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2010.07.09 Friday
わからないままほっておく力
むかし、会社勤めをしていたころ、新入社員が入ってきたら、まずはみんなの雑用をやらせた。
仕事だからちゃんとやらないといけない。 しかし、ちゃんとやらせるためには、一通りの説明では難しい。 いろんな場合があるからだ。 関係部署からのデーターやFAXのファイルとか、データーの転記とかいう仕事であり、そのデーター一つひとつの意味とか、どこの部署はどういう役割だとか、そもそもこのテストはなぜしているのかとか…、説明しだすときりがない。 そういう時、一人の若い女性社員が新入社員に、「なんしか、こうすんねん」と言って教えていた。 もちろん、大ざっぱな説明はした上で、「なんしか…」という締めくくり。 「そのうち、わかってくるから」という追加の説明があった。 これはエライ。 この教え方で納得する新人はOKという事になった。 というのは、それが一種の能力だからだ。 「わからないことを、わからないままほっておく力」、これが大事だ。 なぜか。 とりあえず、わからないことは置いておいて、決められたことをやるというのは、何かを始める時には必要なことだ。 疑問を疑問のまま置いておく力と言ってもいい。 実際、やっているうちにわかってくる。 本当にわからないことは聞いてもよい。(ただし、メモを取らないヤツはダメだ。) そうなると、教える方も本当にわかるように教えてくれる。 この感覚をつかめるかどうか、これが勝負の分かれ目だろう。 とにかく、わからなければできません、とか、なぜこれはこうなんですか?という質問をしまくる新人は興ざめする。 体験しないと、理解しにくいこともあるし、実際に「わかる」という感覚を得るには、時間がかかるものだ。 その感覚を持っていないと、伸びない。 他のことはよくわからないが、エンジニアとしては苦しいと思う。 しかし、そういう「いい加減さ」はどこから来るのだろうか。 それは何となく「ムダなもの」や「どうでもいいもの」に興味を持つとか、多趣味であるとか、逆に何かに一直線だとか、そういうところと関係があるかもしれない。 許容範囲が広いのか。 とにかく、「いい加減」なのだ。 そして、ぼくは、この「いい加減さ」こそが教養であると思っている。 教養がある、ということは、とりあえず疑問を疑問のままにしておける力があるということだ。 教えてもらって、わかることはしれている。 自分でわかることが必要なのだ。 教える方が、これは実際にやっているうちにわかる、というのなら、そうしてみよう、という余裕が必要だ。 そう、教養とは余裕であるかもしれない。 疑問を疑問のまま放置しておける力は、結局、何に対してもより深い理解につながるのではないか。 だいたい、疑問を疑問のまま放置しておくことができないなら、答えがない問いに耐えることができないではないか。 何かまとまりがないが、そんなことを長いこと考えている。 また、この話はそのうちに。 |
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