考えたこと2

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日本史
行き帰りの車の中で何かできることはないか、と思って音楽を聴くのもいいが、話を聞こうと思って、いろいろCDを買っている。

この年になって、日本史をもう一度勉強しようということで、アマゾンで調べてみると以前は2万円くらいで売っていた予備校の名物講師の講義が1850円で売られていた。
これはいい、と購入したら、10時間分の元CDを1枚のMPEG3のディスクにして入っていた。

さすがに、予備校の名物講師は講義がうまい。
歴史をどう捉えたらいいかというようなことも話す。
ぼくは日本史が受験科目だったのでとりあえず覚えたが、古代史、中世史などは本当に覚えただけだった。
縄文、弥生、飛鳥、奈良、平安、鎌倉、室町というところだ。

本当はテキストを目の前において、講義を聴きながら穴埋めをしていくという使い方だが、ぼくにとっては聞くだけでも十分。

歴史というのは、政治、外交、文化という3つの側面で考えていかないといけない、と先生は言う。

事実、中世の日本は今の中国、韓国とどうつき合っていくか、というところが非常に重要だった。
遣隋使、遣唐使、白村江の戦い、朝鮮出兵、元寇など、どうやって中国という大国とつきあうか、ということが政権の問題の一つ。

そして、本当の天下統一とはどういうことか。
度量衡の統一、国内どこでも同じ基準を作るということが天下統一の意味だ、と先生は言う。
それが太閤検地。
なるほど。
日本各地で別々の升を使っていては、米の取れ高を計るのが難しい。
それをやったのが秀吉の本当の偉さ、と先生が言っていた。

そういう見方をするのが、生きた日本史の考え方だろう。

今になると、そういうことがわかる。

さすがに予備校の名物教師はスゴイ。


| | 考えたこと | 23:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
どうでもいいヤツ
自分の性格の特徴を調べてもらった。

その結果、「自分の能力に自信があり動じない。イザとなればやれるという自信がある。ただし、イザとなるかどうかは別であり、最後までイザとならない場合もある。」「自分がそうだからといって、人も同じように思うとは限らない。周囲と気持ちが遊離しないように気をつける。」「我が強く、人の言うことを素直に聞かない。気に入らないことには非協力的・攻撃的になり、マイペースを守る。ルールを軽視する傾向がある。制約を嫌う。いばりたくなる傾向がある。」などという診断が下された。

大変よくわかる。
どうしても自分の悪いところに目がいくものではあるが、身につまされた。

「自分なりの価値観、人生観は持っているが、批判的態度を取りやすいスタイル」というコメントもある。
なるほど。確かに評論家タイプである。いい気なものだ。

「自分なりに一応説明するが、相手が理解したかどうかはあまり気にならない。相手が理解してくれないと、「ワカラナイ人はしかたがない」と切り捨てたり、「わからない相手に問題がある、わからない相手が悪い」とあきらめたり、他罰的になったりする。」

これなどは、本当に当てはまる。
自分自身諦めているのだが、自分では切り捨てることがよくある。
こんな事を言うと、「あ、あいつ、俺のことも切り捨てたな」と思う人がいるかもしれない。
そうかもしれないが、そうとも限らない。
というか、ぼくは自分を理解してほしい、とあまり思っていないフシがある。
というより、他人を理解することなどできない、というのが本音かもしれない。

理解しあえないからこそ、いろんなところで、いろんなことをしてあがく。
それが人生だと言ってもいいかもしれないと思っている。

だから、ぼくは周りの人たちを「ワカラナイ人」と思っているわけではない。

みんなが「ワカラナイ人」だと思っているのだ。

「ワカラナイ」時は、すぐにはワカラナイ。

Time, Place, Opportunityが揃わないと、ワカラナイと思っている。

それが人間関係だろう。

ごく一部の例外を除いて、みんなそうなんだと思う。



| | 考えたこと | 21:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
Good-time Charlie
ドラマの英語。"Good time Charlie"

「ただのチンピラ」という字幕が出た。
辞書で調べると、「遊び好きの人、道楽者」という意味。
直訳すると、「快楽を追うチャーリー」となる。
それが転じて、「チンピラ」ということだろう。

チャーリーというのは、一般的な男性のこと。
日本でいうと太郎というところか。

good-timeというのは、快楽を追う、という形容詞になるらしい。

面白いのは、女性版はgood-time girlで、固有名詞にはなっていない。
やっぱりチンピラは男性なんだろう。

以前書いたが、身元不明の死体は男性ならJohnであり、女性ならJaneになる。
それなら、good-time Johnになっても良さそうなのに、こちらはCharlieになるのはなぜだろう。
何となく、Johnの方が一般的な気がするが…。

Charlieで有名なのは、スヌーピーのチャーリー・ブラウン、チャーリー・チャップリンを思いつくくらい。
Johnなら、ジョン・フォード、ジョン・レノン、ジョン・ウェイン…、何となくジョンの方が多いような気がする。

まあ、Johnが多いから、気をつかって逆にCharlieにしたということも考えられる。

一度ネイティブに聞いてみたいと思うが、おそらく、「そうだから、そうだ」と言われそうだ。

言葉は面白い。



| | 英語 | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
キンドルとネクサス
iPadやアンドロイドに代表されるタブレット型端末が増えてきた。
ウィンドウズ8もタブレット用のOSだ。

CSIという海外ドラマのラボでも、紙の書類ではなくタブレットの画像で情報をやりとりしている。
実際、紙の代わりとなると、タブレットになるだろう。

ジョブズは頑強に今のiPadの大きさ以外はダメだと言った。
iPad miniという小さな端末は、ジョブズが生きていたら出さなかっただろう。
ジョブズの頭の中には、紙の書類の代替品というビジョンがあったのではないか。
アメリカのレターサイズはほぼA4と同じだが、miniはそれよりもかなり小さい。

一方、キンドルとかネクサスという端末がある。
これはアマゾンとグーグルが出したもの。
特徴としては、値段が安いこと。
iPad miniが2万8千円もするのに、キンドル、ネクサスは2万円を切る値段。
こちらは紙の代わり、という発想はない。
大きな携帯、という感じ。

端末の仕様は見劣りしない。
最先端の機器と言っていい。
なぜ安いのか。
それは売った後取り戻すこと仕組みができているからだ。

アマゾンの端末は、当然アマゾンで買い物ができるし、電子書籍を読む仕組みができている。
日本の書籍もかなり増えている。
音楽もアマゾンで買って、端末で聞くことができる。
だから、端末は安くていい。

一方、グーグルの端末もグーグルのいろんなサービスが使いやすくなっている。
グーグルのメール、カレンダー、ドキュメント作成、ストレージなど。
グーグルの収入源は広告だ。
サービスされるアプリには広告が入る。
だから、端末は安くていい。

