考えたこと2

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スタローンの映画
ケーブルテレビで特集をやっていた。

嫌いな人もいるだろうな…と思う。

ロッキー。ランボーもそうかな…。

単純な図式と言えば、そうだろう。アメリカ礼賛とも言える。

殴り合う、撃つ。上品な映画ではない。
音楽もハッキリしている。ロッキーのテーマやEye of the tiger。

たしかに、現実はそんなに単純なものではないだろうと思う。
負ける方にも、立場とリクツがある。

それでも、ぼくを含めて、たくさんの人があれを見るのはなぜだろう。

これが映画だから。

そうだと思う。

世の中は単純ではない。
だからこそ、単純に描くスタローンは人気がある。

それでいいのだと思う。





| | 考えたこと | 23:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
第六感
五感の次が第六感。

視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の次になる。

勘が鋭い、というときの「勘」が第六感。

何となく気になる…。

仕事で、何となくひっかかる時という時が何度もあった。
それこそ、イヤな予感がするというヤツだ。

そういうときは、よく当たる。

これはきっと、自分が記憶してはいないが、何気なく見て、聞いて、脳の中に入っているものがひっかかるんだと思っている。。
サブリミナルな記憶が、「これはやばいぞ」と教えてくれているのだ。

ずっと経験していると、その分野では第六感が働くようになるのは、このサブリミナル記憶のおかげだと思う。

仕事以外では、ぼくの第六感はあまり当たらない。
勘が鈍いと思う。

これは、生まれつきのものなのか…。

鈍い方がいいときもあるとは思うが、スルドイひとはうらやましい。

日常生活にもっと注意をはらうことが必要なのだと思う。

それはそれで、難しい。

この年では、もうムリか…。



| | 考えたこと | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
左様なら
初めて「さようなら」の意味を知ったのは、家で何かの話をしていた時。

母が「さようなら」というのは、「左様なら」のことだと言った。

それまで「さようなら」という言葉に元の意味があるとは思っていなかった。
「さようなら」の意味は「さようなら」だったのだ。

ところが、それは「左様なら」だという。

時代劇のセリフで、「いかがでござるか?」「左様でござるな…」などという時の「左様」だ。
現代語に直すと、「どうでしょうか?」「そうですね…」という時の、「そう」が「左様」。

「さようなら」というのは、「左様なら」であり、「それなら」というような意味になる。

今でも、別れぎわに「そしたら…」とか「そういうことで…」ということがある。
もっと関西風に言うと「ほな」になる。

これがまさに「さようなら」の意味だ。

「ほな、さいなら」は同じことを二度言っているのだ。

「さらば」も、「さ あらば」であり、「そうであれば」という意味だろう。

日本人は別れぎわには「また会おう」というふうには言わない。

そういうことなら…と含みを残して去っていく。

ということは、長い年月を経て、いつか別れの挨拶が「そしたら」になっているかもしれない。

そして、「さようなら」は古語辞典に「そしたらのこと」などと書かれるのか。

あり得るなあ…。



| | 考えたこと | 00:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
BMW325i
ひょんなことから、BMW325iに乗せてもらった。
出張の足である。

BMWというと、インパネの文字がオレンジ色に光るというのが特徴。
かといって、全部オレンジ色というのでもない。
普通に白いところもある。
あれはいい。

一時日本車で、オレンジ色のものもあったが、何が違うのだろうか…。
見る方がこれはBMWだと思っているから、違うように思うだけなのか、それとも実際に何かが違うのか、よくわからない。
ただ、きれいに見える。

木目はあまり好きではないのだが、このクルマはいい。
本当にきれいな木目のパネル。

パンクしても走ることができるという、ランフラットタイヤを履いているので、ちょっと足もとがドタドタするが、さすがBMWらしく安っぽくない乗り心地。

そして、何かしたときに鳴る警告音が、擬音語で表現しにくいのだが、かっこいいのだ。

身体が沈み込まないシートもいい。

値段が高いと、いい材料が使えるし、凝った設計ができる。
BMWの設計者はヨロシイなあ…と思う。

エンジンは直列6気筒。
以前、会社の先輩が「BMWといえば、ストレートシックス」と言っていた。
「4気筒では意味がない」とも言っていたのを思い出す。

片道15分ほど。
往復30分のドライブだったが、やっぱりBMWはBMWだった。



| | 考えたこと | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
睡眠時間
人間の睡眠時間はだいたい8時間が必要とされる…というのが通説だと思う。

ぼくは若いころ寝てばかりいたので、今は睡眠時間が短い。(そういうリクツがあるとは思わないが…)

平日はだいたい、5時間くらい。
でも、最近は休みになるとよく寝ている。

wikipediaには、7時間睡眠が平均余命が一番長いと書いてあった。
そんな統計もあるのか…。
昼間の生活様式によっても変わると思うが、そんな統計は先進国でしかとれないから、そういう国の統計だろう。

ぼくは一生の間で、起きている時間の総計はあまり変わらない、と思っていた。
となると、よく寝ている方が寿命が長くなるはずだが、そうでもない。
寝過ぎてもいけないということか。
睡眠時間が少ない人にとっては、朗報だ。

アルコールに強い人と弱い人がいるように、夜に強い人、弱い人がいる。

ぼくは強い方だ。
夜中まで残業しても、大丈夫。(でも、集中力は落ちる)
これは、自分では得だと思っている。
両親に感謝。

ところで、ネコはどれくらい寝るかというと、いろんなサイトに14時間と書いてあった。
14時間は長い。

でも、イヌでも12時間程度は寝るらしい。
半日寝ていることになる。
たしかに、見ているとよく寝ている。
人間に飼われていると、食事と寝床の心配はしなくていいから、ヒマだということもあるのかもしれない。

