考えたこと2

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NMB48
これは何だかわかるだろうか?

NMB48。

若い人は知っているらしい。

ご存知のとおり?、AKB48は秋葉原で生まれた。
だから、AKB(秋葉原=アキバ)なのだ。

このNMB48は同じような女性のグループ?だ。
難波が発祥の地。
同じように、秋本康がプロデュースしたらしい。

そして、SKE48。
これは名古屋の栄が本拠地。

つまり、東京、大阪、名古屋の3つの都市にAKB48のようなグループがいることになる。

これはスゴイことだ。
売れたらそのモデルをどんどん出すという流れ。

古くはおにゃんこクラブ、新しくはモーニング娘がそのモデルだろう。

このシステムの良さは、人の入れ替わりが自由にきくこと。
48人もいれば、少々入れ替わってもどうということはない。
人気がなくなれば、去るのみ。
年をとって引退する時の受け皿もできている。

こないだ、CDを買うと選挙の権利がもらえるという、AKB48で選挙があったらしい。
この選挙で何位か以内に入ると、AKB48として出演するテレビ番組などに多く出られるという特典がつくという。
したがって、ひいきの女性に投票するインセンティブが生まれる。
そして、CDを何枚も買う人が出てくるという寸法。

おにゃんこやモーニング娘と同じように、AKBもNMBもSKEも、そのうち消えるだろう。

歴史は繰り返すのだ。


| | 考えたこと | 21:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
肩こり
子供のころ、母が肩がこるというのが不思議だった。

肩たたきをしていても、これの何が気持ちいいんだろう、と思っていた。
ところが、20代の後半くらいになって、何となく肩がこるという感覚がわかってきた。
30になって、ついに肩こりになった。
肩たたきが気持よくなったのだ。

思えば、この頃から運動不足になった。
仕事でいえば、ずっと机に座っている状態。

やっぱり人間は動物だ。
動物は動かないといけない。
だから、動かないとどこか悪くなる。

肩こりがその代表的なものだろう。

その他にも、肥満気味になったし、脂肪肝にもなった。
尿路結石もその頃から出はじめた。

やっぱり動かないとダメなんだろう。
昔、ヒトは動いていないと食べられなかった。
食べるためには、狩りをしたり、植物を育てたりしないといけなかった。
その当時の名残だ。

動かないと生きられなかった時代のほうが圧倒的に長い。

だから、今のように一日机に座って仕事をするという生活は、身体を悪くする。

それはわかっているけど…。





| | 考えたこと | 01:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
賛否両論
グーグルで「原子力」を検索すると、中立、反対、賛成のサイトが出てくる。

中立のサイトはウィキペディアなどの解説サイト。
反対のサイトは反原発の団体。
賛成のサイトは、電機業界の関連。

たいがいのものは、賛否どちらかが優勢で、どちらかが劣勢になるので、グーグルの検索で1ページ目はどちらかになると思う。
しかし、この問題は特殊なのだろう。
賛否どちらもメジャーだ。

最近は、反対のサイトがクリック数を増やして優勢になっているのかもしれない。

ぼくは、日本人は原子力を扱うことはできないと思っている。
JOCの事故がそれを証明した。
あの事故の後の、どうなったかわからない、いい加減な対応がそれを決定づけたのだ。

しかし、だからといって、いますぐ全部止めるのが得策だとも思わない。
どちらかわからない、というのが正直なところ。

本当のことはいったいどこに書いてあるのか。
何が本当のことかすらわからない。

なぜフランスは原発をあれだけ持っているのに、止めようとしないのか。
そのフランスでは、人々はどういう理解をしているのか。
ドイツはなぜやめたのか。
やめて、エネルギーはどうするのか。

CNNやBBCを見るしかないのか…。


| | 考えたこと | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
暇になったら…
以前、いつかやるということは、やらないこと、というような意味のことを書いたような気がする。

まあ、いつか、ということは今ではないということなので、今やらないなら、やらないと言っても同じことだろう。
いつか、というのは自分へのいいわけみたいなものだ。

昔聞いたカセットテープに入っている音楽、落語、漫才をどうするか。
撮りだめたVHSや8mmビデオをどうするか。
数は少ないが、MDをどうするか。

そういうのを「いつか」暇になったら、やろうと思っている。
すべて、デジタルレコーダーに録音して、形のないものにしてしまう、という手だ。
まだ、今のところはやろうと思っているのだが、何となくもうあきらめようかな…、という気持ちが芽生えてきた。

いくつかの大事なものは、なくせないとは思う。
しかし、どうでもいいものも、ないことはない。

いくつかは捨て、いくつかはメディア変換するか…。
考えただけで、面倒になる。

残りの時間をそういうことに使うのは、もったいないような気もする。
ただでさえ、残り時間は少ないのだ。

だいたい、暇になったらといっても、それからやって、何になるのか。
やるなら、早いほうがいいのは当たり前だ。
それを、いつか、といっているのは、単に捨てるのを迷っているだけかもしれない。
そう思うと、早めになんとかしないといけない。

あんなもの、残された方は迷惑なだけだろう。

そう思うと、なあ…


| | 考えたこと | 00:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
ユーザーフレンドリー
クルマというもの、だいぶ昔と違う。

ぼくらが免許を取ったときは、まだまだパワーステアリングは高級車のものだった。
もちろん、ミッションはマニュアル。当時のオートマチックはまだ数%だった。

このパワステとミッションの違いは大きい。
今はパワステで止まったままでもハンドルはぐるぐる回せるし、バックや坂道発進でもアクセルを踏むだけでよい。
そのおかげで、車庫入れや縦列はかなり楽になった。
以前は、ギアをバックに入れ、クラッチをつなぎ、ゆっくり動きながらハンドルを思い切り回していた。
止まったままでは重くて回せない。
集中しないといけないのは、両足のコントロールとハンドルを切る量、クラッチを切ってブレーキを踏むタイミングだ。