こういう仕組みを作られると、ハードだけ作っている日本のメーカーは苦しい。
ソニーや東芝のタブレットはどうしても値段が高い。
同じような仕様でも、安くできない。
アマゾンやグーグルは原価を割って出しているのだろう。
後で儲けることができるからだ。

日本のメーカーはものづくりは得意だ。
しかし、ものと何かを結びつけるのは苦手だ。

日本の電子産業は今や素材メーカーが元気になっている。
iPadやキンドル、ネクサスといった機器の中に、日本の技術が生きているのだろう。

何とかソニーやシャープ、パナソニックに頑張ってほしい。

| | 考えたこと | 22:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
かがりさん
いしだあゆみと言えば、ブルーライトヨコハマ。

「街の明かりがとてもきれいねヨコハマ」、という歌い出しのフレーズは昭和を代表するヒットソング。
スケートと関西弁が上手だった。

その後女優に転身して、映画にも出た。

何となく幸せ薄い女性の役がよく似合う。
男はつらいよでも、何となく影のある、おとなしいが芯の強い女性を演じていた。

あじさい寺という鎌倉の寺で寅次郎とデートをする。
あじさいが参道に咲いている、きれいな寺だ。
いつもの通り、寅次郎がいざとなると身をひいて、失恋する。

「今日寅さん別のひとみたいやから…」

旅人としての寅次郎と、家に帰ったときの寅次郎は違うと気づく。

かがり、という名前の役だったが、本当に魅力的だった。
いつものように、かがりの方も惹かれているのだが、その思いを寅次郎がやんわりと拒否する。

デートを終えて、とらやに帰って来ると、さくらが兄に言う。

「本当はかがりさん、お兄ちゃんを好きだったんじゃないの」
「馬鹿野郎、おれみたいなやつにあんなきれいな人が、惚れるわけないじゃないか」

そう言ってまた旅に出る。

そういう恋が昭和の恋。

今の若い人にはわからないかもしれない。


| | 映画・舞台 | 13:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
層別
この言葉、ぼくはよく使うのだが、あまり一般的ではないらしい。

英語でいうと、Classificationという言葉になると思う。
辞書では、「調査・販売などの対象とする全体を、ほぼ同じ階層の集団に分けること」ということになっている。
あまり世間の人は使わないのか、変換しても最後の方だ。

しかし、品質管理のことを知っている人はよく使う。
データーを一つ一つ見るのではなく、かたまりで捉え、分ける、というような意味だ。
その作業を層別、という。

データー一つ一つには意味がない。
一つだけ飛び抜けたデーターがあれば、特異点として扱うことが多い。
それに意味があることも多いのだが…。

より一般的な分析をするためには、層別を行う。
データーをどのような塊に分けるか、ということだ。
データーはいろいろな属性を持っている。
どの特性を層別に使うか、どれとどれを組み合わせるか…。
これが分析の肝になる。

単に時系列に平均と標準偏差をとって並べていくのは、常にやっていること。
それで何か問題が起こったときに、過去にさかのぼってその予兆がなかったかどうかを調べる、というようなことをやる。
ラインが複数あれば、ラインに層別する。
シフトがあるなら、シフトごとに層別する。
材料のロットが違うなら、ロットごとに層別する。

こんな風にして、品質管理を行う。
実際にはもっと高度なことをやっているのだが、簡単にいうとこんな感じだ。


| | 考えたこと | 01:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
フリードマンの大原則
テレビで池上彰がフリードマンという経済学者について話しているのを聞いた。

フリードマンの大原則というのがあるらしい。それによると、国の役割は外敵から国を守るということだけであり、そのほかのことは、国がやるよりも、自治体がやった方がよいということだ。

その他にも、市場経済は自由を守るとか、自由なマーケットがあれば、差別などなくなるというのもあるらしい。

また、こんなもの要らないというのも紹介していた。

たとえば、農産物の買い取り保証価格制度。
農産物が安くなってしまうと農家が危ないから、政府が買い上げるという制度だ。
民主党マニフェストの農家の戸別保証政策はまさにそうだが、財源で見直し中となっている。
農産物をたくさん出荷している農家は金持ちの農家。そういう農家は買い取り保証制度ができると、よけいに儲かる。
しかし、貧しい農家はごくわずかで助けにならない。
つまり、税金が投入され、高い値段で農作物を買わされる。
貧しい農家には助けにならないし、国民は高い値段で農作物を買うことになる、というリクツ。

また、輸入関税や輸出制限というのもあった。
輸入関税は、国内の産業を守るために、輸入に税金をかけて高い値段にする。
輸出制限は、国内のものが足りなくならないように、制限をする。
これは、輸入関税をかけることによって、海外の安くていいものを消費者が買えない。いいものを安く買う権利を犯している。
また、輸入関税をかけないと助からないような産業は効率がわるいので、潰れてしまった方がよい、または効率をよくして安くしないといけない。
消費者の権利を守り、弱い産業を切り捨てる(あるいは強くする)ためにも、ない方がよい。

家賃統制、というのもある。
大家が家賃を上げることを規制する。つまり、家を借りている人の権利を守るための法律。
これが要らないというのは、弱いものの切り捨てのように聞こえる。
しかし、大家がよい住環境にしようと思うと、コストが上がるから、家賃を上げようとする。
でも上げてはいけないということなら、大家は手を入れないので、住環境が悪くなるし、新しいアパートやマンションの建設が止まる。
結局、統制をやめて新規参入を増やすことが、値段が安くて、よい物件が増えるということになる。

さらに、現行の社会保障制度も要らないという。
つまり、年金、医療、介護などの社会保障制度は不要ということだ。
これは、個人が自分のお金を自由に使う権利を侵害しているというリクツ。
年金などは個人が自己責任でやるべきもの、という意見らしい。

結構刺激的な意見である。

実際、アメリカの政策は、フリードマンの意見にしたがって決めているものもあるような気がする。
市場経済至上主義というか、よけいなことはやめた方がいい、ということだろう。
人間がどうこう考えるより、市場に任せ、自由にやる方がうまくいく、というもの。

たしかに、それはそうかもしれない。

今の日本の状況を見ていると、賛成してしまう。




| | 考えたこと | 01:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
死後の世界
死後の世界はどうなっているか。
そもそも、そんなものがあるのか。
これには諸説あるらしい。

ぼくが信じているのは、昔言われていたもの。
死ぬと閻魔大王がいて、審査をし、よければ天国、悪ければ地獄に行く、というもの。
信じている、というか、小さい頃にそう聞いた。
それ以降、まともにそういうことを聞いたことがない。
だから、死後の世界をイメージすると、閻魔大王が出てくる。(落語に「地獄八景亡者の戯れ」という演題があって、それから来ている感じもする。)

キリスト教やイスラム教ではどうなっているのだろう。
よくわからない。
キリスト教では、きっとイエスの元に行くのではないか。
イスラム教は全くわからない。

元々、仏教は輪廻の思想というのがある。
来世では生まれ変わって…というやつだ。
ヒンズー教もそうなのかもしれない。
それはどうも、信用できない。

池田晶子は死後の世界はない、と言いきった。
そもそも、死がないという。
人間は生きているから、考えることができる。
死はあるかもしれないが、死ぬと何も考えることができないので、そんなものは存在しない(という事だったと思う)。
これはこれで真実かもしれないが、ちょっと難しい。

