考えたこと2

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アリー・マイ・ラブ
遅まきながら、ケーブルテレビで再放送(再々放送?)でやっている、アリー・マイ・ラブを見始めた。
NHKで日本語吹き替えでやっていたが、どうもアリーの声がぴったり来ず、見たり見なかったりで、入り込めなかった。
やっぱり、字幕の方がいい。

今回、1回目から見たが、最初から見ると、すごく面白い。
プロデューサーが「シカゴ・ホープ」や「ザ・プラクティス」のDavid E. Kellyでこの人のドラマらしく、人間関係が複雑で面白い。

アリーは弁護士だが、毎回の裁判ネタと、人間関係の展開がうまくミックスされている。
役者もうまいし、また、毎回弁護士事務所のビルの下にある、バーでやっているライブの曲もいい。

ベイ・シティ・ローラーズの I only wanna be with you が、原曲よりゆっくりしたアレンジでかかった時は、すごく懐かしかった。

調べてみると、David E. Kellyは僕とほぼ同じ年齢だった。だから、年代的に共感できる曲がかかるのか・・・。

さすがに、TSUTAYAでいつもDVDが貸し出し中だけのことはある。

前に、海外のドラマについて書いたが、このドラマもリストに加えないといけない。

最近テレビはほとんど見ないが、これは当分楽しめそうだ。

見逃した方、見てない方、面白いですよ。お勧めします。

| | 映画・舞台 | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
西洋占星術
中学の頃、家にカッパブックスの「西洋占星術」という本があった。
当時、まだまだ占星術など今ほどは流行っていなかったと思うが、面白そうだったので読んだ。

とりあえず、僕は魚座なので、魚座については何度か目を通したおぼえがある。

覚えているのは、とにかく魚座は直感にすぐれる、という事だ。
たしか、アインシュタインが魚座だ、ということが書いてあったはず。(当たり・・・調べたら3月14日だった)
適職は、芸術家などの、何かを創る仕事だった。
美術は全くの不得意だったので、ほんまかいな?と思っていたが・・・。
サラリーマンは入ってなかった。
当たり前か。占いで、適職に「サラリーマン」なんて書いてあったらイヤでしょうね。

その本を何度か読んだせいか、星占いはなじみがある。

あらためて、魚座の事を調べてみると・・

水の星座・・・情感的。感情を優先する。狭く深い交際をする。優しい性格。

魚座・・・繊細な感情を持ち、周りの状況に流されやすい。
     イエス・ノーをハッキリと言えない。
     直感、霊感が強く、人の裏の気持ちを読み取る事ができる。ルーラーは海王星。

海王星・・・芸術、幻想、イマジネーション、占い、夢、心霊現象、憧れや未来へのビジョン。
      物事の輪郭をぼやけさせる働きがある。
      
というようなことが書いてある。
30年以上前に、カッパブックスで読んだのと、大体同じだった。

当たっているところもあり、外れているところもあり・・・。

ただ、今まで、自分自身、直感や霊感が強いという事を感じたことはあまりない。
芸術の才能があればねぇ・・と思ったことはあるが、自分に芸術の才能があると思ったことも、残念ながら、ない。

それでも、中学の時に読んだ西洋占星術、という本は、忘れられない本の一つだ。
表紙に星座の絵が描いてあって、薄い紫色がバックだった。

占いというのは、未来に対する希望や願望を託すための手助け・・という側面があると思う。

いつかは、自分の芸術的才能が花開いて、直感と霊感で助けられることもあるのかもしれない・・と思うには、ちょっと年をとりすぎたかもしれないが、まだまだ信じておくことにしよう。




| | 考えたこと | 20:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
ラジオ
中学の頃から、ラジオをよく聞いていた。
朝日放送のヤングリクエスト、毎日放送のヤングタウン・・など。

夜の10時頃から聞き始めて、場合によっては深夜3時頃まで聞いていた。
ヤングリクエストは、朝日放送のアナウンサーがマジメにやっていた。音楽をかけるのが中心。洋楽と邦楽が半々くらいだった。
番組中に、売れはじめの笑福亭仁鶴が、「仁鶴頭のマッサージ」というコーナーをやっていて、一度だけハガキに書いたギャグが読まれたことがある。中学2年の時か・・残念ながら聞き逃して、友達から教えてもらった。

ラジオ大阪で、亡くなった桂春蝶がやっていた番組にも、ギャグを書いて送って、読まれたことがあった。こちらの方は、何かプレゼントをもらえるコーナーだったが、次点だった。

ヤングタウンはよく聞いた。始まってすぐに、「ハッピー・トゥデー」というコーナーがあって、電話でその日にあった面白いことをリスナーが話す、という企画だった。今でもやっているのだろうか。

1時過ぎから、ヤマハのポプコンがらみの番組があって、これもよく聞いていた。NSPの「夕暮れ時は寂しそう」なんかは、これで聞いたと思う。

夜中になると、オールナイトニッポンを聞いたり、KBS京都を聞いたり・・試験勉強などでもっと遅くなると、トラック運転手さん向けの番組を聞いたりしていた。これは演歌がメインだったが、妙に色気のある女性のアナウンサーが、静かに話す番組だった。

