考えたこと2

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カーペンターズの謎
昨日はモーツアルトのレクイエムを神戸文化ホールに聞きに行った。
どうも、モーツアルトはぼくには合わなかったと思う。
ほとんど寝てしまった。

神戸文化ホールに来たのは2回めだと思っていた。
1回目は若い頃に、カーペンターズを聞きに来た。
まだ日本で売れ始めた頃。

あれはいつだったのかと調べてみると、カーペンターズは神戸文化ホールで公演はしていない。
隣の神戸市立中央体育館でやっていた。
さらに、何となく中学の時に見に行ったような気がしていたのだが、公演は1976年だった。
というと、大学の1回生になる。
当時すでに人気があったから、公演数を増やしたのと、たくさん入るところでやりたいという興行主の考えもあって、体育館になったんだろうと思う。
彼らにしたら、隣に良いホールがあるのに、何で体育館?ということだったろう。

どういう経緯でチケットを入手したのかは覚えていない。
友達と2人で行ったような気がするが、誰と一緒に行ったかも忘れた。
でも、行ったことには間違いがない。
きっと、公演記録どおり、1976年3月19日に行ったのだ。

カレン・カーペンターがまだまだ元気な時で、ドレスを着てドラムを叩いていた。
ぼくがライブに行った世界的アーティストというと、その時のカーペンターズだけだ。

あんなに若くして亡くなるとは思わなかった。
ちょうどマルチチャンネルのレコーダーが出てきて、声をオーバーダビングできるようになった頃。
あのきれいなコーラスは、今でも並ぶものがないと思う。

バート・バカラックの「遙かなる影」を歌ったのが彼らを知るきっかけ。
当時バート・バカラックが好きだったので、そこから入った。
あのカントリー風のアルトの声は本当に魅力的だった。

それにしても、何で中学の時に行ったと記憶していたのだろう。
ひょっとしたら、中学のときの悪友が誘ってくれたのかもしれない。
H君という、今では疎遠になっている友人。
ちょうど大学の1回生の頃までは、音信があった。
だから、中学の時に行ったという記憶になったのか…。

しかし、昨日行ったおかげで、カーペンターズの記憶を修正することができてよかった。
レクイエムは、カレン・カーペンターへのレクイエムだったのだろう。

寝てしまって、申し訳ないと反省した。



| | 考えたこと | 20:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
教育問題
元小学校教員の中沢良平氏のブログを時々読む。
小学校の現場を経験したこの人のブログを読むと、いつも考えさせられる。
見ていると、「学級崩壊がニュースになる間は日本企業の復活はない」という記事があった。

教員は、「学級の秩序を維持すること」を一番期待されるから、無茶な学級経営を強いられる、という内容。
これは、一番コントロールが効かない生徒に照準を合わせて運営されるから、普通の生徒は萎縮するということだ。
普通の生徒は、教員は恐ろしい、教員の言うことは聞かなくては、と思ってしまう。
これが短くて6年、長くて12年続けば、大人になっても自分で物事の軽重を判断できなくなるのではないか、と書かれている。
そうかもしれない。
中沢氏は、この問題が「学級問題の最大の瑕疵なのではないか」と考えているとのこと。

教員たちは、これしか学級の安定を維持できる方法がないから、そうやっている。
中沢氏は教室に防犯カメラを付けて、第三者による監視をすればいいとまで思っているとのこと。
ぼくらは知らないが、本当にそういうレベルになっているんだろうか。
教室は密室だから、わからない。

彼はこうも書く。

「発達障害、とくにADHDが問題になっていますが、彼らの対応はどうするべきでしょうか?やっぱり、規律に従わせるべきでしょうか。教員はかなり無理な対応を迫られるでしょう。そして規律を守らせることによって、そんな威圧をかけなくても規律を守れる児童はますます委縮します。それにADHDのように今後日本経済に必要とされる「尖った才能」もかなりの確率でつぶされるでしょう。(実際つぶされています。)
長じて、だれか怖い人の言うことに従って行き詰った結果、会社で挫折をしたら、自殺もしかねないのではないでしょうか。ゆえに和を乱さず、忖度し、前例を踏襲して、自分の殻に閉じこもってしまいます。今の日本企業にいちばん必要な「現状変更」からいちばん遠い人間を量産しつづけているのです。そして多くの企業側も、現状を忖度して維持してくれる人材を嘱望しつづけています。まさに、学校化する会社 会社化する学校です。」

小学校の問題は根が深い。
発達心理学上、小さい頃に習得するべきものを習得しないと、もう大きくなってからは同じようにはできない。
だから、小学校こそ一番大事なのだと思う。

国は高等教育に力を入れようとしているが、それは全く逆だ。
初等教育にこそ、力を入れないといけない。

ぼくは、そのためには小学校にもっと民間人を入れるべきだと思う。
学校の先生を増やすよりも、そちらの方が効果があると思う。

何度も同じことを言っているが…。


| | 考えたこと | 00:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
9割が留学生
朝のHNKニュースで、宮崎の高校が若者不足で、9割の留学生を入れている、というのが放送されていた。
留学生は中国から来た学生で、日本の大学進学を目指すという。
入学式で1割の日本人学生が座って、9割の中国人学生が起立して中国国家を歌っているところが映っていて、えらいこっちゃなあと思った。
国旗も日の丸と五星紅旗が両方あった。

留学というのは、日本人の中に混じって学んでこそ意味があると思う。
これでは、日本の学生が中国人の中に混じって学ぶことになり、日本人にとっての中国への国内留学だ。
それはそれで、意味があると思うが…。

校長は経営が厳しく、こうしないと学校経営が成り立たないと言っていた。
それはそうかもしれない。
それなら、中国の人たちを入れて、どういう教育を目指すのかという指針が必要だろう。

私学だから、金を儲けないと成り立たない。
少子化で苦しいのはわかる。
それでも、インタビューの最初に経営のことを話しているのはいただけない、
編集のせいか、本音が出たのかはわからないが…。

この学校が悪いというのではない。
留学生たちに日本の教育をすれば、それは意義があることだと思う。

それにしても、地方で人口が減少し、いろんなところで歪が出ている。
この学校もその一つだろう。

人口減少に対応して、日本はどうやって生きていくのか、それを真剣に考えないといけない。
すぐ隣の中国という国とどう付き合っていくのか。

本気で考えないと…。

| | 考えたこと | 20:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
強いパスワード
ITメディアというサイトに、面白い記事があった。
セキュリティの研究者がやっている、今までに漏洩したといわれているリストから、メールアドレスやパスワードが含まれているか、というのを調べることができるサイトだ。
今まで大規模なハッキングや事故などで、いろんな会社が「漏洩した」といっているもの。
それに含まれていたら、アドレスやパスワードは盗まれているということらしい。

そのページは「Have I Been Pwned」という。
実際にやってみるのなら、リスクがあるから、今使っているパスワードは入れないようにと書いてあるが…。
この記事の筆者は自分のメールアドレスを入れてみたところ、見事にリストにあったらしい。
自分が利用しているサービスが、漏洩リストに入っていたということだ。

漏洩の事件はアメリカが多いが、それはハッキングされたことがわかっている、ということでもあり、その発表があったらパスワードやIDを変えればいい、ということになる。
ハッキングされたこと自体がわからなければ、そういう発表もない。
日本の会社でも時々発表があるが、知らない間に盗まれていることもあるんだろう。
北朝鮮やロシア、中国などのハッカーが活躍しているということだから、セキュリティのリテラシーを上げていかないといけない。

それはともかく、そういうサイトを使って、強いパスワードはどんなものか?ということを書いている。
パスワードを考えて、そのサイトで入力してみて、リストになければ、一応強いと考えてもいいだろうということだ。

英文字を使う場合、一つの単語ではダメらしい。
さらに、「a」を「@」に変えたり、「l(エル)」を「1」に変えたりしても、リストにある。
そういうのは想定済みらしい。

実際に漏洩リストに載っていないパスワードは、3つの単語をつなげた長いパスワードだったとのこと。
そういうことか。

しかし、まだまだパスワードの入力画面で、入力文字数の制限があったりする。
そういうのは、だんだんとなくなって、長いパスワードが使えるようになっていくのだろう。
逆に言うと、パスワードの文字数が多いサイトは、信用できるということになる。

ネットに依存すると、どうしてもパスワードが増える。
パスワードが増えると覚えられないから、いつも使うものを決めてしまう。
そうすると、ハッキングの可能性が増えることになる。

ややこしい時代だが、自己防衛しないといけないなあ。



| | 考えたこと | 00:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
未来の教育
10年ほどの先の将来、イヤホンをつければ、それが外国語を自国語に翻訳してくれる時代が来るという。
グーグルのヴェンチャーキャピタル部門のゼネラルパートナー、トム・ハルムという人の予想だ。