ネコやイヌに比べると、人間はよく活動しているということになる。

若いころはイヌ並くらいには眠ることもできたが、最近はそんなに長く眠ることができなくなった。

年をとると、眠れない。
これは眠るという行為にもエネルギーがいるからだと思っている。
もう、そんなにたくさんのエネルギーがないのだ。

残された時間、どれだけ有意義に起きて、どれだけ有意義に眠れるか…。

あくびが出てきたので、ボチボチ寝ることにします。






| | 考えたこと | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
たかが…されど…
書き言葉で、話すことはあまりないが、好きな言い回し。
たかが…、されど…。

たかが一円、されど一円というと、一円を笑うものは一円に泣くという意味か。

「たかが野球 されど野球」というのも聞いたことがある。

たかが…というのは、今でもよく使われるが、「されど」というのは文語体であまり使われない。

「さはあれど」がつまって「されど」になったのだろう。
「そうではあっても」というより、「されど」である。
前にも、この文語調が好きだ…と書いた。

この言い回し、慣用句辞典とかを見ても載っていないようで、これは本当に「言い回し」ということになる。

このブログの中でも、何度か使った。

何か、うんちくを自慢するようで、人によっては嫌がるかもしれない。
要は、内容なのだろうが…。

使いすぎたらイヤミになる。
でも、適切に使うと、決めぜりふになる。
そんな両刃の剣のような言葉。

たかが言い回し、されど言い回し…。

ちょっとクサイかもしれないが、この言い回しもいずれは通じなくなる日が来るのかな。


| | 考えたこと | 22:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
電卓の進歩
電卓というのは、電子卓上計算機の略だと思うが、これはいつ頃できた言葉だろうか。
1970年代になって、ようやく普通の人に手の届く計算機が出てきた。
その頃からかな…。

最初に見た計算機は、もちろん液晶ではなく、数字が光っていた。
青い光だったと思う。

それが、液晶になり、飛躍的に進歩した。
LSIの進歩もあったのだろう。

メモリがついて、計算結果を覚えておけるようになったり、三角関数やルート、対数などの関数も計算できるようになった。

そのうち、簡単なプログラムができるものも出てきた。

ぼくが会社で長いこと使っていたのは、シャープのポケコンというヤツ。
自分で計算をプログラムできるものだ。
仕事で使うプログラムをいくつか作って、便利に使わせてもらった。
あれは80年代の中盤くらいだったかな…。
RUNと書いてあるボタンを押すと、プログラムが走る。
そんなに複雑なプログラムではないが、よく使う計算を自動化することができた。
当時、ミニコンという、全く大きさはミニではないコンピューターがあって、それをプログラムすることを思うと、ポケコンは天の助けだったと思う。

それも、パソコンが出てきて、表計算のソフトが出てきて、要らなくなった。
もうポケコンの時代は終わったのだ。

ちょっとした計算なら、薄くて小さな電卓で十分。
電池要らずで、蛍光灯の明かりで動作する。
30年前なら考えられない進歩。
今の若い人は、携帯電話で計算する。(ついでに、辞書代わりに使うこともある)

子どもが新しく買った電卓は、分数が分数のまま計算できたり、二次方程式の根が求められる。

カタログを見ると、大きな液晶画面にグラフが描ける機種もある。

それも、パソコンがあればできることなので、どれだけ必要かは難しいところだが…。

電卓付きの時計もあるし、時計付きの電卓もある。

この30年ちょっとで、本当に進歩した。

計算尺や手回し計算機(家にあった)の時代から比べると、夢のような時代だ。

その大きな部分は日本のメーカーが担ったのだ。

大したものだと思う。

本当に、大したものだと思う。


| | 考えたこと | 23:54 | comments(2) | trackbacks(0) |
クラシックカー
朝、ハイファイセットの曲を聴いていたら、こんな一節があった。

 あのころ あの人クラシックカーで パーティに誘ってくれたわ…

スイングの曲で、一日頭から離れない。

この曲では、クラシックカーというと50年代のイメージ。
アメリカの流線型の、鉄のかたまりのような、大きな車かもしれない。

ぼくにとってのクラシックカーというと、シトロエンの2CV。

2CVはドゥーシーボーという。
一体どんな意味かと思っていたら、フランスには車の規格でCV値というのがあって、それが「2」だということだ。
CV値が高いと、税金が上がる。
要は税金が安い車だという、ストレートな意味。

もう生産は中止されたが、20年ほど前に一度だけ実物に乗せてもらった。
ギアを変えるたびに、ガリガリ音がして、慣れないととても運転できないような感じだった。

古いビートル(フォルクスワーゲン)と違って、フランスらしい「いい加減さ」がある。
フランス人が聞いたら、怒るだろうが…。

日本車でも、クラシックカーと言えるものもある。

スバル360。これは懐かしい。
小学校のころにはよく走っていた。

他に古い車はたくさんあっても、単に古いだけのものがほとんど。
クラシックと言えるためには、何が必要なのか?

同じような姿で、長いこと生産されることだろう。
2年に一度、コロッと顔を変えていたら、クラシックにはならない。
そんなことをしなくてもいいほどの、独創的な新しさが要る。
少しの変更で、息長く作られ、受け入れられる車。

出てきたときに、新しいほど、クラシックカーになれるかもしれない…ということになる。

今売られている車の中から、未来のクラシックカーが生まれてくるのだろうか?
複雑な曲面が、簡単に作れるようになってきて、どんどん新しいカタチになってはいるが、何となく難しいように思える。
逆に、みんな同じような顔になってきたからだ。

それと、クルマというモノに対する思い入れが減ってきているのもあるだろう。
作っている人たちは、未来のクラシックカーを目指しているのだろうが…。

そんな魅力的なモノを生み出してほしいと思う。




| | 考えたこと | 00:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
こびる
「こびる」というと、「媚びる」。

