考えたこと2

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新しい自転車部品
自転車のペダルのついているところがクランク。
こぐ力をチェーンに伝える部品だ。
今までは長さ165〜170mmだったが、今回の新しい自転車は140mm。
ショートクランクというもの。

クランクは長くするとテコのうでの効果で、力を増幅する効果が大きい。
でも、足の動きが大きくなり、当然上下動も大きくなる。
ショートクランクにすると、足の動きは小さくなって乗りやすいが、テコの効果は小さくなるので、力が必要になるということだ。

ショートクランクは長いこと自転車メーカーも研究してきたらしいが、なかなかうまくいかなかった。
それを解決したのが、宮崎県の発明家。
クランクの回転をチェーンを動かすギアに伝える時に、間に伸縮するシリコン入れて、こぐ力をそこに貯めるという構造を考案した。
そうすると、こぎ出しはシリコンが圧縮されるので、軽く踏めるし、圧縮が解放されるとギアに力が伝わって、ペダルを踏む力に加わる。
だから、ショートクランクでも楽に回せるということだ。

日経に記事が出ていたが、これはすごい発明だ。
シリコンの特性を変えて、自分の力に合わせたギアを作ることもできる。

自転車のクランクなど、もう枯れ切った部品かと思っていたが、こんな工夫ができるのかとびっくりした。
まだまだコストは高いが、ひょっとしたら化けるかもしれない。

宮崎県の浜元陽一郎氏は、重心が下にある杖などの介護用品などを考案して、その売上なども使って開発を進めてきたらしい。
今回それが自転車メーカー、サイクル・オリンピックの目に止まり、実用化に至ったもの。
すでに部品としてかなりの数が売れているらしい。

こういう部品を使って、安価で使いやすい自転車ができるようになれば、ありがたいことだ。

世界で普及することを望む。





| | 考えたこと | 21:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
集合
集合という概念を習ったのは中学校だったと思う。
今は小学校で習うらしい。
ある特定の条件に合う要素の数をひとまとまりにする。
それが全体の中でどうなっているか、ということだ。

ド・モルガンの法則というのも出てきたと思う。
交わりと結びという日本語が出てきて、結局は論理式みたいな格好になったはず。
集合AとBの交わりの否定は、Aの否定とBの否定結びになるというようなことだったと思う。
交わりは「かつ And」で、結びは「または Or」ということだ。

例題にはたいがい「40人のクラスで、りんごが好きな人が20人、みかんが好きな人が30人、両方とも嫌いな人が5人いるとき、両方好きな人はどれだけいるか?」というような問題だったはず。
ちょうどぼくらの頃から、集合という単元ができた。
こんなことをわざわざなんで教えるのかと思った覚えがある。

しかし、この例題が苦手な大学生がたくさんいるのだ。
結局小学校で躓いている。
正しいベン図を書くことができないことが大きい原因。
頭が固くなっているから、全体と部分のイメージができないのだろう。

割合がわからない人はおしなべて集合も苦手。
結局、全体と部分という概念は割合にも通じているのだろう。
割合はだいたいは部分と全体の関係だから、そこがわかっていないと集合もわからないということになりやすい。
どちらを先に教えればいいのか、難しいところ。

でも、こういう概念がないと、高齢者の事故が増えているというような報道を聞いて、絶対的に増えているのは間違いないが、それは高齢者自体が増えているからなのかどうかが気にならない。
高齢者の増加分以上に、高齢者の事故が増えているのなら、本当に増えているということだ。
結局、増えたか、減ったかということだけで、相対的な変化がどうかなど気にしなくなる。

こういう人が増えると、いい加減な報道に騙される人が増えるのだ。

民主主義は教育が支えると思うが、それは民主主義を教えることだけではなく、こういう教養をちゃんと身につけるということだろう。

小学校をもっと真面目にやらないといけない。


| | 考えたこと | 22:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
消費税
日本の人口の28.7%が65歳以上。
そのうち、4人に1人が就労しているという。
65歳以上の人口が3617万人だから、その1/4はだいたい900万人。
逆に言うと、働いていない年金生活者が2700万人いることになる。

寿命が伸びているから、高齢者人口が増えることは社会保障の負担増につながる。
ずっと前からこうなることはわかっていたが、有効な対策は打てていない。
定年を延長しても、まだまだ足りない。
年功序列と終身雇用の制度は今となっては「長く働く」ことに対する足かせになっている。

今や年金を当てにしたビジネスも増えている。
働く人たちの負担がどんどん大きくなっていく。

2050年には65歳以上の人口が今より10%ほど増える。
働いている世代の人たちは、社会保障費の天引きがどんどん増えているのに気がついていないのだろうか。

この状況で、年金や医療の支出を減らすことを考えることは第一。
高齢者が働きやすいように法律を変えるとか、再教育するとか、いろいろある。
医療費の削減では、処方薬のオンライン化など進めるべき手は多い。
それでも、利権が絡んでなかなか進まない。
今こそ、こういう利権を排して、医療費を削減していかないといけない。
年金のマクロ経済スライドも実施すべきだろう。
尊厳死の問題もある。

世代ごとの受益、損益の試算を見ると、今の60代以上は+4000万で20代は−1200万、将来世代に至っては−8300万という推定も出ている。
将来世代は今の60代以上に比べて、1億以上損をするのだ。
そう思ったら、社会保障の天引きを減らし、消費税をもっと上げようと思わないのだろうか。

しかし、増え続ける負担を平等にすることも必要だ。
働く世代だけの負担を増やしては、若い人たちのやる気を削ぐし、優秀な人材は外国に出ていってしまう。
受益者である年金生活者も負担しないといけないとぼくは思う。

そうなると、消費税の増税しかない。(もちろん徹底的な行政改革やスリム化は必要だが)
負担が大きくなるから、みんなで負担しようということだ。
実際、日本の消費税率は先進国中では低く、負担が若い人たちに偏っている。
働く人たちはそう思わないのだろうか。

消費税減税の声は大きい。
その人たちはその財源を国債で埋めればいいという。
どんどん借金を増やしていく、ということだ。
付随する理屈もあるようだが、本当だろうか。
それは誰にもわからない。
経済は計算だけで動くものではないからだ。

ぼくはせめて負担だけでも平等に近づけるべきだと思う。
働く世代だけに社会保障費として、それを負わしてはいけないと思うのだ。

今の所、消費税はその世代間の不平等を是正する、唯一の税なのだと思う。





| | 考えたこと | 22:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
教育困難校
日経に教育困難校の記事が出ていた。
元公立高校教員の教育ジャーナリストが書いている。
今や日本の高校進学率は98.8%。
高校は学力レベルで厳格に序列化されているとのこと。
レベルは進学塾が行う模擬試験で決まるらしい。

この序列の下部に位置するのが「教育困難校」。
小中学校で学ぶ内容の半分も理解しておらず、学習習慣が身についていない。
勉強や努力に対しても、価値を見出していない生徒が多い。
要するに、小中学校の義務教育でつまづいた生徒たちが入っているということだ。

ぼくは義務教育はすごく大事だと思う。
義務教育の知識さえあれば、世の中を渡っていける。
基本的な知識も十分だ。

高等学校というのは、高等な知識を与えるところ。
義務教育以降の知識はあるに越したことはないが、無くても十分生きていける。
今はYoutubeだってあるのだから、パソコンで自習もできるのだ。

新卒の就職時の筆記試験だって、ほとんど小中学校の知識でいける。
一部の数学は高校の知識だが、それができない大学生だって山ほどいるのだ。
むしろ、なぜ大学生ができないか、ということのほうが重要だ。

分数がわからない大学生がいる、と言われたのは90年代。
文系の入試から数学が必修でなくなったのが80年代後半くらいか。
今や、小学校の先生の中にも、割合の概念がわからない人がいると思う。

こんな状況になったのは、一つには大学が入試のレベルを下げたことがある。
入学者を確保するために、科目を減らし、簡単にした。
そして、入れた学生をちゃんと教育しなかった。
何度も書くが「割合のわからない学士を世間は認めない」ということだ。
実際、中古車販売の社長に、最近の学生は算数がでけん、と驚かれたことがある。
高卒の自分と比べて言っているのだ。

もう一つは社会も無関心だったということ。
90年代に分数ができない大学生、というのがちょっと話題になったが、みんな無関心だった。
教育関係者ですら、無関心。何の対策も打てていない。
今の下位の大学生の状況がその証拠だ。

やはり政治が動かないといけないのだろう。
もっと地方の政治家は教育について真剣に考えるべきだ。
教育を政治から独立させたのはいいけど、今はもっと口を出さないといけないと思う。