それでも彼は外国語を学ぶべきだという。
彼はこう言っている。

「第2言語を学ぶことの本当の意味は、世界中の人々の思考を理解することになるだろう。これは、同じ惑星を共有する者としての重要な責任なのだ。」

そういえば、亡くなった渡部昇一も同じようなことを言っていた。
英語を学ぶ意味は、必ずしも流暢に話すことではなく、語順の違う言葉を精読し、そういう回路を頭の中に作ること、というようなことだったはず。

ぼくも、翻訳イヤホンが出てくる未来でも、外国語を学ぶことは必要なのだと思う。
もちろん、流暢に話すことは、翻訳機に任せればいい。
言葉が違うと、考える順番が変わったりするし、話し手の意識も変わるということを知るためだ。

必ず主語がある言葉と、主語を略しても成り立つ言葉では、自己主張の度合いが違うだろう。
日本は島国だから、和の文化が発達し、言葉がそうなったのか、それとも逆に言葉がそうだから、和の文化が発達したのか、それはわからない。
でも、何らかの関係はあるだろうと思う。
こんな事を考えるのも、英語を学んだおかげだ。

これからの教育はどうあるべきか、テクノロジーの進歩を見越して考えていかないといけない。

彼は、プログラミングのコーディング(コンピューターを動かす言語を書くこと)すら、ディープラーニングでAIがやるようになるだろう、という。
今からプログラミングの学習をやろうとしている小学生はどうなるのだろうか。
そもそも、それができるかどうかは問題だが…。

これだけテクノロジーの進歩がはやくなってくると、これからの時代を生きる子どもたちに何を教えるかというのは、大きな問題になる。
もちろん、これからの時代は、学校だけでなく生涯学び続けるということは必要としてもだ。

そういうことを考えている教育学者はいるのだろうか。

これからの人たちが持つべき基礎知識とはどういうものだろうか。
人文科学、社会科学、自然科学の分野で、どうあるべきかを考えないといけない。
それらを議論できるのは、古い時代の人ではないだろう。
もっと若い人たちの声を真剣に聞かないと、いけないと思う。

そこからしか、未来の教育は語れないと思う。


| | 考えたこと | 00:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
時短経営
ロイヤルホストは24時間営業の店舗を廃止した。
社長は年7億円の減収を覚悟したらしいが、客単価が上がり、逆に3.7%の増収になったとのこと。
少子高齢化に対応して、ゆったり座れるようにして、単価の高いものが売れるようになったらしい。

もうぼちぼち24時間営業は止めたらどうかと思う。
以前、警察署長と話をした時、夜中に店が開いているから夜道を出歩く人が増え、だから犯罪が増える、という事を聞いた。
昔は夜中に出歩く人などいなかった、とも言っていた。
それはそうだろう。
ぼくらが小さい頃は夜中に外など行く人はいなかった。
行くところがなかったからだ。
今は中学生や高校生でも、夜中に出歩く時代。

ファミレスが24時間営業を始めたのは、バブルの頃だ。
80年代に始まった。
コンビニはもっと早い。
日本は、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われるようになる道を歩んでいた。
24時間戦えますか?というようなコピーもあったなあ。

実際、24時間営業をやめても利益が増えている例も多いとのこと。
豊かな高齢者を取り込めばいいのだ。
今の日本、金融資産の半分ほどは60歳以上の人が持っているという。
そこをターゲットにすると、24時間営業は不要だろう。

人手不足の問題もある。
夜間店を開けておくデメリットも大きくなってきた。
人口動態からも、夜間出歩く年齢層が減っている。

結局70年代から、日本は例外的に成長し、いろんなものをそれに対応させてきたのかもしれない。

もはや高度成長は終わったのだから、元に戻していけばどうかと思う。

そうすれば、犯罪も減るだろう。


| | 考えたこと | 00:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
間欠爆発症
こないだ、19歳の巡査が41歳の巡査部長を射殺したという事件があった。
その巡査のことを書いた記事を見ていると、怖くなる。

19歳の巡査は「間欠爆発症」だったのではないか、という。
巡査部長がどれほどの叱責をしたかはわからないが、叱責された方は「罵倒された」と言っているらしい。
記事では、間欠爆発症をこう説明している。

「怒りや攻撃衝動を制御できない衝動制御障害の一種であり、かんしゃく発作、激しい口論や喧嘩、他人への暴力、モノへの八つ当たりによる破壊などを繰り返す。こうした爆発は、きっかけとなるストレスや心理社会的誘因と釣り合わないほど激しい。しかも、衝動的で計画性がない。
平たくいえば、「これくらいのことであんなに怒るなんて信じられない」と周囲が驚くほど過剰反応するのが、間欠爆発症の人である。軽口や冗談などの悪意のない言葉でも、爆発の引き金になりかねないので、周囲はしばしば困惑する。「かんしゃく持ち」「すぐキレる」などと陰口を叩かれることも少なくない。」

こういう人は過去にいたのはいたが、射殺に至るまでの怒りというのはなかなかない。
でも、なんでこんなに怒るのか、という人は何人か思い当たる。
警察官のケースでは、警察官で拳銃を持っていたのが、不運だったのだろう。
新入社員の事例も出ている。
いずれも注意されて、休み、パワハラで訴えるという経緯。
怖い話だ。

別の記事で、体育会出身の学生を現場の見学の時にヘルメットをかぶらなかったことで、注意したら、パワハラを訴えられて、本人は体調不良で休み、退社したということだ。
こちらは目撃証言もあり、会社側の対応に問題はなかったとして、ことは済んだとのこと。
辞めた新入社員は、同期社員に対して、現場で注意されたことに対してキレていたらしい。
最近の体育会系の学生の中には、こういうタイプもいる。
スター選手で甘やかされて育てられた、という説明。
体育会系の過去の常識では、打たれ強い、ということだがこうなると正反対だ。

記事の最後に、叱る側が気をつけることとして、3つ挙げられている。

(1)できるだけ丁寧な言葉で話す
(2)何ができていないのかを具体的に説明する
(3)侮辱と脅迫は禁物

しかし、だれが「間欠爆発症」なのかわからないからといって、そんな悠長な言い方をしていられるだろうか。

少子化の影響もあって、大事に育てられている子供が、そういうふうになるらしいが…。
まあ、身を守るためには仕方ないのかもしれない。

住みにくい世の中になった…。


| | 考えたこと | 23:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
AIと仕事
以前、イギリスのオックスフォード大学の研究結果を見て、「なくなる職業」という記事を書いた。
彼らの研究によると、AIの発達によって、たくさんの職業がなくなるという結果だった。
しかし、それは誤りだという記事が出た。

実際にはAIが発達して置き換わるのは、職業ではなく「タスク」だという。
そのタスクの周辺に人間がやるべき仕事は残るから、完全にはなくならない、というのがその内容。
オックスフォードの論文が出てから4年間で、ほとんど否定されているという。

結論を見れば、まあそうだろうなあとも思う。
仕事の全部がAIで代替えされるわけではない。
その一部分のタスクだろう。
でも、それによって、人の仕事は少なくなり、何人かでやっていた仕事が1人でできるようになるかもしれない。

それを修正したレポートがOECDから出ている。
それによると、タスクの50%以上が自動化する職業は、OECD21カ国平均で35%とのこと。
そこでは、自動化の手段としてのコンピュータやデジタルそのものに対する訓練が必要だと言っている。

つまり、コンピューターの知識がないと、働けないということだ。
それは今でも同じこと。
昔はソロバンと電卓でやっていた経理の計算などは、今はコンピューターになった。
計算自体をする人は要らない。
しかし、それらのソフトを操って、必要に応じて管理会計上の数字を出す人は必要になる。
ある程度は出た数字の後からの加工も必要だろう。

でも、パソコン化される前は10人以上いた事務の人は、ほとんどいなくなった。
いる人は会計ソフトを使える人だ。

これからは、機械学習によって、人間が目で見てやっていた仕事などもコンピューターが判断できるようになる。
そうなると、目視検査などの仕事は、大幅に機械化できるだろう。
しかし、人員はゼロにはならない。
それらの機械学習の精度を上げるためにメンテナンスをする人や、そのAIをさらに賢くしていく人もいるだろう。
そういう意味では仕事はAIで自動化されて減っても、人はゼロにはならないと思う。

大事なのは、OECDのレポートにあるように、コンピューターに対する訓練が必要、ということだ。

世の中では、定年が70歳になるとか、人生100年時代などと言われている。
それをまともに機能させるためには、再教育の仕組みが必要だし、今の教育課程も変えていく必要がある。

でも、今の学校を見ていると、絶望的に遅れている。
AIの進歩に教育が追いつかないのだ。

早くなんとかしないと…。

| | 考えたこと | 00:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
アタリマエのこと
昭和の時代は、先生はエラかった。
末は博士か大臣かと言われた。
それは、博士や大臣はエライ人だったからだ。

30年ほど前に「先生と呼ばれるほどのバカでなし」という言葉ができたらしい。
1980年代の後半だ。
この頃から拝金主義がはびこり始め、今までの常識が変わったんだと思う。

