考えたこと2

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「聴く力」の強化書 岩松正史 自由国民社
CDAという資格を取ったのだが、その2次試験のロールプレイの参考に購入。
1回目の2次試験は落ちて、もっと傾聴をしないといけない、ということだったので、「聴く力」という題名に惹かれた。

この本は読みやすい本なので、一日あれば余裕で読める。
書いてあることも著者が講演でやっていることなので、わかりやすい。

こういう本を読むと、いかに普段人の話を聞いているようで、聞いていないかということがよくわかる。
「傾聴」というのが、難しいということがよくわかるのだ。
耳を傾けて聴けば、傾聴ができると思ったら間違い。
ちゃんとリクツがある。

傾聴は感情にアプローチするものだという。
要は、気持ちを聴くことになる。

対して、アドバイスというものは、認知や行動にアプローチするものだ。
ついついこれをやってしまう。
自分の考えを話すのだ。
これが悪い、というわけではない。
時と場合によってはアドバイスが必要なこともある。
しかし、傾聴はアドバイスとは違うのである。

胸のあたりに「心のバケツ」を想像して、そこがいっぱいになっていると想定する。
感情が、バケツから溢れ出している状態。
そんな状態なら、誰かがアドバイスをしても聞けない、聴く余裕がない、ということだ。
だから、有効なアドバイスをするためにも、傾聴をして心のバケツの水の水位を下げることが必要になる。
たいがいの場合、心のバケツの水位が下がってくると、次の一歩は本人が考える、と著者は言う。
自分で決めたことほど、高いエネルギーを持って向き合えるから、それが大事だという結論。
だから、傾聴は大事だという。

しかし、常に傾聴が必要だと言っているのではない。
傾聴のスイッチを用意しておき、そういう場面では、スイッチを入れられるようになるといい。

「あなたが、もしコミュニケーションで困っていることがあるなら、「傾聴力」のスイッチを持つと、必要な時に傾聴が使えるようになります。
「傾聴」はあなたが楽になるために、いいとこどりして使えるものなのです。」

この本には訓練のやり方や、会話の事例が書いてある。
なかなかためになる。

例えば、事柄と気持ちの違い。
何も意識せずに聞くと、事柄をついつい聞いてしまう。
事柄とは、誰が、いつ、どこで、何を、どうやって…、という類のもの。
事柄はイメージできるから聞きやすい。

しかし、気持ちはイメージできない。
感じて、わかることしかできない。

何も意識せずに聞いていると、ついつい事柄を確認しようとして、話の腰を折ってしまう。
事柄は本人にとってはわかっていることで、どうでもいいことなのだ。
それよりも、気持ちを聴くことが傾聴の第一歩である。

言うは易く、行うは難し。

そういうトレーニングの本である。

1300円は、トレーニングに行ったと思えば安い。

しかし、1つ大きな疑問なのは、仕事でたくさんの臨床心理学者と付き合ったが、あの人たちが傾聴ができているとはとても思えないことだ。
単にスイッチを入れていないだけなのか、もともとスイッチがないのか、よくわからない。
まあ、商売柄、お金をもらえる時だけ、スイッチを入れるのかもしれないが…。

お互いのコミュニケーションもよくない。
要するに仲が悪い。
認めあったらいいと思うのだが、これもなかなかうまくいかない。

だから、仲間づくりが下手だ。
まあ、普通に言うと、人付き合いに関しては下手な人たちが多かった。

そういう疑問は残ったが、まあ、よしとしよう。


| | | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
面倒くさい人
面倒くさい人、というとどういうイメージだろうか。

「障害者の害という字は、漢字で書いたらダメ」などという人を思い浮かべたら、今回は正解。

為末大というオリンピックの元選手が、スポーツコメンテーターをしているらしいが、この人が「障害者に関する世界に行くと、面倒くさい人がいる」とつぶやいて、賛否がまき起こっているらしい。

この人の真意は、「障害者への理解が進まない一番の理由は、そうしたヒステリックな正義の人がいるからだ」ということ。
彼は「障害者の方だけに特別慮らなければならないとは思いません」と言っている。

