考えたこと2

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変わる大学
文科省が国立大学の公式行事に国歌斉唱の方針を出した。
でも、これはどちらかというと瑣末なことだ。
国立大学の学長の会議で、学長にインタビューするところがテレビに映っていたが、「とりあえず、無視」という答えが多かった。
これはこれで、どうなるのか、興味がわくが…。

しかし、もっとビックリするのは、国立大の既存の学部を見直す、という方針。
和田秀樹氏が「エリートを育成するため大学はどう変わるべきか」という記事を書いている。
それによると、6月8日に、文学部や社会学部など、人文社会系の学部と大学院について、社会に必要とされる人材を育てられなければ、廃止や分野の転換の検討を求める通知を出したという。

記事の中に、「現場経験のない理論派が幅を利かせる日本の事情」という項目がある。
長くなるが引用すると、

 「私は長らく精神分析を学んでいるが、3年弱アメリカに留学し 、その後も3カ月に一度、アメリカの尊敬する先生のもとに学びに行っている。
 そのときに痛感したのは、アメリカでは精神分析は患者から高い治療費をいただく客商売なので、患者さんのニーズや社会の背景、悩みの変化などに応じて、理論や臨床テクニックがフレキシブルに変わっていくということだ。一応、創始者なのでフロイトの原著には当たるが、その理論に囚われるより、どのように応用・発展させるかのほうが重視される。
 しかし、日本では、精神分析の学会のある学会ボスが留学経験もなければ、英文の論文もゼロ(私でさえ、査読を受けた英文の論文は3本あるのだが、実は日本人の現役の学者では、英文の論文がアクセプトされているのは、私の知る限り、2〜3人しかいない)という特殊事情もあって、私見では、およそアメリカでは通用しないような古典理論が幅を利かせ、学会に行くと、それに反するようなことを言うと「長老」の学者から非難される。」

とある。
これはもっともな意見。

ぼくも民間企業から大学に転職して、同じ印象を持った。
理論を軽視するのではない。
どちらかというと、ぼくは理論は好きだ。
しかし、社会からの要請で既に出てきている対処法を、「学派が違う」というような下らない理由でカリキュラムに入れなかったりするのを見ると、疑問を抱かざるを得ない。
これなら、象牙の塔で研究していると言われても仕方ないだろう。

ぼくの知っている教員は、昔から言われているリクツを金科玉条のように奉っている人が多かった。
自分は○○派である、というようなことを公然と言っていたりする。
あれは学問ではなく、もうイデオロギーだと思う。
教員はそれでも生活が保証されているが、社会に出ていく学生はどうなるのだ。
こんな状況なら、文科省から「社会に役立たない」と言われても仕方がない。

もっと問題なのは、昔から言われていることだが教育の軽視だろう。
文科省は世界に伍して研究をする大学と、そうでない大学を分けようとしている。
そうでない大学では、研究をするよりも、教育をメインにしなさい、ということだ。
これは正しい。

もちろん、全く研究をするな、と言っているわけではない。
研究内容は教育内容にフィードバックされるから、研究はしてもらったらいいのだ。
従来は「研究・教育」という順序だったのを、「教育・研究」にしようということだ。

どうしても、下位の大学は教員の質も悪く、研究と言っても論文もなかなか出さない。
出しても学内紀要に書くような、どうでもいい論文だ。
ちゃんとした学会誌に論文を書ける教員は、ほんの一握り。
まあ、学会もピンキリだが…。

だから、教育を重視して、学生の教育をメインにやればいい。
でも、なかなかそうもいかない。
教育の方法をわかっていないからだ。
自分で勉強すればいいのだが、自分は研究者だと思っている教員は、自分の研究領域以外は興味もなく、あくまで教育は「ついで」だと思っている。
それでも上位の学校は、学生はついていくのだろうが、下位の学校では「ついで」ではダメだ。

