考えたこと2

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大晦日雑感
レコード大賞が1月30日になってから、どうもピンとこない。
今年も今日の新聞を見て、西野カナという名前を見たが全く歌を知らない。
音楽がデーター化し、メディアが多様化して、一体どれが流行った歌なのかわからなくなってきた。
一昔前は、大晦日の紅白歌合戦の前にTBSでやっていた。
当時はあまり流行りの音楽に興味がなくても、多くの人はレコード大賞だけは知っていた。
でも、最近はそうでもなくなった。
昨今のレコード大賞は、そういう世相をあらわしているような気がする。

今年の紅白歌合戦はエクザイル系が少なかった。
三代目だけだ。
去年のレコード大賞の買収疑惑が影響したのかもしれない。

昨日の夜ベトナムのハノイで仕事をしている会社時代の後輩と飲んだら、彼が日本は暗いと言っていた。
何で?と聞いたら、ハノイは若い人しかいないが、日本は年寄りばかり。
だから、色にしたらグレーということだ。
まあその通りだろう。

かたや、これから人口が増えて、若い人たちが希望を持って働いている国。
かたや、これから人口が減って、年寄りが若い人から搾取する国。
その思いはこの1年で強くなったなあ。

ハノイの公立小学校では第二外国語として日本語を習っている生徒が多いとのこと。
みんな、日本に行きたいと思っているらしい。
日本は豊かな国だ。
まだまだGDPで言えば世界有数の国。
20年後も彼らの憧れを保てるだろうか。

来年はトランプ大統領が誕生するし、イギリスはEUから脱退するし、いろいろあるだろう。
経済も不安定だろうなあ。

人工知能はどんどん発達するだろうし、ロボットも出てくるだろう。

そんな時代が来たら、良くも悪くも、キャリアの途中で仕事がなくなる人も出てくる。
だから、雇用の流動性を上げていかないといけないと思う。

なんか夢のない話になった。

それでも、夢を持って前を向いていきたい。

紅白歌合戦は今終わったが、視聴者と会場で圧倒した白組が負けた。
別にどっちが勝ってもいいのだが、司会の女性も驚いていた。
こういうサプライスが来年もあるといい。

良いお年を!


| | 考えたこと | 23:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
Gの世界、Lの世界
年末となると、恒例の忘年会。
同級生と会って旧交を温めた。
この年になると、いろいろある。
知人が退職をして、仕事をまた始めたという。
ある公的機関の事務所の仕事だが、ビックリするような事が多かった由。

これだけコンピューターが普及しているのに、まだ手書きの台帳を使っていて、それ故何かを一斉に変えるとなると時間がかかるのだ。
台帳の空いている列のところに、同じ事を延々と書く仕事をノート数冊分、やったらしい。
エクセルであれば、列を追加したり、一斉に何かを書き込んだりがすぐできる。
ぼくが会社で最後にやった図面の仕事など、コンピューターがあったから10万件弱のデーターの整理が2人でできた。
あれが、十数年前。
まだ、手書きの台帳を使っているのか、とビックリ。

また、最初に会社時代のように張り切って仕事をし過ぎた(別に会社時代のように普通にやったとのことだが)ため、2人の職員から仕事をもらう羽目になった。
その2人の仕事は重複しているところもあり、合理化することができる。
それを提案すると文句を言われたとのこと。
「これはこのやり方で」という感じだったらしい。
彼にとっては、仕事を合理的にやって、効率を上げることこそが仕事の一部だったが、その公的機関の事務所にはそういうDNAはなかったということだ。

あげくの果てには、ホチキスで同じ内容のメモをとめていく、という仕事もやったとのこと。
当然、メモを確認したら外すわけで、それならポストイットを使うとか、外す時間がもったいない、と思うものだ。
しかし、そんなことはおかまいなしだったらしい。
どういうわけか、外したホチキスの針がいっぱい入った箱も置いてあったとのこと。
何につかうのかはわからなかったらしい。

その上、表題のついたCD-ROMのいっぱい入った箱を上げたり下げたりの重労働。
その箱の中のもの順番に並べ替えて元に戻すという。
「何の順に並べ替えたらいいのか」と聞くと、「いろは順」だという。
普通はアルファベット順かあいうえお順だが、まだ「いろは」がここでは現役だった。
「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす」という「いろは歌」。
ぼくは小学校の頃習字を習っていたので、今でも暗記しているが、その順番に並べろと言われると難しい。
案の定、いろは歌を紙に書いたものを貼って、それを見ながらCDを並べ替えたとのこと。
いろは順に並べる必然性は全くわからなかったらしい。

そのあたりから、腰が痛くなり始め、先週歩けなくなり、ついに辞めるに至ったとのことだった。

民間企業と公的機関は仕事のやり方が天と地ほど違う。
それは大学でも同じようなもの(さすがに私立大学はちょっとはマシだと思うが)。
ぼくも十数年前にその洗礼を浴びた。
とても荒っぽい分け方だが、今の日本には、G(Global)の世界とL(Local)の世界がある。
産業再生機構などを手がけた冨山和彦氏も言っている。
ぼくは民間企業で25年間働き、その後学校法人で10年間働いて、それは強く思った。
最初に勤めたところはGの世界。後で勤めたところはLの世界だった。

Gの世界は海外の企業や同業他社などと張り合って開発や効率化を図っている世界。
一般的にビジョン、戦略や計画などが重要視され、常に危機感を持って仕事をする。
Lの世界は競争相手を意識せず、その組織の中の事情だけを考えている世界。
一般的に、順番、根回しや前例などが重要視され、常に組織の内部事情を考えて仕事をする。

Gの世界は主に民間の企業で、特に世界と伍して仕事をしている人たちで、Lの世界は公務員や学校法人など税金を使って仕事をしている人たち。
みんながみんなとは言わない。
しかし、大きく分けて、そういう違いがあると思う。

同級生はGの世界の仕事のやり方を、Lの世界に持ち込んで、不適応になってしまったということだろう。
Gの世界で勤めていた人も、定年後の仕事などはLの世界になることが多い。
そこで初めてLの世界を知ると、こういうことが起こる。

政府は働き方改革で、同一労働同一賃金と言っているが、ぼくの経験した2つの法人では正規社員、非正規社員の差はLの世界で大きかった。
下手をすると、非正規社員の方が大事な仕事をしていて、給料が安かったりする。
同級生もきっとそれを強く思ったはずだ。

こういう不条理をなくさないと、日本は良くならないと思う。

| | 考えたこと | 00:40 | comments(2) | trackbacks(0) |
Happy Holidays!
最近はアメリカではクリスマスに「メリークリスマス」を使わない方針になった。
クリスマスというのは、キリストのミサという意味になる。
特定の宗教に関係するということで、それならメリークリスマスをやめて、ハッピーホリディズに変えよう、ということだ。
休むのはいいけど、キリスト教以外の人はどうしてくれる、ということだろう。

こないだテレビを見ていたら、まさに「ハッピーホリディズ」と言っていた。

前にも書いたが、これはPolitically Correct(ポリコレ)ではないということで、政治的に言い換えたのだ。
スチュワーデスがキャビンアテンダントになったのも、「何とかman」が「何とかperson」になったのも、「太った人」を「重力に挑戦する人」というのも、みんなポリコレだ。

それらの動きに疲れた人が、トランプを支持したということらしい。
「ハッピーホリディズ」ではなくて、「メリークリスマス」でいいではないか、ということだ。
それは伝統的なアメリカの価値だったはずだ。
移民がたくさん入ってきても、国の伝統は変えられない、という人の不満が爆発したのだろう。
その気持はよくわかる。
人間、理屈だけでは動けない。どんどん窮屈になってくる。

宗教と民族の問題はややこしい。
特に移民で成り立っているアメリカなど、それが先鋭化するだろう。
どこかの州では移民が増えこの州の国語はどれなのか、ということも問題になったりした。
それらに対して、民主党政権は「政治的な正しさ」を追求してきた。
共和党も同じような動きをしていたのだろう。
それらを破ったのがトランプだ、という。

ワシントンの政治家たちに任せていられない、ケッタイな事も言ってはいるが、今までの政治家とは全く違う人に任せてみようという人たちが彼を支持をした、ということだ。

これからの世界は、宗教と民族の時代に戻ると思う。

ぼくらは冷戦の時代に育ったから、西と東しかなかったが、これからはもっと複雑だ。

これからは、大変だろうなあ。





| | 考えたこと | 01:00 | comments(2) | trackbacks(0) |
アメリカの初等中等教育改革
和田秀樹が、最近のアメリカ人のふるまいが変わったという記事を書いている。
サンフランシスコに行ったらしい。
自分が留学していた20年前と比べて、アメリカ人はよく働くようになった、という。
それは、シェアリング・エコノミーと言われるUber(自分の空いた時間でタクシーをするというシステム)などの影響が大きいのではないか、というのが彼の意見。

