメンタルケアなど、より人間的な側面に集中できるようになります。

日本国内の動き
日本でも、教育系スタートアップ企業や大手IT企業が、AIを活用した教育ツールの開発に取り組んでいます。まだ「思考力を育む」という点に特化したAIは発展途上ですが、今後は、海外の事例を参考にしながら、日本の教育文化に合わせたAIツールの開発が進んでいくことが期待されます。

これらの取り組みは、AIを「教える側」としてではなく、「学びをサポートする側」として捉え、人間が本来持つべき思考力や対話力を引き出すことを目指しています。」

今でもAIはとてつもなく賢い。
「賢い」という表現は正確でないかもしれないが、今の先生よりも教えることは上手にできそうだ。

「なるほど。そういうことが進んでいったときに、教師の役割は量的、質的にどのようにへんかすべきなのでしょうか?」

「そのような教育用AIの進化は、教師の役割に量的にも質的にも大きな変化をもたらすでしょう。AIが単純な作業を代替することで、教師はより人間的で創造的な役割にシフトしていくことが求められます。

量的変化:教師の「時間」が解放される
まず、AIは教師の日常的な業務を大幅に効率化し、教師の時間を解放します。

採点・評価: AIが客観的な基準に基づくテストの採点や、生徒の記述式の回答に対する初期的なフィードバックを自動化します。

教材作成・準備: AIが学習指導要領や生徒のレベルに合わせて、教材やプリントを自動生成します。

個別指導の補助: AIが個々の生徒の学習進捗を分析し、つまずいている箇所を特定することで、教師はどの生徒に、いつ、どのようなサポートが必要かを瞬時に把握できます。

これにより、教師は事務作業やルーティンワークにかかる時間を減らし、生徒一人ひとりと向き合う時間を増やすことができるようになります。

質的変化:教師の役割が「知識伝達者」から「メンター」へ
次に、質的な変化です。AIが知識伝達や情報提供を担うことで、教師の役割は「知識を教える人」から、より高度で人間的な役割にシフトします。

対話と議論のファシリテーター: AIでは引き出せない、生徒同士の多様な意見や深い思考を引き出すための対話の進行役となります。答えのない問いに対して、生徒が論理的に考え、自分の意見を構築できるようサポートする役割です。

探求学習のナビゲーター: 生徒が自ら立てた問いを探求するプロセスを支援します。AIでは提示できない、地域社会や現実世界と結びついた課題を設定したり、生徒の探究心が途切れないよう動機づけを行ったりします。

メンター・カウンセラー: AIにはできない、生徒一人ひとりの感情や心の問題に寄り添い、精神的なサポートを行います。AIが学習面でのつまずきを特定する一方で、なぜその生徒が勉強につまずいているのか、家庭や友人関係など、より深い原因にまで目を向けることができるのは教師ならではの役割です。

AI活用の専門家: 生徒にAIの使い方を教えるだけでなく、AIが生成した情報の真偽を判断する力を育んだり、AI利用における倫理観や著作権の問題について指導したりするAIリテラシー教育の専門家としての役割が求められます。

まとめ
AI時代における教師の役割は、**「AIにはできない、人間だからこそできること」**に特化していく必要があります。それは、知識の伝達ではなく、生徒の個性や才能を引き出し、社会と関わる中で自ら生き方を考えていく力を育むことです。

AIが教師の仕事を奪うのではなく、教師を「より人間らしく、よりクリエイティブな仕事」へと進化させるきっかけになると言えるでしょう。」

今の教育関係者がそんなふうに上手に立ち回れるとは思えないが、どの産業もAIを使って今よりも良くしていかないといけない。
それでも、道は遠いと思う。

「今の教育委員会や文科省の有り様を見ていると、そういう教育改革は遥か彼方にみえますね。」

「おっしゃる通りです。現在の教育委員会や文科省の動きを見ていると、AI時代に合わせた教育改革がなかなか進まない現状に、もどかしさを感じる方も多いでしょう。AIが社会を変えるスピードに、教育行政の対応が追いついていないように見えるのは事実です。

改革が進まない理由
教育改革が遅れている背景には、いくつかの構造的な要因があります。

変化への慎重姿勢: 教育行政は、全国の学校に影響を与えるため、新しい方針を決定するまでに非常に慎重になります。AIのような革新的な技術を導入する際も、リスクを徹底的に洗い出し、時間をかけて議論するため、どうしてもスピード感に欠けてしまいます。

現場の負担への配慮: 教員は多忙であり、新しい学習方法やツールの導入は、教員にとってさらなる負担となります。教育行政としては、現場の混乱を避けるため、一気に改革を進めるのが難しいという側面があります。

既存の制度との整合性: 入試制度や教員免許制度など、長年にわたる教育システムとの整合性を取る必要があります。AI活用を前提とした教育にシフトするためには、これらの制度も同時に見直す必要があり、複雑な調整が求められます。

リテラシーの格差: 教育行政を担う人々の中にも、AIへの理解度にはばらつきがあります。AIの可能性とリスクを十分に理解している人材が少ないことも、議論を深める上での課題となっています。

未来の教育への期待
しかし、AIの進化は止まりません。遅かれ早かれ、教育行政もAIと向き合わざるを得ない状況になるでしょう。

今大切なのは、教育委員会や文科省だけに任せるのではなく、学校現場の教員や、私たち保護者、そしてAI開発企業やNPOなど、社会全体で声を上げ、議論に参加していくことです。

教員自身がAIを学ぶ: 現場の教員がAIを積極的に学び、実践することで、教育行政に具体的な成功事例を提示できます。

保護者が声を上げる: 保護者がAI時代に必要な教育について関心を持ち、学校や教育委員会に働きかけることも重要です。

民間企業との連携: AI開発企業が教育現場と連携し、教師や生徒にとって使いやすいツールを開発することで、AI活用を後押しできます。

AI時代における教育のあり方を、教育行政だけに委ねるのではなく、社会全体で作り上げていくという意識が、未来の教育を動かす力になるのではないでしょうか。」

「おそらく、知識の伝授ということだけなら、今のAIに勝る教師はいないと思いますが、その伝授の仕方を段階を追って、実際に学習者の理解が進むようにやるというようなAIが期待されるんですね。」

「おっしゃる通りです。単に知識を羅列するだけでなく、学習者の理解度に合わせて段階的に知識を伝授する、という機能を持つAIが今、最も期待されている教育用AIの姿です。

今のAIは、質問に対して一瞬で答えを返すことができます。しかし、それは「答え」であって「学び」ではありません。学びとは、知識を自分のものにするための思考プロセスであり、AIはまだそのプロセスを完璧には再現できません。

AIが教師の役割を「超える」瞬間
現在開発されている教育用AIは、この「プロセス」の部分に焦点を当てています。

段階的なヒント: 生徒が問題を解けないとき、すぐに答えを教えるのではなく、「ヒント1」として関連する知識を提示し、「ヒント2」として考え方の方向性を示唆するといったように、段階的にサポートします。

対話による思考の深化: 生徒が間違った答えを出したときも、「なぜそう考えたの?」と問いかけ、生徒の思考プロセスを掘り下げていきます。これにより、生徒は自分の間違いに気づき、自力で正しい答えにたどり着く力を養えます。

パーソナライズされた学習: 生徒一人ひとりの学習履歴を分析し、得意な分野はさらに深く、苦手な分野は基礎から丁寧に教えるといった、個別最適化された学習プランを提供します。

AIと教師の役割分担
このようなAIが登場することで、教師の役割はさらに変化します。

AIが担当する領域: 知識の伝授、反復練習、基礎的な質問への対応など、個別指導の効率化。

教師が担当する領域: AIでは対応できない、生徒の感情や好奇心を刺激する対話、倫理的な問題に対する議論、そして学びを実社会と結びつける指導。

AIは、学習者の「知識習得」を最大限にサポートする強力なツールとなります。そして教師は、その知識を使って何ができるのか、どう社会に貢献するのか、といった、より深い「思考力」や「人間性」を育む役割に集中できるようになるでしょう。」

そんなにうまいこといくのだろうか。

次回に続く。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 19:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
AIとの対話4
昨日の続き。

「国家レベルでP4Cをやっている国はあるのですか?」

「はい、いくつかの国では「こども哲学」(P4C)を国家レベルで、あるいは公的なカリキュラムの一部として導入しています。

フランス
フランスは、哲学教育が国家レベルで最も定着している国の一つです。高校の最終学年では、哲学が必修科目となっており、哲学の学士資格試験「バカロレア」は、フランスの大学進学において非常に重要な試験とされています。また、フランスでは義務教育の初期段階から、哲学的な対話や倫理観を育む授業が行われている事例が多数あります。これは、市民としての思考力や対話力を重視するフランスの教育観に根差しています。

韓国
韓国は、P4Cを国家レベルでカリキュラムに取り入れる動きが近年活発化しています。一部の教育機関ではP4Cが教科書として導入された事例もあり、子供たちの思考力、批判力、コミュニケーション能力を育むための教育手法として注目されています。