たくさんの若い人たちが、学べないまま大人になっているのだから。






| | 考えたこと | 22:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
緊張すること
学生と面接の練習をすることがよくある。
想定するのは、学生の「素」の姿を知りたい、という面接。
だいたい、どの就活情報を見ても、人事のコメント見ても、見たいのは学生の「素」の姿だ。
したがって、ぼくはいつもフレンドリーな面接官をやる。

時には、ちょっと圧迫気味でお願いします、という要望もあるが、最近はほとんどない。
1対1の相談の中で面接練習をやるので、学生は気分的に楽だと思うのだが、やはり緊張するらしい。

全く緊張しない、というのはダメだと思う。
やはりちょっとの緊張感はないと、面接はうまくいかない。
ピリッとした感じが出るからだ。

一方で、緊張しすぎる人もいる。
今まで話をしていて、それでは面接の練習をしよう、という手順をふんでやっているのだが、それでも緊張するという。
結局は信頼関係なのだろう。
面接相手との間で信頼関係を感じられないと、過渡の緊張にもなるだろう。
そういうシグナルをどう感じるかだ。

中には会社からかり出されて、仕方なく面接官をやっている人もいるようで、時々ひどい話を聞くこともある。
学生は真剣なのだから、本当に気の毒に思う。
社会に出る入り口のところで、いい加減な面接をやられると、その後立ち直るのに苦労することもあるのだ。

一般的な就活の面接は準備ができる。
定番の質問も決まっているし、付随する質問もだいたい決まっている。
だから、それを練習しておけばいいのだが、それを教えてくれる人がなかなかいない。
ネット上にそんな情報がたくさんあるのだから、見たらいいと思うのだが…。

いったん、自分のペースができたら、面接はうまくいくと思う。
面接相手との信頼関係を作ることと、定番の質問に対する答えを考えておくこと、この2つだ。
信頼関係で大事なのは、まずは外面的なもの。
笑顔と明るい声だ。
そんなに難しいものではない。

プレゼンのハウツー本に、「緊張はなくすものではなく、生かすもの」と書いてあった。

「相手に自分の思いを伝えるためには、伝える人は緊張していなければいけないのです。そして「聞いた人が感動して行動を変えてもらう」という目的を達成するためには、緊張をなくすのではなく、緊張を生かすことが大切なのです。」

ということだ。

そういうふうに、緊張と仲良くすることが面接の極意だと思う。



| | 考えたこと | 00:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
コロナ恐怖症
コロナの話題が続く。

コロナが怖くて仕事をやめたい、という人がいるらしい。
ファイナンシャルプランナーに相談があった、という記事。

60歳で一旦定年して再雇用の現在、仕事を休んで貯金を切り崩して生活している。
感染への不安が大きく、外に出るのが怖い。
まともな科学リテラシーがあれば、そんなことにはならないはずだが、こういうことが起こっている。

「重症者には高齢者が多い」「クラスターが発生している」という情報に踊らされて、不安になったという。
本来なら、マスコミが正しい情報を流して、そんなに恐れなくてもOKという状態なのだが、未だに毎日感染者数が何人というニュースが流れる。
こないだは、言うに事欠いて「世界の感染者数3000万人、死者97万人」というニュースも出た。
他に言うことがなかったのだろう。

そういう数字を出すのなら、そのうち日本の感染者や死者の数を比較で出せばいいのだ。
だいたい、感染者数など誤差も大きく、あまり意味もない。
無症状なら、感染していないのと同じだろう。
そういう人たちが、うつして回るから心配だというが、そういう効果もあるから、集団免疫が成立するのだ。
その感染者たちは、健常者を感染からブロックしているとも言える。

日本の死者数は97万人のうちの1500人だから、たったの0.15%。
欧米の1/100のオーダーだ。
日本では、コロナウィルスはインフルエンザよりも怖くないと思う。

マスコミでは、ひどい症例だけを取り上げているが、その後ろにたくさんの無症状や軽症の人がいる。
たしかに、マスコミは国民に対する注意喚起の意味もあるから、そういう報道をするのもわからないではない。
しかし、ここまでくれば完全にやりすぎだ。

この「仕事をやめたい」を思っている人の家庭は、このままでは破綻まっしぐらだという。
収入を得ることを放棄しているのだから、当たり前だ。
いくらファイナンシャルプランナーが説得しても、「働けない」の一点張りとのこと。

記事には、

「待っていれば、誰かが生活費をくれる世の中ではありません。自分でどうにかしていこうとしなければ、乗り越えられないのです。感染が怖いと思うのはみな同じ。一人一人が対策をして、生活や働き方に工夫をしながら頑張っているのです。」

とある。

こうなると、マスコミの人災だとしか思えない。


| | 考えたこと | 23:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
欧米が手本
日本では都市封鎖はやらなかったが、やった国では批判が出ている。
ロックダウンも含め、コロナで日々の活動を広範に制限したことで、アメリカだけで1300万人、世界全体で4億人が職を失ったとのこと。
Wall Street Journalに出ていた。

とりあえず命を優先した結果、5ヶ月が経って、ロックダウンは過度に厳しく、経済的に高くつく手段であるという証拠が出ている。
死者の多かったアメリカのハーバード大学では、ダメージの大きなロックダウンなしに死者の急増を避ける方法をモデリングしているらしい。

消費者の移動の減少に政府の規制が影響した割合はわずか12%だが、一方で規制が失業に影響を及ぼした割合は60%だとしている。
要はロックダウンは感染拡大にはそんなに効果はなかったが、失業の増加には大きな効果があったということになる。
感染学者たちは、もともとロックダウンは実現困難だし、不要に有害だと思っていたのだが、武漢やイタリアの光景を見て考えを変えたとのこと。

ここからはいろんな対策が生じる。
スウェーデンのように、緩やかな規制のみで対応した国もあれば、アジアの各国のように検査を増やして乗り切った国もある。
イギリスのように、人口の80%がいずれ感染し、51万人が死亡すると予測した国もある。
アメリカも同様だ。220万人が亡くなる、という予想だった。
今ではこの試算の人数は多すぎたのだと言われている。
現状では、イギリスでは4万人、アメリカでは20万人が亡くなった。
やはり実際は1/10だ。

日本の西浦教授の予想もこれと同様だろう。
80%接触削減しないと46万人死ぬと言っていたが、今に至るもその1/100以下だ。

ぼくは今回のコロナ禍では、アジアと欧米で明確な差があるというデーターに対して、専門家と言われる人たちが、今でも不誠実な態度でいることが問題だと思う。
専門家ほど、欧米との差に言及しない。
ネット上で一部の医療関係者と専門外の人たちは、早くからそのことを指摘し、自粛批判の方向で議論していたが、専門家会議やマスコミはほとんど無視だった。

感染者数で見るのではなく、問題は重症者数や死者数であることに対しても、ほとんど言及しない。
何でも欧米並みというか、欧米の真似をしないといけないという意識がこびりついているのか、現実的には死者数は1/100であっても、欧米と同じように横並びで何でもやろうとしている。
本当にそんなことが必要なのかと思う。

マスコミがバカなのは仕方がない。
以前はもっと優秀な人達がいたはずだったが、貧すれば鈍するのだろう。
しかし、専門家と称する人たちがこれほど非科学的だとは思わなかった。

今まで全て、欧米を手本にしてきたのは事実。
でも、ノーベル賞をもらいそこなった北里繁三郎を筆頭に、日本もそれなりに感染症に対して貢献してきたはず。
日本の研究者ももっと謙虚にデーターを見て、総合的に判断すべきだ。

過度の自粛をやめないと、自殺者がどんどん増え、地方は崩壊するのではないか。






| | 考えたこと | 00:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
まだマスク?
スウェーデン在住のお医者さんが、日常の様子を書いている。
みんなノーマスクで、ほぼOKとのこと。
実際写真を見ても、みんなマスクはしていない。
もうほぼ感染は収束したということらしい。

死者の総計も、「ここ数十年で冬に死者が増えた最悪年」とほぼ同程度とのこと。
人口100万人あたりの死者数は日本の70倍。
この結果を見ると、結局はロックダウンなどの厳しい規制をしなくても、他のヨーロッパ諸国と変わらない、ということだ。

スウェーデンではもともと延命治療などしない。
自力で食事ができなくなったら、もう死期が来たということ。
そうやって楽に死ねる国だ。
そのせいもあって、高齢者の死者が増えたのかもしれない。
でも、極論すれば、数年後には亡くなる人がちょっと早くなくなったということだろう。

スウェーデンの国民は保健相を信頼している。
情報の透明性も高い。
毎日データーを用いて丁寧に説明する。
そういうこともあって、欧州で唯一のロックダウンなしで集団免疫を達成しようとしている国になる。
ロックダウンをしないということで、経済的な打撃も小さくなっている。