ところが、今のクルマは楽になった。
止まったままハンドルは回せるし、使うのは右足だけでよくなった。
余計なことに神経を使わず、運転に集中できる。

これをユーザーフレンドリーという。

クルマはずいぶんユーザーフレンドリーになった。
パワステとオートマチックはその代表的なもの。

まだある。
EFIという技術のおかげで、チョークがなくなった。
昔は、冬の寒い時のエンジン始動のときは、チョークのレバーを引いて、ガソリンをたくさん送ってやる必要があった。
そんなことも不要になり、何も考えずにキーを回すだけでエンジンがかかる。
エンジンをかけるときに、アクセルの踏み加減を調整する必要もなくなった。

そのうえ、ナビをつければ、知らないところでも指示通り運転すれば近くまで行ける。
ずいぶん、楽になった。

これこそ、ユーザーフレンドリー。

今、免許を取る人はラッキーだ。

しかし、ぼくは昔の手のかかるクルマも何となく捨てがたい気がする…。


| | 考えたこと | 00:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
意味
よく子どもが「意味ない」と言ったので、そのたびに「そんなことは言うな」と言ってきた。

意味がない、という事を判断するには年齢が若すぎたからだ。
20歳を越えて、そう簡単に「意味ない」とは言わなくなった。
世の中にそんなにたくさん意味がないことはない、ということが分かってきたのだろう。

結論をいそぐのはよくない。
だが、暫定的な結論を持っておくのは必要だ。
それを心の中にとどめておく、というところが、オトナになるということ。

人間、経験を積むと、簡単に結論が出せないということがわかってくる。
ある程度の年齢が必要だ。

意味ないと思っても、いや待てよ、ひょっとしたら意味があるかもしれない、と一度は考えてみないといけない。
それが想像力。

たいがい、立場を変えると、意味がないことはない、というのが普通だろう。

それをどれだけ想像できるようになるか、がオトナになるということ。

ま、自分も含めてオトナになるのは難しいが…。


| | 考えたこと | 14:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
こだわりがない
本やCDの帯をとっておく人がいるが、ぼくは捨てる。

あれがあると、中古で売るときに値段が違うというが、中古で売ることを前提に本やCDを買わないだろう。
とにかく、ジャマなのだ。

本の場合は最初はつけておいて、しおりの代わりに使うという手もあるが、何かのひょうしに外れてしまったり、かばんの中で傷んだりする。
結局捨てることになる。

CDも曲の紹介や歌詞などは、中のブックレットに入っており、付けているとうっとうしい。
たまに、曲名が書いてあって、これはあった方が便利という帯もあるが、すぐに取れてどっかにいってしまう。
レコードの帯も捨てていた。

結局、帯がついているのは、ない。

面倒くさい、という意識が先にたってしまう。

こういうものにはこだわりがない。

なぜだろう…。

少しはとっておきたい気がするのだが…。


| | 考えたこと | 01:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
妥協 その3
妥協という言葉、いつの間にか好きな言葉のひとつになっている。

今日書こうと思って昔のを調べると、妥協が2つも出てきた。
覚えていたら、2回目にはその2とつけたのだが…、今回はその3になる。

妥協をするというのは、最も人間らしい高度な判断だと思う。

ただただ譲るのではない。
妥協というのは、ここまでは譲る、でもここまでだ、という判断。

また、違った方向から光を当てて、枠組みを変えるということもある。
妥協をするためには、何らかの考えかたの転換が必要だ。

人は思い通りにならない。
それは当たり前のこと。
その思い通りにならない人が、また色々なしがらみを持って交渉している。
それに対して、うまく自分の土俵で勝負しようというのが、妥協というもの。
たまには相手の土俵に乗ってみなければいけなかったりする。

枠組みを変えるというのは、そういうふうに膠着したときのワザ。

しかし、妥協ができるときというのは、双方が努力したときだ。
片方だけでは無理。

もしも片方が努力を放棄して、自分の主張に固執するなら、それをやめさせることが第一。
しかし、それなりの努力をしてもダメなら、あきらめるしかない。
あえて決裂するのも必要だろう。

しかし、たいがいの場合、双方が努力して妥協が成立するのが大人の世界。

それが、どうしてもできないというのが、子供の世界。

今の政治は子どもの世界だろう。


| | 考えたこと | 01:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
アトム
アトムがいたら、助かるだろうなあ、と思うのが大震災。

アニメのように、飛び回って、がれきなどすぐにまとめてしまう。
そして、それを宇宙に持っていって、捨てる。

手塚治虫が生きていたら、そんなストーリーを描いただろうか。
それとも、そんなに単純なストーリーは描かないだろうか。

アトムは天馬博士が亡くなった息子の代わりとして作ったロボット。
本物の息子ではない、ということで天馬博士は去る。
それで、お茶の水博士のところにいる。

そういう誕生の秘密がある。
あの頃は、そんなことは考えなかったが、考えたらかわいそうな生い立ちだ。
生みの親から拒絶された子ども。
それがアトム。
人間よりも人間らしい心を持っているロボット。
だが、アトムが泣くところを見たことはない。

そういえば、アトムはぼくらのヒーローだったが、アトムになりたいとは思わなかった。
スーパージェッターにはなりたいと思った。
その違いは、アトムがロボットだからか…。