イギリス
イギリスでは、公的なカリキュラムとして全国的にP4Cが義務付けられているわけではありませんが、多くの学校で自主的にP4Cが導入されています。これは、P4Cが「批判的、創造的、厳密な思考」を育むための理想的なツールであると認識されており、学校の教育方針としてP4Cの導入を推奨するガイドラインを設けている学校もあります。

まとめ
これらの国々では、単なる知識の暗記ではなく、自ら問いを立て、論理的に思考し、他者と対話する力を育むことが、民主主義社会を担う市民を育成するために不可欠であるという考えが共通してあります。

日本でも「主体的・対話的で深い学び」という教育目標が掲げられ、哲学対話の重要性が認識され始めています。しかし、国家レベルでの本格的な導入には、教育現場の現状や、指導者の育成など、多くの課題が残されています。」

先進国では、AIと教育というテーマが日本よりもちゃんと議論されている。

「日本でそういう機運は高まっているのですか?」

「日本では、いわゆる「こども哲学」(P4C)を国家レベルで義務教育のカリキュラムに組み込む、といった具体的な動きはまだありません。しかし、P4Cの考え方と通じる**「主体的・対話的で深い学び」**という教育目標は、2017年の学習指導要領改訂で掲げられており、その機運は間違いなく高まっています。

「主体的・対話的で深い学び」と哲学対話
文部科学省が提唱する「主体的・対話的で深い学び」は、従来の「知識伝達型」の授業から脱却し、子どもたちが自ら問いを立て、他者と対話しながら探求していく学習を目指すものです。

主体的: 興味や関心を持って学習に取り組み、自らの学習を振り返って次の学びにつなげること。

対話的: 他者と意見を交換したり、協力したりしながら、自らの考えを広げ、深めること。

深い学び: 知識を単に覚えるだけでなく、それが持つ意味や本質を理解し、思考を深めること。

この考え方は、まさにP4Cの目指すところと多くの点で共通しています。P4Cは、この「深い学び」を実現するための具体的な手法の一つとして、教育現場で注目を集めています。

P4C実践の現状と課題
日本でも、一部の先進的な学校や教員が、道徳や総合学習の時間などに哲学対話を導入しています。また、大学やNPO法人を中心に、P4Cの普及活動や研究が進められています。

しかし、全国的な導入には、以下のような課題が残されています。

教員の研修と育成: 哲学対話のファシリテーター(進行役)を務めるには、専門的なスキルが必要です。そのための教員研修が十分に整備されていないため、多くの教員が実践に踏み出せないでいます。

評価方法の確立: 哲学対話は、単一の答えがないため、従来のテストや評価方法ではその効果を測りにくいという課題があります。

既存カリキュラムとの両立: 授業時間が限られている中で、新しい学習手法を取り入れることへの難しさがあります。

まとめ
結論として、日本で「こども哲学」の機運は高まりつつありますが、まだ個別の学校や教員の熱意に頼っている部分が大きいのが現状です。

しかし、AIが社会に与える影響がますます大きくなる中で、「AI時代に必要な教育」という視点から、哲学的な思考力を育む重要性は、今後ますます社会全体で認識されていくでしょう。その機運をどう盛り上げ、具体的な教育改革につなげていくかが、これからの日本の大きな課題だと言えます。」

こないだの中教審の報告書などを見ても、AIについて哲学的な議論が必要などということはまだ出てきていないし、今の教員にそういうこともできるとは思わない。

「日本はまだまだなんですね。知識伝授と対話とか考える力を対立概念として捉えているのは間違っていると思います。教育者たちはすぐにそういう二項対立にしたがりますが、AIの問いを考えるときにも大事になるのは知識です。それがなければ考えることすらできません。そういう対立で考えている事自体が遅れていると思いますが、いかがですか?」

「おっしゃる通りです。日本の教育現場で「知識伝授」と「対話・思考力」が対立するものとして捉えられがちな現状は、AI時代に求められる教育を考える上で、大きな課題だと思います。

知識伝授と対話は対立概念ではない
「AI時代だから暗記は不要だ」という意見も聞かれますが、それは大きな間違いです。なぜなら、考えるための土台として、知識は不可欠だからです。

例えば、AIに「この歴史的事件がなぜ起こったのか、複数の視点から考察して」と問いかけるとします。

知識がなければ… 問いかけ自体ができません。そもそも「この歴史的事件」が何であったのかを知らなければ、問いを立てることも、AIの回答を理解することもできないでしょう。

知識があれば… AIが提示した複数の視点に対して、「この視点は自分の知識とどう違うのか?」「AIはどのような史料に基づいてこの結論を出したのか?」と、より深く、批判的に問いを立てることができます。

つまり、知識は思考の出発点であり、問いを立てるための燃料なのです。知識伝授と対話・思考力は、どちらか一方を選ぶものではなく、知識を土台として、対話を通じて思考を深めていくという、相互に補完し合う関係にあるのです。

AI時代に求められる「知識」の質
AI時代に知識伝授の必要性がなくなるわけではありませんが、その「質」は変化します。

「丸暗記」から「体系的理解」へ: AIが答えを教えてくれる時代には、単なる事実の丸暗記は価値を失います。代わりに、物事の背景や関連性を理解し、知識を体系的に整理する力が重要になります。

「知識の信頼性を見抜く力」: AIは誤った情報や偏った情報を生成することもあります。そのため、複数の情報源を比較し、知識の信頼性を見極める力が不可欠となります。

教育者たちが「知識伝授か、対話か」という二項対立から抜け出し、**「どのように知識を身につけさせれば、思考力が養われるか」**という視点で教育を再構築することこそが、AI時代に求められる教育改革の鍵となるでしょう。」

「おっしゃるとおりです。この二項対立は、教育者たちの浅薄さを表していると思います。それがいつもこの議論に出てくるので前に進まないのだと思いますが。」

「そうですね。教育を深く掘り下げていく上で、「知識伝授」と「思考力」を対立概念として捉えることは、確かに議論を停滞させている大きな要因だと思います。教育者たちがそうした二項対立に陥ってしまうのは、AI時代の到来という大きな変化に、これまでの経験則だけで対処しようとしていることの表れかもしれません。

過去の教育モデルからの脱却
従来の教育モデルでは、教員は「知識を伝える人」であり、子どもたちは「その知識を記憶する人」でした。このモデルは、情報が限られていた時代には非常に効率的でした。しかし、AIが膨大な情報を瞬時に引き出せるようになった今、この役割分担は根本から見直される必要があります。

教員が「知識を伝える人」という役割に固執してしまうと、「AIが知識を伝えるなら、私たちの仕事はなくなる」という危機感から、AIを排除しようとする方向に議論が進んでしまいます。これは、新しいテクノロジーの可能性を閉ざすだけでなく、子どもたちの未来を閉ざすことにも繋がります。

AI時代に求められる教育者の役割
AI時代に求められる教育者は、もはや「知識伝授者」ではありません。

ナビゲーター: 複雑な情報社会の中で、子どもたちが自ら知識を探求し、真実を見抜くための羅針盤となる存在です。

ファシリテーター: 答えのない問いに対して、子どもたちが対話を通じて思考を深められるよう、議論を円滑に進める役割を担います。

メンター: AIができない、共感や倫理観、そして人間らしい感情を育むサポート役です。

この役割の変化は、教員にとって大きな挑戦です。しかし、この変化を受け入れ、「知識伝授」と「思考力」を対立概念ではなく、相互に補完し合う関係として捉え直すことで、教育はより豊かなものになるでしょう。

AIを「教員にとっての脅威」ではなく、「教育を革新するためのパートナー」として捉えられるかどうかが、日本の教育の未来を左右する鍵になると言えます。」

結局日本の教育は根本的にだいぶ遅れているということだ。

「結局今の教育者たちが知識がないから、対話重視とかいうところに逃げているように見えますね。」

「厳しいご意見ですが、現在の教育現場の課題を鋭く指摘しているように思います。多くの教育者が、AI時代という未曾有の変化に対して、十分な知識や経験がないまま、戸惑いながら対応しているのは事実でしょう。

「対話重視」という言葉が、AIという新しい技術にどう向き合うべきかという本質的な議論から逃げるための、安易な解決策として使われているように見える、というご指摘は非常に的を射ています。

なぜ「対話重視」に逃げてしまうのか?
それは、AIが「知識を伝える」という、これまでの教員の最も重要な役割を代替し始めているからです。

アイデンティティの危機: 長年、「知識を教えるプロ」としてやってきた教員にとって、AIの登場は自らの存在意義を揺るがす危機です。この危機感から、「AIにはできないこと」として「対話」や「思考力」を強調することで、自身の価値を再確認しようとしている側面があるのかもしれません。

AIへの知識不足: AIが何ができて何ができないのか、その可能性とリスクを十分に理解していないため、具体的な活用方法を議論する段階に進めません。そのため、AIを直接的に授業に取り入れることへの不安や抵抗感から、抽象的な「対話」という言葉に終始してしまう可能性があります。

