考えたこと2

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トリチウム汚染水
トリチウムで汚染されている福島原発のタンクの水だが、ようやくそれについて問題にして話す雰囲気ができてきたようだ。
新聞に「トリチウム汚染水」という言葉が使われたことでも、そういう時期だとわかる。

このトリチウム汚染水というのは、日本でも外国でも、他の原発では薄めて流しているという事実は、だいぶ前から言われてきた。
じゃあ、なぜ薄めて流すために、あんなにたくさんのタンクを作ったのか?ということだ。

それは、東電をはじめとする関係者が、マスコミ等で流されている「放射能汚染」についての空気を読んで、今流すと文句が出るだろうから、とりあえず貯めておこう、という処置をしたからだと思われる。
世間の空気を読んだ、ということだ。

科学者の間では、どうしてトリチウムを薄めて流さないのか、ということは言われていたが、彼らも世間やマスコミの空気を読んで、それを声高に言わなかった。

今回の「タンクのトリチウム汚染水は、海に流す」という件で、地元の漁業関係者は「トリチウム汚染水を流したら、海産物が放射能に汚染されるという風評被害が出るだろうから、流すのには反対」と言っている。
漁業関係者も、他の原発や外国では流しているという説明に納得したのだと思う。
それでも「風評被害」が恐い、ということだ。

じゃあ、その風評被害を広めたのは誰だ、ということになる。
それは一部の原子力関係者たちと、マスコミが第一だろう。

フクシマには人が住めなくなる、と言った人たちは今どうしているのだろう。
放射能について恐い恐いと煽っていた人たちは今どうしているのだろう。
今こそ、「自分たちは間違っていました」くらいのことは言えないのだろうか。

マスコミには、科学について詳しい人はいないのだろうか。
「他の原発では流している」という事実を取材する人はいないのだろうか。
記者すら世間の空気を読んで、取材するのをやめているのだろうか。
無駄なタンクを作るために、どれくらいのお金が使われたのだろうか。
そのお金は、主に税金だとわかっているのだろうか。
その分を社会保障に回して、少しでも若い人たちの負担を減らそうとは思わないのだろうか。

事故の直後は仕方なかったと思う。
やはり放射能は恐いからだ。

しかし、もう冷静に科学を信じてもいいのではないか。
少なくとも、日本の他の原発でやっていることをやって、風評被害が出るのを避けるためには、マスコミの役割は大きいだろう。
マスコミ各社が「トリチウム汚染水は、他の原発では薄めて流しています。だから、福島でも海に薄めて流すのは問題ありません。みなさん、風評被害を出さないようにしましょう。」と言えばいいのだ。

今や誰もマスコミは間違ったことを言わないとは思っていない。
過去の間違いを訂正すればいいのだ。

間違うことは仕方ない、でもそれがわかって放置するのは罪だ。
せめて、それくらいのことはやるべきだろう。

マスコミは、未だに帰れない人がいて、まだまだ復興できないと言うが、その状態を作り出したのは、自分たちが原因なのだ。
センセーショナルな物言いは、大衆に受ける。
だから、そちらに走った。

でも、もうそれを訂正するべきだ。
せめて、事実を報道してほしい。

それがマスコミの義務ではないか。

| | 考えたこと | 20:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
1万人の第九 練習3回目
8月は初回から3回目まで連続で練習。
今回は会場に着いたら、ちょっと様変わりしていた。
ソプラノの人が減ったのだ。
コダマ先生が、声の出ない人はアルトに変わって、と前回勧めたのが効いたらしい。
実際、前回の練習を聞いていても、高い音が苦しい人は多かったのだと思う。
したがって、会場はアルトが過密になった。

アルトのメロディはコーラスの肝という感じのもの。
やっていて、一番楽しいと思う。
バスほど単調でもないし、テノールやソプラノほどメロディックでもない。
音の高さ的に言っても、ハーモニーの性格を決めるような音がアルトに割り当てられているように思う。
だから、先生が「アルトがいいコーラスは美しい」と言っている。

しかし、まだバスのメロディが覚えられない。
ついついテノールを歌ってしまいそうになる。
どこかで、集中的に練習しないといけない。

発声練習は、去年は全く真似してやっているだけだったが、今年は言っていることがわかるようになってきた。
息を吐くときに骨盤底筋に力を入れて、身体を丸めるようにして肺から息を出す。
喉を絞るように出すのではなく、自然に出すというのがミソ。
こうすれば楽に歌える、と先生は言う。
そんなに簡単にはいかない。

でも、今年は経験者が多いのか、去年よりも進むのが早い。
そのせいか、先生が「第九は難しいのだから、初めて参加して全部歌おうと思ってはいけない」と言った。
それは、去年は言わなかった。
去年聞きたかった、と一緒に行っている人と言い合う。

やっぱり、去年は初めての人が多く、大変だったんだと思う。
テナーは特に悲惨だった。
今年はだいぶマシだ。

どちらかと言うと、ソプラノの方が練習が長い。
だいぶ人数が減ったが、まだ高い音は苦しい状態。

練習が楽しいというのは、いいことだ。
何事も、1回経験すれば、2回目は楽。
1回目の苦労が報われる。

去年頑張ってやってよかったと思う。


| | 考えたこと | 21:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
ブラック校則
世間ではハラスメントが問題になって、いろんな対策が言われている。
その最中に、ブラック校則として、『「下着の色は白のみ」「体操着の中に肌着を着てはいけない」。そうした理不尽な“ブラック校則”が、全国の学校に存在している。特に「下着チェック」は、いまだに増加しているという。』という記事が出た。

学校がいかに世間からずれているか、ということがよく分かる。
まともな社会人なら、こういう校則があるというだけで「え」ということになるのだが、一部の学校ではそうではないらしい。
それを教育委員会が止めるでもなく、放置しているから、記事になったのだろう。

もちろん、そういう先生ばかりではない。
それに疑念を持つ先生もいるのだが、結局そういう先生が声を上げられない雰囲気があるのだろう。
まさに体育会系という感じだ。
そういう単一の価値観が、イジメを生む土壌になっていることに気づかない。
やっている方は確信犯、というより、善意でやっているつもりなのだ。

これは特定の地域ではなく、全国で見られているという。
もはや地域的な問題というより、学校というものの成り立ちに起因しているのだと思う。
根は深いのだ。

記事を書いた人は「社会で許されない指導は学校でも許すべきでない」と書いているが、ほんとにその通り。
ブラック部活といい、ブラック校則といい、どんどん学校と社会のズレが大きくなっているような気がする。

これをどうにかするためには、教育委員会に指示を出すとか、通達を出す程度ではどうしようもない。
学校が、教育界しか知らない先生ばかりなのが問題の根っこだと思う。

そのためには、地域から人を入れるとか、社会人経験を持つ人を教員に採用する、といったことをやらないといけない。
何度も書くが、日本は外国に比べて社会人経由で教員になる人が少ない。
そういう人たちを入れることを拒否しているように見える。

社会人経験者で学校に行っている人は、一部の先生達を見て「彼らは社会人失格だ」という。

そんな状態で学校をやっているから、イジメはなくならないし、不登校が増える。
勉強を教えない先生すら出てくる。
部活のほうが勉強より大事なのだ。

子どもは頭がいいから、先生を見限る。
だから、不登校が増えたり、学級崩壊が起きたりする。
先生と生徒の信頼関係のない学校など、どうしようもない。

これは早急に直すべきだ。

| | 考えたこと | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
追悼 さくらももこ
さくらももこを知ったのは、「ちびまるこちゃん」というアニメであり、それを知ったのは「踊るポンポコリン」という曲を出張の途中で聞いたことだった。

当時、車で月に1回茨城県まで行っていた。
その車の中で、初めて「踊るポンポコリン」を聞いた。
カーラジオで、AM放送。おそらく名古屋近辺だったと思う。
女性のDJが、紹介した。

サビの「ピーヒャラピーヒャラ パッパパラパ」というところが調子よく、ソウルっぽい男性ボーカルがカッコよかった。
近藤房之助という、ブルースシンガー。

今でも時々アニメは日曜日に見る。

何冊か、エッセイ集も出している。
文才もあった。

2004年に「たいのおかしら」という本を読んだ。

「新潮文庫のyondaキャンペーンのシールを集めるために、新潮文庫を買っているのだが、間違って集英社文庫を買ってしまった。
ちびまる子ちゃんのアニメのファンだったので、1冊は買って読んでみようと思っていた、さくらももこのエッセイ集。前半はやたら面白く、声を出して笑える。後半は少しセンチメンタルなものが出てきて、これはこれで興味深い。
まる子姉妹の子供時代の写真が出ており、アニメと同じく、お姉ちゃんはしっかりしているように見える。しかし、姉についてのエッセイもあり、真実がわかる。
作者は漫画家になるために、一人で静岡から東京に出ていくのだが、あのまる子が大人になって、えらくなったんだなあ、と感心する。
二十歳の誕生日についてのエッセイは秀逸。一生の間に、このエッセイに書かれているような瞬間があるという事はすばらしい。
自分が大学を卒業する時に、下宿を引き払い、何もない部屋で寝袋で寝たことを思い出した。」

二十歳の誕生日のエッセイを思い出そうとしても、思い出せない。
何か、感動的なことが書いてあったと思うのだが‥。

53歳で亡くなった。
平均寿命を考えると、まだまだ若い。

自分より若い人が亡くなると、もったいないと思うのはなぜなんだろう。

もったいない。

合掌。



| | 考えたこと | 20:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
学校法人は非営利企業
東京医大の女子や多浪の志願者に対する入試の操作はヒドイ。