それ以外にも、そもそも自分の教える科目が、学生が世の中に出て、役に立つのか、という問題もある。

すぐに役に立つ知識は、すぐに陳腐化する、という意見はよく言われる。

しかし、これに対して、文科省の資料の元になった冨山和彦氏の反論が新聞に出ていた。

 「アカデミズムから私への反論で、『すぐに役立つ技能はすぐ役に立たなくなる』というのがあります。しかし具体例は聞いたことがありません。簿記会計は、企業の活動を計量的に記述するビジネス世界の基礎言語であり、これなしに企業活動や経営について考えることはできません。その基本構造は数百年にわたって変わっておらず、すぐに役立ち、これからも長く役立つことは間違いありません。実学的な基礎技能こそが、教養中の教養なのです。大学でこのシフトが進まないのは、実務訓練を見下しているからです。おかしなプライドが、役に立たない学生の大量放出をもたらしている。現実を知ろうとしないアカデミズムの人たちこそ、『常識に欠ける』と言いたい。いま法曹、公務員、会計士などを目指す学生の多くが大学と並行して、専門予備校に通っている現実こそ恥じるべきです」

その通りだと思う。実務訓練と理論を並行でやらないといけないのだろう。
そのさじ加減を理解して、ちゃんと普遍的な真実なるものを教えることができれば素晴らしいと思う。
でも、これも難しいのではないかなあ。

和田氏は日本の教員のレベルが低いという。

「要するに、日本の高等教育がエリート教育機関になれないのは、教員のレベルが低いからとしか言いようがない。」

エリート教育機関にならなくてもいい、下位の大学ではもっとひどい。

何をどうやって教えて、それがどう学生の役に立つのかということをちゃんと考えて、学生のレベルも理解して、講義をして、提出物をフィードバックする、というサイクルを回せる人は、申し訳ないがほとんどいなかった。

日本学術会議は「人文・社会科学の軽視は大学教育全体を底の浅いものにしかねない」という声明を出した。

さて、文科省の改革は進むのだろうか。



| | 考えたこと | 21:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロビンソン・クルーソーと浦島太郎
日本で「浦島太郎」というと、長い間どこかへ行っていて、急に帰ってきて回りについていけない、という状況を表す例えに使われる。
長年の海外駐在から帰ってきて、日本の本社に出てみたら浦島太郎状態だった、というような言い方。

今日翻訳の本を読んでいたら、そういう意味の「浦島太郎」に「ロビンソン・クルーソー」というルビがふってあるのに出会った。

英辞郎Webで調べてみたが、「ロビンソン・クルーソー」を日本語で例えられる「浦島太郎」の意味で使っている用例は載っていなかった。
でも、原本では「ロビンソン・クルーソー」を使っているから、そういうルビをふったんだろう。

ロビンソン・クルーソーは架空の人物だが、無人島に取り残されて28年間過ごした。
きっと28年経って故郷に帰ったら、だいぶ様変わりしているだろう。
だから、ロビンソン・クルーソーという例えになったのかもしれない。

浦島太郎の場合は、竜宮城に何日かいたら、もとの故郷では白髪のおじいさんになるくらいの時間が経っていたという、相対性理論の世界だが、ロビンソン・クルーソーでは、たんに28年経っただけのなので、例えとしては浦島太郎の方がよく出来ている。
読んでいた本がコンピューターの本だったから、ロビンソン・クルーソーでもよかったのかもしれない。

でも、これをロビンソン・クルーソーで例えたということは、それ以外にアメリカには浦島太郎に似た話はないということだ。
フランスには類似の話はあるみたいだが、そんなに有名ではないのかもしれない。

浦島太郎の話は、世界中どこでも同じスピードで時間が経つという、ぼくらが持っている常識を覆すところに面白みがある。
こういう話を聞いていた日本人は、アインシュタインの相対性理論も理解しやすかったのかもしれない。
そういう意味ではなかなかスゴイ昔話だ。

まあ、理解はしても、そういう発見はできなかったのだが…。





| | 考えたこと | 00:37 | comments(0) | trackbacks(0) |