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2013.07.20 Saturday
ナントカの自由
ぼくらの回りには、いろんな自由がある。
信教の自由、職業選択の自由、表現の自由…。 Wikipediaによると、「日本国憲法においては、内容は経済的自由権、精神的自由権、人身の自由に大別することができる。精神的自由権には、思想・良心の自由や信教の自由、表現の自由、学問の自由などが含まれる。経済的自由権には、職業選択の自由や営業の自由、財産権の保障が含まれる。人身の自由は、奴隷的拘束の禁止や不当逮捕などの禁止による被疑者・被告人の人権保障(罪刑法定主義・適正手続)などからなる。」 ナントカの自由を憲法で保障しないといけない理由は、「近代憲法は、『各個人はそれぞれかけがえのない価値を持ち、その人格は最大限に尊重されなければならない。同時に、各個人は互いにまったく独立しており、自らの考えのみによって行動することができる』という考えの基に立っています。逆に言えば、人間は本来そのような自立した個人であるからこそ、個人が最大限に尊重され、自由が確保されるべきなのです。」ということらしい。 しかし、この前提が崩れたら、憲法で自由を保障する根拠はなくなる。 各個人が、ただ生きているというだけで、かけがえのない価値を持つだろうか。 各個人が、本当に、互いにまったく独立しており、自らの考えのみによって行動することができるだろうか。 そんなことはあり得ないと思う。 亡くなった池田晶子が臓器移植について書いた文章がある。 「人が、死ぬのを恐れて、他人の臓器をもらってまで生きたいと思うのは、なぜなのだろうか。 生存していることそれ自体でよいことである、という、人類始まって以来の大錯覚がここにある。しかし、生存していることそれ自体は、生まれ落ちた限りサルにでもできることで、いかなる価値も、そこにはない。それが価値になることができるのは、人がそれを「善く」生きようと努める、そこにしかあり得ないのだ。」 この、「人類始まって以来の大錯覚」を持っている人が多すぎる。 だから、世界に一つだけの花とかいう歌がもてはやされるのだ。 ぼくらは、資本主義の社会を選択している。 この体制は、基本的には競争社会だ。 正しい競争こそ、社会をより豊かにできる、というような考えだと思う。 でも、それだけでは個人にとって厳しすぎるので社会保障という考えができた。 それらを併用した理念を日本は持っている。 したがって、憲法上、国民は教育されなければならない。 ただ生きているだけではなく、善く生きるためにだ。 それを謳っているのが、国民の義務。 勤労、納税、子供に教育を受けさせること、が国民の三大義務になっている。 ちなみに、権利の方は生存権、教育を受ける権利、参政権の3つ。 義務であり、権利であるのは教育だけだ。 親は子に教育を受けさせることが義務であり、子どもは教育を受ける権利がある、ということだ。 よく、義務教育というのは子どもには教育を受ける義務がある、と言われるがこれは間違い。 子どもは教育を受ける権利がある。 それが、小学校6年、中学校3年の義務教育。 これがちゃんと機能しているのか。 ちゃんと機能しているなら、今の若者たちは暴動を起こしていると思う。 それほどの世代間格差がある。 「試算によれば、厚生年金の場合、1940年生まれ世代と2010年生まれ世代との間で受益・負担の差額に約6000万円の格差が生じるといわれている。」 おまけに働き口がなく、就労の義務を果たそうとしても、果たせない。 その原因の一つは、義務教育がちゃんと機能していないからだと思う。 高齢者に保証をすることも大事だが、若者の過度の負担をどうするのか。 そんなことを議論し、正しい道筋を引くのが政治の仕事だ。 残念ながら、今回の選挙でもそんなことは争点になっていない。 官僚、政治家みんなで若者を食い物にしている。 だから、きっと投票率は低いだろう。 それは教育の貧困を表しているのだと思う。 |
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