考えたこと2

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おバカのタレント
島田紳助が残したおバカのタレントたちがいる。

そのタレントたちが、いつの間にか普通のタレントとしてテレビに出演している。
あのバカぶりは演技だったのだろうか。
バカを反省して、知識をつけたのだろうか。

おバカのタレントたちは、知識が足りないことと、ものごとを論理的に考えられないことを除けば、バカではない。
それでは番組が成り立たなかっただろう。
一応、自分の役割というものがあり、期待される行動をして、はじめて笑いが取れる。
まあ、一部役割ができなくて、突っ込まれていたタレントもいたようだが、それはそれで面白い、ということで番組が成り立っていた。

自分の役割もわからない、本当のバカはあんな番組がなくなれば、お払い箱になったはずだ。

しかし、そうでないタレントは、芸能界に残って活動している。

いい時代になったものだ。

昭和の時代までは、一度バカだと思われたタレントは、それが致命傷になったと思う。
視聴者が、テレビに出る人は特別な人、というふうに思っていたからだ。
クイズ番組にしても、たいがいは視聴者参加で、クイズに詳しい人がでていた。
だから、アップダウンクイズやタイムショックなど、セットに凝った。
当時、あんなセットを作るのは大変だっただろう。
だから、一度始めたら、長いことやった。
MBSのアップダウンクイズなどは22年も続いたのだ。
今の番組再編時の、タレントばかり出てくる、つなぎのクイズ特番のようなことはない。
実際、今のクイズ番組に出てくる序列化されたタレントなど、視聴者から選ばれた人には勝てないと思う。

見ている人は、あの人あんなにバカだったのに、今はNHKでコメントしているから、バカでもいいんだ、と思っているかもしれない。
今は俳優だけど、ちょっと前までバカだったのに…、俳優はバカでもできるんだ、とも思っているかもしれない。
ひょっとしたら、あのバカは演技だったのかもしれないとも思っているかもしれない。

いずれにせよ、おバカが公式に認められたのは、平成の出来事だと思う。

昭和の時代、関西ではバカ(アホ)といえば平和ラッパ、坂田利夫が代表格か。
坂田利夫はかなりのアホだったと思うが、その当時の関西のテレビ局はアホはアホなりの出番でしか使わなかった。
今のようにおバカのタレントを、バカでない役割で使うようなことはしなかった。
それが昭和の常識だったと思う。

平成の時代、知識は重視されなくなった。
その場の空気に反応して、即妙な受け答えができることが重視される。
ゆとり?育の影響かもしれない。

しかし、脳は頭の中にないものを生み出すことはできない。
だから、知識をインプットすることは必要なのだと思う。
それが、何かがあった時に引き出されて使われるかもしれない。
結局、知識がなければ、それに派生するものは生まれない。

こないだ、AKB48のメンバーがテレビで「ピラミッドは、ついこないだ建ったはずだ」と言っていた。

本気で言っている。
普通なら、呆れるところだが、出演者はみんな笑っていた。
そんなことは、知らなくても笑って済ませる時代。
それが平成の時代なのか。

ついついぼくも笑ったが、これがテレビというメディアのやっていること。

テレビ番組を商品だとすると、昭和の時代はあこがれの商品だった。そういうカリスマ性を出演者たちも保っていたし、製作者にも気概があった。
今は完全に消費財だ。使い捨ての日用品。

商品のライフサイクルでいうと、最初は手に入りにくいプレミア商品だったものが、だんだんと一般化し、最後は耐久消費財になる。
テレビ番組の一部は完全に消費財になった。

ぼちぼち主役をインターネットに譲る時が来ていると思う。

こんなことをしていると、日本も世界の主役から落ちていくと思う。
それでいいなら、仕方がない。

前にも書いたが、テレビが出はじめの頃、大宅壮一が「一億総白痴化」と言った。

彼が今も生きていたら、どう言っただろうか。


| | 考えたこと | 21:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
別れの季節
3月は別れの季節。

卒業式(高校はもう終わっているところが多いが…)がある。
クラスの編成替えもある。
クラスメイトとの別れ、学校への別れ、今までの生活への別れなど、いろんなドラマがある月だ。

でも、学生時代は別れるということに、今ほど感慨はなかった。
学校に対する帰属意識が、あまりなかったからかもしれない。
クラスメイトでも仲のよかった連中とは、いざとなれば連絡していつでも会えるという気持ちがあったのかもしれない。
今なら携帯電話やMixiなどのツールもあるし、余計にそうかもしれない。

小学校の頃はそれほど別れは意識しなかったと思う。
まして、ぼくの行っていた小学校は、みんな同じ中学に上がるので(私学に行く人は別だが…)、そんなに別れる、という気持ちそのものがなかった。

中学校は1学年11組もあったので、学年のまとまりはそんなに感じなかった。
クラス替えでは、ほとんど総替えに近かったので、すごく仲のいい友達ができたわけでもない。
それに、中学というのは難しい時代だと思う。
自分でもあの頃を思い出そうとしても、あまり思い出せない。
だから、中学だけ一緒という友達は少ないように思う。小学校からの友達か、高校も一緒だったという友達がほとんどだ。
そして、相変わらず、別れるという感慨はなかった。

ぼくらの高校は、学年10組でそのうち3組が1年から理系ということで分かれていた。
ぼくはその理系クラスだったので、3年間比較的同じ顔ぶれだった。
高校になると、だいぶ仲のいい友達もできる。
行動範囲も広がるし、趣味もできてくる。
でも、高校の卒業式は入試でバタバタしていて、あまり印象に残っていない。
3年の3学期は試験を受ける準備期間のようになっていたからか。
「仰げば尊し」をいい曲だ、と思って歌ったことはよく覚えているのだが…。

ただ、あの頃の3年間は、今の3年間に比べて、本当に長かったと思う。
1年で入学、3年で卒業。当たり前のことだが、この間が長かった。
50を過ぎた今になって思えば、あの3年間はいろんな事があったのだろう。
ぼくは、落研を作ろうと思ったが、それがダメだったので、クラブ活動はあまりやらないかった。
俗に言う帰宅部というヤツだ。
だから、時間はあったと思う。
本格的に日記を書き始めたのも高校だったし、気に入った小説の一節をノートに写したりしたのも高校時代。
左翼シンパになったのも高校なら、太宰治や坂口安吾を読み始めたのも高校だった。
高校時代、何に打ち込んだというわけでもない。
それでも、暇なことはなかった。
生きていること自体が、忙しかったという感じだ。

大学は卒業式に出なかったので、それに関する感慨はない。
でも、下宿をひきはらって、誰もいない春休みに、落研の部室をのぞいたことは覚えている。
あの部屋がぼくの青春だった。
そういえば、「青春」という言葉も最近はあまり聞かないなあ。
そのうち、死語になるかもしれない。

そういえば、小学校や中学校の卒業前に、何人かのクラスの女の子がサイン帳を持ってきて、書いてくれと言われた覚えがあるが、あれには何と書いたんだろうか…。

今となってはどうでもいいことだが。

シマリのない文章になったが、今年も3月が来た…。

| | 考えたこと | 02:10 | comments(0) | trackbacks(0) |