そう思うと、不憫なロボットだ。

手塚治虫は、子どもたちはアトムをヒーローだと思うが、アトムになりたいとは思わないということを計算して描いていたのか。
誰もがそうなのかはわからない。

でも、ぼくはアトムになりたいとは思わなかったと思う。

だから、テレビシリーズの最期は、アトムがロケットを持って、太陽に突っ込んでいくというスジだったのか…。

手塚治虫が生きていたら、聞いてみたい。




| | 考えたこと | 22:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
エネルギー
地球上にはいろんなエネルギーがある。

ひとつは石油だ。
燃やすと、酸素が入って、分子の結合が変わり、熱エネルギーが出る。

石油の化学反応の熱エネルギーによって、自動車を動かしたり、発電をしたり、いろんなことができる。
ただ、その時に発生した二酸化炭素が多くなると、ちょっと困ったことが起こる。
地球温暖化だ。(ただ、本当に二酸化炭素のせいかどうかは、まだわからないらしい。)

二酸化炭素は植物が取り込んで、酸素になって出てくる。
その過程で、植物が成長するためのエネルギーができる。
これが光合成というやつだ。
この植物が持っている化学変化は効率も高く、いまだに人間にはマネができない。

しかし、植物は減るわ、燃やす石油は増えるわで、地球上には二酸化炭素が増えている。
産業革命以来、人間はたくさんの石炭と石油を燃やしてきた。

そんな人間の営みなど、自然から比べたらたいしたことはない…、と思っていたのに、今や地球規模で影響を与えるようになった。

温暖化で、北極の氷が溶けているらしい。

そのうち、日本も温暖化で海面が上がり、沈んでしまうかもしれない。
そんなことは、地球規模ではたいしたことではないだろう。
だいいち、大昔は5つの大陸がひとつにまとまっていたのだ。
パンゲアという大陸。

5つの大陸に分かれるときには、何度も大きな地震や津波があっただろう。

そんな地球の歴史を考えると、言い古されたことだが、人間などちっぽけなものだと思う。
地球の覇者になって、我が世の春を謳歌しているが、所詮2000年くらいの話。
地球の年齢は、40億年ほどだから、2000年などほんの一瞬だ。

これから先、どうなるかはわからないが、世界はいつかなくなる。

しかし、エネルギーはなくならない。

形のないものは、強い。


| | 考えたこと | 00:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
グーグルの日本語変換
グーグル日本語入力というのを使っている。

変に日本語を漢字にしようとしないところが気に入っている。
サジェスト機能というのがあって、途中まで打つと候補が示される。
携帯と同じだ。

なかなかよく出来ている。
これが無料とは、すごいことだ。
これも、日本がそこそこ大きな市場だからだろう。
どこの国の言語でも、変換ソフトを作っているわけではないはずだ。
これも日本という国の国力のおかげ。
いつまで続くかわからないが…。

マイクロソフトのIMEよりも使いやすいと思う。
ずっとATOKを使ってきたが、ぼちぼち変えても良いレベル。
だいいち、ATOKは売り物だ。

売り物と比較するのは気の毒だが、ATOKはちょっと重装備になりすぎた。
辞書と連携するとか、スペルチェックや正しい日本を使うための機能など、便利ではあるが、ちょっと重い。
それよりは、グーグルの日本語変換を使うほうがいいかもしれない。
郵便番号も、入力すれば住所が出てくるし、ぼくにとっては変換効率が高い。

何でもグーグルになっていく。

何かをタダで作り、それを広める。
それによって、どういう利益が生じるのか。
Gmailを使い、グーグルカレンダーを使い、Youtubeを見て、グーグルEarthで地球をみる。
そういうユーザーが増えてきている。

何でもタダだ。

不思議な世界。
| | 考えたこと | 01:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
なんとか力
土曜日の朝はゆっくりできる。
朝刊を読む暇がある。

ゆっくり読めるときは、新聞の下の方の本の宣伝に目がいく。
最近増えてきたタイトルが、「なんとか力」というもの。
今朝は「本番力」という本があった。
昔はそんなタイトルはなかったのだが、ここ数年増えてきている。

本番に強くなるという意味で、本番力。
よい質問ができるという意味で、質問力。
その他にも、鈍感力、人間力、コミュニケーション力、読書力、地頭力(「じとう」ではない、「じあたま」だ)、問題解決力、チームワーク力などなど。
なんとか力の種類は増え続けているようだ。

ややこしいのは、おおかたの本はこの「なんとか」が伸びるという、ノウハウ本である、ということである。

人間力などは、そもそも何を表しているか、わからないが、それでも「人間」を良くしようとしているのだろう。
コミュニケーション力は、コミュニケーションを伸ばそうとしている。
それは、それでいいのだが、例えば「コミュニケーション力」を伸ばすためには、また別の「なんとか力」がいるということだ。

コミュニケーション力をつけるためには、相手の立場を思う「想像力」や、自分のことをわかってもらうための「表現力」、相手とうまくやるための「信頼」を築く力、自分と相手の意見の違うところや同じところを見つけるための「分析力」、自分と相手の立場の全体像を知るために全体を俯瞰する力、そして、双方とも納得するための意見を出す「説得力」「提案力」といったものが必要となると思うし、もちろん「妥協力」もいるだろう。

そんなものは、一朝一夕では身につかない。
そういう立場に身を置いてからでは、遅いのだ。
ノウハウでごまかせるものではない。
そういうことを理解していないと、単に挨拶をするとか、人の目を見て話す、聞くとか、人の意見を聞く態度とか、そんなものがコミュニケーション力だと思ってしまう。