代議士やエライ役人は悪いことをするものになった。
それまではエラかった先生の権威は地に落ちた。
もちろん、みんながみんなそうではない。
それでも、そう思うしかないような不祥事がいろいろ出た。

今や学校の先生や国会議員、地方議員など、昔先生と言われていた職業で不祥事があっても、誰も驚かない。
国会議員が秘書を罵り、暴力沙汰をする。
イジメの問題は教育委員会や教員組織が隠蔽するのがアタリマエだ。

一方で学ぶ方のアタリマエも変わっている。
下位の大学では、授業にノートを持ってくるのはアタリマエではない。
教員がくれる紙をもらうのがアタリマエだったり、単にぼーっと聞いているのがアタリマエだったりする。
机の上に何もない状態で授業を聞いている。
授業を聞いて、ノートを取るということが、もはやアタリマエではない世界。
彼らは、話したことを全部覚えられると思っているのだろうか…。

亡くなった鶴田浩二ではないが、「右を向いても左を向いても真っ暗闇」と言いたくなる。


| | 考えたこと | 21:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
孤独死
2016年、誰にも看取られずに自宅で死んだ人は、推定で年間8万人もいるらしい。
これらの人たちは孤独死と呼ばれて、解剖台で看取られている。
その7割が男性。

周りの人に迷惑をかけるケースもある。
発見が遅れて、腐乱してしまったりすると、大変だ。
少子高齢化というのは、すなわち少産多死ということだ。
毎年、死ぬ人が多くなったことが、孤独死を生む。

核家族化が進み、なかなか看取りができなくなった。
長生きになったのも、それに拍車をかける。
看取る方も年をとって、大変になってきたのかもしれない。

この調子で高齢化が進んでいくと、10年ほど先には、もっと孤独死が多くなるだろう。
2040年には年間の死者が30万人増え、160万人を超えるという。
文字通り多死社会がやってくる。

2040年、生きていたら83歳。
たぶん、死んでいるだろう。
亡くなる人たちは、死ぬ時に迷惑を周りにかけたくないとは思っている。
それでも、孤独死をしてしまったら、どうしようもない。

そうならないために、これからいろんなモノができるだろう。
毎朝話し相手になるロボットとか、遠隔で看取りができる身につけられるモニターとか…。
その頃には、施設の数も足りなくなるから、そういうテクノロジーは、発達するだろう。

コミュニティーも変わらないといけない。
近親者でなくても、近所の人でもいいから、見回ってくれる人がいればいい。

しかし、田舎の方でみんな年寄りというようなところはどうなるんだろう…。

考えれば考えるほど、暗くなる。

たしか、その頃には年金も苦しくなっているはず。
若い人の社会保障の負担はどうなっているんだろう。
それこそ、消費税を20%とかにしないといけない。
欧州諸国は軒並み20%以上になっている。
社会保障のお金は消費税を上げて、みんなで負担しないと…。

年寄りのワガママが、若い人たちを苦しめないようにしないといけないなあ。

そうは思っているのだが…。


| | 考えたこと | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
教員養成課程の専門化?
知らなかったが、文科省には国立教員養成大学・学部、大学院、附属学校の改革に関する有識者会議というのがあるらしい。
ここが去年、報告書「教員需要の減少期における教員養成・研修機能の強化に向けて」を出した。
それには、これから子供が減るので、教員養成課程を集約するとかいうことが記されている。

記事によると、「さらに今後、教員需要の減少期を迎える一方で、教員はより高度な専門性が求められる状況を指摘。教員養成の中心的役割を果たす国立教員養成大学や学部などが、限られた資源の中で、エビデンスに基づく教員養成機能を着実に高め、学校教育全体の質の向上をリードするとの目標を示す」ということだ。
それ自体は大いに結構だし、優秀な教員をどんどん要請してほしいと思う。
しかし、今の教育の最大の問題は、学校の問題が教育界で閉じていることにあると思う。

イジメの問題では、何度でも同じようなことが起こっている。
教育委員会の初期対応が常識はずれの見解。
たいがい、最初はイジメはなかったという報告がある。
どう考えてもオカシイということが何度でも繰り返される。
他府県で起こっていることと同じことが何度も起こるのだ。
その度に批判が出て、被害者の家族がオカシイと言い、再調査して、イジメはあったということになる。

このこと一つをとっても、問題は明らかだと思う。
今の教育界は先生の集団であり、教育行政は文科省や教育学の先生たちで閉じているのだ。
前にOECDが実施した教員の社会人経験にについて書いたが、日本は教員の社会人経験がほとんどない。

また、少中高にはほとんど社会人経験のある事務員がいない。
だから、社会の常識が通用しなくなる。

教育委員会など、その最たるものだ。
教員やそのOBばかり。

何度も書くが、いい加減に気づいてほしい。

教員養成課程を変える前に、学校のシステムを変えないといけないと思う。


| | 考えたこと | 22:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
元文部官僚の言葉
元文部次官の前川氏が、東洋経済のインタビューにこう答えたらしい。

「高校中退を防ぐのも貧困対策の重要なテーマだ。私が行っていた出会い系バーでも女の子はほとんど中退で、親のほうが学歴の高いケースがけっこうあった。(中略)中退をなくすには数学の必修を廃止するのがいい。(中略)数学は義務教育までで十分。論理的思考力を養うために必要というが、それは国語の授業でやったらいい」

こんな考えの人が文部次官にいたと思うと恐ろしい。
この人は、今の大学生の数学的リテラシーを知っているのだろうか。

算数や数学の役割は、論理的思考力を養うだけではない。
数字という、形而上の(世の中には実在しない)ものを使って考えることで、手で触れないものを想像する力を養うのも、大きな役割だ。
実際の企業が入社試験で出題するのも、半分は非言語領域。
問われるのは小中学校の知識だ。
これができない大学生がどれだけいることか…。

義務教育までで十分というなら、数学だけでなく理科も社会も同じだ。
中学までの全教科をマスターしていたら、かなり賢い。
第一、私学文系を目指すクラスはもはや高校1年で数学を終わっているから、ほとんど必修を廃止しているもの同然。
実際、非言語領域ができない大学生に、君らはどうやって数学?の単位を取ったのか?と聞くと「試験前に先生が問題を教えてくれた」という学生が多い。
実際、そういうクラスでは、骨抜きになっている。

元文部次官がその現実を知らず、出会い系バーに通って女の子と話をしていたとは…。
情けない。
どうして、そんな人がマスコミに出るんだろうか。
理解に苦しむ。

現役の文部官僚は、学校の現実を分かっているのだろうか。

物事を目に見える、「多いか、少ないか」だけで測ろうとする。
割合のリテラシーが身についていない。
比率として、多いか少ないかという基準を思いつかないのだ。

高齢者の交通事故が昔より増えたと言うが、それは高齢者が増えたから増えたのか、昔の高齢者よりも事故率があがっているのか、そういうことを考えない。

最近のマスコミの記者も、同じことだ。
増えたか減ったか、ということしか書かない。
割合のリテラシーがないのだろう。

そういう常識が通じなくなるというのは、国力が落ちることにつながるのではないか。

もっとマジメにやれ。

| | 考えたこと | 00:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
モビリティサービス
将来の自動車産業はどうなるのか、というのは興味がある。
ぼくはクルマに関わる仕事を25年してきて、やっぱりクルマが好きだからだ。

最近、「MaaS」という言葉を聞いた。
これはMobility as a Serviceという意味で、「ライドシェアなどの移動にからんだ新しいサービス」ということ。
いよいよ、クルマの新しい使われ方が具体的になってきた。
MaaSの市場は、「2050年に300兆円を超える規模になる」と言われているらしい。

自動運転やライドシェア(カーシェア)、車同士が通信するコネクティッドカーなどの技術が新しい市場を生み出す。
今でも都市部では若い人たちはクルマを持たない。
社会保障に払うお金が増えたということもあるが、クルマに乗りたければ、カーシェアリングの会員になれば済むからだ。
インターネットでの会員登録、決済、地図の表示などの仕組みが、安くカーシェアリングを実現した。

耳が痛いが、自家用車の稼働率は3%程度だという。
一家庭に一台というのは、社会全体で見たらロスになる、という発想がMaaSの考え。
空いているクルマをみんなでシェアして利用しよう、というのは特に日本の都市部では有効だ。
何より、クルマを持たないことによって可処分所得が増える。
豊かになるのだ。

ぼくの時代は、仕事をしてクルマを持つことが夢だった。
新車が出るたびに、カー雑誌を買ってどんなクルマか調べる人もいた。
そのカー雑誌も激減してしまった。

若い頃、会社に入ってくる若い人の中には、ラリーをやっている人もいた。
給料をつぎ込んでクルマを改造して、ラリーに出るのが趣味という人もいた。
今では公道を走るラリーの規制が厳しくなり、どんどん下火になってしまった。

レース人口も減ったと思う。
乗る人だけでなく、見る人も減った。
日本全体で、自動車市場は縮小していると思う。
軽自動車が全自家用車の4割売れる時代。
日本はもう、そういう時代なのだ。

