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2013.07.18 Thursday
人はどれほど自由か
ぼくらは、生まれたときから基本的人権があり、自由であるということになっている。
まだまだ歴史は浅いが、そういういい時代に生まれた。 だから、自分は自由だと思っている。 でも、人間にはいろんな制約がある。 運命と言ってもいい。 だから、自由である、といってもそんなに自由であるわけではないと思う。 生まれたということが、すでに制約のかたまりだ。 昔なら、生まれた時点でほとんどが決まった。 現代ではそこまでは固定されないが、それでもかなりの部分は決まる。 生まれた国、話す言葉は大きな制約だ。 国で体制が決まるし、教育も決まる。豊かさも決まる。 今の日本は経済成長はほとんどないが、モノはあふれている。 小学生が携帯を持っている国などほとんどないだろう。 そしてどの親に生まれるか、どの家に生まれるか、ということも大きな制約になる。 階層の固定化というようなことが問題になっているが、社会の教育制度がうまく機能しないと、固定化してしまう。 今の日本など、義務教育が崩壊しているから、まさに固定化の道をたどっている。 余分な話になるが、そういう意味でも教育は大事なのだ。 そのほかにも、親の考え方や商売なども子供の自由を制約する要因だ。 もちろん、姿かたちなど、遺伝的な要因もある。 つまり、ぼくらは自由、自由と言っているが、そんなに自由ではない。 むしろ、自由でないことがほとんどだ。 それでも、自ら望めば(望むかどうかも自由ではないが)、少しは生まれた時から背負っている枠組みを変えることができる、という程度の自由が普通ではないか。 自由であることが大事なのではなく、自由であると思えることが大事なのだろう。 もともと、生物としての人間は自由だが、社会で生きる人間は不自由だ。 それが社会というものであり、そうしないと人間という種は滅びるのだろう。 だからこそ、人間は自由を求める。 もっとも、真に自由であったら、どう生きていったらいいのかわからず、困るのも事実なのだ。 ナントカの自由、カントカの自由など、いろんな自由がある。 でも、それが本当に自由か、よく考えたら、いや、自由でない方がいい、という人もたくさんいるだろう。 それはまた今度。 |
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