コミュニケーション力について書いている人は、それ以前に必要な力をつけているのだろう。
ところが、それ以前に必要な力をつけていない人にとっては、少しは役に立つだろうが、本当に役にはたたない。
そもそも、コミュニケーション力という言葉自体が矮小化されたものだし、ノウハウというのは、所詮それだけのものだ。

意味がない、と言っているのではない。
たとえば、コミュニケーション力についての本を読んでも、本当の力は別のところでつけないといけない、ということだ。

そういうものが多すぎる。
早く答えがほしい、というのは現代人の風潮である。
とにかく、早く、効率的に、ということが至上命題になる。

すでに多くの人々が書いているが、どんな力も簡単につくものではないのだ。
自分が生活してきた歴史や環境の集大成なのだと思う。

そう言ってしまえば元も子もないから、「なんとか力」は増えつづける。



| | 考えたこと | 20:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
ふしぎな少年
ちょうどテレビがウチに来たころ、NHKでやっていた番組。
ふしぎな少年という、手塚治虫のマンガをもとにしたもの。

これを実写でやっていた。
実際の人が演じているということ。
この主人公が「時間よ〜止まれ!」というと、時間が止まったのだ。

さすがに1961年だから、4歳だったぼくは、時間が止まるというのはフィクションだとわかっていたと思う。

というのは、実際に時間が止まるのはテレビの中だけだったし、おまけにこれは生放送だった。
ということは、実際に止まっている人は大変だった、ということだ。
主人公が「時間よ〜止まれ!」と言ったら、止まらないといけない。
変な格好をしていたら、大変だ。
子供心に「あ、こいつ動いた」という出演者もおり、みんな必死だったのだろうと思う。
そういう意味でも、すごいドラマだった。
おそらく、もう少し年をとった人は、このドラマは違う意味で面白かったはずだ。

もちろん、ぼくはまだ子どもだったから、時間を止める少年にあこがれた。

しかし、今になって考えると、どうもおかしい。

時間が止まるということだが、どの範囲で止まるのか、わからない。
地球上の時間が止まるということになると、地球の自転を止めないといけないから、大変だ。
自分の回りだけだとすると、その境界はどうなるのか。
どこかに、止まっている人と、動いている人が共存しているところがある、ということになる。
しかし、当時は純粋に面白かったし、今でも「時間よ〜止まれ!」というセリフは覚えている。

そんなことを真面目に考えてはいけないのだろう。

しかし、あの当時、そういうマンガを描いていた手塚治虫の発想には脱帽。

やっぱり、世界の手塚だ。
| | 考えたこと | 23:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
ボイスレコーダー
ボイスレコーダーというもの、日進月歩である。

容量は数ギガバイトだが、録音モードが何種類かあって、当然音質がよくなるほどデーターは大きくなる。
MP3という形式で、圧縮率が高いものから、低いものまで選ぶことができる。
それに加えて、最近のものはPCMという形式で、CDと同じレベルの録音もできるようになった。

もちろん、小型のものはマイクロホンが小さく、センター、LEFT、RIGHTと3種類あるものや、センター抜きの2種類のものがある。
主に、会議や対談の記録に使う目的で当初販売されていた。

ところが、どんどん容量が大きくなり、用途も増えてきた。
生の音楽や鳥の声などを録音するために、高機能の製品が出てきたのだ。

もともと、ボイスレコーダーはサンヨー、オリンパス、ソニーあたりがメジャーだった。
小さくて、性能がよく、長時間録音できるというのが売り。

しかし、高級品はローランドやティアック、コルグといった音響メーカー、楽器メーカーが作っている。
もちろん、ソニーも作っているが…。

昔、テープレコーダーを使っていたのが夢のようだ。
最初はオープンリール。
次にカセット。
そして、デジタル化の波が来て、DVテープ。
次にMD。

ようやく、ボイスレコーダーになる。

メモリ素子に直接書きこむので、可動部分がない。
だから、マイクを内蔵しても、運転音がない。
えらいものだ。

この間、約50年。

これでおそらく終わりだろう…、と思っているとどんな進歩があるかわからない。

でも、ぼくが生きている間は、もう変わらないだろう。
| | 考えたこと | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
一人称
どういう時に、どういう一人称を使うか、日本語の場合は難しい。

一人称の種類が多いからだ。
これが日本語の特徴かもしれない。

わたし、ぼく、俺が標準的な男性の言葉。
わい、わし、あて、というような方言もある。

フォーマルな場所で、社会人としてふるまう時は、わたしを使う。
このあたりは、会社勤めをしているかどうかが、わりと関係する。
一人でやっている仕事などでは、わたし、というのを使わないケースもある。

友達の間では、ぼく、俺、というのが多い。
飲み会などでは、特にそうだ。
ぼく、というのは、くだけ過ぎず、おさまり過ぎず、好ましい一人称だと思う。

俺というのは、オレオレ詐欺というのもあるように、知っていて当たり前、という間柄で使う。

まあ、目上の人にはわたし、と言っておいて、目下の人には俺、というパターンもよくある。
○○さん、と呼ばれたら、俺か?と返すパターン。
日本語は上下関係に敏感だから、さん付けで呼ばれると、自動的に俺とかぼくになる。
逆に○○、と呼び捨てで呼ばれると、私ですか?という反応になる。

この調子で、古文では主語がなくなることが多かった。
使っている言葉で、目上か目下かはわかるからだ。

ぼくは、このブログでは、ぼくを使う事にしている。

ぼく、というのが一番ぴったりくるからだ。

そう考えると、西洋の言葉は一人称がほぼ一つ。
英語ではIである。
大統領でも、乞食でもI。

どっちにも、良さがあるが、この一人称の種類がほぼ一つ、というところから、人間関係も変わってくるだろう。
やはり、英語では、どちらかというと、上下関係を意識しにくいのだと思う。
人は、神の前では平等、という考え方と無関係ではないと思う。

