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2014.08.01 Friday
聡明な学長
こないだの日経の社説に、「聡明な学長ばかりならいいが」というのがあった。
文科省は教授会の位置付けを下げ、「改正法ではこれを限定し、教授会は「教育研究に関する重要事項」について学長が決定をする際に意見を述べる機関と位置づけた」と書いてある。 長年、教授会が大学改革を阻害してきたから、今回大なたをふるったというのが実態だろう。 ぼくが見たかぎり、教授会というのは労働組合みたいなものだった。 自分たちの利権、既得権を陰に陽に守ろうとする、そんな権利を行使しようとしているとしか思えないような会議体だ。 それは、学校教育法で定められているから、というのが根拠だったが、これが崩れた。 とにかくなんでも反対、俺は聞いてないぞ、などという意見が通る。 もちろん、もっとまともな教授会もあったかもしれないが、今回新聞等で見るかぎりは、そんな側面があるから、大学改革が進まないという阻害要因の方が多かったのだと思う。 どこの大学も、事務に聞けば「教授会」の逸話はいくつか出てくると思う。 オトナの社会では考えられないような逸話だ。 それらを防ぐためには、今回の学校教育法の改革は仕方がないものだろう。 私立大学の事務の人たちはたいがい「教授会」というと「あー」という反応だと思う。 この「あー」には、「しゃーないなー」という嘆きや「センセイのことだから」という諦めが込められていることが多い。 そういう慨嘆は日本中で聞くことができると思う。 私立大学は、すでに教授会の権限が制限されているところが多いが、それでもまだまだ嘆きはあるだろう。 実際、大学に関して、これほどまでに欧米に後れをとったのは、あまりにも保守的な教授会の存在が大きかったと思う。 要は変化に対しては「何でも反対」「とりあえず反対」というスタンスだからだ。 大学教授という「学問の自由」に守られた人たちが、その自由を履き違えている。 自由だからこそ、自らに厳しく、変化を受け入れなくてはならない時は、受け入れなければならない。 実際には、とにかく、自分たちがシンドくなる方向には反対だ。 組織として、よりも自分のことが大事。 まあ、組織に属しているという意識すら持っているとは言いがたい人たちが集まっているのだから、仕方がない。 でも、おおかたの「改革」というものは所属するメンバーに痛みを伴うものだ。 だから、意識が変わり、改革らしい改革になる。 今回の改正について、社説では学長の聡明さを心配しているが、そんなことはいっこうにかまわない。 学長が暗愚なこともあるだろう。 それなら、学長を交代させればよいだけの話。 今までの「教授会」という集団無責任体制を続けるよりはよっぽどマシ。 ダメだったらダメといって責任を取らせないと、反省すらしない。 いつまで経ってもオトナにならない。 だから、失敗したら失敗したでかまわない。 失敗を経験して、人はオトナになっていくのだ。 会社員と違って、少なくとも教授という身分が保証されているんだから。 ぼくはそう思う。 |
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