昔のアメリカ人は、個人主義が叩き込まれていて、一般の人たちが協力するということが少なかったが、これらのシェアリング・エコノミーの力が今や「生活保護バッシングや老人バッシングのように、福祉に頼る人をたたく国民性に日本人がなってしまったのと逆の方向性を感じた」と書かれている。

そして彼は、そこにアメリカの初等中等教育改革の成果をみる。
長いけれどもその部分を引用する。

「60年代に過度に自主性を尊重する、アメリカ版のゆとり教育のようなことをやって、深刻な学力低下に見舞われたアメリカは、レーガンが全米の学力調査を施行し、その結果を受けて、日本に倣った、計算や詰め込み重視の教育改革を行った。

 その教育を受けてきた人たちがUberやLyftの担い手である。

 それに対して、日本はゆとり教育をやり、それを廃したと思えば、またゆとり教育派が巻き返して、2021年の春からは東大を含めてすべての国立大学がAO入試化する。それをしないと予算を減らすと文部科学省が脅しをかけるような答申を出しているから、その通りになるだろう。

 テストの点が悪くても、面接や小論文で合格できるようになるのだ。入学希望書の作文などプロにやらせることだってできるが、それも採点の対象になる。

 格差社会化が深刻化し、消費不況も続いている。いいものでも高ければ買わないし、モデルチェンジしても買わないという買い控えはやみそうもない。年金をどんどん減らしていったり、介護施設を増やさなかったりという形で将来不安が強まれば、なお、これが深刻化するだろう。

 そして、Uberが白タクにあたるとかいって、緑ナンバーの車にしか認められないかと思ったら、民泊にも規制をかけて、180日以上やってはいけないと決まるそうだ。

 会社が首を自由に切れるような雇用規制の緩和をやるのに、一般市民が副収入が増えるようなことには、既得権益に遠慮してがっちり規制をかけたままだ。

 しかし、人間というのは不思議なもので、貧しいときや落ち目のときのほうが、もっと落ちたくないと保守的になる。

 アメリカは、その是非はおいておいて、変わろうとしてトランプを選んだ。日本は当分は自民党政権のままだろう。

 外国を知らないから、日本の落ち目は気づかれないが、ITの恩恵を最も受けていない国になっているのではないかとお先が真っ暗な気がしてしまうのは、私の被害念慮だろうか?」

最近、アメリカに行って、Uberなどの浸透を見た人の記事を時々見るが、それらの人々は本当に「アメリカは変わった」という感覚を持っている。
それには教育の改革の成果という部分も大きいと思う。

アメリカという国は、変えることに抵抗が少ない。
大統領が変われば、連邦政府のメンバーも総替えだ。
いろんな役職が変わる。
日本に比べて、トップダウンの意向が強い。

だから、既得権益は長い目で見たら守ることはできない。
そういう意味では既得権者には冷たい社会だと言える。
でも、一度脱落してもまた別のところで復活することができるからこそ、そういうことができる。
初等中等教育改革もそういう国だからやれるんだろう。

翻って日本は一度レールから落ちたら、なかなか戻れない。
高度成長期の成功体験をなかなか捨てることができないのだ。

年金のシステムなど、成長を続けることでしか成り立たないのに、いまだに変えることすらできない。
そのツケを若者に被せている。
非正規の問題も同じことだ。
中高年の正社員を守るために、いつでも切れる労働力を必要とした。
それが派遣社員だろう。
労働組合は正社員の味方であり、派遣社員の敵だと思う。

だから、若い人たちは将来像が描けず、結婚も出来ず、出生率は上がらない。

低成長にあった世の中を作っていかないといけない。
そのために、初等中等教育を変えていかないといけないと思う。
それと同時に若者に夢を持たせる社会を作っていかないと。

今の政治家にそういう思いはどれくらいあるんだろうか。


| | 考えたこと | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
人生の目標
人生に目標があるのだろうか。

それは生まれた時からあるものではない。
生まれたときには考えることもできないし、身の回りに反応するのみだから、目標など考えられない。

だいたい、目標という言葉を知るのに十数年はかかる。
人生の最初の十数年は、残りの人生を社会で生きるための勉強だ。
そういうふうに人間は社会を作ってきた。
人生という言葉も、わかるためには十数年かかる。

ティーンエージャーのややこしい時期あたりにそういう事を考える。
自分はどういう人間か、どうやって生きていきたいのか。
多くの人は最初の夢をここで挫折する。
アイドルになりたいとか、野球選手になりたいとか、そういうヤツだ。
そして、現実を見て自分の像を修正する。

それでも、人生の目標などは考えない。
漠然と、まだまだ生きると思っているからだ。
年寄りを見て、ああなるのにはまだまだ無限の時間があると思う。
無限と書いたのは、そういう意識すらしないということだ。

そこからは仕事と家庭で忙しい。
生きるのに必死だ。
目先のことをさばいているうちに、時間が経つ。
気がついたら中高年と呼ばれている。

順調にいけば、この頃には仕事も家庭もだいたい先が見える。
そして過去を振り返る。
過ぎてきた時間を思い返してみる。

その時に、初めて人生の目標という言葉に行き当たったりする。
それを明確に意識して生きてきた人もいるだろうが、少数派だろう。

自分はいったい何のために生きてきたのだろうとか考える。
若い頃の夢を思い出して、懐かしむ。

こういうことを考えだしたら、人生の目標など考えないほうがいい。

結論はこれでいいのかな…。

| | 考えたこと | 21:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
製造業の変革
まだ会社勤めしていた頃、フォード・モーターの記事を読んだ。
フォードは自動車を売った後、そのメンテナンスや修理代、保険などに使うお金の額を計算し、それも自社に取り込むことを考えている、ということだった。
その後、高級車には故障したら自動的にディーラーに電話をかけ、ナビの画面にそれが示される、という記事を見た。

それと前後して、ゼネラル・エレクトリックの飛行機のエンジンが、自動的に部品交換の連絡をして、メンテナンスをしている、という記事もあった。
最近はエンジンに取り付けられたセンサーを使って、燃料費を節約する飛行プランを作る、というサービスをやっている、という。
これが新しい製造業のモデルらしい。

モノを作った時に、その使い方がわかるようなセンサーを入れておいて、そのモノを効率的に使うための利用法を考案する、というようなサービスを売るのだ。

そういえば、学校に勤めているとき、コピーの複合機は同じような機能がついていた。
勝手にメンテナンスの人を呼んで消耗品を変える。
今までなら壊れてから変えていたところだが、壊れる前に交換して長持ちさせる。
これを発展させれば、どんな印刷の無駄があるかを分析をしたり、いつが忙しい時期かをみて、どうやって仕事を平準化するかといったようなサービスもできるだろう。

製造業はサービス化していく。
そのためにIoT(Internet of Things)=モノのインターネットということが必要になるのだと思う。

個人に関してはその出入り口がスマホになるんだろう。

例えば、ヘッドフォンから「この音量で聞き続ければ耳が悪くなる」というような情報をスマホ経由で連絡したり、シャープペンから「筆圧が弱すぎる」というような指示が出たりするサービスだ。
あまりいい事例ではないが、でも、そういうことが可能になる、ということだ。

あらゆるモノにセンサーが入り、インターネット経由で通信する。

それが製造業ではこういう形になる。
日本は標準化でアメリカや欧州に負ける。
でも、センシングの技術は進んでいると思う。

製造業はどんどんコスト面で海外に出ていっているが、このようなサービスを含めたモノはまだまだこれからだ。

日本のメーカーが頑張ってほしい。

| | 考えたこと | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
深層Web
ぼくらが馴染んでいるインターネットは表層Webというらしい。
表層Webのデーターはグーグルやヤフーなどの検索サイトで調べることができる。
それはちゃんとインターネット上で住所がわかっており、その意味で誰が作っているかがわかるからだ。

しかし、それらはあくまで表層で全体の1割程度らしい。
その他のインターネット上のデーターを深層Webと呼ぶ。
これらは匿名でアクセスできるソフトでないと見ることができない。
それらの多くは個人のデーターだったり、政府や企業のデーターだったりする。
中にはヤバいデーターもある。

CSIサイバーという、インターネット上の犯罪を摘発するドラマではもっぱら深層Webが出てくる。
ハッカーたちが連絡に使ったり、どこかをハッキングするのに使ったり、ウィルスなどがうごめいているらしい。

表層だけでも膨大なデーターなのに、深層Webにはもっとたくさんのデーターがある。
考えただけでも、気が遠くなる量だ。

中には違法のものの売買サイトもあるらしい。
銃や医薬品なども買うことができる。
決済はビットコイン(電子通貨)でやっている。
アマゾンの深層版というところだろうか。

インターネットは自由だとはいうものの、表層Webには管理人がいる。
だからこそ、みんなが安心して検索できる(中にはヤバいサイトもあるが)。
しかし、深層Webは無法地帯だ。