やっぱり死をカウントしないと、人生は面白くない。
人生を面白くするのは、死があるからだ。
死ぬまで生きること、それが人生。
当たり前のことだが、死があるからこそ、生がある。
生に意味を与えるのは死だろう。
ずーーーーっと生きていられるのなら、生に意味を見いだせるだろうか。

もし、ずっと生きていられるなら、何をやっても、やり直しがきく。
失敗しても、次は成功すればいい。
成功するまでやる。
そんな風に考えることができるようになる。
それは面白くないだろう。
人生は一回きり、という制約が人生を面白くも、悲惨にもするのだと思う。



| | 考えたこと | 23:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
藤本義一の言葉
藤本義一の講演で言っていた言葉。

人生は時間の塊で捉えた方がいい。
そしてできるだけ何か具体的に決める方がよい。

彼は「一日1時間を自分で決めたことに使う」と決めた。
一日1時間ということは、1年で365時間。
365時間ということは、15日。
1年間で15日間徹夜をしたのと同じということだ。

15日間徹夜を続けると、人間は死ぬ。
もし死ななかったら、気が狂うらしい。
いずれにせよ、15日間徹夜を続けると人間はダメになる。

つまり、一日1時間何かをすると、1回死ぬほどのことがゆっくりできる。

これはスゴイ事実。

15日間一睡もせず、ずっと何かをし続けると、死ぬ。
でも、一日1時間何かをするということなら、ゆっくりできる。

これが一日1時間の意味。

さすが藤本義一。




| | 考えたこと | 00:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
はるか未来
月は地球の衛星だが、これは地球ができた頃に火星のサイズの天体が衝突して、それによって月ができた、という説が有力らしい。

この頃はまだ地球はもっと熱かったのだと思う。

月ができたおかげで、地球の自転速度のばらつきが減り、自転軸も安定したらしい。
要は月があってこその地球の今の環境、ということだ。
月には感謝しないといけない。

何でも、10億年後には地球の自転周期は31時間と計算されているらしい。
これは海水が地球の自転よりも遅く、摩擦力になっているからということだ。

10億年後のことを考えても、あまり生産的ではないが、しかし、31時間の自転周期になったら、何が起こるのだろうか。
昼と夜は長くなる。
今よりも3時間ほどずつ長くなる計算。
それによって、温度が変化するかもしれない。
日照時間が長くなると、暑くなるし、夜が長くなると、冷たくなる。
要は気温変化がだいぶ大きくなるということだろう。

10億年の間に、天体衝突は起こっているような気がする。
そこそこ大きな天体が衝突すると、生命は滅亡する(可能性がある)。
滅亡したとしても、たくさんの生命のかけらは残っているだろうから、また生まれる可能性がある。
有機物がメインだから、今の生き物に近いような生き物にはなるだろう。

進化の法則は二度やっても、同じことが起きるのだろうか。
起きるとすると、人間型の生き物が生まれるだろう。

しかし、人間が生まれてたかだか数十万年。

10億年も先のことは、はるか未来。

とうに自分は死んでいるが、いったいどうなるのだろうか。

興味があるなあ。



| | 考えたこと | 23:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
カセットテープ生誕50年
今年はカセットテープが生まれて50年にあたる。

カセットの前はオープンリールだったが、ヨーロッパのフィリップス社がカセットテープというのを提案して、録音が一気に便利になった。
最初の頃のカセットは音質が悪く、とりあえずの録音用という感じだったが、年を経るごとに改良され、クロームテープなども出てきて、音質がよくなった。
それと同時にドルビー・ノイズ・リダクションというのも出てきて、ハード面でも改良された。
そんなこんなで、オープンリールのテープよりも幅が狭いし、テープ速度も遅いのだが、どんどん使われるようになった。

ぼくらはカセットの世代、と言ってもいいかもしれない。

中学生の頃にカセットが一般的になった。
70年代から、80年代の20年間がカセットの時代。
カーステレオも当然カセットだった。
自分の買ったレコードをカセットデッキで録って、それを車で聞く。
そんな時代が十数年続いた。

90年代に入って、MDが出てきて、カセットを駆逐した。
そのMDもiPodをはじめとする、MP3プレーヤーとインターネット音楽配信に駆逐されてしまったが…。
でも、カセットの黄金時代は20年ほど続いた。

FM放送を録音するのもカセットだった。
気に入ったアーティストのアルバムが流れる番組を録音する。
それをエアチェックと言った。
もちろん、FMファンなどという、今のテレビガイドみたいな本が出ていて、それで番組をチェックするのだ。

カセット時代は、もちろんレコード盤の時代でもある。
一人がレコードを買うと、カセットに入れてもらって、やりとりができた。
レンタルレコードが出てきたのは、カセットの時代が終わる頃だ。
アナログの時代と言ってもいい。
当然、レコードの音の方が格段にいいから、コピー規制は緩かった。
CDでデジタルになってから、コピー規制が強くなったのだ。

まだまだ捨てられないカセットがたくさんある。
少しずつデジタルに移そうと思っているが、もうあまり聞く時間もない。
となると、捨ててもいいのかもしれない。

ぼくらの生きてきた時代は、記録メディアの変化の時代だったと言えるかもしれない。
オープンリール、カセット、DAT、MD、電子データー。
もう変化は終わり。

ぼくらが十代、二十代で、一番なじみが深かったメディア。
それがカセット。
確実にオーディオの一時代を築いた。

生誕50年おめでとう。




| | 考えたこと | 20:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
火星の生命
今日のNHKスペシャルは火星のキュリオシティの特集だった。

内容はさておき、番組のキャスターがキンキキッズの堂本、中川翔子、子供漫才の前田、ゴリ(タレント?)とNHKの女性アナウンサー。
せっかくスペシャルをやるのなら、もうちょっとキャスティングを考えてほしい。

それはさておき、VTRは面白かった。
どうやってキュリオシティを動かしているのか。
ナビゲーションカメラで地形を調べ、勾配をみて、何時間かかけて数十メートル進む。
2000億円の車の運転だ。
運転士はキャップをかぶって、カジュアルなスタイルのおじさん。
地形を調べ、シミュレーションして、ルートを決めて遠隔操作で動かす。

キュリオシティの降りた場所には、丸い石があって、おそらく以前水が流れていたところだという。
地球で、水の流れで角が取れて丸くなった石と同じ形だ。
上空からの撮影でも、カリフォルニアのデスバレーと同じような扇状地が広がっている。
なんと40億年前には火星に海があったという。
太陽系は46億年前に生まれ、当初は岩石がぶつかり合って溶け、火星は熱い星だった。
6億年かけて火星が冷え、水蒸気が雨となって降り注ぎ、そして海になったというのが学者の説。

