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2014.09.02 Tuesday
「学校は変」
もう一つ、学校の話題。
「学校は変」という記事を読んだ。 さすが保護者は東大の教授である。 大学教授というのは比較的時間が自由になるから、PTAに関わることができる。(こういう発言も職業差別的にはダメなんだろうなあ) 実際に行ってみると、保育園の時と違って、PTAは女性の集まりだったという。 この人、ジェンダー論研究者だから、性差別には敏感だ。 自分がいる場で、先生が「あとはお母さん方で適当に決めていただいて」という「差別発言」があったりする、という。 まあ、自分でも変人だとわかっているので、それはかまわない。 それにしても、おかしなことが、自分の子供が行っている公立の小学校で起こっている、という。 「ワケのわからない規則」が多い。 ちょっと長くなるが、引用すると、 「まず戸惑ったのが、わけのわからない規則の多さです。6年生の保護者会の場で、担任の先生が「シャープペンシルは認めません」と言うので、「なぜですか?」と聞くと、「正しい字を書けるようにするためです」。 「シャーペンでは正しい字が書けないという科学的な根拠があるのですか?」と聞くと、「ありません」。「根拠もないのに、なぜそういう規則を課すのですか?」「キャラクターものなどもありますから」「それはなぜダメなのですか?」「値段が高かったりして……」「ならば、図柄のないシャーペンならよいのではないですか?」。 もう禅問答です。「それは規則では許されません、なぜならばそれは規則だからです」という同義反復。どう考えても教師自身が、自分の頭で考えて発言しているとは思えません。 これは子どもに向かって「ものを考えるな、黙って従え」というメッセージを発するもの。フーコーの指摘するような、思考停止をさせての規律訓練です。軍隊や刑務所がとるやり方で、学校という教育の場でこんなことをやるというのは、子どもを画一化された「工業製品」としてしか見ていないことの証左です。出る杭を打って、潰して、均(なら)していく、というのが実態と言わざるをえません。 日本の大学生が、日本でも、海外でも、ゼミの討論のときに黙ってしまうのは、こうした思考停止と関係しています。規則や現状を追認するのではなく、「問題点に気づき、論理的に考え、言語化し、議論する」というトレーニングをさせない環境を、日本の公教育自体が作り出しているからです。これでは独創的な発想は生まれず、一歩世界に出ると、沈黙するだけです。」 普通の人なら、まあ仕方ないか、と聞き流すところに引っかかり、突っ込むところはさすがである。 この人の言っていることは正しいと思う。 この後は、家庭における役割とジェンダー(女性がやるか、男性がやるか)という話になって、講演で聞いた女性の教育長を批判している。 申し訳ないが、ぼくはジェンダーの話より、この話の方が問題だと思う。 義務教育の問題は教科書や教える内容の問題よりも、教師の質の問題であり、そこを底上げしないと日本の将来はないと思う。 特に、現代のように「考えること」を要求する仕事しか、正社員としてはなくなってきた時代だからこそ、そこを何とかしないといけないように思うのだが…。 ぼくらの小学校の頃は、そんなに校則はなく(あったかもしれないが、意識しなくてもよかった)、シャープペンを持って行ってもよかった。 世の中では先生はえらいものだ、と思っていて、年配の先生も多かった。 ウチの親父は「でもしか教師」という言葉を使って、あまり先生のことをよくは言っていなかったが、子供心にそういうことは言ってはイケないのではないか、と思っていた。 世の中にそういう空気があったんだろう。 そのせいか、学園ドラマも先生が主人公で、生徒は脇役だったなあ。 もう今は学園ドラマもなくなってしまったが…。 「青春とは何だ」「これが青春だ」は日曜日のゴールデンタイムにやっていた。 つらつらと、小学校の時の先生の顔を思い出してみると… 小学校1年生の担任は女性のT先生。当時40歳くらいだったろうか。 2年生はM先生。こちらも女性だった。 3年生の時の先生は思い出せない。誰だったかな…。 4年生の時はK先生。女性の年配の先生だった。 5,6年生はI先生。男性の当時30代だったと思う。今でも年賀状のやりとりをしている。 当時(昭和37年〜43年)の小学校の先生は、旧制の教育を受けた先生がほとんどだっただろう。 高度成長の時代の入り口で、子供の数が多く、クラスの人数も45人程度が普通だった。 今の小学校のように、大学生がお手伝いで入ってくることなどなく、全く一人で教えられていた。 年に2週間だけ、教育実習があったと思うが、ほとんど覚えていない。 ぼくが6年生の時に、初めて学校を出たての女性の先生が1年生の担任になって、何となくこんな若い人も先生ができるのか、と思った事を覚えている。 世の中が、先生がエライものだという雰囲気があったから、授業中に騒ぐやつなどいなかった。 ちょっとやかましくなっても、先生が一喝すれば黙った。 先生は怖かったのだ。 給食費や教材の費用、修学旅行の積立などは、事情があって出せない人もいたかもしれないが、お金があるのに滞納するような家庭はなかった(と思う)。 今のように、その子の頑張りに応じて成績をつけることなどしない。 その子なりに頑張ったから、5がつくなどということはあり得なかった。 世の中はそんな優しい評価で動いていないからだ。 第一、そこには先生の主観が入る。どうしても先生の好き嫌いが入ってしまう。 どんなにエライ人でも、完全に公平にはできない。それが人間というものだ。 だから、客観評価(要はテストの点数)で評価する。 主観評価は別のところに書いてあった。 この記事を書いた先生は不満かもしれないが、ジェンダーの問題も無視されていた。 運動会は男女別に種目があったし、出席簿は男性が先だった。 そんな、今の教育からすれば、おかしなこともされていたが、そんな時代だった。 ぼくはそれでよかったと思う。 話は戻るが、この人が言っている「どう考えても教師自身が、自分の頭で考えて発言しているとは思えません」という事が深刻なのだ。 ぼくも子供の小学校に何度か行って、オカシイと思ったことがある。 考えたら、わかるはずなのに、考えてないのだ。 学校というところに長くいると、思考停止になってしまう。 そんなシステムになっているのではないか。 それは根が深い問題だろう。 |
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