でも、病院や医師を雇う立場で、今回の措置は必要だと思う人は多いようだ。
女子はしんどい科を希望しないとか、僻地に行きたがらないとか…。
多浪の人は、人間関係が今ひとつとか…。

他の医大でも同じようなことをやっているところがあるらしい。
主に、2次試験の面接で、主観評価で落とすというやり方。
患者の目を見て話せない、というような医師が増えたということで、面接をやるところが増えた。
それ自体はいいことだと思う。
しかし、それは建前で、いずれ大学の利益を考えてこうなることはある種必然なのだろう。

だから、今の入試改革で、人柄重視のAO入試を増やすということには賛成できない。
人が人を選ぶ、というのは、絶対に偏りが出てくる。
それは公的な入試にはそぐわない。

客観テストだけで入試をすると、(あくまで、大学の立場で)大学にとって適さない人も入るリスクはある。
しかし、今回のように2次試験の面接テストで、主観で落とされるということになると、やはりそういう不正のリスクの方が大きいと思う。
やれ、ユニバーサル化だ、多様化だと言っている大学で、こんな入試が行われていること自体、オカシイのだ。

この医大が、国から公的資金を一切もらわず、私的に運営されていて、入試をやる時に「ウチはこういうふうに偏った入試をやります」と明らかにしてやるのなら、それは構わない。
上位何人か以下は、これこれの寄付を出さないと入れない、というのも明らかにしたらいい。
堂々とやればいいのだ。
それが自由競争というものだ。

しかし、それを隠して、国から補助をもらって、偏った入試をするのはダメだ。
それが非営利企業である大学として、当然のことだ。

この際、東京医科大はその方針を明らかにして、補助金を返納して堂々と偏向入試をやればどうか。
東京医科大附属病院は卒業生を安く雇って、財務状況はすこぶるいいらしい。
入試は、医者としての就職試験みたいなものだという。
だから、偏向入試をやっている。

それが世間から受け入れられなければ、それを続ければいいし、志願者が減れば潰れるだけだ。
上層部が直接関わってやっている確信犯なのだから、実際そういうやり方を一度やってみたらいいと思う。

それでもしも市場の信認を得られたら、続ければいいのだ。
得られなかったら、潰れたらいい。

それくらいのリスクを負う覚悟がないなら、大学教育から撤退すべきだ。


| | 考えたこと | 21:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
国立大学改革
国立大学の教師には、年俸制を導入し、業績給を重視するという方針を文科省が打ち出した。
だいぶ遅かったと思うが、民間のことを考えると、ようやく真っ当な感覚になってきた。

よく、大学教授の業績とは何かというが、それは研究面では論文数、もしくは著作数だ。
国立大はそこそこ学生のレベルも高いから、教育に軸足を置く必要はないと思う。
私学の状況はだいぶ違うが…。

国立大の措置に関しては「在職期間の長期化が有利とならない処遇」、「55歳での昇給停止」「独自の早期退職制」などの新設計や、「任期制の拡大」「基本給の大幅圧縮」などが言われている。
珍しく、文科省もいいことを言っている。
要は民間のやっているような、「老害の防止」をやらないといけないということだ。
たぶん、現状がよほどひどいのだろう。

去年、権威のあるイギリスの科学雑誌ネイチャーに、日本の科学研究がこの10年間で失速しているという記事が出たらしい。
その時に阪大の教授が記事を書いている。
それによると、

「英科学誌ネイチャーに、日本の科学研究がこの10年間で失速していることを指摘する特集が掲載された。
ブレーキがかかった、などという生やさしい状況ではない。飛行機ならば今すぐ手を打たないとクラッシュしかねない失速状態にまで追い込まれていると言われたのだ。
論文データベースScopusによると、15年までの10年間に、世界中では論文数が80%増加しているのに、日本からの論文は14%しか増加していない。
特に、コンピューターサイエンス、私が関係する生化学・分子生物学、そして、驚いたことに、日本の得意分野といわれる免疫学で、その傾向が顕著である。」

「他にも、大学の常勤ポストについている教員の高齢化や、日本の若手研究者にはPI(Principal Investigator:研究室主宰者)になる意欲が高くないことが問題としてあげられている。
紹介していて情けなくなってくるような話ばかりだが、ここ何年かの間に感じてきたこととそう大きなズレはない。いや、もっと正直にいうと、まだこれくらいで踏みとどまれているのか、という印象の方が強い。」

「適正な競争原理の導入、積極的な任期制の導入、研究者の流動性の向上、使命を終えた部局の統廃合、テクニカルスタッフの充実、高額研究機器の効率的な利用、無駄な会議や書類作成といった意味のない雑用の減少などなど、すでに指摘されている数々の問題点を、これまでやってきたような小手先だけの改革ではなく、本気でクリアしていかなければ、たとえ研究費を増額したところで十分条件が満たされはしない。
そのようなことができれば苦労はしない、と言われるかもしれないが、それは認識が甘いのではないか。そうしなければどうしようもない時期に来ているような気がしてならない。」

というようなことが書いてある。

阪大の先生は、自然科学の分野だが、人文科学、社会科学の分野はもっとひどい。
まだ自然科学の分野は「英語での論文数」という比較があり、同じ土俵で争っているからだ。
日本国内で消費されている文系の研究費は、どれほど世の中の役に立っているか、わからない。

無駄も文化のうち、という言葉はわかる。
しかし、そんなことに使っているお金は、もはやないと思うのだが…。

ぼくがいた私学では、そもそも論文を書く人などほとんどいないにも関わらず、毎年研究費を50万を出していた。(今は減額されたらしい。)
何の実績チェックもなく、チェックするのは領収書だけ。
これを何とかしようと思って、研究計画を出させ、それに従って予算をつけるという方式を考えたが、あっというまに却下された。
ごくごく当たり前のことなのだが…。
まともな大学ではある程度やっているだろうと思う。

今でも思い出すのは、夏休みにハワイに何人かの先生が行くという出張計画書。
学内の海外出張助成を使おうとしていた。
まともな学会でもなく、以前学校にいた人がセミナーをやるというだけの理由。
こんなものは却下、ということで事務局から出したら、学長と学部長が通した。
みんながみんなとは言わないが、学生からもらったお金が、そんなふうに使われているのだ。
教員が出すのはたいがいA4一枚の出張報告書。
海外出張の成果をみんなで共有しようという気すらない。
組織で働く、ということをまったく理解していないのだ。

ぼやいてしまった。
でも、少なくとも、公的な資金はもっと明確に効果を測って使うべきだと思う。

文系の研究費は尊厳死の問題など、社会が抱えている問題をもっと研究すべきだ。
いじめや学校のあり方などの問題なども解決すべき問題だと思う。
そういうのをオープンにして、結果ももっと公開すべきだ。

そういうやり方が、文系の研究のあり方だろう。

| | 考えたこと | 13:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
思考と言語
亡くなった会社の先輩だったSさんは語学の達人だった。
工学部にいながら、文学部の英語の授業をとって、英語で論文を書き、優秀な成績を取ったということを聞いていた。
その時の論文のテーマが「言語が変わると思考が変わるか」というようなもの。
「一卵性双生児が違う言語で育ったら、どうなるかということを書いたんだ」を言っていた。
そういう思考実験を、英語で書くのは至難の業だが、Sさんの語学力はすごかった。
自分でも、よく書けたと自画自賛していたほどだった。

そういう研究結果がアメリカのWIREDニュースに出ていた。
サンデル教授の白熱教室でも取り上げていた、「トロッコ問題」のバリエーションだ。
1人を橋から突き落とせば、5人の命が救われる、という選択。
何もしなければ、5人の方にトロッコが進み5人が死ぬが、トロッコを止めるために橋の上に立っている1人を自分で線路に突き落とせば、犠牲は1人で済むというものだ。

普通のトロッコ問題なら、ポイントを切り替えるだけなので、そんなに悩まないが(それでも葛藤はある)自分で一人を突き落とすとなると、より感情の比率が上がり、それは母国語と外国語では影響が違うだろう、というのが出題者の意図だ。

結論は、「命を救うために誰かを道具として用いるという考えに、人間は本能的な反応を示す。しかし、同じ問題を外国語で考えると事情は異なり、本能的な反応が弱まる」というもの。
まあ、そうだろうということになる。
母国語では20%の人しか、1人を突き落とすという選択をしなかったが、外国語では33%になったとのこと。

ああ、この問題をSさんに見せて話をしたかった、と思う。
まさにSさんが考えていたのは、こういうことだったんだろう。
このWebページを見たら、どういう反応があっただろうか。

ちょうどSさんが大学受験の年は大学紛争で東大の入試が無かった年。
いろいろ事情があって、本当は東京外大に行きたかったのだが、行けなかったと言っていた。
お父さんが技術者で、工学部を勧めたということもあったと聞く。
もし東大の入試があって、東京外大に行けていたら、どんな仕事をしていただろうか。

人生にはいろんな"if"がある。
どういうわけか、それまでの選択の結果、ぼくの入った会社に先に入り、先輩になった。
そう思うと、不思議なめぐり合わせだったと思う。
今日の記事を見て、そんなことを考えた。