日本はロックダウンもせず、自粛だけで乗り切った。
死者もスウェーデンの1/70。
それでも、いまだにコロナが恐怖の的だ。
マスクも手放せない。

実際にはコロナが怖いのではなく、コロナになった時の回りからのバッシングが怖いという意見もある。
高齢化が進み、コロナを怖がってだけいればいい人が増えたのもあるだろう。
今や65歳以上が人口の1/3。

ぼくはもう歩いているときのマスクはしない。
電車に乗ったら、黙っていたらマスクなど要らないと思うが、仕方なくする。
実際、黙って乗っているのにもう要らないのではないかと思う。
インフルエンザのときでもしていないのだから。

いい加減になんとかならないかと思う。

家を出てから「マスク忘れた」と取りに戻るのはもうやめにしたい。


| | 考えたこと | 22:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
1万人の第九 2020
毎年恒例になっていた「1万人の第九」。
3年連続で当たり続けたが、4年目は抽選そのものが中止になった。
5月の状況ではとてもできないという感じだった。

それでも、佐渡裕総監督はコンサートをやりたい、ということだ。
ホームページに載っていた。

毎年行う全国でのレッスンはリモートで行う。
パートごとと総合レッスンなどがあって、毎週配信される。
5000円の参加料を払えば受けることができる。

さすがに、3年連続でレッスンを受けてきたので、今年はお休みすることにした。
ただ、最悪の場合、オーケストラだけを入れて、第4楽章だけでもやりたい、ということのようで、リモートでの参加を募っている。
アップされる予定のオケを聞きながら歌う。
その姿をスマホで撮って、音と一緒に送る。
それを合唱団にして、やるという考えのようだ。

大阪城ホールには大きなディスプレイがあるので、あそこでできるのなら、映そうということだ。
テレビなら、編集すればOK。
送るのは無料なので、参加しようと思う。
でも、何人が送るのだろうか。
まあ、5000人も送ればいいところだと思うが…。

一方、12月の第一週の大阪城ホールは感染対策をして、実施ができるか検討中とのこと。
まあ、あの人数では世間的にはできないだろう。
換気に気遣っても、まあ半分以下の人数だろうなあ。

冷静に考えて、インフルエンザが流行っている年でもやってきたのだから、別にやっても構わないと個人的には思う。
感染が心配なら参加しなければいいだけだ。
入場時に熱を測って、平熱の人だけを通せばいい。
でもまあ、今の日本ではまだ無理だろう。
感染症の指定がゆるくなって、インフルエンザ並みになればできるかもしれないが…。

ということで、まだリアルの開催は検討中とのこと。
ダメでもテレビ番組はやりそうだ。
リモートの参加者を編集して、合唱団を作ればいい。

リモート参加だけはしようと思う。
スマホで撮ればOKだ。

リアルも募集してほしい。
| | 考えたこと | 17:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
トイレの神様
植村花菜の曲。
2010年の紅白で歌った曲だ。

全部で10分ちかくに及ぶ。
短い曲の3曲分の長さ。
これを紅白で歌うのはしんどかったらしい。
1曲の目安の時間があったからだ。

普通は一部をカットして歌うのだが、この曲は切ったら成り立たないので、全部歌わしてほしいと言ったらしい。
結局はフルバージョンより2分短くなったが、それでも、8分かけて歌った。
居並ぶ大御所の歌手の前で堂々と歌った彼女は、楽屋で居場所がなかっただろうと思う。
駆け出しのシンガーが、2曲分も歌うとは何事かということだ。

そういう記事を偶然見つけて、改めて感心した。
あの曲を途中で切るなら歌わないほうがマシだ。

そういう強気な性格が災いして、所属プロダクションともうまくいかず、2019年には名前も植村花菜から「ka-na」に変えた。
アメリカに行ったり、結婚したり、いろいろと変化があったらしい。

それでも、この曲はYoutube上で2500万回再生されている。
テレビのステージのものもあるし、各地のライブのものもある。

関西出身らしい歌詞で、「新喜劇」「鴨南蛮」などが出てきて、ぼくにはすごく実感できる歌だ。

10年経って、彼女はこの曲をどう思っているのだろうか。



| | 音楽 | 20:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
アズ・ア・サービス
日本では製造業よりもサービス業のシェアが上がっているが、その製造業もサービス化してきた。
ブリヂストンが「本業を否定」という記事が出ている。

今やタイヤで世界一となったブリヂストンだが、今はリトレッドに力を入れている。
リトレッドとは、タイヤの接地する部分であるトレッドを貼り替えるということ。
要はタイヤの本体は変えずに、トレッドを貼り替えてリユースすることだ。

ぼくが会社に入った頃は、リトレッドは町工場でやっているものだった。
タイヤメーカーとしては、安全性を考え、タイヤ本体を使い回すことは推奨していなかった。
リトレッドしたタイヤは高速回転したり、熱がかかったりすると接着部分から剥がれてしまったりする危険性があったからだ。
いったん販売したタイヤがどんな条件で使われるかはわからないから、安全サイドで考えざるを得ない。

韓国や中国のタイヤメーカーが台頭してきて、ミシュランが世界トップの座をブリヂストンに譲った。
潜在市場の大きさから、自動車メーカーもアジアにシフトしている。
ブリヂストンとしても、世界トップシェアの座を守ることは大変だろう。

そこで打ち出したのがリトレッドの戦略。
対象はトラックやバスのタイヤだ。
走行距離が長く、1台あたりの本数も多い。
単価も高いから、ここを守ろうということだろう。

彼らが考えたのは、リトレッドと新品タイヤの差額を、メンテナンスサービスで埋めるということ。
今はやりの、タイヤ・アズ・ア・サービスということだ。
リトレッドの時期や頻度をチェックするサービスをつけて、運送業者のトータルコストを削減できる、という作戦。
いずれ、中国製の安価なタイヤがどんどん入ってきて、自分たちの市場を侵食すると考えているのだろう。
おまけにこのサービスが浸透するなら、それをパッケージにして新興国に出ることもできる。
そのテストケースでもあるのではないか。

そのサービスをTPP(Total Package Plan)というらしい。
運送会社はタイヤのメンテナンスがフリーになる。それに伴う人件費や管理コストも削減できる。

でも、簡単にリトレッドの技術は開発できないから、海外のリトレッド大手メーカーを買収して、その技術を使った。
まだTPPはそれほど浸透していないが、アズ・ア・サービスの動きは世界で進んでいる。
インターネットやスマホ、センサー技術などが進んで、タイヤのメンテナンスもリアルタイムで監視できたりするようになってきたからだ。

こういうメーカーの動きはどんどん出てくるはず。

時代はアズ・ア・サービス、サービス業化に動いている。


| | 考えたこと | 07:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
コロナ卒婚
リモートワークが増えて、働く人が家にいることが増え、いろんな変化が起きている。
何でもそうだが、いいこともあれば、悪いこともある。
悪い事の一つは、「主人在宅ストレス症候群」ということだ。

今まで家にいなかった人が家にいることで、家族の間にストレスが生じる。
夫が家にいることで、妻がストレスで症状が出るという病気を「夫源病」というらしい。
めまいや動悸、頭痛、不眠などの不定愁訴が症状。
普通は、定年後の夫が1日中家にいるというようなケースなのだが、今回のコロナ禍のリモートワークの影響でも出ているとのこと。

まあ、それはそうだろうと思う。
人間は関係の中で生きているから、その関係が変わると大変だ。
今まで他人ゼロであった時間に、他人が入ってくるというのは0→1の変化なので、無限大の変化になる。
たとえそれが夫であったとしても、というか、夫だからこそかもしれない。

物理的な制約はあるが、対策としては部屋を別にする、という簡単なもの。
まあそれしかないだろう。

その他にも、家事のこととか、コロナに対する考え方の違いとか、すれ違いが増えたとのこと。
子育てがほぼ終わって、そういうトラブルがあって、今まで当たり前だと思っていたことがそうではないと気づくと、「卒婚」ということになるのかもしれない。

「卒婚」に肯定的なのは40〜64歳の男性5〜6割、女性7〜8割らしい。
女性の方が2割多いのは、なんだかんだ言っても家事の比率が高いからだろう。
それでも、男性でも半分が「卒婚」に肯定的なのは面白い。

そのせいがあるのかないのか、女子大生にキャリアの話をして、ライフスタイルの話になり、結婚をどうするか?と聞いても「結婚はしたくない」という人が増えた。
「どっちでもいい」「いい人がいたら」というような消極的な意見も入れると、過半数になるようにも思う。
昔のように「結婚したい」という人は少数派だ。

