考えたこと2

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怒る人工知能
人工知能は賢くなるだけではなく、人間のように感情を示すということもあるらしい。

グーグルの研究者が、映画の脚本のデーターベースを使って学習した人工知能を作った。
それに対して、「道徳」という言葉の定義を指示したら、人工知能が怒りだしたとのこと。
最後は、人工知能が「もう話したくない」と言い出した。
ホントかなと思うが、学んだベースが映画の脚本ということだから、あり得ると思う。
どれくらいの量の脚本を学習したのかはわからないが、結構な数だろう。

映画ではいろんな事が描かれる。
ヒューマンドラマもあるだろうし、刑事ドラマもある。戦争ドラマもあるし、コメディもあるし、ブラックユーモアもあるだろう。
たくさん学ぶほど、何が道徳かはわからなくなるだろうと思う。
いろんな主人公が、いろんな場面で描かれているはずだ。
なかには、殺人を犯すことが道徳的だ、という映画もあるだろう。
学べば学ぶほど、「道徳」なるものを定義するのは難しくなるのは、容易に想像できる。
人間でも同じだ。
ちゃんと学んだ結果だとも言える。

こういう話を聞くと、世の中に正しいものなどないのではないかと思えてくる。

ぼくは「道徳」とは何か?と聞かれたら、「他人を慮って、正しいことをすること」というふうに答えると思うが、それも場合によると思ってしまう。
だいたい、正しいことって、いったい何なのか、よく考えたらわからない。

結局生身の人間にしたって、「道徳」とは何かと聞かれても、なかなか答えられないということだ。

だから、「道徳を定義せよ」と言われて怒るコンピューターは正しいのだろう。

ということは、人工知能は人間並になってきたということだ。
このままいくと、どんどん学習が進んでスーパーマンのような人工知能ができるかもしれない。

その人工知能に、人間はアゴで使われるかもしれないぞ…。


| | 考えたこと | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
動物と人間の世界認識 日高敏隆 ちくま学芸文庫
日高敏隆は何冊か読んだが、動物行動学の人だ。
人間を知るためには、比較できる何かを知ることが大事。
それが動物になる。

人間は自分の見えている世界を、動物も見ていると思いがちだが、それは違う。
目の構造や知覚の仕方が違うからだ。
そして、人間が客観的に世界を見ているか、という疑問も出てくる。

「もし、われわれ人間が、見て捉えている、把握しているものを現実のものとすれば、モンシロチョウやアゲハチョウが捉えている世界は、それとは違うものである。
 それは客観的なものでなく、きわめて主観的な、それぞれの動物によって違うものであるということになる。それがそのモンシロチョウが構築している世界だとすると、極めて限定された、まさに主観的な世界を構築していることになる。
 では、われわれ人間は本当に客観的な世界を見、客観的な世界を構築しているのだろうか。
 それも違う。後に述べるとおり、人間にも、知覚の枠というものがある。誰でも知っているとおり、われわれには紫外線や赤外線は見えない。そのようなものは現実の世界に存在しているのであるが、われわれにはそれを見ることも感じることもできない。ただ、その作用を受けているだけである。われわれはそれを研究することによって、そのような紫外線なり赤外線なりというものの存在を知る。」

3章で、アゲハチョウがどこを飛ぶか、という研究を紹介している。
これは思ったより単純で、日がよくあたっている木のこずえに沿って飛ぶということだ。
なぜかというと、アゲハチョウが見ている世界では、日の当たっている木のこずえは非常に重要なものとして浮かび上がっていて、チョウにとってはそれしか見えないから、という説明。
つまり、その生物が見えている世界は、行動にも影響を及ぼすということになる。

モンシロチョウはアゲハチョウとちがって、日のあたっている草原が大きな意味を持つ。
というか、それしか見えていないということだろう。

こういう研究は面白い。
動物の数だけ世界はある。
客観的な世界というものはない。
その動物にとって主観的な世界しかないのだ。
人間もその制約を逃れることはできない。

1つの世界をどう切り取って見るか、というようなことだろう。
そういう意味では言語に近いものがある。
言語が違えば、世界が変わるように、動物が変われば世界も変わるのだろう。

「このことはとても重要なことなのではなかろうか。そして、同じ昆虫でもアゲハチョウの見ている世界と、モンシロチョウの見ている世界はもはや同じではない。このように考えてみると、ひとつの環境というものは存在しないことになる。それぞれの動物の主体が構築している世界があるだけであって、この環世界は動物の種によってさまざまに異なっているのである。」

「世界を構築し、その世界の中で生きていくということは、そのような知覚的な枠のもとに構築される環世界、その中で生き、その環世界を見、それに対応しながら動くということであって、それがすなわち生きているということである。そして彼らは、何万年、何十万年もそうやって生きてきた。環境というものは、そのような非常にたくさんの世界が重なりあったものだということになる。それぞれの動物主体は、自分たちの世界を構築しないでは生きていけないのである。」

そして、人間、いやあらゆる動物が世界を構築していると思っているのは、その動物がその時々に持っているイリュージョン(まぼろし)だ、という結論になる。

「重要なのは、前章でも述べたとおり、イリュージョンなしに世界は認識できないということである。「色眼鏡でものを見てはいけない」とよく言われるが、実際には色眼鏡なしにものを見ることはできないのである。われわれは「動物」と違って色眼鏡なしに、客観的にものを見ることができると思っている。そしてできる限り、そのようにせねばならないと思っている。しかし、これは大きな過ちである。」

「学者、研究者たちはいう。われわれは真理に近づこうとしているのだと。
 もし、真理というものが存在するなら、この言は理解できる。そしてたしかに今日のわれわれは、昔よりより多くのことを知っている。けれど、それによってわれわれは真理に近づいたのであろうか?
 物理的世界についてはそうだといえるかもしれない。けれど、客観的な環境というものは存在しないということからもわかるとおり、われわれの認知する世界のどれが真実であるかということを問うのは意味がない。
 人間も人間以外の動物も、イリュージョンによってしか世界を認知し構築し得ない。そして何らかの世界を認知し得ない限り、生きていくことはできない。人間以外の動物の持つイリュージョンは、知覚の枠によって限定されているようである。けれど人間は知覚の枠を超えて理論的にイリュージョンを構築できる。
 学者、研究者を含めてわれわれは何をしているのだと問われたら、答えはひとつしかないような気がする。それは何かを探って考えて新しいイリュージョンを得ることを楽しんでいるのだということだ。そうして得られたイリュージョンは一時的なものでしかないけれど、それによって新しい世界が開けたように思う。それは新鮮な喜びなのである。人間はこういうことを楽しんでしまう不可思議な動物なのだ。それに経済的価値があろうとなかろうと、人間が心身ともに元気で生きていくためには、こういう喜びが不可欠なのである。」

そういうことだ。
人間の営みというのは、結局はイリュージョンに過ぎない。
そう開き直ったところから、謙虚に科学というものを見ないといけないのだろう。

日高敏隆は2009年に79歳で亡くなった。
惜しい人をなくしたと思う。



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