考えたこと2

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小学13年生
ちょっと前の日経の記事に産業界から大学教授に転身した人の話があった。
東大を出た証券会社の方で、長崎大学に転身して10年間大学教授をやって、その後証券会社の研究所に戻ったという経歴。

この人が、文系の学部は要らない、という文部官僚の起こした騒ぎに対してコメントしている。

 「産業界が大学生に求めるのは、学問をきちんとやってきたかどうかで、文系も理系もない。教養教育も含めて、知的な格闘を経験してきた人材が欲しい。研究職は理系の仕事でも、研究所の経営や危機管理、研究員の教育や労務管理は文系の知見やセンスが必要だ。経済、哲学、文学、歴史などをきちんと学んだ研究者が求められている」

この人はぼくより2つ上だから、学園紛争の終わりがけに大学生活を過ごしたことになる。
どれだけ、きちんと学んだかはわからない。
ぼくなどは、落研しかやった覚えがない学生だったから、それに対して文句を言うつもりは毛頭ない。
でも、こういうことを言うときには、自分ことはいったん棚に上げないと言えないのは確か。

産業界で優秀な人は、国立の地方大学に行って、こういうことを考える。

 「この40年ほどで大学の数も学生の数も2倍になり、大学生の学力が低下しているのは事実だ。今や9割以上の大学で1年次に初年次教育と称し、リポートの書き方や図書館の使い方を教えている。高校課程の数学や英語のほか、友人のつくり方まで面倒をみている例もある。関係者はあきれて、これでは小学13年生だとぼやいている」

 「2年次にようやく教養教育に本腰が入るが、3年の後半になるとインターンシップなど就職活動の準備が始まり、4年の4〜6月あたりは就活本番でゼミも開けない。学問に打ち込めるのは実質2年程度しかなく、4年制大学の短大化が進んでいる。6年制にすれば、少なくとも3〜4年次は、じっくり腰を据えて勉強できる。東京大学など有力校が率先して6年制を導入してほしい」

まあ、学費のことも言及せず、大学の6年制などと軽く言ってしまうのは仕方ない。
悪気はないのだろう。
実際、産業界から転身して教える身になったら、大学は短大化していると思うのは確実。
それも、地方の国立大だから、結構苦しいところだ。
そういうところで、ちゃんと教えようと思ったら、昔の教養部を復活させて、その上に専門が4年くらいあってもいい、ということだ。
ただし、その議論をするなら、給付型の奨学金をセットにしないといけないだろう。
日本人はどんどん貧しくなっている。
社会保障を教育に回さないといけない。

それはともかく、「小学13年生」の議論だ。
ぼくの勤めていた大学でも、同じことが言われていた。
初年次教育は、やって当たり前。
転職して赴任した2004年4月に、結婚式場を借りて新入生のオリエンテーションをするという。
「フレオリ(フレッシュマンオリエンテーション)」と業界用語で言っていた。

びっくりしたのは、なんとそこで新入生がグループに分かれて「ハンカチ落とし」や「名前覚えゲーム」をするという。
去年は着ぐるみを着た若い講師もいたらしい。
この先生なら腰を抜かすところだ。
ぼくも耳を疑ったが、それは新入生が友達を作るためにとても役に立つということだった。(形を変えて、それは今も続いている)
それをやって、新入生の定着率が上がれば、学校としてはハッピーだ。
役に立つなら、やったらいいとその時思ったのだが。
それはぼくの過ごした大学生活からは想像もできないことだったし、カルチャーショックだった。
国立長崎大学でも小学校13年生と言っているんだから、偏差値的に苦しい大学は何と言ったらいいのか…。

でも国立だからこそ、初年次教育が高校課程の数学や英語で済んでいる。
苦しい私学は、英語など中学からだし、アルファベットの書き方からやっているところもあった。
もちろん、数学(算数)は小学校だ。
分数や割合の概念からやらないといけない。
もちろん、そんなことを堂々とやっているところは良心的な学校だと思う。
でも、そんなものは授業化できないから、課外でやる。
課外だから強制力は持たせられない。
ぼくは学習支援室、というようなものを作って細々とやった。
だから、本当に来てほしい学生は来ない。

実際、今なら授業でそんなことをやったら、文科省から「大学レベルの授業でない」と文句がつく。
でも、そんな学校は単位を出さないと、受けてもらえないという「マジメな大学」の苦労なのだろう。
本当にそれを学生のためにやっているのだ。

何度も同じことを書くが、小学校のレベルで行き詰っている学生がどれだけたくさんいるか、ということだ。
その人たちが大学に入学を許される、ということももちろん問題だ。
しかし、それも棚に上げよう。
どうして、彼らが高校まで卒業できたか、ということだ。
文科省は、学力が大事だというのなら、学力で義務教育を見直すべきだ。
6年経ったら、小学校の課程は修了ということではないだろう。
3年経ったら、中学校の課程は修了ということではないだろう。

質の保証、と文科省は大学に言っているが、その言葉を小学校にも、中学校にも適用すべきだ。
6年なり、3年なりで最低限これを修得する、ということをきちんとやるべきだろう。
そこが基礎なのだ。
それがわかっていないまま、上のレベルは教えられない。
小学校のところで躓いた彼らにとっては、気の毒に、まったくわけのわからない授業が、増えていくことになる。
そのうえ、上の学校では、下の課程を教えることができないのだ。
それも文科省が決めたルール。
そんな役所のような学校では、落ちこぼれはシンドイ。

結果的に文科省は落ちこぼれをなくすために、真の意味での落ちこぼれを増やしたんだと思う。

この硬直化した状況を何とかしないと、いくら大学を変えても仕方ないと思う。

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