考えたこと2

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教養としての落語
東京の山手線には新しく高輪ゲートウェイ駅ができたが、駅の名前の募集をしたときに「芝浜駅」というのも候補にあったらしい。
立川談慶という落語家が、この「芝浜」という名前にちなんだ江戸落語があり、昔の人たちはそれを知っているのが教養だった、という記事を書いていた。
ぼくは大学時代は落研だったから、芝浜という演題も知っている。
でも、それを若い人たちに求めるのもなあ、という気がする。

彼は「ビジネスエリートがなぜか身につけている 教養としての落語」という本も出していて、「教養としての落語」は大事だというスタンスなんだろう。
江戸落語なら「粋」という江戸っ子の文化につながっていて、そういうことも言えるかもしれない。
でも、これだけ娯楽が多様化してきた今、落語という演芸は残っていけるのだろうか。

上方落語に限れば、もう古典落語は年寄りしか聞かない、という思いで「新作落語」に生きる道を見出そうとしていると思う。
こないだ行った落語会でも、ほとんどのお客さんが高齢者。
人情噺が得意な演者ということもあったのだろう。
それにしても、若い人がいない。

今の新聞と同じで、高齢者しか見ないような芸はその人たちがいなくなると廃れる。
それは必然だろう。
だから、新作に活路を見出し、新作をメインにやる人が上方落語協会の会長になっている。

ぼくの世代ですら、歌舞伎の忠臣蔵を実際に見た人などほとんどいない。
そういう人に、そのパロディの面白さなどわからない。
芝居噺はもう成り立たないのだ。

また、お茶屋というとお茶を売っている店だと当然思うし、随所に古い大阪弁が出てきて、意味が分からないことも多い。
大衆芸能は、大衆に受け入れられてこその芸能だ。
今は古典落語でも、大幅にモダンにしてやったり、現代的なギャグを入れてやったりしている演者も多い。
そうしないとウケないのだろう。

だから、最後は新作落語をやらないと生き残れないと思う。
亡くなった枝雀がは古典落語をやったが、その中に枝雀独自のキャラクターを入れてやっていた。
まだまだ古典落語が通じる時代だったが、あれは現在でも生き残る方法だと思う。

今の会長である笑福亭仁智は野球のネタや、源太というやくざの舎弟のネタなど、本当に面白いネタがある。
上方落語は、笑わしてなんぼの世界なのだ。

そういう意味では、上方落語は教養になってしまったらおしまいだろう。
吉本新喜劇が強いのは、常に変わっているからだ。
今の新喜劇はぼくらにはあまり面白くない。でも、若い人たちには人気がある。
それが大衆芸能というものだと思う。

教養としての落語は江戸落語に任せて、上方落語は変わっていくべきだと思う。



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