気に入られるようにすることだ。

ところが、今日の夕刊を見ると、「コビる」という言葉が載っていた。

「ちょっとコビってくる」というと「ちょっとコンビニに行ってくる」という意味らしい。

まあ、意味はわからないでもないが、これは、とりもなおさず「媚びる」という言葉が死語になりつつあるということだろう。

「媚びてくる」と「コビってくる」の差はあるものの、聞けば「ちょっと機嫌取りしてくる…」という意味に取る人の方がまだ多いはず。

「媚びる」という言葉、人間らしくて好きな言葉なので、この言葉がなくなるのは残念だ。

あまり使われない言葉や、漢字の難しい言葉は死語になりやすい。

今のように、新しい言葉ができるような生活の変化が起こっているときに、知られない言葉はかわいそうだ。
同じ発音で、新しい言葉ができてしまう。

もしも「媚びる」がよく使われている言葉なら、コンビニに行くという言葉は、「コンビる」という言葉になっていたかもしれないのだ。
同じ発音で違う言葉があれば、やっぱり避けるだろう。

また一つ、死語の候補が増えた。



| | 考えたこと | 21:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
すぐに来る金曜日
最近1週間が早い。
あっという間に金曜日が来る。

金曜日が楽しみで、それがすぐに来るのだから、よいことと言えば、そうかもしれない。
しかし、毎日が自転車操業で、考えるヒマがないのは困る。
飛び込んでくる仕事で時間が過ぎていくのだ。

先週は今までの仕事の実績をグラフにして、ビックリした。
数字は正直であると同時に時に冷酷でもある。

なかなか成果が出ない。

結局は自画自賛(ひとりよがり)だったということか…。

それでも、自画自賛だということがわかってよかった。

もっと、いろんなことを考えて、仕事をしないとイケナイ。

…そう思っている間に金曜日がやってくる。

どこかでゆっくり止まって考えよう。
走りながら考えるのは毎度のことなのだが、時には止まって考えないと、小さな修正では限界がある。

「急がば回れ」のたとえもある。

みんなでもう一度考えよう。



| | 考えたこと | 23:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
60回目の桜桃忌
今日は太宰治の命日。桜桃忌である。

前にも書いたが、太宰は若いころしか読めない作家…と母が言っていた。
ぼくもそう思う。

子供らは「走れメロス」しか知らないから、太宰というと正義感あふれる、堂々とした作家…というイメージかもしれない。

ぼくは十代の後半に太宰の本をたくさん読んだ。
文庫になっているものは全部読んだと思う。
当時の本屋には、必ず太宰治はあった。

ぼくの知っている太宰の文庫は表紙が白黒の水玉模様のようなデザインだった。

アマゾンで太宰治の文庫を検索したら、たくさん出てきたが、集英社文庫の「人間失格」はマンガの絵が表紙。
ザ・太宰治 全小説という2巻セットのものもある。
時代は変わったなあ。

斜陽とか惜別、津軽、人間失格などの作品よりも、ぼくは短編が好きだった。
トカトントンという題名が一番印象に残っている。
私小説ではない、オトナのおとぎ話みたいな短編だった。
本物の太宰ファンではないのかもしれない。
題名だけなら、「恋と革命」はかっこよかった。

内容をよく覚えているのは、書簡集。
この人は、たくさんの手紙を書いている。
それが文庫本になって残っている。
借金の手紙が多かった。走れメロスのイメージからはほど遠い、「ウジウジした」というような表現がぴったりの人だ。
でも、そこに魅力があった。

今日は三鷹に60回目の桜桃忌で500人の人が集まったとのこと。
36歳の人も来ていたとの記事。
まだ、そのころは太宰の文庫本が本屋の棚に普通にあったのかな…。

東京新聞の記事に、三鷹市芸術文化振興財団の人の談話が出ていた。

「太宰作品は音楽で言えば井上陽水、松任谷由実、サザンオールスターズのようなもの。従来のファンに加え、中高生などの新しい読者層が生まれるなど、決して古びないところが魅力」

そうだろうか…。
ぼくのイメージは、井上陽水はワカラナイでもないが、ユーミンやサザンとは全く相容れない。
どちらかというと、昭和40年代の四畳半フォークの世界。
遠藤賢二や友部正人ならぴったりだと思う。

「決して古びない」は言いすぎだろう。

三鷹市では、太宰文芸サロンで太宰グッズとしてTシャツなどを売る由。

あの書簡集を思い出すと、…きっと太宰は喜んでいると思う。




| | 考えたこと | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
教えることは…
教えることは、誰のためになるかというと、普通は教えられる人ということになる。
もちろん、教えられる人がそれをわかることが目的なのだから、それは当然だろう。

しかし、教える人も、教えることによってそれを学ぶ。
何かを教えたことがある人は、それをわかっているはずだ。
だから、教える人はどんどん学んでいく。

しかし、それが成り立つためには、教えられる人がそれに興味を持って取り組んでいる必要がある。

もともと、教えられる人が興味をもってやっているなら、それはよい関係だ。

でも、初めてのことで、教えられる人が白紙でのぞんでいる場合は難しい。

教える人が、まずやる気にさせる必要がある。
そういうことができる人が教えることのプロと言える。

それが、一番難しいことだから。

それができないと、逆に教える人も学べなくなる。

そうなると、教えたり、教えられたりすることはムリかもしれないと思う。

なぜなら、教えられる人をやる気にさせるためには、教える側がどれだけ深くそれを学んでいるかによって決まるからだ。

言うは易く行うは難し…。



| | 考えたこと | 00:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
解散したバンド
好きなことを仕事にしても、続かないという話をするときに、見本になるのが解散したバンド。

音楽が好きで、バンドで一旗揚げようという意気込みでメジャーデビューを目指し、実際にデビューできるのはほんの一握り。
野球で甲子園を目指すのと同じくらい狭き門だと思う。

それでも、夢が叶った後、解散していく…。

ぼくがその手の音楽を聴き始めたのが中学の頃。
グループサウンズのブームが終わった頃だった。

最初はガロだった。
当時憧れの的だった、マーチンD-45というギターを持っていた。
3人のコーラスが素晴らしく、デビューアルバムの「一人で行くさ」という曲は忘れられない。
ギターがこんな音を出せるのか…と思った。
実際には、コードフォームを工夫していただけだったのだが、中学の頃憧れたバンドだった。
でも、「学生街の喫茶店」が流行って、しばらくして解散した。
おまけに、メンバーのうち2人は亡くなってしまった。

