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2019.12.26 Thursday
祝着至極に存じます
時代劇を見ていたら「祝着でございました」というセリフがあった。
よく聞いたのは「祝着至極に存じます」だが、祝着だけでも使われる。 これは完全に死語だろうなあ。 Webの辞書では、 【祝着】[名・形動]喜び祝うこと。うれしく思うこと。満足に思うこと。また、そのさま。「無事ご帰国の由、祝着に存じます」 と書いてあった。 ぼくも「祝着」は書き言葉でも使わない。 辞書には青空文庫(著作権が切れた昔の小説等のWeb文庫)の中の例文があったが、泉鏡花や宮沢賢治のものだった。 いずれも、文語体のものだ。 時代劇で使われるだけあって、古い時代の言葉であるのは間違いない。 それでも、ぼくが見る時代劇はだいたい80年代以降のもの。 そこで使われているということは、今の70代あたりには余裕で通じていたということだ。 ぼくらの習った小学唱歌の中には「夏は来ぬ」や「故郷」「おぼろ月夜」など、文語体の歌がたくさんあった。 卒業式の定番だった「蛍の光」も「仰げば尊し」も文語体だった。 意味もわからず歌っていて、だいぶ経ってから本当の意味を知ったりした。 このことは以前「係り結び」や「夏は来ぬ」に書いた。 日本が漢字を取り入れて、漢文の読み方を工夫して作った文化も文語体だ。 したがって、文語体の響きを知ることは、漢文にもつながると思う。 ちょっと前に蘇東坡のことを書いたが、漢詩はみんな文語体で読み下すから、文語体が消えていくということは、漢文も消えていくということだろう。 本格的に文語体が消えていったのは、1999年の学習指導要領の改訂だ。 これ以降、古文や漢文は必修科目として履修されなくなったということだ。 もったいないことだと思う。 日本語の成り立ちや漢字の事を考える上でも、古文や漢文は必要だと思うのだが…。 この頃に、音楽の教科書からも、文語体の唱歌は消えたのだろう。 この原因は、教員養成課程を持った新設の大学で、社会の教員免許が爆発的に増えて、その影響で他の科目が圧迫されたのだと思っている。 実際、平成28年の統計で、中学校では1種免許の数で、国語:社会:数学:理科=5:7:5:5、高校では、国語:地歴:公民:数学:理科が6:6:7:5:6となっている。 高校に至っては、地歴と公民を合計すると13となり、国語と数学の合計を超えて、圧倒的に社会の免許が多いことがわかる。 この無計画な教員免許の構成も、カリキュラムの時間数などに影響しているんだろう。 社会よりも国語(英語)や数学の方が大事なはずだ。 ぼくのいた大学では、臨床心理学を修めて、倫理社会の教員免許が取れた。 何でもアリなのだ(もちろん、真面目な学校は臨床心理で教員免許の課程はおかず、免許は出していない)。 結局文部科学省の省益(先生を増やす)ことばかり考えて、何を身につけるべきかという議論はされていなかったのだろう。 文語体がなくなったことと、仰げば尊しや蛍の光が歌われなくなったことは関係がありそうだ。 ぼやきばかりになってしまった。 もっと国語を大事にしろ。 |
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