考えたこと2

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「病院」がトヨタを超える日
「病院」がトヨタを超える日 北原茂実 講談社+α文庫

2011年に出版された。
作者は八王子で病院を経営している医者。

この人は医療を「産業」にして、日本の主要産業にして育て、輸出産業にする、ということを言っている。

序章にこう書かれている。

「医療者である私が「売る側」や「買う側」という言葉を連呼することに、違和感を覚える方もいるでしょう。医療は売るものでも買うものでもない、医療とは公共のサービスであり、経済活動・営利活動の外にあるものではないか、と。
 しかし、そうやって医療を特別視して神棚に飾っていても、自浄作用など期待できません。病院は経営努力を怠ったまま赤字を垂れ流し、サービスを悪化させ、そのツケを国と患者に押しつけるだけでしょう。」

「一般には国の予算を食いつぶすばかりの存在と考えられがちな医療ですが、約300万人もの人間が従事する「産業」として捉え直してみると、これほど有望な成長分野もありません。むしろ、うまく輸出産業化することができれば、自動車産業や家電・エレクトロニクス産業を超えて、日本の基幹産業になる可能性さえ秘めています。
 崩壊寸前の医療をどう変えていくかは、国民の暮らしや健康に関わる一大事というだけでなく、日本経済にとっても大きな分岐点なのです。」

昨今、医療産業の輸出というような事が言われているが、そんなことは可能なのだろうか、ということで買ってみた本。

この人は自分の病院(脳神経外科)を八王子に作ったのだが、第1章「八王子から始まる医療立国プロジェクト」の中で自分の病院でやっている「家族ボランティアシステム」を紹介している。
元気な時に、病院でボランティアをやることで、「はびるす」という地域通貨を貯めて、いざ病気になった時にそれを使う。参加型のシステムだ。
残念ながら、まだ保険診療の部分では規制があって使えず、保険適用外の部分でしか使えないが、国が規制を取り払えば、通常の診療も「はびるす」で受けることができるという。
病院でボランティアをすることで、病気に対する知識や経験も積めるので、いざというときに役に立つ、という効果もある。
それが健康に対する知識をつけることにもつながり、それを実践することで「病気にならない街づくり」を進めることもできる。
それをさらに進めて、「携帯電話を活用したワンコイン診療」というのも始めたらしい。
500円でできる簡易人間ドックである。

「私は、このシステムが全国に広がれば「医療」と名のつくものの半分がなくなり、開業医の8割が不要になってしまうとさえ思っています。」

なるほど。
たしかに現在の長寿県である長野県では、徹底的に県民の検診を勧めたと聞いた。
医療費を削減するためには、病気になる前に予防することに力を注がないといけない。
このシステムでは、医者の代わりにDVDを使って、気をつけないといけない点や、食事の指導などを受けることになっている。
「さて、このワンコイン診療が広がっていくと、画期的なことが起こります。
 まずは総医療費の大幅な削減です。じつは採血と検査、そしてDVDによる指導は、国が定めるところの「医療」ではありません。健康保険証が要らないことからもわかるように、保険診療ではないのです。つまり、ワンコイン診療の普及は「医療ではないもの」が広まり、その分「医療」がなくなっていくことを意味します。
 そうすると、開業医(診療所)のほとんどは消えてしまうはずです。
 入院設備を備えた病院が大型スーパーで、ワンコイン診療はコンビニエンスストア、そして開業医を個人商店だと考えれば理解しやすいでしょう。スーパーとコンビニの普及で個人商店が淘汰されていったように、総合力や利便性に劣る開業医には相当な経営努力が求められる時代になるでしょう。
 そして開業医がなくなっていけば、日本の総医療費は大幅に削減されます。なにしろワンコイン診療は「医療」ではないのですから、税金も保険料も使われません。患者負担も少なくて済むし、医療崩壊を食い止める一助になってくれるでしょう。開業医の方々にとっては迷惑千万でたくさんの批判もあるかと思いますが、これくらい大胆なことを考え、実行に移していかないと、この国の医療が崩壊してしまうのです。」