深層Webでも、合法的なものを置いてあるところはディープWeb、違法の世界をダークWebと呼ぶらしい。
ドラマの中でFBIのサイバー部隊が扱うのは、ダークWebになる。

普段生きていたら知ることのない世界が闇に大きく広がっているのだ。

どれほどの情報が日本語でダークWeb上にあるのかわからないが、2ちゃんねる風の掲示板などがあるらしい。
ただし、素人がそういうソフトを使っても、なかなかうまくいかない。
捕まるぞ、と警察は言っている。

ダークWebにもそういう素人が増えて、最近は初歩的な質問をする人もふえているとのこと。

興味本位でソフトをダウンロードして入ってみることはできるが、やめておこう。

インターネットは底が深いのだ。

| | 考えたこと | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
今年のクリスマス
去年の12月にクリスマスにほしいものを書いた。
今年になれば、ぼちぼち家庭用の会話ができるロボットが売り出されるだろうと書いていて、その中でもJIBOというMITが作ったものが良さそう、と書いている。

残念ながら、まだJIBOは発売されていない。
クラウドファンディングの情報によると、日本での発売は来年になるらしい。
でも、開発当初は数万円というだったが、実際には値段が10万円以上になっている。
サイトによっては、このプロジェクトは頓挫したという記事もあって、よくわからない。

家庭用の会話ロボットは、あと数年はかかるかな。
残念だがもうちょっと待たないといけない。

今年もいろいろな製品が出たが、「これは」というものがない。

強いて言えば、ギターのワイヤレス通信器が安くなって、個人で使えるようになった。
パソコンの通信関連の技術と電池の技術が使えるようになったからだろう。
中国製なら、1万円ちょっとで買える。
それとタブレットで制御できるアンプ。
こちらも無線で、パソコンからの音楽も流せる。

いちいち線をつなぐのはややこしい。
ギターのシールドケーブルは太いから、取り回しに困る。
ワイヤレスなら、アンプの置き場所にも困らない。

今年はそれくらいだ。

欲しいもののリストがどんどん短くなる。

そのうち、なくなるのかもしれない。
それはいい事なんだろう。
でもちょっと寂しい。

欲しいものがたくさんあった若い頃が懐かしい。

| | 考えたこと | 00:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
還暦
来年の誕生日が来ると、還暦だ。
入社の頃、定年は60歳だった。
その当時、60歳で定年する人を見ると、長いこと頑張ってこられたんだなあと思った。
それにふさわしい年輪があったのだ。
自分が若かったからかもしれない。

ぼくが入社したのは1979年。
その当時、60歳を迎える人たちだから、戦前生まれになる。
20歳前後で入社したとして、40年程度働くから入社年度は1940年くらいだ。
そのころにもう会社はあったが、戦時中はどうなっていたのか知らない。
戦後に中途入社した人も多かったんだろう。
終戦が1945年だから、それでも30数年働いたことになる。
入社当時退職を迎えた人たちは、そういう年代の人たちだった。

戦前、戦中を生き抜いてきた人たちは、苦労もされただろうし、粗食にも耐えてきた。
だから体力もあると言われていた。
そのことの真偽は知らない。
実際には、当時の男性の平均寿命は73歳。今より7歳下だ。
それでも、定年後10年以上は人生が残されていた。

今は男性の平均寿命が80歳。
この数十年で日本は豊かになったし、人にとっては住みやすくなった。
例えは悪いが、屋外で暮らす野良猫の平均寿命は4年ほどで、それに対して家猫は15年以上生きる。
それほど家の中はいい環境だ。
だから長生きになった。

若い人にツケを回してきた結果の今が1000兆円以上の借金。
だから、これからはそうはいかないだろうが…。

自分がその60歳になる。
若い頃には想像もしていなかった。

日本には、中国から伝来した十干と十二支という暦がある。
ぼくは1957年生まれだから、十干(じっかん)では丁(ひのと)、十二支では酉(とり)になる。
干支の12と十干の10の最小公倍数が60になるので、生まれて60年経てば十二支でも十干でも同じものが来る。
それを還暦という。

十干という数え方は還暦以外ではあまり意識しないものだ。
甲乙丙丁というところまでは、昔の成績で使われていたから、まだ馴染みがある。
そこから後の戊己庚辛壬癸はほとんどわからない。
そういえば、甲子園球場は十干、十二支の最初の年「甲子(きのえね)」にあたる1924年に竣工されたので、そういう名前になったと聞いた。

今は定年が延長され、65歳になっているところが多い。
だから、前期高齢者は65歳から74歳ということになっている。
寿命が伸び、年金が不足する分、5歳後送りされた、ということだ。
そのうち、定年制はなくなるだろうし、それに伴って働く時間も伸びてくる、というか、そうせざるを得なくなる。

若い頃は自分が60歳になった世の中のことを全く想像していなかったが、最近は実態が見えてきた。

若い人たちに頑張ってもらわないといけないのだが、それを支援する仕組みがあまりなく、どちらかというとこの国は若い人に冷たい。

それを、生きている間に変えられたら、と思う今日このごろ。

明日はクリスマス・イブだ。

| | 考えたこと | 21:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
最近増えた店
最近道を走っていると、やけに増えた店がある。

一つは、葬儀屋だ。
千の風とか、平安祭典、ベルコ、公益社、クエリ…など。
大きなホールのところもあれば、家族葬に特化したようなところもある。
高齢化社会は多死社会でもある。
昔は結婚式場が多かったが、今は葬儀屋に変わった。
長生きになったから、社会との接点も切れ、家族葬が増えたのだろう。
長らく続く不景気もある。
その世相をよく表している。

もう一つ増えたのが、コーヒーのチェーン店。
ドトール、スターバックスに加えて、タリーズ、サンマルク、倉式珈琲、星乃珈琲など。
昔の喫茶店はほとんどなくなったが、代わりにこれが増えた。
セルフで安いコーヒーを出すが、わりとおいしい。
店にいるのは高齢者が多い。
年金生活者にとっては、いい時間つぶしの場所になる。
不況の影響もあるだろう。

外食のチェーン店の種類も増えた。
昔はこの辺ではロイヤルホストとマクドナルドが多かった。
いつの間にか、しゃぶしゃぶ、安いイタリアン、回転寿司、焼肉、ラーメン、ハンバーグ、ステーキ、うどんなど、いろんな店ができた。
個人の店が減って、チェーン店が増えた。
値段のせいだろう。
やっぱり長らく続いた不況の影響だと思う。

店は世相を表す。

町並みが変わるのだ。

「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」

人生は水に浮かぶ泡のようなものだ。

浮かんで消えていく。

It is Life.


| | 考えたこと | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
グーグルのリクルート
グーグルは検索サイトの重要性にいち早く気づいた。
インターネットは知識の宝庫だが、それを見つける術がなかった。
それを発明したことが、グーグルを世界一有望な企業にした。

人は興味を持ったことや、知りたいことをインターネットで検索する。
逆に言うと、その検索語でその人の興味や知りたいことがわかる。
それを広告とひっつけたのが、グーグルのエライところ。
検索語に関係する製品やサービスの広告を、検索結果のページに表示したらいい、ということだ。

今までその製品やサービスを誰が欲しがっているかわからないから、マスメディアで不特定多数に対して行っていた広告だが、これによって欲しがっている個人を特定できて安く有効な広告ができる。
これは画期的だ。
これからまだまだマスメディアの宣伝はネットに移行していくだろう。

こないだの日経を見ていたら、そのグーグルがリクルートにもそれを使い始めたとのこと。
プログラミングをしている学生が、ある日グーグルのサイトに「遊んでみる」というバナーが現れ、それをクリックしてプログラミングの問題を解いていると、あるレベルでグーグルの採用担当者の連絡先が登場したらしい。
試験をするよりも簡単にレベルがわかり、その人が普段興味を持っている対象もわかる。
もちろん、個人情報の問題はあるのだが…。

これは個人の検索履歴などのビッグデーターによって、仕事が決まる時代が来ているということだ。

検索の情報というのは個人の興味の領域に関わるし、それはどちらかというと得意なことなどにつながっているから、採用とはつながりやすい。
そこにグーグルは目をつけたということだ。

知識はインターネットから仕入れるという時代。
何でも覚えなくても、ググれば出てくる。
時代が進んで、みんなが外部記憶装置を持ったようなものだ。
そのおかげで、人工知能も急速に賢くなった。

その入口が、検索サイト。

エライ時代になったものだ。
グーグルの力は大きい。

その力をいい方に使ってほしい。




| | 考えたこと | 01:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
クールでない日本
アニメといえばクールジャパンの代表格。
海外ではドラえもんやクレヨンしんちゃん、セーラームーンなどのキャラクターが有名だと聞く。
今は一時よりも熱が冷めたようだが、それでも存在感があるらしい。

