考えたこと2

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海外出張2
昨日の続き。

1986年というと、メキシコでワールドカップがあった年。
この年にフランスに長期出張に行った。
これは何度か書いているが、もう一度書く。

この時はトータルで3ヶ月ちょっとだった。
これが一番長い海外経験。
29歳だった。
この時は本当に行くのがイヤだったが、それでも行けと言ってくれた当時の上司に今は感謝している。

日本とフランスの言葉や文化のギャップに参った。
フランスは個人主義の国だ。
工場の受付の女性が朝の6時から出勤して、3時に帰る。
お客さんが来ていても、受付はいない。
そういうことも許されるのが、本当の個人主義の国だ。
そして、フランスの大卒はいきなり課長になるというのもビックリした。
とにかく頭がいい。
こちらが知っていることを伝えると、それはこういうことか、と言ってこちらがビックリするようなグラフを描く。
彼らはホントにスルドイ。

フランスからイギリスに出張に行った。
ドーバー海峡をはさんですぐ近所の国なのに、運転マナーが全く違う。
イギリス人の礼儀正しさに驚いた。
内心はわからないが、イギリス人はフランス人よりも日本的で親切だ(これには異論があるだろうが…。)
日本人が行って、気があうのは圧倒的にイギリスだろうと思う。
夏目漱石がロンドンで精神的に参ったというが、これがフランスだったら、もっとおかしくなっていたかもしれない。
イギリス人のユーモアもわかったし、何となくイギリス人の手堅さも感じた。
フランスとはだいぶ違う。

しかし、ヨーロッパは本当に緯度が高い。
だから夏場は10時くらいまで明るい。
いい季節だ。
6月の半ばから8月の中旬までが前半で、向こうのバカンスで一時帰国して、盆明けから後半10月までの3ヶ月ちょっとを過ごした。

言葉の壁も大きかったし、いろんな笑い話もある。
しかしこの3ヶ月は、ぼくにとっては大きな体験になった。


| | 考えたこと | 23:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
海外出張
海外出張には、以前の会社で何度か行かせてもらった。

行かせてもらったのはベルギー、オーストラリア、フランス、イギリス、香港、中国、アメリカ、カナダ、ルクセンブルグ。

最初のベルギーは当時の課長の鞄持ちで行った。
当時の会社はまだ余裕があって、入社2年目のぼくでも連れて行ってくれた。
若手育成の一環だ。1980年だったと思う。

1週間の予定だったが、問題が解決せず、1週間延びた。
帰りの安いチケットを放棄して(安い切符はキャンセルできないということをこのとき知った)、片道の帰りの便を予約したら一番安いのが大韓航空だった。
当時の大韓航空はIATAに加盟していなくて、事故が起こっても補償は保証できないとか言われた。
懐かしい。
まだこの頃はソ連の上空を飛べず、ヨーロッパに行く便の北回りはアンカレッジでいったん給油のために着陸していた。
アンカレッジに着いたら、うどん屋があって、日本人の客目当てで営業していたのにびっくりした。
何せ初めての海外で、言葉は分からず、どうにもならなかったのを覚えている。
ベルギーからドイツに行って、ドイツのホテルでデザートにアイスクリームを頼んだら、洗面器みたいな容器にいっぱい出てきて、おまけに生クリームが山ほどかかっていて難儀をした。
一緒に行った課長がアウトバーンでベンツに乗って200km/hを出して、「200キロや!」と喜んでいたのが印象的だった。
アウトバーンの橋には戦車のマークがあって、一度に何台戦車が通れる、という表示だと聞いて、これまたびっくりした。
まだ冷戦の世の中だったから、当然か。
ドイツの仮想敵国はドイツ(東)だったし、その後ろ側にはソビエト連邦があった。
日本は島国でよかったと思った。
まだまだジェームス・ボンドの世界が現実にあった頃だ。
それから考えると、平和になったと思う。

その次のオーストラリアは設計にいた頃。1985年だった。
設計、実験、サービスの3人でメルボルンに行った。
ぼくが一番若くて、事前の連絡や手配を全部やって、大変だった。
この時は20日間くらいだったか。
現地法人のオーストラリア人がすごく親切で、自分たちのことのように関わってくれたのが、すごく思い出に残っている。
メルボルンから北に数百キロ離れたところまで行き、そこで仕事をした。
毎晩接待で、ディナーに2時間以上かかるのには閉口した。
それが終わってから、その日の結果をまとめて、作戦を立てないといけない。
毎晩夜中までホテルで仕事をした。

オーストラリアは近いと思っていたが、意外と遠かった。
シンガポールのチャンギ国際空港でトランジットして、メルボルン着だった。
とにかく空港が大きくて、成田など比べものにならないと思った。
圧倒的に広くてきれいだった。
今やアジアのハブと言われているが、85年当時から立派だった。
このときはメルボルンで本場のウールのスーツを買った。
2万円くらいだったと思う。
当時は痩せていたと痛感する。
今は太って着られないが、いつかまた着られるようになりたいと思って、捨てられない。

フィリップアイランドだったか、ペンギンを見に行ったり、大きなカキをたらふく食べたり…。

1回目はエライ人の鞄持ちだったが、2回目のオーストラリアは若いとはいえ仕事の経験も積んでいくらか余裕ができてからの出張だったので、言葉も通じて楽しかったのを覚えている。

続きはまた今度。

| | 考えたこと | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
小学校の英語
人は自分の経験から考える。

ぼくは自分が小学校、中学校で受けた教育しか経験していないから、それを元に考えてしまう。
それは仕方がない。
一度に二つの経験はできない。

文科省は小学校での英語授業を3年生から前倒しにするという。
2020年までに実施するということだ。

ぼくは小学校で英語を習ったことがないから、その効果のほどはわからない。
しかし、中学からちゃんとやれば、何とかなると思う。
だいたい、誰が教えるのか。
今の小学校の先生に英語が教えられるとは思えない。
2020年になっても、それは同じ事だ。

文科省に集まってこの問題を考えている人も、自分の小学校教育の経験から考えているだろう。
自分の中学校での英語教育が失敗だったと思っているのか。
そう思っているから、小学校で英語教育を、ということを考えるのだろう。
しかし、不思議な事実がある。

1960年代から90年代に海外で活躍した人たちは、小学校で英語など習っていない。
日本企業がどんどん海外に出て行っていた時期。
右も左もわからない時に、商売をしに行っていた。
流ちょうな英語など話せなくても、意思の疎通はできた。
ぼくが会社に入ったときの上司は、本当にブロークンだった。
口癖は「In Japanではねぇ…」というものだった。
それでも、充分意味は通じていたし、外国人から尊敬をされていた。
外国の人は母国語でない言葉を流ちょうに話せなくても、馬鹿にしたりしない。
要はちゃんと意味が通じればいいのだ。

本当の問題は中学校の英語ではないか。
そして、英語を習おうという意欲ではないか。
さらに言えば、何かを学ぼうという動機ではないか。

だれか、一度でもそういう目でこの問題を取り上げられただろうか。

小学校5年からの英語を小学校3年に引き下げて、それでもダメだったらどうするのだろう。

本当の問題から目をそむけて、小学校での英語教育に力を入れても、解決しないと思う。

だいたい、小学校で英語をやるくらいなら、国語をちゃんとやるべきだと思う。

| | 考えたこと | 00:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
動物心理学
冗談かと思ったら、本当にあった。