Sさんは自分で書いていながら「どんな結論だったか忘れてまった」と名古屋弁で言っていた。

その結論は、どんなものだったんだろうか…。


| | 考えたこと | 13:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
1万人の第九 2回目練習
今週の水曜日も第九の練習。2年目は余裕だ。
コダマ先生の発声法は、留学先の先生に習ったという。
骨盤底筋を意識し、鼻の上の方に息を持っていって、音階は頭で考えるだけでため息のように声をだす、というやり方だ。
お腹に力を入れなさい、という昔の指導とは一線を画す。

よく学校のコーラス部などに「一音入魂」と野球部みたいなスローガンが貼ってあるが、あれはマチガイだという。
一音ずつ入魂してたら、音楽にならない。
音は止まったらダメという。
「声とマグロは止まったら死ぬ」と言っていた。

ギターのような複音楽器のカッティングなどは、いかに音を切って止めるか、というところが難しいのだが、単音の声はそうではないらしい。

表情も明るくしないと、声が明るくならない。
口を大きく開けるのではなく、口の中に大きなスペースを作って歌う。
喉に負担をかけず、ため息で歌うのだ。
そういう指導を受けた後と、いきなり歌った時の声は明らかに違う。
他パートの練習の時に、それを実感することができる。
実際、ハーモニーがきれいになる。
このあたりが、2年目の余裕だ。
去年は、他パートの練習中もずっと音符を目で追っていたから、それどころではなかった。

今週は各教室の練習風景の撮影があった。
どれくらい載るのだろうか。

長い発声練習の後、Dのメインテーマ。
ダイネツァウベル…というところ。
去年は全くドイツ語が読めなかったが、今年は大丈夫。
バスに転向したので、ちょっとメロディが違うが、テナーよりやさしい。
去年のテナーはしんどかった。

1回目の練習時もそうだったが、今年のテナーは去年より上手い。
しっかり声が出ている。
人数が少なくなったにもかかわらず、立派なものだ。

でも、音階が難しいGパートは苦労していた。
音は高いし、メロディは難しいし、ここは最初の難関。
バスなら簡単だ。

今年は強弱の記号を見ながら歌えるし、他のパートを聞く余裕もある。
2年目は楽しい。

去年は途中でしんどくなったが、今年は本当に楽しい。

これがコーラスだ。


| | 考えたこと | 22:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
マイマイ新子と千年の魔法
?樹のぶ子の自伝的小説が原作。
WOWOWでやっていた。

アニメーションが作られて2009年に国内で上映されたが、当初は30ほどの映画館だけで上映された。
「この世界の片隅に」の片渕須直監督は、この映画の根強い評判で熱心なファンを獲得して、日の目を見たということらしい。

この映画は昭和30年代の日本の田舎が舞台。
そこで暮らす少女と、都会から引っ越してきた少女が友達になる。
あの頃の日本はまだまだ戦後すぐで貧しかったし、いろんな運命にしたがって、先生が去っていったり、友達が去っていったり、離れ離れになったりした。
それが当たり前だったからか、明るいトーン。

新子は千年前の世界を見ることができる。
想像の世界だ。
平安の時代。
作家の自伝的小説だったということで、納得。

当時は、遊ぶといっても何か道具があるわけではない。
ボールすらなく、みんなで小川に行ったりする程度。
警官の友だちが木刀を持って遊びに来ていた。
そんな時代だったのか。

明日も遊ぼうと言って別れた友だちが、急にいなくなるような事態がいろんなところで起こっていた。
そういう日常の中での生活。

ぼくが生まれたのが昭和32年。
高樹のぶ子は11歳年上だから、昭和30年くらいに小学校の高学年だ。
ちょうどその頃の風景だったのだろう。

今の70代の人たちはそういう子供時代を送ったのかと思う。

根強いファンができるのがわかる映画だった。


| | 映画・舞台 | 20:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
なぜ吹奏楽部は女子ばかりになったか
こないだ、もとの会社の人と話していて、吹奏楽部が女性ばかりになったのには、内申点が関係していると聞いた。
暗黙のうちに、男子は運動部の方が内申が高いから、文化部は女子ばかりということになったのでは?ということだ。

ネットで内申点のことを調べてみたが、公式には部活の事はあまり記事になってなかった。
しかし、そういうたぐいの質問はあって、実際そう思っている保護者や生徒は多いようだ。

ぼくが気になったのは、内申点を上げようと思うと、先生に気に入られないといけない、ということ。
わざと先生に嫌われようという人はいないと思うが、今の中学校はぼくらの頃以上に内申点が大事になっている。
いくつかのサイトにはっきりと「先生に好かれること」と書いてあり、そのコツも書いてあった。

今の中学校は体育会系のクラブが多い。

ちなみに、ぼくの出身中学を調べてみると、運動部は男子卓球、女子卓球、男子バスケットボール、女子バスケットボール、女子バレーボール、サッカー、野球、女子ハンドボール、陸上競技、水泳、男子硬式テニスの11個。
文化部は家庭科、放送、演劇、美術、吹奏楽、科学の6つ。
運動部の比率が倍近い。

文化部の家庭科部は女子がほとんどだろうし、放送部は学校が運営上必要なもの。
ぼくらが中学の頃は、科学という括りではなく、化学部とか物象部(物理気象)あたりに分かれていた。
それ以外にもESS、新聞部やコーラス部もあったと思う。
もちろん、指導できる先生がいるかどうかによるだろうし、学校によってクラブ数は違うだろうが、要は、もっと学校には多様な価値観があったのだ。

ちなみに隣の中学は運動部が12個、文化部が3つだけ。
圧倒的に運動部の比率が高い。
クラブ加入率は90%という数字。

スポーツ庁の平成28年の調査によると、中学2年の男子の運動部率は73%、女子は57%。
その上、 中学校教諭が土日に部活動・クラブ活動に関わる時間は、10年前に比べて約2倍になっているとのこと。
そうなると、どんどん運動部の教員の声が大きくなる。

だからこそ、内申を考えて男子が運動部を選んでいるのだ。
結果的に、いい内申点をもらおうとすると、特に男子は運動部に属していると「先生に好かれやすい」ということになるのだろう。

吹奏楽部が女子ばかりになったのには、こういう理由があるのだ。
男子は内申点を上げたい、ということで、声の大きい運動部の先生の気持ちを忖度したのだと思う。

ジブリのアニメ「コクリコ坂」で描かれたような、文化部の存在がなくなって、運動部ばかりになったのが今の中学校。
体育会系の考え方が嫌いな生徒は生きづらくなる。

日本はもともと「もののあはれ」の国だったはず。
軍隊風は似合わないのだ。
こういう「単一の価値観」がいじめの元になる。

これは根が深い問題だと思う。

| | 考えたこと | 23:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
グーグルの路線変更
グーグルの創始者のモットーは「邪悪になるな」。理想主義の会社だ。
だから、以前中国に検索エンジンで進出した時、政府の検閲と意見が合わず、結局撤退した。
インターネットの理想を貫いたのだ。

しかし、今は中国の厳しい検閲に合った検索エンジンを作っているという。
「現実を見ろ」という路線に変わったらしい。
ウォール・ストリート・ジャーナルに出ていた。

昔、フランス人に「フランスは武器の輸出で儲けている」と言ったら、「自分たちが作らなかったとしても、誰かが作るのだから同じこと」と平然としていたのを思い出した。

若いときは理想主義、でも年をとったら現実主義というのは世の習い。
しかし、IT業界の巨人としてインターネットだけでなく、自動翻訳、音声認識、AIなどでトップを走るグーグルが現実路線に転換してしまうと、困ったことになる。
ある意味国家の枠を超えた国家みたいなものだから、悪事をしようと思ったらいくらでもできると思う。

記事の中では、「邪悪になるな」という企業倫理に惹かれて入社する、トップレベルの人材が来なくなるとかいう事態が生じるかも、と言っている。
実際、理想に燃えた人材が今は来ているのだろう。
そういう人たちが、新しいイノベーションを生む。
それは無くなるかもしれない。

しかし所詮は営利企業なんだから、儲けを追求するのは致し方ない。
大きくなれば、設備などお金もかかるだろう。

でも、やっぱり程々にしてほしい。
グーグルを使い続けたいからだ。

どう考えても、中国の企業には、お世話になりたくない。

現実路線もいいけど、理想も忘れるなかれ。
その理想に惹かれて、有能な若い人たちが集まってくるのだから。


| | 考えたこと | 20:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
AI電話
アメリカでは、グーグルが開発者会議で「AIが電話で、連続的で自然な会話と複数の質問への回答を実現する仕組み」を発表したらしい。
現状のグーグルアシスタントの発展形だ。
ヘアサロンで、AIが電話をかけて、予約を取るというデモもしたとのこと。

電話なら、人間が目の前にいるわけではないので、AIへの置き換えはやりやすい。
日本の銀行のコールセンターなどでも、一部やっているという。
ただ、今のAIは膨大な資料の中から、質問への回答に該当するものを見つけるというものだが、今回の発表では人間と自然な会話をしながら、仕事をするというもの。
アラン・チューリングが人工知能の定義とした、人間との自然な会話、というのが一部実現したということだ。
一部、というのは会話にお店の予約、という目的があるということ。
何が飛び出してくるかわからないような、世間話は難しい。

しかし、電話でそんなことができるようになれば、用途は広がる。
予約の応対電話などの仕事が、AIに置き換えられる。
うまくいけば、営業事務というような分野でも、使えるかもしれない。

