考えたこと2

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2025年問題
近頃、何年になったら何が問題になるということで○○年問題、という言葉が増えた。
こないだ見た記事は2025年問題というもの。
これは「団塊の世代が75歳以上の後期高齢者となる」のが2025年ということだ。
あと10年足らずで、人口のボリュームゾーンが75歳以上になるらしい。

当然、病院のベッド数は足りなくなるし、介護やケアというようなものも不足するだろう。
そのために、厚労省は「地域包括ケアシステム」というものを目指しているらしい。
「住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供されるシステム」のことだ。
自宅で生活支援を受けながら病気を予防し、介護サービスも受け、必要なら在宅医療スタッフも関わり、ケアを行って、死を迎えるというようなものだろう。
今は在宅医療というのはあまり一般的ではないが、2025年を迎えるにあたってそんなことは言っていられない。

長らく死は病院で迎えるもの、と思ってきたがそれは贅沢になるんだろう。
「今日が人生最後の日だと思って生きなさい」という本の著者で、在宅医療をやっている医師の小澤竹俊氏はこれからの医者という職業についてこう語る。

「もちろん9時〜5時診療で、土日休みという楽をしている医者も一部はいるでしょう。でもそういう医者にはこれから間違いなく厳しい時代が来ます。外来ではメシが食えなくなるのは目に見えていますから。問題は2025年問題です。
 少子高齢多死時代は、2025年になったらお終いではなくて、2025年から始まります。今の1億2000万の人口が8000万近くまで人口が減っていきます。多くの方が亡くなられていくということです。
 2025年まであと9年しかないのです。いえ、9年と言うより450週です。週で表現した方が実感が湧くのではないでしょうか。
 2025年問題の解決には人が必要です。ハートを持った人がいなければ緩和ケアは絶対に成り立ちません。対人医療という基本的な考え方ですが、そこにこだわりを持って活動しています。」

そうだろうなあ、と思うのは、死をすぐそこに迎えた人を介護していると、患者の沈黙にどう答えていいのかわからない、ということだ。
長年の経験で彼はこう話す。

「沈黙の前にどう会話していいのか分からないのです。言葉が全く浮かばないんですね。
 普通はいいことを言ってあげたい、励ましたいと思っています。この薬を飲むと病気が治るとか検査の結果が良かったとか。
 治療方法がなくなってから亡くなるまでの間に関わることを得意とする人があまりいないのです。言葉悪く言うと負け戦です。それは従来の病気が治ることが良い、治らないことは良くないという条件にすれば、ですが。非常に残念な物事の見方です。
 22年間、看取りという現場にいて思うことは、比較という考え方には限界があります。苦しみを抱えた人と向き合う魅力をきちんと声にしてみたいです。決して負け戦ではない。ただ単に苦しむのではないのです。
 苦しみを通して人は学びます。健康な時には気がつかなかった大事な自分の支えを。病気や怪我、困難や悲しみから学びます。学ぶのは患者さんだけじゃない。ご家族も、関わる私たちも学びます。そこに魅力があります。
 何気ないことが嬉しんですよ。健康な時には気がつかない家族の手の温かさや友人の言葉が嬉しかったり、聞き逃した音楽に涙を流したり、庭の何気ない花に心を打たれたり。そこで大事な何かに気づくのです。」

重みのある言葉だと思う。

そして厚労省の政策に関してこう話す。

「ただ厚生労働省は、今まで外来しか見ていない9時〜5時の開業医に24時間の往診に行くように求めています。厚生労働省が2025年問題を10年以上前から重要視し、介護保険の導入や在宅医療・介護の推進など様々な対策をとってきましたが、残念ながら動いていませんし、人材は育っていない。
 それは今まで看取りをしてきた緩和ケア病棟の経験値を残念ながら生かせていないからです。批判しても前に進まないので、批判はしません。自分で組織を作り、行動する。そして仲間を作っていく。
 良くしていくためには、トップダウンとボトムアップの両方が必要だと思っています。あとは文化の創造です。「今日が人生最後の日だと思って生きなさい」はその文化の発信のために出版しました。」

まことにエライ人がいたものだと思う。
実際に看取りをやってきた人だからこそ言える言葉だと思う。

しかし、普通ならこの包括ナンたらシステムの中に宗教家が含まれているべきだと思う。
死の意味付けをどうするのか。
それは古今の宗教の永遠のテーマだったはず。

今の日本の仏教は死んだ後の金儲けを主眼にしている。
そう言うと仏教界には怒られるかもしれないが、大方の人たちは賛同するはずだ。

死刑囚の海外ドラマなどでは、必ずキリスト教の宗教家が最期の時に立ち会う。
日本でそういう場面を見たことがない。
仏教の袈裟は葬儀の時だけだ。

この本を見て、仏教や神道の宗教家はどう思うんだろうか。
ああ、これでまた葬式で儲けられる、と思うんだろうか。
そう思うとしたら、どんどんアマゾンのお坊さん便みたいなシステムが広がっていくだろう。
もうお寺とは関わらない、ということだ。

死を迎える人を受け入れる宗教家が現れないと、日本は精神的に貧しい国になってしまうぞ。


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