たしかに、これくらいのことをやらないと、持続可能なカタチにはならないかもしれない。

また、この病院では薬を処方して、飲ませてから検査するというシステムらしい。
それには理由がある。

「病院の中で気分が悪くなったりすればすぐに対処できますが、家族ではそれができません。ですから、たとえ診断が確定していても、帰る時に薬を出すのは本来とても危険な行為なのです。
 これも、合理的に考えれば誰にでもわかることですが、実際にはほとんどの病院が診断後に薬を出していると思います。「薬は最後に渡すもの」という常識、前例主義に縛られているのです。」

医者の立場で考えたら、当たり前のことであっても、本当は変えたほうがいいことがたくさんあるのだろう。
そういうことを実際にどんどんやっているのが、この人のスゴイところだと思う。

第2章の「国民皆保険幻想を捨てよう」という章では、「結論から先にいいましょう。医療の現場が荒廃し、医療崩壊が叫ばれている原因は、一にも二にも財源不足です。」と語られる。

本によると、現在(2011年)の日本の総医療費は35兆円。内訳は50%が保険料、15%が患者の窓口負担、残りの35%が税金らしい。この35兆円というのはGDP比でみたら先進国中最下位で、OECD加盟国の平均も下回っているらしい。
その理由が「国民皆保険制度」にあるという。
戦後のキャッチアップの時代までは、この制度は役割を果たしてきたが、時代が変わって逆に亡国の制度になっている。
年金や他の多くの制度も、キャッチアップの時代はよかった。
その例に漏れず、ということか。

国民皆保険制度はとうの昔に耐用年数を超えた欠陥だらけの制度だ、というのがこの人の見解。

「たとえば心臓手術をする場合、Aという病院に行くと生存率が80%、Bという病院なら60%、Cという病院に行けば40%といった現実が実際にはあります。医者だって人間ですし、執刀医や病院によって医療レベルに差がでてしまうのは当たり前の話です。ところが、こうした事実は闇に葬られ、どの病院に行っても同じレベルの医療が提供されるのだという建て前が貫かれています。日本の医療は基本的にアウトカム(医療行為の結果・成果)を公表しないし、公表できないのです。
 なぜそんな馬鹿な話になるのか?
 その答えは、国民皆保険にあります。」

「民間から価格決定権を奪い、国が価格を決定して全国一律サービスをめざそうとする国民皆保険は、そもそもが社会主義的な発想です。一概にそれが悪いとはいいませんが、旧社会主義国家のように、国民にまともな情報が与えられないまま建て前のみで存続しているとすれば、とても看過することはできません。
 国民皆保険の問題点を直視せず、ひたすら盲信しているうちは、本当の医療改革など望めないのです。」

「それでは、もしも国民皆保険の「全国どこでも、同じレベルの医療を同じ料金で受けられる」という原則を取り払ったらどうなるでしょうか?
 具体的には、診療報酬制度を全廃するか、ある程度ゆるめて部分的に自由競争を取り入れた場合、何が起きるでしょうか?
 まず、アウトカムの開示が可能になります。どの病院が優秀で、どの病院がそうでないのか、自分の通っているあの病院は信頼に足る医療を提供しているのか、といった点が、数字によって客観的に判断できるようになります。
 また、自由競争が取り入れられれば、同じ検査や手術であっても医療機関ごとに価格差が出てくるでしょう。」

「とはいえ、国民皆保険を支持する声は、まだまだ圧倒的だと思います。「国民皆保険があり、医療費が安く抑えられているおかげで、いつでも安心して病院にかかれる。もしも医療費が高くなったりしたらたいへんなことだ」と考える人が多いからです。」

だから、どうしたらいいのか。
そのためには、総医療費を上げることだ、という。
アメリカで使える薬がなかなか日本で使えないとか、一日に医師が見る外来患者はアメリカでは10人程度で日本は60人〜100人いるから、インフォームドコンセントが不十分になってしまうとか、医療費を上げないと解決しない、という問題もある。