アリスは関西メジャーだったが、いつの間にか武道館でやるようになった。
解散して、谷村新司と堀内孝雄が残った。
まさか、二人とも今みたいな歌手になるとは誰も思わなかったろう。

続いて、チューリップ。
高校の時にデビューアルバムを聴いて、スゴイと思った。
ビートルズみたいな曲作り。
初期のメンバーが抜け、メンバーが替わったが、けっこう長いこと続いた。
それでも、解散した。残ったのは財津和夫だけだ。

その次がオフコース。
アルバムデビューしたときは2人組だった。
「さよなら」が大ヒットしたころ5人になって、そして解散した。
小田和正はメジャーで残り、初期メンバーの鈴木康博は思い出のフォークソング番組に出てくるようになった。

そして、ツイストとサザンオールスターズ。
出てきたのは同時だった。誰が見てもツイストが残って、サザンが消えると思っていた(はず)。サザンは「勝手にシンドバッド」だったから…。
ところが、ツイストがしばらくして解散し、世良正則だけが残り、サザンはそれから長く日本のトップグループとして残った。
でも、こないだ解散した。

さだまさしがいた、グレープというバンドもあった。

クリスタルキング、ダウンタウン・ブギウギバンド、かぐや姫、甲斐バンド、オメガトライブ…みんな解散した。

ぼくが若い頃に聞いたバンドで今も続いているのは、ビリー・バンバン、ブレッド&バター、スターダストレビューくらいかな…。
ビリー・バンバンとブレッド&バターはどちらも兄弟だから、続くのかもしれない。(どちらも一時休眠していたし)

そう考えると、スターダストレビューはスゴイということか。

いずれにしても、過去三十数年で、実質的に残っているのはほんの片手なのだ。

いつの時代も、音楽は若者がやりたい事の上位にいる。

狭い狭い門をくぐり抜けて、メジャーになっても、ほとんどが解散していく。

好きなことを仕事にするのは、難しいということだろう。

| | 考えたこと | 22:28 | comments(4) | trackbacks(0) |
マイケル松本さん
マイケル松本さん

知る人ぞ知る…というと、たいがい知らない人は知らないという意味になる。
知る人ぞ知るボーカリストが、マイケル松本さん。

ぼくが通っているギターのスクールは、ライブハウスも経営しているのだが、そこで見たのが初めてだった。

他のシンガー4人と組んで、ヒッパレーシンガーズというグループで出ていた。
その時に、ルイ・アームストロングのものまねで、「この素晴らしき世界」をソロで歌った。(この時のことはここにも書いた)
本当に胸にじーんと来る歌で、ものまねなどどうでもよいという歌だった。

髪の毛をモヒカン状に染めていて、真ん中の部分だけ金髪というスタイル。

一緒に見に行った人と、「普段はどんな仕事をしているのだろう…」と噂をしていた。
堅気の仕事は、あの髪型ではできないだろう…。

一見すると、硬派のリズム&ブルースのシンガー、という感じだが、ステージのトークになると人なつっこく、面白い。

でも、歌になると本当にパワフル。
こんなにうまい人がいるのか…とビックリする。

一度この人のコンサートを聴きたいと思って、インターネットを調べていたら、ご自身のブログがヒットした。

http://michaelvo.exblog.jp/

あまり更新されていないようだが、プロフィールを見てびっくり。
すごい活躍をしておられる、立派なプロ歌手だった。(マイケルさん、ごめんなさい)

98年にのじぎく賞をもらっているとのこと。(ちなみに、のじぎくは兵庫県の県花)
何でもらったかは、調べてもわからなかった。「のじぎく賞」というと、園田競馬のレース名でもあるらしく、そっちしか出てこない…。

本当にパワフルで、ソウル系の歌を歌うと、この人の右に出る人はいない。

書いていたら、また聞きたくなった。

世の中には、スゴイ人がいる、という見本みたいなシンガーだと思う。

これからも活躍してほしい。

また、聞きに行こう。


| | 音楽 | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
スピンオフ
思わぬところで役に立ったとか、ついでにわかってしまったとかいうのが、スピンオフという言葉の意味。
派生的にできた、ということ。

何かを調べていて、いろいろな実験をしたら、思わぬ結果が出た。
目的は達せられなかったが、どうもヘンな結果だ。
これは、役に立つかもしれない…。

たしか、ポストイットも、そんなふうにしてできたはず。

ちょっと違うかもしれないが、超微細繊維の布も、作ったものの何に使えるのか…と思ってメガネを拭いてみたら、すごくきれいになったので、「これだ」ということになったとのこと。
これも、用途としてはスピンオフかもしれない。

スピンオフを大事にしないといけない、と20代のころエライ人に言われた。
その通りだと思う。

それは、スピンオフがわかる人にならないといけないということだ。

機械的に仕事をして、視野が狭くなってはいけない。
いろんなことに問題意識をもっていないと、スピンオフをわかることができない。

目標が達せられなかったから、終わりにして、別のことを始めてしまったら、「ヘンな結果」は捨てられてしまう。
なぜ、そうなったのか…、それを解き明かそうとすることで、初めてスピンオフが出てくる。
あるいは、この「ヘンな結果」はこんなことに使えるぞ、という意識があって、スピンオフが日の目を見る。

スピンオフを大事にできる人というのは、結局は機械的に仕事をするのではなく、広い視野を持って仕事ができる人という意味だったのだと思う。

20代のころに聞いた話の真の意味は、目の前の仕事を片づけるだけの人からは、スピンオフは出てこない…そういうことだったのだろう。

今なら、よくわかる。




| | 考えたこと | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
黒笑小説
黒笑小説 東野圭吾 集英社文庫