日本の田舎のように、公共交通機関を自治体が維持できなくなるようなところは、Uberのようなクルマとドライバーをシェアするという考え方が合っている。
高齢化社会で、働き手が不足する時代だから、シェアしないともったいない。

そういう、社会の効率化という意味では、MaaSというのは普及すべきなんだろう。

ぼくらがクルマに憧れた、最後くらいの世代ということかもしれないなあ。


| | 考えたこと | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
キャッシュレス
最近は現金を持たなくても、いろんなところで支払いができるようになってきた。
日本に来るツーリストへの対応もあるのだろう。
その国では現金を持たない人たちが増えているということだ。

日本はこの方面では後進国らしい。
2017年の日本の電子マネーの決済金額は5兆円を上回っているが、その伸び率は1.1%しかなかったとのこと。
世界では電子決済が爆発的に増えていて、それに比べると少ないということだ。
インドでは高額紙幣を廃止したというし、中国ではスマホ決済が増えているらしい。
フィンテックというのも、決済サービスが多いのだろう。

日本の現金流通量もそれを表している。
GDP対比での現金流通高は、日本では19.4%。
ユーロ圏では10.6%、米国は7.9%、英国は3.7%しかないとのこと。
圧倒的に日本は現金好きなのだ。

キャッシュレスが進んだスウェーデンでは、現金決済の比率が2%しかないらしい。
みんな現金を持ち歩かないということだ。
それによって、ビジネスの効率化を進めている。

なんで日本ではキャッシュレス化が進まないのだろう。
治安が良いということもあるかもしれない。
昔海外に行くとき、現金ではなくT/Cを持っていくのは、治安が不安だからだった。
今ではカード一枚あれば済むが、それくらい治安と現金は関係がある。

新聞によると、キャッシュレス化が進むと、いろんな効率化が進む。
銀行やコンビニのATMが不要になり、銀行にある巨大な金庫も不要になるとのこと。

それと、大きいのはキャッシュレス化するとお金の流通の記録が残るということだろう。
現金には名前がないが、キャッシュレス化するとそれに名前がつく。
名前がつかないと、決済できないからだ。
そうすると、賄賂やダーティーなお金が使いにくくなる。
中国でキャッシュレス化が進んでいるのは、そういう側面もあるのかもしれない。

日銀がお金を印刷したり、造幣局が硬貨を作らなくても良くなるという効果もある。
現金決済を当たり前のようにやってきたが、それにはムダが多いのだ。

少子化で働き手が足りなくなる日本。
キャッシュレス化をして、現金の計算や管理をしている人たちの仕事を他にふりわけなくてはならない。

でも、それが進まない要因は、日銀が銀行を守っていることにもあるらしい。
今や銀行はATMの手数料で儲けているからだ。
しかし、そこから脱却しないと、世界からは取り残される。
だから、メガバンクはそちらに動こうとしているのだろう。
その結果、大量の人が要らなくなる。

ここでも、日本の雇用の流動性が低いことが、社会の効率を上げられない原因となっている。
ある程度雇用を守ろうとすると、ドラスティックな変化が、やりたくてもできない。
年をとっても、仕事を変われるような環境を作らないといけない。

国民が、現金を流通させるのは非効率だ、という認識を持たないといけない。
そうしないと、日本はキャッシュレス後進国になってしまって、ツーリストからも敬遠される国になってしまうぞ。


| | 考えたこと | 21:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
教員審査
当たり前だが、学校を作ろうとすると、先生がいる。
小中高の場合は、一応国の免許があって(これもかなりいい加減だが)、採用試験もオープンにやられているから、最低限の質は担保されている。
最近は臨時講師や非常勤などのいろんなルートがあり、形骸化されているところも見受けられるが、それでも大学の先生に比べるとまだマシだ。

大学の先生は研究業績で主に評価される。
最近はそれ以外にも教育業績、地域貢献などもあるが、メインは学会での論文数や著書数などが指標。
文科省の過去5年間に査読付き論文が何本、というような指標はあるが、下位の学校ではいい加減に運用されている。

教員の補充や新しい分野の教員を採るときには、教員審査をやる。
ぼくのいた学校では、教授会でその分野の先生が選ばれ、審査委員になっていた。
ぼくはそれを事務局で見るという役目をやっていたことがある。

ほとんどが一般公募という形。
ホームページに教員公募の案内が出て、応募を受け付けるというもの。
それでも、たいがいは学内の先生がそれを知り合いに知らせ、応募してきたりするのが多かった。
中には全くの公募の人もいたが…。

ぼくのいた学校は下位校だったから、実績は見るも無残な人が多かった。
論文はほとんどが紀要(学校が自主的に出しているもの)だし、ちゃんとした査読付きの学会誌に、過去5年間で2本の論文という人はほとんどいなかった。
それはそうだろう。
学内にも、そんな人はほとんどいなかったのだから。
結局、下位校に応募してくるような人は、下位校なりの人なのだ。

悪貨は良貨を駆逐する、という言葉は真実だと思う。
研究実績が素晴らしい先生は、結局下位校にはほとんどいないのだ。

とはいえ、最初からいないわけではない。
まったく新しい学部を作るときや、大学を開学するときには、文科省で教員審査がある。
だから、だいたい新設の学部や学校は、まともな実績の先生が揃っている(はずだ)。
しかし、そういう先生方はコストが高いので、定年退職が近い先生が多い。
著書があったり、若い頃は活躍していた先生なのだろう。
下位の学校法人は、教員審査で指摘を受けると、どこかからそういう先生を引っ張ってこないといけない。
それでなんとか開学に間に合わせる。

ところが、その教員審査は開学して4年間経つと、一応完成年度ということになり、その後は大学に任される。
ここからが、いい加減になる。
講師から准教授になるときの審査も、教授に昇任するときの審査も、いい加減だ。
論文や著書の欄は極めて寂しい。
書いてあっても、殆どが紀要。
著書など、1冊のうち数ページだけ、というものもある。(初めてみた時は、わけが分からなかった)

ぼくのいたところでは、一時は学内紀要は査読付き、ということを言っていたが、実質的には紀要を発行しようとすると、論文数が足りなくなって発行できなかったりした。
書きます、と言っていても期限までに提出しない人もいる。
そんな論文集に査読などあるわけがない。
査読付き、というのは、論文20本載せる予定のところに、50本も100本も来るから査読をして掲載を許可するためにやるものだ。

そんな状態の大学がたくさんある。
それが日本の現実なのだ。

教員審査をもっと厳しくすれば、大学の教員になれない人たちがどんどん出てくる。
そうなると、若い研究者たちが就職しやすくなるはず。
若い人は、総じて教育にも熱心だ。

でも、学校法人で潰れるところも出てくるから、天下り先が減ることになり、文科省はそんなことはしない。

そういう役人と学校法人の癒着が、日本の教育をダメにしているのだと思う。



| | 考えたこと | 20:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
2時間ドラマ
本当にこの頃はコンプライアンスが強く言われるようになったとのこと。
こないだ、会社の同窓会に行ったが、その変化は大きいとのことだった。

ぼくのやっていた仕事は、OEMの関係だったから、納期は絶対だった。
何年前だったか、残業しているとき組合の人が見回りに来て、早く帰るように言われたが、「はいはい」と言って仕事をしていた。
当時はぼくは残業の対象外だったから、仕事をしていても許されたのだろう。
あの頃は、いい加減だった。

しかし、時代が進んで許されなくなった。
本気で残業をなくそうとすると、人を増やさないといけない。
だから、人が増えたんだと思う。
いい会社になった。

社員は早く帰れるようになったのだ。
そのおかげで、地上波の一部の2時間枠の放送時間が変わったのだと思う。
従来は9時から11時でやっていたが、一部のドラマは8時からになった。

しかし、最近は2時間ドラマは予算上の制約からか、バラエティに置き換わっていて、毎週コンスタントに2時間ドラマをやる枠はなくなっている。
ドラマは金がかかる。
その代わり、BSでは昼間や夜の7時や8時から、2時間ドラマの再放送のオンパレードだ。
たくさんの死んだ俳優に会えたりする。

若い人たちは、スマホやパソコンで忙しいから、2時間もドラマを見ていられないという。
そういうわけで、2時間ドラマは単発でやるのがメインになった。
知らないうちに、火曜サスペンス劇場や土曜ワイド劇場は過去のものになっていた。

平成の時代になって、テレビの番組表もだいぶ変わった。

世の中は知らぬ間に変わる。



| | 考えたこと | 22:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
学位より社内教育
WSJ(ウォール・ストリート・ジャーナル)によると、アメリカで大学の学位よりも、社内教育の方がマシだ、という企業が増えているとのこと。
要は、それだけ大学生のスキルに疑いを持っているということ。
記事にはこうある。

「この数十年、米政府は4年制大学への進学者を増やす政策を進めてきた。高校の進学準備カリキュラムを拡大し、学生ローンの利用を促進するなどした。だが技術の変化するスピードに大学教育が追いつけなくなり、仕事に必要なスキルを学生に教えない学校があまりに多いと雇用主はこぼす。基本的なクリティカルシンキング(批判的思考力)すら身についていない場合があるという。」

