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2008.03.15 Saturday
ノートをとるということ
会議に出たり、セミナーに出たり、講習を受けたりするが、その時にノートをとる。
「ノートをとる」ということはどういうことだろう? 一字一句記録することではない。 それなら、ノートではなくレコーダーを使えばよいのだ。今はICレコーダーの性能も上がったし、簡単に記録することができる。国会の議事録みたいなものだ。 本当は、聞きながら、要点を整理し、「ここは大事」というところを書いていくということだろう。 学生時代、先生の中にはノートに書くべきことをひたすら板書する人もいた。 それを写しなさいということだ。 まあ、書いて覚えるという部分もあるし、学校だから、頭の中が白紙の状態を前提としているのだから、それも仕方ないとは思う。 でも、ノートがとれないという状況もある。 むかし、ずっとサボっていた工業数学という講義に初めて出たときは、まいった。 先生が何か言いながら、黒板に意味不明なことを書いている。(もちろん、マジメな学生には意味はわかっているのだが、ぼくにとって意味不明だったということ) この時は、ノートに何も書けなかった。 黒板には数式が並んでいたのだが、記号も初めてみるものだし、そのまま書き写すくらいなら教科書をまず読んだ方がよさそうだった。 要は、あまりにも自分の能力や意識から離れていると、ノートをとる意味がないのだ。 何を書いたらいいのかすらわからない。 ノートがとれるということは、すでに話されている内容について、何かの意識があるということ、「わかっている」ということだ。 これは大変なことだ。 最近、話をしていて、ノートをとらない人をよく見る。 もちろん、習慣の問題もあるが、ひょっとしたら「わかっていない」のかもしれない。 ノートをとらないのではなく、「とれない」のかもしれない。 もしも、誰もが「ノートがとれない」状態なら、その話は意味がない話ということだろう。 まず、意識を上げることが必要だ。 これは難しい。 そんな話をすることは、話し手にとって、最も難しいことの一つだと思う。 |
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