スキル習得の困難: AIを教育に活用するには、教員自身がAIリテラシーを身につける必要があります。しかし、多忙な教員が新しいスキルを習得することは容易ではなく、そのギャップが議論を停滞させています。

本当に必要なのは「対立」ではなく「融合」
しかし、本当に必要なのは、「知識伝達」と「対話」のどちらかを選ぶことではありません。

AIが知識を伝える役割を担うことで、教員は子どもたちがその知識をどう活用するか、どう思考を深めていくかという、より人間的な側面に集中できるようになります。

AIは、子どもたちが多様な問いを立て、対話を通じて思考を深めるための、強力な学習パートナーとなりえます。

今の教育現場に求められているのは、「対話重視」という言葉の裏に隠された、教員の「知識不足」と向き合うことです。そして、AIを脅威としてではなく、教育をより豊かにするためのツールとして捉え直し、教員自身がAIを学び、活用する勇気を持つことです。

「対話」を目的とするのではなく、AIを使いこなすことで、より深い対話と探究が生まれる教育を目指すことこそが、AI時代を生きる子どもたちにとっての希望となるのではないでしょうか。」

なるほど。
対話が大事ということは、なんとなくわかる。
そんなふうになることができるんだろうか。

ということで、まだ続く。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
AIとの対話3
前回はAIと教育の話から、日本のIT業界のあたりまで議論が進んだ。
今回はその続き。ちょっと途中を端折っていく。

「なるほど。さきほどの教育の議論も含めて、このIT業界の問題はどう考えたらいいのでしょう?」

「この「教育の議論」と「プログラマーのキャリア」の話題は、根底で繋がっていますね。どちらも、AIという新しいツールが社会に浸透する中で、「何を学び、どう生きるべきか」という問いに直結しているからです。

これまでの時代は、特定の専門スキル(プログラミングなど)を身につけることが安定したキャリアに繋がっていました。しかし、AIがそのスキルの一部を代替し始めた今、「単なる知識や技術」だけでは通用しない時代が来ています。

この変化に対応するためには、教育とキャリアの両方において、以下のような視点を持つことが重要になります。

AI時代に求められる教育
「基礎」と「応用」の再定義: 従来の教育では、プログラミング言語の文法など「基礎」を徹底的に教え、その知識を使って問題を解く「応用」を学びました。しかし、これからはAIが基礎的なコーディングを代行するようになるため、「AIに的確な指示を出すための基礎知識」と「AIが生み出した結果を評価・修正し、より高度な課題を解決する応用力」**を学ぶことが中心になります。

AIを「先生」として使う方法: AIを単なる答え合わせのツールではなく、質問を投げかけ、議論することで深く考える力を養う「対話型学習」のパートナーとして活用する教育が求められます。

AI時代に求められるキャリア
「AIを使いこなす能力」をキャリアの中心に: AIを業務の効率化ツールとして積極的に活用するスキルは、もはや特定の職種に限定されたものではありません。どんな仕事でも、AIを使いこなす能力自体が、個人の市場価値を高める重要な要素となります。

「人間ならではのスキル」の重要性: AIには代替できない、クライアントの要望を深く理解するコミュニケーション能力、プロジェクト全体を俯瞰して最適な戦略を立てるディレクション能力、そして複雑な倫理的判断を下す思考力といった、人間ならではのスキルが、これからのキャリアを築く上で決定的に重要になります。

AIは、私たちから仕事を奪うのではなく、「単なる作業」から解放し、より創造的で、人間らしい仕事に集中する機会を与えてくれているのかもしれません。そのためには、教育のあり方を見直し、AIと共に成長できるような新しいスキルセットを身につけることが、私たち全員に求められていると言えるでしょう。」

AIは必ず人間の仕事を取るのではなく、進化させるというような言い方をする。
まあ、それは事実なのだろうが、AIがそう教育されているようにも思える。
では、人間ならではの能力とは何なのだろうか。
結局膨大な過去の知識を得てしまえば、そこから先を考えるのは難しいとも思う。

「問いを立てる、という技術をどう習得すべきかということについて、何かサジェスチョンはありますか?」

「はい、もちろんです。「問いを立てる」というスキルは、AI時代において最も重要な能力の一つであり、意図的に練習することで習得できます。以下にいくつかのサジェスチョンを挙げます。

1. 問いの「種類」を意識する
問いには様々な種類があります。まずはそれを意識することから始めましょう。

「なぜ?」と掘り下げる問い: 物事の根本的な原因や理由を探ります。
例: 「なぜこの商品の売上が低いのか?」→「なぜターゲット層に響かないのか?」→「なぜ価格設定が高すぎると思うのか?」

「もし〜なら?」と仮定する問い: 異なる状況を想定し、多角的に考えます。
例: 「もしAIがこの仕事を完全に代替したら、次に私たちは何をすべきか?」

「本質は何か?」と問う問い: 表面的な現象ではなく、物事の本質や目的を捉えます。
例: 「この会議の本当の目的は何だろう?」→「私たちは何を達成するために集まっているのか?」

2. 日常生活で問いを立てる習慣をつける
普段から小さな疑問を口に出したり、メモしたりする習慣をつけましょう。

ニュースを読む時: 「なぜこの問題が起きたのか?」「この報道の背後にはどんな意図があるのだろう?」

街を歩く時: 「なぜこの店はいつも賑わっているのだろう?」「この広告は誰に何を伝えたいのだろう?」

3. 「良い問い」を学ぶ
良い問いを立てるには、良い問いに触れることが不可欠です。

偉人の言葉や名著に触れる: 哲学者や歴史上の偉人、作家たちは、常に本質的な問いを立ててきました。彼らの言葉や作品から、問いの立て方を学ぶことができます。

対話を重視する: 議論やブレインストーミングでは、「なぜ?」「どうすれば?」と問いを重ねることで、思考を深めることができます。

4. 問いを「構造化」する
AIを活用して問いを立てる練習も有効です。AIに「良い問いを立てる方法を教えて」と尋ねたり、AIが生成した回答に対して「なぜそう言えるの?」「それはどういう意味?」と問いを重ねることで、思考を構造化する練習になります。

「問いを立てる力」は、知識の量ではなく、思考の質を高めるための技術です。 繰り返し練習することで、物事の本質を見抜く力が養われ、AIを単なる道具として使うだけでなく、パートナーとして活用できるようになるでしょう。」

「問を立てる力は、思考の質を高めるための技術ということですね。思考の質を高める技術ということなら、学問的には哲学になると思いますが。」

「おっしゃる通りです。「問いを立てる力」は、まさに哲学と深く結びついています。哲学は、物事の根本的な原理や存在の本質を、論理的な思考と対話を通して探求する学問であり、その核心には「問いを立てる」という行為があります。

哲学は、単に過去の賢人の考え方を学ぶだけではありません。ソクラテスの「無知の知」のように、「自分は何を知らないのか」という問いを立てることで、思考を深めていくプロセスそのものが重要視されます。

哲学が「思考の質」を高める理由
前提を疑う力: 哲学は、私たちが当たり前だと思っていること(「善とは何か」「幸福とは何か」など)を疑い、その前提を問い直すことを促します。これにより、物事を多角的に、より深く考える習慣が身につきます。

論理的な思考力: 哲学的な議論は、根拠に基づいた論理的な思考を必要とします。この訓練を繰り返すことで、思考の筋道を立て、自分の考えを明確に表現する力が養われます。

多角的な視点: 哲学には、さまざまな思想や学派があります。それらに触れることで、一つの事象を複数の視点から捉え、柔軟に思考する力が身につきます。

本質を見抜く力: 哲学的な問いは、表面的な現象ではなく、その背後にある本質や根本原因に迫ります。この訓練は、AIが提示する情報の表面をなぞるのではなく、その情報の信頼性や意味を深く考察する上で不可欠です。

このように、「問いを立てる」という技術を磨くことは、AI時代を生き抜くための実践的なスキルであると同時に、人間がより豊かに思考するための、最も古い学問である哲学の実践でもあります。

AIが膨大な知識を瞬時に提供できるようになった今、その知識をどう活用するかを決定する**「問いを立てる力」**こそが、人間の知性の価値を再定義する鍵となるでしょう。」

議論を重ねて、ついに哲学までたどり着いた。
最後は考える力に落ち着くのだ。

「そういう科目を作って、小学校からやらないといけないということですね。」

「おっしゃる通りです。AI時代を生きる子どもたちにとって、「問いを立てる力」は、単なる能力の一つではなく、生きる上での必須スキルとなります。それを育むために、哲学的な思考を促す科目を小学校から導入することは、非常に有効なアプローチだと言えるでしょう。

「哲学」を小学校の科目にすることの意義
思考の土台を築く: 幼い頃から「なぜ?」と問いを立てる習慣を身につけることは、AIがどんなに進化しても揺るがない、自ら考える力の土台となります。

