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2010.10.08 Friday
生きると死ぬ
以前、「生きる」という言葉と「死ぬ」という言葉は反対語だが、「生きいそぐ」と「死にいそぐ」は同じような意味だと書いた。
それと同じで、「生き甲斐」と「死に甲斐」という言葉も 同じような意味になる。 生き甲斐とは、「生きるに値するもの」であり、死に甲斐は(言葉は存在しないが、あるとすれば)「死ぬに値するもの」となる。 どちらも、大変価値があるもの、ということになる。 どちらかというと、死に甲斐の方がより価値が高いような感じだが…。 結局、「生きる」と「死ぬ」とは同じ意味なのかもしれない。 お互いに、相手がなければ成り立たないものだからだ。 生きるという言葉は、いつか死ぬからこそ存在するわけだし、死ぬという言葉も、生きるという状態があるからこそ存在する。 だから、「生き〜」を「死に〜」にしても同じ意味になるのだ。 ぼくの好きな哲学者、故池田晶子は「死は存在しない」といった。 死が何かはわからないからだ。 この世の人は、だれも死んだことがない。 死んだことがある人は誰もいない。 だから、死は存在しない、といって亡くなった。 死ぬ間際まで仕事をしていたらしい。 いつ頃自分の死期を悟ったのか、それはわからない。 ぼくは凡人なので、死は存在しないとまでは言えない。 自分の死は存在すると思うからだ。 ただ、その存在を認識する「ぼく」はもうその時はいない。 しかし、死後の世界を考えるのは、ナンセンスだと思う。 もしもそれが、この世とオーバーラップしているとすると、これだけ長い間人類が生きてきて、誰も見ていないというのはオカシイ。 向こうから見えて、こちらからは見えないというような事は考えない。 そんなことはあり得ない。 だから、そんな世界はないととりあえず思っておく。 こういう態度を科学的というのか、それとも単なる迷いというのか、わからない。 池田さんに言わせると、それは考えているのではなく、ただ迷っているだけという事になるのだろう。 ちゃんと考えれば、自分の死というものは存在しないし、だから、死そのものも存在しないということになる(ハズだ)。 でも、その境地に行くのはまだムリだ。 自分の死はあると思うし、それは今のところ先だが、存在していると思ってしまう。 ここが難しい。 これを乗り越えないといけないのだが…。 |
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