考えたこと2

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村上朝日堂 はいほー!
村上朝日堂 はいほー! 村上春樹 文化出版局

村上春樹のエッセイ集。
1983年から5年間に書かれたエッセイを集めたもの。
大部分のものは、ハイファッションというファッション雑誌に「ランダム・トーキング」というタイトルで連載された。
1989年に出版されている。

31本のエッセイが載っている。
どれも面白い。

最初の「白子さんと黒子さんはどこに行ったのか?」というエッセイは、化粧品のCMで白子さんと黒子さんが出てくるアニメのキャラクターが、いつの間にかいなくなった、という話。
そういえば、いつの間にかなくなった。
このCMでは白子さんが黒子さんを救済するということになっていた。

「つまりある特定の知識を有しているが故に救済されている人間Aが、その知識を有していないが故に苦しんでいる人間Bにその知識を分け与え、自分のいる位置までひっぱりあげてやるわけだ。でもそうすることでAはBに対して、決して「救ってやったんだぞ」というような恩きせがましい感情は持たない。それは無償の好意であり、救済なのだ。AはあくまでBがあるべき状態を提示しただけのことなのである。そしてAはBが自分と同じ地平に身を置けたということを素直に「良かったね」と喜べるのである。」
「そんなのリアルじゃないとあなたは言うかもしれない。そうですね。たしかにリアルじゃないかもしれない。ひとことで言っちゃうと、これは実にありし日の戦後民主主義の理想世界である。つまりそこにはあるべき状態というものが厳然として存在し、努力さえすれば人はそこにちゃんと到達できるのである。」

どこまでマジメに書いているのかわからない。
でも、かなりマジメに書いていると思う。
ちょっとハスに構えているように見えて、実は本気なのだ。

「でももちろん今ではそんな幻想は消えてしまった。社会のスピードがそれをすっぽりとのみこんでしまったのだ。そしてその幻想そのものが商品化されてしまったのだ。幻想はいまや資本投下の新しいフロンティアなのだ。幻想は無料でみんなに平等に配られるような単純なものではなくなってしまったのだ。それは多様化し、洗練され、美しいパッケージを与えられた商品となった。そしてそういう世界にあっては白子さんにはもう何が善なのかわからなくなってしまっているかもしれない。」

そういうことなんだろう。
日本の社会に、みんなが善だと思うようなものがなくなってしまった。
そのことを書いている。
なくなってよかったのか、悪かったのかは書いてない。
それはなんとも言えないのだろう。

そして、白子さんと黒子さんはどこに行ってしまったのかという問いに対して、「たぶんどこにも行けなかったんだろう。」と締めくくっている。

「チャンドラー方式」というエッセイでは、アメリカの作家レイモンド・チャンドラーが小説を書くコツについて書いた文章のことが書いてある。
村上春樹の記憶では、チャンドラーはこう書いていたらしい。

「まずデスクをきちんと定めなさい、とチャンドラーは言う。自分が文章を書くのに適したデスクを一つ定めるのだ。そしてそこに原稿用紙やら(アメリカには原稿用紙はないけれど、まあそれに類するもの)、万年筆やら資料やらを揃えておく。きちんと整頓しておく必要はないけれど、いつでも仕事ができるという態勢にはキープしておかなくてはならない。
 そして毎日ある時間をーたとえば二時間なら二時間をーそのデスクの前に座って過ごすわけである。それでその二時間にすらすらと文章が書けたなら、何の問題もない。しかしそううまくはいかないから、まったく何も書けない日だってある。書きたいのにどうしてもうまく書けなくて嫌になって放り出すということもあるし、そもそも文章なんて全然書きたくないということもある。あるいは今日は何も書かないほうがいいな、と直感が教える日もある(ごく稀にではあるけれど、ある)。そういう時にはどうすればいいか?
 たとえ一行も書けないにしても、とにかくそのデスクの前に座りなさい、とチャンドラーは言う。とにかくそのデスクの前で、二時間じっとしていなさい、と。」

そして、そのチャンドラー方式で実際に書いているらしい。

「僕はもともとぼおっとしているのが好きなので、小説を書くときはだいたいこのチャンドラー方式を取っている。とにかく毎日机の前に座る。書けても書けなくても、その前で二時間ぼおっとしている。」

なるほど。
そういうやり方で書いているのか。

「狭い日本・明るい家庭」というエッセイでは日本の標語のことを書いている。

「世界人類が平和でありますように」という標語の看板を見て、まったく理解できないという。
もちろん趣旨には根本的に賛成するのだが、そんな看板を立ててまわって、いったい何の効果があるのか、ということだ。

「要するに僕が言いたいのは、人々に世界平和を望ませればそれで事足るというものではないということである。必要なのは共通した世界認識と、もっと具体的な細かい行動原則である。それがなければ、何も始まらない。
 僕はそういうタイプの行動原則のない茫漠とした(しかしとりたてて反論のしようのない)主張を「ウルトラマン的主張」と呼んでいる。ウルトラマンならそれを目にとめて「そうだ、世界人類を平和にしなくちゃ」と決意を新たにするだろうが、それ以外にはなんの効果もないという意味である。しかし、こういうタイプの標語はまあ実に多い。「犯罪のない明るい社会を」だとか、「目標・交通事故死ゼロ」なんて、いったい何のためにこんな看板わざわざ出しているのか僕にはもう全然見当がつかない。見ているだけで馬鹿馬鹿しくなってくる。ただ資源と人手を無駄に費やし、街を汚しているだけである。」

そう言われれば、そうだ。
まことに文学者らしい意見。
こういう文章を見ると、この人日本には住みにくいだろうと思ってしまう。
だから、海外での暮らしが長いのか…。

村上春樹という人と、筒井康隆が似ているような気がする。
ぼくは二十代のころ筒井康隆の本をたくさん読んだ。
筒井康隆のエッセイでは、一人称は「オレ」だったが、それを除くと何となく同じニオイがする。
どこが似ているのか、と言われると難しいのだが、何となく同じ種類の人間のような気がするのだから、仕方がない。

こういうエッセイが31本。
バブルのころに書かれているから、何となく明るい。

これはオススメ。


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