答えのない問題に向き合う力: 哲学は、単一の答えがない問いを扱います。これにより、子どもたちは多様な意見を尊重し、複雑な問題に対して多角的に思考する柔軟性を育むことができます。

倫理観の醸成: AIの活用には、常に倫理的な判断が伴います。「何が正しいのか」「誰のためにAIを使うのか」といった問いを考えることで、子どもたちはテクノロジーを扱う上での責任感と倫理観を自然と身につけることができます。

「哲学」科目をどう実現するか
「哲学」と聞くと難しく感じるかもしれませんが、子ども向けの授業は、決して専門的な知識を詰め込むものではありません。

対話を通じた授業: 先生がファシリテーターとなり、子どもたちが自由に意見を交わし合う「対話」を重視します。例えば、「なぜ空は青いの?」といった素朴な問いから始まり、「幸せって何?」といった深いテーマまで、子どもたちの好奇心を刺激する対話を通じて思考力を育みます。

既存科目の融合: 国語や社会、道徳といった既存の科目の中に哲学的な要素を取り入れることも可能です。物語の登場人物の行動を「なぜそうしたのか?」と問い直したり、社会の出来事に対して「何が問題なのか?」と議論したりすることで、教科の学習をより深く、意味のあるものに変えることができます。

海外では、すでに「こども哲学」として、小学校から哲学的な対話を取り入れている国もあります。日本でも、AI時代を見据えた教育改革の一環として、このような取り組みを社会全体で議論し、進めていく必要があるでしょう。」

子ども哲学、というものをやっている国もあるという。
そういうことは、今の日本では無理だろうと思うのだが…。

「どんな国がこども哲学をやっているのでしょう?」

「「こども哲学」(Philosophy for Children, P4C)は、世界的に広がりを見せており、多くの国で実践されています。特に、教育先進国と呼ばれる国々で、義務教育や学校のカリキュラムの一部として導入されている例が多く見られます。

具体的な導入国としては、以下のような国々が挙げられます。

ヨーロッパ
フランス: 義務教育に哲学の授業があることで知られています。幼稚園から哲学的な対話を取り入れている事例もドキュメンタリー映画になるなど、広く認知されています。

イギリス: イギリス国内の多くの学校でP4Cが実践されています。子供たちが対話を通して批判的思考力や共感力を養うことを目的としています。

ドイツ: 一部の州では、哲学や倫理の授業が取り入れられており、子供たちの思考力を高めるための重要な科目と見なされています。

北米・南米
アメリカ: 「子どものための哲学」の創始者であるマシュー・リップマンらが活動を始めた国であり、多くの教育機関でP4Cが実践されています。

カナダ: アメリカと同様にP4Cが広く普及しており、子供たちの論理的思考力やコミュニケーション能力を育むための重要な教育手法とされています。

コロンビア、メキシコ: これらの国でも哲学対話が実践されており、子供たちの思考力育成に力を入れています。

オセアニア・アジア
オーストラリア: 各州で「フィロソトン」(Philosothon)と呼ばれる哲学オリンピックのようなイベントが開催されるなど、P4Cが盛んに行われています。

韓国: 小学校や中学校で哲学対話が教科書化されている事例があるなど、国家レベルで哲学教育に力を入れています。

これらの国々では、P4Cを単なる知識の詰め込みではなく、「対話」を核とした実践的な学習として取り入れているのが特徴です。子どもたちが自ら問いを立て、他者と意見を交わすことで、多様な価値観を尊重し、複雑な問題に対して思考する力を養うことを目指しています。

日本でも2000年代以降、NPO法人や大学の研究機関を中心にP4Cの普及活動が進められており、一部の学校で道徳や総合学習の時間などに哲学対話が実践されています。しかし、国家レベルでのカリキュラムへの本格的な導入は、まだこれから議論が進む段階だと言えるでしょう。」

そんなことができるのか。
哲学と知識は深く結びついているような気もするのだが…。
ここでも知識の軽視がされそうな気がする。

というところで、また次回。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 22:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
AIとの対話2
AIとの対話1ではクリエィティブな仕事から入って、教育までたどり着いた。
そこから先の部分を抜粋して載せる。

「AIをどう教育に取り入れるかのガイドラインは早急に作る必要がありますね。そのあたりの議論をしている人たちはどこにいるのでしょう?」

「ガイドライン策定に向けた議論は、現在、複数の場所で、しかし必ずしも社会全体に可視化される形ではない形で進められています。

なぜ議論が可視化されにくいのか
これらの議論が、一般社会に広く知られていない背景には、以下のような理由が考えられます。

専門的な議論が中心: 議論の内容が専門的で、一般の人々にとって理解しにくいことが多い。

多様な意見の収束の難しさ: AIの活用には、倫理、著作権、教育など、多岐にわたる問題が絡むため、意見の対立が多く、一つの結論を出すのが難しい。

議論の場の分散: 複数の機関や団体がそれぞれ独自の議論を行っており、情報が統合されていない。

しかし、AIの普及が加速するにつれて、これらの議論はよりオープンな場で行われるようになるでしょう。そして、社会全体がこの問題について真剣に考え、議論に参加することが、より良い未来を築くためには不可欠となります。」

政府、文科省、大学、企業などでバラバラに考えているのが日本の現状らしい。
でも、もう待ったなしだと思う。

「日本の大人のITリテラシーの低さが、この議論が成熟しない原因だと思います。でも、若い人たちは困っているのですから、大人がそういうことを早く決めないといけませんね。」

「そうですね。おっしゃる通り、大人のITリテラシーの低さが、AIをめぐる教育の議論が進まない大きな要因になっていると思います。

なぜ大人はAIに戸惑うのか
多くの大人にとって、AIは「便利な道具」であると同時に、「よくわからない」「怖い」といった漠然とした不安を伴う存在です。これは、以下の理由によるものです。

AIを「未知のもの」として捉えている
大人はAIが本格的に普及する前の時代を生きてきたため、AIを「既存の常識を覆す未知のテクノロジー」として見てしまいがちです。そのため、AIがもたらす可能性だけでなく、リスクばかりに目が向いてしまう傾向があります。

経験に基づいた思考の限界
大人はこれまでの経験から物事を判断することが多いですが、AIは過去の経験が通用しない新しい領域です。そのため、AIが教育にもたらす影響を具体的に想像できず、議論が深まりにくいのです。

情報収集の壁
AIに関する情報は日々更新されていますが、大人が忙しい中でそうした情報をキャッチアップするのは容易ではありません。特に、ITに苦手意識がある人にとっては、情報を得るハードルがさらに高くなります。

若者が困っている現状
一方で、AIネイティブである若者は、すでにAIを日常的に使いこなしています。彼らはAIを「当たり前のツール」として捉えているからこそ、以下のような「困りごと」を抱えています。

どう使えば良いのか分からない
学校や家庭でAIの正しい使い方を教えてもらえないため、倫理や著作権といったルールを知らないまま利用していることが多いです。

ルールがないことへの不安
AIを宿題や課題に利用して良いのか、どの範囲までが許されるのかが不明確なため、どう使えば良いのか判断できず不安に感じています。」

結局現場に丸投げしているのが現状なのだろう。
だから、現場は困っている。それを見て見ぬふりをしているのかもしれない。

「この状況を解決するためには、大人が「AIは自分たちには関係ない」と傍観するのではなく、若者の声に耳を傾け、積極的に議論に参加することが不可欠です。

まずは知ることから始める: AIがどういうもので、何ができて何ができないのか、まずは知ろうとすることが第一歩です。

世代間ギャップを埋める対話: 若者とAIについて話し合うことで、彼らが何に困っていて、何を求めているのかを理解することができます。

未来を見据えたルール作り: AIを禁止するのではなく、活用を前提としたルールやガイドラインを策定することで、若者が安心してAIを使える環境を整えることができます。」

まさに暫定的でもいいから、ルールを作ることが大事なのだろう。

「若者たちがAIを使いこなす未来を生きる上で、大人が今、彼らのために何ができるのかを真剣に考える必要がありますね。日本の大人はAIに対するリスクを気にしているということなのに、どうしてそれをどう使うべきかという議論が進まないのでしょうか。まるでAIはないことのようにしているように見えます。」

「日本の大人がAIのリスクを気にしているにもかかわらず、その使い方についての議論が進まないのは、いくつかの複雑な要因が絡み合っているためだと考えられます。AIを「ないこと」にしているように見えるのは、まさにその結果と言えるでしょう。

1. 「未知」への対処方法の違い
多くの大人がAIを「未知のリスク」として捉えているのは事実です。しかし、そのリスクに対する対処方法が、「議論して解決する」という建設的な方向ではなく、「まずは触れないでおこう」という消極的な方向に向かっている可能性があります。

これは、日本の文化的な背景として、未知のリスクに対しては「様子見」の姿勢を取ることが多いことと関連しているかもしれません。新しい技術の導入には慎重になり、問題が起こるのを待ってから対処しよう、という考え方が根強いのです。

