考えたこと2

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質問はありませんか?
よくセミナーなどで終わったあと、「質問はありませんか?」と聞かれる。

この意味は、「何かわからなかったところがあれば、聞いて下さい」ということだろうと思っていた。
この、「わからなかった」というところがミソだ。

たいがい、質問する人は少ない。
ここで質問したら、「わからなかった」という事になるからだろう。
だから、質問は、セミナー等が終わってから、直接講師のところに行って尋ねる人が多い。

どうしても質問がなく、時間が余っていれば、主催者などがサクラで質問をする、というのも多かったりする。
できあいの質問で、まあ、普通のひとなら当然そうであるはず、という答えが返ってくる。

また、質問という名を借りた「自己主張」であったりもする。
これは、「…とおっしゃいましたが、まことにその通りであって、…、」以下、自説を延々と主張するというものであり、何も質問していない場合がほとんど。

質問というのは、そういうものか、と思っていた。
しかし、海外では(特に欧米)質問はそういうものではない。

確かに、映画の場面等で階段教室で大学教授が説明しており、一段落したところで「Any question?」とやると、何名かすぐに手が上がる。
あれは、聞きながら質問を考えているのか…。

質問が出ないのは、悪い講義なのだ。
日本では、「わからなかったところがあれば」というふうに考えて、質問をすると「自分はわからなかった」という事になる。
しかし、本当は質問は「わかった」からこそできるものである。
Aという意見は理解した。それでもなぜAになるのか、おかしいのではないか?というような質問は理解できたからこそのものだ。
だから、質問が出る講義はよい講義だし、質問できるのはよい生徒だろう。

以前、アメリカでプレゼンをしたことがある。
その時は阪神大震災の直後で、毎晩仮のオフィスでパソコンとにらめっこしながら資料を作り、必死で覚えていった。
自分の専門の部分もあるが、そうでない部分は、聞いて回った。
何せ、初めての事なので、どうなるのかわからない。
心臓が飛び出しそうな感じで、最初のプレゼンの場所、デトロイトに立った。

時々忘れながらも、概略は自分でもまあまあの出来だったのだが、その時に質問がたくさん出た。
もちろん、専門外の人に専門のことをプレゼンしているのだから、質問が出て当たり前だ。
そら、わからんわな…、と冷や汗をかきながら、何とか質問に答え、その場をしのいだ。

事務所を出るときに、聞いていた人の一人が「Very good」 と言ってくれて、サンキューと言ったものの、どぎまぎしたことを覚えている。
帰りにアメリカ事務所の外人も、「よかった」といってくれて、「わかりやすかった」と言われた。

結局その時はアメリカで同じ事を7回ほど繰り返してしゃべった。

最後の方は聴衆の目をみて話せて、余裕だったが、その時に得た教訓は「質問は出ないといけない」というものだ。

もちろん、日本人がはるばるやってきて、プレゼンしているのだから、何か質問しないと悪い、ということもあるだろう。

しかし、その時に何度も「わかりやすい」と言われたのは、本音のほめ言葉だったと思う。
日本では「わかりやすかった」と言うと、当たり前という事になるのだろうが、アメリカでは違う。
技術のプレゼンを相手にわかるように話すのは、難しいものだ。
自分でも難しい事を話しているのだから。

日本で、わからないところを聞いて回っているとき、ある人が、あまりにぼくがわからないので、「たとえ話」をしてくれた。
たぶん、これがよかったのだと思う。
これを入れて、プレゼン全体が「わかる話」になった。

だから、質問が出ないプレゼンはよくないプレゼンだと思っている。

残念ながら、そんなプレゼンができたことはめったにない。


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