アメリカの企業は、職種別採用をやっており、新卒一括採用というようなシステムではない。
ポテンシャルを信じて採用する、という日本の年功序列、終身雇用のシステムではないのだ。
だから、雇用に際して要件が明示される。
それができる、というのを表すのが大学で授与される学位。
もちろん、それだけではなく、インターンの実績や個別のインタビュー(面接)で問われる。
そのアメリカで、大学の学位が、役に立たなくなり始めているということだ。
世の中の技術の進歩が早すぎて追いつかないとか、いろいろ理由はあるのだろう。

日本では、もともと文系の職種は、大卒に専門性を求めてはいない。
なぜかというと、文系は求人が「全学部・全学科」になっているからだ。
法学部を出た人がほしいとか、経済学を学んだ人がほしいとか、そんなことは求人段階では一切ない。(選考段階では有利不利はあるかもしれないが)
これはすなわち、企業が大学教育に期待していないということだ。
そういう意味では、文系学部は不要だ、という乱暴な意見にも一理はある。
だからこそ、ユニクロは1回生から内定を出す。
どこの大学に入ったかという情報以外は要らないということだ。

しかし、アメリカの大学は入りやすいが出にくいと言われているのに、「基本的なクリティカルシンキング(批判的思考力)すら身についていない」などということがあるのだろうか。
1週間に何冊も本を読まないと通らない、という話があるくらい、厳しい大学生活だと聞いているが…。
大学の数が増えて、玉石混交になっているのかもしれない。

だから、企業の中にはそれらを入ってから教育する、というところが出てきたとのこと。
図書館を作ったり、授業をやったりしているらしい。
アメリカのように、日本よりも大学教員の流動性が高いところでも、こんな状態だ。

日本では、年寄りが教授、准教授を占めて、若い人たちが非常勤や非正規になっている。
だから、論文も減っている。
これは深刻な状況だ。
この状態に危機感を持たないといけない。

優秀な若手教員を取り立てて、年寄りは早めに引退すべきだ。

そうしないと、日本自体が沈んでしまうぞ。

| | 考えたこと | 00:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
不登校
引きこもりは、不登校がきっかけでなることが多いらしい。
現在45歳で、20年以上自室にひきこもっている人がいる。
1989年から引きこもりが始まった。高校3年の夏休み明けからとのこと。
途中、ちょっとマシになり、大学は卒業した。
でも、就職はせず、今はずっと引きこもっている。
こういう記事が時々出るが、事態は深刻だと思う。

引きこもりという言葉が出始めたのが、90年代後半。
2000年代初頭あたりから言葉として定着し始めた。
一方、不登校は70年代後半から出始め、90年代に言葉として定着している。
90年代に不登校になった人たちが成人して、2000年代に引きこもりになり始めたということかもしれない。

不登校の人数の記録は、91年から取られていて、その時が6万7千人ほど。
2016年には13万4千人ほどだから、ほとんど倍になっている。
しかも、その間に子どもの数は減っているのだから、比率でいったらもっと増えている。
したがって、これからも引きこもりが増える可能性は高いということだ。
これから、はたらく人が減っていくのに、どうするのだろう。

親に愛されていないとか、コミュニティの力とかいうけれど、こと不登校については学校の問題も大きいと思う。
もともと、学校に行きたくないという気持ちになることはある。
そんなことはアタリマエだ。
ぼくらの学生時代もそうだった。
その気持はあっても、仕方ないと思えるか、思えないかだろう。

それがどんどん思えない方に行っている。
だいぶ前から学校にカウンセラーを配置しているが、その人たちは不登校を解決する方策を考えていないんだろうか。
カウンセラーでは役に立たないから、今はソーシャルワーカーを配置したらしいが…。
どうしたら、不登校を減らすことができるのか。
いまだに有効な手は打てていないのだろうか。

ぼくは、学校を特別なところではなく、普通の所にするべきだと思う。
そのためには、何度も書いているが、企業出身の事務を入れることだ。

今は学校が普通のところではないから、企業出身者が先生になってもすぐに辞めてしまう。
だから、まず事務職を作ることだろう。
その上で、中途で先生になる道を広げることだと思う。

併せて、教員養成課程を変えること。
少しいじるのではなく、大きく変えることが必要だ。

今の文科省には、任せておけないと思うのだが…。

| | 考えたこと | 21:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
スラバヤ通りの妹へ
松任谷由実の45周年ベストアルバムが今日届いた。
ぼくが熱心にユーミンを聞いていたのは主に荒井由実の時代。
「ひこうき雲」から始まって、「ミスリム」「コバルト・アワー」そして「14番目の月」。
この4枚は本当によく聞いた。

その後、結婚して松任谷由実になってからは、アルバムも歯抜けになった。
思い出したようにLPレコードを買った。
CDになってから買ったものもある。
それを補おうと思って、今回のアルバムを買った。

今回のアルバムには、その曲を表す写真と歌詞、そして本人のコメントが自筆で入っている本がついている。
厚みがほとんど1センチある。
ベスト盤だから、曲を作るのにお金はかかっていないが、ここにはコストをかけた。
曲を作った時の気持ちや、思い出が自筆で書いてあって、写真の上に歌詞が印刷されている。
この写真と歌詞とコメントが本当によくできている。

「水の中のASIAへ」という1981年のアルバムがある。
LPの時代に4曲入りの12インチEP版として出た。
ぼくは買っていないが、その中の1曲がベスト盤の1枚めに選ばれている。
ユーミンがインドネシアに行って、作った曲だろう。

ジャカルタのスラバヤ通りというところで出会った女の子の歌詞。
その曲のコメントにユーミンが書いている。

ジャカルタの街角で
ふと知り合った女の子。
貧しい離島から出てきたそう。
子どもがふたりいるそう。
かりそめの交わり。
かがやく瞳と裏腹な、
彼女の過酷な未来を思った。

ぼくがジャカルタに出張で行ったのが1997年。
インドネシア日記という記事を書いたことがある。
ユーミンが行ってから16年後だったが、その時でも日本との貧富の差は大きかった。
工場で誤って腕を切ってしまっても、救急車がなかなか来ず、一緒にいたインドネシアの人が、この国ではこんなものだ、と言っていたのが強烈に印象に残っている。
日本は豊かなのだ、と強く思った。

ユーミンはぼくの16年前だから、もっとそういう思いを感じたはずだ。
そう思って、この曲を聞くと、その時の気持ちを思い出して涙が出る。
コメントにあるように、彼女には過酷な未来が待っているのだから。

妹みたいね 15のあなた
髪を束ね 前を歩いて

という歌い出し。
ピアノの前奏はちょっと暗さを感じさせるが、歌が始まると、とても明るい。
曲の中には、「やせた年寄りは責めるように 私と日本に目をそむける」という歌詞も出てくる。
81年はまだそういう時代だったのだろう。

街角で出会って、英語でカタコトの会話をした、15歳の少女に対するユーミンの温かい眼差しが感じられる。

ユーミンのベストをこの前選んだが、この曲は新たに上位に入る曲だ。

| | 考えたこと | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
入園式
ぼくは自分の子供の入園式には行ったことがないが、今日は近所の幼稚園の入園式に出席した。
ひょんなことから、近所の人に評議員をなってくれないかと頼まれたからだ。

評議員というのは、正式には学校評議員のこと。
Wikipediaにはこう書いてある。

「高等教育の段階を除いた学校(幼稚園、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校)には、その学校の設置者(教育委員会、学校法人、国立大学法人など)の定めるところにより、学校評議員をおくことができる。学校評議員は、校長の求めに応じ、学校運営に関して意見を述べることができる。

学校評議員の委嘱は、その学校の職員以外の者で教育に関する理解及び識見を有するもののうちから、校長の推薦により、その学校の設置者が行うとされている。

学校評議員については、1人1人がそれぞれの責任において意見を述べるとされているが、設置者の定めや校長の判断により、学校評議員が一堂に会する「学校評議員会」などの会合を通じて意見が述べられることもある。各学校において学校評議員が意見を述べる会合は、1年間あたりに2回以上開かれることが多い。」

ぼくが幼稚園に対して、「理解と識見を有する」とはあまり思わないが、教育機関に勤めていたから推薦してくれたのだと思う。
ぼくも、年間5日くらいの会合に出たらOKということだったから、軽い思いで引き受けた。
この4月から1年間が任期だ。

それで、今日の入園式。
ぼくらの10年くらい年下から、会社でも入園式に出るという男性社員が増えた。
今やほとんとの父親が来ていた。
中には新入園児と一緒に並んでいる父親もいた。
日本の学校行事の姿も変わったと思う。