動物心理学。
読売新聞の電子版にこんな記事が出ていた。

「ペットの犬の目つきは飼い主に似ている――。こんな実験結果を関西学院大(兵庫県西宮市)の中島定彦教授(動物心理学)がまとめ、25日付の英国の国際学術誌「アンスロズーズ」12月号(電子版)に発表した。」

調べてみると、動物心理学会というのもあって、学会員が400人とのこと。
会費が年間6000円だから、年に240万円の収入。
それで事務所を東京に持っている。かなり苦しい経営だろう。
今年は9月に筑波大学で学会をやる予定。参加費が6000円ほど必要。
運営も大変だろうと思う。

記事によると、

「中島教授は2009年に「犬と飼い主の顔つきは似ている」という調査結果を同誌に発表。今回は、顔のどの部分が似ているかを探ろうと、実験を行った。
 トイプードルやシバ犬などの犬と飼い主40組の顔写真を用意し、正しいペア20組と、わざと間違えたペア20組の2グループに分けた。顔の一部を隠すなどして、どちらのグループが似ているかを学生ら547人に尋ねた。
 目だけを見せたところ、73・3%が正しいグループの方を選び、「よく似ている」と答えた。一方、飼い主の目を隠した場合の正答率は50・8%、犬の目を隠した場合は47・3%だった。」

とのこと。

まあ、暇な人がいるものだ。
動物心理学、という学問があるのにも驚いた。
心理学の1ジャンルとして確立?されているのかもしれない。

昨今はペットの数が子どもの数を超えたという時代だから、ペットのことに興味がある人は多いだろうが、それに何の意味があるのだろうか。

きっとやっている方は意味を感じているのだろうが…。

まあ、大学にいて学生はたくさんいるし、身近にペットを飼っている人を20人ほど募って、写真を撮るだけだから、実験は簡単にできるのだろう。

国際学術誌に載るくらいだから、大したものなのだろうが、世の中は広い。

電子版だから、紙で刷るわけではないので、経費はかからないが…。


| | 考えたこと | 23:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
認知面接 Cognitive Interview
海外の刑事ドラマでやっていた。
認知面接という手法。

目撃者の聞き取りの方法だ。
何が起こったかというよりも、何を感じたかということを聞く。
温度のことを聞くときには、寒かったのか、暖かかったのか、という聞き方をする。
においはどうだったのか、うるさかったのか、静かだったのか。
どう感じたのかを聞く。

自分の気持ちを思い出すことで、意識下にあった記憶を思い出す。
感情を思い出すことで、情景を思い出す。

ドラマの中では認知面接の手法を知った刑事が、目撃者の聴取を行っていた。
事件の日は暖かく感じたのか、寒かったのかと聞き、においはどうだったのかを聞き、音はうるさかったのか、静かだったのかを聞いた。
自分の感情を遡ることで、目撃者は犯人の手がかりを思い出した。

「あのときは、公園を封鎖されて文句をいう人たちがたくさんいた。その声がうるさかった。イヌの散歩ができない、という人がたくさんいた。そういえば、その中に一人イヌを連れていたヤツがいた。あのイヌの飼い主は殺された人ではないか…」

こういう手法で、目撃者に思い出させる。

アマゾンで調べると「認知面接」という本が出ていた。
「目撃者の記憶想起を促す心理学的テクニック」という副題がついている。
著者が4人で、翻訳が5人という本で、280ページしかないから、この分野がまだそんなにまとまっていないことがわかる。
まだ第一人者がいないのだろう。

人間は見たもの、聞いたものを驚くほど覚えていない。

でも、自分の感情は覚えている。

その感情から、記憶をたどっていく。
こういう手法は効果があるらしい。

やっぱり人間は感情の動物だ。


| | 考えたこと | 21:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
Line
ラインというアプリが流行っている。

大学生もみんなラインで連絡をしている。
メールという個人相手の手段より、一度にメンバー全員に連絡できて、見たかどうかを確認できるというところがいいらしい。
確かに便利だと思う。

今や女子高生の80%以上が、ラインを使いたいからスマホを手に入れている。

グループをいくらでも作ることができて、目的別の友だちを作ることができる。
昨日も大学生を見ていたら、画面にバーコードを出して、それをカメラで撮って友達になることもできる。

既読のスルーのことをKSと言う。
要は読んで、無視することだ。
友達やグループが多くなりすぎると、既読スルーが増えるのは仕方がない。
しかし、それを嫌がる人が多い。
自分の発した一言を読んで、それに返事が来ないとイライラする。
多い人は数秒に1通ラインからのメッセージが入るらしい。
友だちが数百人になると、そういうことも起こるだろう。
そのメッセージにいちいち答えるのは大変だ。

エラい時代になったものだ。
常時数百人の友だちとつながっていて、そのメッセージを受け取ることができる。
小学校の友だち、中学校の友だち、クラブの友だち、クラスの友だち、バイト先の友だち、仲のいい友だち、いろんな友だちがいて、それらの友だちといつでもつながることができるのだ。

昔なら、高校生になったら、小学校や中学校の友だちとは切れる。
少なくとも常時つながって連絡が取れるような状態にはない。
物理的な距離や場所の制約が、友だちの数を制約していた。
だから、高校生になったら、その高校の友だちとつきあう。
よほどのことがないと、それ以前のコミュニティの友だちと会うことはない。
たとえ近くに住んでいても、連絡を取らない。
その友だちも、今現在の高校生活の友だちとつきあっているからだ。

未だかつて、その物理的な制約を超えて友だちと常時つながる、ということはできなかった。
それがスマホというモバイル機器にラインというアプリを入れることで可能になった。

そこでいろんな問題が出てきている。
殺人まで起こった。

人間はそんな状況にどう対応したらいいのか、未だかつてない状況だから、わからないのだ。
それを模索しているのが女子高生。

今や既読スルーとい言葉が歌詞になる時代。
ラインのメッセージは読んだ人の数が示される。
グループが9人いて、既読が9人となっていて、2通の返事しか来ていないと、スルーした人が7人ということになる。
これがイライラの元になる。
読む方も、書いた方も、イライラする。
その気持ちはわかるのだが…。

既読数がわかる、というのはそのメッセージが届いたかどうかがわかる、ということでこの機能がなければ業務連絡などに使ったとき不便になる。

合理的にできているのだ。

昨日は5人の大学生があっという間にラインの友だちになった。

見ているとあまりに簡単で、友だちの敷居は低いのだとわかる。
ラインの友だちは本当の友達ではない、ということが前提。

しかし、そんなにたくさんのラインのメッセージを処理するのはすごいと思う。

だが、それで失うものも大きいと思う。

ぼくらにはどちらがいいのかはわからない。



| | 考えたこと | 23:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
新学部設置
文部科学省から、今年の新設学部が発表された。

少子化が進み、学生の数は減るが、新しい学部はどんどん開設されている。
まあ、閉鎖される学部もあるのだろう。

昨今は何といっても看護学部。
13校のうち、6校が看護学部を開設する。
看護ブームと言ってもいい。

厚労省は2006年に病床7床あたり、看護師1名という基準を打ち出した。
これが看護学部が増えている原因だ。

7:1の比率は集中的なケアを行うことで、在院日数を短縮するという狙いだったらしい。
問題は、7:1を達成しないと診療報酬が減額されるということから、全ての病院で看護師の争奪戦が起こって、当初の厚労省の目算が外れ、医療から介護へという高齢化社会に対応した病床機能の分担がうまくいっていないことだ。