ではなぜ水がなくなったか。
大きな隕石が衝突して、水が飛んでしまったという説。
地下に沈んで凍ってしまったという説。
まだわからない。

40億年前は、火星に陸と海があり、地球は水で覆われていたと考えられている。
火星の方が、地球より生命が生まれやすかったということだ。
そうなると、火星で生命が生まれ、それが隕石に乗って地球にやってきた、という説も出てくる。

今キュリオシティは、着陸地点からちょっと離れたところの粘土鉱物のところで、地面をサンプリングしている。
そこに生命の痕跡があるかどうか。
そのタイプはどういうものか。

本当にキュリオシティ(好奇心)を持って、結果を待っていたい。


| | 考えたこと | 22:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
ジャズ喫茶
ジャズ喫茶というカテゴリーの喫茶店、今どれだけ残っているのだろうか。
Wikipediaでは、主にジャズのSP・LPレコード音源をかけ、客は鑑賞を主目的として来店する形式の喫茶店、とある。

昔はあった。
ぼくらが20代の頃。
70年代だったから、ぼちぼち下火になってきた頃だ。

オーディオの機械が揃っていて、レコードがたくさんあって、店でコーヒーを頼んでじーっと聞く。
あまり店内でしゃべっていると、他の客から文句がでた。
ちょっと変わった客が多かったかもしれない。

ジョン・コルトレーンとか、マイルス・ディビスとかを聞いて、感動に浸る。
店内はタバコの煙であふれている。
そんな店が一般的だった。

でも、オーディオ機器が安価になり、一家に一台という時代を迎え、音源のジャズのレコードもCDになり、今やデーターで買える時代。
聴きたい曲があれば、すぐにインターネットで購入できる。
アーティスト名で検索したり、曲名で検索したり…、何でも来いだ。

有名な店はどんどん閉まり、逆にどこに行ってもジャズは聴ける。
寿司屋や居酒屋、焼き鳥屋などで、BGMにジャズをかけているところも多い。
あまりジャマにならないのだろう。
ロックやポップスと違って、曲がかかっていても気にならない。

ジャズはマニアのものから、誰もが楽しめるものになった。

ジャズ喫茶の使命は終わったのかもしれない。

| | 考えたこと | 02:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
山下達郎
こないだCD店で、あれ、めずらしいな、と思った。
演歌がかかっているような気がしたからだ。

よく聞いてみると、山下達郎のCD。
そういえば、ベスト盤が並んでいた。

ぼくは1983年のMelodiesまで、山下達郎のLPを持っている。
間でぬけているのもあるかもしれないが、だいたいは買った。
彼のヒットソングといえば、TDKのCMソングで使われたRide on timeが最初だろう。
それまでは、知ってる人は知っている、というタイプのアーティストだったと思う。

いきなりアメリカ録音のLPを出した。
下宿の友達がどういうわけかCircus Towmというアルバムを買って、それを聞いてびっくりした。
片面は東海岸、もう片面は西海岸で録音されたもの。
それがデビュー盤。
スゴイやつがいる、ということになった。

ぼくは初期のRide on timeまでに出たLPの方が好きだ。
いろんないい曲がある。
その頃の山下は、演歌に聞き間違えることはなかった。

アトムの子あたりから、何となく聞く気がなくなった。
どうも、若い頃に熱中したあのサウンドとは違う。
ミュージックシーンでは逆に大御所になっていったが、声も重くなったし、何となく暗いイメージになっていったと思う。

時々、日曜日にやっているFMを聞いても、面白くない。

あんなに熱中したのになあ、という感じだ。

しかし、演歌に聞こえるとは…。




| | 考えたこと | 23:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本の非営利法人
日本の非営利法人は「ものを考えない」ところが多いと思う。
こんなことを言ったら怒られるだろうが…。

スポーツ関係の団体は公益財団法人になっている。
高校野球連盟も公益財団法人である。
これらは公益性が高く、そう簡単には作れないらしい。
高校野球連盟や日本陸連などがちょっとオカシイ組織であることは、知っている人は知っているだろう。

Wikipediaによると、非営利団体は「事業を通して得た利益を出資者である株主等に分配するか否か」が営利団体との違い、と書いてある。

岩井克人が、出資者(株主)に対する報告義務が、営利企業にとって、倫理的な行動を担保せざるを得なくなる原因だという意味のことを書いていた。
事業の実施主体と、その事業をやるためのお金(出資者)を明確に分けているところが、株式会社という組織の一番の「キモ」だと思う。
それをしなくてもいい、というのが非営利法人となる。

だから、非営利法人は難しい。

国に対する報告義務を厳格にしたら、それは可能なのだろうが、設立を簡単にしたためにそれができていないのが日本の現状だと思う。

暴力団が運営している貧困ビジネスなど、問題になっている。

これだけNPOが増えたのだから、ぼちぼち法改正してちゃんとやるべきだろう。
2010年に39000団体が認められている。
今は4万を超えているだろう。

コンビニの数が4万6千。
同じくらいの数のNPOがあると思っていい。

なぜ非営利なのか。

営利団体の方がマトモなのは間違いないと思う。



| | 考えたこと | 23:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
読書
ずっと読書は好きだったのだが、4年前に脳梗塞をしてから、あまり読めない。
読めないのに本を買うから、読んでいない本がたまってしまって、具合が悪い。

なぜ読めなくなったかというと、脳梗塞で入院してからちょっと目が悪くなって、老眼鏡がないと読みにくくなったのが一つの理由。
元々めがねをかけてなかったので、老眼鏡はうっとうしい。
いちいち本を手にとって、めがねをかけないといけないというのはシンドイ。

もう一つは、本を読むのがおっくうになったのだ。
読み始めても、続かない。
途中でやめたりする。
読みたい本は読むのだが、興味はあって買った本でも気が進まなくなる。
年を取ったら、晴耕雨読の生活をしたいとは思うのだが、今はその時期ではないらしい。
ずっといろんなジャンルの本を読んできたが、何となく疲れた。
すごく読みたい、と思える本に出会わない。
読んでおいた方がよさそうかな、と思える本を買う。
それがあまりよくない。

また本を読む時がくるとは思う。

そのときまで少しずつでも読んでおこうと思う。
| | 考えたこと | 00:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
人生は変化の過程
人生とは生きている間のことをいうのだと思う。

だから死は関係ない。
単に人生に終止符を打つだけだ。

そういう意味では人生は変化の過程だと言える。
ずっと変化し続けて、終わりがない。
身体の細胞など、生まれたときのものはどんどん変わっていく。
何年か経てば、身体の構成物はほとんど新しいものに置き換わる。

それでも、自分は自分だと思っている。
それも、同じ自分だと思っているのだ。
よく考えたら不思議なことだ。
中身が入れ替わっても、自分は自分だと思っている。
そういうことを養老孟司が言っていた。