日本語の場合は、自分がはっきりしない。
だから、一人称がたくさんある。
時代と共に変わっていく。
だから、自己主張が弱くなるのではないか。
回りに気を使って生きている。

一長一短だ。

以前は英語の潔さにひかれていたが、最近は日本語の良さも捨てがたいと思う。

年をとると、変わってくるのだろう。


| | 考えたこと | 22:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
木枯し紋次郎
一世を風靡した時代劇。

木枯し紋次郎。
いつも長い楊枝をくわえていて、「あっしには関わり合いのねえことでござんす」というセリフが有名。
剣は強いが、型はめちゃくちゃの喧嘩剣法。

笹沢左保の原作だった。

当時、時代劇にしてはニヒルな主人公。
世の中を拗ねているような、無宿者という設定。
関わり合いがない、といいつつ、結局は情にほだされて人のために何かしてしまう。

素直ではない。
そんな美学があった。

テーマソングが上條恒彦の「誰かが風のなかで」だった。
この曲も、時代劇に似合わないギターのイントロの曲だった。

中村敦夫の出世作。
何もかも型破りの時代劇。

それが1972年。

生きているってことは、さびしいことだねぇ、というドラマだった。


| | 考えたこと | 22:43 | comments(3) | trackbacks(0) |
地磁気
地磁気というのは、地球の持っている磁気。
これのおかげで、地球上ではコンパスが北の方向を指す。

この地磁気の歴史的な研究によると、地磁気のN極とS極が入れ替わることがあるらしい。

そんなことがあるとは、信じられないが、古地磁気学という学問で調べた結果らしい。

今、地磁気が入れ替わったらどうなるのだろう。
磁石が南を指す、ということになる。
地磁気を基準にして、動いているものがたくさんあるだろう。
それがみんな狂うことになる。

それよりも、怖いのは地磁気の逆転期に一時なくなることだ。
地磁気は太陽からの電磁波を防いでいる防波堤の役割をしているらしい。
それが一時でもなくなると、大量の電磁波が地球に直接あたってしまう。
そうすると、あらゆる電気が止まるという。
変電所やインターネットは全滅だ。
人工衛星やGPSシステムも壊滅だ。

現代社会が一度に終わると言ってもいいだろう。

一説によると、前回の地磁気逆転から十分な時間がたっており、いつ起こっても不思議ではないらしい。

そのきっかけも不明だ。

そんなことを考えていると、人間がなぜ生きているのか、不思議になってくる。

それでも、日常生活は続いていく。




| | 考えたこと | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
マークシート試験
マークシート試験というやつ。

ぼくらの頃はなかった。
共通一次試験から採用された。
昭和52年からだ。

最初はだいぶ叩かれたみたいだが、それでもやり続け、今に至っている。

もう今はそれに対する批判もだいぶ減った。

しかし、子供の試験を見ていると、やっぱりこれはあかん、と思う。

小林秀雄が、昭和40年代の講演で、言っている。
今の先生は答えを持っていて、それを隠して、当ててみろというふうにやっている。
マルだバツだというふうに、答えを当てているのが今の教育だ。
そのほうが先生が楽だからだ。
それは、考えることではない。

ネットでさがすと、昭和61年11月6日に国立大学協会入試改善特別委員会という会が書いたものがあった。

現在、共通第1次学力試験は 30 万人をこえる受験生を対象とし、しかも、その採点を正確かつ短期間に行わなければならないという制約があるので、出題は客観テスト形式を、解答はマークシート方式を採用している。このことについて、表現力や思考力を充分にはみられないという批判もある。
しかし、客観形式のテストは、評価方法の近代化、合理化に伴って取り入れられた方法であり、解答のマークシート方式をあわせて採用することによって公平性、迅速性、正確性が向上し、解答の大量処理に優れているばかりでなく、出題の工夫によっては教科・科目に関する知識を総括的、体系的に、幅広く検査することも可能であると思われる。客観形式及びマークシート方式にはこのように優れた面を有する以上、一概に否定し去るだけでなく、むしろ現行のこれらの形式・方式を維持しつつ、その内容の充実に努めるとともに、各大学においても第 2 次試験に論述式試験を取り入れる等の工夫をすることの方がより現実的であると考えられる。

やはり、マークシートを使う一番の目的は、「合理化」だ。
たくさんの答案を処理しようと思うと、これしかない。
人間が一つ一つみなくても、機械を通すと採点ができるからだ。
だから、この類の選抜をやる限りは、マークシートはしかたのないことだ、というふうに読める。
そして、それを2次試験で論述試験をやることで補完せよ、と言っている。
それなら、わかる。

2次試験での論述、というのがあることが前提で設計されている。

つまり、足切りのためだ。そうであるべきだ。

しかし、今の現実をみると、多くの入試がマークシートのみでやられている。

これでいいのか。

決定的なのは、マークシートでは0点をとるのが難しいが、論述式なら簡単だということ。

また、部分点も論述式ならつけやすい。

少子化の現代、統一テストをマークシートでやって、各大学には論述式を義務付けてはどうか。

「合理化」というのは、最も教育から遠い言葉だからだ。




| | 考えたこと | 23:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
中華思想
京都には中華思想がある、ということをどこかで読んだが、それはその通りだと思う。