どこの病院も医療がやりたいらしい。
介護はやりたくないのだ。

だから、当初全体の10%程度と見られていた7:1基準を達成する病院の数が予想の5倍になった。
それが社会保障の支出を増やしている。
中には儲かるから、看護師を増やした病院もあるらしい(というか、それが普通だ)。

当初の7:1病床は、治療をするための病院である。
慢性疾患を抱えた高齢者が、7:1病院に入るのはもったいない。
だから、厚労省は来年度の診療報酬改定で大なたを振るおうとしている。

詳細はわからないが、そんな状況が今の看護師を取り巻く状況。

そんななか、看護学科がどんどん新設される。
大学にとっては、看護師の免許さえ取れば就職できるとなると、少々コストが高くても設置したくなる。
高校生の資格志向も手伝って、看護学部は人気学部になるところが多い。
少なくとも初年度から定員割れというようなことにはならない。

しかし、だ。
20年以上低成長が続いている。
おそらく、日本が80年代のように経済大国に返り咲くという事はないと思う。
おまけにこの20年で国の借金は1000兆円ほどに膨れあがった。
高度成長の時のストックをはき出している格好だ。

どう考えても、将来的に社会保障費をそんなに使えるワケがない。
そういうことを考えると、今から看護師になっても、介護看護師みたいな職になると考えるのが普通の考えだ。
それにかけるコストも安くなる。そうでないと医療費がもたない。
そういうことは大学は考えない。
今、定員割れしないから、看護をやる。

これでいいのだろうか。

| | 考えたこと | 03:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
上脳と下脳
右脳、左脳という区別はよく聞く。

右脳は直感、左脳は論理というような区別だ。
ずっと前から言われているし、何となくそうかなと思っている。

しかし、脳研究が進み、新しい意見が出てきた。
ウォールストリートジャーナルによると、脳の上半分と下半分のどこを使うかということで、人は4つのタイプに分けられる、ということだ。

両方を使う人は行動者、下部だけを使うと知覚者、上だけを使うと刺激者、両方とも使わないと適応者という風に分けられる。
どのモードが優れているというワケではない。
どのモードであっても、チームに貢献できる、ということだ。

これは認知様式理論という神経心理学の分野から生まれた。
記事にはこう書かれている。

「認知様式理論によって、脳の上部システムは達成すべき目標を見極めるために周囲環境についての情報を(情緒反応や食べ物や飲み物への欲求など他の情報と組み合わせて)利用していることが明らかになった。脳の上部は積極的に計画を立て、計画が実行されたときに起こるはずの出来事について予想を立てる。計画が実行されている間は実際に起きていることと事前の予想を比較して、その都度計画を修正する。
 脳の下部システムは感覚信号を整理すると同時に、感覚とこれまでに記憶に保存された全ての情報を比較する。その上で、比較の結果を利用して対象である物や出来事を分類・解釈する。このおかげで私たちは実際の社会に意味を与えることができる。」

面白いのは、脳の上半分も下半分も使わない適応者モードだ。
どちらも使わない、というとヨクナイと思うのだが、そうでもないらしい。

この適応者モードで考える(という言葉が当たっているのかどうか…)人は、計画性もなく、自らの経験を分類したり解釈したりすることにも関心がない。その代わり、身近な出来事などに夢中になる。
そして、こういう人は反応が早く、行動志向で、他人からは「自由放漫で一緒にいるのが楽しい」人らしい。

このモードの人は他人の計画をすぐに受け入れるため、チームのメンバーとしては貴重で、ビジネスでは組織の中心として中核的な業務を担うことが多い、とのこと。

例として、女優のエリザベス・テイラーが挙げられている。
彼女は8回の結婚をしているが、それは彼女が自分の経験を理解したり、詳細な計画を立てたりすることが苦手、ということを表している。しかし、誰からも「一緒にいると楽しい」と言われた。

脳のシステムを使うからエライというものでもない、というところが楽しい。

使わない利点もあるのだ。

| | 考えたこと | 00:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
デザイン
デザインというのは、難しい。
答えがないからだ。

それが売れれば、デザインがよかったことになるし、売れなければ、悪かったということになる。

それだけに、思い入れが大事だ。
これがいいんだ、という強い意志が必要になる。
主観的な思い入れ、というのは理系の最も不得手とするところだからだ。

多くの場合はデザインには要件があり、それらの要件を満たす度合いを数値化すると思う。
例えば、クルマのデザインなら、空力特性とか、重量とか、運転席からの視界とか、安全上の制約とか、よくわからないが色々な要件がある。
それらの客観的なものはある程度シミュレーションされ、数値化される。

だが、肝心の、売れるか売れないかという観点では数値化されないのだ。
かっこいいとか、かっこわるいとか、野暮ったいとか、古くさいとか、洗練されているとか、知的だとか、精悍なとか、優しいとか、かわいいとか、古くさいとか、先進的だとかいう主観的な評価は難しい。

デザインというのはそういう難しさがある。
単に機能的だからいい、というものではない。

もちろん万人が同じ評価をするわけではない。
ある人はかっこいいと思うし、ある人は野暮ったいと思う。
矛盾した答えが同時にあることが許される。

だから、デザイナーというのは大変だと思う。
これがかっこよくて、これはダメだ、と言い切れる人でないといけない。
根拠はないのだ。
自分の直感を信じるしかない。

世の中よりも、ほんのちょっと先を行っていないといけない。
先すぎてもダメなのだ。
売れない商品を嘆いて、世の中が間違っていると言っても、誰も聴いてくれない。

エライ商売だと思う。

ぼくにはできない。


| | 考えたこと | 01:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
肩こりと被選挙権
最近、肩こりがマシになった。
毎朝痛み止めのゲル剤を塗っているからだ。

それでは根本的な治療にならない、と若い人は言う。
痛みが止まるだけで、元を治すのではない、というのだ。
なるほど、ぼくも若いころはそう思っていた。

でも、今はそれでもかまわないと思っている。
痛くなくなれば、治ったも同じだ。
ずっと続いていた肩こりだから、マシになるというのはすごい事だろう。
原因などどうでもよい。

年をとるというのはこういうことだ。
だんだんと結果オーライになってくる。
それが根本的な治療でなくてもかまわない。

なぜなら、残された時間が少ないからだ。

先のことを考える必要がなくなってきている。

治れば、それでいい。

そういう年齢になった。

とりあえず、その場しのぎでもかまわないと思ってしまう。

同じことが政治にも言える。
税と年金の一体改革と言ってはいるが、決めているのは年寄りばかり。
役人も年寄りの方が力がある。
こんなことをやっていると、若い人が希望が持てない。
だから、少子化になる。
少子化になると、生産が落ち、国が衰退する。
そうなると、もっと若い人の希望がなくなる。

こんな悪循環をやっていると思う。

ことは肩こりどころではないのだ。

被選挙権の剥奪というのを憲法改正に入れてはどうか。
60歳を超えたら、被選挙権がなくなるようにする。

そんなことでもしないと、この国はシンドイ。

| | 考えたこと | 23:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
炎上
炎上という言葉、最近は意味が違う。
掲示板やSNSなどで多くの書き込みがされ、統制がとれなくなってしまうようなことを言う。
発端になる書き込みをする人は、確信犯もいるし、子供っぽい人もいるし、単なる世間知らずもいる。