アニメの輸出は、日本の文化の輸出でもある。
実写ほどの制約がないために、作り手が思い通りの世界を描けるのも魅力だろう。
宮?駿の世界など、アニメでなければ描けない。
そこに日本人の価値観みたいなものも見える。

興行収入も大きくなってきた。
「君の名は」は日本でもヒットし、お隣の中国でもヒットしているという。
さぞかし、アニメ関係者は儲かっているのかと思ったらそうでもない。

若いアニメーターの生活実態調査というのを見たら、彼らをとりまく状況は良くない。
なんと彼らの53%が経済的に自立できてないという。
そのため、家族の支援を受けて生活している。

AEYAC若年層アニメーター生活実態調査によると、経験年数3年以内のアニメーター153人のうち、実家ぐらしが35%いて、主な家計支持者ではないという回答。
また、65%の実家ぐらしでない人のうち、31%が仕送りをもらっている、という結果。
この合計が53%になるという。

この理由の一つは、アニメ映画のエンドロールを見ていると、たくさんの中国人の名前が出てくることにもあると思う。
多くの製作者が人件費の安い中国のアニメーターを使っているということだ。
アニメは労働集約産業であり、人件費を切り詰めて成り立っている。
当然、安い労働力に対抗するために、日本のアニメーターの給料も切り詰められる。
それが悪魔のサイクルになって、より一層安い単価で働くという環境を生む。
これでは、やりたい人もやれなくなる。

アニメが好きで、憧れてアニメ業界で働きたいという若い人も多い。
しかし、食うや食わずの生活に耐えて、ようやく何人かが上に上がっていくという構図だろう。
アニメ業界を支えている裾野の部分が甚だ危なっかしい。

余暇産業はこれからの成長産業だ。海外で稼ぐこともできる。
その一つがアニメだろう。
コンテンツを生み出せば、そこからポケモンのように広がっていく。
2次元のアニメーションという日本人のお家芸は、まだまだ通用すると思う。

どうにかして、若いアニメーターたちが自立し、食えるようになってほしいと思う。

クール・ジャパンと言っているが、食えないアニメーターたちに支えられているとしたら、ちっともクールではないぞ。


| | 考えたこと | 00:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
人工知能営業
コンピューターで自然な言葉を扱う技術が進んできた。
いろんな会社が、会話をするロボットや、LINEなどでチャットができるサービスを提供している。
でもまだ実験的なものだったり、話し相手のレベルとしては高校生くらいだったりする。

しかし、こういうのは日進月歩だ。
人工知能がどんどん賢くなっていくから、そのうち大人並みになってくる。
あと10年もしたら、きっと業務で使えるようになる。
そのうち、営業の電話もできるようになるだろう。
もちろん、メールも書くようになっている。

そういう時代が来たら、人間はどうしたらいいのだろう。
その人工知能をどう使うかを考える役をするんだろうか。
馬車がなくなって、御者の仕事がなくなり、その代わりクルマの運転手ができたように、新しい仕事ができるんだろうか。
どうも想像がつかない。

今までは人間が使う道具が変わるだけだったが、今回は人間そのものが置き換えられる。
今までの機械化のプロセスとはちょっと違うような気がする。

これから働き始める若者には、社会保障だけではなく、そういう危機も横たわっている。

だからこそ、年寄りは控えめにしないといけない。

今まで体験したことがないような時代が来る。
そのためには教育の形も変えないといけないだろう。
果たしてそれをどう変えたらいいのか。

難しい…。

| | 考えたこと | 00:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
追悼 島木譲二さん
島木譲二というと、「大阪名物パチパチパンチ」、「カンカンヘッドは男のロマン」など定番のギャグが思い浮かぶ。
元は警備員で芸人志望。間寛平だったかが声をかけ、吉本に入ったという経歴の持ち主。
昨日の新聞によると、亡くなったとのこと。

吉本のギャグというのは、観客との約束事だ。
あいつが出てきたら、これをやる、と分かっていて笑いを取るというもの。
ぼくが吉本新喜劇を見始めた頃、定番だったのが平参平、岡八郎といったところのギャグ。
ライブの劇場でなければ成立しない芸だ。

俺たちひょうきん族以降、お笑いはスタジオでの録画が増えた。
それと同時にテレビでは、楽屋落ちの笑いがメインになった。
その代表格が明石家さんまだろう。
ああいう密室の笑いは、劇場では通用しない。

今となっては古き良き時代の吉本の劇場ギャグ。
新喜劇の王道を行く芸人だった。

体当たりの芸人で、頭から血を流し、それでも笑いを取ったこともあった。
懐かしい。
テレビで見なくなって、だいぶ時間が経つ。
記事によると、病院に入院してもギャグで笑わせていたとのこと。

いろんな芸人にイジられて、それがすごく面白かった。
それもこれも、定番のギャグがあるからだ。
こういう芸人が減った。
昭和の時代の芸なのかもしれない。

今はキャラクターそのもので笑わすとか、定番ギャグを持っているというような芸人の時代ではなくなった。
回りの雰囲気を読み、当意即妙のやり取りができる器用さが求められる。
彼は不器用を逆手に取って笑わせる人だった。

お笑い芸人がニュースのコメンテーターをやる時代。
そんなことは昭和の時代には考えられなかった。

古いタイプの芸人がまた一人鬼籍に入った。

天国でもみんなを笑わせてほしい。

合掌。


| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
地上波の劣化2
東洋経済のネット記事に、ジャニーズ絡みで芸能事務所の寡占化が進み、テレビ局よりも強くなっている、というのがあった。

まあ、歌の世界でテレビメディアで取りざたされるのは、ジャニーズ、エグザイル、AKBというところだから、寡占ではある。
でも、昔を考えても、ホリプロが強かった時代もあれば、渡辺プロが強かった時代もあり、売れっ子を擁している芸能プロが強いという事はあったと思う。

ただ、その時代はメディアというとテレビ1強だった。
だから、テレビ局の側も強かったんだと思う。

振り返って、今は地上波の民放は凋落の一途。
広告費が出ないから、お金がない。
原因はインターネットだ。安価で有効なインターネットの広告が伸びている。
若い人たちのテレビ離れも深刻になってきた。
それらの影響で、芸能プロがテレビ局を操るようになったということだろう。

今回のSMAP解散は、一番苦しいフジテレビがジャニーズ事務所の言うことを聞いて、キムタクにSMAPの事務所移籍を否定させる会見を放送したのがきっかけだろう。
その後も、事務所側の意向に沿って事が運んできて、12月末で解散ということになった。
普段威勢のいい芸能レポーターたちも、ジャニーズ事務所に対しては、事務所からのコメント垂れ流し状態だろう。
彼らがジャーナリストではなく、サラリーマンだったということがよくわかる。
芸能界に近ければ近いほど、テレビ局に近ければ近いほど、ジャニーズ事務所を批判するようなことはできない。
元気がいいのは、もともと芸能界には関係なく、フリーでネット記事を書くような人たちだけだ。
テレビやラジオのメディア関係者からは、まともな状況説明はない。
知っていても、恐くてできない。
どこかの局が、元SMAPのマネージャーに独占インタビューをやってもいいのに、そんなことはあり得ない。

今は過渡期なんだろう。
朝から夕方まで、わけの分からないワイドショー(今は情報番組というらしい)や、プライムタイムに何のためにやっているのかわからないバラエティ(昔なら深夜枠だったようなもの)を堂々と垂れ流している地上波は、見ている人のレベルが下がっていることを表しているのだと思う。
まともなニュースを望む人たちは、すでにネットの世界に移動している。
知りたい情報を検索して、グーグルの上位に示される記事を2つ3つ読めば、それでおしまい。
ニュースサイトを見れば、どんなことが起こっているかはわかる。
BSのワールドニュースでは、世界を知ることができる。

今の地上波が、どんな風に生き残り策を考えているのかはわからない。
何も考えていないから、今の状態になっているのか。
ネットとの連携や、今の地上波にしかできないことなど、考えないといけないのだろう。

でも、ジャニーズ事務所がテレビ局よりも強くなりすぎて、芸能マターとはいえ、真実を報道できないような状態はオカシイと思う。
そんな姿勢なら、他の事でもまともな報道などできないだろう。
長いものには巻かれない、というのがジャーナリズムだったはずだ。
この状態は軍隊の提灯持ちになった戦前の状況と変わらない。

これからどうなっていくのか…。


| | 考えたこと | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
総務課が重要?
会社勤めから学校法人に代わって驚いたことはたくさんあるが、その中の一つ。
総務課が重要なポジションだ、ということを聞いた。

会社の時には総務というとなんかみんなの事をやっている、という程度の認識で、そもそも何をやっているのかもはっきりわからず、大した部署ではないと思っていた。
実際、そんなに人もいなかったし、そんな重要な部署ではなかったと思う。
25年間の会社暮らしで、総務部と話をした覚えがない。