最近パソコンの通販などのページの端っこに、チャットでのヘルプ、というようなボタンがある。
あれはひょっとしたら、AIが対応しているのかもしれない。
チャットなら文字ベースだから、AIでの対応は簡単だ。

もうすでに、ぼくらの生活にAIは入りこんでいる。
それがAIとはわからずに使っているかもしれない。
スマートスピーカーもどんどん便利になっているという。
グーグルアシスタント、アマゾンのアレクサ、マイクロソフトのコルタナが有名だ。
質問すれば、答えてくれるらしい。

ぼくは声でコンピューターを使うことには抵抗があるので、ほとんど使わない。
でも、アメリカ人はきっと声で使うのだろう。
以前、出張したとき、メールを使わずボイスメールを使う人が多いのに驚いた。
字を書くより話したほうが早い、という合理性なんだろう。

インフラが発達し、ネットで声も簡単に送れるようになって、音質もよくなったからなあ。
だから、文字数の制約のあるツイッターが流行るんだと思う。

西洋の言葉は書くより話すほうが向いている。
表音文字だから、書くと長い。
そういうのもあるのかもしれない。

AIはどんどん生活の中に入ってきている。

そういう時代なのだ。



| | 考えたこと | 00:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
GAFMA
グーグル、アマゾン、フェイスブック、マイクロソフト、アップルの頭文字をとって、GAFMA。
ガフマというらしい。
マイクロソフトを抜いて、GAFAという場合もある。
要は、アメリカのITの巨人だ。

アメリカの企業だが、ある意味ではいろんな国で情報インフラを掴んでいる。
EUでは独禁法がらみでグーグルに目をつけており、すでに制裁金を課した。
しかし、グーグルに代わる検索サービスができる会社はないのではないか。

日本ではヤフーがまだ強い。
でも、ヤフーの検索エンジンはグーグルだ。
検索料金を取り始めたら、使わなくなると思うが、やっぱり不便になる。
インターネットが秩序を保てているのは、ゴミのような情報をグーグルが無視して、有用な情報を見つけることができる仕組みを作ったからだと思う。
そうでなければ、これほどインターネットは普及しなかっただろう。

また、それらが無料だというところがミソ。
それを引き換えに、ぼくらは個人の嗜好をグーグルに教え、それが広告に反映される。
見事なビジネスモデル。
それなりに投資して、ぼくらが検索してもすぐに答えが出るようにしてくれている。
その苦労は相当なものだと思う。
全世界で何億人というユーザーが検索をしても、すぐに答が出るようにするには、大変な努力が必要だろう。

グーグルだけでなく、冒頭の5社ガフマは今や世界規模で力を持っている。
力の源泉はお金。
競争相手を早めに買収して潰してしまう、というくらいの資金力らしい。
そういえば、グーグルはYoutubeを買収したし、フェイスブックはインスタグラムを買収した。
自らを脅かす存在は、買ってしまうということだ。

"Winner takes all."という言葉がある。
勝者がすべてを得る、ということで、インターネットの世界では、一人勝ちした会社がすべてを得るような構造になるという。
インターネット時代が、国境や地域を超えた存在だから、そうなりやすいのだと思う。
日本の検索エンジンもある時期まで頑張っていたが、グーグルに負けてしまった。
一太郎というワープロソフトも頑張っていたが、やはりマイクロソフト・ワードには勝てなかった。
そのワードもクラウドのグーグルドキュメントに追われている。

中国は体制の違いもあって、グーグルの代わりのバイドゥだとか、アマゾンの代わりのアリババだとか、アップルの代わりのファーウェイとか、中国独自のものを育てている。
日本はこの分野は弱い。
そのうち、アメリカにつくか、中国につくかを選択しないといけなくなるかもしれない。

ぼくはもうこの際、アメリカと心中するしかないと思うのだが…。

しかし、トランプみたいな人がGAMFAから出てきたら、困るだろうなあ。
最近、グーグルの行動規範の一つだった「邪悪になるな」という言葉が、削除されたらしい。

何となく不安になるが、どうにも手の打ちようがない。

| | 考えたこと | 23:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
コミュ力
毎度出てくるが、元小学校教員の中沢良平という人が、自分の経験に即してブログを書いている。
今回は「若い教員はコミュニケーションに特化」というもの。

前にぼくも書いたが、日本の教員には教育業界しか知らない人(中沢氏はこれを純粋培養と呼んでいる)が多い。
社会人出身者は少ないのだ。
その一様性が、多様な価値観を阻害し、いじめの事件の際に、教育委員会がトンチンカンな記者会見をやったり、ひいてはいじめを誘発する原因になっている、と思う。

中沢氏によれば、実際に教育委員会トップがコミュニケーション能力を重視して、知識を否定している、という。
ブログには、こう書かれている。

「K市の研修センター所長の講話なんかを聞いていても、「これからは知識だけではダメで、不快な思いをさせない思いやりがないと生き残っていけない」とか話していましたが、これは多様性の観点から見ると、かんぜんに逆コースです。ほんとうのコミュニケーションは軋轢の中で生まれるでしょうし、グローバル化や多様化は、その摩擦といかに折り合いをつけられるかというのが現代というものではないでしょうか。びっくりしてしまいます。

とくに、今どきの若い方たちは、密なコミュニケーションがとれない人を排除する傾向があります。これは学校時代のスクールカーストのなごりでしょうか。社会人になっても自分もカースト下位に排除されないように、遮二無二コミュニケーションをとることになります。」

コミュニケーションが取れないのは問題だが、そればかりを重視するのもオカシイ。
中沢氏の言うとおりで、学校でぶつかることも経験しておかないと、とにかく軋轢を避けようとする人ばかりになる。
また、その軋轢の中から、真のコミュニケーションが生まれるというのも事実。
極端な話、教員に愛想をつかした生徒は、回りの生徒から排除されてしまう。
最近のいじめの傾向は、先生もそれに加担しているというもの。
それはコミュニケーション能力を重視しすぎることから生まれている。

また、中沢氏は今の状態で、アクティブラーニングをやっても仕方ないという。
本当にそのとおりだと思う。
空気ばかり読んでいる場合ではないのだ。

「コミュニケーション重視の「話し合い授業(アクティブラーニング)」では、児童生徒の中からしか答えが出てきません。そうやって、われわれ学校教員は、教育内容の責任を子供たちに丸投げしてきました。今一度、学力とはなにか、知識の大切さを確認する必要があると思います。」

今は「旧い学力」になってしまった、知識をもっと大事にしないといけない。
先人の知恵を伝えることが、教育の役割でもあると思う。
中沢氏はこう締めくくっている。

「うち内のコミュニケーションは軋轢がなく快適ですが、知識(科学技術)軽視の姿勢は日本の国力の根幹を揺るがします。そこから旧来の殻を破るような新しいものは出てこないでしょう。」

その通りだと思う。

そして、それは小学校だけの問題ではなく、今や大学の問題でもあると思う。

| | 考えたこと | 23:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
1万人の第九 1回目練習
今年は第一回練習が終戦記念日。15日の水曜日だった。
今年も去年と同じ、コダマ先生だ。
西宮Aのグループは場所も同じ。
2年連速の2回目だから、余裕がある。
ただ、今年はバスに変えたので、練習は初回になる。
事前にIpadのアプリで練習しようとしたら、バスの音源を別途買いなさい、と言われた。
パート別にお金がかかる。仕方ないから2400円払った。

受付を済ませて会場に入ると、とにかく女性が多い。
前は女性パートなのだが、去年より2列くらいはソプラノ、アルトが後ろに来ている。
だいたい、2対1くらいで女性多数になった。
最初にMBSの担当が人が、今年は全部で1万5千人くらい応募したと言っていた。
ソプラノが一番多く、前の半分以上を占めていた。
これは去年も一緒。最終的にはもう少しアルトが増えるだろう。高い声が出ないからだ。

テナーも高い声が出なくて、バスに移る人がいくらかいる。
早く決断したほうがいい。

コダマ先生は去年と同じく、第1回目は発声練習に時間をとった。
去年はたこ焼きを入れた口、と言っていたが、今年はじゃがいもになっていた。
要はあくびをする口で歌うということだ。
去年と同じく、骨盤底筋に力を入れて、足の指で床を掴んで、息を吸う。
吐くときに、それらをリリースする。

身体を使って声を出す。
喉で出すのではない。
おなじみの指導。

第一回目では歌詞の発音を解説。
やはり、カタカナをふってはダメと言われた。
そう言われても、去年の中盤にふってしまったからもう遅い。
しかし、言ってることには一理ある。
ドイツ語でなくなるからだ。
意味も考えて歌おう、と話す。
今年は2年目で余裕があるので、それも考えることにしよう。

そして、「音楽は言葉だ」と言った。
まあ、バリトン歌手だからそういうのだろう。
楽器の奏者は、「そう言われても」という人もいるだろうが‥。
「言葉の中に音楽がある。音楽は言葉の下僕。」とも言い切った。
歌詞のない音楽は、旋律の中に歌詞を感じろということだ。

来週、再来週と練習は続く。
今年は12月2日が本番。

頑張っていこう。

| | 考えたこと | 10:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
批判と非難
下位の大学では、昔でいう「ゼミ」が成り立たなくなっているところが多い。
ぼくのいた学校でも、ゼミを成り立たせることができる先生は、数名のみだ。
あとの先生は、発表者にコメントをして、それでシャンシャンというようなもの。
就職選考でグループディスカッションというのがあるのだが、その説明をするのに「ゼミでやっている討論みたいなもの」というと、「ゼミは討論などしていない」、と学生が堂々と言ったりする。
討論するというのはスキルが必要で、それを身につけるのが大学であり、ゼミでもあると思うのだが…。