核家族化が進み、女性の社会進出も進んで、女子のあこがれのライフスタイルも変わってきたのだ。

今の70歳以上がメインの内閣を見ていると、少子化対策などできそうにない。
若い人の価値観などわからないだろう。

つくづく、少子化の問題は根が深いと思う。



| | 考えたこと | 22:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
定年後
2014年の4月に学校法人を退職して、1年かけてキャリア関係の資格を取るつもりが、1年半かかった。
1年は午前中スポーツジムに通いながら、講習に行き、勉強をした。
資格は1年で取る予定だったが、面接で失敗し、半年余分にかかってしまった。
その半年は本当にきつかった。
今は幸運にも仕事ができているが、その時は本当に仕事ができるのか、不安だった。

でも、自分のキャリアに助けられて、そういう仕事にうまく巡り合えた。
これは本当に運だと思う。

普通に企業で仕事をして、定年を迎えて仕事を辞めると、多くの人は働かない。
それが働きたくても働けないのか、それとも自主的に働かないのか、思いはいろいろあるだろう。
ぼくは今63歳。
以前勤めていた会社でも、学校法人でも、65歳になったら定年である。幸い、今の仕事なら、おそらく65歳を超えても続けられると思う。

仕事がないというのは、想像以上につらい。
65歳以前に仕事を辞めるという人を時々見るが、ほんとにもったいないと思う。
お金の問題ではなく、世の中とつながっているかということだ。

昭和の男子の場合、それはどうしても仕事になる。
男性の平均寿命も80歳を超えた今、65歳でも早すぎる定年だろう。
仕事もせず、15年も過ごすのはしんどい。

趣味というと、ぼくはギターだが、それを仕事の代わりにやるというのもなあ。
仕事をしているときは、もっと練習してうまくなりたいとか思うが、仕事を辞めてもその気持ちは続くだろうか。うまくなりたい、という気持ちはあるのだが…。

時間は作るもので、あればいいというものでもない。
仕事をやめて、いくらでも時間ができたら、それはそれでシンドいものだと思う。
一度仕事がなくなって、それを知っているから、ぼくはできるだけ長く働きたいと思う。

それでも、いつかは仕事ができなくなる時が来る。
そのときに何をするか。

犬を飼うことだろうなあ。



| | 考えたこと | 00:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
8050問題
8050問題というのは、80代の親が50代の引きこもりの子供を支える、という問題。
親の生活力も落ちてくるし、さらに親が死んだら子はどうなるのか、ということだろう。
年間3万人の孤独死があると言われている。

40代でも孤独死をする例があるとのこと。
20年間孤立してきた男性。
死後1ヶ月で発見された。
母親が亡くなって、引きこもりのまま、叔母からの仕送りで生活していた。
部屋の中はコンビニのレジ袋や弁当のケース、ジャンクフードの紙袋などで埋め尽くされていたとのこと。
引きこもりの彼も、就職氷河期の犠牲者だったのかもしれない。

長く引きこもると、セルフネグレクト(自己放任)になるらしい。
そのため、洗面台やトイレの掃除もできず、真っ黒になっている部屋が多いという。
見た人は、

「彼の1日の生活範囲は、こたつの前から座って動ける範囲だったと思う。たまにトイレに立ち、気が向けば風呂に入る。食料の調達は近くのスーパーで惣菜弁当を買いにいく位だね。それ以外の物は、アマゾンでネット購入するけど、ゴミはなかなか出せないから、箱は玄関脇の部屋に無造作に投げ捨てていたんだろうね」

と書いている。

もと引きこもりの取材者は、自分は中学時代からの引きこもりだったから、まだ親と同居していたし、親を接点として社会とつながっていた。
でも、親が死ねば社会とは切れてしまう。
何十年も引きこもっていれば、必然的にそうなる。

以前アメリカには引きこもりはいない、という記事を見た。
子供が成人したら、家を出ていくという伝統があるからだ。
日本のように同居はしないし、親も経済的援助をしない。
つまり、引きこもりなど出来ないということだ。

40歳〜64歳の引きこもりは全国に61万人もいるらしい。
これは大変なことだ。
見て見ぬふりをしてきた政府も、いい加減に対策を打たないといけない。

孤独死の平均年齢は61歳ということだ。
昨年ようやく政府が腰を上げ、調査をした結果になる。

新しい政権では中高年引きこもり対策も進めてほしいと思う。
そのために、キャリアコンサルタントという国家資格を作ったという側面もある。

どんどん社会に出て働いてほしいと思う。


| | 考えたこと | 21:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
AIは仕事を奪わない
「人工知能が変える仕事の未来」という本の紹介記事を読んだ。
この本は通説とは違って、「AIは人間の仕事を奪わない」という本だ。

本の目的は、AIに何ができて何ができないのか、という事をきちんと理解すること。
そもそも「知能」とはなにか、ということだ。
それを「経験したことのない、未知の事態に遭遇して、その場で問題解決のアイデアと具体的な手法を発明、考案し実践し、それを証明する能力」と定義する。
もちろん、ここまでできるAIはまだ出来ていない。

要素としては、いろんなものが出来ている。
画像データーから、そのものを理解したりする。
チェスや将棋、碁などのゲームもできる。
翻訳もすごく高いレベルでできるようになっている。
迷惑メールを勝手に見つけて振り分けてくれるたりする。
そういう要素はだいぶ出来てきた。

それらのAIを分類する要素を3つの軸で表している。
1つは「強いAIか、弱いAIか」、2つ目が「専用か、汎用か」そして3つ目が「知識・データーが少ないか、多いか」。
これらの軸で分類できるという。

「弱い」「専用」「データー少ない」例がルンバのような掃除ロボット。
「強い」「専用」「データーが多い」例が、クルマの自動運転システム。
今の所、「強い」「汎用」「データーが多い」という最強のシステムは作られていない。
これができたら、ターミネーターの世界になる(コンピューターが自律的に動くようになる)。

でも、著者はそういうものは作れないだろうという立場。
シンギュラリティの議論だ。

AIが進む時代には、人間は創造性や個性、文化、アートなどの感性をアピールしないといけない。
そういう意味で、文系学部、芸術系学部の軽視は間違った政策だという。

「遊び心、悪戯心、新しい美の追求を思う存分、のびのびできるように、教育の現場を変えていくことで、日本の勝機が増えるでしょう。ハードウェアがタダ同然に安くなり、機械学習エンジンを含む共通ソフトウェアも多くは商用フリーで出回る時代です。より上位のコンセプト創造、オリジナル・コンテンツの制作、その流通・享受の仕組みのところが、必然的に、大きな価値を生むようになります。」

「生産性向上で社会の富が増え、人間はより創造的な業務に集中できるでしょう。単純労働から解放されて、ベーシックインカムで「遊んで暮らせる」生活が訪れてもおかしくないのです。」

ということだ。

いろんなAI絡みの本が出ているが、このAIを分類する軸、というのはなかなか面白い。

ぼくは生きていないが、AIの未来は人類の未来だと思う。

どうなるのか、興味深い。




| | 考えたこと | 21:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
古い価値観
こないだウーバーイーツのことを書いたが、こういう個人が主体になってやるビジネスの仕組みが日本ではなかなか根付かないのはなぜなのか。
ウーバー自体もそうだ。
「配車サービス」がウーバーの役割で、実際に動くのは個人。
車があって、時間があって、スマホとクレジットカードさえあれば誰でもできる。

日本では特に都市部でタクシー業界が反発している。
タクシーのサービスがあるからウーバーは要らないという理由だ。
それに国交省も乗ったカタチ。
役所の既得権もあるのだろう。
業界、役所も含めて、既得権益を守ろうとしている。

それを崩すと言ったのが、結果的には放たれなかったアベノミクスの第三の矢。
規制緩和というやつだ。
菅氏が新聞で「大幅な規制緩和」と書いていたが、それに期待する。
一番やらないといけないことが、できないというのが日本の政治。
行政や役所が強いことが災いしている。

ウーバーに関しては「白タク」禁止が根拠として使われた。
もちろん、白タク禁止の法律ができた時には、それなりの理由があった。
でもウーバーのような仕組みができたら、そういう法律は変えていかないといけない。
この役所が一旦作った法律は変えないというのが古い価値観。
役所は間違えない、という思い込みがあって、一旦出来たものを変えることには抵抗がある。
作った人の顔を立てる、というようなこともあるのだろう。