やっぱり会社というと、販売や生産に関わる直接部門だ。
文系なら営業、理系なら技術、製造、品質保証というところ。
まあ、企画や経理というところも場合によっては寄与があるが…。
それ以外の部署は、儲けにあまり寄与していない。
それが普通の会社員の認識だと思う。

大学というところは教育を商品として売っている。
どこのホームページを見ても、ウチの大学はどんな教育ができる、その結果どんなふうになれる、みたいな宣伝が多い。
だからといって、カリキュラムの詳細を説明しているわけでもなく、どういう科目に力を入れているかとか、どんな人材育成を重視しているかとか、そういうところは少ない。
あくまでイメージだ。
教育というのは、煎じ詰めればどんな先生がいるか、ということだ。
でも、先生はいつ変わるかわからないし、それを宣伝はできない。
だから、トータルでイメージを売る。
今は学生を出して、コメントさせるというのが多い。

つまり、商品を簡単に変えることができないから、広報戦略は大事になるがそれはイメージだけだ。
事実、入試課の仕事の大きな部分は広報をどうするか、ということになる。
しかし、それも突飛なことはできないから、毎年ちょっと目先を変える程度だ。

おまけに大学は偏差値で序列化されているから、いくら宣伝してもそんなに変わらない。
それよりは地道に高校訪問して、受験生を送ってもらう方が確実だ。
要は商品を売る上で、大きな変更や工夫の余地が少ない。
画期的な新製品など生まれようがないのだ。
そうなると、全体の調整業務をやる部署、予算編成にかかわる部署が大事になるから、総務が大事、ということになる。

それがすぐには分からなかったが、だんだんと理解した。
民間企業とだいぶ違うんだなあということだ。

おまけに学校というところは、前例を重視する。
何か説明すると、それは過去にやっているのかという質問が来る。
やってません、というと、それは慎重にしろという。
ほとんどやめるということだ。

また、他の大学でやってます、というとそれなら考えよう、ということになる。
要は自分のところが最初になると、失敗した時の弁解ができないからやめようという感じだ。
前例があったり、他学でやっていたりすると、それがあるからやってみたけどダメだったと言える。
だからどうなんだ、ということだが…。

ぼくは総務部が重要、というような組織はロクな組織ではないと25年間で刷り込まれた。
肌が合わないということだ。

もちろん、ずっと大学や教育業界で過ごしてきた人は、それしか知らないから何も疑問に思わない。

ここにとてつもなく深い溝がある。

それを超えるのは難しい。


| | 考えたこと | 23:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
袖振り合うも…
昨日は一度一緒に仕事をした人と会った。

2008年から2009年あたり。
ぼくが大学の就職の仕事をして2年目くらいだ。
関西の企業30社ほどが出資して作った会社で、いろんなことをやっていた。

当時の就職事情はそんなによくなかったし、何かいい就職支援の方法はないかと言っていた時だった。
ちょうどそんな時、女性の新入社員の来訪を受け、会社の紹介を聞いた。
結局何ができるのか?と聞いたら、まだまだ入社したてといったフレッシュウーマンが「こんなのもできます、これもできます。こんな人材がいます」というような資料を出してきて、ちょうどいいから使ってみよう、ということになった。

内容はいろんな業界を知っている人に来てもらって、1日でそれらについて知ることができる、というもの。
当時のノートを見ると、休みの日に午前、午後に分けてやろうということになり、50人ほど集まった。
ブライダルなど人気業界もあれば、渋い専門商社もあり、良い企画だったと思う。
残念ながら、その女性が海外に行ってしまってしりすぼみになってしまったが…。

その時にその女性営業の上司だった人と再会した。
学長に会ってもらったし、ご自身もセミナーで喋ってもらったりしたので、ぼくの名前を覚えていてくれたのだろう。

双方ともその時の仕事は辞めている。
お互いにその後の顛末を話す。
興味深い再会だった。

まあ似たような業界に今もいるから、出会えたのだろう。
袖振り合うも他生の縁というが、まさにその通り。
この言葉は晩年に似合う。

今の老人は昔に比べて、10歳くらい若くなっているから、昔で言う晩年が10年伸びた。
だから、出会いも多いのかもしれない。

生きていると面白いことがある。

| | 考えたこと | 22:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
教育困難校
東洋経済のページに「教育困難校」の記事があった。

ぼくは教育困難校という言葉を知らなかったが、それは読んで字のごとく「さまざまな背景や問題を抱えた子どもが集まり、教育活動が成立しない高校」のことだ。
筆者は高校受験こそ人生前半の最大の分岐点であり、「高校という学校段階は、子どものもつ学力、家庭環境等の「格差」が改善される場ではなく、加速される場になってしまっているというのが現実」だと説明する。

記事にはいかに教育困難校が大変なところか、ということが書かれている。
読むと、本当に大変だと思う。
この記事の最後はこうある。

『「教育困難校」の生徒たちは、周囲から「クズ高校」「モンキー高校」と軽蔑され、ただでさえ低い自己肯定観を高校3年間で、完膚なきまでに傷つけられてしまう。将来の夢も狭められ、ほとんどの生徒は貧困層予備軍として社会に出ることになる。在校中の中退率も高く、消息がわからない卒業生も少なくない。せっかく正社員で就職できても、社会人として必要なさまざまな能力が身についていないので、短期間に辞めてしまう例も多い。
だが、忘れてならないことは、彼らは家庭環境や、学校の教育環境、さらには周囲に気付かれなかった病気や障害などの理由で「教育困難校」に入るしかなかったという点だ。そんな彼らをこのまま打ち捨てておいてよいのか。それは、そこに通う生徒にとっても、日本社会にとっても大きなマイナスにならないか。そこを考える出発点として、「教育困難校」の実態について、今後、多方面から述べていきたいと思う。』

教育困難校の生徒や先生は本当に大変だと思う。

しかし、それを何とかしようと思うと、小中学校の状況を変えないとどうしようもない。
高校に上がってきた時には何ともならない状態だからだ。
元から絶たなければ、修復はできない。

繰り返すが、高校に入ってきた生徒たちを何とかする事は必要だし、大事なことだと思う。
でも、究極の対策は小中学校の教育体制を変え、入学してくる生徒たちを変えるしかない。
対処療法は必要だが、いつまでもそれを続けているわけにはいかない。
やはり大きな問題は義務教育なのだ。

もちろん家庭にも問題はある。
景気も悪い。
高齢者が増え、若い人たちに金が回らない。
しかし、それは当分変わらない。

早くなんとかしないといけないのは、義務教育のシステムだ。

そういうことを考えることこそ、教育関係者の仕事だろう。
若人たちが潰れていくのを見るのは辛い。

プログラミングを教えるのも大事だし、英語を教えるのも大事なんだろう。
しかし、なぜ教育困難校に行くような高校生が出てくるのか。
それをどうやったら減らせるのか。
そういうことこそ、考えなければならない問題だろう。

何でそういうことができないのか…。

| | 考えたこと | 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
Google翻訳
Google翻訳がニューラルネットワーク技術を応用して賢くなったとのこと。
つまり、英語のページをGoogle翻訳で日本語にすると、今までよりもこなれた日本語にできるということだ。
また、ユーザーが使えば使うほど賢くなるということらしい。

そういうことなら、一度やってみようと使ってみた。
Web上にある英語の文章を翻訳したが、残念ながらまだまだだと思う。
今までがどうだったのかはわからないが、とても「こなれた日本語」にはなっていない。

見た感じ、関係代名詞で複文になってたりすると、語順が日本語ではなくなったりする。
今のところは、やはり英語が分かる人が見て、合っているかどうかを判定して、ちゃんと翻訳を修正する、ということを多くのユーザーがやらないと、まともにならない、という感じだ。

しかしGoogle翻訳のページで、短文を入れるとほぼ完璧に訳す。
たまに"old"を「年上の」と訳さず「古い」と訳したりするが、意味は通じる。
中学生の英作文なら、日本語を打ち込めば正しい英語になる。
逆もありだろう。

実用的にはまだまだだが、日本の中学生にとっては強い味方と言える。
こういうのが出てくると、英語の宿題などどうするのだろうか。
本当に日本語を入れたら、英語が出てくるのだから、考える必要がない。

電卓が出てきたのとはワケが違う。
あれは、計算順序や計算方法がわからないと使えない。
数学の宿題にとっては、電卓はそんなに強い味方とは思えない。
でも、Google翻訳はパソコンの使い方がわかって、キーボードが打てれば使える。

この調子で翻訳技術が進むと、音声認識と翻訳アルゴリズムができて、コンピューターで同時通訳もできるかもしれない。
そうなってしまえば、習う必要もなくなる。
英語を習うことが陳腐化するということだ。

それでも、母語以外の言語を習得することに意味はあると思う。
しかし、それを全員がやる必要はなくなる。
あと10年経ったら、そういう時代になるのかもしれない。
そうなると、今の小学生が全員英語を習う意味があるのだろうか。

