和田秀樹の記事に
スクールカーストに関するものがあった。
この人は本当にいいことを書く。
スクールカーストというのは、今の小中高の学校で子どもたちが勝手に作っている序列のこと。
インドのヒンズー教のカースト制にちなんで名付けられた。
スクールカーストの実態は「友達が多く、クラスのリーダー格の人間が一軍などと呼ばれ、そのフォロワーで一見みんな仲良くやっている人たちは二軍、その仲間に入れない、あるいは、入れてもらえない人は三軍ということになったりする。」というもの。
このスクールカーストがいじめの原因になることもあるという。
なぜ、このスクールカーストができるのか。
和田氏は、この元は「他人と自分を比べるべきではない」という考えにあるという。
あの、「世界に一つだけの花」の世界だ。
「人と比べてしまう、人と勝ちたいというのが、人間の普遍的心理であったとすれば、このような形で競争を抑えつけてしまうと、別の形で、人と比べたり、競争したりしないのかということである。
私は、それが、現実にいびつな形で起こっていると考えている。
それが「スクール・カースト」と言われるものだ。
勉強やスポーツでの競争はいけないことであったとしても、人と競争しないで、みんな仲良くしているほうがいいという価値観や文化であれば、友達が多いほうがいいということになってしまうだろう。
すると、友達の多さで優劣を競い、それによって、自分は人に勝っている、負けていないと思うようになる。
逆に友達が少ない、仲間外れということは、負けを意味するし、人間性が悪いというレッテルまで貼られかねない。
そこで、生じてきた序列がスクール・カーストと言われるものだ。」
人と比べることがよくないのなら、友だちの数も比べなければいいのだが、友だちだけは多いほうがいいと思っている。(というか、人類みな友だち、という考えなのだろう。)
では、友だちの数が少ないこどもが出てきたらどうするのか、というと、そこで思考停止するのだ。
「友だちは多いほうがいい」という絶対的な基準ができる。
それがスクールカーストの元だという。
また、人と比べない、ということから、いろんないびつなことが起こる。
要は、余計なお世話なのだ。
傷つけまいという行為が、こどもを傷つけるということなど考えもしないのだろう。
「確かに、人と比べること、あるいは(特に子供時代の)競争を否定する論者の多くは、負けた際の心の傷つきを問題にする。勉強ができる子をほめたり、その成績を貼り出すと勉強ができない子供の心を傷つけてしまう、だからそれをやめようということだ。
しかし、子どもの心を傷つけまいとすると、それがどんどん援用されてしまう。
運動会で1等賞の子供をほめたり、表彰したりすると、足の遅い子供の心を傷つけてしまう。だから手をつないでゴールインなどと言う話になってしまう。あるいは、1等の子とビリの子があまり差がついてしまうと、ビリの子の心を傷つけてしまう。だから、予選をやって、クラスで速いほうから6人で競争させ、7番から12番で競争をするというようなことをやる。すると、クラスで6番の子がビリになるのに、クラスで遅いほうから6番の子はトップというおかしなことが起こってしまう。
学芸会で主役を決めないで集団劇をやるとか、主役のシンデレラが場面ごとに変わる、などというのも同じ論理だろうし、学級委員を決めないという地域まであるそうだ。」
学校の先生たちは、実社会で競争を経てきているはずだ。
試験の点数を気にし、資格を取るために勉強し、採用試験で通ろうとしたはずだ。
それが現実だ。
卒業生総代は成績がトップだったからこそ、総代の栄誉を担える。
足の速い生徒は、運動会でスターになることができる。
実際の舞台で、主役が場面の数だけいる、というようなことはありえない。
学級委員はみんながふさわしいと思った人を選挙で選ぶのだ。
それが実際の世の中だ。
学校はある意味で、世の中の縮図でないとイケナイ。
そうでないと、生徒たちは世の中を誤解する。
和田氏はアドラーやコフートという心理学者の考えを紹介し、この「世界に一つだけの花」的な考えを間違いだという。
アドラーは「要するに人と比べた際に、それですねたり、あきらめたりするのでなく、それを頑張る原動力にできればいいと考えるのだ。」と言っているし、コフートは「(他人と比べることで)人に認められたり、ほめられたりする体験が、心理的な安定や成長を促し、人間をさらに野心的にすると論じた。」とある。
今のいじめは、露骨にいじめるのではなく、「仲間はずれ」にすることだという。
そうやって、いじめられる本人に、「自分が仲間はずれである」ことを認めさせる。
そういう陰湿ないじめがスクールカーストの後ろに広がっているらしい。
「自分が仲間外れであると認めてしまうと、友達の数が多いほど、人間性が素晴らしいと思われている若者文化の中で、自分を欠陥品と認めたようになってしまうからだ。」
今の若い人たちにとって、「友だちがいること」は何よりも価値がある。
大学生が入学して一番心配なのは、「友だちができるかどうか」ということだし、一緒に昼ごはんを食べる仲間がいないと、それを誰にも見られないようにトイレで食べる方がマシだという。
いい加減に、友だちの数が多い方がいい、などという考えは捨てて、ある程度の競争は認めたほうがいい。
和田氏が言っているように、「他人と比べない生き方」では幸せになれない、とぼくも思う。
そんなことをしている先生も、それはわかっているはずだ。