考えたこと2

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世故長ける
「世故長ける」という言葉がある。
調べてみると、この言葉にはいいニュアンスと悪いニュアンスがある。
いいニュアンスは「世間の事情に通じていること」で、悪いニュアンスは「抜け目がないさま」ということだ。

いい、悪いというのはぼくの判断だが、抜け目がない、という言い方はあまりいい意味では使わないと思う。
ぼくは「世故長けた」という言葉に、いいニュアンスしか感じていなかったので、ちょっと驚いた。

だいたい、年をとると世故長けるもので(長けるというのが年をとるというニュアンスがある)、年配の人は世故長けているものだと思っていた。
冠婚葬祭のことや、人間関係のこと、世情のこと…、総じて言えば人生の機微というようなものに精通してくるということだ。
年をとったら、そうありたい、という願望もある。

しかし、4人に1人が高齢者のこの時代になって、いったい世故長けるにはいくつにならないといけないのか、という疑問が出てきた。
65以上が高齢者という定義だから、65を超えたら世故長けるのか、というとちょっと難しい。
最近の高齢者を見ていると、悪いニュアンスの方が目立つということもある。

都構想の結果の記事がたくさん出たが、反対派が勝ったのはバスや地下鉄の「敬老パスが廃止されるおそれがある」、というような理由が挙げられている。
あくまで「おそれがある」だけだし、そんなことをいえば大阪市のままでも、採算が厳しくなったら廃止するか、年齢を上げるだろう。
「世故長けた」年配者は、そんなことを考えて「それは都構想とは関係ない」という判断が出来る人だと思う。
でも選挙の結果を見ると、「世故長けた」という言葉に、損をしないように「抜け目ない」という意味がつくのが何となくわかる。

悪い意味で、世の中に世故長けた人が増えたのだろう。

結局、いい意味で世故長けるためには、年をとるだけではダメなんだろう。
もし単に年をとって世故長けるのなら、日本は着実に道徳国家になっているはずだ。
でも、現実にはそんなことはない。

そんなことを考えると、やっぱり年をとるのは難しい…。




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