日本の役所は海外に比べると優秀だというのは本当かもしれないが、法律に付随する政令などで隠れた規制がたくさんある。
今回のコロナでも、法律上は指定感染症の2類相当ということになっているが、会議の席で厚労省の役人が1類にしよう、と言った議事録だけで格上げされている。
会議のときには妥当性があったのかもしれないが、諸外国の状況などをみていると、もうとっくに外していいレベル。
おかげで、無症状の人も入院しないといけない。
医療費の無駄遣いだろう。

そういうことは今でこそインターネットに議事録が上がって公開されるが、国民の代表である国会議員が決めたわけでもない法律に付随する政令で、全国民が迷惑している。
勤務先でも、学校でも、誰かがコロナになったらクラスターを追求されて、消毒、2週間の隔離などの処置がいる。
なぜエボラ出血熱と同じ扱いになるのか、常識の問題だ。

そういう価値観が、規制を増やし、社会の無駄を増やしている。
実際ウーバーの発達したアメリカでは、アプリで車を呼べて便利になったとのこと。
インターネットとスマホというインフラで社会は変わっていく。
その恩恵を受けられないのが今の日本。

菅さんが「大幅な規制緩和」というのなら、そういうところまで切り込んでほしい。


| | 考えたこと | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
パワードスーツ
高齢の母が住むところを変わった。
今は入院中なのだが、退院して別のところに行く。
そのための引っ越しを昨日弟と二人でやった。

運ぶものの量はしれているから、赤帽の引越便を使った。
2時間で税込み1万5千円。
親切なおじさんでよかった。

しかし、ちょっと重いものを持つのを手伝うと、腰が痛くなる。
おまけに、今まで痛くなったことがないところまで痛くなる。
筋力が落ちているのだろう。
20代の昔は実験をやっていて、さんざん重いものを運んでいたのに、もうダメだ。
また年をとったことを実感した。
タンスと冷蔵庫、洗濯機の片棒をちょっと担いだだけなのになあ。

老いるということは残酷だ。
昔は何ともなかったことが、できなくなる。
こういう人が増えてくるのが高齢化社会。

重いものを運ぶときに装着するパワードスーツだが、最近見たものは25キロのアシストで、電力不要で空気圧を利用するとのこと。
値段も13万円と安い。
こういうものが出てくれば、高齢になっても働く機会が増える。

自衛隊の災害救助の時の装備としてのパワードスーツの開発も進んでいるらしい。
重い荷物を持って、走ることができる、というようなもの。
こちらは本格的なもので、人間の能力を上げるためのもの。

いろんな国で軍備としても開発が進んでいる。
アメリカ、ロシア、中国など。やはり軍備となると開発が早い。

日本も負けていないようだ。
自衛隊の災害救助の役割も最近増えたし。

パワードスーツは病気で歩けなくなった人の自立支援などの用途もある。
歩行訓練用のものなど、筋肉や脳が忘れたことを思い出させるのだ。

戦争がいろんな技術を進歩させるものだが、パワードスーツは高齢化によっても開発が促進される。

ぜひ、日本がトップランナーになってほしいものだと願う。




| | 考えたこと | 00:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本はIT後進国
以前「日本の大学」に出てきた、スイスのビジネススクールIMDというのがある。
ビジネススクールとはいうものの、IMDの中には「世界競争力センター」というのがあって、そこで国ごとの競争力を発表している。

このランキングでは255の指標を集計しており、指標の64%は雇用統計や貿易統計、残り36%は「マネジメント慣行」「ビジネス規制」「労働市場」「姿勢・価値観」等の内容で評価している。
世界的にも有名なものだ。

今年の日本の順位は34位で、1997年以来の最低ランク。
足を引っ張っているのは、政府効率とビジネス効率。
ビジネス効率では、マネジメント慣行は63カ国中62位と下から2番め。
生産性と効率も55位で深刻な状況。
企業の競争力にとって非常に重要な「姿勢&価値観」も56位。

製造業の生産性とかは高いのだと思う。
ずっと言われているホワイトカラーの生産性が低いのだ。
マネジメントのやり方が62位と悪いから、生産性が上がらない。
労働市場も流動性が低くて、閉鎖的だ。
結局、80年代のジャパン・アズ・ナンバーワンの時代から抜けきれていないのだろう。
終身雇用、年功序列というシステムがもう破綻しているのだ。

また、政府の効率が悪いのは今回のコロナのことで明らかなった。
悪法だった個人情報保護法の問題もあるが、先進国でやっている国民のID(マイナンバー)の活用がされておらず、給付金が遅れたり、厚労省のコロナの発表が3ヶ月遅れで処理されたりしている。
役所のIT化も考えられない遅さ。
厚労省が未だに手書きとFaxで集計していたのだ。
自分たちが恣意的な操作がしたいと思っているのか、と勘ぐりたくなる。
普通は末端で入力したら、できるだけ転記を減らすのが普通。
こうなると、ITについては後進国だろう。

日経によると、東京の山手線はコロナで最大60%混雑が減少したが、今では25%しか減っていない。
ぼくは4割は減ってもいいと思うのだが、またもとに戻っている。
ニューヨークは以前に比べると半分程度らしい。
やはり日本は戻るのも早いのだ。

上層部がIT技術がわからないこと、現場に任せることなどがIT化を阻害している。
現場のレベルでも仕事のやり方を変えるのが嫌なのだろう。
IT化というのは、まさに「仕事のやり方を変える」ことだからだ。
まさに「ハンコ」のためだけに出社する、というようなことが至るところで起こっているのだろう。

日本の衰退の原因の一つは教育だ。
教職課程を文系のものにしてしまったことが大きい。
基本的に教育に携わる人は、日本の文理の分け方でいうと「文系」になる。
せめて文理半々にしておくべきだったと思う。

大学を見たらわかる。
ほとんどが文系学部。
私立大学では設置学部のベスト10に理系の学部名が全く出てこない。
文科省が天下り先を増やすために大学の設置認可を緩め、私立大学が悪乗りして作りやすい文系学部ばかり作ったことが大きな原因だ。

これから情報技術者が必要になるのに、養成する学校がない。
これでIT化などどうやってやるのか。

この状況を建て直すのは、至難の業だと思ってしまう。

まずは文科省が変わることが必要だ。



| | 考えたこと | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギターとキーボード
ギター弾きはたいがい音の高さは相対的に見ていると思う。
そのキーのドをドと見て、ドレミファソラシドで考える「移動ド」という考え方。
もともと絶対音感などないし、ぼくは「移動ド」でしか考えられない。

ギターという楽器は、構造上移動ドに適した楽器だ。
フレットを平行移動して、同じ形で弾くことができる。
だから、ギター弾きはたいがい移動ドで考えていると思う。

長男はキーボードが得意だが、ギターも弾く。
こないだ行ったら、ピックアップがついたガットギターを買っていた。
通称「エレガット」というやつ。
それを弾かせてもらった。

これが弾きたい、という譜面を見せられて弾いているときに、ついつい移動ドで音名を言ってしまった。
「このソの音を小指で押さえて」というと、「それはラや」という指摘。
それはそうなのだが、移動ドで考えるとソになる、ということだ。

キーボードではソとラは全く違う。
押さえ方も違う。
EmとF#mは全く別のものになる。
ギターなら、2フレットずらすだけなのだが…。

それはキーボードの構造的なものだろう。
なかなかキーボードで移動ドでは考えにくい。

管楽器を吹く人も、移動ドではないだろう。

フレットがある弦楽器といえば、ウクレレとエレキベース、マンドリン、バンジョーなど。

きっとそれらのプレイヤーは移動ドだと思うのだが…。

| | 考えたこと | 20:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
新しい働き方
コロナのおかげで、リモートワークが一般的になり、自然と働き方が変わってきた。
これはいいことだと思う。
リモートワークが100%になるような会社もあると聞く。

ぼくはリモートワークは増えるべきだと思うが、100%そうなるのにはちょっと抵抗がある。
ぼくらの世代はやっぱり日本的な大部屋のオフィスで、みんなで働くという時代だったから、その良さも知っている。

心理学者がリモートワークの良さを説明し、コロナが終わってもリモートワークは継続すべき、という事を話している。
それもちょっとなあ、と思う。

大学の先生はもともと孤独なもので、それが好きな人がなっている。
もともと大学というところが社会から隔絶された場所だから、そういう意識はないのだろう。
大学とはそういうところなのだ。
心理学者に社会性のない教授はとても多い。

みんなで協力して一つのことを成し遂げる、というのは民間企業ではよくある話。
目標を持って、一人ひとりが努力し、プロジェクトをやり遂げるというカタチ。
一人だけで頑張って成果を出すのを喜ぶ人もいるが、チームでやるほうが好きだという人もいる。
チームでの充実感や達成感を感じたことがない人がずっとリモートワーク、という発想になるのだろう。