学生時代を京都で4年間過ごしたが、その時は住みやすいところだと思った。

それはなぜか。
本当の京都の人は、学生とはまったく交わらないからだ。
学生とは、お金を落としてくれる、よその人ということ。
何年かで出ていってくれる人。

ところが、そこに住むというのは大変だろう。
元々の地元の人たちとは、付き合うのはシンドイ。

そこで出てくるのが、中華思想。

つまり、京都の人は京都が一番だと思っているということ。
うなぎの寝床みたいな、京町家を改造した店をありがたがったり、たいしてうまいこともない豆腐や野菜などをありがたがって食べる。
木造2階建てで、2階がちょっと傾いているような店も、風情があるという。
ぼくがよそ者だと知っているから、そういうのか、それとも本当にありがたがっているのかは知らない。

祇園祭の時など、喫茶店の値段が倍以上になるのも京都らしい。
滞在時間も上限がついたりする。
よそから来る人からは、徹底的に金を取る。
悪く言えば、京都人ではない他国人だと考えている。

新京極の商店街はいつの間にか土産物屋ばかりになった。
修学旅行生や外国人をあてにして商売をする。

規制が厳しいのも、よそのものを排除するという事だろう。
神社仏閣が多く、建物の高さや看板の色に規制がある。
だから、京都だけロゴの色を変えているという会社もある。

四条河原町の通りは、いつの間にかパチンコ屋ばかりになった。
観光客が多いところなのに、どうしてだろうか。
まあ、看板の色と高さの規制はクリアしているのだろう。

言っておくが、これは、悪口ではない。

それが、京都の特徴であり、良さでもある。

ぼくには悪いところしか見えないが…。


| | 考えたこと | 17:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
節電
今朝の新聞に、関電も15%の節電と書いてあった。

いよいよ東北関東大震災の影響が出てきた。
まだ福井の検査中の原発は止まっており、順次止まっていくらしい。

国の方はいつになったら、方針が出るのだろうか。
とりあえず、菅直人は退陣するらしいが、その後を決めるのにまた一悶着ありそうだ。
こんな事をやっていていいのだろうか。

工場で電気が止まったら、どれだけの不良が出るか、分かっているのだろうか。
ラインが予期せずに止まるということが頻繁に起こると、仕掛りの製品が出る。
その仕掛りの製品の止まり方によっては、それはもう売り物にならない。
それどころか、間違えて売ってしまったら、えらいことになる。
そんな製品もある。

おまけに、電気のコストが一時的にせよ上がる。
それは製品の値段に転嫁されるだろう。
エネルギーのコストはあらゆるものにかかってくる。
それでも、日本で作っているならまだましだ。

これを機に、海外移転するところも出てくるだろう。
高い法人税、高いエネルギーコストなら、仕方がない。

そういうものをわかった上で、対策を早急に考えるのが政府の役目だ。

だいたい、原発の安全基準の見直しはいつやるのか。
危険だから止めるというのではなく、危険だからこうしたら動かしても良い、という方向に進まないと、どうにもならない。
ぼくは原発は将来的にやめるべきだと思うが、それが無理なのもわかっている。
今まで、そういう道を選んできたのだ。
たしかに、国や原子力で食っている人たちが、意図的にミスリードした面もあるだろう。
しかし、ぼくらはダマされてきたのだ。

東海村の事故の時に分かっていたはずだ。
バケツに放射性物質を入れて、臨界状態になりかけた事故。
あの時に、日本人には原子力を使うだけの知恵がないと思った。

とにかく、当座は仕方がないと思う。

でも、電気は必要だ。
生産にも、消費にも。
電気が止まると、その活動も止まる。
オール電化にしたところは、何もできない。

もし地震が起こらなかったら…、原発は使い続けられていたはずだ。
地震がその怖さを教えてくれた。

だから、もっと慎重に原発を動かすべきだ。

自然エネルギーへの置き換えや、LNGの利用は進めればいいと思う。

しかし、今はどうなんだろうか。
ベストな道を選べないのだろうか。
もう3ヶ月経った。

まだ安全基準は決まらない。
暫定でもいいから、決めるべきだ。

それが必要だと思うのだが…。


| | 考えたこと | 02:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
今日のグーグル
今日はグーグルのトップページのロゴがギターのようになっていて、弦をはじくと弾けるようになっていた。

何でかなと思ったら、今日はレスポールの生まれた日。
それを記念して、グーグルのロゴがエレキギターになっていたのか。
単なるエレキギターではなくて、サウンドホールが2つあって、ブリッジも2つある。
何となく多重録音を始めた、ギタリストであり、エンジニアでもあった、故レス・ポールをイメージさせるようなデザイン。
もっと、何か隠された仕掛けがありそうだが…。

レスポールというと、エレキギターを弾く人が一度は通る道だ。
ハムバッキング・ピックアップという、太い音が出るものを使う。

元々はノイズを打ち消すために、2つのコイルを使って工夫されたピックアップだったが、今はどちらかというとパワーが大きいという事で使われているような気がする。
どちらかというと、ハードロック系のギタリストが使っているのではないか。

このギター、普通のギターとはだいぶ変わっている。
ネックがボディに対して約3度という角度でずれている。
そして、ネックに対して、ヘッドの角度が15度くらいついている。
したがって、弦のテンションが高くなる。
要は、レスポールはボディ−ネック角度、ネック−ヘッド角度をつけることで、弦に高いテンションを与え、「鳴り」を良くするという工夫をしている。

それに対して、フェンダー社のギターは全て角度はゼロ。
まっすぐに弦を張る、というポリシーだ。

そのため、レスポールは調整する部分が多く、ややこしいギターでもある。

ぼくも、このギターがかっこいい、と思った時期があった。
そして、京都の十字屋の成人式セールで1万数千円でレスポールのコピーモデルを買った。
ニセポールというやつだ。
黒のレスポール。