公立の幼稚園だけあって、国歌斉唱から始まる。
前には国旗と園旗がかかっていた。
久しぶりに君が代を歌った。

教育委員会や近隣の小学校の教頭、保育園の園長、公民館の館長、民生委員などに混じって、評議員も来賓の一員になった。
名前を呼ばれて挨拶して、それで終わりだったが、初々しい幼稚園の新入園児が見られて、いい式だった。

自分の息子たちもああいう瞬間があったのかと思う。
ぼくは仕事を理由に、見に行かなかった。
それがアタリマエだった。
ぼくらの年代では、そんな人はいなかった。

ちょっと残念だと今になって思うが、後の祭りだ。

1年間、とりあえず頑張ろうと思う。


| | 考えたこと | 22:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
駆け込み合格の弊害
18歳人口が減少しつつあり、文科省による大規模大学の定員の締め付けが厳しくなって、この春異変が起こっているらしい。
4月になって、落ちた大学から「追加合格」の通知が来るということだ。
大学が、なりふり構わぬ入学者数確保に走っている。

元々上位校以外は推薦やAOで入学者を半分くらいは確保しており、一般入試を受けて入学する人の数は少ない。
それでも、収容定員8000人以上の大規模校は、定員の管理が強化されたから(10年前の1.4倍から今年は1.1倍に下げられた)ので、入学者定員2000人のところは、2200人までということになる。
それ以上入ったら、補助金がカットされるのだ。

是が非でも文科省の補助金がほしい大学は、3月末時点での入学予定者を1.1倍にしておいて、入学式に来なかった辞退者を追加合格にした、というワケだ。
そのため、追加合格者が増えた。

何でも上智大は3月に600人以上の追加合格を出して学生数を確保したとのこと。
裏を返せば、専願でない合格者が600人も辞退したということだ。
夏、秋に入試をやった推薦、AOの人たちの分も入っているのだろう。
上智大の学年定員は2801名だから、2割以上が辞退したことになる。

上智といえば、早慶上智と言われていて、関東の私大では最高ランクの大学だ。
そこでそういう状態なのだから、それ以下は推して知るべしというところ。
入試課は大変だろうと思う。

追加合格は嬉しい知らせだが、これが4月に入ってしまうとややこしい。
日経によると、「進学先と住む場所を決めて引っ越しする前日になって「第1志望の大学に追加合格した。どうしよう」などと戸惑うつぶやきもあった」とのこと。
遅くなったから、諦めるケースもあると思う。
金がかかって、大変だろう。

2020年には文科省の指導で、3月中に追加合格を出さないといけなくなる。
そうなると、定員を割る大学が増えるだろう。

これから更に18歳人口が減る。
いい加減に文科省も、大学を減らす方向に舵を切らないと、被害者が増えるだけだ。

本当に行きたい大学は、辞退者がそんなに多くはならない。
でも、受験機会が多いから、滑り止めで受ける学校が増えるのだろう。
合格者を増やしたいから受験機会を増やす、受験機会が増えるから受ける学校も増える、受ける学校が増えるから合格数が増える、合格数が増えるから辞退が増えるのだ。

大学のなりふり構わぬ定員確保がこういう事態を招く。

本来なら、定員確保よりも合格者のレベルを維持することが大事なはずだ。
そうでないと、カリキュラムが成立しない。
法科大学院などはその最たるものだ。
なりふり構わず定員を満たしたから、下位校では司法試験に合格する人がほとんどいなくなった。
今の薬学部も同じこと。
下位の大学で、定員を満たしして合格させると、卒業して薬剤師になる比率は軽く半分を切る。
つまり、なりふり構わず定員を満たすという行為は、大学教育を成り立たなくさせる、ということなのだ。

そういう事を今の多くの大学がやっている。

それでいいのか。

| | 考えたこと | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギブソン不振
ニューヨーク・タイムズにも、ギターメーカーの老舗ギブソンの不振の記事があった。
前にも書いたが、ギブソンといえば、フェンダーと並んでギターの2大巨頭。
ぼくらがギターキッズだった頃、エレキギターといえば「いつかはギブソン」「いつかはフェンダー」という感じだった。
もちろん、手作りに近い形で高額なギターを作っている会社は多いし、今でも存在するが、ネームバリューで言えばやっぱり、ギブソンとフェンダーだ。

記事によると、ギブソンのCEOはギターだけでなく、ヘッドフォンやハイファイオーディオを扱う会社にしようと思い、ヨーロッパのフィリップスという家電メーカーのAV機器部門を買収したとのこと。
それが裏目に出ているようだ。

年間の売上が12億ドル超で、負債が5億ドルもある。
大口債権者にはKKRという投資ファンドも名を連ねているとのこと。

記事にはギブソンの歴史も書かれている。
スミソニアン博物館で展示されている、チャック・ベリー愛用のギター「メイベリーン」など、名だたるミュージシャンがギブソンのギターを使ってきた。
カルロス・サンタナも、ジミー・ペイジも、ジミ・ヘンドリックスもエドワード・ヴァン・ヘイレンも…、本当にいろんなギタリストがギブソンだった。

フェンダーとギブソンには明確な違いがある。
ギターの弦の振動を拾うピックアップだ。
ギブソンはダブルコイルのピックアップで、ハムバッカーと言われるもの。
出力が大きく、ノイズが小さいが、中低音が強い丸い音。
フェンダーはシングルコイルだ。
低めの出力で、ノイズは大きめ、でもきらびやかな音が出る。
どちらかと言うと、ハードロッカーはギブソンで、フェンダ−はポップス系という感じ。
ギブソンとフェンダーは、それぞれのピックアップで音も違うことから、棲み分けができたのだと思う。

さらに、ギブソンはアコースティック・ギターも強い。
セミアコースティック、フルアコースティックというジャズなどでよく使われるギターや、普通のアコギ(フォークギター)のブランドでもある。

最近フェンダーもアコギを宣伝しているが、ギブソンの歴史の壁は撃ち破れない。
ギブソンはギターの総合メーカーだからこそ、苦しくなったのか…。
知らなかったが、1986年にも経営破綻をしていた。
その時に元GMの技術者で、自らもギターを弾くというジャスキビッツという人が立て直した。
それが今のCEOだ。

たしかに、ギターは安くなって一時はブームにもなり、猫も杓子もギターケースを持っていた時期もあった。
でも、最近はめっきり減った。
大学構内で、ギターを持っている学生をあまりみかけない。
80年代や90年代は、今から思えばギターのバブルだった。

でも、こないだ職場の60歳を超えた人が、学生時代フォークギターを弾いていて、ずっとやめていたのだが、思い立ってギブソンを買って毎日練習している、という話を聞いた。
やっぱりギブソンは憧れなのだ。

今年の8月1日に多くの債務の返済期限が来るという。
それまでに、どうできるのか…。

ギブソンのCEOジャスキビッツはこう言っているらしい。
「同じ夢を抱く誰かにバトンを渡さなければならないだろう」
ギターキッズが減っている今、うまく舵取りしてギブソンを続けてほしい。

フェンダーしか持っていないぼくも、ギブソンを救いたいと思う。


| | 考えたこと | 22:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本人の夢
今朝の日経に宝くじの全面広告が出ていた。
その内容が「日本人の夢を大調査」というもの。
インターネットで20歳以上の14100人に調査したとのこと。
子供の夢ではなく大人の夢ということだ。
子どもは宝くじを買えないからなあ。

調査内容は、今の日本人はどんな夢をもっているか、というものだ。
とりあえず、今夢を持っている人は半分。
ちょっと少ないような気がするが、51.9%が夢を持っていると回答。
男女ほぼ半分ずつだが、女性が2%ほど多い。

その内容にちょっとビックリした。
1位が「健康な生活を送りたい」、2位が「好きな趣味に打ち込みたい」、3位が「マイホーム(一戸建て)に住みたい」、4位「家族が幸せになること」、5位「子ども・孫の成長・将来」という順位。
なんか、普通に考える「夢」というものとは違うような気がする。
ぼくの常識で考えると、「趣味」「マイホーム」以外はなんか「夢」とはニュアンスが違う。
質問の形式が出ていないので何とも言えないが…。

年代別の人数を見てみると、60代が一番多くて3571人、その次が30代で3146人、40代2731人、50代1969人、20代1554人、70代以上1129人の順だ。
50代以上でほぼ半分になっている。
昔に比べると、インターネットとはいえ年寄りの比率が高いと思う。

もちろん、夢を持っている比率は、若い人が多い。
といっても、20代が61.8%、30代が58.5%、段階的に下がって、70代以上でも46%という結果。
60代や70代以上の人たちは、選択肢で「健康な生活を送りたい」というのがあったから、チェックしたということではないか。
自由記述なら、書かなかったかもしれない。

結局、60代、70代になると、夢らしきものはなくなり、「健康な生活を送りたい」というのが夢になる。
「子ども・孫の成長」などというのも、60代以上の世代だろう。

ちょっと夢がない話だ。
こんなところにも高齢化の影響が出ている。

何度か書いたが、ぼくの夢は「マンガ家になりたい」「シンガー・ソングライターになりたい」といったものだった。
それ以降の願望を「夢」という名前では語った覚えがない。