ナイーブな学生が多くなった昨今、人の言ったことに意見を言うのは、抵抗があるらしい。
だから、いいことや褒め言葉しか言わないという。
どうして?と聞いたら、意見を言うと文句を言っていることになり、仲が悪くなったら嫌だという。
つまり、建設的な批判というのが何だかわかっていないのだ。

とにかく、何か言うと文句、つまり非難になると思うらしい。
口を酸っぱくして、非難と批判は違う、というのだが、その違いがわからない。

非難は、相手を敵視して文句を言うこと。
話している内容はどうでもよく、難癖をつければいいというものだ。
批判は話している内容について、異なる視点から意見を延べる、という感じ。
言われた方も、なるほど、そういう見方もあるのか、と思う。
批判によって、話す内容がレベルアップしていく。
その区別がつかないと、議論のスキルが上がらない。

民主主義を守っていくためには、議論のスキルを上げなければいけない。
物事を理解し、より良い方向に持っていくのが議論の役割だと思う。
それを学ぶのが、高等教育の役割でもあるはず。

今のワイドショーなどは、コメンテーターがたくさん出てくるが、ちゃんと取り上げられていることについて、話すだけの基礎知識があるのだろうか。
こないだ、今回の台風のことで、いつもと逆方向から進んでいるので、高波が発生するというようなことを言っていたが、理由が全くわからない。

専門家の意見と言っていたが、最近はいろんな専門家がいるからなあ。
マスコミのレベルも下がったと思う。
誰かが責任を持ってくれるのなら、放送してしまえという感じだ。

話がそれたが、議論のスキルが下がって、ゼミが成り立たないというのは、あまり良い状態とは思えない。

第一歩としては、批判と非難を区別し、意見を言うことを恐れないことだろう。

それができるいい先生は少ないと思う。


| | 考えたこと | 02:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
Rolleiflex
Rolleiというと、ドイツのカメラメーカー。
インターネットのファンディング(資金を募るサイト)で、そのRolleiflexのインスタントカメラが出ている。
昔懐かしい二眼レフだ。

小学校1年のときに亡くなった祖父が持っていた。
祖父が使わなくなって、たぶん誰も使わなかったのだと思う。
祖母の家においてあった。
茶色のケースに入っていて、年代物の風格があった。

小学校の頃に、その二眼レフをいじって遊んだ。
メーカーがRolleiだったかどうかは定かではない。
普通のカメラと違って、上部のフタを開けるとすりガラスのスクリーンがあって、それがファインダーだ。
フタを開けると、景色が映る、ということが面白くて、写真を撮るわけではなく、見て遊んだ。
すりガラスに写った風景は、なんとなくそのまま写真のような気がした。
四角形に景色を切り取る、という感じ。

記事にもあるが、二眼レフは必然的にカメラの位置が低くなる。
上から覗くからだ。
だから、普通のカメラで撮る写真とアングルが変わる。

絞りを回すと、画面は暗くなったり、明るくなったりする。
ピントをずらすと、ピントが合う位置が変わる。
このRolleiflexは昔ながらの機構。

では、何が新しいかというと、インスタントカメラで専用のカートリッジを入れると、シャッターを切ったら自動で写真が出てくるのだ。
撮った写真がその場で共有できる、というのがミソ。
MINTという香港のインスタントカメラの会社がRolleiと手を組んで作ったらしい。

日本では、インスタントカメラであるチェキが売れている。
デジタル化で写真の面白さがわかり、それが紙に回帰している。
やっぱりパソコンやスマホで見る写真と、紙の写真は違う。
音楽でいうと、LPレコードのような良さがあるのだろう。

二眼レフのRolleiflexはそこそこの値段。
クラウドファンディングで100万円を目標に集めていたが、48人が賛同し、300万ほどを集めている。
MINTの日本の代理店がお金を集めている。

48人は少ないが、二眼レフを知っている世代はもう残り少ないだろう。
その人達がインターネットのファンディングというところと、どれくらい接点があるかは難しい。
だから、48人というのは、そんなものかもしれない。
希少価値が出るから、あとでオークションに出そうと思っている人もいるかもしれないが…。

懐かしい箱型の二眼レフ。
「その場の空気を切り取る」と書いてあるが、まさにそんな感じだったなあ。

もうちょっと安かったら買うのだが…。

| | 考えたこと | 00:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
カレーラーメン
近所のCoCo壱番屋でカレーラーメンをやっている。
一度食べたら、時々無性に食べたくなる味。
カレーもいいのだが、カレーラーメンもまたいい。

うちはカレー好きで、近所の朝日屋カレーhttp://suzy.blog.bai.ne.jp/?eid=219378というところによく行っていたのだが、そこが閉店してCoCo壱番屋に行くようになった。
CoCo壱番屋では、あまり辛いカレーは頼まない。
唐辛子の辛さで、ヒリヒリするだけで、今ひとつスパイシーではないからだ。

それが、ちょっと前からカレーラーメンを始めた。
コクうまカレーラーメンというのがなかなか美味しい。
カレーのスープが適度に辛く、器も温めてあるので、なかなか冷めない。
最後まで熱いカレースープが残る。
一度食べてみたら、意外と美味しかった。
それが病みつきになった。

ラーメンにはいろんな種類があるが、カレーラーメンというのはあまり専門店はない。
CoCo壱番屋はいいところに目をつけた。

一度次男を連れて行ったが、彼には今ひとつだったようだ。

ぼくは気に入った。

トッピングの種類や麺の種類によって、いろいろバリエーションがある。
カツやチャーシューが乗ったのもある。

カレーラーメンはやっぱりルーの辛さがキモ。
飲んだら汗がでるようなスープでなければならない。

ココイチのカレーラーメンはなかなか美味しいぞ。

| | 考えたこと | 22:21 | comments(2) | trackbacks(0) |
ドリーム
2016年の映画。冷戦中の宇宙開発の話だ。
アメリカとソ連は争って宇宙に進出していた。
ソ連が犬に続いて、ガガーリンを宇宙に行かせた。
アメリカは遅れを取ったのだ。

そのあたりが、この物語の背景。
舞台はNASA。そして、数学の学位を持った黒人の3人の女性。
彼女らが主人公。

まだ黒人差別があり、NASAのトイレも白人と黒人に分かれていた。
宇宙飛行士の出迎えも、黒人、白人別々に立っている。
白人が主体の計算室にただ一人配属された女性は、トイレに行くために走って別の建物まで行かないといけない。
公立の図書館も白人専用だったりする。

NASAの所長が、黒人女性がトイレに行くのになぜ40分もかかるのか?と聞いて、「非白人用のトイレに行くのに走っていっている」からだと答える。
さすがに所長はエライ。
すぐに「白人用トイレ」と書いてある表示版をバールで叩き壊す。

もう一人の女性は、NASAのエンジニアになるために、白人の高校で単位を取らないといけない。
判事を説得して、夜間の講座に出席を許される。

ちょうどIBMのコンピューターが作られた時代。
FORTLANが夢の言語だと言われていた。
3人目の女性は、図書館で借りたFORTLANの本を読んで、コンピューターを動かしてみせた。
計算機を使っていた黒人のグループを連れて、プログラミングの部署を作った。

アメリカの宇宙開発の歴史の中に、そういう3人の黒人リケジョがいた。
実話に基づいたお話。
NASAは一人の女性の功績を称えて、施設に名を冠しているとのこと。

実話に基づいたストーリーというところが泣かせる。

ぼくは、いい映画だったと思う。


| | 映画・舞台 | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
50年代のポップス
ぼくは1957年生まれだから、物心ついて歌などを覚えているのは小学校の4年くらいからだ。
ということは1967年。
だから、1950年代のアメリカのポップスというのは、リアルタイムでは全く知らない。
それでも、当時は今のように誰でもが音楽を作れる時代ではなかったから、ヒットした曲は長く残ったのだと思う。
それはスタンダードとか、エバーグリーンとかいうもの。

最近、年寄りを狙って、昔の曲を集めたCDがよく発売される。
メールで1950年代のポップス、という15枚組のアルバムの宣伝が来た。
曲目リストがあって、面白そうだったので、知っている曲を抜き出してみると66曲。
400曲中66曲だから、15%くらいになる。
やっぱりスタンダードだ。
でも、十年ほど前にジャズを習いだしてから知った曲も多くそれが15曲くらい。
それを引くと、50曲くらいか。

ニール・セダカの「おお!キャロル」とか、ポール・アンカの「You are my destiny」、ナット・キング・コールの「Unforgettable」、プレスリーの「ラヴ・ミー・テンダー」、パット・ブーンの「砂に書いたラブレター」、プラターズの「オンリー・ユー」、フランク・シナトラの「ナイト・アンド・デイ」などがポップスの王道。
これらはラジオで聞いた覚えがある。

ルイ・アームストロングもいくつかあった。
「マック・ザ・ナイフ」、「セントルイス・ブルース」、「聖者の行進」、「明るい表通りで」など。
どこかで聞いたことがあるメロディー。