「国民皆保険による「安さ」が、どれだけの代償の上に成立しているのか、私たちは一度きちんと考えるべき時期にきているのではないでしょうか。」

「国民皆保険は、日本に安価な医療を実現しました。
 しかし、安価な医療は、そのまま「安易な受診」につながり、日本人の自らの健康に対する責任感を希薄にさせてしまいました。とくに最近では、軽症で緊急性がないにもかかわらず、まるでコンビニ感覚で深夜や休日の救急外来を利用する「コンビニ受診」も、現場の医師を疲弊させる一因として問題になっています。ところが、もしも国民全体が自らの健康に責任を持ち、「安易な受診」を避ける意識が根付いていけば、総医療費の抑制にもつながるでしょうし、医療現場の負担はずいぶん軽くなるでしょう。」

では、それを決めるのは誰か。それはまずは政治の役目だという。
でも、それは難しい。その最大の理由は選挙制度にあるという。
今の小選挙区制度では、国民の見識と政治意識が高くないかぎり、いっさいの正論が通らない制度になっており、「誰の意見も反映できない制度」になっている。特に、消費税や医療費の問題は国民の感情的な反発を招きやすい制度であり、小選挙区制にはなじまないテーマだと書いてある。
まったくその通り。
その意思表示が、低い投票率になって現れているのだろう。

では、どうするのかというと、現場の医師が立ち上がらないといけない、という。
そのキーワードが「医療の産業化」になる。

「別に税金や保険料を上げる必要はありません。まずは株式会社の医療参入を認めること。医療法人という縛りをなくすこと。医療を「施し」から「産業」に変えること。これだけで状況は劇的に変化します。」

そこで、「第3章 医療がこれから日本の基幹産業になる」になる。

しかし、医療がホントに産業になるんだろうか。
ぼくにはわからない。
筆者はそれらをまとめて、こう書く。

?医療は公的サービスであって、産業という言葉はふさわしくない
?医療の産業化といっても、結局は保険料や税など国民負担が増えるだけだ

?については、国鉄がJRになった効果をひいて説明し、「まずは「医療法人」という法的な縛りをなくして医療機関の株式会社化を認めていこう、というのが私の唱える産業化の本旨」という。

また、?についてはこう書く。

「医療は約35兆円産業である。しかも、そう遠からぬ将来に40兆円、50兆円規模の超巨大産業へと成長していくー。
 こう聞いても、そんなものは詭弁だと、反発を覚える人は多いでしょう。
 いくら50兆円産業といってみたところで、結局は保険料や税金などの国民負担が増えるだけで、誰も得をしない。むしろ総医療費が増えるほど個人消費が冷え込み、経済が悪くなっていくだけだ、と。
 たしかに、現行制度のまま総医療費が50兆円規模に膨れ上がるとすれば問題でしょう。国民負担が増えるのはもちろんのこと、患者数が増加するほど病院経営は逼迫し、国の財政赤字は増えていく。まさに誰も得をしない未来がやってくるだけです。
 しかし、医療機関の株式会社化が認められるとしたら、話はまったく変わってきます。
 医療機関が株式会社化されれば、株式や社債の発行が認められるようになります。そうすれば市場からお金を集めやすくなり、多くの病院でCTやMRIなど、最新鋭の医療機器を導入することができます。
 もちろん、「ドラッグラグ」の問題も解消に向かい、さまざまな新薬が使えるようになるでしょう。医療のクオリティが格段に上がります。
 さらに、国民皆保険や診療報酬制度まで見直されれば、先に挙げたボランティアシステムやワンコイン診療などの「新しい医療」が次々と生み出され、国民負担、税負担を引き下げつつも経営体制を強化していくことができます。現場の待遇は大幅に改善され、雇用の創出にもつながるでしょう。もちろん、医療機器メーカーや介護施設などの関連産業についても活性化が期待されます。」

なるほど。
言っていることはわかるのだが、これだけではなんとなく納得できないなあ。

次に、日本の病院は7割が赤字であること、現在の医療は”装置産業”であって、資金調達が必要なこと、実際儲かっているのは設備投資をしない病院や、診療報酬点数の高い医療を優先する病院であって、患者のことを考えていない病院であることなどが挙げられる。