こんなニュースがあった。

「「滅びろ!」「地獄に落ちろ!」「神に逆らう不届きものめ!」 東北大教授が千葉ロッテに罵詈雑言、「不適切ツイート」と大学が謝罪」

こういうのは普通の人がつぶやいたのなら、炎上はしないのだと思う。

書き込んだのがツイッターというところで、書き込んだ人がプロフィールから東北大学の文化人類学の教授だとわかったからだろう。
単なる楽天イーグルスの1ファンとして書いたのだろうが、世間の大学教授という職業に対する意識が発言を問題視し、炎上したのだと思う。

記事には、

「由緒ある「旧帝国大学」教授の発言とあって、ツイッターには非難と心配の声がこだました。しかし教授は、まったく意に介さない。「冗談もわからんやつは、最初から相手にしとらんわい!」「嫌われることを恐れて、ツイッターができるかい!」「本当に、おバカの多さに驚いておる。ツイッターは、実に有効な社会測定器であるw」「あのねえ、教授って、ただの肩書ですからwww」などと煽りたてながら、日付がかわった18日0時すぎに「もう12時過ぎかよ、帰る!」とつぶやきを終えた。」

と書かれている。

世間の人たちは大学教授という職業に錯覚を持っている。
良識を持って、教養があって、人間的に完成された人、というイメージ(ちょっとできすぎだが)みたいなものがあるのだろう。
だから、こんなことを書くとは、どういうことか、ということになる。
東北大学も謝罪をしないと仕方なかったということだろう。

しかし、大学教授という職業には以下のような特徴がある。

1.ずっと学校の中にいる人が多く、社会を知らずに年を取っている。
2.若い頃に金で苦労をした人が多く、世間に対して恨みのようなものを持っている。
3.大学という組織自体がいい加減で、組織の一員という自覚がなく、自分の行動に責任を持つという意識がない。
4.いつもセンセイと言われており、謙虚さに欠け、社会常識がない人が多い。
5.教養というより、ある分野に特化して知識があり、それ以外の部分は一般人に劣ることが多い。
6.どういうワケか、常日頃学生を評価しているのに、自分が評価されるのを極端に嫌う。

ちょっと調子に乗って書きすぎたが、要はそういう傾向がある、ということだ。

だから、こういう人たちにツイッターの様なものを与えると、こんなことが起きるのだろう。
世間の人たちが持っているバイアスを直さないと、なかなか理解できない。

現に、今の大学業界では教授会の存在が問題になっている。
教授会というのは良識の府ではなく、単に教員の権益を守る組合集会のようなものになっているということだ。
国立でも私立でも学内のガバナンスをどうしていくか、というときに、この教授会というものの存在が邪魔になる。

もちろん立派な人もたくさんいるのだが、大学教授とはそんなものだ、と思った方がいい。

そうすれば、ムダなことにエネルギーを割かなくて済む。

それが正解。



| | 考えたこと | 01:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
時間は速いのか
光陰は矢のごとしという言い回しは英語にもある。

「光」は日、「陰」は月の意味。月日の経つのは矢のように早い、というような意味がもともとの意味かと思う。

英語ではシンプルにTime flies.という。
時間は飛ぶ、という意味だ。

洋の東西を問わず、走るよりも飛ぶ方が速いのだ。

しかし、人間にとって時間はお世辞にも矢のごとく速くない。
地球が生まれたのは40億年以上前。
その地球に生物が生まれたのは30数億年前。
そして、いろんな種が絶滅と繁栄を繰り返し、現在の人類が生まれたのは数十万年前と言われている。

地球がある銀河系が生まれたのが129億年前と言われている。
その銀河系がある宇宙がビッグバンで生まれたのは、137億年前ということだ。
その前には時間がないから、わからないということだろう。

宇宙が生まれてからの時間が139億年、一方人類が生まれてからの時間は数十万年。
1万倍の違いがある。

一人の人間の寿命を80年とすると、これは宇宙が生まれてからの時間の1000000000分の1。
想像を絶する時間だ。

人類初の宇宙飛行士、ガガーリンは地球は青かったと言ったが、青く見える地球は今の地球。
その昔は赤かったり、白かったりしたらしい。
宇宙の時間で考えると、一人の人間の過ごせる時間は塵のようなもの。
宇宙はどのように生まれたのかとか、宇宙の終わりはどうなるのかとかいうことを考えると、あまりにも月日が経つのは遅い。

おそらく、人類にはそれを確認することはできないだろうと思う。

それでも、そういうことが知りたい、という気持ちがあるのは不思議だ。


| | 考えたこと | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
自動運転
もう四捨五入したら60歳、という年齢になって、2年経つ。

今年に入って、本当に疲れが目立つようになってきた。
以前なら残業はいくらでも平気だったのに、最近は7時台、8時台でも眠くなる。
昔に比べて、仕事量など減っているのに、疲れるのだ。

帰りの車も、最近は眠くなることが多くなった。
漫才を聞いたり、音楽を聞いたりするのだが、眠くなるとどうしようもない。
吹田のパーキングエリアで休めればいいのだが、眠いときはそこに入ることさえできない。
困ったものだ。

今世界の自動車メーカーが自動運転の技術を開発している。
メルセデスについては、動画が公開されているが、100?ほどの距離を全く自動で運転しているところは凄い技術だと思う。
今や車の運転は物理的につながったシステムではなく、各部分の役割を電子制御するコンポーネントごとの技術になっている。
だから、飛躍的に自動運転などの可能性が広がってきたのだろう。
デジカメの進歩で車載カメラは飛躍的に安くなったし、顔認証技術の発達は映っているものの判定を可能にする。
車載レーダーもかなり増えてきた。カメラだけでは雨が降ったりしたときに精度が悪いからだ。
そのうち、ステアリングも人間が入力するところと、実際にタイヤを動かしてコースを変えるところが分離されるだろう。
アクセルやブレーキも、人間が入力するところと、実際に動かすところは別になってくる。
それを分けたから、車が前にあるときにはアクセルを踏んでも発進しない、という技術が可能になった。
カメラで前に車がある、という認識ができて、アクセルを踏んだらエンジンにガソリンが行く、というところの間に制御ができるところを入れることができるようになった。
ハイブリッドなどの技術ができて、その部分が安くできるようになってきたのだろう。
お年寄りや女性ドライバーが多い軽自動車にそのあたりの技術が投入されている。

自動運転は、高速だけなら、かなりのところまで来ている。
自動追尾して、レーンを外れたらウォーニングを出すところまでは、ゴルフのような大衆車レベルで実用化されている。
この技術開発が日、米、欧で行われているのだ。

これらすべてに関わるのが、コンピューターによる制御の技術。
前にものがある、ということを判断するにはどういうアルゴリズムが必要かとか、それは自転車か、クルマか、人間か、というような認識をするには、何をどう判断したらいいかとか、そんな技術のブラッシュアップが求められている。
それも、衝突回避のためには、コンマ以下の判断が必要になる。
1秒かかって判断していたら、すでにクルマは時速40?でも10メートル以上進んでしまう。

このところの車の進歩は、デジカメの技術発達が大きいのだろう。
どうやって、人間の目の代わりをさせるか、というところが自動運転や衝突回避のカギになる。

こんな要素技術を組み合わせて、自動車産業は成り立っている。
だから、日本は当分クルマで頑張らないといけない。

要素技術だけでなく、クルマ産業があるからこそ、自国内で発展できるし、輸出もできる。

日本とドイツが自動車先進国になったのは、航空技術者が飛行機を作れなくなったからだ。
あの、風立ちぬの主人公みたいな技術者が、自動車に行かざるを得なくなった、という不幸な事情がある。

