考えたこと2

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英語はブロークンで
文科省は英語の教育に熱心だが、一つ間違えていると思う。

それは、ネィティブのように話せることが重要だと思っていることだ。
だから、英語ネィティブの人を配置し、英語の授業をネィティブイングリッシュでしようとするのだろう。
そういうふうにすれば、日本人の英語力は向上すると思っている。
しかし、それは正しいのだろうか。

言葉は手段であって、目的ではない。
特に母語でない外国語は、なろうとしてもネィティブのようになれないのだから、これは何かを伝え、聞くという手段としかいいようがない。
ネィティブ並に言葉が使えることを目的とするのなら、今の考え方でいいと思うが、所詮英語はコミュニケーションの手段であるという考え方なら、今のネィティブ至上主義はおかしい。

これはぼくが経験的に思うことだ。

ぼくが入社した会社は、英国が作った会社で、入った時には日本の会社になっていたが、古い社員はみんな英語を話さざるを得なかった人たちだった。
上の人が英国人だから、仕方がない。
出張旅費の前受けのことはアドバンスと言っていたらしい。
ほかにも色々そういう言葉があったと聞く。

その一人であるぼくの上司Dさんは、英語が上手だった。
流暢ということではない。
自分の意思を伝えるということでは、必要十分だった、ということだ。

Dさんが英語を話すときの常套句は、「In Japanではねえ」というものだった。
「In Japanでは、we don’t do soや」
これは、日本では我々はそうはしない、という意味。
英国人やアメリカ人、ドイツ人もだいたいこれで通じる。
なぜか。
それはDさんがきっと有益なことをいうとわかっているからだ。
だから、日本語と英語を交えても、理解しようと聞いてくれる。

所詮、英語は手段であって、通じればいい。
そうなると、何を伝えたいかということが問題だ。
その伝えたい事が明確で、わかりやすく、そして相手にとって価値がある、あるいは人柄として聞いてみようと思わせるような人物であることが必要だ。
結局は中身なのだ。

英語をネィティブ並に話せ、聞けることはすばらしい。
しかし、完璧を目指すのは無理だろう。
ブロークンでいいのだ。
中身がないことを流暢に話せても仕方がない。
せいぜい挨拶をして、自己紹介をしてそれで終わり。
そんなものが上手でも、中身がなければ面白くも何ともない。
相手と意思を通じ合うのは言葉ではない。
言葉を介して、中身が通じ合うのだろう。
だから、ネィティブ並に話す努力は7割でやめてもいいのだ。
残りの3割を詰める努力をするくらいなら、他の事をやるほうがマシだろう。
英文学をやろうという人はそうではなくてもいい。
しかし、英語を手段として使う人は7割で充分だと思う。

所詮学校でできることはしれている。
そこから先は、個人の努力でやるしかないと思う。
そのために必要なのは、英文法だろう。

小学校で英語を教えるというようなことは、やらないほうがいいと思う。

そんな暇があれば、日本語を教え、ちゃんと考えることを教えたほうがいい。

二兎を追うもの一兔をも得ずというではないか。




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