そうはいっても、自分は少しずつ変わっていく。
昨日の自分と今日の自分は、どこか変わっているだろう。
身体は老化するし、考えもちょっとは変わる。
いくら何でも、十年経って同じだという人はいない。

人生は変化の過程だとドラマで言っていた。

なかなか面白い。
変化するからこそ、生きられる。
会社と同じだ。

しかし、それを意識して生きるのは難しい。


| | 考えたこと | 23:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
広告の世の中
ぼくらは資本主義の世界に住んでいる。
だから、原則的には、ルールに従う限り自由だ。

中国も韓国も、アメリカのメディアで宣伝をしたらしい。
全面広告のようなもの。
尖閣諸島は中国のものとか、竹島は韓国のものとか、そういう類いの宣伝。
もちろん、広告、とわかるようにして広告している。
そうでなければ、アメリカのメディアも取り上げないだろう。

しかし、そんな広告もアリなのかと思うと、複雑だ。
そんなことを許せば、お金さえあればいくらでも広告できる。
特に中国は今や世界の大国だから、資金力もある。

それらを見たアメリカ人はどう思うだろうか。
まあ、これは広告だから…、と冷静に見ているだろうか。
アメリカ人の多くは、驚くほど日本や中国のことを知らない。
どこにあって、どんな歴史があるかなどは、ほとんど習っていない。
ぼくらがアメリカについて知っていることの1/100も知らないだろう。

ということは、そういう広告をすれば、アメリカの世論は操作できるということだ。

日本人はそんな広告をするという常識がない。
それらは広告で訴えるものではなく、しかるべき場で議論するものだと思っている。
だから、出遅れている。
そうこうする間に、中国や韓国は宣伝しているのだ。

どんどん、アメリカにおける日本の存在が小さくなっている。
それに比して中国の存在は大きくなっている。
さらに、鳩山や管に代表される民主党政権が日米の溝を深めている。

現実的な選択として、日米同盟に頼るしかないと、ぼくは思う。

新聞で橋本市長が、沖縄の基地について言っていたが、あれは現実解だろう。

アメリカがいつまでガマンしてつき合ってくれるか、それはわからないが…。

今や冷戦が終わり、アメリカは極東を守る義理は薄れている。
日本の経済力が低下すれば、よけいにそうだ。

それ以外の選択肢を作るのなら、そういう考えで動かないといけない。

でも、外務省にはそんな力はないと思う。




| | 考えたこと | 13:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
研修
金曜日は研修に行った。

以前行った論理コミュニケーションの研修。
その続編だった。

論理的に読むということが目標。
しかし、論理的に読むことは、論理的に聞くことでもあり、それを教えるのは難しい。
そのために、書くことから始める。

「文章=意見+根拠+事例+その他」で成り立っている。
一番大事なのは、意見。何が言いたいのかということ。
その次になぜその意見が言えるか、という根拠、そしてそれを支える事例。
それらを省くと、残りはさして重要ではない。

それらを分けて考えることができるのが、「文章の設計図」。
設計図にしたがって、書いていく。

まず意見だ。与えられたテーマで、自分の意見を出す。いくつ出してもよい。
短い時間でたくさん出させる方が、よけいな考えが入らないし、独創的なものが出る可能性が高い。
だから、2分とか3分で10個というような数を目安にする。

次にそれらの意見に対して、根拠を出す。
「意見、なぜなら、根拠」、というパターンだ。
学校を面白くするには、というテーマに対して、参加型授業を増やす、という意見を出したとすると、その意見はどんな根拠があるか、ということになる。
参加型授業を増やす、なぜなら、生徒が積極的に関われるから、というように考える。
これを意見の一つ一つについて、考える。
そして、書けるものを洗い出す。

この時点で、もう一度意見を見る。
根拠が出せない意見は消す。
根拠が確かでたくさんある意見を2つ丸で囲み、その他は捨てる。

そこで、その根拠を補強する事例を考える。
今度は「根拠、たとえば、事例」というパターン。
同じようにいくつかの根拠に対して事例を書く。
中には事例のない根拠もあるが、それはそのままにしておく。

ここで全体をみて、2つの意見を1つに絞る。
より、確からしい、根拠や事例が出せたものにする。

次に一つ選んだ意見について、いくつかある根拠を2つくらいに分ける。
AとBというふうに、グルーピングして、その他は捨てる。
そして、そのAとBにそれぞれどんな意図で分けたかを書く。
これで、ほぼ完成。

あとは400字詰めの原稿用紙にその結果を写すだけ。
私は「テーマ」にたいして、「意見」と考える。
その根拠は大きく分けて二つある。
第一に「グループA」、第二に「グループB」。

こういう風にして文章の論理的な構造を理解する。
これをいくつもやって、意見、根拠、事例というパターンを身につける。

それを理解することで、はじめて論理的に読めるようになる。
もちろん、そのための練習もあるのだが、それはまた。

しかし、読むために書く、という発想の転換がすばらしい。
それだけ、読むことは難しいということだ。

ぼくは、読むことよりも書くことの方が難しいと思っていた。
しかし、実際には逆なのだ。
誰しも意見はある。
それらを根拠、事例で補強する。
論理的な文章は必ずそうなっている。

もちろん、文学などは別だ。
心を震わすような文章には、意見や根拠など関係ない。

しかし、ビジネスの世界で使われる文書や指示などは、論理的な構造を持っている。
それをどうやって伝え、どうやって聞くか。
その能力が今問われている。
この方法を作るに先立って行われた企業への調査によると、「論理的に考える」という項目が最も必要とされている、という結果が出たとのこと。

その力を伸ばす、そのことこそが企業で「即戦力」と言われる人を育てることになる。

そのための道のりは遠い。
ごく一部の高校で、このプログラムをやり始めたところ。
先生方にはなかなか理解されない。
文章の行間を読むことが大事だ、とか天声人語を写す方がよいとか、いろいろ言われるらしい。

しかし、こういう考え方はもっと紹介されるべきだ。
本当に論理的に考えるくせをつけるために、ぜひ必要だからだ。
「好きだから好き」「ダメだからダメ」…、こういうのは意見ではない。
意見には必ず根拠があって、それを補強する事例がある。
10年がかりで開発しただけのことはある。

開発した慶応大学はえらい。

| | 考えたこと | 08:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
渡世人
男はつらいよの車寅次郎の決めぜりふ。

「そこが渡世人のつれえところよ」

この渡世人という言葉ももう死語だろう。
昭和50年代はヤクザ映画の全盛期。
渡世人と言ったら、ヤクザもの(ヤクザのような人)ということを想像する。
言葉通りに読めば、世を渡る人という意味だ。
goo辞書を見ると、「ばくちうち。博徒。やくざ。」と書いてある。

要はヤクザもののことだ。
最近の若い人は、ヤクザ=暴力団だと思っているが、そうではない。
極道ものというか、世間のルールから外れて生きている人、というような意味だと思う。