センセイは、リモートワークが増えると、職場の飲み会やゴルフの機会も減るから、本来の仕事になる、という。

ぼくは、職場でする無駄話からの発想があったり、和気あいあいと仕事ができる同僚がいるなら、やっぱりオフィスでの仕事もしたいと思うものだ。
もちろん、100%出勤などとは言わない。
リモートワークの良さはあっていいと思う。

オフィスで、能力がない上司がいばっていたり、仕事に関係のないことで怒られたりするのはバカバカしいと思う。
でも、それも仕事のうち、人間関係のうちなのだとも思う。
古いのだろうか…。

大学の先生は和気あいあいと話ができる職場など知らないのだろう。

ぼくのいた技術部は、わりと風通しもよく、いい職場だったと思う。
みんなで助け合って頑張ろうという意識もあった。
ぼくが若い人たちからどう思われていたかはわからないが…。

前に書いた「テレワークは週2日」という記事にもあるように、フランス人のアンケートが正しいと思う。
あの個人主義のフランス人でさえ、週に2日程度が一番効率も上がるし、それを超えると社会との接点がなくなって、働く人が孤立感を持つようになると思っている。

心理学の先生は、もともと人嫌いで孤独が好きな人が好きな人がなっているんだろう。(そんな人に心理学がわかるのか、ということもある)

大学のセンセイの言うことを真に受けてはいけない。

特に、働き方などということは…。



| | 考えたこと | 11:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
絶滅危惧種
おそらく日本で一番多いのはサラリーマン。
それが絶滅危惧種であるという記事を読んだ。
びっくりする。

絶滅危惧種になった原因は、日本の経済成長がほぼ止まったこと、人口の伸びが止まったこと、そしてなにより、少品種大量生産の時代が終わったことの3つらしい。
たしかに、経団連の会長も、トヨタの社長も、終身雇用を守っていくのは難しい、と言っている。
その事実はあるが、サラリーマン自体がなくなるとは思えない。

年功序列賃金で自動的に年をとって給料をたくさんもらっている中年が問題になっている。
それが「働かないおじさん」という、40代〜50代の人たち。
そういう人たちが目立つようになってきたということだ。

それはおそらく、インターネットの発達で情報伝達が簡単に行えるようになり、中間の仕事が減ったことに由来するのだと思う。
古い組織なのだ。
それを日立やトヨタはリニューアルしようとしているのは事実。
そうしないとグローバルには戦えない。

記事によると、黒字決算で好調な企業が45歳で早期定年などのリストラをやっている。
余裕のある間に、整理しようということだ。

「そもそも、これまで日本の労働者は守られ過ぎてきた。欧米の労働市場は、日本よりはるかに流動的である。一流企業は何年もかけて育てないとモノにならない新卒など採用しない。採用するのは他社で経験を積み、スキルを磨いてきた即戦力の人材だ。」

「要は、これからは会社に食べさせてもらっている人は生き残れず、自分の力で食べていける人だけが生き残るようになる。そして、自分の力で食べていける人にとって、会社に所属するかしないかは二次的な意味しか持たないようになっていく。」

ということだ。
会社に食べさせてもらっている人=働かないおじさん、という図式。
非常に厳しいと思うが、その変革は手を付けざるを得ない。

それとともに、127万社の中小企業が後継者不足で廃業の危機だという。
雇用が危機なのだ。

記事では今のコロナの状況を分析し、だからサラリーマンは資本家になるべきだと書いている。

ぼくは、それこそ難しいと思う。
今、会社にぶら下がって食わしてもらっているおじさんたちには、そんなことは出来ない。

どうやって、これからの荒波を乗り切っていくのか。
それには規制緩和しかないと思う。

規制を緩和し、ウーバーのような働き方を認め、新しい産業を起こしていくこと。
解雇規制も緩和せざるを得ない。
年金の問題など、今の正社員の制度とひっついている問題もあるが、そこは英断しないと前に進まないだろう。
それこそ、大手術になると思う。

従来からの既得権を廃し、そこまでの規制緩和ができるかどうか、そこにかかっていると思う。




| | 考えたこと | 21:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
キャリアポルノ
キャリアポルノという言葉、初めて聞いた。
いつも見ている元小学校教員の中沢氏の記事に出てくる。
「キャリアポルノと化す大学」という題名。

「キャリアポルノとは、意識が高い人が陥る、自己啓発やビジネス本にはまって人生の貴重な時間を浪費する所作のことです」と中沢氏は書いているが、ググると「キャリアボルノとは自己啓発本のこと」とあった。
つまり、たくさんある自己啓発本にハマって、それを読むことに時間を使い、肝心の自分のキャリアを阻害してしまうこと、という感じなのだろう。

本屋に行くと、昔とは比べ物にならないくらいたくさんの自己啓発本が並んでいる。
昔は有名な人でないと、自己啓発できなかった。
カーネギーの「道は開ける」だったか、実家にあったなあ。

あるいは、松下幸之助や井深大、本田宗一郎などビジネスで成功した人たちが、その考えを書くというのもあった。
成功しているから、啓発できるのだろう。

翻って今の自己啓発本は全く知らない人が書いている。
少なくとも、会社を起こしてそれが世界規模の会社になった、というような人はいない。
アマゾンの自己啓発本の上位の著者は、心理カウンセラーやコピーライターなどの肩書。
なんとなくお手軽な自己啓発という感じだ。
きっと読みやすいのだろう。

中沢氏は、今の大学のキャッチコピー(受験生向けの宣伝のためのもの)について、こんなことを書いている。

「だいたい大学のキャッチコピーが、学生の承認欲求を刺激して、ただでさえ自我が肥大化している現代の若者たちを煽りに煽っています。「ぼくらは、ただの普通じゃない」とか「固定概念を、ぶっ壊す」とか「大学名だけの奴には、負けたくない」とか。

大学に入ってからも、教授が「自分の頭で考えろ」とか言って、私たちのようにろくな頭もないのに、本も通読したこともないのに、無理矢理考えさせられます。高校生までは、受験という没個性的な戦いに打ち込んでいたのに、大学に入ると承認欲求がないと生きていけないように教育されてしまいます。さも、世界の主役かのように。」

ぼくもそう思う。
いろんな大学がパンフレットを出しているが、その中にあるのが「この学部にいけば、こういう職業につける」という就職絡みのページ。
そこを見ると、たいがい「こういう資格が取れる」とあって、その関連の職業が載っている。
実際にはほとんどの卒業生が「サラリーマン」になることはわかっているのに、この学部で勉強したら「一般企業に就職できます」などというコピーはない。

中沢氏が言うように、今の大学は受験生の承認欲求を刺激して煽っているのだ。
でも、普通の人は普通に就職するしか出口はない。
アタリマエのことだ。
こないだ書いた「理想中毒」にしても、同じこと。
それを授業でやっている人もいる。

就職の仕事をしているとき、学生が来て、卒業後は留学したいと言ってきたことがある。
どこに留学するのか?と聞くと、この研究をするにはケンブリッジが一番いいと先生が言ったから、ケンブリッジにしたいという。
英語が堪能なわけでもなく、成績が優秀なわけでもない学生だ。
まともに相談にのるのがバカバカしいほどのものだが、それでも、ケンブリッジ大学というのはどういう大学か説明し、まずは英語を勉強してから考えようと話した覚えがある。
そういうことを吹き込む教員もいるのだ。

形は違うが「世界に一つだけの花」の世界だ。
だれでもオンリーワンなど、ちゃんちゃらおかしい。

就活というのは等身大の自我を見つめ直して、そのいいところを見つけていく作業でもある。
それを阻害するのが、キャリアポルノである授業であったりする。

そういう先生にあたった学生は気の毒だと本当に思う。


| | 考えたこと | 20:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
チョーキング
昨日のレッスンに、昔ながらのロックのフレーズの譜面を持っていった。
どうもうまくいかないので、右手の運指とチョーキングのやり方を聞きたかったのだ。

チョーキングというのは、弦を押し上げて、音程を上げるという奏法。
弦の張力が上がるから、音程が上がるという仕組み。
だいたい中指か薬指でやることが多い。
先生はもともとロックギタリストだから、そのへんは得意だ。

どうもスムースに音程が上がらないとやってみたら、それは指の力を使っているからだ、という。
もっと手首を使えというのがアドバイス。
たしかに、そういうことが書いてある本もあった。
指の形は変えず、手首を回すことで弦を押し上げる。
何度かやっているうちに、ちょっとコツがわかった。

チョーキングの種類に、クオーター、ハーフ、フルの3つがある。
クオーターはブルースなどの感じを出すもの。
ちょっと音を上げるだけ。
ハーフチョーキングもその類だ。