オールナイトニッポンでは、桑田佳祐がDJをやっていて、山下達郎が当時人気があったホンダのプレリュードで、夜の首都高速を走りながら、竹内まりやを口説いた・・という話を聞いて、なぜかそれが妙に印象に残っている。

朝の5時になると、おはよう浪曲や宗教関係の番組がある。
11月くらいから、12月の討ち入りの日にかけて、忠臣蔵の浪曲特集があったりして、なかなか面白かった。下宿時代にはよく聞いた。
宗教の番組は、「暗いと不平を言うよりも、進んで明かりをつけましょう」というナレーションで始まり、毎日一つ、「イイ話」を聞かせてくれた。

1970年代はFM放送が始まったばかりで、FMはNHKとFM大阪の2局しかなかった時代だ。
NHKのFMではクラシックが多くて、ほとんど聞かなかった。
FM大阪では、土曜日の昼に歌謡ベストテンとポップスベストテンをやっていて、この番組はよく聞いたおぼえがある。

70年代はFMファンなどという雑誌があって、番組表を見て、カセットで録音(この行為を、エアチェックという)していた。
LPレコードの全盛期で、レンタルもなかったし、エアチェックは大事な情報源だった。

こないだ書いたが、日曜日の朝は、「愛の街から」というラジオドラマを聞いていた。

こう書いてくると、けっこうラジオというメディアになじみがあったんだと思う。
今みたいに、一家に数台テレビがある家などなかったし、テレビは茶の間にデンと座っているものだったから、自分の好きな番組を見る、ということができなかったし、ちょうど、家族から離れて一人でいたい時期だったというのもあったのかもしれない。
その点、ラジオは机の上に置いてあって、スイッチを入れると一人で聴けるという手軽さがあった。

ラジオか・・。
今の中学生や高校生はあまり聴かなくなったのか。

懐かしい。
ラジオには、ラジオの良さがあった。
ハガキを通じて、同世代の話を聞けたりして・・、今のインターネットの掲示板やメーリングリストのようなものだったのかもしれない。
でも、今のテレビの深夜番組よりは、数倍マジメにやっていたと思う。

昔は聴きましたよね?

| | 考えたこと | 22:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
ボールにのってこけた騒動
11月3日には思い出がある。
生まれて初めて入院した日だ。

小学校4年の11月3日に友達のH君と路上でボールを蹴って遊んでいて、ボールの上に足がのって、ころんで頭を打って、気を失った(らしい)。
家の近所だったので、H君はすぐに家に走っていって、母に事態を伝えた(らしい)。

その時には、僕は気がついて、足を引きずりながら歩いて帰ってきた。(これは覚えている)
数分の事だろうが、当時は車も少なかったので、道路の上に寝ころんでいてもひかれないような時代だった。

それから、夕方まで寝て、起きてから柿を食べた。
食べたら、すぐにもどしてしまい、どうやらちょっと具合悪い・・という事になったと思う。

今なら救急車を呼ぶんだろうが、当時はよほどの事がないと、救急車を呼ぶというような習慣はなかった。
母の叔父さんが、近所から車で来てくれて、それに乗って近所の救急病院に運ばれた。

生まれて初めて目が回ったのもその時だ。
病院のベッドに寝て、天井に吊ってある、小さなライトがたくさんついている丸い照明を見ていたら、そのライトが本当にグルグルと回りだした。
本当に目が回るというのは、景色がグルグルと回るということを初めて知った。

何をしたのかはあまり覚えていない。
注射をして、脳波をとったのは間違いないと思う。

結局その夜は一晩病院で過ごした。
軽い脳震盪だったんだと思う。

救急病院に着いたのが夜の7時過ぎで、翌朝退院した。(救急病院だから、一晩しかいられない)
病院では、母が横についていてくれた。
その時に、退院したら何か食べたいものがある・・・という会話をしたことだけ、よく覚えている。その食べ物が何だったかは覚えていないのだが・・・。

学校は数日休んだ。
一月後くらいに、もう一度脳波をとったと思う。
異常がなかった・・ということで、ボールに乗っかってこけた騒動はそれで終わった。

その次の年も、そのまた次の年も、11月3日が来ると、母から「今日は厄日だから、外で走り回らないように・・」と言われたことを思い出す。
数年たって、さすがに、言われなくなったが、今朝新聞の11月3日という日付を見て、また思い出した。

うちの息子二人は、いずれも小学校で入院した経験があるが、彼らも初めての入院のことはずっと忘れないのだろうか。

入院、というのは、日常から離れて、完全に別の世界に行く、というイメージであり、だから忘れられないんだろうか。

僕にしてはめずらしく、日時とセットになった思い出である。

| | 考えたこと | 10:47 | comments(0) | trackbacks(0) |