考えたこと2

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パソコン普及率で思うこと
日本の若者はパソコンをあまり使わないらしい。

OECDの国際成人力調査によると、16歳から24歳までの若者が職場や家庭などでパソコンを使う頻度は、加盟国中最低水準。
学習到達度調査でも、学校や家庭でコンピュータを使えると回答した生徒の割合は、ほとんどの質問項目で47カ国で40位以下。

インターネットの普及率は高いが、パソコンの利用率は低いということだ。
大学生でも、パソコンよりはスマホという学生が増えた。
家に使えるパソコンがない、という学生もたまにいる。
そういう家庭でもWifiはつながっていて、スマホは使えたりするのだと思う。
親がパソコンを使っていないと、必然的に子供も使わなくなる。

おそらく、スマホが普及する前、ガラケーの時代はパソコンはもう少し家庭にあったと思う。
うちの長男はパソコンが最初で、その後に携帯だった。
次男はもう携帯メールだったが、後でパソコンになった。
今はスマホの時代だ。

ちょっと前まではパソコンが主で、スマホが従だったが、今は逆転している。
パソコンで開いても、幅の狭いスマホ用の画面が出たりするし、明らかにスマホでの利用をメインで考えているとしか思えないサービスもある。
ラインはぼくはChromeの拡張機能で入れているが、スマホがメインで使うように作られている。
ここのところ、そういうサービスも増えた。
そんなわけで、パソコンを使わない若者が増えている。

大学でノートPCを推奨しているところも減ったと思う。
それは、高校で情報の授業をやる、ということになったからだ。
それまでは大学で情報の授業をやっていて、そのためにノートPCを買わせていたりした。
2006年に高校の情報の授業が必修になって3年経ち、大学は情報の授業を必修でなくしたり、そのものをやめたりした。
当時まだノートPCが高かったのもあったと思う。
家庭の負担を減らそうということだ。

しかし、高校側は全く違った。
多くの高校で情報の授業などやっていなかった。
他の教科に読み替えたり、パソコンが得意な先生が適当?にやっていたりしたのだ。
当時、情報の授業の未履修が問題になったが、結局高校の先生たちは大学入試に出ないという理由で、情報の先生も採用しないし、教えることもしなかった。
学校の情報化が遅れている(当時から民間企業よりも遅れていた)こともある。
教育委員会など、未だに紙と鉛筆の世界ではないか。
その証拠に、世界史は覚えることが多くて不利ということで、履修漏れが問題となったのは知っていると思う。
情報は問題にならなかったが、こちらのほうが世界史よりもひどい。
その状況を文科省は放置している。

文科省はあわてて大学でAIを教えるという計画を立てているようだが、そんな状態ではない学校もたくさんあるはず。
何を教えるのか知らないが、本気でやるのなら、行列やベクトルが必要であり、それは至難の技だ。

要するに、初等・中等教育の失敗のツケを大学に持ってこようとしているのだ。
大学も入試の多様化などといって、推薦・AOの試験を増やしたり、入試の科目を激減させたりして、志願者を増やそうとしたツケが回っている。

この国は若い人たちの将来をちゃんと考えて教育などしていない。

今の教育を無事に続けようとしているだけだと思う。

亡くなった哲学者の池田晶子はこう書いている。

「 私は直には知らないことだが、敗戦の焼け跡、つまりまさしく最悪の状態から立ち上がってくる人々のパワーというのは凄いものだったと、知っている人々は口を揃えて言っている。しかし、立ち上がってくるその方向を、どうやら間違えていたらしい。五十数年かけて、われわれは一国を滅ぼしつつあるらしい。五十年かけて滅んだものを立て直すには、通例二、三百年はかかるというのは、さる碩学の言である。建造物ではない。壊れた建造物なら、数年数か月で再建できるが、いったん壊れた国家や社会を再建するのは、容易なことではない。ことは人心の問題だからだ。人心の教育、再教育には、何世代にもわたる忍耐と覚悟とが必要なのだと。
 このような議論の運びには、その通りと納得しつつも、だからどこからそれを始めるのだ、始められるのは誰なのだ、という現実的な疑問に、いつもハタとぶつかってしまう。やっぱりニワトリとタマゴなのである。教育こそが必要なのだが、教育する人を教育する人がいない。警察官を取り締まる人がいないのと同じことである。」

ぼくも、教育する人を教育する人がいないのが、問題だと思う。




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