しんどいのは音を全音上げる、フルのチョーキング。
音を上げて、下げるのはそんなに難しくない。
手首を回すことでわりと楽に音程は上がるようになった。
しかし、全音上げて、そこで止めて次の音に行くのは困難。

先生がチョーキングすると全音上がったところで音が止まる。
ぼくがやると、どうしても目的の音程から下がるところが聞こえる。
先生は上手に指を離して、その弦をミュートして音を消す。
全音上がって、次の音に行く。

音をいいところで消すのが一番難しい、と言っていた。
なるほど、そういうことかと思う。
押し上げた弦を下げる瞬間に止めるのだ。
慣れると、できるらしい。

まだまだできないことは山ほどある。

何事も精進だ。



| | 考えたこと | 21:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
外国人が日本に来てガッカリしたこと
外国人が日本に来てガッカリしたこと、という記事があった。
ぼくも初めての海外出張でベルギーに行って、有名な「小便小僧」を見た時に、なんやこれと思った。
言われなかったら、誰も気づかないだろう。
単なる噴水の添え物という感じだった。

日本に来る外国人もそういう思いがあるはず。
自分の国と比べて、イメージをふくらませていたら、ギャップがある。

インドネシア人は、日本人はみんなお金持ちで、お手伝いさんを雇っている、と思っていたとのこと。
今の日本はそれほど豊かでもないし、もちろんお手伝いさんを雇うなど難しい。

自炊が多いのに驚いたという人もいた。
インドネシアでは食事は外で買ってくることが多いらしい。
このあたりは文化だろうなあ。

IT面で遅れている、という指摘もある。
ニュージーランドから来た人は、銀行で通帳を作らされる、ということに驚いたということだ。
今は通帳レスもあるが、まだまだ通帳信仰は強い。
リモートワークで問題になっている、ハンコも強いからなあ。
若い人たちは、ネット世代だから、これからは通帳レスになっていくだろう。

カナダ人は、日本人は一生懸命働いているが、給料が安いことに驚いたという。
実際、カナダの方が円ベースで50万円ほどカナダの方が高い。
しかし、感覚的に少ないというのだから、手取り額が少ないのだろう。
日本の「みんなで働く」というメンバーシップ型の働き方は、効率が悪くなって、みんなで残業をしないといけない、ということにもなる。
実際、日本のホワイトカラーの生産性は低い。
だから、一生懸命働いても、給料は安いのだろう。

さらに、社会保障が働く人たちに重くのしかかっている。
カナダは日本より消費税が高いから、給与所得者は有利なのだ。
社会保障費にコミットしない政治家ばかりで、若い人は気の毒だと思う。

酔っ払いが道端で寝ているのに驚いたという人もいた。
寝ていても無事なのにも驚く。
治安がいいのか悪いのかわからない。
でも、日本人の酒に関する寛容さは異常だ。

日本人のムラ意識も指摘されている。
仲間になったら、優しく親切だけど、そうでなければ冷たいということだ。
これは本当だと思う。
アメリカやイギリスでは逆に見知らぬ外国人だから、本音はともかく親切という感じもあった。

さらに、毎日お寿司を食べると思っていたとか、みんなが柔道や剣道を習っている(これはぼくらの高校時代はどちらかが必修だった)と思っていたというようなものもある。
日本を知るきっかけが、お寿司であったり、武道であったりするのだろう。
現実は、そんなことはない。
日本は西洋化しており、今や小学生や中学生に人気があるのは、ヒップホップ系のダンスだ。
お寿司も、伝統的な寿司屋ではなく、回転寿司。
食事に大量生産のためのベルトコンベアを導入した、画期的な形式だろう。

海外での日本のイメージは、いまだに現実とだいぶ違う。
ドラマや映画などで舞台となったり、描かれる日本や日本人は、現実とずれている。
いまだに、特攻、神風、サムライ、武道、というような戦前のステレオタイプの日本人のイメージを持っているのではないか。

もう20年ほど前になるが、提携したアメリカの会社に行ったら、そこの人たちは「日本のビジネスマンは名刺交換をする」という講習を受けたらしく、うやうやしくぎこちない、儀式のような名刺交換をして回った。
なんとなく、彼らの日本人像は第二次対戦の頃から変わっていないのではないかと思った。

国としてのGDPは高いが、一人当たりになると下位になる。

日本はまだまだ変わらないといけないなあ。




| | 考えたこと | 22:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
部活の是正
文科省はようやく学校の部活に手をつけた。
まだ休日だけだが、意味あることだろう。
文化部が衰退してしまった原因の一つは、指導者がいないことと、多くの文化部は学校の宣伝に使えないということだ。
高校の新聞部など、大会はやっているが、全くマスコミには出ない。
そもそも、部活を学校の宣伝に使おうとするのが間違っているのだが…。

教員の長時間労働の是正の一環として、休日の部活動の関する業務を地域に移す方針とのことだ。
2023年度から段階的に実施する。

これで少しでも文化部が復活し、スポーツ偏重が是正されればと思う。

部活動を「必ずしも教員が担う必要のない業務」と位置付けたのは正しい。
あくまでもついででやっているものだろう。
まずは勉強を教えることが仕事だ。

公教育の充実は貧しくなってきた日本では必須。
塾にいけない生徒たちの学力を担保しないといけない。

ぼくがそれに気づいたのは、高校になっても割合がわからない生徒がたくさんいることを知ったからだ。
今の大学生のおそらく半分近くが割合の概念を持っていない。
これは恐るべきことだと思う。

90年代に分数がわからない大学生が問題になったが、文科省はそれをスルーした。
それどころか、ゆとり教育と称して余計な科目を作ったりして、現場の混乱を招いた。
結局、先生がそれに対応できず、単に学力が落ちただけ、という結果になった。

また、教員養成課程も全くいじらず、先生になるための能力的資質については全く変わらないまま、今に至っている。
やれ英語教育だ、プログラミング教育だと言っているにも拘らずだ。

ぼくは部活動などなくても構わないと思っている。
その分、地域でクラブを作ればいい。
やりたい生徒はそこでやればいいのだ。
学校とひっつけるからややこしくなる。
部活の指導がメインで、教えることはついで、という先生が増える。
全く本末転倒だ。
学校は部活のためにあるのではない。

今や聞いたことのない大学出身の先生も増えた。
文科省が教育に力を入れていない証拠だ。
割合の概念を持っていない先生も増えているのではないか。

極論かもしれないが、今の状況を見ていると、そう思う。

| | 考えたこと | 21:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
相馬に行く2 その3
今日は最終日。
相馬の工業団地を案内してもらって、文字島という観光スポットを見せてもらった。
N君は3日間の休暇を取ってくれて、案内してもらって、ありがたかった。

同時に、彼が5年目になる相馬でたくさんの人たちと知り合いになり、土地に溶け込んでいることに驚いた。
今日の昼の蕎麦屋のおじさんもそうだったし、相馬の道の駅でも声をかけられていた。
人口3万6千人の相馬市で、復興支援NPOでがんばったからこそ、それだけの声がかかるということだろう。
冗談で、市会議員にでも出たらどうかと言ったら、笑っていた。

60歳まで会社勤めをして、いきなり復興支援のNPOとは思い切ったキャリアチェンジをしたものだとつくづく思う。
そんなに給料が多いわけでもなく、見知らぬ土地に移って、小さなアパート暮らし。
アパートからNPOの事務所に歩いて行き、昼食はアパートに帰って食べるとのこと。
去年奥さんが関西に帰って、一人暮らしになった。

金より仕事のやりがい、というチョイス。

何人か、定年を迎えた彼の会社員時代の仲間も来てくれたとのこと。
そういう人たちは、ぼくと同じようにそういう人に会いたいと思って来ているのだろう。

一緒にきたS君も、70歳までは働きたいとのこと。
今は再雇用を選んではいるが、ぼくが再定年の65歳になってしまったらチョイスは狭まるという話をしたら、早めに次の仕事を見つけよう、と言っていた。

人生の黄昏はこれから。
まだまだ長い。

三谷清左衛門残日録の言葉を思い出す。

「日残りて昏るるに未だ遠し」

老いることすなわちまた生きることなり
いつの日か命果てぬとき来たらば
ありがたき心捧げて死を迎えん
されどいよいよ死ぬるその時まで
与えられし命いとおしみて
ひとすじに生き抜くべし

藤沢周平の世界。

ぼくも先のことを考えておこうと思う。

いろいろとお世話になりました。





| | 考えたこと | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
相馬に行く2 その2
今朝はホテルの朝食が美味しくて、全部食べてしまった。
9時にN君が迎えに来てくれて、出発。

