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2019.12.29 Sunday
M1に思う
今年はM1を見てみた。
去年はM1で落ちた芸人が、ツイッターで審査員の悪口を言って炎上したりして話題になったが、それが逆にバカバカしくて見る気はなかったのだが、子供が見るので見てしまった。 審査員は史上最高のM1だ、とか言うが、昔のチュートリアルやフットボールアワーの方が面白かったとぼくは思う。 いろんな芸人がいて、いろんな漫才があって、それでいい。 たった5分足らずの漫才で、良し悪しを測ることには興ざめだ。 そんなものに普遍性があるわけがない。 審査員もどこまで真剣なのか、わからない。 どういう視点で、どこを評価しているのか、採点ポイントと得点表を公表すればいい。 審査員も権威付けをしているようにも見える。 自分たちは笑いに関してプロである、という傲慢さが見え隠れする。 笑いなんて、所詮自分の体験に基づいたものであり、どうとでもなるものだ、という諦観もない。 ぼくが一番違和感を感じるのは、当初シャレでやっていた(ように見えた)漫才グランプリが、今やお笑いの権威がある賞みたいになっていることだ。 若手の漫才師たちに目標を与える、ということが趣旨だったようだが、それはあくまで楽屋の内側の話。 年を経るごとに、それがどんどん権威主義的になっているように思う。 そんなことは、楽屋うちでやってくれればいい。 お笑い芸人というのは、桂枝雀が「地球滅亡」の枕で言っていたように、別に生活に必須ではない。 芸人がいなくても、笑いは存在するし、「地球滅亡」に際して役に立つ人を宇宙船に乗せるのに、わざわざ人を笑わすだけの商売の人は要らない。 笑いを生業にしている人は、そう思っているはず。 だから、笑いについて真剣に話をするのは、同業者の間のみだろう。 楽屋の外に出たら、もっと謙虚になるべきだとぼくは思う。 そういう芸人が、逆にみんなに尊敬されるのだ。 世の中が豊かだから、芸人という仕事が存在する。 食うや食わずの時代には、誰もお笑いなどにお金を払わない。 昔は河原乞食と言われて、卑しい商売だと言われた。 M1を見ていて、そういう思いがなくなっているように思う。 安いバラエティ番組全盛の時代に、M1王者の扱いは以前のレコード大賞にようになっているようだ。 昔なら、寄席で出番が増える程度だった思うが、今や民放のバラエティの仕事が増える。 だから、賞を与える方も権威が必要になる。 しかし、たった5分程度の漫才で、どんな優劣がつくんだろうか。 ついたとしても、その日限りのことだ。 それなら、観客に投票させるとか、笑いの音圧でも測定すればいいのだ。 2010年に一度M1は終了したが、そのまま終わるべきだったと思う。 所詮、お笑いなのだから。 ぼくは、そういう思いが、本当に面白い笑いを生むのだと思う。 |
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