まだ来ない未来のことを云々しても仕方ないかもしれない。

しかし、壮大なムダを無くすためにはぼちぼち考えてもいいのかもしれないなあ。

| | 考えたこと | 21:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギャンブル依存症
前、会社の後輩がパチンコで1日に16万円勝った、という事を聞いて、ビックリして記事を書いた。
1日に16万勝てるということは、その額を負けることもできる、ということだ。
それがギャンブルというもの。

ぼくは大学で下宿していた頃にパチンコをしたことがある。
パチンコ屋の道を隔てて向かい側が銀行で、負けるとそこのATMに行って仕送りのお金をおろして、またやった。情けない話だ。
ただ、あの頃のパチンコは手で打つのでそんなにたくさん打てないし、せいぜい数千円勝てばいい、というものだった。

それが変わったのは会社に入って、みんなで出張している頃。
そこから勝つ金額が万単位になった。
その頃はもうパチンコはやめていたが、台がデジタル化され、2000年代の後半にはどんどんギャンブル性が上がっていった。

ギャンブル依存症になって、主婦がサラ金に走ったり、子どもを駐車場に置きざりにしたりという事故も出てきたと思う。
当時も書いたが、1ヶ月分の給料を1日で負けることができるような賭博場が街のそこここにある国などないと思う。

民進党がギャンブル依存のことを言うなら、まずパチンコを何とかするべきだ。
それを放置しているのは明らかにオカシイ。

何度も言うが、こんな国はないと思う。
パチンコは遊戯ではなく、ギャンブルだ。

依存症のことを言うなら、まず規模からいってもパチンコだ。

いい加減に何とかしないと…。


| | 考えたこと | 22:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
多死社会
世にいう少子高齢化というのは、つまり多死社会ということだ。
今までよりも多くの人が死ぬ。
そのせいで、焼き場が混んでいるらしい。
日経ビジネスに記事が出ていた。

首都圏では、葬式をしないで火葬してしまうという人が年々増えているとのこと。
何でも火葬の1週間待ちは当たり前ということらしい。
葬儀社が先取りして抑えておくということもあるとのこと。
旅行者が飛行機を予約しておくようなものだ。

いろいろと大変だ。
死ぬのも楽ではない。
もちろん、死ぬ方は火葬の手配などできないから、残された家族がすることになる。
首都圏は人口が多いから、年寄りも多く、火葬が間に合わない。
阪神間はまだそこまでいかないんだろう。

首都圏で焼き場が混むのは、葬式をせずに直に火葬して、お別れもするから時間がかかるというような事情もあるらしい。
葬式をせずに、直に火葬ということならお寺は商売上がったりだが、時代はそうなってきている。
戒名などはどうしているんだろうか。
自分で適当に付けているんだろうか。
別に要らないと思う人が直葬をやっているのか。

ウチの祖母や父はやっぱりお墓をちゃんとしようと思っていた。
広島の三次というところにあった墓を神戸に持ってきて、祖母と祖父、そして自分が入る墓を神戸の山奥に買った。
母もそこに入るつもりだと思う。

墓のない人生ははかない人生だ、というCMがあったが、墓があってもややこしい。
墓を買うと墓地に行かないといけなくなる。
彼岸のたびに墓参りしないといけない。
ぼくは、そういうことをしないといけないという気はある。
小学校のころ、母方の祖父のお墓参りにいつも行っていた。
でも、息子の世代はそうではないと思うから、難しいと思う。
せめて交通の便がいいところにしたらいい、などと考える。

もし墓を作らないとすれば、焼き場に全部骨を置いて帰るのだろうか。
それでもいいとは思う。
ややこしい骨壷など、ない方がスッキリしていい。

どのみち、会ったことがある世代までしか墓参りなどしないだろう。
いずれ忘れられていく。
会ったことがない、戦死した祖父など墓参りしても感慨はない。
その人がいなければ、自分は存在しないのは事実だが、会ったことがないものは難しい。

結局、生まれて、そして死ぬ。
それでいいのだ。

| | 考えたこと | 23:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
正しいこと
正しいことをやるのは簡単だ。
でも、何が正しいかを決めるのが難しいのだ。

テロだって、やっている側からすると至極正しいことだ。
南シナ海で中国がやっている拡張主義だって、中国からすれば正しいことだ。

国の数だけ正しいことがある。
いや、人の数だけ正しいことがあると言ってもいいのだろう。

では、みんなが納得する正しいことはどうやって決めるのか。
共通の価値観を持たないといけない。

今の時点でこれは正しいと思うのは民主主義が一つ。
自由、平等というような価値には普遍性があると思う。
少なくともぼくら戦後の民主主義教育を受けてきた人間はそう思っているはずだ。
だから、差別や格差という問題は悪だと捉えるんだろう。
でも、これは国によって違うみたいだから、難しい。
民族とか人種とか、歴史が絡むとややこしくなる。

人が豊かな生活を営むために石油を燃やす自由と、温暖化で沈んでしまう国はどう折り合いをつけるのか。
アメリカ・ファーストと言ってトランプ氏が次期大統領に選ばれたが、それなどはもろに引っかかる。
自国の利益と世界の利益は相反する場合が多くなってきた。
21世紀はそれがぶつかる時代なのかもしれない。

正しいことのもう一つは、科学だと思う。
人間を超えた科学の法則などは、やっぱり絶対的な正しさがあると思う。
だから、「それでも地球は回っている」と言ったガリレオは讃えられているのだろう。
その結果、宗教で争いをしてきた西欧の社会は、政教分離で神を捨て科学を取った。

宗教は大事だが、科学的には神は存在しない、と思うことにしたのだ。

しかし、それもイスラムの一部の国々には通用しない。
やっぱりイスラム教ファーストなのだろう。
実際、以降アメリカでも宗教の自由の揺り戻しで、移民であるモスリムの人たちが排斥されたりしている。

今の世界を見ていると、民主主義と科学という2つの価値がどんどん下がっているように思える。
ぼくらはそれを両方とも無邪気に信じている、最後の世代になるのだろうか。

1945年に第2次大戦が終わり、長い冷戦が続いて、また熱い争いの時代が来るんだろうか。

人類はそんなにバカではないと思う。

でもなあ…。

| | 考えたこと | 22:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
自動車産業の未来
日本の基幹産業である自動車産業で、このところ未来を危ぶむ記事がでている。

主に、今の自動車が電気自動車に変わっていくことによるものと、ITが進み社会の形が変わっていくことによるものの2つの要因があると思う。
ぼくは25年間自動車の関連の仕事をしていたので、どうしてもそういう記事があると読んでしまう。
たくさんの雇用も抱えているし、どう変わっていくかにうまく対応しないと、国がヤバイことになると思う。

電気自動車に変わるのはまだまだ先だと思っていたが、そうも言っていられなくなってきた。
たくさん車があっても、新車が電気自動車になってしまえば、産業の形が変わる。
要は部品メーカーはどうするのか、ということだ。

電気自動車はモーターで動く。だから、エンジンが要らない。
エンジンのパーツはネジ1本まで含めると1万〜3万の部品になるという。
それがモーターになると30から40ほどで済むという。
インバーターなどを入れても、100くらいらしい。
これらの部品を作っているメーカーはどうなるか、ということだ。

モーターのトルク特性から、変速機も要らないという。
排気ガスは出ないから、排気のシステムは不要だ。
もちろん、電気自動車になって増える部品もあるが、それは一般的な電子や電気の部品になるのだろう。
だから、新規参入してくるメーカーもたくさんあるだろうから、今の部品メーカーは大変だ。

それ以上の変化だと思われるのが、社会の変化だ。
こないだ見た映画では未来の世界では誰もクルマを所有しないという。
どこそこまで行きたいと希望すれば、勝手にクルマがやってきて、そこまで行ってくれる。
それが未来像になるということは、個人が所有することによる余分なクルマは要らなくなって、社会でクルマをシェアする、というシェアリングエコノミーの世界になるということだ。
これはあり得る社会だと思う。(ぼくは自分のクルマを所有したい世代だが)
だから、クルマの数は減ることになる。

そういうことまで考えると、自動車産業の未来はややこしい。
既存の部品メーカーにとっては、シビアな世界になる。
また、既存の自動車メーカーにとっても、かなりシビアな世界だろう。

そこそこの規模であれが、どの企業もそういう未来像を考えて、将来の戦略を練っているんだろう。
幸い、ぼくはその世界は見ないで済むと思うが、そういう世代の人たちがどれだけ真剣にそれを考え、どうやって生き残りを図るかが、生き残りの鍵になると思う。

みんながみんな、富士フィルムのようにフィルムがなくなっても生き残れるとは限らない。

自社の強みをどう活かすのか。
今までにない分野に進出するのか。
そもそも、自社の強みとは何なのか。
あるいは、撤退を考えるのか。

やりがいはあるだろうが、大変だ。

22世紀に向けて、もう産業の変革は密かに始まっているんだろうなあ。

| | 考えたこと | 21:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
気がついたら12月
今年ももう残り20日ちょっと。
気がついたらもう12月だ。

