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2021.12.04 Saturday
年を感じること
先日同期入社の友人が亡くなって、知り合いではないが中村吉右衛門も亡くなって、今度は会社の上司が亡くなったという連絡があった。
こういうことで自分の年を感じる。 よく知っている人が死ぬというのは、やはりこたえる。 別に連絡を取り合っているわけでもないし、知らなければ知らないまま過ぎていくのだが、やはりいろんなルートで連絡が来る。 そうすると、あの人も亡くなったのか…、と思うことが増える。 若いころはそんなことは考えない。 まずは、忙しいからだ。 やることがいっぱいあって、余計なことを考えていられない。 加えて、現役の人としか付き合わないし、平和な日本では周りでばたばた死ぬことなどない。 知り合いで亡くなった人といえば、同級生で4人くらい。 仕事の先輩でも数人程度。 どこまでを知り合いというかということもあるが、寿命が長いこの国では60歳を超えてもそんなものだ。 でも、定年を迎えるくらいの年になると、まず第一に暇になる。 小人閑居して不善をなすというが、不善とまではいかなくても、あまり前向きで生産的なことを考えなくなるのだろう。 前向きで生産的なことを考えるためには、やはり社会で現役でいないといけない。 それは仕事でなくてもいいのだろう。 ボランティアでも何でもいい。 昭和の日本の男性は会社人間が多いから、そうなると弱い。 でも、会社以外でつながりを作るために、シニア向けの大学に行っている人もいるし、習い事を始めた人もいる。 畑をやっている人もいるし、クラシックカーいじりをしている人、ゴルフ三昧の人もいる。 人それぞれ、対策をしているのだ。 ぼくのギター教室もそういうものだ。 月に2回習いに行って、2回教える方の教室をやっている。 今は教える方は月に2回だが、仕事ができなくなればもっと増やしたいと思う。 しかし、それもいつまでできるかわからない。 そこから先のことは考えるのをやめよう。 |
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