だから、「そこが渡世人のつれえところよ」というと、「それは世間の堅気の人たちと違ったルールがある」ということだ。

正月は家族で集い、お雑煮を祝う。
でも渡世人はその時期がかき入れ時だから、旅に出る。

男はつらいよの男というのは、渡世人のことかもしれない。

昭和の時代、暴力団とは違う、渡世人やヤクザと呼ばれる人がいた、ということだ。

実際にいたかどうか、ぼくは知らない。

でも確かにそういう商売はあったなあ。



| | 考えたこと | 22:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
アホなこと
時にはアホなことをやるのが好きだ。

アホなこと、というのは親しみを込めて、「アホなことやってるなあ」という意味のアホなことである。
やっている方もそれがアホなことだと分かっている。
それでも、いちびってやっている。
どちらかというと、アホなことを楽しんでいる。

落研の時はよくやった。

当時落研はもう市民権を得ていたが、それでも落語をやること自体、アホなことやってる、と思われただろう。
それが何となく楽しかった。

そのメンバーで、延々としりとりをしたり、一人ずつのテーマソングを作ったり、市バスの中で大きな声で芸名で呼んだり、夜中まで部長選挙をしたり、とんでもないホラを吹いて、新入生をだましたり、自分は試験の答案に、こんなことを書いて単位をもらえたという自慢話をしあったり…。

アホなことをやるのが、楽しかったし、何となく誇り高かった。
そういう年代だったかもしれない。

今でも、アホなことがやれる人が好きだ。

そこに、人間の価値の大きな部分を置いている。

なぜなら、アホなことは人間にしかできないからだ。
本能に従って生きている動物には、アホなことなどない。
だから、アホなことはできない。

人間だけがアホなことができる。

それが、愛すべき人間だと思う。
| | 考えたこと | 00:54 | comments(4) | trackbacks(0) |
セカチュー
ピカチュウというのがポケモンにいたが、セカチュウもその一種かと思っていた。
ところが、世界の中心でナントカというのが語源らしい。

世界の中心というのはどこのことかわからないが、どうも「中心」というのがアピールしたらしい。

いつの世も、真ん中というのは自分の場所だろう。
自分中心に考える。

しかし、いつまでも自分が世界の中心にいると思っていては大人になれない。
主観でみるから、世界の中心になる。
大人になるためには、自分の場所を客観的に見ないといけない。
自分がどれほど広い世界の中にいて、ちっぽけな存在か、ということを理解する。
それが自己相対化というやつだ。

社会で生きていくということは、他の人とうまくやるということだ。
そのために、自己相対化ということをしないといけない。
自分を他人の目で見るということだ。

結局、大人になるということは、他人の目で自分を見ることだろう。
それが親の目であったり、上司の目であったり、同僚の目であったり、友達の目であったりする。
そういう想像力がある、ということが大人の条件だ。

もちろん、それだけでは大人になれない。
しかし、それができなければ、絶対に大人になれないと思う。
| | 考えたこと | 00:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
メディア・リテラシー
この言葉も昔はなかった。
メディアは正しいことを報道するもの、という暗黙の了解があったのだと思う。

しかし、最近はメディア・リテラシーを持たないといけない、という。
世の中が簡単でなくなったからだろう。
もとより、世の中が簡単であったためしはないが、昔は誰もが認める対立軸があって、そのどちらかはっきりしていたらよかった。
東西対立は東がソ連、中国で、西がアメリカ、西欧。
南北の問題は先進国と発展途上国の問題。
国内では保守と革新。自民党と社会党だ。右派と左派とも言う。
資本家と労働者という対立もあった。会社と組合だ。
会社と消費者という軸もあった。強い会社と弱い消費者という図式だった。

これら全てのどちらかを選べばよかった。
新聞は大概弱いものの味方だったと思う。
東西では、ソ連、中国の味方の代表が朝日新聞。
左派の知識人と言われる人たちは、中国礼賛だった。

南北はあまり明確ではなかったと思う。

国内では、革新だ。朝日新聞は社会党びいきだった。
安保反対で、反自民。天皇制も反対だった。
労働者の味方であり、日教組も応援していた。
会社よりも消費者の味方だった。

グレーがなく、白か黒という選択。
すごくわかりやすかった。

しかし、時代は変わり、東西の壁は崩れた。
南北問題は経済問題になった。どんどん南が強くなる。
国内では保守も革新もなくなりつつある。
政策の違いがどこにあるのか、わからない。
みんな自己の保身だけが目的のように見える。
資本家と労働者というのも、相対的に資本家が弱くなった。
組合と会社が仲良くしないといけない。組合は非正規社員の敵になった。誰が一番弱いか、わからない。

そして極めつけは消費者が強くなったことだ。
消費者は神様になった。
何でも言ったもの勝ち…。

また、メディアも多様化した。
インターネットで記事がどんどん配信される。
新聞やテレビだけでなく、情報がどんどん出され、消費されていく時代。

こういう時代になったから、メディア・リテラシーが必要だ。
何が本当で、何が嘘か。
それを見極める目を持たないといけない。

今こそ、メディア・リテラシーを身につけないといけない。

| | 考えたこと | 02:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
チームビルディング
今週は土日仕事だった。

久しぶりだが、月曜日が祭日だから、まだマシ。
普通は土日に丸一日働くと、次の週はシンドイ。

チームビルディングの研修に参加した。
チームワークとはとか、リーダーシップとは、とかそんなヤツが初日。
2日目は事前にやった性格診断の結果を返されて、チームで話し合って、どうやってチームを活性化するか、という議論。
どう考えても、うっとうしい話し合いだ。
ぼくは初日が終わった時点で、明日はシンドイだろうなあ、と思っていたが、そうでない人はびっくりする。

チームメンバーの長所、短所を見て、本人が聞いているところでその話をする。
こういうのをやるのが、今風なんだろう。
まことに、今風のチーム作りだと思う。

たしかに、チームメンバーの特性を理解しあうことは、チームにとって大事なことだ。
そしてチームメンバーが自らの長所・短所を理解し、他の人から指摘され、そして改めるべきは改め、伸ばすところは伸ばし、チームの目標を再確認することが、それを実現する方法だ、と言われるとそうだとしか言いようがない。
要するに、リクツでは納得する。

しかし、人間はリクツでは動かない。
感情の動物だ。
そこを忘れてはいないか。
自分のいいところも、悪いところもすべてさらけ出す、というのはあまり気持ちのいいものではない。

研修の直後は、みんな自己開示して、他者理解もして、盛り上がってハッピーになる。
中には涙を流す人もいる。
でも、毎日の生活に戻るのだ。

本当にこれが効果があるかどうか…。
程度問題だと思う。

あまり精密にやってはいけない。
特に、日本では和をもって貴しとなす、という美風がある。
その和と、いきすぎた自己開示、他者理解は相容れないだろう。

さじ加減が難しい。

今回のはちょっと重たかった。


| | 考えたこと | 21:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
国家予算と借金
日本の国家予算は約90兆円であるが、そのうち40兆円程度が国債、つまり借金。
一方で税収は40兆円ほどしかない。

