考えたこと2

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リスキリング
リスキリングという言葉がある。

これはリスを殺すという意味ではない。
もう一度スキルをつける、ということで、リ・スキリングということだ。
今の世の中、仕事をしていてもそれが陳腐化してしまうということがある。

予備校の講師という仕事があるが、今流行りの学校ではインターネットで教えるのがうまい講師の映像を流し、生徒に見せて授業をしている。
今でしょ、で有名になった人も講師だ。

いろんなところに校舎があるが、講師の人数は増やす必要がない。
映像を送信するインフラが安くなったから、インターネットで画像が送れるのだ。
今まで教室ごとに何十人、何百人いた講師が、十数人で済む。
その代わり、上手な講師は破格の給料で雇う。
それでも、今までよりトータルでは安くなる。

教育という一番人工知能で置き換えにくいと思っている分野でも、こういうことが起こる。
実際、上手な講師は周辺知識も豊富であり、いろんなサイドストーリーを入れながら授業をすすめることができる。
そういう人に習うほうが、圧倒的にショボい講師よりも得だ。
要点を明確に伝え、誤らない。
そういうやり方の予備校は増えていくだろう。

そこで、たくさんの講師の仕事がなくなる。
そういう人たちに必要なのが、リスキリング。
要は技術の進歩や環境の変化によって、仕事がなくなる人が出てくる。
その人たちが仕事を継続するために、もう一度何かのスキルを身につけるということだ。

これからはAIやロボットも増えるし、いろんな仕事がそれらに置き換えられる。
それによって、新たな仕事も出てくるだろうが、それにはきっと新しいスキルが必要とされる。
そのためにも、生涯学習の施設を増やさないといけない。
そして、そこでもう一度スキルをつけられるような仕組みを作らないといけない。

文科省が以前から出している、専門職大学というのは、まさにそれに当たるものだと思う。
今の下位の私学の半分はそちらに変える方がいいと思う。

それが将来のリスキリングの機関になるべきだ。

動きは遅いが、早くやらないと間に合わなくなるぞ。

| | 考えたこと | 20:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
なぜ大学は変われないか
下位の大学では、定員割れところもたくさんあり、大学が多すぎるという声もあり、何とかしないといけないと関係者も思っているはずだ。
だいたい、18歳人口という18年前にわかっている状況と戦っているのだから、先行きは透明だと言っていい。
一般企業で先行き不透明というのとは全く違う。
2018年に受験生が減るというのはだいぶ前からわかっていることだし、定員割れを起こしている大学は、どの学部、学科が人気がないということはわかっている。
それなら経営陣がバカかということになるが、ある意味バカではあるのだが、制約があるから仕方がないとも言える。
その仕方がない、という要因は教員だ。

大学で新しいことをやろうと思うと、ネックは教員になる。
作る方はわりとハードルは低い。
だいたい、定員割れと言われてだいぶ経つが、そんなに多くの大学が潰れていないところを見ると、お金はあるのだ。
そのお金で人気が出ると思われる学部、学科を作ればいい。
今なら人工知能とか、ロボティクスとか、農業とかいろいろある。
地方なら、農業経営に特化した学部など流行るかもしれない。
その道のいい研究者を連れてきて学部長にして、教員を集めさせるのだ。
そうすれば、息を吹き返すこともできるかもしれない。
お金に余裕があれば、既存の学部を募集停止にして4年間持ちこたえることもできる。

しかし、なぜそれができないかというと、既存の学部の教員をクビにできないからだ。
下位の大学のネックはそこにある。
民間企業ならある程度融通がきく人も多いし、配置転換と希望退職で何とかやるところだが、これが極めて難しい。
アカデミックルートを歩いてきた教員(ばかりでもないが)は、自分の研究領域を変えたがらない。
たとえ、講義をやって学生が毎学期どんどん減っていっても、変えない。
まともな大学なら、学部長が「君のやっている領域はもう人気がないから、この領域に鞍替えしたまえ」というようなことを言う。
アメリカの大学の話を聞いたときには、学部長のおおきな役割だということだった。

でも、だいたい日本の下位の大学はまともではないことが多いから、学部長はそんなことも言わないし、言ったとしても言われたほうが言うことを聞かない。
だいたい、そういう教員は学問的実績もない。
まともな論文は書かないし、出しても学会誌などには載らない。
それでいて、自分の研究領域には固執することが多い。

だから、既存の学部がやめられない。
さすがに、新しい学部と既存の学部を両方持つことはできないから、どうすることもできない。
こうなると座して死を待つしかない。
それが分かっていても、そうなるんだろうと思う。

同志社大学の名物教授が「突然の退職」を通告されるまでという記事を見た。
この内容がどうということではないが、世間とはだいぶ違うと思う。
同志社大学の大学院の教授が、65歳になって、定年延長を認められなかったということで訴訟を起こしている。
争って3年目だという。もう69歳。
記事ではこう書いている。

「同志社大学の教員の定年は65歳。だが、大学院の教授だけは1年度ごとに定年延長が認められている。健康上の理由や他大学に移るといった自己都合以外では、定年延長は基本的に認められ、1976年以降、93.1パーセントの教授が1年以上延長し、70歳まで務めた教授は74.9パーセントにのぼる。」

教授は元記者で、ジャーナリズムを専攻しているとのことで、いかにもそういう感じだ。
定年延長が認められなかった理由は、「研究者としての能力、論文・著書の内容の学問的質に問題がある。「運動」としての活動はあっても、大学院の教授の水準を満たす研究はない」ということだったらしい。
もちろん、それに対して反論もしておられるし、言い分はあるのだろう。

しかし、世間の目から見ると、65歳定年で延長を認めるか認めないかは雇っている側の決めることであり、文句をいう筋合いではない。
それが今の労働者としては当たり前の状況だと思うのだが…。

それはさておき、教員をクビにするとこういうことが起こる、ということが大学側が教員の入れ替えができない、という事態を起こしているということだ。

新しい学部を作りたい、という思いを持った経営者はわりといると思う。
しかし、既存の学部に大ナタを奮って、募集停止にして教員をクビにして…、という経営者はほとんどいない。
一部の、お金が潤沢にある、上位の大学になるだろう。
結局大多数の教員が定年で辞める時期まで待とう、ということだ。

そうこうしている間にも、学生は定員割れといえども入ってくる。
そして、時代に合わない講義を聞かされる。
そういう先生は当然ながら「教育」に関して感心がないことが多い。
それが多かれ少なかれ、下位の大学で起こっていることだろうと思う。

この記事の裏側には、そういう事情もある。
同志社大学はきっとそんなことはないが、下位の大学の経営者はこれを見て、「こんなややこしいことに巻き込まれるのは嫌だ」と思っているに違いない。

だから、大学は変われないし、ひいては、若い研究者が就職できないのだろう。

それがぼくが10年間大学で見てきたことだ。


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