そして、2007年の総務省の調査によると、日本人の個人資産1500兆円のうち、全体のおよそ2割を50代が、3割を60代が、そして、3割を70代以降が保有している、という事実をみた時に、「これからの日本で内需を拡大するとすれば、20代〜30代をターゲットにしても意味がありません。内需拡大のカギを握るのは、50代以降の中高年層。しかも、海外旅行などで国外にお金を落とすのではなく、あくまでも日本国内でお金を落としてもらう必要があります。」という。

そういうことなら、話はわかる。
なかなか消費に回ってこない50代以降の資産を、貯蓄ではなく、医療サービス産業に使ってもらおう、ということである。

「そしてなにより、医療を自由化して産業として自立させれば、そこを突破口に必ずお金の流れが出てきます。
 きっと、「人の命で商売をする気か!」という批判はあるでしょう。命を人質にお金をとろうとしていると誤解する人も多いと思います。
 しかし、これは医療従事者としての私利私欲による考えではなく、同時に道徳や倫理の問題でもありません。国の財政と経済を健全化させ、医療崩壊を食い止めて国民に広く医療を提供していくための、現実的な提言です。
 当然ながら、医療の自由化は「お金持ちにはそれなりのお金を払ってもらう」ことを前提としていますが、低所得者層に対しては十分なセーフティネットを設けます。
 銀行口座で塩漬けになっている個人金融資産を市場に吐き出させ、お金の流れを正常化すること。しかも海外ではなく、国内でお金が回るようにすること。そして国内に確固とした成長産業を作っていくこと。これらの条件をすべて満たすのは、医療の自由化しかないと断言してもいいでしょう。」

「医療には、ひとついいところがあります。
 それは「若者はあまり病気にならない」ということです。
 あくまでも相対的な話ではありますが、若者は総じて体力があり、病気になりにくいものです。たとえ病気になったとしても、高齢者よりもずっと回復が早くなります。
 いま、税や社会保障で最大の問題になっているのは、世代間格差です。
 たとえば厚生年金の場合、1940年生まれのモデル世帯(会社員の夫が40年勤務、妻は専業主婦)ではこれまで納めた保険料の6.5倍の年金が受け取れるのに対して、1980年生まれ以降では2.3倍しか受け取れません。現役世代が高齢者を扶養する現状のシステムでは、少子高齢化が進むほど若い世代の負担は大きく、給付される額は少なくなります。」

「現実にお金を持っているのは中高年層なのに(くり返しますが、日本の個人資産の8割は中高年層が持っています)、彼らの年金を現役世代が負担する、この構造的な矛盾を解消しないことには、世代間格差は広がる一方でしょう。」

「お金を貯め込んでいる中高年層や富裕層の資産を市場に吐き出していけば、経済の流動性が高まり、外需に頼ることなく景気を底上げしていくことができます。
 もちろん、所得や資産に応じたセーフティネットは必要ですが、そこさえクリアしていけば、医療ほど「財源がないならお金持ちに」が通りやすい分野はないのです。」

大いに納得した。これはいい考えだと思う。
ぜひやるべきだと思う。
国家財政が破綻して、国債が紙切れになる前に間に合うだろうか…。

そのために、国民総背番号制を導入すべきだという。
そしてカードはICカードにして、過去の診療情報をすべて記録させる仕組みを作れば、総医療費は3割は減る、という。

「新しく、なおかつ筋の通った主張は、往々にして過激な主張に聞こえるものです。しかし、これくらいドラスティックな改革を施さないと医療は持たないし、国の財政赤字は解消されないのだと認識しなければなりません。」

もっともだ。その通りだと思う。

第4章では「日本人だけが知らない世界の医療産業の実態」として、メディカル・ツーリズムの話が、第5章では「日本医療を輸出産業に育てる方法」として著者がカンボジアに医療機関を作ろうとしている活動内容などが示される。