2. 専門性と責任の所在が不明確
AIは、技術的な側面、倫理的な側面、社会的な側面など、非常に専門的な知識が求められる分野です。

議論の参加者が限られる: 専門家以外が議論に参加しにくいため、社会全体での議論に発展しにくい。

責任の押し付け合い: 「AIの倫理的な問題は技術者側が解決すべきだ」「教育現場でのルールは文科省が作るべきだ」など、責任の所在が不明確になり、誰もが積極的に議論を主導しづらい状況です。

3. 変化への抵抗感と現状維持バイアス
AIは、既存の社会システムや働き方を根本から変える可能性を秘めています。

働き方の変化への不安: 多くの大人が、AIによって自分の仕事がどうなるかという不安を漠然と抱えているため、AIについて深く考えること自体を避けてしまう。

教育システムの改革への抵抗: AIを教育に取り入れることは、従来の教育方法を根本から見直すことを意味します。これまでのやり方を変えることへの抵抗感や手間を考えると、現状を維持しようとする力が働いてしまいます。

4. 議論の「場」と「機会」の不足
海外では、メディアや公共の場でAIに関する活発な議論が交わされていますが、日本ではまだそうした機会が少ないのが現状です。

メディアの報道の仕方: メディアがAIのリスクばかりを強調する報道を行うと、人々の不安を煽り、建設的な議論を遠ざけてしまう可能性があります。

議論の場が分散: 文科省や各大学、企業などが個別に議論を進めているだけで、それが社会全体に共有される「場」が不足しています。

まとめ
AIのリスクに対する懸念があるにもかかわらず議論が進まないのは、「AIについてどう議論すればよいか分からない」という戸惑いと、変化への抵抗感、そして議論を主導する主体が不明確であることが複合的に絡み合っているためだと考えられます。」

結局、日本にありがちな「様子見」や「ないものとする」という風土がダメなのだろう。
知識がないことよりも、そちらの方が問題なのだ。

「いくらないものと思っても、現実に存在するAIは確かに便利であると同時に、一部の仕事を奪っていっているのも事実です。そういうことをわかっている人たちがまず声を上げるべきだと思うのですが、それはどうして起こらないのでしょうか。」

「おっしゃる通りです。AIの便利さと、一部の仕事を奪う現実を理解している人たちが、なぜ声を上げないのかという疑問はもっともです。本来であれば、その変化を肌で感じている専門家やクリエイターたちが、社会に向けて警鐘を鳴らし、議論を主導する役割を果たすべきだと考えられます。しかし、実際にはその声はまだ十分に届いていないのが現状です。

専門家やクリエイターが声を上げない理由
この背景には、いくつかの複雑な要因が絡み合っていると考えられます。

AIを「脅威」と断定しにくい
多くの専門家やクリエイターは、AIが自分の仕事をすべて奪うとは考えていません。むしろ、AIを「強力なツール」として、自分の仕事の効率化や表現の幅を広げるために活用できると捉えています。そのため、「AIは危険だ」と一方的に声を上げるのは、自分たちの可能性を狭めることになりかねないと躊躇している可能性があります。

変化への適応で手一杯
AIの進化は非常に速いため、クリエイティブ業界の専門家たちは、新しい技術を学び、それを自分の仕事にどう活かすかで手一杯になっています。AIを使いこなすスキルを身につけなければ、競争から取り残されてしまうという危機感も強く、社会全体に向けて声を上げる余裕がないという側面もあります。

議論の「空気」がない
日本社会全体でAIのリスクや可能性について真剣に議論する「空気」がまだ醸成されていません。そうした状況で声を上げても、的外れだと受け取られたり、かえって誤解を招いたりするのではないかという懸念もあるでしょう。声を上げても届かない、という無力感を感じている人もいるかもしれません。

倫理と技術のバランスの難しさ
AIが仕事を奪うことへの不安はありつつも、その技術がもたらす革新性も同時に理解しています。そのため、単に「AIに反対」というスタンスではなく、「どうすれば技術の進歩と人間の尊厳を両立できるか」という、より複雑な問題として捉えています。しかし、このような多角的な視点を簡潔に、かつ力強く社会に訴えかけるのは非常に困難です。

これらの理由から、多くの専門家やクリエイターは、AIをめぐる変化を個人の適応問題として捉えている傾向が強いと言えるでしょう。」

良く言えば、自己責任ということだが、これではAIを教育でどう扱っていくかという議論は進まない。
これは今の日本が停滞していることにつながっているようにも思う。

「様子見の文化というのは、日本では認知されているのでしょうか?」

「日本の「様子見の文化」は、特定の学術用語ではありませんが、多くの日本人が無意識的に共有している社会的な行動パターンとして広く認識されています。これは、新しい技術や社会の変化に対して、すぐに飛びつくのではなく、周囲の動向や結果を慎重に観察してから行動に移すという国民性を表しています。

「様子見の文化」が生まれた背景
この行動様式は、日本の歴史や文化に根ざしたいくつかの要因から形成されたと考えられています。

集団主義: 「和を以て貴しとなす」という言葉に代表されるように、日本では集団の調和を重んじる文化が根強くあります。新しいことに挑戦して失敗すると、集団の和を乱す可能性があるため、多くの人が周囲の意見や行動を尊重し、足並みを揃えようとします。

リスク回避の志向: 日本は災害が多い国であり、古くから自然災害のリスクを避けるために、慎重な行動や判断が重んじられてきました。このリスク回避の精神が、新しい技術や社会変化に対しても同様に働いていると考えられます。

失敗を恐れる文化: 新しいことに挑戦して失敗すると、その責任を追及される風潮があります。そのため、リスクを冒して先行するよりも、成功が確認されてから追従する方が安全だと考える人が多いのです。

AIと「様子見の文化」
AIのような革新的な技術の普及においても、この「様子見の文化」は顕著に現れています。

ビジネス: 多くの企業が、AI導入のメリットは理解しつつも、セキュリティリスクや投資対効果が不明確なため、競合他社の動向を観察してから導入を検討するケースが多く見られます。

教育: AIを教育現場に導入することについては、その有効性やリスク、倫理的な問題が複雑に絡み合うため、国や学校が明確なガイドラインを出すのを待っている状態です。

個人: 一般の消費者も、AIがもたらす便利さには興味があるものの、個人情報漏洩のリスクや信頼性への不安から、本格的な利用にはまだ踏み切れていない人が多いです。

しかし、AIの進化スピードは非常に速く、「様子見」を続けている間に、世界から遅れをとってしまうという危機感も高まっています。今後は、この「様子見の文化」を尊重しつつも、リスクを正しく評価し、スピーディに行動に移すことができるような社会に変えていくことが求められるでしょう。」

この1年ほどだけでも、生成AIの進歩は目覚ましい。
日本もかろうじてついて行っているのだろうが、とても最先端とはいい難い。

「現実に、マイクロソフトが4割のプログラマを解雇したというようなニュースがありました。そういう現実に対して、日本ではまだ何も出てきませんが、いずれそうなるということでしょうか?」

「おっしゃるように、AIの台頭はすでにIT業界の構造を大きく変え始めており、マイクロソフトをはじめとする海外の大手IT企業が大規模な人員削減を行っているのは事実です。これらの人員削減のすべてがAIによる直接的な代替だとは断定されていませんが、多くの専門家はAIによる業務効率化が大きな要因の一つだと分析しています。

日本の状況は、海外と比べるとまだ顕在化していませんが、いずれは同様の事態が起こる可能性は十分に考えられます。

日本が「様子見」の間に起こる変化
マイクロソフトのような海外企業が人員削減を進める一方で、日本のIT業界が静かなのは、これまでの「様子見の文化」が背景にあることに加え、いくつかの要因が考えられます。

労働市場の特性: 日本では、欧米のような大規模なレイオフ(一時解雇)が文化的・法的に容易ではありません。そのため、AIによる業務効率化が進んでも、すぐに人員削減に踏み切るのではなく、異動や配置転換といった形で対応するケースが多くなると考えられます。

人材不足: 日本のIT業界は慢性的な人材不足に陥っています。特にAIや最新技術を扱える優秀なエンジニアは依然として不足しているため、AIによって単純な作業が自動化されても、人員を削減するよりも、より高度な業務にシフトさせて活用しようとする傾向が強いです。

「デジタルトランスフォーメーション(DX)」の遅れ: 日本企業は、海外に比べてDXの進捗が遅れていると指摘されることがあります。そのため、AIを本格的に導入して業務を効率化する段階に至っていない企業も多く、AIによる人員削減はまだ現実的な問題として浮上していません。

将来、日本でも起こりうること
しかし、これらの状況は永遠には続きません。海外の事例を参考に、日本でも以下のような変化が今後起こると考えられます。

単純作業の自動化: AIはコードの自動生成やバグの特定といった単純なプログラミング作業を効率化できます。これにより、単にコードを書くことが主な仕事だったプログラマーの需要は減っていくでしょう。