怪笑小説、毒笑小説に続く東野圭吾のブラックユーモアの短編小説集の3冊目。
長いブランクだった。(推理小説はたくさん書いているが)

この人、自分でも筒井康隆の短編を意識しているのだろう。
筒井が書いた文壇のパロディ小説である、「大いなる助走」と同じテーマで書いている短編を「もうひとつの助走」という題名にしている。

文学賞をなかなか取れない作家と、それを取り巻く編集者たちの思いを皮肉たっぷりに書いている。

13の短編のうち、4つほどが文壇や編集者をテーマしたもの。

さもありなん…という内容で、いずれも、虚勢をはる作家と職業柄しかたなくつき合っている編集者のぼやきや、作家を商品として冷たく見ている出版社の内実が、皮肉たっぷりに書かれている。

東野圭吾が実際にそんなふうに扱われたとは思わないが、作家という商売、何が売れるのかワカラナイ…という綱渡りのような世界を歩んでいるということがよくわかる。
売っているのは、作家の力量なのか、それとも出版社の方針なのか…。
作家から見ると、たしかにそういう側面もあるのだろう。
「いい小説」と「売れる小説」は違うだろうし、文学賞の選考作家たちの思惑と、出版社の見方は違うのかもしれない。

今や、小説よりもコミックの方がドラマ化されるケースが多いのだから、時代も変わったものだ。

文壇をテーマにしたもの以外にも面白いものが揃っている。

ぼくは、やっぱり若いころに読んだ筒井康隆の短編の方が好きだが、眠れぬ夜を過ごすためにはもってこいの短編集。

笑えるところは少ないが、にんまりできる。




| | | 00:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
新しい野球用語
野茂が大リーグにわたって、はや十数年。

日本でも大リーグの人気は定着した。

野茂、佐々木、イチロー、松井…やっぱりすごい選手は、それに見合った舞台で活躍したいと思うものだろう。
もちろん、それに見合った年俸でもある。

NHKではよく大リーグの中継があるし、スポーツニュースも必ず大リーグの日本選手を報道している。

みていると、野球が違うなあと思う。

大リーグは早い。
ピッチャーが投げ、バッターが打つ。そこに「間」が感じられない。
スピード感があるのだ。

一方、日本の野球は「間」が多い。
バッターに対したピッチャーは必ず「間」を考えている。
みている方も、あまりにポンポン投げられると、ちょっと興ざめかもしれない。
講釈する間がないからだ。

前置きが長くなったが、MLB(大リーグ)が日本で見られるようになって、野球用語にも大リーグの言葉が進出してきた。
これは純然たる英語をそのまま使っているもの。

先発投手はスターター、中継ぎはセットアッパー、抑えはクローサー。
そして、一試合で2本以上のヒットを打つと、マルチヒット。

昨日の新聞の見出しに、マルチヒットを略して「マルチ」とだけ書いてあった。
なんか、悪い商売にでもひっかかったのかな…という感じだが、このマルチという言葉も、いいイメージになっていくのだろう。

こうやって、また新しい日本語が増えていく…。



| | 考えたこと | 23:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
杜撰
書けないが、読める漢字の一つが杜撰。
「ずさん」である。

なんで、ずさんを杜撰と書くのか、調べてみた。

語源由来辞典というサイトで調べると…、

杜撰の「杜」は、中国宋の「杜黙(ともく)」という人物を表し、「撰」は詩文を作ることで、杜黙の作った詩は「律(詩の様式)」に合わないものが多かったという故事に由来するという、中国の「野客叢書(やかくそうしょ)」の説が有力とされる。
杜撰の「杜」は、本物でない仮の意味の俗語とする説や、「杜黙」以外の人名を表すという説もある。
日本には禅を通じて入ったとされ、古くは「ずざん(づざん)」と言われた。

と書いてあった。

そこから、杜撰というのは、いい加減なさま、誤りが多い著作物、という意味になっているとのこと。

杜撰というと、原発でウランを臨界点にしてしまった事故を思い出す。
正規の手順を踏まず、バケツのようなものでウランを混ぜた…というようなことだった。

あまりにも「杜撰」である。

今日の新聞に、病院で点滴の作りおきをして、常温で机の上に置いておいて、点滴液に菌が繁殖してしまった、という記事が出ていた。

これも杜撰という言葉がぴったりくる。

どうなっているのか…。

今までたくさんの人が、細菌を解明し、防疫のためには何が必要かを考え、それによって保健衛生が進歩してきた。
その知識はどこへ行ったのだろう。

こういう事故を防ぐためには、マニュアルではダメだと思う。

マニュアルの元になる知識を、少なくとも持たないといけないのではないか…。

理科離れということが言われているが、これは単に理科の知識がないから困ったものだ、ということではなく、こんな杜撰なことが起こってしまうということが、本当に恐いことなのだと思う。

細菌が発見され、医学が進んだのが18世紀から19世紀にかけての出来事。

百年以上の時間が経ったのに、こんな杜撰なことがあっていいのだろうか…。



| | 考えたこと | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
ウィルス
インターネットにつないだら、ウィルスチェックソフトは必須…という時代になったが、それにしても最近、パソコンのウィルスチェックのソフトが突然動いて、ファイルを更新しています…というのが多い。

一体、どれくらいのウィルスがウロウロしているのだろう?と気になって、調べてみた。

トレンドマイクロというウィルスチェックのソフト会社のホームページでは、どの地域でどんなウィルスに感染しているパソコンがどれくらいあるか、というデーターを公開している。

それによると、日本で現在一番流通している(もちろん、ウィルスチェックのソフトがそれを関知して退治したからこそ、このデーターが出るのだが…)ウィルスは「TSPY_ONLINEG」の亜種というものらしい。

