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2011.03.15 Tuesday
リスク
リスクの期待値というものがある。
想定外のことが起こる確率に、被害の額をかけたものになるだろう。 その被害がカウントできないくらい大きいという事になると、それはやらない方がよい、ということになる。 原子力発電はその類のものではないか。 果たして人間は核分裂をコントロールする事が、できるのだろうか。 たしかに、40年ほどうまくやってきた。 やり始めた人たちは、それがアブナイものだという意識を持っていた。 ぼくらが中学のころ、東海村ができて、原子力発電というものを知った。 日本はその先端を行くべき国だ、ということを教えられた。 資源がない日本は、原子力を使う、という必然性もあった。 そして、そのシステムは最後には廃棄した燃料も上手に使って、理想的なエネルギー供給ができるという計画だった。 そして、原子力工学部という工学分野ができた。 工学、というくらいだから、実用化が前提で研究する。 学科としては、今は関東と北陸に8つしかないが、当時はたくさんあった。 はやり廃りがあるのだろう。 創世記の人たちは、使命感を持って原子力発電に取り組んだと思う。 原子力に対する畏怖があった。 それは本来人間がコントロールするべきものではないのだ。 それから40年が経ち、その畏怖がなくなった。 原子力を扱うことが、惰性になったのだ。 動燃の事故は1997年の3月11日に起こった。 奇しくも今回の地震の発生と同じ日。 その時に、杜撰な管理状況が明らかになり、いやな予感がした。 原子力に対する畏怖が感じられなかったからだ。 その時から、原子力発電はうさんくさい物になった。 電気会社が原子力はクリーンエネルギーだとか、いかに安全か、という宣伝がおかしく聞こえるようになった。 そして、14年後想定外の事故がおこった。 これからどうなるのかはわからない。 まだ収束していないからだ。 それでも、東電の記者会見を見ていると、ひとつ確かなのは、原子力に対する畏怖の心である。 それが感じられない。 どうなるにせよ、すぐに原子力エネルギーを使わずに電力需要を満たすことはできない。 でも、日本は世界に先駆けて、クリーンな発電を開発すべきだ。 どんな形でも、その努力をするべきだと思う。 |
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