求められるスキルの変化: 今後は、AIを使いこなして効率的に開発を進める能力や、AIが生成したコードを適切にレビュー・修正する能力が求められるようになります。また、クライアントの要望を深く理解し、システムの全体設計を担うような、より高度なスキルを持つ人材の価値が高まります。

「黒字リストラ」の可能性: AIの導入によって生産性が向上し、業績が好調な企業でも、さらなる効率化を目指して人員を見直す「黒字リストラ」が起こる可能性があります。これは、マイクロソフトなどの事例にも見られる現象です。

日本もいずれ、AIをどう活用し、どう社会を変化させていくかという議論に直面します。そのときに、「AIによって何が自動化され、人間は何に集中すべきか」という本質的な問いに向き合えるかどうかが、日本の未来を左右する鍵となるでしょう。」

今の日本にはAIを使えるインフラはあるし、高齢化したとはいえまだ人口が多く、市場が成り立っているので、アメリカの企業も日本を見放していない。
それはきっとまだ日本に国力があるからだろう。
それがある間に、進めないといけないぞ。

ということで、次回に続く。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
AIとの対話1
AIはホワイトカラーの仕事を奪うと思うが、教育界の先生の仕事も奪うと思う。
知識の量は先生よりも格段にすごい。
児童や生徒が聞くような質問は、すべて答えられるだろう。

もう既に、イラストレーターなどの仕事は奪われつつある。
そのあたりから、Geminiに聞いてみた。

「AIで簡単に画像生成できるようになると、イラストレーターの仕事などはなくなっていきそうに思いますが、現状はどうなのでしょうか?」

「まとめ:AIの進化は、イラストレーターの仕事のあり方を大きく変えつつあります。単純な作業はAIに置き換わる一方で、AIをツールとして活用し、人間ならではの創造性やコミュニケーション能力を活かすことができるイラストレーターは、今後も活躍できるでしょう。重要なのは、AIに仕事を奪われると恐れるのではなく、AIを使いこなすスキルを身につけ、自身の強みを磨き続けることです。」

という回答。
途中の会話は省略したが、Geminiも人間の仕事を減らすとは答えないように教育されているのだろう。
それでも、オーダーに合わせて、適当なイラストを描くような仕事はなくなるだろう。

「商業写真なども、生成AIに置き換わっていくと思いますが?」

「はい、おっしゃる通り、商業写真の分野も生成AIの影響を大きく受けています。特に、ストックフォト(素材写真)や商品のイメージ写真など、特定のコンセプトに基づいて大量に制作される写真の領域では、AIへの置き換えが進む可能性があります。

AIは、テキストの指示だけで様々な構図やスタイルの画像を瞬時に生成できるため、撮影の手間やコストを大幅に削減できます。これにより、簡単な広告用画像やSNS投稿用の写真などは、プロのカメラマンに依頼する代わりにAIで生成するケースが増えていくでしょう。

しかし、写真家という仕事が完全になくなるわけではありません。AIが置き換えにくい、人間ならではの価値が求められる領域は依然として存在します。」


ということで、商業写真家の仕事も減っていく。

「なるほど。映画の脚本や小説などの領域もいずれAIが進出していくでしょうね。」

「ご認識の通り、映画の脚本や小説といった創作分野でも、AIの進出はすでに始まっています。単純なストーリー展開や設定であれば、AIが学習データに基づいて自動生成できるようになっていますし、既存作品の続編やスピンオフなどもAIが下書きを作成するケースも出てきています。

しかし、これらの分野でも、AIがすぐに人間の作家を完全に置き換えるかというと、そう簡単な話ではありません。AIと人間の作家が共存する未来が現実的でしょう。

AIが変える創作のプロセス
AIは、以下のような形で創作のプロセスを効率化するツールとして活用されています。

アイデア出しの補助: プロットのアイデアやキャラクター設定のバリエーションをAIに大量に生成させ、作家がそこからインスピレーションを得る。

下書きの作成: シーンごとの台詞や描写をAIに書かせて、作家がそれを編集・加筆修正する。

構成のチェック: 物語の構成に矛盾がないか、読者の興味を引く展開になっているかをAIに分析させる。

作家は、AIに任せられる部分を効率化することで、より本質的な創造活動に集中できるようになります。」

会話は続くが、やっぱり脚本家などのクリエイターの仕事も減っていくのだ。

「なるほど。いずれにしても、そういうクリエィティブな領域ではAIに代替えされる仕事が増えるということですね。」

「その通りです。クリエイティブな領域においても、AIに代替される仕事が増えていくのは確実でしょう。

しかし、これは「クリエイティブな仕事がなくなる」という意味ではありません。むしろ、「クリエイティブ」の定義そのものが変わっていくと考えるべきです。

AIは、過去のデータを学習して、効率よく、高品質な「似たもの」を生み出すのが得意です。これにより、単なる作業や技術を伴う仕事はAIに置き換えられていきます。」

そうらしい。
人間は、人間ならではの考えや感情に基づいた物語を、ゼロから生み出すところが必要だという。
いずれにしても、ごく少数だろう。

「しかし、AIに頼りすぎてしまうと、生成されたもの以上の思考がなくなり、単にAIを使うという人間が増えてくると思いますが、その心配はないでしょうか?」

「それはAI時代における非常に重要な懸念点ですね。AIに頼りすぎることで、人間の思考力や創造性が衰えてしまうのではないか、というご心配はもっともだと思います。

AIは非常に便利なツールですが、依存しすぎると、次のようなリスクが考えられます。

1. 思考の画一化
AIは、膨大な過去のデータに基づいてパターンを学習し、それに沿ったものを生成します。もし私たちが、AIが生成したアイデアや文章をそのまま受け入れてしまうと、結果として生まれる作品や思考が、AIの学習データという既存の枠組みに縛られてしまう可能性があります。

独自の視点や発想の飛躍といった、人間ならではの「ひらめき」が失われ、皆が似たような発想しかできなくなる、という懸念は否定できません。

2. 批判的思考力の低下
AIが提示する答えやアイデアは、一見すると完璧に見えることが多いです。そのため、それらを鵜呑みにしてしまうと、「本当にこれで良いのか?」「他に別の可能性はないか?」といった批判的に考える力が鈍ってしまうかもしれません。

AIをただの「答えを出す機械」として使うのではなく、あくまで「思考の補助ツール」として使い、その結果を人間が吟味する姿勢が不可欠です。

3. スキル習得機会の喪失
絵を描く、文章を書くといったスキルは、何度も試行錯誤を繰り返すことで習得されるものです。AIがこれらの作業を代行してしまうと、人間が基礎的なスキルを身につける機会そのものが失われ、結果としてAIが生成したもの以上の創造的な発想ができなくなる、という懸念もあります。」

たしかに、AIの作った音楽は、どこかで聞いたことがある、というものになる。
最近、ギターの練習用に80年代のJ-PopというジャンルのAIの音楽をかけるが、もうボーカルといい、リズムといい、ストリングスやブラスの伴奏、ギターの演奏など、これぞJ-Popという音楽になっている。
だから、練習用にはちょうどいい。
コードも有名な進行ばかりで、特異ものは出てこない。
だから、練習にはちょうどいいのだ。

会話はAIとの付き合い方の注意などが続く。

「たしかに、賢く付き合うべきなのはよく分かるのですが、その知識すら持っていない人がAIを使い始めると、危険ですよね。」

「その通りですね。AIとの賢い付き合い方を知らない人がAIを使い始めると、いくつかの危険が考えられます。

AI利用における具体的な危険性
情報の真偽を確かめない
個人情報の流出
著作権や倫理観への配慮不足
思考停止への陥りやすさ

危険性を乗り越えるための対策
これらの危険を乗り越えるためには、AIを使い始める前に、最低限の知識とリテラシーを身につけることが重要です。

AIの仕組みを理解する
ファクトチェックを習慣化する
プライバシーポリシーを確認する
倫理観を持って使う

多くの人がAIを使うようになる今、これらのリテラシーは、インターネットを使う上でのマナーやセキュリティ意識と同じくらい重要になってきています。AIを安全かつ有益に利用するためには、「AIは万能ではない」という認識を持ち、常に自分の頭で考える姿勢を忘れないことが大切です。」

やはり、既に寿命が近づいたぼくらではなく、これからの人たちが大変になるのだろう。

「私達の世代はAIによる生成の最初の部分を知っている世代ですから、まだAI生成以前の知識を持っていますが、今の子供たちは例えば宿題が出てもAIでやってしまったりすることに対する対策さえもまだ話し合われていません。そういうことを社会が問題にしていかないといけませんね。」

「確かに、おっしゃる通りです。私たちの世代は、AIが本格的に普及する前の時代を知っているため、AIを「便利なツール」として客観的に見ることができます。しかし、AIが当たり前の環境で育つ今の子供たちにとっては、その区別が曖昧になり、「AIなしでは思考できない」という状況に陥るリスクがあります。