ロックの生まれた時期でもあるから、チャック・ベリーの「ジョニー・B・グッド」「ロックンロール・ミュージック」「ロール・オーバー・ベートーベン」も入っている。
あの「ゴーゴー、ゴージョニーゴーゴー」というコーラスと、特徴的なギターのリフ、長い足を曲げてステージを動くダンスなど、懐かしい。

映画音楽もある。
マリリン・モンローの「帰らざる河」、ミッチ・ミラーの「黄色いリボン」「クワイ河マーチ」、ジーン・ケリーの「雨に唄えば」。
今はYoutubeですぐに見ることができる。
西部劇が全盛期だった。
クワイ河マーチは「戦場にかける橋」のテーマソング。
亡くなった父が、最初のスネアのロールをギターで真似して弾いていた。
このへんは、淀川長治の日曜洋画劇場で聞いたと思う。

そして、黒人のR&B。モータウンミュージックだ。
レイ・チャールズの「What I say」、プラターズの「煙が目に染みる」あたり。
これらが今のラップのルーツになっているのかな。

インストものもある。
ビリー・ヴォーン楽団の「浪路はるかに」、フランク・チャックスフィールドの「引き潮」、ラテン系のペレス・プラード楽団「マンボ・ナンバー5」など。

そして、今やスタンダードになっているもの。
曲でいうと、「星影のステラ」「枯葉」「サマータイム」「スターダスト」「ハロー・ドーリー」「バートランドの子守唄」など。
いい曲がたくさんある。

こう見てみると、昔の日本には本当に多様な音楽があったのだと思う。
日本に音楽を生産する能力が低かったことが幸いした。
それらを聞いて、ぼくらは育った。

アメリカも移民を積極的に受け入れ、欧州から入ってきた白人が多数で余裕もあった。
戦争も終わり、冷戦が始まりかける、という時期の音楽。
だから、なんとなく明るいムードだ。

日本は今より貧しかったが、思えばいい時代だったと思う。

ほとんど覚えていないが、音楽は覚えている。


| | 考えたこと | 23:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
デスクトップ修理
今朝、スリープ中のデスクトップコンピューターを見たら、こんなメッセージが出ていた。

S.M.A.R.T. Hard Disk Detects Error.

リターンキーを押すと、次はこれだ。

Operating system not found.

ノートPCで調べてみると、ハードディスクの異常を検知するソフトが起動したが、そのときはすでに遅かったということらしい。
ハードディスクが逝ってしまった。

今まで仕事で1回、個人で3回経験した。
いつも突然死だ。
ちょっとでも予兆があれば、何とかなるのだが、気づかなかった。

合計4回もハードディスクが壊れているので、さすがに今回はバックアップがあるが、後から入れたソフトはもう1回入れないといけない。
中にはお金が発生するものもあるが、ほとんどはタダだからよかった。
リカバリーディスクは見つかったので、リカバリーを試みたがムリだった。

これはハードディスクを交換しないとダメだ。
せっかくWindows10にしたのに、リカバリーしたらまたWindowsがバージョン8になる。
今からまた10に上げないといけない。
これがめんどくさい。

メールで見積を取ると、早速返事が来た。

パソコン総合診断 ¥5,400-
HDD交換 ¥5,400-
OSインストール ¥10,800-
HDDもしくはSSD代金 ¥10,000-(容量やHDDもしくはSSDによって値段が変わります。)
¥31,600-前後と思われます。

自分で分解してみて、HDDを外せることはわかった。
総合診断の5400円は不要だが、店に頼むと、致し方ない。
ハードディスクの交換はネジを外すだけだから、それにまた5400円使うのももったいない。
でも、自分でOSをインストールするのも大変だ…。

ぼくのデスクトップはディスプレイ一体型のものなので、結局修理することにした。
今は500GBのSSDがアマゾンで見ると2万円以下だ。
信じられない値段になった。

昼から日本橋に行って、修理を依頼した。
500GBのSSDは1万3千円程度だった。

3日位で連絡があるとのこと。

安くつきそうでよかった。


| | 考えたこと | 16:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
違和感
今までも書いているし、あまり書きたくないのだが、広島や長崎で被爆体験を語り継ごうというニュースを見て、やっぱり今年も書こうと思う。
戦後73年、今や語り継ごうという動きが出るほど、体験が風化しようとしている。
それは仕方のないことだ。

ただ、ニュースを見ていると、語り継ごうという人たちが、戦争は悲惨だ、原爆は悲惨だということだけを語り継ごうとしているように見える。
それでは片手落ちだと思う。
なぜ、日本は馬鹿な戦争をしたのか、それこそ語り継がないといけない。
そこが抜け落ちている。

半藤一利などの言うことによると、日本人がみんな戦争を嫌っていたわけではない。
最初は日本人みんなが、戦争をしたがったのだ。
中国での陸軍の戦線拡大など、新聞も含めて世論が戦争を支持した。
そういう事実を忘れてはいけない。

朝日や毎日はその事実を隠し、伝えていない。
マスコミの基本である、事実をちゃんと伝える、ということをやっていない。
まるで自分たちは軍部にいじめられていたと言わんばかりの書き方。
肝心のマスコミが本当のことを伝えないと、反省もできない。

若い人たちは、戦争のことをどう思っているのだろうか。
なかには、アメリカと戦争をしたという事実すら知らない、という人もいるという。
今の教科書はどうなっているのだろうか。

毎年原爆投下を迎えると、そう思う。

戦争は悲惨です、やっていはいけません、ということを伝えるのは誰でもできる。
ではそれをしたのは誰なのかということだ。
それはとりもなおさず、国民みんながやりたかったのだ。
それを若い世代に伝えて、自分たちはそういう思いにはならないぞ、と思わせないといけない。

ぼくらは過去の日本に戦争責任をかぶせて、自分たちは戦争の被害者だという顔をしている。
それはウソだ。
それを実際に知っている人が、今それを伝えないといけない。

それは原爆の記憶の風化よりも、もっと大切なことだと思う。

ぼくらは被害者でもあると同時に、加害者でもある。
そのことを伝えていかないといけないと思う。



| | 考えたこと | 22:42 | comments(4) | trackbacks(0) |
入試改革2
教育学者は、教師をスーパーマンだと思っている。
人を見る目があって、誤りもなく、何でもできると思っている。
そう思うからこそ、小学校でどんどん新しい授業内容を増やし、アクティブラーニングなどという難しい授業を増やそうとしているのだろう。
それも、ほとんど教員養成課程を変えずにだ。

灘高出身で、受験の本もたくさん書いている和田秀樹が、今回の入試改革について書いていた。
それに、元小学校教員の中沢氏がブログでコメントしている。

2011年から大学入試制度が変わるのだが、それに対する懸念だ。
すべての国立大の入試がAO入試になり、内申書が加味される。
したがって、教師に逆らうような人間は内申点が下がり、大学に入りづらくなるということだ。

前にも書いたが、これはヨクナイと思う。
高校生というと、エデンの東のジェームス・ディーンのように、反抗する時期だ。
教師も人間。反抗されたら内申点を下げるということもあるだろう。
要するに、人間の主観的な評価など当てにならない、ということだ。
だから、国立大はペーパーテストという客観的な指標を使ってやってきた。(私学の一般入試は半分程度)
それを否定することから、今回の入試改革は始まっている。
今回の改革で、上の顔色を伺う生徒が増えるだろう。
それが狙いかもしれないが…。

さらに、文科省の答申の中では、今の学力低下を無視して、詰め込み教育はヨクナイとか言っている。
詰め込んでいないから、学力低下を招いているのであって、論旨が逆だ。
小学校で教えることは、理屈だけではダメだと思う。
やはりドリルが必要だ。

そして、アクティブラーニング。
これができる先生は優秀な先生だろう。
大多数の先生には出来ないと思う。
教室で話し合い、そこで方向性を見出して、生徒自身が考える授業など、夢みたいなものだ。
サンデル教授の白熱教室はその例だが、あれは優秀な生徒と優秀な先生が揃って、はじめて実現するものだと思う。
ましてやそれを実現するのは「基礎の学力と読書力や問題意識」であって、それを軽んじてできるはずもない。

一番最初にセンター試験廃止が言われ、記述式試験を高校卒業試験というようなコンセプトでやる、という話を聞いたときには、これはいいと思った。
文科省の言う、「教育の質保証」というやつだ。

でも、なぜそれがこんな方向に行ってしまったのか…。

みんながもっと考えないといけない。
もう手遅れだが…。


| | 考えたこと | 21:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
自由だから非正規
今朝の日経は「自由だから非正規 4割増 待遇改善も影響」という記事が1面。
非正規労働の位置付けもだいぶ変わってきた。

記事の中には、「総務省によると、4〜6月時点で「都合のよい時間に働きたいから」非正規で働く人は592万人で、5年前から44%増えた。人手不足を受け、賃金が上昇したり厚生年金に加入できたりと待遇改善が進んだことが大きい。企業は働き方改革を急ぐが、非正規・正規ともに多様な働き方の実現にはなお課題が残る。」と書いてあった。
企業はどんどん非正規の待遇を改善している。

「正規の職員・従業員の仕事がないから」仕方なく非正規で働く人が259万人。
統計上は、積極的に非正規を選んだ人の半分以下になっている。
この5年で24%減ったとのこと。
だいぶ意識が変わったようだ。

2017年の非正規の賃金は正社員の66%で5年前よりも4ポイント上昇とのこと。
なぜ待遇を改善するのかというと、他と比べて悪かったら辞めて変わるからだ。
これを市場原理という。

