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2008.01.19 Saturday
「笑わせる」と「笑われる」
桂米朝の弟子で最も人気があったのが、桂枝雀。
自殺されたのは、残念だった。 師弟ではあるが、米朝と枝雀は落語に対する考え方が対照的だと思う。 米朝がどこかで言っていたが、枝雀が自分の落語を聞いて笑うということがわからない…ということだった。 米朝にとっては、落語というのはお客さんを「笑わせる」ものであり、計算されたセリフや間、話し方などを研究して、演じているものだったと思う。 これが普通の落語家の考え方なのかもしれない。 だから、自分の落語はそれを分析的に聞くものであり、笑ってなどいられない。 生前の枝雀が言っていた、彼の究極の舞台というのは、自分が高座に上がり、何も話さずそこにいるだけで、お客さんが楽しく笑う…というものだ。 これは、お客さんを「笑わせる」というよりも、自分が「笑われる」存在になれればいい、というように思える。 枝雀は「笑われる」ことを望んだから、自身の落語を聞いて、自分も笑っていたのだろう。 演者の姿勢の根本が違っている。 もちろん、枝雀の落語にはたくさんの技法、工夫が入っている。 だからこそ面白いのだ。 落語家である以上、その話芸をみがくという点では両者に変わりはない。 ただ、枝雀は技術を追い求めて「笑わそう」と思ったのではなく、どうやったら自身の落語を通じて、自分を「笑ってもらえるか」を考えたのだと思う。 自分が「笑われる」ためには、きっと自分を一度突き放さないといけないのだと思う。 外から自分を見ることができないと、どうやったら「笑われる」かはわからない。 真のエンターティナーというのは、「笑われる」ことをめざすタイプだとぼくは思う。 「笑わせる」という姿勢にはきっと限界がある。 それは、厳しく苦しいことでもあるのだろう。 技術の問題だけではなく、全人的な問題にもなってくるからだ。 泣かすよりも笑わす方が難しい。 でも、お客さんに、愛情をこめて笑われることはもっと難しい。 |
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