全面広告の最後は「夢の効果で前向きになる」という結果。
まあ、それはそうだろう。
でも、その夢は「健康な生活を送りたい」「子や孫の成長」みたいなものも入っているのだ。

結局、ドリームジャンボ宝くじを買え、ということ。

なんか、「夢」という言葉が小さくなったような気がするぞ。



| | 考えたこと | 11:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
アマゾン・ゴー
シアトルに「アマゾン・ゴー」というコンビニがある。
アマゾンの直営店。
棚から商品を取って、持って出ていいという店だ。

入る時に、アマゾン・ゴーのアプリをスマホに入れて、かざして入る。
アプリの設定で、口座を登録しており、そこから買い物のお金は落ちる。
天井にカメラやセンサーがあるとのこと。
日本のコンビニと同じくらいの面積。
詳しくはこの記事で見ることができる。

入店を許可されれば、あとは棚から消費を取って出るだけ、という仕組み。
出てからアプリでチェックすると、買った商品がチェックできる。
間違っていたら、払い戻しを請求できる。
万引きもできないし、どの商品がどれだけ減ったかもわかるから、人間のやることは少ない。
棚に商品を置くくらいだろう。

日本のコンビニも同じような実験を行っているらしいが、最先端のアマゾン・ゴーはここまで来ている。
買い物をしたら、レジに行く、というアタリマエのことがなくなるのは大きい。
入店の時にアプリをかざして、買い物をして勝手に出る、という形式。
これに慣れたら、レジには戻れないかもしれない。

最近よく夕方のスーパーで買い物をするが、ちょうど混み合う時間で、レジに並ぶのが大変だ。
大変といっても、2〜3分のことなのだが…。

しかし、この仕組みは決済も含まれているので、個人情報はダダ漏れだ。
誰が、いつ、どこで、どんな商品を、どれだけ買ったかということが、全部アマゾンに知られる。
便利さの犠牲になるのは、個人情報なのか…。

今でも便利さにかまけて、グーグルやアマゾンのサービスを受けている。
その最終形が、このアマゾン・ゴーなのかもしれない。

昔のように、手打ちで値段を入れるようなレジだったら、もっと列は長かったはず。
それを思うと、バーコードを読ませるだけのレジは大きな進歩だった。
同時にレジをベテランからアルバイトでもできる仕事にして、人件費も下げた。
それはトータルで見たら、みんなが安く物を買えることになった、ということだ。

今度もそういう変化が起こるのだろう。
でも、それを享受するためには、自分が何を買ったかという情報を取られると思ったら、ちょっと迷う。
自分が買った商品のデーターに基づいて、ネットのアマゾンで商品を勧められると思ったら、居心地がよくない気分になる。

ぼくらはもういいが、今の若い人たちはどうなっていくんだろう。



| | 考えたこと | 21:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
しんきくさい
「しんきくさい」という言葉は最近あまり聞かない。
関西弁だと思うが、だんだんと死語になってきているのかもしれない。

Webの辞書を調べてみたら、「思うようにならなくて,じれったい。気がめいってしまうさまである。」という意味が書いてあった。
ぼくの感覚ではじれったいというよりも、気が滅入る、という感じだ。
同義語に「お通夜のような雰囲気の」というのがあった。
まあ、そんな感じだろう。

東京に引っ越した次男に、家内が「あの頃のまま」というブレッドアンドバターの曲のリンクをシェアしたらしい。
以前、この曲の歌詞について書いた。
若い頃のユーミンらしい、当時の雰囲気をよく表している曲だ。

それを聞いた次男が「しんきくさい」とコメントした。
たしかに、あの歌詞をしんきくさいと思う気持ちはわかる。
今の若い人から見れば、なにをウジウジしてんねん、という感じだろう。

あの曲が出たのが1979年。
学園紛争がほぼ収束し、学生の間にはある種の白けた雰囲気があった。
当時の大学の数は450程度で、今は780くらいあるから、大学の数が約6割。
18歳人口が当時は155万人で、今は120万人くらい。
つまり「あの頃のまま」の世界は、大学の数が今の半分くらいで、それでいて18歳の人数はいまより多いという、「受験戦争」の時代だった。
その時代に、学生運動という、今から思えば「結果としては何も生み出さず、単にバカバカしいことにうつつを抜かしていた学生たちの残党を歌った歌」ということになる。

あの歌の「ぼく」は就職もせず、社会の歯車になるのを拒否して、夢を追いかけている、というような存在。
今の学生は2回生で部活を引退し、3回生から4回生は就活という状況。
そんなにのんびりしている暇はない。

苦労して入った会社を3年以内に辞める率が3割から4割。
学校と社会の差が開き、世代間の意識の差も開き、ギャップに苦しんでいる。
増えた年寄りが社会保障で若者を苦しめる。
若い人たちは、今の日本をもっとまともにしてくれ、と思っているのだろう。

そういう今の若い人たちから見れば、それこそ「なにやっとんねん」ということになるだろう。
まさに、「しんきくさい」ということになる。
グダグダ言うとらんと、はよ働け、ということだ。
そんな夢物語が言えたのも、高度成長の時代の幕開けで、景気が良かったからだ。

今ならそういうことだろう、と思える。
あの頃の空気を知っていれば、いい歌なんだが…。


| | 考えたこと | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
先輩の驚き
昨日は新人の驚きだったが、今回は先輩の驚きの方を取り上げる。
30代〜50代の社員500人の声。

1位は友達感覚で話しかけてくる、だった。
これはぼくが驚いた。
そんなことがあるのだろうか…。
目立ったのが、「何でもマジですかと返してくる」という声。
ほんまかいなと思うが、今はそうなのかもしれない。

2位はプレゼンなど人前で話すのが上手、という驚き。
好印象ということだ。
ここは学生時代にそういう機会が多くなったのもあるのだろう。

3位はプライベートを優先する、ということ。
新人の方では「飲み会に誘われない」という驚きもあったが、ここではアフター5の付き合いの悪さも上がっている。
どっちもどっち、ということか。

4位は周りと競わない、という声。
昔と違って、クラスの人数も減ったし、学校は平等を第一として、やってきたから、競争心がなく見えるのかもしれない。しかし、今の会社の制度の中では、若い時に頑張っても差はそんなにつかないということもあるから、もっと能力給化してほしい、ということの裏返しかもしれない。

5位は手取り足取り教える必要がある、ということ。
昔のように、先輩を見て見よう見まねで覚えていく、というような気がないのかもしれない。
アルバイトに慣れて、マニュアルがないとダメということなのかもしれない。
スタッフワークとアルバイトの違いがわからない、ということもあるか。

6位は仕事への不満を隠さない、ということだ。
これは主に、仕事を教えることと絡むらしい。教えてくれないから、不満ということだ。
「何の努力や工夫もなくできないと平気で言う」という35歳の声もある。
日本の企業はOJTが多いから、こういうことが起こる。

7位は職場の固定電話を率先して取らない。
これは住所録が内蔵されていて、相手が先にわかる電話しか取ったことがない、ということが原因。
今の電話や携帯、スマホという通信手段に慣れて、誰かわからない相手と話せない。
こんなのこそ、入社時の研修でやったらいいのに、と思う。

8位はネット検索が速い。
これは褒め言葉だろうと思う。わからないことはその場で検索、というクセだろう。
いいことだが、覚えなくなった。

9位は宴会で最初からビール以外を飲む、というもの。
まあ、とりあえずビールということではない。
どうでもいいと思うが…。

10位は配属後もSNSで同期とつながっている、だった。
SNS世代だから、同期入社とのつながりは昭和生まれよりも強くなるのだろう。
そのツールがSNSになる。
同期とつながっていること自体はいいことだ。

友達感覚で話す、ということ以外はまあ妥当なところかと思う。
プレゼンや電話など、世代の差が出ている。
世代変われば、行動が変わる。
彼らも50代になれば、同じように若い人を見て驚くことんだろう。

歴史は繰り返す。


| | 考えたこと | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
新入社員の驚き
日経プラス1 に会社に入った新入社員がびっくりしたことについて記事があった。
今の若い人たちが、企業に入ってどこに違和感を感じるのか、なかなか興味深い。

1位は日本の企業の暗黙の了解事項に驚く、というもの。
特に「事前の根回しで方向性が決まっている」ことに驚くというのは、本当だと思う。
ぼくがいた会社はあまりそういう雰囲気はなかった。
しかし、47歳で学校法人に行って驚愕したのがこれ。
根回しで決まっているのなら、何で会議やるの?と言いたくなる。
本当に、それが当然、と教授たちは思っていた。
これはおかしいと思うのが当然。

2位は仕事のマニュアルや説明がない、ということ。
これはアルバイトなどで仕事=マニュアルがあるもの、という意識もあるのだろう。
もちろん、マニュアルはあったほうがいいが、スタッフの仕事というのはマニュアル化できない部分をたくさん含んでいるのも事実。
それで給料もらってんのと違う?とも思う。