正職員は、終身雇用で辞められないから、上がり幅が少ない。
政府の「同一労働同一賃金」という方針に従うと、原則同じ仕事をしている人は同じ賃金になるから、よく働いたり、優秀な非正規の人たちの賃金は正職員と同じになる。
学校法人などは、派遣やパートの人のほうがよく働くということも多かった。
あの人たちには、高い給料を払わないといけないと思う。

記事の中には、

「「派遣でもやりがいがあり時給もよい仕事が増えた。定時に帰れて家庭と仕事を両立できる今のほうが、正社員の安定よりも魅力的」。広告会社の管理職だった女性(40)は昨年、ウェブコンサルティングをする派遣社員に転じた。」

とも書いてある。

IT関係でスキルがあれば、そういう仕事も選べるのだ。

こんなふうに、だんだんと正規・非正規の待遇に差がなくなり、比率が逆転していくというのが、今の日本で起こっている変化なのだろう。
トップダウンは、厚労省にはできないのか。
天下りを期待している役人には、無理かもしれない。

そういえば、学生にバイトの時給を聞いたら、今は900円は下らないと言っていた。
人手不足なのだ。

これからもっと労働人口は減り、若い人たちが減っていく。

ごく一部の人以外は、自分のスキルをどうしていくかを、早い時期から考える時代になったのだと思う。

| | 考えたこと | 21:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
大学のウソ
今日サンデー毎日の追手門学院大学の宣伝を見た。
就職内定率99%と書いてある。
ほー、立派なものだと思って、ホームペーシを見てみた。
今は情報公開というのがあって、法令に基づいて公開しないといけない情報がある。
そこの卒業生数と就職者数、進学者数を見ればいいのだ。

今年の卒業生数が1391人、就職者数が1206人、大学院への進学数が12人、進学、就職以外の人が26人となっている。
進学、就職以外というのは、別の大学に入ったものが2人、専門学校が21人、科目等履修生。研究生が2人、留学が2人という内訳。

まず卒業生数から進学者を引くと、1379人。
実際の就職率は就職した1206人を1379人で割って、87%になる。
宣伝の数字、就職内定率99%と12%違う。
進学、就職以外の人の26人を分母から除いても、89%だ。

これはひどい、ウソではないかと思うのが普通の感覚。
でも、こういうウソは普通にパンフレットに出ている。
さすがに週刊誌にデカデカと載せるところは珍しい。
よほど苦しいか、見識がないのだろう。
一応定員は満たしているようだが…。

就職担当には言い訳があって、就職活動者数という数字も出ている。
これが1218人。こちらを分母にしているのだ。
就職課とすれば、就職活動をしない学生はどうにもならない、ということだ。
でも、よく考えたら1回生から卒業までの学生を教育してきて、就職活動をしない、という選択をした学生がそんなに多いというのは問題だ。

教育理念を見ると、独立自強・社会有意と書いてある。
よくわからないが、大学情報のパスナビによると、「知性と教養、専門知識の修得はもちろん、人間としての豊かな成長を目標に、これからの時代に大きく躍進する学生たちの可能性を、無限に引き出していくことを目指す」ということらしい。
そういう理念で教育して、150人ほどが社会にでるのをためらったり、何らかの理由で出られなかったりする。
オカシイだろう。

就職課に代わって、ぶっちゃけて言うと、そんなところまで手が回らない。
きっとその150人ほどは学校とほとんどコミットしていないのだろう。

しかし、週刊誌にそういう宣伝が堂々と出るようになったというのは、スゴイことだ。
はっきり言って、ウソの宣伝。
厚顔無恥としか言いようがない。
大学が反省していないのだ。

この姿勢を変えないと、大学は変わらない。
入れたからには、責任を持って出す、という姿勢が大学に欠けている。

もっと真面目にやらないとダメだ。


| | 考えたこと | 22:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
野球の意識改革
昨日は京セラドームで阪神ヤクルト戦を見に行った。
ちょっと前半はだるい試合だったが、中盤に阪神が逆転して勝利。
勝利のジェット風船を飛ばして、9時半頃に京セラドームを出て帰った。

しかし、最近はファン層を増やすために、阪神といえどもだいぶ変わったと思う。
試合前に女子のダンスの発表会があった。
阪神がやっている女子のダンススクール。
男子は球団OBが指導する野球教室らしい。
小学生から中学生あたりの子ども。
みんなきれいな衣装を来て、観衆の前でダンスをする。
ちょうど試合開始前の場つなぎにもなるし、将来のTORAKO(阪神の応援女子)の候補にもなる。
もっと上なら、Tigers Girlsだ。これはオーディションがあるらしい。(最初にトラガールで調べたのだが、トラガールというのは、女性のトラックドライバーのこと)

発表会の会場を手配する手間もいらない。
観客はたくさん来るから、呼ぶ手間もない。
まさに一石二鳥だ。

また、画面を使って、試合の合間にゲームやクイズもやる。
これは技術の進歩だ。

プロサッカーが競争相手となり、野球人口が老齢化し、プレイヤーの人口も減って、ようやくプロには危機感が出てきた。
所詮、興行商売だから、誰も入らなければ苦しい。
人を集めてナンボなのだ。

昨日も球場を見ていると、圧倒的に年寄りが多い。
サッカーのスタジアムとは年齢層が全く違う。
今の年齢構成なら、あと10年経ったら、球場に来られる人数は確実に減るだろう。
そのために、トラッキーに幼稚園周りをさせるなど、涙ぐましい努力をしている。

野球の全盛期だった、昭和の時代はこんなことは考えられなかった。
別に球団が努力しなくても、人はいくらでも来た。(阪神の場合)
弱くなったり、消化試合になると減ったが、今は阪神は動員数は巨人を抜いて堂々1位。
人気にあぐらをかいていたが、そうも言えなくなったらしい。

パ・リーグは東北や北海道といった地方に進出して、集客に頑張っている。
セ・リーグでは広島が強さもあり、地元でも集客している。
それに習ったところもあるのだろう。
今や集客努力と実力のパ・リーグという感じだ。

プロに比べて、アマの動きは相当鈍い。
野球部が成立しない学校が増えたり、子どもがサッカースクールに取られたりしているのに、適切な手が打てているとは思えない。
おまけに、この暑いさなか、甲子園だ。
高野連はもっと危機感を持たないといけないのではないか。
高野連がインタビューで、口ではプレイヤーズファーストと言っているが、そういうなら、この時期の開催は地方大会も含めて炎天下になるので中止してはどうか。
春夏やるのは、無理があると思う。
ピッチャーの投げすぎに関しても、アマの指導者たちは問題視していないのだろうか。
アメリカのリトルリーグでは、いろんな制約があるが、日本はおかまいなし。
おまけに、学校法人の宣伝が目的になっている。
だから、指導者が勝つことを第一優先にしているので、無理をさせられる。
とても、プレイヤーズファーストとは思えないし、その美学を良しとしている感すらある。
投げすぎで選手生命を棒に振った人も多いと思う。
今の野球の指導者は、「巨人の星」の世代だから、なかなか意識は変わらないだろう。

でも、これを変えないと、野球の凋落は止まらないと思う。

世代を超えて、野球を日本で定着させるためには、アマの意識を変えるしかない。
リトルリーグから、高野連、大学の野球までだ。

そうしないと、いずれ日本での野球中継は、大リーグに取られてしまうぞ。


| | 考えたこと | 21:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
吹奏楽部
吹奏楽をやるのは女子が多いのは知っていたが、それが小説やアニメになっているとは知らなかった。
「響けユーフォニウム」というやつ。

北宇治高校吹奏楽部というのが舞台。
宇治の学校法人に勤めていたが、全く知らなかった。
TVでも放映され、映画にもなっている。
まあ、辞める1年前だったから、そんなものか。

ちょうど宇治と縁が切れてから、盛り上がったようだ。
作者が宇治の出身らしい。

登場人物もほとんど女性。
男性もいるところを見ると、男女共学の高校という設定だ。
今や女子のスポ根ものは、吹奏楽部なのだろう。

中学で吹奏楽をやって、金賞受賞で喜んでいる女子の横で、「ダメ金で喜んでいるのか」と悔し涙を流す友だちがアニメの第一話の場面。
ネットで第一話だけタダで見られる。

吹奏楽部のことを吹部(すいぶ)というのも、初めて知った。
高校に進学して、ド下手の演奏を聞いて驚くが、そこに新しい顧問が来て全国を目指すというストーリー。
まるで甲子園を目指す野球マンガだ。

昔でいうと、「巨人の星」みたいなもの。
スポ根物の元祖だ。
今や吹奏楽部は女子の運動部と化した感がある。

そういえば、女子の大学生は吹奏楽をやっていた、という人も多い。
流行っていたから、そういう小説やアニメが売れたのかも…。

アニメの中にはヤマハの文字がよく出てきたが、きっちり協力企業になっていた。
昔のギターキッズは、ブラスキッズになっている。

だから、定番曲である「宝島」の動画がたくさんアップされているのか。
いろんな高校が動画を上げている。
運動部並みに練習をしているのだろう。
あの動画は一番いいところだけを切り取っているのか…。

何となく、吹奏楽連盟とボクシング連盟が重なった…、と思ったらこんなブログもあった。

たしかに上手くなるにはすごい練習が必要だろう。
Youtubeを見ていると、海外遠征でマーチングをやっている高校もあり、あきれるほど上手い。
でも、それで犠牲にするものもあるということだ。
海外では評判がいいが、生徒の練習の実態を見ても同じコメントがもらえるだろうか。
きっと、こんなに練習して、いつ勉強するのかと呆れられるだろう。

