考えたこと2

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オレ様化する社会
こないだ、ビックリする話を聞いた。

知人が孫にクルマを貸したという。
そのクルマを駐車場に止め、みんなは海水浴に行ったのだが、1人残って支度をしていたら、隣にクルマが入り、ドアを開けるときにクルマが揺れるほどぶつけ、当てられたほうのドアが傷ついた。
そのまま行こうとするドライバーに「ちょっと待って」と声をかけて、今当てたことを追求すると、「当てていない」という。
押し問答になり、警察を呼んで、現場検証してもらったら、傷の位置も合っているし、塗料も残っているので、当たっている、という検分。
それでも、30代くらいの女性ドライバーは当てていないと言い張る。
警察も呆れて笑っていたのとのこと。
結局、相手の保険でドアを修理することになったのだが、それでも、「もし当たってなかったら、訴えてやる」と言っていたとのこと。

実際、ドアは当たっているし、それは明らかなのだが、それをあくまで認めないことに、それだけのエネルギーをかけられる、ということに驚いた。

この話を聞いて、昔読んだ「オレ様化する子どもたち」という本を思い出した。
その本によると、70年代の高校生の不良は、トイレで喫煙しているところを見つかったら、タバコを吸ったということは認めたものだった。
しかし、80年代の中盤あたりから、見つかっても「オレは吸っていない」というようになったということだ。

70年代の不良は、悪いことと知っていて、喫煙していた。
少なくとも教師の倫理観の延長上で行動していたことになる。
「ワルはワルなりに話が通じた」ということだ。
しかし、80年代半ばになって、何かが変わった。

カンニングペーパーを試験中に見た女子学生を、現場でそのカンペを取り上げて、カンニングの行為を確認したが、あくまでカンニングを認めない例や、授業中に私語をしていて、実際に話している生徒に注意すると、「話してない」という生徒の例も出てきた。

「つまり、おとなも子どもも教師も生徒も自分の判断、自分の価値判断は「客観的で正しい」と思っている。超越的な視点からは個々人の判断はまず私個人のものであり、主観的なもの、「主観値」と考えるのが妥当だが、当の本人はほかのみんなにも通用する「客観値」だと確信するようになった。これが「消費社会的」な人のありようである。」

80年代半ば以降、完全に消費社会が成立し、人は生まれた時から消費者になったと「オレ様化する子どもたち」の著者は言う。
それを象徴するのが、「お客様は神様です」という言葉かもしれない。
コンビニで、些細なことで店長に土下座させ、執拗に謝らせるのも、同じことが原因だろう。
ご丁寧に、それを動画配信までしているのだが…。

しかし、明らかにウソだとわかっていて(たぶん、わかっているんだと思う)、それをつき通す努力は大したものだと思う。
ぼくなどは、正直に言ったほうが楽だと思うのだが、そこにどんなに労力を払っても、ウソをつく。
ウソが悪い、というのは教育されてないのだろうか…。

80年代の半ばに中学生だったとすると、それから20年たったから、その生徒は30代の半ばになっている。
三つ子の魂は百までとはよく言ったものだ。

つまり、知人の話のドライバーの年がその年代になる。

もう、学校だけの話ではない。
市民生活にもそういう価値観が持ち込まれている。
あきらかにぶつけているのに、ぶつけていない、と最後まで抗弁するドライバーはまさにそういう価値観を持っている。

ぼくらはもう古い人間になった。
そういう価値観にはついていけない。
呆れるだけである。

この「オレ様化する子どもたち」の最後にこういうことが書いてある。

「その普通教育においてまず重視されるべきであるのは、「個性化」よりも「社会化」である。まず市民(的な「個」)形成にポイントをしぼるべきである。これは何も日本独特の集団主義的発想からそう言っているのではない。事実、アメリカの指導的な社会学者(プラグマチスト)であるローティも「社会化が個性化の前に来る」ことを原則として、普通教育では基礎的な知識は社会規範を身につけ、そのあとの高等教育で「個性化」をめざすべきとの二重の構造を提唱している。「個」が自立する前に「個」を超える「普遍的なるもの」に出会う必要があるし、そういう「普遍的なるもの」によって「個」が一度断念させられなければ「個」は自立しようがない。俗に「個性」を大事にしないと「個性」が潰されてしまうと危惧する人が日本には多いが、市民形成(「社会化」)のプロセスで潰されてしまうような「個性」は潰されるべきである。そういうレベルの「個性」を潰すために、「社会化」はなされるのである。「社会化」されているあいだになくなってしまうようなものは、「個性」ではない。まさに、「個性」が「個性」でありうるために「社会化」が必要なのである。「個性」は育てられたり教育されるものではない。」

そういうことだ。

横並びでみんなと同じようにしなさい、といくら注意しても出てくるのが個性だろう。
それを「世界に一つだけの花」的な思想で簡単に「個性があって、すばらしい」と言ってしまうから、こんなことになったのだと思う。

あきらかに当てていながら、「私は当ててない」というのが、その「個性」とやらの「なれのはて」だ。

もう時計は戻らないぞ。
今からでも遅くはないから、何とかしないと…。



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