うちの次男もやはりその口だった。
1台目のギターにレスポールを買うという。
一応、ぼくは、「今はシングルコイルの音の方が流行りだし、フェンダーのモデルの方がいいのではないか」とアドバイスしたが、若気の至りで買った。
そして、今はストラト(フェンダー社のギター)モデルにしておけばよかった、と言っている。

ぼくは次男がギターを買った時の気持ちもわかるし、今の気持ちもわかる。
誰もが通る道ではないが、ぼくと同じ道だ。

レス・ポールは亡くなってしまった。
享年94歳。
今の、空洞のないエレキギター(ソリッドギター)の名作を作った。

グーグルを見て、思い出した。
なかなか粋なはからいだと思う。



| | 考えたこと | 00:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
LEDライト
懐中電灯というと、古い言葉だが、これは今でも通じる。

台風の時はこれが必需品だった。
昔はよく停電したものだ。

最近はこれもLEDになりつつある。
光量がスゴイのだ。
通販で2000円くらい出せば、80ルーメンくらいのLEDライトが買える。(80ルーメンというと、かなり明るい)

帰りが遅くなるので、一つアマゾンで買った。
それを買ってみて、分かったことがある。

よく、ドラマでアメリカの刑事が片手でライトを持って、拳銃に添えているのを見る。
もちろん、暗いところを照らすのも目的の一つだと思う。

しかし、それだけではない。
80ルーメン程度のライトでも、顔を照らされると、めちゃくちゃまぶしいのだ。
当然、網膜に白い残像が残る。
つまり、目くらましになる。

ロスの警察ではペリカン7060というのを使っているらしい。
もちろん、数万円する。
明るさは130ルーメン。
これで顔を照らされたら、しばらく前は見えないだろう。

しかし、LEDができて、数十年。
最近の進歩はすごい。
白熱電球型のLEDや蛍光灯型のもある。

この東北関東大震災で節電が言われているので、各メーカーともに力が入っているのではないか。
また、電気自動車の消費電力を小さくしたり、ノートパソコンの画面のバックライトや薄型テレビのバックライトにも使われている。
うなぎ登りで需要は増えているのだろう。

東芝が白熱電球を作るのを止めた、と宣伝している。

でも、LEDライトの競争は、コストと品質の消耗戦かもしれないなあ。



| | 考えたこと | 00:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
最近の結婚式
June Brideという言葉がある。
6月の花嫁。

日本では6月は梅雨の季節であまりいい季節ではないが、西洋では6月の花嫁は幸福になるという。

だからかどうかは知らないが、こないだの日曜日は、職場の後輩の結婚式だった。
最近の結婚式は、仲人を立てない。
昔なら、仲人がやっていた新郎新婦の略歴は司会が話す。
そして、最初の挨拶は本人たちがやる。
マイクを持って、新郎新婦席で直接話す。
2人で並んで座る。
そして、主賓の挨拶、乾杯の発声、と続き、宴会となる。

服装も、男性は礼服が少ない。
普通のスーツであったり、もう少しカジュアルな服装であったりする。

形式ばっておらず、純粋に楽しもうとしているようで、ぼくらは少し面食らう。
でも、その無邪気さがよいのだろう。

友達が出てきて、みんなでどこかのグループの振りつけをして踊り、そして最後に一人ずつ話す。
こういうパターンは昔からおなじみ。

芸達者な人たちが、歌を歌ったりする。

これはこれでいいと思う。

しかし、しかしである。
ぼくらの頃の披露宴は、もう少し儀礼的だった。
それがいいとは言わない。
フランクにやるのはいいことだ。
でも、ぼくらの頃の披露宴は、少し荘厳さがあった。
最初はもっと重いのだ。

そういう重さもあっていいのではないか。

昭和40年代の講演会のCDを聞くと、「姿勢を正して、起立、礼」という司会者の言葉が入っている。

ふーん、そんな時代もあったのかと思う。

世の中がだんだん軽くなっていく。

何が悪いとは言わないが、何となく寂しいような気がするなあ。


| | 考えたこと | 23:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
プロレタリアート
プロレタリアートという言葉、聞かなくなって久しい。

労働者という意味だ。
マルクスが使った言葉。

その対になるのが、ブルジョアジー。
資本家という意味。

ぼくらの10代の頃は、そんな言葉がよく使われていた。

マルクスの資本論という本は有名だった。

唯物主義とか、唯物史観という言葉もそれにひっついて言われていた。

ぼくらの先輩、ちょうど団塊の世代の人たちは、一番流行った世代だったと思う。
学生運動という言葉も、それと同時に使われた。

朝日新聞が中国礼賛をしていたころ。
毛沢東の全盛期だった。
高校の社会の先生も、中国やソ連びいきで、ことあるごとに共産主義をほめていた。
今から思うと、かなり偏向した先生だったが、当時はそんな先生が多かったと思う。

当然、ぼくらも左寄りになった。
左翼というわけではないが、当時は左寄りの生徒は多かったはずだ。

ところが、ぼくらが高校のころから、内ゲバというのが流行った。
内ゲバとは左翼の内輪もめのこと。
鉄パイプで殴り合いをして、殺される人もでた。

それで、学生運動も下火になり、ぼくは覚めた。
そんな学生時代を過ごして、社会人になって、30代のころ山本七平の本に出会い、今までの自分がオカシイと思った。

今はその延長上にいる。

でも、当時は世の中をはかるのに、右か左かという軸があってよかったと思う。
自分の場所がわかったし、共通の価値があった。
それが、自由だ。

世の中はすでに自由だったが、それでも自由が価値だった。

ひるがえって、今、共通の価値は何だろう。
それはカネだろう。
老後の社会保障だとか、医療保険だとか、あの当時自由を価値だと思っていた人たちが変わった。

どういうことだ…。


| | 考えたこと | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
太陽系
太陽系ができる過程がシミュレーションされていた。