過去24時間でアジア地区で6,371,961のパソコンに感染した由。

地域別に流行があるようで、アジアでは600万台だが、北米では82万台、ヨーロッパでは60万台、アフリカで9万台、南米で5万台、豪州で2万台とのこと。

国別では台湾が365万台、日本が240万台でダントツだった。

このウィルスは破壊活動はしないらしいが、危険度は「中」。
自分でパソコンに入り込んで、ゲームのアカウント情報を漏らすらしい。
オンラインのゲームをやっている人を狙って、その人がお金を出して買った会員用のIDやパスワードを盗もう…というものか。
狙っているオンラインゲームが、きっと台湾や日本で流行っているものなんだろう。

それにしても、次から次へとよくもウィルスが作られるものだ。

独立行政法人 情報処理推進機構というところが、ウィルスの被害届出を受け付けていて、5月の統計によるとウィルス検出数が20万個とのこと。
これは、被害にあった人が届けた数であり、氷山の一角の数字。

実際に被害にはあわないとしても、ウィルスのチェックのために始終パソコンが小休止し、知らぬ間にパソコンのチップが電気を使って動いている。
それによるロスなども考えたら、本当にものすごい被害量だろう。

まあ、それだけの代償を払ったとしても、インターネットという国を超えた自由な通信と、ネット上にためられた情報を利用できるという自由は、大事だと思う。

自由の代償がウィルスチェック。

そう思って、納得するしかないか…。



| | 考えたこと | 22:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
ページホルダー
微妙な製品だった。

ページホルダー。
これが正式な商品名。
ブックストッパーというのもある。

本を開いておいておきたいときに使う道具。

要は、洗濯ばさみ状のものに、重りがついているもの。
とめておきたいページのところにはさむと、重りでそのページで開いたまま本を置ける…というもの。
はさんでもページが見えるように、クリップの部分が透明になっているのがミソ。

さらに、開いたページからめくってもとめられるように、クリップのところが二重になっていて、数ページはそこにはさむことができる。

よく、本を開いたままにしておきたいときに、重いものをページの端に載せるのだが、これがあると、そんなことをしなくても大丈夫だし、透明なので文字も見える…と思って買ってしまった。

まあ、薄い文庫本なら思い通りの役に立つが、厚くなったり、単行本になったりすると、とめておけなくなる。
ページホルダーごと、本が閉じてしまうのだ。

対策は、2つ買って、両側をとめることかと思う。

そこまでするのもなあ…。

でも、全く活躍しないわけではない。
パソコンの横に置いてあって、本の一節を写すときには使っている。

結局は単体ではなく、マウスを反対側のページに置いたりするのだが…。

最近はなかなかヒットがない。




| | 考えたこと | 00:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
覚えること
よく試験の前に丸暗記して、どうせ忘れるのに…と思った。

同じことを子どもも思うらしい。
こんなん、やっても意味がない。
どうせ忘れるから…という。

しかし、これはマチガイだ。

一度覚えて、忘れたことと、一度も覚えていないことは全く違う。

一度覚えたことは、思い出すことができるが、一度も覚えていないことは、思い出すことはできないからだ。

脳は想像以上にかしこい。

だからこそ、覚えることに意味がある。
忘れてもいいから、覚える。

次に思い出したときには、もう少し記憶の手前に出てくる。

本当に必要なことは、何度かやっているうちに、意識に残る。

ぼくも歴史や地理がキライだった。
覚えるものばかりだったからだ。

それでも、一度はいやいやでも覚えたおかげで、社会人になってから歴史小説を読んだときに、ぼんやりとでも背景がわかる。
紀行文を読んだときに、ぼんやりとでも、地名がわかる。

だから、忘れても覚えることは必要なのだ。

そんなことは、やっているときにはわからない。

それが、難しいところだ…。


| | 考えたこと | 00:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
匂いの記憶
子どものころ、病気になると家の近所の内科に連れていかれた。

伊藤先生という女医さんで、メガネをかけた、ちょっと厳しそうな先生だった。

ぼくは、お腹が弱かったので、たいがい吐き下しでお世話になったと思う。

当時のお医者さんというと、聴診器、触診、そして注射だった。

注射器は、消毒用のガーゼ、ガラス製のアンプルなどとセットで、ちょっとソラマメをゆがめたようなカタチの、きれいな銀色のお皿の上に載っていた。
注射器はもちろんガラス製だった。
今のようにモノがあふれている時代ではなかったから、ディスポーザルのものなどなかった。
たいがいのものはガラス製で、銀色の四角形の鍋のような、消毒する機械の中に入れてあった。
何でも消毒していたのか、お医者さんというと、待合室に入ったとたん、消毒液の匂いがした。
あの匂いと伊藤医院の情景はセットになっている。

今は安全のために、注射器は使い捨てになった。
しかし、昭和30年代、40年代はガラスの注射器を消毒して使っていた時代だった。
あのころ、たくさんの人が肝炎や血液からかかる感染したのだろうか…。

疫学や病理学、細菌学などという学問がある。
こうすれば、病気感染が防げるという知識があって、あの消毒液の匂いや銀色の消毒器があったのだろう。

それでは不充分ということだったのか、それとも患者の数が増えていちいち消毒していられないということだったのか、それともミスを防止するためか…で、ほとんどの機器がディスポーザルになった。
それとともに、医院の消毒液の匂いも、ほとんどなくなったのだと思う。

あの匂いをかぐと、病気と、注射と、診察室、銀色のお皿を思い出す。

そして、あの匂いには何ともいえない安心感があったように思う。



| | 考えたこと | 23:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
煙が目にしみる
原題は"Smoke gets in your eyes"。

プラターズという黒人のグループが昔歌っていた。
スタンダードナンバーの一つ。

どこでこの曲を覚えたのか、あまり記憶がない。
二十歳過ぎには知っていた。

ゆっくりしたバラードで、「煙が目にしみる」という邦題と、"Smoke gets in your eyes"という原題がよく合っている。
原題よりも邦題の方がいい、という名曲。何度かここにも書いたかな…。