以前、大学の体育会のコーチをやっている人と話したとき、運動部の部員は礼儀正しいと言ったら「そんなのは、そうしなさい、と言っているだけです」と言われた。
礼儀正しい気持ちを持つことと、指示でやっているのは違う、とコーチは言っていたが、そうかもしれない。
そう思うと日本中、そういう価値観に覆われているような気もする。

自由に楽しくやって、それでレベルが上がればいいのだが、なかなかそうもいかない。
形から入る、ということも、ある意味正しい。
でも、学校は何をするところか、という一番肝心なところが抜け落ちているような気がする。
吹奏楽部もブラック部活なのだ。
だから、大学で続けない学生が増えているのかもしれない。

教育の場と、趣味の場を分けないとダメだと思う。
先生は勉強を教えるのが仕事。
趣味の活動を通じて、人間形成するなどというのは勝手に作った理屈だ。

ブラック部活はタテ社会であり、それが学校の体質になることもある。
それに適応できない生徒が、仲間はずれやいじめにもつながったりする。
また、それが学校の宣伝になるから、私立の学校法人はブラック部活に力を入れる。

部活は週休2日にしたらいい、というものではない。

完全に切り離すべきだ。


| | 考えたこと | 11:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
宝島
昨日、ウィンドシンセ(吹くシンセサイザー)のことを調べていた。
いろいろ見ていると、YouTubeで「宝島」という曲が出てきた。
今のブラスバンドの定番の曲。

ぼくらの中高の頃は、ブラスバンドがポップスをやるなんて、めったになかった。
でも、今の中高生は上手になったのか、練習量が多いのか、指導者がうまいのか、発表会などでよく演られる曲になったらしい。
91年にT-Sqeareが発表した曲。
オリジナルの曲は伊東たけしのウィンドシンセが使われている(そのせいで、見つけた)。

それをブラスバンドにアレンジして、今や定番の曲になったとのこと。
イントロのアゴゴベルがいい。
パーカッション大活躍だ。

よくYoutubeで「〜してみた」というのがある。
めったにクリックしないが、「【吹奏楽】宝島 220人で大合奏してみた!」というのがあって、これは大当たり。
中学生くらいから、高校生、大学生あたりのメンバーが集って演奏している。
これがノリがよくて、楽しそうでいい。
おまけに上手い。

ぼくは管楽器というのは単音しか出ないので、やりたいとは思わなかったのだが、こういう合奏はいい。
一生懸命息を吹き込んで音を出す。
これが気持ちよさそうだ。
ピアノとか、ギターとかいう手で演奏する楽器よりも、人が関わる部分が大きいだけに、気持ちが入る。
こういうの、やりたかったなあ。

それにしても、ブラスバンドは上手になったものだと思う。
息子たちが中高の時代にも、文化祭のときには演奏を聞いたが、一時はジャズもやっていた。
これではギター人口も減るはずだ。

学校法人にいたときに、何度か近所の中学校のブラスバンドの演奏会に講堂を貸したが、あのときはメンバーが女性ばかりでビックリした。
そういえば、スゥイングガールズという映画もあった。
たしかに、220人の女性比率はだいぶ高そうだ。

Youtubeのコメントを見ていると、楽器を吹いている人ならではの「ここがスゴイ」というようなコメントも出てきて、実際吹いている人はわかるんだろうなあと思う。

おかげで、3時まで夜更かししてしまった。

音楽は素晴らしい。

| | 考えたこと | 10:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
上がった電気代
電気代が高くなった。
東北の大震災があって、原発を止めたことと、太陽光発電の電気を高い値段で買い取っていることが原因らしい。
原発の分を代替したのは火力発電だから、化石燃料を輸入してコストを上げ、CO2を排出したことになる。

上がり幅は家庭用が2割、業務用が3割とのこと。
中小企業にとっては、電気代のアップは痛いだろう。
もちろん、家計にとっても痛い。
この猛暑でエアコンはフル稼働だし、来月の電気代は高いはず。
高齢者で、熱中症はこわいが、電気代を気にしてエアコンを切っているという人が多いのもうなずける。

電気や水道、ガスはライフラインだから、使わないわけにはいかない。
税金みたいなものなのだ。
若い人にとっては、高くなっている社会保障費にさらに上乗せで効く。
若者の貧困化が進む。

もうちょっとしたら人口が一番多い団塊の世代が後期高齢者になるから、社会保障費はもっと高くせざるを得ないだろう。
今までほっておいたツケがいよいよ来る。
年金100年プランなどとよく言ったものだ。

どこの政党も、若者の味方にはならない。
票が少ないからだ。
若者寄りの意見を言っているのは、小泉進次郎くらい。

電気代が中国の2倍なんて、どうなっているのかと思う。
こんな状態なら、どんどん企業は中国に行くだろう。

石炭や石油をじゃんじゃん燃やしている場合ではないと思う。

| | 考えたこと | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
ボクシング連盟会長
昨日ニュースを見ていたら、アマチュアボクシング連盟の会長の問題をやっていた。
何でも一人の選手への奨励金を3人分にして、対象の選手に残りの二人に振り込むように指示したということだ。
それ以外にもその会長の横暴を暴露していた。
明らかに負けている選手を勝たせるように働きかけたり、実際にそういう試合があったのを映していた。見ていて、本当にひどかった。あれならブーイングも起こるだろう。
明らかに勝っていた方の選手は泣いていた。
こんなこと、関係者もみんなグルでなければ、出来ない。
実際、会長の姿が映っていたが、サングラスでまるでヤクザのような格好。
調べてみると、もう78歳。
78歳だからとは言わないが、善悪の区別もつかなくなっている感じだ。
普通の組織なら、とっくに引退していると思う。

会長は日大の理事長とも仲良しだという。
そういう意味では日大と同じ図式。

周りの人達も常務理事や会長の気持ちを忖度してそういうことになってしまう。
日大の方は、常務理事で人事権という権力を持っていたが、アマチュアボクシング連盟の会長で、そんな権力があったのだろうか。

日大の場合は選手が実行犯だったが、この場合は審判。
たった3ラウンドの試合で、一方的に打ち勝ち、ダウンまで奪っていたのに負けにした。
今朝のニュースで、まだ反論しているところがスゴイ。

アマチュアのスポーツ界はおかしなことが多い。

高校野球連盟だって、日本陸連だって、やっていることが不透明だと思う。
このあたりの組織は、そのスポーツをやっていたOBばかりで成り立っているのではないか。
組織の健康度は、ある意味多様性で決まると思う。
そういう意味では、一様な組織なのだと思う。

話は違うが、教育界も同じこと。
教育委員会は教員OBなど教育関係者ばかり。
いじめなどの謝罪会見をやっているが、何度問題を起こしても、同じように問題を起こす。
よそでの事例が反映されない。

上の言うことは絶対とか、黒でも白と言わないといけないとか、そういう体育会の伝統はすでに賞味期限が切れたのではないか。
上がまともなら、それもいいとは思うが、すでに上がまともでない人が多いのだろう。
だいたい、会長は78歳だからなあ。

アメリカのように移民が多く、社会自体に多様性があるところは、そうなりにくい。
また、そういう事例があれば、それを是正するまでやる。
日本は島国で、ほとんど単一民族と言っていいから、そんなことが起こる。

ほんとに、普通の善悪の区別すらつかない。
あの審判の所業を見ていて、そう思う。
いくら上から言われたって、やっていいことと悪いことがある。
もっともフェアであるはずのスポーツが、もっともフェアでなくなっている。
スポーツマンがフェアなどとは、これを見るととても思えない。

日本のスポーツ界も、もっとスポーツ以外をやっていた人を入れて、組織改革しないといけないのではないか。

脳みそが筋肉になっているぞ。

| | 考えたこと | 20:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
まちづくり提案箱 返事
まちづくり提案箱に市営住宅の維持管理に、指定管理者制度(要は民営化)を採用しているのか、ということについて、メールを送ったら、早速返事が来た。

内容は以下の通り。

−−−−−−−−−−−−−−−
平素は、市政運営に格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げます。


 本市では、市営住宅の維持管理につきまして平成19年1月から指定管理者制度を導入しており、
5年毎に公募によってその業務を担う事業者を選定しているところです。
 指定管理者制度を導入することによって市営住宅全体に係る維持管理経費の削減をはじめ、
窓口を19時まで延長するなど、民間事業者のノウハウを活用した入居者に対するきめ細かい対応が可能となっています。


 貴重な御意見、ありがとうございます。
今後とも、本市発展のためご協力いただきますようお願い申し上げます。
−−−−−−−−−−−−−−

よく調べてみたら、市営住宅は北部地域は株式会社東急コミュニティー、南部地域は日本管財株式会社に分けて委託していた。
これに関する文書もネットに上がっている。

尼崎市は小さな市政を目指すべきだと思う。
そのためにも、こういう民間委託は進めていくべきだ。
しかし、10年以上前からやっていたとは立派。

経営再建プログラムの一環ということで実施されたらしい。
お金がなければ、仕方ないということ。
合理性がある。
ちょっと見直した。

しかし、大阪市がまだやっていないというのは、橋下さんの言う利権のためなのか…。


| | 考えたこと | 21:18 | comments(0) | trackbacks(0) |