ユーミンは「12月の雨」で冷たい雨が降る12月の朝は、まだベッドの中で半分眠りたいと歌った。
クリスマスが曲中に出てくるが、わりと明るい失恋の歌。
山下達郎の「クリスマス・イブ」も失恋だが、これはちょっと重い感じ。
竹内まりやの「素敵なホリディ」は子どもたちのためのクリスマスの唄。
こちらは夢のある家族の歌だ。

冬というと暗いイメージだが、12月は明るい。
海外では、あのフランスでも12月は土日も多くの商店が店を開けているという。
アメリカでは年間の買い物の2割程度が年末だという。
キリスト教圏ではやっぱりクリスマスの人気はスゴイ。
企業はクリスマス商戦に合わせて商品を出す。
モールでは、サンタクロースと一緒に子どもたちが写真を撮っている。
さすがに日本ではそこまではいかない。

実際、今年の12月は暖かい。
昔の12月はもっと寒かった。
朝の吐息は白かったし、待ちゆく人ももっと重装備だった。
だから、どうも年の瀬という感じがしない。

いつかアメリカのように、一年の消費の何割かを12月にするという時代になるんだろうか。
でも、今年はどうも不景気で、いろんな店のディスプレイなど見ているとどうも数年前よりも派手さがない。
12月のイメージは明るいのだが、今の日本、どうも希望が持ちにくい。
やっぱり年寄りが多いからだろうか。

若い人たちが希望を持ってクリスマスにお金を使えるような時代を作らないとイケナイ。
そうは思っているのだが…。

現実は厳しいかもしれない。

でも、社会を変えられるのは人口のボリュームゾーンである中高年なのだ。

同一労働同一賃金とか、世代間格差是正という言葉を掛け声だけで終わらせてはイケナイぞ。

| | 考えたこと | 20:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
テレビの劣化
去年の夏ごろ、地上波の情報番組というヤツの悪口を書いた。
最近の記事によると、民放は広告費で制作費を賄っているから、本当に苦しいらしい。
企業の広告費は長らく続く不況で減らされ、もっと効果的なネットに移っていっているからだ。

そういえば、最近の日本のドラマは著しくエキストラが少ない。
どんなシーンでも部屋の中だったり、屋外のロケ以外は本当に登場人物しか出てこないのだ。
どう考えても不自然という作り。
病院や会社のオフィスといった、多くの人がいて当たり前というような場面でもセリフを喋る人しかいなかったりする。

主演俳優や助演の2,3人はある程度舞台経験や演劇の練習をした人だろうが、それ以外の出演者は俳優とはいえないレベルの芸人だったりする。
セットも再放送の昔のドラマをみると、だいぶ安くなった。
場面転換も少ない。
脚本も安くなっているんだろう。
時代劇が減ったのも、費用の面もあるのかもしれない。

そのうえ、BSが増えて競争相手が増えた。
野球中継などはほとんど地上波ではやらない。
もっぱらBSやケーブル・テレビでやる。

若い人に聞いても、それほどテレビを見ない。
夜の時間はネットの動画やSNSで忙しいんだろう。
結局地上波というメディアは年寄りに傾いているようだ。

リオのオリンピックでは、テレビ全体の視聴率が低下し、NHKを中心としたスマホのアプリによるコンテンツの利用が増えたとのこと。
テレビ局も相当の危機感を持っているんだと思う。
それでも、なかなか手が打てない。
番組を改変するが、結局は従来の路線を継承している。
よほど今までのビジネスモデルがよかったらしく、そこから離れられない。
巨砲巨艦主義に陥った日本海軍のようだ。

今地上波のニュースを見ているのは、主に高齢者だろう。
そういう人たちに気に入ってもらおうとすると、こないだ書いたように、対立を煽る方向の報道がいいと当の地上波マスコミが思っている。
だから、1950年代や60年代の左右の対立構造を持ち出す。
時代はそんなに簡単ではないし、グローバル化も進み、単純に右や左と決められない言説もある。
そこは無視して報道する。

地上波は、もはや退却戦を戦っているようだ。
こんなことを続けていると、時代遅れになって、誰も見なくなるぞ。

| | 考えたこと | 20:29 | comments(2) | trackbacks(0) |
若者の変化
最近、若者の何とか離れという言葉を聞くが、実際若者が実感しているものを調べた記事があった。
それによると、タバコ、テレビ、本、恋愛、クルマというものが挙がっている。

タバコは実際吸う人が減った。
これは実感する。
小学校ではだいぶ受動喫煙について教育しているようで、ぼくがタバコを吸っていると子どもに本当に嫌がられた。

若い人に聞くと、テレビはやっぱり見てない人が多い。
確実にテレビ離れは起こっている。
YouTubeで見るという人もいる。
制作予算が減って、実際に番組がつまらなくなったという声もある。

本も読まない人が増えたのかもしれない。
電車に乗っても、ほとんど本を読んでいる人がいない。
ただ、若い人はスマホでネットを見ていたりして、必ずしも活字離れが起こっているわけではないと思う。

恋愛はわからない。
でも、ニュース等では結婚したくない若い人が増えたと言っている。
出生率が上がらないのも、未婚率が上がっているからだということも聞いた。

クルマ離れは深刻だ。
免許の保有率が10%減っていて、免許のない若い人も増えてきた。
実際クルマに興味のない人も増えているし、あっても軽や中古で十分という人もいる。
一説にはスマホの通信費が負担になっているという意見もある。

いずれにせよ、記事にかかれていることは実際に起こっていることだと思う。

だからどうこう言おうとは思わない。
タバコなどは減ったほうがいいと思う。

でも、ぼくらは彼らに格差を押しつけている。
それが彼らの希望を奪っているという意識は持たないといけないと思う。

どんな変化でもいいが、若い人たちはもっと報われないといけない。

それはぼくらの世代が何とかしないと…。

| | 考えたこと | 22:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
鬼平The Final
長らく続いた鬼平犯科帳がついにファイナルを迎えた。
先週の放送で、中村吉右衛門が演じる鬼平こと「長谷川平蔵」は撮り納め。

シリーズ物をやっていたのが、2001年までで、2005年からはスペシャル版を年に1回撮っていた。
それもついに終わる。
主人公役の中村吉右衛門が70歳を超えて、もう鬼平役はキツイと思わせるようになったからだ。
それ以外の出演者もみんな1年に一つ年をとる。
主だった出演者はほとんど還暦を超えるという状態で、よくやっていたと思う。

1989年、シリーズが始まって以来、30人以上が鬼籍に入ったとのこと。
鬼平の家内役の多岐川裕美、密偵のおまさ役の梶芽衣子など、女性ももう65歳を超えた。
一昔前なら、もうとっくに終わっていたはずだが、メイクの技術や人間の寿命が伸びたことが可能にした。

普段、再放送でやっている昔のものを比べると、どうしようもなく年を取ったことがわかる。
テンポもスローだし、物語はちょっと湿っぽい。
出演者の平均年齢がそうさせるんだろう。

でも、さすがに「神妙に縛につけ」というようなセリフは声も出ていて迫力がある。
やっぱり歌舞伎役者だ。

27年間、やってきたシリーズ。
スタッフも役者も、終わるにあたっては感慨無量だったと思う。

鬼平の目にも涙…だったかもしれない。

大滝の五郎蔵という密偵役の役者、綿引勝彦がインタビューで言っていた。

「この役をもらって、下手なことはできないと思った」

問題を起こしたりすると、他の出演者やスタッフに迷惑をかける、という意味だろう。

そういう思いを持った役者やスタッフが集まって、長い間の信頼関係を結び、鬼平犯科帳というドラマが成り立っている。

今のドラマは3ヶ月撮って終わり。
予算が減り、そういうやっつけ仕事しかできないのは仕方がないが、海外のドラマはシーズン5以上のものが多い。
半年シリーズを何回か演って、初めて役者に役がつき、スタッフも含めて制作側の息も合ってくる。
そういうもんだと思う。

日本の時代劇の名作が一つ終わった。

お疲れさまでした。


| | 考えたこと | 21:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
小学校は大事2
小学校、中学校で学ぶのは学びの基本。
文章を読み、計算をする。
一般的な常識の部分の知識をつけるための基礎。
そこができないと、生涯学習などできない。
これからの時代は、一つの仕事について、一生そこで頑張るという時代ではない。
どんどん変化する時代。
人工知能など新しい技術が仕事のあり方を変える可能性がある。
その時に、仕事を変わるためのスキル、それは小中学校で学ぶ学力の基礎の部分にあるのではないか。
そういう意味ではとてもお寒い。

東ロボ君(人工知能で東大を合格させる)プロジェクトをやっている新井教授が「中高生も、AIと同様に教科書や問題文が読めていないのでは」という懸念をもとに、全国1万5000人の中高校生を対象として「日本語の文を読んで意味が理解できているか」という調査を2015年から開始している。

