考えたこと2

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「学校は変」
もう一つ、学校の話題。

「学校は変」という記事を読んだ。

さすが保護者は東大の教授である。
大学教授というのは比較的時間が自由になるから、PTAに関わることができる。(こういう発言も職業差別的にはダメなんだろうなあ)

実際に行ってみると、保育園の時と違って、PTAは女性の集まりだったという。
この人、ジェンダー論研究者だから、性差別には敏感だ。
自分がいる場で、先生が「あとはお母さん方で適当に決めていただいて」という「差別発言」があったりする、という。
まあ、自分でも変人だとわかっているので、それはかまわない。

それにしても、おかしなことが、自分の子供が行っている公立の小学校で起こっている、という。
「ワケのわからない規則」が多い。
ちょっと長くなるが、引用すると、

「まず戸惑ったのが、わけのわからない規則の多さです。6年生の保護者会の場で、担任の先生が「シャープペンシルは認めません」と言うので、「なぜですか?」と聞くと、「正しい字を書けるようにするためです」。
「シャーペンでは正しい字が書けないという科学的な根拠があるのですか?」と聞くと、「ありません」。「根拠もないのに、なぜそういう規則を課すのですか?」「キャラクターものなどもありますから」「それはなぜダメなのですか?」「値段が高かったりして……」「ならば、図柄のないシャーペンならよいのではないですか?」。
もう禅問答です。「それは規則では許されません、なぜならばそれは規則だからです」という同義反復。どう考えても教師自身が、自分の頭で考えて発言しているとは思えません。
これは子どもに向かって「ものを考えるな、黙って従え」というメッセージを発するもの。フーコーの指摘するような、思考停止をさせての規律訓練です。軍隊や刑務所がとるやり方で、学校という教育の場でこんなことをやるというのは、子どもを画一化された「工業製品」としてしか見ていないことの証左です。出る杭を打って、潰して、均(なら)していく、というのが実態と言わざるをえません。
日本の大学生が、日本でも、海外でも、ゼミの討論のときに黙ってしまうのは、こうした思考停止と関係しています。規則や現状を追認するのではなく、「問題点に気づき、論理的に考え、言語化し、議論する」というトレーニングをさせない環境を、日本の公教育自体が作り出しているからです。これでは独創的な発想は生まれず、一歩世界に出ると、沈黙するだけです。」

普通の人なら、まあ仕方ないか、と聞き流すところに引っかかり、突っ込むところはさすがである。
この人の言っていることは正しいと思う。
この後は、家庭における役割とジェンダー(女性がやるか、男性がやるか)という話になって、講演で聞いた女性の教育長を批判している。

申し訳ないが、ぼくはジェンダーの話より、この話の方が問題だと思う。

義務教育の問題は教科書や教える内容の問題よりも、教師の質の問題であり、そこを底上げしないと日本の将来はないと思う。
特に、現代のように「考えること」を要求する仕事しか、正社員としてはなくなってきた時代だからこそ、そこを何とかしないといけないように思うのだが…。

ぼくらの小学校の頃は、そんなに校則はなく(あったかもしれないが、意識しなくてもよかった)、シャープペンを持って行ってもよかった。
世の中では先生はえらいものだ、と思っていて、年配の先生も多かった。
ウチの親父は「でもしか教師」という言葉を使って、あまり先生のことをよくは言っていなかったが、子供心にそういうことは言ってはイケないのではないか、と思っていた。
世の中にそういう空気があったんだろう。

そのせいか、学園ドラマも先生が主人公で、生徒は脇役だったなあ。
もう今は学園ドラマもなくなってしまったが…。
「青春とは何だ」「これが青春だ」は日曜日のゴールデンタイムにやっていた。

つらつらと、小学校の時の先生の顔を思い出してみると…

小学校1年生の担任は女性のT先生。当時40歳くらいだったろうか。
2年生はM先生。こちらも女性だった。
3年生の時の先生は思い出せない。誰だったかな…。
4年生の時はK先生。女性の年配の先生だった。
5,6年生はI先生。男性の当時30代だったと思う。今でも年賀状のやりとりをしている。

当時(昭和37年〜43年)の小学校の先生は、旧制の教育を受けた先生がほとんどだっただろう。
高度成長の時代の入り口で、子供の数が多く、クラスの人数も45人程度が普通だった。
今の小学校のように、大学生がお手伝いで入ってくることなどなく、全く一人で教えられていた。
年に2週間だけ、教育実習があったと思うが、ほとんど覚えていない。
ぼくが6年生の時に、初めて学校を出たての女性の先生が1年生の担任になって、何となくこんな若い人も先生ができるのか、と思った事を覚えている。

世の中が、先生がエライものだという雰囲気があったから、授業中に騒ぐやつなどいなかった。
ちょっとやかましくなっても、先生が一喝すれば黙った。
先生は怖かったのだ。
給食費や教材の費用、修学旅行の積立などは、事情があって出せない人もいたかもしれないが、お金があるのに滞納するような家庭はなかった(と思う)。

今のように、その子の頑張りに応じて成績をつけることなどしない。
その子なりに頑張ったから、5がつくなどということはあり得なかった。
世の中はそんな優しい評価で動いていないからだ。
第一、そこには先生の主観が入る。どうしても先生の好き嫌いが入ってしまう。
どんなにエライ人でも、完全に公平にはできない。それが人間というものだ。
だから、客観評価(要はテストの点数)で評価する。
主観評価は別のところに書いてあった。

この記事を書いた先生は不満かもしれないが、ジェンダーの問題も無視されていた。
運動会は男女別に種目があったし、出席簿は男性が先だった。
そんな、今の教育からすれば、おかしなこともされていたが、そんな時代だった。
ぼくはそれでよかったと思う。

話は戻るが、この人が言っている「どう考えても教師自身が、自分の頭で考えて発言しているとは思えません」という事が深刻なのだ。
ぼくも子供の小学校に何度か行って、オカシイと思ったことがある。
考えたら、わかるはずなのに、考えてないのだ。

学校というところに長くいると、思考停止になってしまう。
そんなシステムになっているのではないか。

それは根が深い問題だろう。


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