科学者によると、チリやガスがたまっているのが集まって、太陽や惑星ができたということらしい。
チリやガスが多すぎたり、少なすぎたりすると、今のような太陽系は出来ていなかったという結果。

要は、この太陽系は非常に稀なものかもしれないということだ。
太陽系は、水星、金星、地球、火星という比較的小さな岩石型の惑星が太陽の周りにあって、その外側に木星、土星という大きなガス惑星がある。
その外側の大きなガス惑星によって、生命が地球に生まれた、というもの。
主に、巨大な惑星は、小天体を引きつけ、地球に衝突するのを防いでくれたらしい。

しかし、なかなかそのタイプの系は見つからないらしい。

ただ、星の数は、それこそ星の数ほどあるので、それが珍しいとしても、きっとあるだろう、という。

気の遠くなるような話。

一日や一年という単位などほとんど意味がない。

そして、今から30億年後に天の川銀河はアンドロメダ銀河と合体するらしい。

合体、というと聞こえはよいが、要は衝突だろう。

その時、いったいどうなるのかはわからない。

しょせん、ぼくらが生きているのは、ほんの一瞬だ。
天文学というのは、ちょっと時間のレベルが違う。

そんな研究をなぜするだろう。

それは、人間がどうして生きているのか、それを知りたい、ということかもしれない。


| | 考えたこと | 21:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
体育祭 2011
今日は高校3年の次男の体育祭に行ってきた。

今年で最後。もう終了だ。
長男の保育園の時から数えると、18年くらいか。
ようやく兄弟ともに運動会、体育祭は最後になった。

一番体力的にしんどいのが、幼稚園だった。
親も出ないと、時間が持たない。

小学校に入ってからは、見ているだけで済む。
6-3-3で12年。
一番ビックリしたのは、長男の小学校1年の運動会。
こんなに様変わりしたとは思わなかった。

男女平等だから、女子も騎馬戦をやるし、男子も踊りをおどる。
大差がつかないように、かけっこはタイムを測ってから組を決める。
1等、2等は低学年にはない。
アナウンスで無理やり盛り上げる組体操。

これは驚いた。
これが戦後の民主主義教育のなれの果てか‥。
過平等主義。

何かがおかしい。

世の中が絶対平等であるはずがない。
ぼくらは自由競争社会に生きている。
平等なのは「機会」である。
それすら守られない場合があるのだ。

なのに、こんな運動会をやっていたら、日本はダメになるぞ…、そういうことを教えてくれた。

それももう終わり。

歴史は繰り返すというが、うちの息子たちも、またぼくと同じように子供の運動会に行って、驚くのだろうか…。


| | 考えたこと | 21:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
リフレッシュ工事
毎年この季節になると、名神のリフレッシュ工事がある。

豊中から、京都南まで、1車線を工事用の車両が占め、実際に工事がある。
そのため、通勤に時間がかかる。

毎日工事の内容が変わり、わりと早い日があるかと思えば、すごく混む日もある。

タイミングでも変わる。
ちょっとした違いが大きな違いになる。
工事のためのペースカーというのが走っていて、渋滞のペースをコントロールする。
ペースカーは10トントラックだ。
2台並んで道をふさぐように走る。

このペースカーにつかまると、時間がかかる。
ゆっくり走って、車輌の間をあけ、工事車量の出入りを助けるのが役割。
不定期に走る。
いつごろ出てくるかはわからない。

そんな状態で、通勤していると、ボーッとすることが多い。
ボーッとすると言っても、眠くなったり、運転がお留守になるわけではない。
ちゃんと前を見て走っているのだが、頭の一部は別のことを考えている。

朝の連ドラを聞きながら、戦前の時代のことを思ったり、小田和正を聞きながら、ちょっと音使いが変わったなあと思ったり…。

それが朝の憩いの時間だったりする。

そう思うと、渋滞もそんなに悪いものではない。

頭の中のリフレッシュをしているのだろう。





| | 考えたこと | 01:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
答えのないもの
世の中に答えがあるものはめずらしい。
たいがいは答えがない。

学生時代に、君らのやっている方程式は答えがあるから簡単だ、実際に世の中では答えのないものばかりだ、という事を先輩に聞いた。

実際に社会人になってみたら、式すら立たない世界だった。
25年間そんな世界で働いてきた。

結局は複雑すぎて、本当のことはわからない。
いろんな誤差が混じっている。

しかし、良いものを作るために頑張らないといけない。
そのために、解析をする。
結局は統計に頼ることが多かった。

時には、結論ありきでデーターをまとめたりする。
それでまとまるということは、その結論が正しいかもしれない。
正確にいうと、正しいかもしれない答えのひとつではある。

それでも、説明では「この結果からいえることは、これです」というふうに結論をいう。
そうしないと、仕事が前に進まない。
納期があるのだ。
だから、みんなが納得する必要がある。
納期のない仕事なら、確認すればいいが、普通はそんな仕事はない。
そんなものには、お金は出せない。

結局、答えのないものに、むりやり答えを出す。
そんな仕事もある。
というか、それが仕事だと思う。
結局は、自分で責任を取るのだ。

しかし、世の中には、はなから答えがないものもある。

人間に関するものは、ほとんどそうだろう。

科学はそれを脳に置き換えようとしている。

しかし、今のところそれは成功しているとは言い難い。

結局、人間にとって、一番わからないのは、人間の存在だ。

それは、ギリシアの昔から、変わらない。

それこそが、一番答えの出ない問題だろう。


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