でも、日本の自動車産業は、その不幸を吹き飛ばすような見事な発展を遂げてきた。

ここに日本の技術者たちの意地がある。

まだまだ頑張ってほしい。


| | 考えたこと | 23:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
ぼくらは思っているほど自由ではない
脳を研究していると、その特徴がわかってくる。

ぼくらは自分で自由にいろんなことを決めていると思っているが、脳の制約を逃れられない。
脳が何かを決めるときには、何をよりどころにするのか。
それは比較であるらしい。

脳は絶対値で決めることは苦手である。

何かよりマシとか、あれより悪いとか、そんな決め方をする。
それが脳の得意な働き方らしい。
だから、知識や経験の量が多い方が決めやすい。
比較の対象が簡単に見つかるからだ。

脳は何かを決めるときには、それを何かと比較しているのだが、それを逆に使うのもまた得意だ。

同じ5足のストッキングを5人の被験者に渡し、これらの違いを述べてほしい、というような実験をやると、2は色が青っぽいとか、3はざらざらしているとか、4は素材が違うとか、そんな意見がどんどん出てくる。

同じものであっても、違いを見つけようとすると、脳はいろんな違いを作り出す。

そうして違いを見つけてしまう(正確には見つけたと錯覚する)。

脳科学が進んでいくと、生理的に避けることができない脳の働きがわかってくる。
わかってくると、ぼくらは思っているほど自由に生きていないということがわかる。
人間という制約の中で生きているということだ。

自由に考えているとぼくらは思っているが、実際にはそんなに自由ではなさそうだ。

自由とはいったい何なのか?

それを考えるときに、不自由という概念を必要とする、というのが脳の制約。

それはそうだろう。
全てのものから外れて、自由に考えるなどということはできない。
所詮、人間には枠組みが必要だ。

そう考えると、結構人間は不自由なものだと思う。

でも、それは昔からそうなのだ。


| | 考えたこと | 22:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
昭和は遠くなりにけり
今日職場で話をしていて、鶴田浩二のドラマ「男たちの旅路」の話をしたら、その鶴田浩二をみんな知らないということが判明した。

みんなとは39歳男子と30歳女子の2人。

「あの、耳に手を当てて歌を歌っていた人や」と言ってもわからない。
「特攻隊の生き残りの役をやっていた」というのも全くダメ。
「何から何までまっくらヤミだ、と歌っていた人」と言っても全く不明。
要は東映のヤクザ映画を見ていない世代なのだろう。

東映のヤクザ映画は1970年代に最盛期を迎え、1980年代になるとビデオになってマニアックな路線になった。
1970年代に初代の桂春潮は昭和任侠伝という新作落語を作り、これが彼の出世作になった。
昭和任侠伝の中に出てくるのは、当時のヤクザ映画にかぶれた一般人。
新作落語が何年間も流行るくらい、当時のヤクザ映画は人気があった。
ぼくは映画館で見たことはないが、深夜にやっているテレビで何度か見た。
高倉健や鶴田浩二が主人公。
最後は一人で相手の一家に殴り込みをかける、というパターンだった。

その鶴田浩二がヤクザ映画から足を洗い、普通のドラマに出だしたころに、「男たちの旅路」が作られたと思う。

ぼくが会社に入ったころだから、1979年。

あのドラマが放映されていたころ、彼らは物心もついていないか、生まれてもいない。

調べてみると、鶴田浩二が亡くなったのが、1987年だった。
昭和62年だ。

そら知らんわなー。

前にも書いたが、昭和は遠くなりにけりだ。

だんだん平成生まれが増えていく。

そして、昭和生まれは少しずつ減っていく。

少子高齢化と言っても、確実に減る。

当たり前のことだが、それが実感された。

| | 考えたこと | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
70年代の音楽
ぼくは1970年に中学1年になった。

今もそうだが、男子の中学生というと、音楽に興味を持ち始める頃。
何度も書くが、あの頃は洋楽と邦楽が半々だった。
邦楽では、伝統的な歌謡曲、どちらかというと演歌がまだまだ主流だった。
美空ひばり、都はるみ、三橋美智也、三波春夫…、みんな現役。

若者の邦楽というと、グループサウンズだった。
そして、カレッジフォークで森山良子が出てきて、アイドルの時代が来た。
天地真理、南沙織、小柳ルミ子の3人が、ぼくの最初の3人娘。
この前にいたのはたしか、伊藤ゆかり、園まり、中尾ミエ。

この頃はまだ若者の音楽といえば、洋楽だった。
もちろん英語の歌がメイン。
70年のヒット曲は、カーペンターズの遙かなる影、サイモンとガーファンクルの明日に架ける橋、シカゴの長い夜、ジェリー・ウォレスの男の世界(これは日本だけで流行った)、トム・ジョーンズのデライラ、ピーター・ポール&マリーの悲しみのジェットプレイン、ホセ・フェリシアーノの雨のささやき、レターメンのミスター・ロンリーなどがある。
今でも口ずさめる曲ばかりだ。

この頃は、音楽はある程度年をとった大人のものだった。
だから、日本では歌謡曲。
まだまだ若い人向けの曲は少ない。
今のように、何万人という若い人が東京ドームを埋め尽くす、などということは考えられない。

一方、アメリカのヒットチャートを賑わす曲は、かっこいい曲だった。
なんだかわからないが、洗練され、スマートでオシャレで…。
だから中学校の頃は洋楽をよく聴いていた。
今から思うと、なんで洋楽なのかということになるが、あの頃は若者向けの曲など作る人がいなかったのだ。
だから、ラジオから普通に洋楽が流れていた。
別にマニアだから聴いていたワケではない。
それが普通だったのだ。

少し前後するが、そして日本のフォークソングの時代。
岡林信康、高田渡、加川良、5つの赤い風船(西岡たかし)、高石ともやなどがギターを持って歌っていた。
このあと、広島から吉田拓郎が出てきた。

そして、アイドルの時代にも入っていく。

天地真理のあと、桜田淳子、キャンディーズ、小泉今日子、ピンクレディ…。

そうこうするうちに、荒井由美が出てきた。
あれから、ニューミュージックの時代になり、その頃から洋楽は日本では廃れていった。

今は洋楽を聴く、というと珍しいという反応。
何でも日本で手に入るようになった。

70年代に青春を過ごしたぼくらは、最後の洋楽世代かもしれない。

だから、以前の会社でイギリス人を連れてカラオケに行ったときも、やけに盛り上がった。

懐かしいなあ。



| | 考えたこと | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
心か頭か
ドラマのセリフ。

心に従うのは楽だ。頭に従うのはタフだ。
そして、心にしたがっていると、ダメになる。

すごく複雑なシチュエーションで言われたセリフだが、言っていることはわかる。

心とは「感情」だろう。
感情にしたがって行動したいのが人の常。
また、そうすることにはいつも妥当性があると思える。

一方で頭とは「理性」を表すのだと思う。
頭で考えたことを実行するのは難しい。
そして、いつもいつも感情にしたがって行動していると、人はダメになるぞ、ということだ。

動物には本能がある。
それにしたがってしか生きられない。
動物では理性と本能は一緒になっている。

だが、人間は本能が壊れている。
本能にしたがって生きていたら、社会に適応できない。
無理をして生きているのだ。

だから、シンドイのだが、よく頭で考えて生きていかないといけない。
感情にしたがって生きていくのは結果的には楽だが、それは人間をダメにするのだと思う。

心か頭かと言われたら、頭に従おう。


| | 考えたこと | 21:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
センター入試
大学入試センターがやっている、センター入試の見直しの記事が新聞に出ていた。