年収が400万しかないのに、使うお金は900万、という状況が今の日本だ。
毎年足りない分は借金している。
その借金が積もり積もって年収の10倍。
つまり約1000兆円もある。
普通は破産だ。

また、今若い人3人で年寄りを1人支えている。
ぼくらが若い頃は11人で1人を支えていたらしい。
単純計算でも約4倍の負担である。
要するに、年金の負担が大きくなっているということだ。
少子高齢化でこの状態は当分続く。
今、団塊の世代が退職しており、その人たちが亡くなるのは男性で20年、女性で30年ほど先になる。

どうしたらいいのか。
若い人たちに希望がないのも当たり前だ。
仕事は減るし、給料は下がるし…。
こないだ、定年の65歳化が言われていたから、ちょっと負担は減るのかもしれない。
しかし、その分定年が延びたから、雇用が減った。
どっちがよかったかは微妙な問題だ。

この状態をずっと続けられるわけがない。
借金地獄を抜け出さないといけない。
そのためには、計画をたてないといけない。
借金を返すためには、より儲けるか、倹約するか、そのどちらもか、それしかない。
効率がよいのは両方いっぺんにやることだろう。

儲けを増やすためには、産業を興していくことが必要だ。
そして倹約するためには、金を使う人を減らすしかない。
公務員の削減、民営化などを進めるしかない。

あと、20年。
それを頑張れば、人口が減って若い人は楽になる。
少ないといっても、今のフランス並だ。
6000万人でやっていけばよい。

そういう絵を描かないといけないと思う。




| | 考えたこと | 22:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
プロとアマの違い
藤本義一が言っていた。

プロとアマの違いは何か?
やりたくないことをやるから、好きなことができるのがプロ。
やりたくないことをやらないから、結局好きなことができないのがアマ。

なかなか言い得て妙だ。

プロはお金をもらう。
そのことをやって食っていけるのがプロだろう。
プロになったら、やりたくないことをやらないといけない。
つまり、お金をもらうためには、やりたくないことをやらないといけない。
当たり前のことだ。
そういうことをやっていれば、いずれ好きなことができる。

好きなことができる、というのはやりたくないことをやっているうちに、やりたいことができてくる、ということだと思う。

だから、もともと好きなことは趣味でとどめておいた方がいい。
お金をもらうようになると、好きなことばかりはできない。
やりたくないこともやらされる。

だから、音楽が好きで、バンドでメジャーデビューしたような人たちが、解散してやめていく。

ツアーもシンドイだろう。
曲作りで、好みでない曲も作らないといけない。
レコード会社の要望に従うこともあるだろう。
それがプロ。
やりたくないことをやっている。

だからこそ、好きなこともできる。

この言葉はよくできている。
| | 考えたこと | 19:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
セピア色
数年前にデジタルフォトフレームを買った。

最初はカラー写真を表示させていたが、どうも派手すぎて見栄えがよくない。
半年ほど前から、表示をセピア色に変えてみた。
同じ写真が全然違って見える。

もちろん、昔の写真が多い。
そういう写真というのは、カラーでは情報量が多すぎるのではないだろうか。
カラーとセピアでは情報量が全然違う。
ファイルの大きさでいうと、キロバイトの世界がメガバイトの世界になる。
数十倍の情報量になるのだ。

思い出の写真は、セピア色の方がいいのだろう。
あまり目から入る情報量が多いと、脳で考えることが少なくなる(と思う)。

そういえば、白黒の写真の方が、カラーよりも上手に撮れると思う。

最近のデジカメは、白黒モードがあるので、簡単に白黒にできる。

一度トライしてみたらいいと思う。

絶対に、白黒の方が、いいと思うはず。

| | 考えたこと | 00:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
ちょっと違うぞ
機械が進み、コンピューターが進み、ネットワークの技術が進んで、それらの相乗効果でついに新しい未来が見えてきた。

ぼくらが小さい頃の未来像は、単純労働はロボットがやって、人間は楽に遊んで暮らす、というようなものだった。まさにバラ色の未来。
まあ、それはちょっと言い過ぎだが、単純労働から解放された人間が、もっと人間本来の考える仕事に励む、というような感じだ。

機械文明の進歩は、人間を力仕事から解放した。
土木工事の現場をみても、働いているのは重機で、たくさん人はいてもその人たちはあまり働いていない。
クルマの組み立てラインでも、溶接のロボットが大活躍。
そんなことは人間がしなくてもよい。
溶接だけでなく、組み立てもロボットがやるようになってくるだろう。
今や製品によっては無人工場もあり得る時代になった。

また、ロボットスーツというようなものもできた。
人間が身につけて、力を出すというようなもの。
これができると、介護などはだいぶ楽になる。
SFの世界に現実が追いついてきた。

しかし、それで人間が幸せになっただろうか。

今のところ、あまりそれは実現していない。
それどころか、仕事がなくなり、困っている人が増えた。
単純労働が減って、相対的に対人関係の仕事が増えたから、コミュニケーションの能力が必要とされるようになったからだ。
まじめに、コツコツという仕事の形態はなくなった。

一方で、減った仕事は、減ったままだ。
ぼくがいた会社でも、入った頃は工場の中に人がたくさんいたのに、やめる頃にはぱらぱらとしか人がいなかった。
今頃どうなっているだろうか。

工場だけでなく、経理などの伝票の計算や販売の集計などの数字を扱うところは、すべてコンピューターに取って代わられた。
一人1台のコンピューターの時代。
現場で入力したものが、そのまま計算に使われる。
中間で処理していた人が全ていなくなった。

そうではない仕事も変わった。
ファミレスで注文を取る仕事は、ベテランでないとできなかったが、今や携帯端末の番号を入力するだけでいい。
お客さんがいう品物を端末に入れるだけで、厨房にデーターが届く。
周囲を気遣っていなくても、お客さんがボタンを押して呼んでくれる。
したがって、ベテランでなくても、学生バイトでできるようになった。
今や正社員は一人で、あとは全部大学生のバイトという店もある。
厨房の機器も発達し、工場から出荷される冷凍の食品を入れて、スイッチを押せば調理できたりする。だから、バイトでもできる。

そんな労働市場の転換が起こっている。

本当は、人間が機械を使って、楽をするはずだったのだが、機械が人間を使って、人間の働く場所を奪っている。
やっぱり、楽はできない。そんなに国は豊かではないからだ。

おまけに、地球の人口はぼくが生まれたときには30億ちょっとだと思うが、今や70億を超え、100億になる日も近い。
食料が不足し、石油が不足し、水が不足し、必然的に紛争が起こるだろう。