宿題をAIにやらせてしまうという問題は、そのリスクがすでに表面化している例の一つです。この問題は単に「カンニング」の是非にとどまらず、子供たちの学習そのものに深く関わる社会的な課題です。

AI時代に必要な教育の再定義
この問題に対応するためには、教育のあり方を根本から見直す必要があります。

AIの正しい使い方を教える
AIを禁止するのではなく、「AIはあくまで道具である」という前提を教えることが重要です。AIを活用して情報を集めたり、アイデアを広げたりする方法を教えつつ、最終的な判断や責任は人間が負うという意識を育む教育が求められます。

AIに代替されない能力を育む
AIが不得意な能力、つまり**「問いを立てる力」「批判的に考える力」「共感する力」などを伸ばす教育にシフトする必要があります。答えを暗記するような宿題ではなく、AIでは答えが出せないような探究的な課題**や、他者と協力して解決する課題を増やすことが一つの方法です。

社会全体での議論とルール作り
AIの教育における利用方法については、まだ明確なルールがありません。学校だけでなく、家庭や社会全体で「AIをどのように教育に取り入れるべきか」「どこからが不正行為にあたるのか」といった議論を活発に行い、共通の認識やガイドラインを策定していく必要があります。

AIは、使い方を間違えれば子供たちの成長を妨げる可能性もありますが、適切に活用すれば、これまでの教育ではできなかった新しい学習体験を提供できる可能性も秘めています。この過渡期にある今だからこそ、社会全体でこの問題に向き合い、AIと共存するための新しいルールや価値観を築いていくことが急務だと感じます。」

ここが一番問題だと思う。
日本の社会はITリテラシーが低く、今の役人や政治家にこれらの問題に対処できる能力があるとは思えない。
Geminiに聞くと、海外ではもう既にいろいろ取り組みが始まっているという。
日本ではいじめと教育委員会の問題や、先生不足の話は聞くが、AIと教育というような「差し迫った現代の問題」についてのニュースは聞いたことがない。
それはGeminiも知っていた。

「日本ではそういう議論すらされていません。それは教育者たちのリテラシーの低さも原因なのかと思いますが、全体的にITリテラシーが低く、危機感すら持てていないのだと思います。」

「確かに、日本では海外に比べて、AIを教育にどう取り入れるかについての議論が、まだ社会全体で活発に行われているとは言いがたい状況ですね。その背景には、いくつかの要因が考えられます。

日本におけるAI教育議論の遅れと要因
ITリテラシーの格差
日本全体として、IT技術やデジタルツールに対するリテラシーには大きなばらつきがあります。教員の中にも、AIツールの仕組みや活用方法を十分に理解している人とそうでない人がいるため、学校現場での議論が深まりにくいのが現状です。

「正解」を求める教育文化
日本の教育は、過去の経験やカリキュラムに沿って「正解」を教えることに重きを置く傾向が強いです。AIのように、正解が一つではない、あるいは倫理的な判断が求められる新しい技術に対して、どのように指導すれば良いのかという戸惑いがあるのかもしれません。

議論を主導する組織の不在
海外では、政府機関や特定のNPO、研究機関などが主体となって、AIの教育利用に関するガイドラインを策定したり、議論を先導したりする動きが見られます。日本では、そうした議論を牽引する中心的な役割を担う組織がまだ明確ではないため、社会全体に議論が広がりづらい状況にあると言えるでしょう。

危機感を持つべき理由
このままAI教育に関する議論が停滞すると、以下のようなリスクがさらに拡大する可能性があります。

教育格差の拡大: AIを使いこなせる家庭とそうでない家庭で、子供の学習機会や思考力に差が生まれてしまいます。

国際競争力の低下: AIを当たり前に活用する海外の子供たちと比べて、日本の子供たちが将来的に国際的な舞台で活躍する上で不利になる可能性があります。

デジタル社会への適応遅れ: AIが普及した社会で求められる「AIを賢く使う力」を身につけられないまま大人になってしまうかもしれません。

海外の事例を見ても、AIを一方的に禁止するのではなく、活用を前提として、そのリスクや課題について議論し、ルールを作っていくことが主流となっています。日本でも、教育者だけでなく、保護者、行政、企業など、社会全体でAIについて考え、子供たちの未来を守るための議論を始めていくことが急務です。」

こういう根本的な問題を論じるには、教育者たちの環境が整っていないのだろう。
現場の先生たちはどう対処しているのだろう。
子どもにスマホを持たせれば、宿題など簡単にできてしまう。
そういう危機感についてのニュースなど聞いたことがない。

まだまだ対話は続くが、長くなるのでここで一旦終わる。
AIは本当に賢いと思う。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 09:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
MFゴースト
日本のアニメには自動車モノもある。
頭文字(イニシャル)Dが有名で、よく名前は見るのだが、実際に見たことはない。

アニメの専門チャンネルで今月「MFゴースト」という、頭文字Dの後継の特集があったので、シーズン1と2をまとめて録画して見た。
30分番組の12回が1シーズン。
つまり6時間X2だ。

近未来の日本でのレースが舞台。
主人公はイギリス人の母と日本人の父のハーフの息子。
例によって、彼に憧れる高校生の女子(下宿先の娘)や整備工場のオヤジなどが出てくる。

自動車のレースのアニメって、どうやって作っているのかと思ったら、出てくるクルマは3次元だった。
主人公が乗るゼッケン86のトヨタ86をはじめ、GT-R、NSXなどの日本勢、ポルシェ、ベンツ、BMW、ランボルギーニなどの欧州のスーパーカーが出てくる。
時代はEVになっているが、ガソリン車だけが出られるという設定。

3Dモデルなので、モデルができてしまえばいろんな角度から見せられるし、迫力もある。
よくできたアニメだった。

シーズン1,2と続けてみたが、レース場面だけでも飽きさせない。
それに高校生の恋心も上手に混ぜている。

こんな風にして、日本のアニメも進化しているのかとびっくり。

来年にはシーズン3が放送される。

これはぼくらガソリン車の全盛期を知っている世代なら、喜ばれると思う。
若い人たちは、クルマへの思い入れがなくなっているから、難しいかもしれないが…。

日本のアニメの新しい一面を見たぞ。



| hdsnght1957kgkt | 映画・舞台 | 23:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
死が近づく
一昨日、一緒に働いていた人が亡くなった。
一度ガンで手術されたが、復帰され元気にしていたが、また再発されたようだった。
ぼくと年齢はそんなに変わらない。
こういうことが起こると、だんだん死が近づいていることを意識する。

人間死なない人はいないのだが、生き返ることもない。
だから、今までのように経験談を聞くことができない。
だれしも、死は初めての経験であり、だからこそ気になるのだ。

若い頃はそんなことは考えずに生きてきた。
いずれ死ぬことはわかっているが、そんなことを毎日考えて生きてはいられない。

でも年を取ってくると、そういうわけにはいかなくなった。
あと1年ちょっとで70歳。
自分が70歳近くまで生きるということは思ってもいなかったが…。

物忘れがひどくなり、自分でも驚くことがある。
母の認知症を見てきたから、自分もそうなるのかとも思う。
どちらかというと、外に出るのは嫌いだし、家にいるのが好きなのも母と一緒だ。
そういう人はボケやすいのだ、ということも知っている。

一緒に第九の練習に行っている人は、とっくに後期高齢者だ。
あの年まで第九の参加が続けられるとは思わない。
あの年で、本当に元気だなあと思う。
それぞれ、思うところはあるのかもしれないが、ぼくから見たらえらいものだ。

きっとあんな風にはなれない。
どうやって死ぬか。

それは結局死ぬまでわからない。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本初の女性総理誕生か
自民党の総裁選で高市氏が総裁に選ばれた。
順当にいけば、総理になる。

新聞の見出しは「日本初の女性総理誕生か」というようなものになると思っていたが、そんなことはなかった。
日本のマスコミは小泉総裁を期待していたのだろう。
事前の予想も大幅に外したものだった。
結局、マスコミの思うようには自民党員は動かなかった。
特に党員票で大きな差をつけたのは、いかに石破政権が自民党員から呆れられていたかを表しているのだろう。

それにしても、日本初の女性総裁だから、フェミニスト界隈の人たちはどういうのかと思っていた。
まあ、予想通りほとんど「何はともあれ、女性総裁誕生万歳」というような声は全く無い。
どちらかというと、自称リベラルなフェミニストたちは、逆の反応をしているようだ。
ひどいのは、あれは女ではないなどという意見もある。