その中で、「メジャーリーグの選手のうち、28%はアメリカ以外の出身。その中ではドミニカが一番多く、約35%」という文章を読んで、それを表す円グラフを4つの中から選ぶという問題の正答率を見てびっくりした。
中学生(全国284名)が13%、高校生(全国182名)が30%である。
4択だから、確率的には正答率は25%。中学生はそれを下回る結果。

こういう資料は会社でもよくある。
たいがい会議で出てくるのはこの手の資料。
最近はエクセルがあるから簡単にグラフが作れる。

グラフの構成比を説明すると、問題文のようになる。
果たして中学や高校でこの問題がわからなかった生徒は、その説明がわかるんだろうか。

こういうことは人工知能は得意。
というか、人間よりも正確だ。
となると、人工知能がグラフの説明をして、聞いている人間がわからない、ということもあり得る。

荒井教授の懸念はまことにその通りだ。
こういう事実はいろいろと出されているが、文科省や教育委員会などが有効な対策をしているという記事は見ない。

これからはいろんなことが数値化され、解析される時代。
クラウドとか、ビッグデーターとかいう時代だ。

来るべき時代に、どういう教育が必要なのか。
分数ができない大学生、という本が出たのは十数年前。
今回の入試改革にそれは盛り込まれたんだろうか。

データーサイエンティストが最もセクシーな職業だ、と言われている時代。
もう少し数字に対するリテラシーを上げるべきだと思う。

英語でも、プログラミングでもなく、それが必要だとぼくは思う。

| | 考えたこと | 21:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
パソコン離れは必然?
今の新入社員はパソコン、とりわけキーボードが苦手ということが言われている。
とりもなおさず、スマホネイティブの世代の人たちということになる。
パソコンのキーボードはあまり触らず、もっぱらスマホのフリック入力をしてきたということだろう。

最近のフェイスブックやインスタグラムのページを見ていると、スマホを前提で作っているような気もする。
いろんなアプリが出てきて、スマホのほうが便利だということも増えている。
持って歩けて、いつでも使えるという意味では圧倒的にスマホだ。
おまけに写真も撮れるし、話もできる。

なんでも工場のロボットを輸出しているメーカーが、アジア地域で売上が落ちたとのこと。
なぜかというと、操作パネルがキーボードになっていたとのこと。
競合メーカーは操作パネルがスマホのようなタッチパネルになっていたらしい。
アジアの工場のオペレーターは若い人が多く、スマホに慣れていたのに気づかなかったという。
もうそういう時代になっている。

ぼくらは1990年代にようやくキーボードを触り始めた世代。
40代だった。
実験室では使っていたが、本格的に文字を書くということでキーボードを使ったのはWindows95以降だ。
Windows98の時代には、技術部はぼちぼち一人1台という体勢になっていた。
そのころにブラインドタッチを覚え、ぼくは自分たちの世代にしてはPCが得意な方だった。

最初にワープロ専用機が出てきた頃、実際に使っているのは若い人が中心だった。
研修に行って使い方を覚えてきた若い人が、自慢げに「こうやってやるんです」とマウスの操作を見せてくれた。
なるほど、便利なものができたなあ、という感じだった。
それから10年もしないうちに一人1台になるとは思わなかったが…。

実際、フリック入力+予測変換で入力すると、かなり早いのは事実。
ぼくも慣れようと思ってだいぶやったが、やっぱりキーボードが早い。
もっぱらスマホは見るだけで、何かを入れるときにはパソコンを使ってしまう。

ぼくらがパソコンを使い始めた頃の、50代の人たちの気持ちがようやくわかる。
キーボードを前にして、指1本でポチポチやっていた。
ちょうどあれを見ている気持ちで、若い人はぼくがスマホの入力しているところを見ているのかもしれない。

でも、負け惜しみでなく、今はまだキーボードを使えるほうがちょっとはマシだと思う。
画面の大きさの問題だ。
やっぱりスマホでは小さい。
図面等の表示の問題もある。
だから、まだ当分はキーボードも使うべきだと思う。

ぼくはパソコンのキーボード世代の先頭あたりで、逃げ切れるかもしれない。
みんながスマホ入力の時代はまだ来ない。

でも、いつかはキーボードの時代も終わるんだろう。

若い人はパソコンが使えないのではなく、使わないのだ。
それは必然的な時代の流れなのかもしれない。

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手書きの効果
数年前から若い人たちが来るようなセミナーに行くと、ノートPCでノートを取っている人がいる。
テレビの白熱教室でもそういう人がかなり増えた。
ブラインド・タッチでタイピングができるようになると、明らかに手で書くよりもたくさん書ける。
やってみたら確かに書けるのだが、ぼくはどうもノートを取った気がしない。

以前はたいがいセミナーなどに行ったら、出張報告を書いていた。
ノートを見ながらセミナーの内容を思い出して、それをレポートすることになる。
その時にPCでノートをとると、どうもレポートしづらい。

いろいろ考えてみたが、やり方がまずいんだと思う。
書けるからといって、何でも書いてしまうと何が重要で、何が重要でないかがわからない。
おまけにベタで言葉を打つから、メリハリがない。
セミナー中は言葉を追うのに必死で考える余裕がない。
だから、見返しても思い出すことが少ない。

手書きなら、字の大きさを変えたり、場所を変えて書いたり、線を引いたり、色を変えたり、回りを囲ったり、矢印をつけたり、自由自在だ。
一度話したことを後から関連付けるようなことを話せば、そこに矢印を書いて追記できたりする。
要するに、考えながら書いているんだろう。
このへんの融通がPCでは難しい。

余談だが、最近はパワーポイントのスライドの縮小版を配布してから、セミナーをしたりするからそこに書き込むことが多い。
これは親切だと思う。
でも、パワーポイントを多用したセミナーは、これはこれで問題がある。
セミナーの目的にもよるのだが、話すことをたくさん書いたスライドを次から次へと見せられると印象に残らない。
これはやっぱり目で見る情報量が多すぎるんだろう。
それを処理していると、考えることができない。
そういうのに限って、グーグルで検索すれば出てくるようなことを延々と書いてあることが多い。
詰め込みすぎなのだ。
親切でやってくれているのだとは思うが、セミナーとしては今ひとつ。
PCでノートを取るのと通じるところがある。

気づきを与えるセミナーというのは、難しい。
要するに、どこを伝えたいのか、話し手がわかっていないとダメだ。
目からの情報も必要だが、やっぱり視線は話し手を見たい。
表情とか、声のトーンとか、話しぶりも大きな情報だ。
ホワイトボードに自分で書きながら話すのがベストだと思う。
そして聞きながら、ノートを取るのがいい。
そんなにたくさん書かないが、これは、というところはノートに取る。

あれもこれもと盛り込むことがパワーポイントで可能になって、印象に残らないセミナーが増えているような気がする。

手書きの良さを、話し手も、聞き手ももっと考えないとイケナイと思う。

| | 考えたこと | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
エフェメラルSNS
英語にも「はかない(儚い)」という表現がある。
それがエフェメラル "ephemeral" という単語。
習った覚えがないから、教科書には出てこなかったんだろう(忘れてしまったのかもしれない)。

エフェメラルというのは、フェイスブックなどが写真や文章がずっと残るということに対して、「消えてなくなる」という意味でエフェメラルSNSという風に使われる。
前にも書いたが、スナップチャットというのは、送った写真やチャットの文章などが閲覧したら消える、というのが特徴。
ずっと残るとなるとまずいというものでも、見たら消えるのだから大丈夫というのが逆転の発想だ。
日本ではまだあまり聞かないが、海外ではだんだん普及しているとのこと。
全世界のアクティブユーザーが1億人。
メインユーザーは若い人らしい。

この裏にあるのが、SNS疲れ。
人の投稿を見るのは気楽だが、自分で出すとなるとそんなに気軽にアップできない。それが疲れの元だという。
写真にしても、文章にしても、気の利いたものを投稿するのは難しい。
偶然そういう瞬間や、そういうネタがあればいいが、日常生活に追われていてはそういう瞬間にも立ち会いにくい。
だから、人のを見るのはいいが、自分が投稿するのはシンドイということになる。

ましてやずっと後々まで残る。
ご丁寧に、去年の今日は何を投稿したかというようなお知らせが来て、自分で確認もできる。
だから、どんどん疲れてくる。
そこがビジネスチャンスだ。
それなら下らないことでも投稿できるように、閲覧したらすぐ消そう、という発想。
なかなかスルドイ。

もともと、人生など儚いものだ。
日本で言うと、「無常」というやつ。
ぼくの好きな方丈記の思想だ。

「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」

その時は、いさんで投稿したが、後で見たら下らないことだったとか、その瞬間の面白さとかいうものをずっと残しても仕方がない。
というより、有害だという考え方。
それは消してしまおう。

いい考えだと思う。

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