どう考えても、来るはずだった未来とはちょっと違う。
無邪気に、将来は楽になる、と思っていたのに…。

ここで人間の叡智を発揮しないといけない。

| | 考えたこと | 00:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
コメディ
基本的にメロドラマは苦手だ。
それなら、コメディの方がマシ。

メロドラマというのは、泣かすドラマのことだと思う。
泣かすドラマは、泣けるドラマとはちょっと違う。
作為があるのが、泣かすドラマ。
作為というのはわざとらしさのことだ。
以前、ぽっぽ屋という映画を見たが、これは泣かすドラマだった。
ああ、これはこうなるな、そうすると泣くな、と思って見ている。
やっぱりそうなる。
そして、泣いてしまう。
これがメロドラマ。

泣けるドラマは、作為がない。
自然に感動が来る。
別に泣かなくてもいいし、実際泣いていない人もいたりする。
それでも、涙が出る。
こういうのが泣けるドラマ。

もちろん、人によって定義はあるだろう。

泣けるドラマは、コメディでもあり得る。

ぼくはメロドラマよりも、コメディの方に真実があるような気がする。



| | 考えたこと | 22:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
夢のまた夢
若い頃はいろいろと夢があった。
かなうはずもない夢だ。
小説家になりたいとか、ギターを弾いて生計を立てたいとか、喫茶店をやりたいとか…。

もっと小さい頃は、漫画家になりたかった。
自分のプロダクションを作って、アニメを作る。
小学校の頃、自由帳のページをコマ割りして、マンガを描いていた。
鉄腕アトム、鉄人28号、サイボーグ009、スーパージェッター、ワンダースリー…、日本アニメの始まり。

アメリカのドラマにあこがれた時期もあった。
ナポレオン・ソロとか、それゆけスマートとか、だいぶ古い。

中学の頃はアラン・ドロンがかっこよかった。
レナウンの宣伝に出ていた。
ダーバンというブランド。
今でもあると思う。

それと同時に、フォークソングのヒーローが出た。
吉田拓郎だ。
ちょっと遅れて、井上陽水、小室等。
洋楽ではキャロルキング、5thディメンション、S&G、ビートルズだった。

高校に入って、シンガーソングライターの時代。
高田渡、遠藤賢二、加川良、赤い鳥、五つの赤い風船、ロックキャンディーズ、アリス、オフコース、チューリップ…。

そしてニューミュージックだ。
ユーミン、ハイファイセット、山下達郎、竹内まりや…。

全部が全部あこがれたわけではないが、多くは憧れた。
あんな風になりたい、という思いはあった。

オトナになって、どんどん消えていった。

今や風前の灯火。

夢のまた夢。

でも、人生は夢のようなものだ。

ひょっとしたら、死ぬときは、夢から覚めるときかもしれない。


| | 考えたこと | 22:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
幸福の経済学
日曜日の読売に「幸福度をはかる経済学」という本の紹介がでていた。

国民総生産ならぬ国民総幸福量(GNH)という言葉がある。
ブータンではこのGNHが高く、国民に「今幸せか?」と尋ねると90%以上が肯定するらしい。

一方、日本などの先進国では「幸福のパラドックス」、すなわちGNPが拡大しても生活満足度は上昇していない、という状況が観察されているという。
そして、心理学と経済学の融合と言われる、行動経済学が登場したことにより、人間の合理性を前提とする従来の経済学の理論と、現実の人間の行動が矛盾するということも明らかになってきた。

「幸福度をはかる経済学」という本では、幸せに関する調査データーに計量経済学的手法を適用して、どのように人間が幸せを感じるかを明らかにしてしているらしい。

人間が「意思決定する」ときと「結果を享受する」ときでは、幸せの感じ方が異なるという分析結果があるらしい。
例として挙げられているのは、通勤に片道2時間かかるマイホームを購入すべきか、という問題。
人間は「マイホームを持てる身分になった」という幸福感を過大評価し、「2時間通勤の苦痛」や「家庭団らんの喪失」は過小評価しがちだという。
しかし、結果はこれと逆。
マイホームを得た幸せにはすぐ慣れてしまい、家族団らんの喪失による苦痛は延々と続く、という。
このような予測ミスの存在を前提とすれば、国民の幸福度をあげるために必要な政策も見えてくる、という。
もちろん、「幸福の経済学」の学問としての体系化はまだ不十分な段階であるが、研究者たちはこの研究を通じて、経済学に温かい血を通わせようとしている、という結びの言葉。

経済学というと、人間は自らの欲求を満たすように合理的に行動する存在、となっていたが、最近は矛盾と偏見に富んだ存在だということになっている。
行動経済学の研究者がノーベル賞を得たのは、その革新的な取り組みのためだろう。

経済学というのは、インセンティブの学問だという本を読んだ。
何でも経済的な見方をすると、金の亡者と言われることもあるが、「衣食足りて礼節を知る」という言葉もある。
もちろん、「武士は食わねど高楊枝」という反対もまた真なのだが、人間はインセンティブで行動を決定する動物だ。
それを研究する、ということは自らの行動の真の意味を知ることでもある。
だから、経済学は大事だと思っている。

しかし、残念ながら3000円以上の本を買うインセンティブとしては、この記事では弱かった。

記事の内容は面白かったが…。


| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
原発 是か非か
山本七平を30代の頃よく読んだ。
日本の思想家であり、文明批評家、出版社社長、キリスト者…、いくつかの顔を持っていたが、自分の戦争体験から、日本人論を展開したことが一番の功績だと思う。

最初に読んだのは、「私の中の日本軍」。
何気なく本屋で買って、読み始めたら目から鱗のことばかりだった。
この本を読んで、朝日新聞の史観は、結局日本を戦争に導き、戦後の日本をも「まともにものを考える」ということからミスリードしたということがわかった。
もちろん、朝日だけが悪いわけではないが、「大朝日」に代表される日本の知識人の思想が「何かおかしい」とぼくには思えた。
戦後60年以上経って、今の朝日新聞の凋落を見ると、ようやく朝日的思想にとりつかれた日本人もマシになったのかなと思う。

「ほとんど全ての人が指摘した事だが、日本的思考は常に「可能か・不可能か」の探究と「是か・非か」という議論とが、区別できなくなるという事であった。『ある異常体験者の偏見』」

こういうことが書いてある。

これは「原発をすぐに停止すべき」という人の議論に見られる日本的思考だと思う。

原発を停止する、ということに関しては、是だと思っている人は多いだろう。
しかし、それをすぐに停止、ということになると、それは不可能だと思う。
冬の北海道は寒い。
電気が止まれば、いくら灯油があってもヒーターは動かない。
そんなことはできないし、生産者の視点に立てば、エネルギーコストは重要だ。
だから、必然的に不可能、ということだと思う。

でも、議論は是か非か…、で進む。

ことはそういう問題ではないのだ。

亡くなってだいぶ経つが、山本七平が生きていたら、今の状況を見てどう言っただろうか…。


| | 考えたこと | 00:25 | comments(0) | trackbacks(0) |