考えたこと2

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人はどれほど自由か
ぼくらは、生まれたときから基本的人権があり、自由であるということになっている。
まだまだ歴史は浅いが、そういういい時代に生まれた。
だから、自分は自由だと思っている。
でも、人間にはいろんな制約がある。
運命と言ってもいい。
だから、自由である、といってもそんなに自由であるわけではないと思う。

生まれたということが、すでに制約のかたまりだ。
昔なら、生まれた時点でほとんどが決まった。
現代ではそこまでは固定されないが、それでもかなりの部分は決まる。
生まれた国、話す言葉は大きな制約だ。
国で体制が決まるし、教育も決まる。豊かさも決まる。
今の日本は経済成長はほとんどないが、モノはあふれている。
小学生が携帯を持っている国などほとんどないだろう。

そしてどの親に生まれるか、どの家に生まれるか、ということも大きな制約になる。
階層の固定化というようなことが問題になっているが、社会の教育制度がうまく機能しないと、固定化してしまう。
今の日本など、義務教育が崩壊しているから、まさに固定化の道をたどっている。
余分な話になるが、そういう意味でも教育は大事なのだ。

そのほかにも、親の考え方や商売なども子供の自由を制約する要因だ。
もちろん、姿かたちなど、遺伝的な要因もある。

つまり、ぼくらは自由、自由と言っているが、そんなに自由ではない。
むしろ、自由でないことがほとんどだ。
それでも、自ら望めば(望むかどうかも自由ではないが)、少しは生まれた時から背負っている枠組みを変えることができる、という程度の自由が普通ではないか。

自由であることが大事なのではなく、自由であると思えることが大事なのだろう。

もともと、生物としての人間は自由だが、社会で生きる人間は不自由だ。
それが社会というものであり、そうしないと人間という種は滅びるのだろう。
だからこそ、人間は自由を求める。

もっとも、真に自由であったら、どう生きていったらいいのかわからず、困るのも事実なのだ。

ナントカの自由、カントカの自由など、いろんな自由がある。
でも、それが本当に自由か、よく考えたら、いや、自由でない方がいい、という人もたくさんいるだろう。

それはまた今度。


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