この曲が記憶に残っているのには理由がある。

働きはじめて2年目くらいだったか…。
先輩のNさんが、三宮の「会員制クラブ」に連れていってくれた時に、リクエストした曲。

そこは、シックな扉に「当店は会員制です」というプレートがあった。
「え、こんな店に入るんですか?」と思わず聞いてしまったが、「そんなたいしたトコとちゃうネン」と言いながら扉を開けて入った。

小さな店だったが、グランドピアノが置いてあって、その回りがカウンターになっていた。
Nさんは馴染みの客らしく、お店の人と親しげに話をして、おもむろにカウンターに座った。
緊張しながら、ぼくも座って、水割りをもらった。
グランドピアノの回りのカウンターで、ウイスキーを飲みながら、弾き語りを聴く時が、自分の人生に急に訪れるとは…という驚きがあった。

ピアノを弾きながら歌っていたのは、当時ぼくよりも少し年上の女性。

Nさんは、この人とも親しげに話をしていた。

「何でも言うたら、歌ってくれるデ」と言われ、その時に頭に浮かんだのが「煙が目にしみる」だった。

「煙が目にしみるをお願いします」

とおずおずと言った、その瞬間をよく覚えている。

残念ながら、「その曲は知りません…」と言われ、聞くことはできなかったのだが、その時以来忘れられない曲になった。

その店には、その時一度だけだった。
けっこう高い店だったと思う。

後で知ったのだが、この「煙」というのは、タバコの煙かと思っていたが、それはマチガイ。

恋の炎が消えたあとの煙…という意味あい。

いい歌です。



| | 音楽 | 01:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
アピる
和製英語というのがある。

前に書いた、ゴールデンタイムとか、ナイター、オートバイ、ガードマンとかいうもの。
これは英語のように見えて、実際には日本で作られた言葉。

英語がそのまま日本語になったものもある。
これはアセスメントとか、マニフェスト、ジョギングとか。
もともと、日本語になかった概念の言葉だろう。
アセスメントなどは単独で使われるよりも、環境アセスメントとか人事アセスメントとかいうように、何かにひっついて専門用語として使われる方が多い。
マニフェストなどは、政策公約と言えばいいのだが、これは政治家がハッキリしたくないという意向もあって、わざとカタカナにしているのかもしれない。

さらに、英語の意味を借用して、新しい言葉を作っているのもある。
これは、最近聞いてなるほど、と思った言葉。

アピールする、というのを「アピる」という。
「これをちょっとアピっとこう」などと使うらしい。
これを聞いたときはビックリした。

日本語には「る」で終わる動詞が多いので、「ル」で終わる英語は動詞になりやすい。(tellみたいに音節が短いものは無理だろうが…。)

だから、「ル」で終わる英語の動詞や名詞は、語幹を短縮して、「〜る」という使い方をしても、理解できてしまう。

グーグルで検索するというのを、「ググる」という動詞にする例もある。
これはかなり浸透しただろう。

他に考えつくのは、「アニマる」「コマーシャる」「グローバる」「ナチュラる」などもありかな…ちょっと無理があるか。
このままでは使わないだろうが、活用すると、少なくとも意味はわかる。

「アニマったレスラー」「ここでひとつコマーシャっておこう」「経済はグローバっています」「ナチュラりすぎた自然食品」みたいな使い方もあるかもしれない。

それにしても、言葉は不思議だ。
音で意味がわかるものがたくさんできてしまう。
(もちろん、使われる文脈の中で判断できるからだが…)
文字はあと、音が先ということがよくわかる。

いつか、「アピる」も広辞苑に載るかもしれない。

まだ「アピる」ならいいが、「あぴる」になったら、ちょっとコワイ。

そんな時まで生きていないか…。





| | 考えたこと | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
逆転の発想
どうも天気が安定しない。

雨が降るかと思えば、晴れて、暑くなったと思えば寒くなり、外は風が強くて涼しいのに、部屋の中は蒸し暑い…。

もう梅雨に入っているので、雨が多いのはしかたないが、それにしても天気がオカシイ。

今はクルマで通勤なので、雨の日は視界が悪くて困る。

でも、名神高速もだいぶ舗装が変わり、水たまりが減った。
透水性舗装というやつに変えているのだろう。
昔はトラックの横や後ろを走っていると、時々すごい量の水ハネがあって、一瞬前が全く見えなくなることが多かった。

そのせいか、一時流行ったウィンドウの撥水剤もあまり宣伝を聞かないし、売っているところも減ったような気がする。

あれは逆転の発想だった。
それまでは油膜取り剤を塗っていたのに、あれはきれいに油膜を塗って、水をはじくというものだと思う。
シリコン系とか、フッ素系とかいろいろあるようだが、最初に考えた人はえらいと思う。
いいヤツを塗ったら、本当にワイパーは要らない。

これを塗ってしまうと、普通のウィンドウォッシャー液を使うと被膜を取ってしまうらしい。

ただ、塗る前に十分に汚れを落とし、完全に乾燥させてから塗らないとイケナイというような手順のややこしさはある。

もう少し簡単になれば、もっと使われるはずなのだが…。

それこそ、ウォッシャー液に混ぜて、雨が降ったらボタン一つで被膜ができる…というような製品はできないのかな。
きっと開発を考えている人はいると思うのだが…。

早く、開発できることを祈る。
すべてのクルマがこれを装備すれば、確実に雨の日の事故は減るはずだ。

ぼちぼち塗らないといけないなあ。


| | 考えたこと | 00:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
ステープラーとホッチキス
ホッチキスの由来が前から気になっていた。

英語ではステープラーと言わないと通じない…とは聞いていたが、そうなるとホッチキスは英語圏で生まれたものではないのかな…と思っていた。

wikipediaによると、ホッチキスはアメリカのホッチキス氏が発明し、そこから名前がついた由。
それなら、なぜアメリカでホッチキスが通じないのか、不思議ではある。