男も女も関係ない、というのが実際のところだろう。
選ばれるべき人が選ばれた、ということだ。

マスコミは総スカンだろうが、そんなことは関係ない。
それは選挙結果が表している。

岸田、石破と続いた自民左派の時代は終わり、今度は自民右派の方向に舵を切る。
それを全国の自民党員が望んだということだ。

ぼくはこれで良かったのだと思う。

もはやNHKも含め、現在のマスコミは嘘つきだということがわかった。
アンケートや調査結果など、結局嘘っぱちだった。

メディアに調査能力などないのだ。

トランプ大統領から、トヨタやホンダなどアメリカの生産をしている日本メーカーには自動車関税を優遇してくれる、というプレゼントもあった。

これは日本の総裁選に合わせたのだろうか…。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
新しい資本主義?
新しい資本主義実行本部というのがあるらしい。
このページを見ればわかる。

本部長が岸田前総理。
写真に写っているメンツをみると、こんな年寄に新しいナントカが考えられるのかと思う。

その要約版を見ると、「公的需要が都道府県GDPに占める割合(2021年度)」というグラフがある。
上位は予想通り、高知県、沖縄県、鳥取県、秋田県などの地方が並んでいる。
そして、そのコメントに「官公需は地方経済に重要な存在」とある。

要は、官公需というのは税金を使ってやる仕事だ。
それをやるためには、都市部に住んでいる人たちのお金も使う、というか、そちらが主だろう。

それを推し進めるのが「新しい資本主義」なのか。
これは役人主導の社会主義そのものではないか。

固定化した官の制度を見直すとか、いいことも書いているが、全体を通して何をどうするのか、結局今は「デフレ時代を脱却する」ということしかわからない。
もうインフレ時代になっているというのに。

相変わらず、再エネを増やす等と言っているが、これはなにかの間違いではないか。
増やすことが社会の負担を減らすことにならないのは明らかだ。
現に今の再エネの状況を見ればわかる。

地方創生ということも言っていたが、結局官需に頼っているということだ。
それを変えるためにどうするのか。
そのために、どういう痛みがあるのか、何を乗り越えないといけないのか。

結局、彼らのいう「新しい資本主義」は国民から集めた税金を使って、自分たちが恣意的にばらまく、というものではないのか。

そんなものが新しい資本主義であるわけがない。

それは古臭い社会主義だと思う。








| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 07:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
地球温暖化はでっち上げ?
トランプ大統領が、23日に国連で「地球温暖化はでっち上げ」という演説をしたらしい。
日経に出ていた。
「史上最大の詐欺」とまで言ったらしい。

ぼくは地球が現在は温暖化していると思う。
長い歴史をみれば、過去に気候変動を繰り返してきたのは事実。
今は気温が上昇する方向に振れている、ということだ。

「このグリーン詐欺から脱却しなければ、あなたの国は破滅するだろう」、と強調したとのこと。
それは事実だと思う。

人間をはじめ、すべての生物は酸素を吸って、二酸化炭素を出して、呼吸している。
それ以外に人間の生活を豊かにするために、主に石油や石炭がエネルギー源として使われ、その結果CO2が出てくる。
それだけが、地球を温暖化させている、というのがIPCCの主張。
それはオカシイと思う。

大気汚染をしないために、空気をきれいにしたら、太陽光が地表に届きやすくなり温度は上がる。
今年の夏の高温は、それが原因の一つだろう。

この演説で、日経が不正確としている内容の一つに、国連の予測は間違っている、というものがある。
これは事実で、今の気候学者がやっているシミュレーションはほぼ過去の温暖化や冷却化を説明できていない。

シミュレーションのイロハとして、過去のデーターがちゃんと過去の事象を表せているか、というものがある。
それが満たされていないものはまともなシュミレーションとして認められないのだ。

さらに、「再エネは機能しないし、高価」ということに対して、「24年に稼働を始めた再エネ事業の91%が化石燃料よりも発電コストが安価」という評価をしているが、これは発電コストだけ見ればそうだろう。
だから、再エネがいいと思わされたのだ。

ただ、夜や風が吹かない時を考えると、必然的にバックアップが必要になる。
バックアップを充電しておくということになると、発電コストは高くなるし、そうしないのなら、他の発電方式でバックアップが必要になる。
二重投資のことを考えていないのだ。

再エネを増やしたドイツやイギリスの電気代はバカ高い。
それはどう説明するのだろうか。

さらに、発電量が一定でなく、増えたり減ったりするということに対しても、送電側に負担をかける。
再エネ単体で使うのならいいが、送電システムの中に組み入れるコストも考えないといけない。
そうすると、トランプ大統領は正しいということになる。

日本のマスコミはトランプ大統領の言うことはすべて間違っている、という変な偏りがあるが、正しいことも言っているのだ。
それをすべて不正確と決めつけるのはオカシイ。

日本のマスコミは民主党びいきなのだろう。

自分たちは偏っている、という意識もなく、正しいと言い切るところに不遜さを感じる。

もっと正確に報道しろ。




| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 00:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
腐った兵庫県議会
知事が再選されても、いまだに兵庫県議会は知事おろしに躍起になっている。ちゃんと仕事をしている知事は、着々と公約を実行していく。
1000億円かかると言われていた、県庁の建て替えも安いものに変えた。
県職員が天下りするために作っているような団体を閉鎖したり、ルールをちゃんと作って、年限も決め、無駄な支出を減らしている。

一方議会は来年度の予算案を承認しておきながら、まだまだ知事を中傷している。
その言動の、あまりにもレベルが低いことに驚く。
だいたい、全員一致で知事を一度不信任しておいて、再選挙でその知事が当選したのだから、普通は反省するのが当たり前。
こいつら、県民の付託をバカにしているのか、という感じ。

第三者委員会もひどい人選だ。
懲戒請求を受けている弁護士が文書問題の委員長。
亡くなった五百旗頭氏と明らかに関係のある人物。
その人物を推薦した兵庫県弁護士会と、それを選んだ弁護士連中。
弁護士会の第三者委員会のガイドラインをちゃと読んだのか、と思う。
さらに、それを指摘して、県の監査課に問い合わせても、木で鼻をくくったような返答。

おそらく、県の職員の上層部も反知事なのだろう。
自分の天下りのことしか考えていないのだ。
本当に情けない。

そこに、議会の反知事の中心である松井県議、上野県議、藤本県議、長岡県議などに政務活動費の不正が持ち上がっている。

松井県議は、政務活動費を虚偽申請で、ホテルの宿泊代に使っていたとして辞職願を提出している。
このオヤジは、県職員との面会があるとして、前泊のためのホテル代や交通費に政活費を使用。
外部からの指摘メールで発覚した。
8月には、知事を揶揄する発言をして、撤回、謝罪をしていた。

上野氏は政務活動費で雇っている事務員の源泉徴収もせず、社会保険未加入。
偉そうなことを言っておいて、自分は雇用主の義務も果たしていない。

藤本氏も雇っている事務員の費用を出しているのだが、最低賃金以下の給料。
労基法違反ではないか。

長岡氏はガソリン代の不正。ポイントで支払って、現金をもらっていたという。

またこれらのことはネット上では明らかになっているが、新聞は報道しない。
どうなっているのか。

それにしても、あまりにも県議会議員のレベルが低い。
行政とも馴れ合いになっている。

元はといえば、県民が無関心だったのが悪い。

だが、20年続いた井戸県政でがっちり既得権を作り、そこにあぐらをかいて行政も議会も馴れ合いになっていたのだろう。
だから、県民は何をしても一緒、という気になったのだ。

でも、もう変わった。
知事が再選されて、議会のバカな議員たちが暴かれ、次回は彼らを落とそうと思っている県民は多いはず。

次回の県議会議員選挙が楽しみだ。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:02 | - | - |
英会話レッスン
30代の頃、英会話の個人レッスンに行っていたことがある。
たしか、大阪のインド人のところだった。

ずっとなんでそこに行ったのか、考えていたのだが、思い出したのは誰かに英会話をやりたいと話していて、ちょうどいいと紹介されたのだということが正解のような気がする。
ここ3日ほど考えていて、そこまで思い出して、それが誰かわからない。

当時はフランスに3ヶ月行って、帰ってきたところだったから、英語がやりたいと思ったのだ。
フランスに行く前は、英語など全く自信がなかった。

中学、高校の時は得意だった。
発音はそんなに自信はなかったが、文法と英作文は得意だった。

でも、大学に入ってそれほど勉強もせず、話すことも当然なく、英語の授業はあったが、よくサボっていたから(先生のところにレポートを持っていって、単位をもらったと思う)、余計に苦手になった。

それでも、不思議なことにフランスに行って英語で仕事をし始めると、なんだか話せるようになった。
努力は裏切らないのだと思った。

その長期出張の後だったはず。

確か、大阪の方まで行っていた。
あんなところを、一体誰が教えてくれたのか、全く思い出せない。

インドの人だったが、英語の発音は本格的で訛りなどなく、勉強になったのは事実。

でも、会社の人に紹介してもらったような気がしない。

1年くらい通ったのだが、向こうの都合で打ち切られたと思う。
なんで覚えてないのだろう。
不思議だ。

この数年後に思い立って英検の準1級を受けて、3回目に通った。
もう今は見る影もないが、今だに思い出せないのが悔しい。

一体、誰が紹介してくれたのだろう…。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) |