そして「終章 医療崩壊こそ大チャンス」では、まとめが書かれている。

中で印象的だったのは以下の記述。

「医療のめざすところは、長生きではありません。気持よく生きて、気持よく死ぬこと、それこそが最大の目的であり、気持よく生きるために何ができるのか、医療に携わる人間はもっと真剣に考える必要があります。」

「病院経営者が経営感覚を持たないのは、彼らが「自分は慈善事業をやっている」「医者は聖職であり、先生であり、ほかの職業とは違うのだ」と思っているからなのです。この部分の意識改革がなされないかぎり、どれだけ公金をつぎ込んでも無駄です。」

ということだ。
元ヤマト運輸の小倉社長が、福祉のことを書いた時に、同じようなことを書いていた。

この本はいい本だ。

この通りにやればいい。
だれかやってくれないか。


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クルマのデザイン
クラウンや最近のレクサスを見ていると、トヨタデザインという統一性を模索していると感じる、というか、ちょっとそれが迷走している感じがする。

トヨタは一番クルマの車種が多く、統一性が出しにくいメーカーだと思う。
あの「T」の文字を模したシンボルマークさえ、付いているクルマと付いてないクルマがある。
デザイナーの自己主張が強すぎるのかもしれない。
ホンダやマツダと比べると、そんな感じがする。

最近のトヨタの高級車は、バンパーの下のところまで進出したフロントグリルが新しいアイデンティティだろう。
前の部分が、糸巻きを立てたような感じになっている。スピンドルグリル、と言うらしい。
真ん中が細くなって、上下が広い。
目立つ形ではある。
今までにない形だ。
バリエーションとして、雷をイメージさせるような形のものもある。
いずれにしても、バンパーの部分までグリルが下りてきており、存在感を誇示している。
これなら、一目見て違いがわかる。

しかし、個人的には、どう見てもどうもかっこ悪いと思う。
フロントグリルが目立ちすぎるからだ。
世間ではどう思われているのか、わからないが…。
Webでは、もう見切りをつけて止める、という記事もあった。

その点、デザインの統一性に成功したと思うのがマツダ。
車種の少なさももちろんあるのだが…。
フォードの資本が入った時に、デザインのアイデンティティを統一しないとイケナイ、ということになったと思う。
その後から出たクルマは、みんなフロントグリルが五角形である。
あれくらいの主張なら、控えめでいいと思う。
統一感もあるし、わかりやすい。

この2社以外は、車種ごとに自由にやっているように見える。
デザインを統一する、というのは難しいんだろう。
制約を与えることになるから、デザイナーとしてはやりたくない…、と思う。

ドイツのベンツ、BMW、アウディあたりは一目見てわかるデザインになっている。
まあ、プレミアム・ブランドだから、当然そうでなくてはいけない。
もちろん、車種ごとに個性はある。
それでも、一目見てどこのメーカーのクルマかわかるというのはスゴイ。

これから日本のカーメーカーもどんどん追われる身になる。
そうなると、プレミアム感を持たさないと、高く売れないし、そうでないとやっていけない。

性能を追求したら、必然的に決まってくる部分もあるだろう。
実際、初代のプリウスとインサイトというハイブリッドカーは、空気抵抗を意識した同じような流線型のデザインだった。

フロントのヘッドライトやウインカーの部分が、LEDになって、デザインの制約がなくなってくると、また新しいデザインも生まれてくると思う。

一方で、日本の若い人たちはクルマがそんなに欲しくない。
携帯などのコミュニケーションのコストが上がってきたこともあるだろう。
電気自動車になったら、もっとデザインの制約がなくなる。
エンジンルームが必要ではなくなるからだ。
テスラなど、各車輪にモーターがついているクルマも出てきている。

まだまだクルマは進化するだろう。
自動運転もあるし、ぶつからないクルマもできる。
街乗りの2人乗りや買い物専用のクルマも増えるだろう。
今までなかったジャンルのクルマもできる。

ぼくの世代は、まだクルマに夢を求めた世代。
どこまでいくのか、楽しみだ。



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