3位は台風や大雪でも出勤する、ということ。
自分の見識で会社に行くか休むかは判断したらいいと思う。
是が非でも行け、というわけでもないだろう。
なんか硬直化している。

4位はあまり飲みに誘われない、ということだった。
年寄りサイドにも変化があって、飲みに誘うのは若い人たちは嫌がると思っているのだろう。
まあ、適度に常識的にというか、双方の合意の上でオフタイムの会をやればいいと思う。

5位は仕事をだらだらやる、ということ。
「残業が美徳だと思っている」というコメントもあったが、これは生活のために残業代がほしい、ということもあるのだろう。
管理職になったら残業はつかないが、そうなるまでの話か。
これは終身雇用の正社員に限った話だと思う。

6位はデーターに基づかないアナログな判断が多い、ということ。
やっぱり若い人たちでデキる社員はそう思うのか。
特にIT機器を使いこなせなかったり、ロジカルに考えられなかったりすると、不満になる。
就職のときにはロジカルシンキングを問うのに、入ってみたらロジカルに考えられない人がたくさんいる、というギャップだろう。
気の毒な話だ。

7位はプライベートなことを聞かれない、ということ。
コンプライアンスとか、ハラスメントとか、そういうことを気にするから、仕方ない。
驚くということは、もっと聞かれると思っていたのに、ということだろう。
もうちょっとは聞いてほしい、ということかもしれない。

8位は服装がカジュアル、ということだ。
この辺は温暖化でクールビズになったのも大きいと思う。
大学などは半年くらいクールビズだったりするし、そもそもスーツで通わないという職種もある。
このへんはすごくフレキシブルになったと思う。

同率8位は女性が少ない、ということ。
まだまだ雇用機会均等法にうたわれているようにはなっていないのが現実。
どちらかというと、女性の意見だと思う。

10位は下積み時代を武勇伝のように語る、だった。
これは耳が痛い。
自分でも、そういうつもりではなくても、やっているかもしれない。
もう時代は変わっているから、聞いても参考にならないことも多いだろう。
年寄りは反省しないといけない。

この次は「先輩のおどろき」について書こう。

| | 考えたこと | 00:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
配属日の思い出
入社してずっと研修だったが、とりあえず6月に配属部署が決まり、何日間かそこで仕事をした。
当時はエレベーターのない4階建ての建物の3階が、ぼくらの部署の部屋だったと思う。
当然大部屋で、いくつかの部署が集まっている「研究開発部」という名前だった。
同じ部屋の同期生がいたので、2人で朝から部屋に案内されて行った。
まず、エライ人に挨拶、ということで、向かいの部屋の部長(理事も兼任していたはず)のところに行って挨拶したのを覚えている。

たしか、挨拶の時にぼくが何かを言って、理事が「何ということでしょう」と驚かれた、その言葉は今だに脳裏に蘇る。
部長は、ケッタイな人だった。(これは後日確認された)
肝心の自分が言ったことは忘れたのだが、理事が驚いた(というより、呆れたと言ったほうが近い)ことにビックリしたのだ。
そんなに驚かれるようなことを言った覚えはなかったのだが…。

その後、向かいの部屋の自分の配属先の課に行った。
しかし、課長を始め課員はおらず、同期の社員の課長のところに案内された。
配属日に誰もいない、ということにはそう驚かなかったが、なんか変なところやなあと思ったのは確か。

その日はみんなで実車テストに出張だった。
隣のK課長が「今日はみんなでジャリに行っている」と言われてなんのことかわからず、「はあ、そうですか」と答えたと思う。
ジャリというのは「日本自動車研究所」の英語名の略称で、新入社員にわかるわけもない。
月に1回、数日そこの設備を借りて、ほとんど全員出張に行っていた。

その日はK課長のはからいで、研究開発部の設備をいくつか案内してもらった。
夕方には何もすることがなく、席に座ってボーッとしていた。
5時までいて、早々に帰ったのが配属初日だった。

確か翌日には全員揃って、そこから一人ずつ先輩たちがどんな仕事をしているのかを聞いたと思う。
一人30分程度で話してくれたはず。
どっちにしても、6月にちょっと配属部署にいて、それからまた数ヶ月実習に行くのだから、仕事を任せるわけにもいかないし、中途半端だっただろうと思う。

今思えば、それがぼくの仕事生活の入口になった出来事。

もう40年近く前のことだが、覚えているところを見ると、やっぱり緊張していたのかもしれない。

緊張した覚えもないのだが…。


| | 考えたこと | 22:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
始まりの4月
今日から実質的な4月。
たしか、ぼくらが入社した1979年も4月1日が日曜日だった。
だから、39年前の今日が入社式だったはず。

朝、いつもより駅に人が多かった。
今日は時差出勤だが、やっぱり何かと人が動く日だ。

大学はだいたい4月1日、2日あたりが入学式。
小中高はまだだろうが、大学の新入生と新入社員が動く日が今日。
新しい生活が始まる。

自分のことを思い出すと、1979年はオイルショックの影響で、新入社員を抑制した年だった。
同期の大卒が20人。
入社式のあと、役員の訓話だった。
会議室に集められ、何人かの役員の話を聞いた。
営業と研究開発の役員の話が、今でも印象に残っている。

営業の役員の話は覚えていないのだが、話の最後に、「君らはこの会社に入って、今何を考えている?」という質問があった。
一人ずつ答えていったと思う。
ぼくは「自分が定年まで働いて、この会社に入ってよかったと思えるだろうか」というような事を言った。
役員は「えらい哲学的やな」という返事を返したと思う。
残念ながら、定年を待たずに、途中で転職してしまったが、あの時からそういう伏線があったのかもしれない。

研究開発の役員は「スピンアウト」の話だった。
スピンアウトとは、あることを研究していて、偶然出てきたもののことを言う。
それを、目的外のものとして捨ててしまうか、それとも何故そんなものが出てきたのかと考えるか、そこは大きな分かれ目だ、という話だった。
ぼくは、会社というのは、利益を得るために仕事をする、という感覚だったので、「ふーん」と新鮮に思えた。

5時過ぎに終わって、みんなで帰りに近くの商店街の喫茶店へ行って、だべって帰ったと思う。

そんな一日だった。

最近は入社式に父兄を呼ぶところもあるらしいし、入社早々やめる社員も増えているらしい。
だから、だいぶ雰囲気は変わっているだろう。

キャリアの観点から見ると、ライフロールというのがある。
「人生の役割」という意味で、「○○としての自分」ということだ。
今日からこの○○が大学生であったり、社会人であったりする。
それは新しい自分の役割だ。

最初は戸惑うかもしれないが、無事にライフロールを引き受けて、人生を過ごしていってほしいと願う。


| | 考えたこと | 23:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
選抜中継
今日新聞のテレビ欄を見ていたら、選抜なのに毎日放送でテレビ中継がない。
テレビの番組表を見ると、水曜日の決勝だけやっている。
春の高校野球といえば、NHKと4チャンネルだったのだが、毎日放送はくだらないワイドショーをやっているのだ。
1回戦、2回戦あたりはどうだったのだろうか。
いつからこうなったんだろうか。

結局NHKで中継するから、そっちに任せるということなんだろう。
知らぬ間に世の中が変わっていた。
ま、ぼくはNHKを見るから、別に個人的にはどうということもないのだが、それだけ野球ファンが減っているということなのかもしれない。
ナイターは減ったし、サッカーは増えたし、どう考えても逆風だ。

しかし、高校野球はまた違うファン層がいて、底堅いと思っていたが、やっぱり世の中の流れには勝てない。
毎日新聞社が主催しているのに、テレビ中継がないとは…。

同時間帯にやっている、レギュラーの番組のほうが視聴率が取れるのか。
それとも、高校野球の時に流す、変則的なCMがややこしいのか。

それにしても、毎日放送で昼間やっている、あのくだらないワイドショーよりも、高校野球の中継が視聴率が取れないのだろうか…。
あんなワイドショー、見ているのは年寄りだけだと思うが、若い人たちが野球をしている姿よりも、そっちを取るのだろうか…。

そういえば、保育園を作ろうとすると、回りが「うるさいから嫌だ」というようなことがあるという。
なんか世知辛い世の中だ。
その世知辛さを煽っているのが、くだらないワイドショーだと思う。

高校野球の価値が下がったということだ。
野球留学の問題もある。
実質的には解禁したのだから、そうはっきり言えばいいと思う。
それによって、お金さえあれば、都市部のリトルリーグと結んで、設備を充実し、監督を呼べば出場できるようになった。
知らない高校の名前が、どんどん増えた。
高校野球で名前を売りたい学校法人が、たくさんあるということだ。

今回は選抜36校中、10校が初出場だという。

ファンは、そんな胡散臭さに気がついているのだろう。

そう思ってい見てると、甲子園のグラウンド宣伝パネルに大学の名前も多い。
昔はそんなものなかった。

時代は変わっていくんだなあ。


| | 考えたこと | 17:38 | comments(1) | trackbacks(0) |