考えたこと2

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「笑わせる」と「笑われる」
桂米朝の弟子で最も人気があったのが、桂枝雀。
自殺されたのは、残念だった。

師弟ではあるが、米朝と枝雀は落語に対する考え方が対照的だと思う。

米朝がどこかで言っていたが、枝雀が自分の落語を聞いて笑うということがわからない…ということだった。

米朝にとっては、落語というのはお客さんを「笑わせる」ものであり、計算されたセリフや間、話し方などを研究して、演じているものだったと思う。
これが普通の落語家の考え方なのかもしれない。
だから、自分の落語はそれを分析的に聞くものであり、笑ってなどいられない。

生前の枝雀が言っていた、彼の究極の舞台というのは、自分が高座に上がり、何も話さずそこにいるだけで、お客さんが楽しく笑う…というものだ。
これは、お客さんを「笑わせる」というよりも、自分が「笑われる」存在になれればいい、というように思える。
枝雀は「笑われる」ことを望んだから、自身の落語を聞いて、自分も笑っていたのだろう。

演者の姿勢の根本が違っている。

もちろん、枝雀の落語にはたくさんの技法、工夫が入っている。
だからこそ面白いのだ。
落語家である以上、その話芸をみがくという点では両者に変わりはない。
ただ、枝雀は技術を追い求めて「笑わそう」と思ったのではなく、どうやったら自身の落語を通じて、自分を「笑ってもらえるか」を考えたのだと思う。

自分が「笑われる」ためには、きっと自分を一度突き放さないといけないのだと思う。
外から自分を見ることができないと、どうやったら「笑われる」かはわからない。

真のエンターティナーというのは、「笑われる」ことをめざすタイプだとぼくは思う。
「笑わせる」という姿勢にはきっと限界がある。

それは、厳しく苦しいことでもあるのだろう。
技術の問題だけではなく、全人的な問題にもなってくるからだ。

泣かすよりも笑わす方が難しい。

でも、お客さんに、愛情をこめて笑われることはもっと難しい。





| | 考えたこと | 23:36 | comments(2) | trackbacks(0) |
ながら族
今の中高生はAMラジオの深夜放送を聞くのだろうか。
ウチではあまり聞いている様子がない。

ぼくらが中学・高校の頃はAMラジオの深夜放送を聞いたもの。
寝るときにラジオをつけて聞いたこともあるし、学校から帰ってから一度寝て、深夜に勉強しながら聞いたりした。
前にも書いたが、聞いていたのはヤングリクエストやヤングタウン。
中学の頃は、翌日学校で友だちと前日の深夜放送の話題に花が咲いたりしたものだ。

「ながら族」という言葉、これももう死語かもしれない。
よく親父に「ながら族」はヨクナイと言われた。
もちろん、何かをしながら、別のことをする…という意味。
勉強をしながら、ラジオを聞くのはヨクナイということだ。

でも、今になって思えば、役に立っている場面もある。

会議のときに、他の人の意見を聞いてあいずちをうちながら自分の意見をメモしたり、発言しながらまとめを書いたりするというのは、「ながら族」の訓練が役に立っているのではないか。
特に、あのころの深夜放送は、音楽を聞くというよりも、話を聞くのがメインだったから。

今でもテレビの音声を聞きながら、キーボードをたたき、時々画面を見る…というようなこともできる。(それができたから、どうというワケではないが)

聞きながら聞いていることと違うことを書く、考えながら、考えていることと違うことを話す…どちらもすごく大事なことだ。

これらはソーシャルスキルの一つだろう。

深夜放送がすたれて、「ながら族」が減り、日本人のソーシャルスキルが落ちたのかもしれない。

ヤングタウンに感謝しないといけない。



| | 考えたこと | 02:25 | comments(0) | trackbacks(0) |