順当に考えて、ホッチキスというのは名前くらいしかないだろうなとは思っていたが、やっぱり…という結果だった。

小学校の頃は、圧倒的にホッチキスだった。
いつからステープラーという名前を意識しだしたのか、考えてみると文房具屋に並んでいるときに、ステープラーと書いてあったからだろうと思う。

今でもめったにステープラーとは言わない。
「ホチキス」が一番言いやすい。

ホッチキスの難点は、綴じた書類をたくさん作ったときに、止めた部分がかさばることだ。
これは、ホッチキスを圧着する部分が山形になっていることが原因。
その部分だけ厚みが増す。

10年ほど前に、文房具屋をウロウロしていて、今で言う「フラットクリンチ型」のホッチキスを見つけた。
通常のホッチキスの倍以上の大きさで、かなり重かったが、店で試しに使ってみてビックリした。
普通のホッチキスは針を押しつける構造だが、このフラットクリンチ型は、針の方を押さえつけると、自動的に針を受ける下の部分がせり上がって、針を挟み込むように押さえつける。
おかげで、おさえた針がフラットになるだけでなく、普通のホッチキスでは止められないような厚い書類も止めることができた。

会社に持っていって、だいぶ自慢したのを思い出す…。
これは残念ながら数年で壊れてしまった。

その後、コストダウンし、フラットクリンチ型は小さくなった。
今のものは、針の止めた部分をフラットに押しつけることが第一であり、針の反対側を押し当てる圧力が減っていると思う。(だから壊れにくいのだろう)

初期の製品は、本当に軽い力で厚い書類を止めることができた。

きっと機構的に無理があったから、壊れてしまったのだと思う。
それでも、ズングリムックリして、とてもホッチキスとは思えないカタチだったが、あれはいいデザインだったと思う。
探してみたが、今はもうなくなっていて、従来のホッチキスみたいなカタチのものしか売っていない。

コストよりも性能を追及して(耐久性はちょっとマズかったが)作られた製品だったと思う。

あれは、ホッチキスの小さな1(大きな?)革命だったなあ。



| | 考えたこと | 08:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
発見・また発見!
発見・また発見! アイザック・アシモフ ハヤカワ文庫。

アシモフの科学エッセイの第6巻。

この本では、20世紀に入ってからのいろいろな発見をまとめて紹介している。

この本が書かれたころ(1970年代)の人口が35億人。
今の人口が66億人。
すごい増え方だ。

その人間を食わしていくためには、食物が必要だ。
それを増産する方法の一つは、人間以外の動物にそれを食べられないようにすること…。
一番の大敵は、昆虫である。昆虫は、地球上の動物のうちで、最も成功した形態をもつ生き物である。
地上にはほぼ100万種の昆虫が知られているが、おそらくそのほか200万種の、まだ見つかっていない昆虫がいると思われる。
これは、ほかの生物全部の種の合計よりはるかに多い。

ほとんどあらゆる種類の昆虫は、人畜に対して無害である。
役に立つ昆虫もいるし、生態系の中で必要なものである。
しかし、病原菌を運ぶ昆虫や食べ物を荒らす昆虫とは戦わざるを得ない。
そこで、発明されたのが、DDT。
人間には無害だが、昆虫は殺すことができる。

しかし、特定の昆虫だけを殺す薬はできないのか?
それが、できるのだ。
特定の木から取り出される物質が、それにあたる。
昆虫に食べられる植物が、数百、数千万年の進化の間に自己防衛の方法を発達させたのだ…。

そんな話からこのエッセイ集は始まる。

続いて、なぜ地球上に生命がうまれたのか?という話。
生命とは何か?という定義から始まる。

そして、物質の成り立ちの話。
原子、電子、陽子、中性子、クォーク…。

電波望遠鏡で発見された、太陽系の惑星の観測の話。
この、電波望遠鏡の発明の経緯はおもしろかった。
電波によって宇宙を調べることができることは、偶然わかっていたのだが、それが電波望遠鏡になるまでは時間がかかった…という話だ。

そして、最後にロケットの発明にいたるお話。

このシリーズ4冊目だが、読み出したらやめられない。

おかげで、休みの日はあまり外に出られない…。




| | | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
ブラジルの千の風
財布がこわれてしまったので、子どもと一緒に買い物に行った。

「つかしん」という西武が鳴り物入りで作ったモール。
今は西武も撤退し、平和堂やCOOP、ジョーシン、ユニクロ、無印良品などが入ったモールになった。

財布を買って、子どものジーンズを買って、ウロウロする。

ここの4階に、何ともいえない雑貨を売っている店がある。
去年の夏、カエルの扇風機(回すと、きれいな模様が出るスグレモノ)を見つけて以来、必ず寄るようにしている。
今日も口を開けるとニャーといいながら赤いランプが口の中で光るネコのキーホルダーや、巻き貝のように丸くなったネコ(ニャンモナイトという)など、面白いものを見つけた。

店内にはインディーズのCDが流れていて、レジのところに今流れているCDはこちら、というコーナーがある。
Sotte Bosseを見つけたのがこの店。
今日もボサノバ風のカバーのCDを見つけて、買ってしまった。

pure flavor#1というアルバム名。
美吉田月(みよしだ ルナ)という人が歌っている。
Sotte Bosseよりも、けだるい感じがなくて、夏向きかもしれない。

この人が歌う、「千の風になって」はよかった。
ボサノバ風のアレンジで、「わたしのお墓の前で…」と歌っているのが、気持ちがいい。
この歌詞、きっと国を超えた普遍性を持っているのだろう。
ブラジルの曲を日本語に訳して歌っているみたいだ。
この曲の「お墓」が西洋の「お墓」をイメージさせるからだろうか…。

ぼくはこっちの方が好きだ。

ブラジルの台地、海が見える山の上にあるお墓の上に涼しい風が吹く…そんなさわやかな風に吹かれているような気がする。

帰りにスターバックスで、期間限定のコーヒーゼリーのフラペチーノを飲んで帰る。


| | 音楽 | 21:48 | comments(0) | trackbacks(0) |