考えたこと2

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生きると死ぬ
以前、「生きる」という言葉と「死ぬ」という言葉は反対語だが、「生きいそぐ」と「死にいそぐ」は同じような意味だと書いた。

それと同じで、「生き甲斐」と「死に甲斐」という言葉も 同じような意味になる。

生き甲斐とは、「生きるに値するもの」であり、死に甲斐は(言葉は存在しないが、あるとすれば)「死ぬに値するもの」となる。
どちらも、大変価値があるもの、ということになる。
どちらかというと、死に甲斐の方がより価値が高いような感じだが…。

結局、「生きる」と「死ぬ」とは同じ意味なのかもしれない。
お互いに、相手がなければ成り立たないものだからだ。
生きるという言葉は、いつか死ぬからこそ存在するわけだし、死ぬという言葉も、生きるという状態があるからこそ存在する。
だから、「生き〜」を「死に〜」にしても同じ意味になるのだ。

ぼくの好きな哲学者、故池田晶子は「死は存在しない」といった。
死が何かはわからないからだ。
この世の人は、だれも死んだことがない。
死んだことがある人は誰もいない。
だから、死は存在しない、といって亡くなった。
死ぬ間際まで仕事をしていたらしい。
いつ頃自分の死期を悟ったのか、それはわからない。

ぼくは凡人なので、死は存在しないとまでは言えない。
自分の死は存在すると思うからだ。
ただ、その存在を認識する「ぼく」はもうその時はいない。

しかし、死後の世界を考えるのは、ナンセンスだと思う。
もしもそれが、この世とオーバーラップしているとすると、これだけ長い間人類が生きてきて、誰も見ていないというのはオカシイ。
向こうから見えて、こちらからは見えないというような事は考えない。
そんなことはあり得ない。
だから、そんな世界はないととりあえず思っておく。
こういう態度を科学的というのか、それとも単なる迷いというのか、わからない。

池田さんに言わせると、それは考えているのではなく、ただ迷っているだけという事になるのだろう。

ちゃんと考えれば、自分の死というものは存在しないし、だから、死そのものも存在しないということになる(ハズだ)。

でも、その境地に行くのはまだムリだ。

自分の死はあると思うし、それは今のところ先だが、存在していると思ってしまう。

ここが難しい。

これを乗り越えないといけないのだが…。





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