ぼくは大学入試は各々の大学がやるべきだと思う。
一斉入試などというものは、やめればいい。
その代わり、高校卒業の検定をやればいい。
そうなると、各大学の入試科目など関係なくなる。

上位の大学では、世界中の有名校が、優秀な学生を集めるために奔走している。
国によっては、問題を数日がかりで解決させる、という入試もある。

一方で下位の大学の入試はやっているだけだ。
入学者を決めるための儀式のようなもの。
それでなくても、特別推薦、一般推薦、スポーツ推薦、宗門推薦、AO入試など、伝統的ではない試験も実施され、今や一般入試を受けて入る学生が半分以下になっている。
下位校では、来たものはよほどのことがない限り入れるという明確な方針がある。
定員を割っていたら、それが当然と学校法人は思っている。
そのための儀式のようなものだ。
もっと大学に「入試をやる責任」みたいなものを求めないとイケナイ。

国は高校卒業の時に最低限これだけの知識は持っておいてほしい、ということを一斉にテストすべきだ。

余計な事はやるべきではない。

シンプルな仕組みがベスト。

大学入試センターは毎年100億円の規模で試験をやっている。
受けている学生の中には、学校から言われて受けているだけ、という人もいる。
これをやめて、各高校に試験を配布して、卒業前の授業期間にやればいい。
だいぶ安くなるだろう。

これこそ、高校の教育の質の保証というやつだ。

本来なら、小学校、中学校を先にやるべきだと思う。
教育は積み上げだから、若い方から順にやるのが当然。

それは文科省はやりたくない。
なぜかというと、義務教育は国の責任だからだ。

こんな教育をやっている役所は、恥を知るべきだと思う。




| | 考えたこと | 22:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
教育再生実行会議
教育再生実行会議という安倍内閣の諮問機関がある。
ここが、国立大学の2次試験のペーパーテストをやめよう、という提言をしたらしい。

この会議のメンバーは、閣僚関係者(政務次官等も含む)4名、民間企業出身者3名、公務員6名、大学教授4名、作家・タレント2名、となっている。
まあ、民間企業出身者は忙しいからなかなか出られないのだろうとは思うが、この比率はちょっとオカシイと思う。

国を支えるのは国民の税金だ。
その税金は誰が納めているのか。
税金を納めている比率で委員を配分してほしい。
民間のセクターがあまりにも少ない。

おまけに、国立大学の2次試験でペーパーテストをやめて、人物重視の面接みたいなことをやる、という提言をしているようだ。

詳しくは知らないが、本来は人物重視のためにAO入試をしているのではないのか。
これ以上学力試験を減らしていいのだろうか。

その「人物」は誰が選ぶのだろうか。
大学の先生に「人物」がわかるのだろうか。
第一、面接が不得意な人はどうなるのだろうか。

まあ、エライ人が集まってやっている会議だから、ちゃんと考えているのだろう。

教育再生が最も必要なのは、小学校、中学校である。
最初が肝心なのだ。
そこをちゃんとやらないと、いくら後に力を入れてもダメだ。

エライ人たちはそこを理解されているのだろうか。

大変心もとないぞ。
| | 考えたこと | 21:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
ムークとは
ムークというサービスが日本でも来年に立ち上がるらしい。

ムークというのはMOOCという大規模公開オンライン講座のこと。
大学の授業をタダでネットで公開する、ということだ。

アメリカ生まれのこのサービスは、英語圏では新たな学び方として広がっている。
その日本版ということだ。
インターネット経由で誰でもが履修登録でき、パソコンを使って聴講できる。
宿題やテストをやれば、修了証を講義単位で受け取ることができる。

ネットの力は時間と場所の壁を乗り越えて、良質な講義を無料で受けることを可能にした。
これに近いものとしてオープンコースウェアというものがある。
これは講義の資料を公開しているものだ。
ネットを通じて、有名大学の講義の資料を得ることができる。
オープンコースウェアである、ということを記載すれば、二次使用もできる。
今や英語ができれば、世界最高のレベルの講義や講義資料をタダで勉強できてしまうのだ。

その日本版が来年オープンするらしい。

すでに予備校ではカリスマ教師の講義を売っているが、こちらは無料だ。

こうなると大学の存在意義が問われる。

単に単位をバーゲンし、ろくに学生を育てもしない大学はどうなるのだろうか。

やる気のある学生が、日本版ムークの修了証を頑張って取得した場合、それは単位をバーゲンしている大学よりも価値が高いだろう。
出席するだけで単位を出す講義もあれば、出席しなくても履修登録するだけで単位を出している大学もあるのが事実(もちろん、みんながみんなそうではない。これは学校というよりも、教員による。)

このムークが立ち上がり、認知度が上がってきたら、大学の淘汰が進むだろう。
家にインターネットの環境さえあれば、有名大学の講義を履修することができるのだ。

もちろん、大学の価値は授業だけではない。
その大学に集う学生たち、教員のコミュニティや課外活動もある。

しかし、企業側がムークの価値を認めれば、バーゲンされた単位よりもムークの修了証の方がマシ、という事になる。
大学の内部ではなく、外部が大学以外のものに価値を与えるようになると、一気に淘汰が進むだろう。

そういうことでもしないと、大学はマジメにやらないと思う。

それでマジメにしない大学は、潰れたらいいのだ。

| | 考えたこと | 23:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
Wikipediaからの手紙
昨日の続き。
こんなメールが寄付のお礼に送られてくる。

メールの中の、「あなたのご寄付が世界をよりよい場所にします。」という言葉を見ると、アメリカという国についていろいろな意見があるだろうが、こういう理想を掲げている団体が存在を許される国がある、ということに感心する。

以下ウィキメディア財団からのメール


ウィキメディア財団にご寄付いただきありがとうございました。

私どもの寄付お願いのバナーを無視するのはとても簡単なことです。にもかかわらず、あなたがそうしなかったことを大変うれしく思います。ウィキペディアはこのようにして日々の請求書を支払っているのです―つまりあなたのような方々から頂いたお金で、私たちはこのサイトを無料で全世界の皆さんにご利用いただけるよう維持していけるのです。

みなさんは自分がウィキペディアに寄付するのは、ウィキペディアが役に立ったから、完璧でないにしても、みんなのために書かれていて信頼できるからだ、と言ってくれています。ウィキペディアは誰かが自己宣伝するのを助けたり、特定の価値観を押し付けたり、真実でないことを信じさせようとしたりするためのものではありません。私たちの目的は真実を伝えることであり、あなたがいるからこそそれが可能になるのです。このサイトに資金提供をしたという事実こそが、私たちの独立性を維持し、あなたが必要とし、欲しているものをウィキペディアが提供することを可能にし続けているのです。まさにあるべき姿です。

あなたには以下のことを知っておいていただきたく思います。あなたの寄付は単に、あなた自身へのサービス提供コストをカバーするだけのものではありません。平均的な寄付者は自身がウィキペディアを利用するためだけでなく、他の何百人もが利用するためにも支払ってくれているのです。あなたの寄付によって、例えば次のような人々がウィキペディアを利用し続けられるようになります。バンガロールにいてプログラミングを独学している野心的な女の子、ウィーンでパーキンソン病であると診断されたばかりの中年の主婦、1850年代の英国について調べている小説家、サンサルバドルでカール・セーガンのことがたった今わかった10歳の子ども、といった人々です。