いよいよ4年前に行った福島原発のある浪江町に行く。
前に比べると、だいぶ人が増えた。
帰還困難区域が解除されて、戻ってきている人も多い。
浪江駅の前やメインの通りは割と賑やか。

さすがに、原発には入れないが、今回はまず中間貯蔵工事情報センターに行く。
実直そうなきっと元は原発で働いていたと思われるおじさんが説明してくれた。

双葉町と大熊町にまたがった中間処理場は、渋谷区と同じくらいの面積があるという。
実際には1mSVの除染は科学的に本当に必要か、という議論もあるのに、そんなことは全く言わない。
原発事故を起こして、すまないという気持ちなのだろう。
ぼくが広島は原爆が落ちたのに、除染も何もしないで、今はなんともないんだから、今回の事故の放射能はそんなに大したことはないのですよね、と言ったら説明員のおじさんはちょっとにっこりした。

続いて行ったのが、廃炉資料館。
ここは元々エネルギー関係の点時間だったらしいが、それをリニューアルして作ったとのこと。
こちらも最初に見せてくれた映画で、やや卑屈なくらい東電の謝罪があった。
地元の人たちに対して悪いことをした、という気持ちなのだろう。
でも、関西から見学に行ったぼくやS君にとっては、違和感があった。
贖罪の気持ちはわかるが、そこまで卑屈にならなくても、と思う。
でも、そうしないとここでは生きていけないのだろうと思うと、ちょっと悲しい。
そういう東電の社員の人たちがたくさんいる、という話は聞いたことがある。

結局、国は東電に全部責任を押し付けて、逃げてしまった。
電力会社の罪がないとは言わないが、原発建設は国策でもあったのだから、仕方がない。
当時の東電社長、会長がコストをケチったことは悪だと思うが、それは法律で裁かれるべき罪かと言われると、そうではないと思う。
倫理的には罪だが、法的には難しいだろう。
もし津波が来なかったら、何の問題もなかったのだから。
あれを天災というのなら、無罪判決は妥当だと思う。

今日の見学は重かった。
夜はまた宴会。
N君へのお礼でS君と二人で支払った。

明日は昼を食べて、相馬を後にする。

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相馬に行く2の1
4年前に相馬に行った。
60歳で定年したのち、再雇用を望まず、東北の震災の復興支援NPOで働いている会社の後輩(年は上だが)のN君を訪ねた。

4年経って、彼ももう65歳。
これからどうするのか、話を聞きたかったのと、原発付近を見てくるのが目的。
考えたら、前回行ってから新幹線には乗ってなかったように思う。
東京に行く時はずっと車だったからなあ。

今回は贅沢に新幹線で移動。
仙台までなら飛行機の方が早くて安いのだが、電車の方が好きだから張り込んだ。

朝の新大阪も、新幹線乗り場も、圧倒的に人が少ない。
これでは経済が回復するわけがない。
新大阪を出て京都からは乗ってくる人もいない。
自粛の度合いと乗降客数は比例するのだろう。

東京で東北新幹線に乗り換えて、やまびこに乗った。
これも2割くらいの乗車率。
こんな状態やったら、リニアは保留だろうなあ。

そうこうするうちに仙台に着いて、鈍行で1時間。
飛行機できたS君と再会。
5年ぶりに会う。
S君は8月末で定年したところ。
再雇用で、まだ会社に行くらしい。

そして相馬でN君と再会。
半パンで仕事を休んで来てくれた。
聞くとNPOの事務所もリモートワークになっているとのこと。
世の中、もうリモートになっているのか。

ホテルにチェックインして、市内をまわる。
名所の神社、珍しい二宮尊徳が座っているところの石像、立ったら奈良の大仏より大きいという観音像など。
ぼくは2回目だったが、流石に4年間の歳月がN君の説明を上手にしていた。

そして、地震と津波の鎮魂記念館、観光協会、お土産の醤油を買いに行った。
ここでもさすがにN君は顔見知りになっていた。

そして、S君の定年退職の宴会。
4年前にも行った飲み屋。
魚が美味しくて、食べ過ぎた。

ぼくは酒の席で自分の大学での経験を話したが、それはわかってもらえなかったようだ。
仕方がない。
経験してないから、わからないこともある。

N君はいつまでもここで仕事をするつもりはないが…、と言っていた。
まだどうするつもりか決まっていない、ということだ。

60歳を過ぎて、どう生きるかは難しい。

ということで、また明日。


| | 考えたこと | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
理想中毒
若い頃、理想に走るのは若者の特権でもある。
身も蓋もない言い方をすれば、世の中の事を知らないから理想に走れる、ということだ。
しかし、大多数の若者はそういう理想を持たずに過ごすし、持っていても行動に起こさず、大人になるのだと思う。

大学で就職支援の仕事をしていたとき、大学間連携の団体で、世界平和を目指しているという活動をしているという学生と話したことがある。
働く目的は何か?と聞くと「世界平和の実現」という。
まあ、それは置いといて、もっと身近な目的は?と聞いても「世界平和」だという。
頭の中で「世界平和」が花園のようになっていた。

また、ゼミでCSR(企業の社会的責任)を勉強している学生もいた。
彼はCSRの担当を志望していて、企業で最も大事なのはCSRという考えを持っていた。
こちらも、まず利益を上げて、余裕ができた企業がCSR活動に力を入れるので、まずは利益を上げられる人が必要とされるのではないか、と言ったがなかなか聞き入れられなかった。

もちろん、どちらの学生も内定はなかなか出なかった。
企業の目的はまずは利益を上げることであり、慈善事業だけをやっているのではないからだ。

後者の学生については、ゼミの教員にどんな事をやっているのかを聞いたが、CSRが必要になってきた意味とか意義とか、なぜそれが大事か、というような事をやっているようだった。

年寄りが若者に対して理想を語るのは程々にするべきだと思う。
なぜなら、理想が現実になっていないのにはそれなりの理由があるからだ。
それが世にいう適法だがダーティーなビジネスの場合もあるし、商習慣として従来からやっている場合もある。

企業の存続のためには、まずは儲けることが必要だ。
正当な利益を得て、社員に給料を払い、株主に配当し、税金を払う。
法律を守って、それらを行っていれば、企業は存在できる。
それができる社員がほしいのだ。

大学は社会から隔離されているが故に、そこでずっと育ってきた教員は理想(ある意味では偏見)を持っていることが多い。
ステレオタイプで言えば「企業が儲けるのは悪事をしているからだ」というようなもの。
そういうことを教えている人もいた。

CSRなども同じこと。
あたかも、それが企業の目的のように教えている。
それに走った学生は、結局就職に苦労することになる。

大学のセンセイは社会から切り離された安全な場所で、収入は確保したうえで、理想を語っている、という現実をわかっているのだろうか。

少しは現実を知り、若い人に無責任に理想を語ることの罪を悟ってほしいのだが…。


| | 考えたこと | 00:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
9月になれば
今日から9月。
2016年の9月1日に「今日から九月」という記事を書いた。
2005年から12回の9月1日の記事をふりかえったもの。
我ながら懐かしい。

2017年は第九の練習の記事を書いた。
この年から、一万人の第九に参加した。
歌うことは楽しい、ということを思い出させてくれた。

2018年は高校野球のマーケットという題。
この頃から、高校野球のあり方について、疑問を持った記事を書いている。
これは高野連などの組織が形骸化しているのが悪い。
野球をビジネスにするのは悪いことではないが、それを高校野球と結びつけている。
これは良くないと思う。

2019年はエンジン技術者の記事。
車の電動化に伴って、エンジンが要らなくなって、どうなるのか、ということだ。
大幅に部品点数が減るということは、車が簡単に作れるようになるということ。
日本やドイツにとっては大変なことだろう。

前に戻って、2016年に書いた記事によると、2005年ディズニーランド、2006年円と正方形、2007年エヌサン、2008年バンドの寿命、2009年みたく、2010年人間模様、2011年つくつく法師、2012年小学校、2013年シトロエン、2014年学校は変、2015年いじめの調査2、という経緯。

別に9月の最初に意味があるわけではないが、学校法人に勤めていたときのほうが話題が広い。
2005年の5月に始めて、15年たった。
48歳から63歳。

これも、学校法人に変わって、時間に余裕ができたから書けたようなもの。
民間企業に勤めていたら、きっとこんなことはしていない。

仕事柄、大学についてのものが多いと思う。
民間から学校法人に変わって、いろいろびっくりした。

それだけでも、いつかまとめようと思うのだが、「いつか」と言っている間はムリだろう。

昔書いた「”いつか”はあるのか?」や、「年をとること」という記事を思い出した。

9月になったから、何かしないとと思う。
特に9月に意味はないのだが…。


| | 考えたこと | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0) |