考えたこと2

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デジタルギター
会社に入った頃、ちょうどシンセサイザーの隆盛期だった。1980年代だ。
ヤマハのDX-7という機種が出てきて、すごくいい音を出していた。

ヤマハ、ローランド、コルグといった日本の楽器メーカーが勢いがあり、毎年新製品を出していた。
当時、ぼくは弾けもしないのに電子楽器に興味があって、毎月のギター・マガジンとあわせて、キーボード・マガジンを買って情報収集していた。
シンセサイザーという新しい楽器の可能性がどんどん広がって、音楽を変えていくのではないか、という気持ちさえ抱いた。

月に一度関東に出張していたので、その出張の帰りに開催されていた楽器フェアにも2回ほど行った。
新製品のブースを見て歩いて、たくさんのカタログを集めて、読むのが楽しかった。
中学の頃始めたオーディオのカタログ集めの延長みたいなものだったなあ。
前にも何度か書いたような気がするが…。

その後、シンセサイザー独自の音、というのはごくごく一部残ったと思う。
でも、結局飽きられて、ほとんどが使われなくなっていった。
残ったのは、実際の楽器の音を出す、という代替的な使われ方だ。
そういう使われ方なら、半導体も安くなったし、容量も増えてきたので、素の楽器の音を録音(サンプリングという)してしまえ、というふうになった。
今のシンセサイザーというのは、ほとんどそういう考え方でできていると思う。

当時の趣味の延長でカシオのデジタルギターなどというケッタイなものを今でも持っている。
捨てるに捨てられないのだ。
当時のカシオという会社は、思いついたものを出すという面白いところがあった。
電子楽器に遅れて参入して、鍵盤楽器だけでなく、ギターもやろう、というのがデジタルギターという商品だった。

プラスチックのボディで、電池で音源を鳴らす。3万円程度だったと思う。
弦はナイロン弦。同じ太さの弦を6本張って使う。
ネックにはスイッチがあり、そのスイッチを押さえると音の高さが変わる。
要はギターの押さえるところをスイッチにして、発音は弦を弾くことでやろう、というものだ。
音は普通に合成音を出すというシンセサイザーだった。
リズムマシンが付いていて、なかなか面白かった。
しかし、アイデアはいいんだけど、飽きるのだ。

その後、ヤマハも同じような商品を出した。
光るギターとかいうコピー。これはもっと本物のギターに近かった。
当時、カシオが鍵盤が光るキーボードを出して、光るのが流行りだったから、ヤマハはネックのスイッチがコードに合わせて光るというのを出したのかもしれない。
これも買いかけたが、踏みとどまった。
もちろん、今は製造中止になっている。

そして、海の向こうでまた新しい物が出た。
Artiphon Instrument1という商品名。
記事によると、音源はアップルのタブレットやコンピューターを使う。
それにつないで音を出させる仕組みだけ売るというもの。
ギターのボディの部分がなく、弦の部分はスイッチが6つ並んでいる。
置いて、ネックの部分をキーボードのように使うこともできる。
ヤマハの作っていたものの、ボディ部分をなくしたようなものになる。
これはKickstarterという、インターネットの出資者を募るサイトで、まだ出資者を募集中だ。
80年代のぼくだったら、迷わず出資していただろう。

でも、今は考えが変わった。
ギターはギターでいいのだ。
ギターの弾き方で、他の楽器の音をだそうとは思わない。
そんなことは、きっとわかっている人には昔からわかっていたんだろうなあ。

自分の未熟さを思いつつ、横目で見て頑張ってほしいとは思う。

新しいもの好きがどれくらいいるんだろうか。

出資の締め切りは4月13日です。



| | 考えたこと | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
勝手な脳
認知科学が発達すると、いままでぼんやりとわかっていたことに理屈がつく。

テレビなどでよくやっているが、動画の一部分が見ている間に変化しており、それがわかるか、というもの。
気づいてみれば何でこんな変化がわからなかったのだろうと思うが、気づくまでは全く見えない。
これはどうも、「非注意性盲目」ということに基づくものらしい。

脳科学上も、人間が目で見た情報をすべて処理できているとは言えないらしい。
脳がオーバーフローしてしまうからだろう。

コンピューターのファイルでも、音に比べて動画はケタ違いの情報量になっている。
脳がオーバーフローするのもわかる。

だから、脳は見ようとする情報を元に、視覚で得た情報を選択する。
それに気を取られてしまうから、見ようとするもの以外の部分が見えない。
網膜には写っていても、脳は認識しないということだ。

それを言っているのがフランスの哲学者、アンリ・ベルクソンの言葉。

「心が受け入れるものしか目には見えない」

見ているつもりでも、全部は見えていなかったりする。
本当にそうなのだ。

有名なのは、バスケットボールの試合で、特定のチームのパスの回数を数えるように言われてビデオを見せるもの。
パスの回数に注意がいくと、ゴリラのぬいぐるみを着ている人が画面に入ってきても、半分の人が気がつかない。
非注意性盲目の状態になる。
これは本当によくできている。
おそらく、途中からビデオを見た人はすぐに気がつくのだろうが、パスに気を取られていると全く気がつかない。

目に見えているものを、脳がオーバーフローするので、カットするのだ。

いくら脳科学が発達しても、脳の能力を上げるのは難しいのだろう。

それが人間らしさにつながっているからなあ。


| | 考えたこと | 12:09 | comments(0) | trackbacks(0) |