こうした方々を代表して、そしてウィキペディアとその他の姉妹プロジェクトの5億人にもおよぶ読者に代わって、全人類の叡智の総和をすべての人々に利用可能にしようという、私たちの試みに加わっていただいたことを感謝いたします。あなたのご寄付が世界をよりよい場所にします。ありがとうございます。

ほとんどの人たちは、ウィキペディアが非営利で運営されているとは知りません。このメールをあなたのご友人にシェアして、寄付するようお薦めすることもご検討ください。そしてもしご興味があれば、ウィキペディアになにか新しい情報を追加することもお試しいただければと思います。例えば誤記や小さな間違いを見つけたら、それを直してみてください。何か足りないと思う部分があれば、追加してみてください。

心より感謝申し上げます。ご寄付は必ず誠実に使用させていただきます。
ありがとうございます,
スー

スー・ガードナー
最高責任者,
ウィキメディア財団


こういう手紙をもらうと、次も寄付しようと思ってしまう。

いいことをした。


| | 考えたこと | 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
Wikipediaへの寄付
久しぶりにWikipedia財団から寄付の依頼が来た。

今回は2000円の寄付をした。

「私がウィキペディアを創設したとき、広告バナーを設置するような営利企業にすることもできたでしょう。しかし、私は別の道を選びました。私たちは長年、組織のスリム化に努め、小さな組織であり続けています。私たちは使命を果たします。無駄づかいはしません。
もしこれを読んでいる方々全員から1000円の寄付をいただけるならば、この募金活動は一年に一日で済むでしょう。しかし、寄付していただけるだけの余裕や心づもりが誰にでもあるとは限りません。それでもいいのです。というのも、毎年充分な数の方々が寄付を決意してくださるからです。
このウィキペディアを守り、維持していくため、1000円、1500円、2000円もしくはできる範囲でのご寄付を考えてみていただければと思います。」

前回はいつ頃来たかな。

ここ数年、メールが来たら寄付をしている。
毎日のようにWikipediaを利用しているからだ。

このオンライン上の辞典は、誰もがその項目を執筆できるというところがスゴイ。
だから、いい加減な事を書いてある項目もあるだろう。
でも、毎日誰かが項目を追加し、何かを執筆している。
特に普通の辞典には出ていないような項目は、これに頼るしかない。

Wikipediaでは、良貨は悪貨を駆逐する、という考えだ。

おかしな事を書いている記事は、淘汰される。
そしてまともな記事は残る。

世の中捨てたものではない。



| | 考えたこと | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
ホンダのインターナビ
車検が終わってストリームが帰ってきた。

やっぱり使い慣れたクルマはいい。
ただ、FITシャトルハイブリッドの燃費はさすがだった。

行きの高速がリッター18キロ、帰りは80キロの巡航で帰ったが、それだとリッターあたり25キロという数字。
これはスゴイ。
ホンダのIMAは高速巡航に強い、とは聞いていたがここまでとは驚きだ。
しかし、ずっとガソリン車に乗ってきて、35年。
ここからハイブリッドへの変化は大きい。
考えどころだ。

ところで、ホンダはインターナビという純正のナビゲーションシステムを採用している。
これは走っているクルマのナビ情報を集め、距離ではなく時間最短で行くには、どういうルートを取ったらいいかということをナビに示すことができる。
走っているホンダ車の情報を通信で集めて、センターで解析している。

走っていて、みんなが急ブレーキをかけるところは、何らかの理由があって危ないところだ。
ホンダはこのデーターを集め、公開している。
SAFETY MAPという名称。

ホンダの発表資料によると、

「SAFETY MAPは、地域住民の皆様をはじめ、小・中学校や企業などの団体が地域の安全活動に活用できることを目的としたソーシャルマップで、急ブレーキ多発地点や事故多発エリア、ゾーン30※などの情報に加え、「見通しが悪い」「飛び出しが多い」など一般投稿された危険スポット情報を地図上に掲載しています。また、二輪車や四輪車だけでなく、自転車や歩行者の立場からも危険エリアを確認し、共有することもできます。」

と書いてある。

こういう活動が21世紀の企業に求められている。

インターネットの技術を使えば、そういうことができる。

それも人手をあまりかけずに。

これこそ、社会貢献だろう。

| | 考えたこと | 23:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
FIT シャトル ハイブリッド
昨日ストリームを車検に出して、代車を借りてきた。

今回の代車はFITシャトルハイブリッド。
IMAというシステムのホンダのハイブリッド車だ。

アイドリングストップもするし、ブレーキング時に回生してエネルギーをためることもやっている。
まだ3000キロしか走っていない。

ストリームより1ランク下だから、ちょっと小さい。

しかし、ハイブリッドというのはまだまだ難しい。
ブレーキングしたときに、違和感がある。
加速もアイドリングストップから、エンジンON、加速というところで、こちらも何となくスムーズでない。

このタイプは走り出したら、エンジンは止まらないので、ハイブリッドといっても通常の車両に近いのだが、アクセルを踏み込んでモーターがアシストに入るとちょっと2段加速みたいな感じになる。
パワー自体はあるのだが、どうも違和感がある。
ずっとガソリン車に乗ってきたぼくらにはちょっと…。

しかし、燃費を考えるとハイブリッドの選択肢もありだと思う。

ホンダのIMAでこれなら、トヨタのプリウスはもっと違和感があるかもしれない。

とりあえず、もう一日乗ってみてどれだけ慣れるかだと思う。

やっぱりガソリン車がいいかもしれない。

| | 考えたこと | 21:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
ポルシェ911
ポルシェ911の新工場建設、というのをナショナルジオグラフィックでやっていた。

ポルシェはドイツのスポーツカーのメーカー。
911はポルシェの中のポルシェという感じのクルマだ。
あの、おなじみのポルシェスタイル。
リアエンジンで大幅に後ろが重いクルマだ。

水平対向6気筒のエンジン。
3.6リッターから3.4リッターにダウンサイジングされたが、馬力を上げて燃費を下げた。
今やセダンやSUVの方がたくさん売れるのだが、911はポルシェの象徴なんだろう。

ボディは軽量化のため、アルミが一部使われ、強度が必要なところは鉄が残っている。
塗装工場を新設して、新しい設備を入れた。

デザイナーは壊すのを恐れるな、と言われた。
伝統的な911のスタイルを崩さないといけないが、崩しすぎるとポルシェファンから文句が出るらしい。
だからといって、伝統を守りすぎると新しいものはできない。
ぱっと見て、911だ、とわかる必要があるが、それでも旧型とは明らかにちがう、という二律背反を乗り越えなければならない。

2011年に発表された新しいポルシェ911には、そんな苦労があった。

一時は経営危機と言われたポルシェだったが、今は回復している。
その象徴が911。

第二次大戦後、連合国は日本とドイツの飛行機技術をおそれて、飛行機産業を禁じたので、当時の航空工学の技術者たちが自動車産業に流れた、というのをどこかで読んだ覚えがある。

だから、日本とドイツは自動車が強くなったのか。

ハイブリッドの技術では日本に先行されたが、ドイツはディーゼルエンジンやダウンサイジングの技術は進んでいる。

まだまだ勝負がつかない。

| | 考えたこと | 10:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
Time and Love
最近、5th Dimensionの昔の曲を聴いている。

