考えたこと2

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まだ夢を見ることを許された時代
ドラマの最後にこのフレーズが流れた。
「まだ夢を見ることを許された時代」という言葉。
もうすぐ還暦という自分を振り返ると、この言葉がちょっと重い。

夢を見ることが許された時代、というのは夢を人に語っても、聞いてくれた時代という感じだろう。
年をとるともう聞いてくれないか、聞いてくれたとしても、真面目には聞いてくれない。
お互いに夢を語ることができた時代、ということかな。

そうなると、学生時代ということになる。
学生時代には夢があった。
将来、望めば何にでもなれると漠然と思っていた。
今となってはバカみたいだ。

ぼくは高校の頃左翼シンパだったので、「革命」という言葉に憧れがあった。
何となく、世の中が変わることに、わけもない期待があった。
それを夢と呼べば呼べるかもしれない。
実際、漠然と夢見ていただけで、何もしなかったのだ。
今となっては、それでよかったと思っている。

会社に入るときは、「いちご白書をもう一度」の世界だった。
就職が決まってうれしいというより、何だか自由な世界から別れるような気持ちだった。
あの頃の、左翼シンパの学生はみんなそんな感じだったと思う。
まだ学生運動の残り火が残っていたころだった。

会社に入って仕事をするうちに、だんだんと革命の夢は消えていって、30代の頃には、完全に消え失せた。
あれは、社会に対して何の責任もなく、義務も意識せず、勝手なことを夢見ていたのだと思う。
時代の雰囲気もあったのだろう。
回りのせいにするわけではないが…。

そういう時代を経て、60歳近くまで生きてきた。

ベルリンの壁が崩れ、ソ連はなくなり、中国は市場経済を導入して今やGDPが世界2位になった。
9.11が起こり、アメリカの一人勝ちは終わり、世界でテロが多発し、イスラム国ができた。
人間の活動が地球の規模で気候を変えているのかもしれない、という状況もでてきた。

結局何が正しいのかはわからない。
人の数だけ正しいことはある。

ぼく1人があがいても、世の中何も変わらない。
そんな諦めもある。

しかし、もう少しだけはあがいてみようと思う。

もう夢は見ないが…。



| | 考えたこと | 23:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
スクールカースト
和田秀樹の記事にスクールカーストに関するものがあった。
この人は本当にいいことを書く。

スクールカーストというのは、今の小中高の学校で子どもたちが勝手に作っている序列のこと。
インドのヒンズー教のカースト制にちなんで名付けられた。
スクールカーストの実態は「友達が多く、クラスのリーダー格の人間が一軍などと呼ばれ、そのフォロワーで一見みんな仲良くやっている人たちは二軍、その仲間に入れない、あるいは、入れてもらえない人は三軍ということになったりする。」というもの。

このスクールカーストがいじめの原因になることもあるという。
なぜ、このスクールカーストができるのか。
和田氏は、この元は「他人と自分を比べるべきではない」という考えにあるという。
あの、「世界に一つだけの花」の世界だ。

「人と比べてしまう、人と勝ちたいというのが、人間の普遍的心理であったとすれば、このような形で競争を抑えつけてしまうと、別の形で、人と比べたり、競争したりしないのかということである。
私は、それが、現実にいびつな形で起こっていると考えている。
それが「スクール・カースト」と言われるものだ。
勉強やスポーツでの競争はいけないことであったとしても、人と競争しないで、みんな仲良くしているほうがいいという価値観や文化であれば、友達が多いほうがいいということになってしまうだろう。
すると、友達の多さで優劣を競い、それによって、自分は人に勝っている、負けていないと思うようになる。
逆に友達が少ない、仲間外れということは、負けを意味するし、人間性が悪いというレッテルまで貼られかねない。
そこで、生じてきた序列がスクール・カーストと言われるものだ。」

人と比べることがよくないのなら、友だちの数も比べなければいいのだが、友だちだけは多いほうがいいと思っている。(というか、人類みな友だち、という考えなのだろう。)
では、友だちの数が少ないこどもが出てきたらどうするのか、というと、そこで思考停止するのだ。
「友だちは多いほうがいい」という絶対的な基準ができる。
それがスクールカーストの元だという。

また、人と比べない、ということから、いろんないびつなことが起こる。
要は、余計なお世話なのだ。
傷つけまいという行為が、こどもを傷つけるということなど考えもしないのだろう。

「確かに、人と比べること、あるいは(特に子供時代の)競争を否定する論者の多くは、負けた際の心の傷つきを問題にする。勉強ができる子をほめたり、その成績を貼り出すと勉強ができない子供の心を傷つけてしまう、だからそれをやめようということだ。
しかし、子どもの心を傷つけまいとすると、それがどんどん援用されてしまう。
運動会で1等賞の子供をほめたり、表彰したりすると、足の遅い子供の心を傷つけてしまう。だから手をつないでゴールインなどと言う話になってしまう。あるいは、1等の子とビリの子があまり差がついてしまうと、ビリの子の心を傷つけてしまう。だから、予選をやって、クラスで速いほうから6人で競争させ、7番から12番で競争をするというようなことをやる。すると、クラスで6番の子がビリになるのに、クラスで遅いほうから6番の子はトップというおかしなことが起こってしまう。
学芸会で主役を決めないで集団劇をやるとか、主役のシンデレラが場面ごとに変わる、などというのも同じ論理だろうし、学級委員を決めないという地域まであるそうだ。」

学校の先生たちは、実社会で競争を経てきているはずだ。
試験の点数を気にし、資格を取るために勉強し、採用試験で通ろうとしたはずだ。
それが現実だ。
卒業生総代は成績がトップだったからこそ、総代の栄誉を担える。
足の速い生徒は、運動会でスターになることができる。
実際の舞台で、主役が場面の数だけいる、というようなことはありえない。
学級委員はみんながふさわしいと思った人を選挙で選ぶのだ。

それが実際の世の中だ。

学校はある意味で、世の中の縮図でないとイケナイ。
そうでないと、生徒たちは世の中を誤解する。
和田氏はアドラーやコフートという心理学者の考えを紹介し、この「世界に一つだけの花」的な考えを間違いだという。

アドラーは「要するに人と比べた際に、それですねたり、あきらめたりするのでなく、それを頑張る原動力にできればいいと考えるのだ。」と言っているし、コフートは「(他人と比べることで)人に認められたり、ほめられたりする体験が、心理的な安定や成長を促し、人間をさらに野心的にすると論じた。」とある。

今のいじめは、露骨にいじめるのではなく、「仲間はずれ」にすることだという。
そうやって、いじめられる本人に、「自分が仲間はずれである」ことを認めさせる。
そういう陰湿ないじめがスクールカーストの後ろに広がっているらしい。

「自分が仲間外れであると認めてしまうと、友達の数が多いほど、人間性が素晴らしいと思われている若者文化の中で、自分を欠陥品と認めたようになってしまうからだ。」

今の若い人たちにとって、「友だちがいること」は何よりも価値がある。
大学生が入学して一番心配なのは、「友だちができるかどうか」ということだし、一緒に昼ごはんを食べる仲間がいないと、それを誰にも見られないようにトイレで食べる方がマシだという。

いい加減に、友だちの数が多い方がいい、などという考えは捨てて、ある程度の競争は認めたほうがいい。

和田氏が言っているように、「他人と比べない生き方」では幸せになれない、とぼくも思う。

そんなことをしている先生も、それはわかっているはずだ。

| | 考えたこと | 00:55 | comments(0) | trackbacks(0) |