実際、彼は元アスリートの立場で競技用義足の開発に携わったり、パラリンピック強化のための有識者会議のメンバーとして活動もしている。
彼の意見は、とても納得できる。

もう20年くらい前になるか、筒井康隆が断筆宣言をしたきっかけも、同種の問題だったと思う。
こちらについても賛否両論があるが、きっとひとことで言うと「面倒くさい人がいる」ということなのだ。

そのひとことを彼はつぶやいた。
記事の中で彼は言う。

「ヒステリックな正義の人の例として、「400メートル障害」ではなく「400メートルハードル」と言ってほしいとか、「障害」ではなく「障碍」にしてほしい、などと訴える人たちで、言ってはいけない言葉が多すぎたため「しばらく話すのをやめました」などと説明した。」

「障害」を「障がい」と書けというのも、同じことだろう。
いつの間にかそういう言葉が増えた。
「子供」を「子ども」と書くのも(文科省は正式に「子供」に統一したが)、根っこは同じだと思う。

彼は障害者理解の障害になっているのは、「正義」の人だという。

「障害者に関する世界に行くと、面倒臭い人がいて、それが嫌になって障害者に関する仕事は避けようかなとなっている人がいかに多いことか。障害者への理解が進まない一番の理由はヒステリックな正義の人だと思う」

これは、彼自身がパラリンピックなどの障害者の世界に行って、感じたことだろう。
実際、ヒステリックに怒られたら、やる気がなくなるのも事実。
それが、納得できることならまだいいが、どちらかというと「どうでもいい」ことだとぼくなどは思ってしまう。
単に言い方(書き方)を変えただけではないか。
でも、「どうでもいい」などということ自体が、きっと「ヒステリックな正義の人」の逆鱗に触れるんだろうが…。

実際、大学で仕事をしていた時は、気を遣った。
書いたものは残るし、時代の流れに合わせないといけない。
大学という組織を守るためには仕方がないから、障害は障がいと書くし、子供は子どもと書く。
でも、書きながら違和感があった。
「どうでもいい」ことなので、ヒステリックな正義の声に合わせるのだが、それでも「そんなことを声高に言っても、何も変わらないんと違う」という違和感だ。

為末に賛成の意見として、「当事者達より支援者と名乗る人達の方がはるかに面倒臭かったです。『当事者はかわいそう』というスタンスでの言動をする人が多かった。そういう人って無駄に熱心だったなという印象です」、「障害者の方本人は気にしていないのに、周囲が勝手に嫌だろう、差別的な表現だと決めつけて...。自称支援者が一番差別視していると思うんです」というものがあった。

ぼくもそう思う。
でも、それが「思慮が浅い」とか、「そういうことを言うから差別がなくならないのだ」、と言われたら、黙る。
そして、もう関わるのはやめる。

世の中にどれくらい「ヒステリックな正義の人」がいるのかわからない。
そんなに多くないと思う。
でも、声は大きい。
記事の最後に、反対者への為末の意見として、こう書かれている。

「「深く理解してくれる人しか認めないという姿勢だと、結局世の中の多くの人はめんどくさい事が嫌いなので理解が進まず、その弊害が出ているように私は思います」
と返した。障害者に関する法律や、障害者に対する人々の態度はいくらでも整備できると思うけれども、人の腹の底にある考えは強制ができない。偏見を無くすためには理解してもらおうという努力が必要で、そのためには対話を続けるしかないのだけれど、対話を続けるには残念ながら世の中にはたくさんの問題があり難しい、と説明した。」

こういう問題では、「正義」がややこしい。
「正義」というのは、声高に掲げてしまうと、正義でなくなる場合があるんだと思う。
本当の正義の人は、ヒステリックではないし、正義を声高に叫んだりなどしないと思う。

じっと考えて、「まあ、それでもいいね」という多様性を認める人こそ、本当の正義の人なんだろう。

為末大は、いいことを言ったと思う。


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