5th Dimensionというのは、女性2人、男性3人のコーラスグループ。
60年代後半〜70年代に活躍した。
だいたい、黒人のコーラスグループといえば、モータウンレコードがたくさん出していた、ブルースっぽい曲が多かった。
でも、5th Dimensionは、当時としてはすごくポップな曲をやっていたと思う。

ぼくはCBSソニーレコードが71年だったか、クリスマスシーズンに出す、ベスト盤2枚組を買って、持っている。
このレコードは、本当にすり切れるほど聴いた。

日本では1969年のアクエリアス〜輝く星座が有名だが、このグループは当時ローラ・ニーロというシンガーソングライターの曲を取り上げていて、それらの曲が今聞いてもなかなかいい。

ローラ・ニーロ本人の歌もいいのだが、ぼくはずっと5th Dimensionの歌を聴いてきたので、こっちの方が好きだ。
なかでも、Time and Loveという曲は歌詞がいい。

サビの部分で、

Time and love
Everybody
Time and love
Nothing cures like
Time and love
Don't let the devil fool you
Here comes a dove
Nothing cures like
Time and love

というリフレインがすごく印象に残る。
70年代の陽気なポップスのメロディに乗せて、「時間と愛ほどの癒やしは他にない」と歌われる。

ローラ・ニーロはすごく宗教色が強くて、歌詞の中によくイエスが出てくる。
でも、それがすごく自然で、当時中学生のぼくには彼らの信仰心が自然に思えた。

アマゾンでCDを調べると、たくさん出てくる。
以前調べたときは5th Dimensionなどほとんど出てこなかったのだが…。
40年ほど前の歌とは思えない。

何度も書くが、ぼくらのティーンエージャーの時代は、洋楽と邦楽が混じっていた。
深夜放送のベストテンでは半々くらいになっていたし、毎週土曜日のFM放送では歌謡ベストテンとポップスベストテンがそれぞれ1時間の枠でやっていた。

たしか、ポップスベストテンはダイヤトーンの提供だったと思う。
ダイヤトーンは三菱電気のステレオのブランド。

パナソニックのテクニクス、サンヨーのオットー、日立のローディ、シャープのオプトニカなど…。
いい時代だった。
オーディオ機器に夢があった。

三宮に行っては、オーディオ機器のカタログを集めていた。
レコード全盛の時代。

今やパソコンで音楽を聴く時代。

40年の時代を感じる。
でも、この曲は今でも古くない。

ぼくのエヴァーグリーンの一つ。

| | 考えたこと | 01:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
知識
大学生の子供に「一部上場」の「一部」の意味を聞いたが、わからなかった。
彼は友達の経済学部の学生にそれを聞いたが、さすがに知っていた、という。

前に書いたが、一部上場とは株式を全部上場しないで、一部だけ上場する、という意味ではなく、証券取引所の二部ではなく、一部に上場する、ということだ。

ウチの愚息はその意味を知らなかった。

しかし、彼は経済学部の学生に、月の満ち欠けはなぜ起こるのかということを尋ねたらしい。
結果は、月の満ち欠けがなぜ起こるのか、わからず、一勝一敗となったらしい。

そこで、株式の上場と、月の満ち欠けのどちらを知っていたらエライのか、という質問が出た。

かたや社会科学の知識、かたや自然科学の知識である。

もしも自分の商売に関係なければ、これらの知識は生活にはほぼ必要ないだろう。
つまり、知らなくても、いっこうに困らないということだ。

これは一般常識の時にも書いた。
水が0℃になると凍るということを知らなくても、生活には困らないが、それを知らないということは他に何を知らないかわからない、ということだ。
そういう意味では、より基礎的な知識を知らない方が、他に何を知らないかわからない、ということになる。

それなら、一部上場よりも月の満ち欠けの仕組みを知らない方が罪が重い、ということだ…、と思ったら、それはゆとり以降はちゃんと習っていないという。

 理科も悲惨な状況にある。
 象徴的なのが月の満ち欠けに関する学習だ。 小学校4年生で扱われるが、 「 わかりやすくする 」 という方針のため、なんと三日月と満月しか取り上げない。 しかも、本来なら太陽と月と地球の関係を教え、満ち欠けの原理を学ばせるべきなのに、それはやらない。 前出・法政大学教授の左巻健男氏が解説する。
 「 1、2年生の生活科が理科的内容をほとんど含んでおらず、その皺寄せが3年生から始まる理科にきています。 今の教科書は先進国の中では最低レベルで、ただ自然現象を観察させるだけで、実験、仮説、検証といった科学的な方法論を学ばせていません 」

しかし、よく調べてみるとさすがに中学校では習っているようだ。

一部上場などの経済の知識は高校以降だろう。

したがって、この問題は月の満ち欠けの仕組みを知らない方が、一部上場の意味を知らないよりも罪が重いということになる。

これにて一件落着。


| | 考えたこと | 00:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
アイスのどか食い
アメリカ人のストレス解消には、アイスのどか食いというのがあるらしい。

男女を問わず、何か困ったことになったり、自分の置かれている立場が悲惨になった時など、バケツのような入れ物に入ったアイスを抱えて食べるシーンがよくある。
バケツの中にカレーを食べるときのようなスプーンを入れて、直接食べる。

日本にはあんな大きな入れ物はない。

アメリカ在住の日本人のブログを見ると、4リットルのバケツ入りのアイスが一般的にスーパーで売られている。
4リットルはスゴイ。
一人で全部食べる(あくまで脚本でのハナシ)というシーンも出てくるから、きっとものすごいカロリーだろう。

日本アイスクリーム協会のページを見ると、いろいろな統計が載っている。

それによると、一人あたりのアイスの生産量はアメリカがトップ。
なんと日本は12位でアメリカの1/3程度となっている。
因みに、アメリカの一人あたりの生産量は18リットル。日本は6.3リットルになっている。
2,3,4位はフィンランド、スエーデン、デンマークと北欧あたりの国が並んでいる。
このあたりの国は寒いと思うのだが、アイスは別らしい。

日本人一人あたりのアイスの生産量が6.3リットルだが、ウチは結構アイスの消費量は多い。
お風呂上がりにたいがい毎晩食べる。
お風呂から出てきたら、冷凍室を見る、というのが習慣になっている。

さすがに、4リットル入りのアイスのバケツは食べたことがないが…。

アメリカ人に肥満が多いのもうなずける。
アイスの食べ過ぎだ。

ストレスがたまったときに、甘いものを食べるというのは世界共通の認識だろう。

一度アメリカ人のように食べてみようかな。


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過去と他人は…
こないだ聞いたコーチングの言葉で、こういうのもあった。

過去と他人は変えることができないが、未来と自分は変えることができる。

当たり前のことだが、こういう風にいうと腑に落ちる。
要は何でも自己責任ということだろう。
過去は済んでしまったから、もちろん変えることはできない。
他人も、自分の意思が及ばないから、どうなのかわからない。だから、変えることはできない。

未来は、少なくとも自分に関することは変えることができる。
そして、もちろん自分は変えることができる。

変える意思を持てば、変わるということだろう。

人は、えてして、過去と他人にこだわりがちだ。
あの時、こういうことができなかったからとか、こうするつもりだったのにダメだったからとか。
あの人が、こうしてくれなかったからとか、結果的に邪魔をされたからとか。
そういう後ろ向きなことは考えない方がいい。
考えてもどうにもならないからだ。

前向きに、変えられることを変えていこう、というのがこの言葉の意味。
これもコーチングの極意だろう。

これは覚えておこう。


| | 考えたこと | 01:09 | comments(0) | trackbacks(0) |