考えたこと2

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リスク
リスクの期待値というものがある。
想定外のことが起こる確率に、被害の額をかけたものになるだろう。

その被害がカウントできないくらい大きいという事になると、それはやらない方がよい、ということになる。

原子力発電はその類のものではないか。

果たして人間は核分裂をコントロールする事が、できるのだろうか。

たしかに、40年ほどうまくやってきた。
やり始めた人たちは、それがアブナイものだという意識を持っていた。
ぼくらが中学のころ、東海村ができて、原子力発電というものを知った。
日本はその先端を行くべき国だ、ということを教えられた。
資源がない日本は、原子力を使う、という必然性もあった。
そして、そのシステムは最後には廃棄した燃料も上手に使って、理想的なエネルギー供給ができるという計画だった。

そして、原子力工学部という工学分野ができた。
工学、というくらいだから、実用化が前提で研究する。
学科としては、今は関東と北陸に8つしかないが、当時はたくさんあった。
はやり廃りがあるのだろう。

創世記の人たちは、使命感を持って原子力発電に取り組んだと思う。
原子力に対する畏怖があった。
それは本来人間がコントロールするべきものではないのだ。

それから40年が経ち、その畏怖がなくなった。
原子力を扱うことが、惰性になったのだ。

動燃の事故は1997年の3月11日に起こった。
奇しくも今回の地震の発生と同じ日。
その時に、杜撰な管理状況が明らかになり、いやな予感がした。
原子力に対する畏怖が感じられなかったからだ。

その時から、原子力発電はうさんくさい物になった。
電気会社が原子力はクリーンエネルギーだとか、いかに安全か、という宣伝がおかしく聞こえるようになった。

そして、14年後想定外の事故がおこった。

これからどうなるのかはわからない。
まだ収束していないからだ。
それでも、東電の記者会見を見ていると、ひとつ確かなのは、原子力に対する畏怖の心である。
それが感じられない。

どうなるにせよ、すぐに原子力エネルギーを使わずに電力需要を満たすことはできない。
でも、日本は世界に先駆けて、クリーンな発電を開発すべきだ。
どんな形でも、その努力をするべきだと思う。


| | 考えたこと | 21:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
諦めること
諦めるというのは、ある種大事なことだ。

諦めなければ、前に進めないこともある。

くよくよしていても、仕方がない。
また、やけになっても仕方がない。

諦めることで、初めてリスタートできるのだと思う。

でも、勘ちがいしてはいけない。
自分でコントロールできることを、諦めるのではない。
がんばれば、何とかなることは、何とかできるだろう。

自分ではどうにもならないことを、諦めるのだ。

どうしてこんなになったんだろう、とか、自分は悪いことはしていないのに、とか思いがちだ。
でも、自分ではどうにもならないことは、どうにもならないのだ。
誰かを恨んでも仕方がない。

だから、諦めることは大事だ。

決して諦めてはいけない、などというのは、自分の努力で何とかできるときのハナシ。

どうしようもない時は、恨まず、諦めることだ。

それが前を向いて進むことになる。


| | 考えたこと | 20:37 | comments(0) | trackbacks(0) |