考えたこと2

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ネコ
イヌは元はオオカミだと聞いた。

オオカミから派生したイヌにはたくさんの種類がある。
小型犬、中型犬、大型犬…。
チワワからゴールデンレトリーバーまで、体重でいうと10倍以上の開きがあるだろう。

耳の大きいやつ、胴体の長いやつ、顔の不細工なやつ…いろいろいる。
これは、人間が飼いだしてから目的?に応じて育ててきたのだろうと思う。

しかし、対するネコはどうだろう。
大きさはどれも変わらない。
大型ネコ、中型ネコ、小型ネコなどいない。
調べてみると、シンガプーラという小型ネコがいるようだが、普通のネコと一回りくらいしか違わないらしい。
イヌほどのバリエーションはないようだ。
三毛猫、とら猫、シャム猫、ペルシャ猫、ロシンアンブルー…いろいろ種類はあるのだが。

エサのことを考えると、小型ネコなどいると飼いたい人もいるのではないか。
チワワくらいのネコなら、エサ代も少なくてすむ。
体長20センチくらいのネコ(子猫がオトナになったようなものだ)はカワイイと思う。

ゴールデンレトリーバーみたいに大きなネコはいただけない…というか、危ないだろう。
木の上にいて、飛び降りてきたりしたら大変だ。
引っかかれたら死ぬかもしれない。

なぜイヌにはたくさんの種類があって、ネコには少ないのか…。
何か生物学的な理由があるのだろうか。

それとも、あまり人のいうことを聞かないから、種類が増えなかったのだろうか。

それとも、ネズミより小さくなったらネズミにやられてしまうからだろうか…。

子猫は本当にカワイイ。
あのまま、オトナにならなかったら、ペットとしてはすごく価値があると思う。

そんなワケにもいかないか。


| | 考えたこと | 22:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
コイン駐車場
ふと気がついたら、いつも通る道にコイン駐車場ができている。

無人で、勝手に止めて、駐車時間に応じてお金を入れて出るだけ。
お金を入れないと、板が上がって車を動かすことができない。
よくできた仕組みだ。

それにしても、最近すごく増えたと思う。

駐車禁止の法規が変わったことも一つの要因だろう。

少し前までは、家が壊された後にはマンションやアパートができた。
しかし、今はコイン駐車場ができる。

少子化の影響は思わぬところに出ているのではないか。
住むところはもう足りているのだ。

この調子でいくと、まだまだコイン駐車場が増えていく。

地価が上がるまで駐車場にして…と思う人がたくさんいる。
いくらくらいで開業できるのだろうか?
地下に電気や信号の線を埋めて、お金の収集機と車止めの羽板を設置して、舗装して、ラインを引く。
あとは定期的に集金するだけだ。
ネットワークの線も入っているのだろう。インターネットでどこのコイン駐車場が今空いているのか検索できる。

少子化とコイン駐車場…どこまで関係があるのかわからないが、まだまだ増える。
免許を持った老人がまだまだ増えるからだ。

このままいくと、日本はコイン駐車場天国になるぞ…。



| | 考えたこと | 00:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
つゆだく
「つゆだく」という言葉、いつからあるのだろうか。

新語辞典には載っているが、国語辞典には載っていない。
新しい言葉で、どうも吉野家が発祥らしい。

どんぶりで、つゆを多めに入れるということ。
つゆでダクダク、という擬態語から来ているのか、それとも「つゆがたくさん」がなまってつゆだくになったのか。
何となく感じはわかる。

しかし、わざわざ「つゆだく」を頼むというのがわからない。

ぼくはつゆは少ない方が好きだ。
つゆが多いと、ご飯がベシャベシャになって、おいしくない。
白いご飯が、つゆの色に染まるのも興ざめだ。

それでも、そういうオーダーの仕方があるということは、つゆが多い方が好きという人がいるからだろう。
最後に残ったご飯を、お茶漬けのようにして食べるのがいいのだろうか…。

少なめにつゆを入れる、というオーダーの仕方はどう言えばいいのだろう?
「つゆちょろ」とか、「つゆちょび」とか…いいのを思いつかない。

そういえば、丼ものを食堂で頼んだときに、時々頼みもしないのに、つゆがたくさん入っていることがある。
あれはやめてほしい。

カツ丼でも、親子丼でも、木の葉丼でも、つゆちょろがいいのだ。

これはゆずれない。



| | 考えたこと | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
万年筆
1970年代はまだ万年筆が入学祝いになる時代だった。

パーカーやモンブラン、パイロットなどの万年筆はその定番だったと思う。
パーカーは、クリップのところが矢のデザイン。
モンブランはキャップのところに白い雪の結晶のようなマークが入っている。カートリッジ式ではなくて、ペン先と反対側がネジ式のポンプになっているのも特徴的だった。いまもポンプ式のがあるのだろうか。
パイロットのは、ペン先に14Kとか刻印してあった。
シェーファーとか、ウォーターマン、ペリカンというのもある。
いまはデザイナーズブランドというのか、カルティエとか、ダックスなどというのもある。

万年筆というのは、書いているうちにペン先が書き手に合わせてなじんでくるものだ…と聞いたことがある。
だから、人に万年筆を貸してはいけないという。

有名な作家で、万年筆を使う人は多かったようだ。

いまはボールペンがいろいろあるので、そちらも多いだろう。

ぼくらが小学生の頃は、オトナが使っている万年筆がうらやましかった。

今のように派手な色のものはなく、たいがい黒かグレー系だった。

こっそり、使ってみて、ふ〜んと納得した。
別にそんなに書き味が違うわけではないが、ブルーのインクが入っていたりすると、何となくいつもと違う、うれしさがあった。

母はパイロットのを1本、父はパーカーを持っていたと思う。
中学の頃だったか、父が会社の人のお土産で、モンブランの万年筆をもらって帰ってきた時は、家族みんなでこれがドイツの万年筆か…と見たものだった。

一時会社で万年筆を使っていたが、水性ボールペンのいいのが出て、そっちの方がよくなってしまった。

でも、なじんだ万年筆の書き味は、すごく柔らかい。
1本、実家にあった万年筆がある。
ペン軸のネジが壊れて、ちゃんととめられなくなってしまっている。

たぶん、母が持っていたのをもらったのだと思うが、親子で書きぐせが似ているのだろうか、最初から使いやすかった。

こういうものは、捨てられない。
いつか修理して使おうと思っている。

最近はめっきりと使う人が減った。
今や嗜好品の部類である。

200円ほどで、使い捨ての万年筆を売っていたりするが、ボールペンの時代が来てしまって、復活は難しいだろう。

しかし、なくなりはしないだろう。
万年筆とは、そういうモノだと思う。


| | 考えたこと | 01:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
桑田と世良
桑田と世良というと、サザン・オールスターズとツイストのボーカルのことだ。

二つのグループはほぼ同時にデビューした。
かたや「勝手にシンドバット」であり、かたや「あんたのバラード」。
あの頃、どちらが生き残るか?と聞かれたら、10人に9人はツイストだと言ったのではないだろうか。

サザンの歌は、「いま何時 そうねだいたいね…」という歌詞と、勢いだけで作ったのかな、というメロディで、この曲だけで終わり…という感じだった。
対するツイストは、本格的なロックバンドという雰囲気で、スゴイやつが出てきたなあ…という感じだった。

逆転したのは、「いとしのエリー」。
あの曲でサザンというか、桑田は化けてしまった。
いや、どないしたん?という曲。ザ・ベストテンで聞いたときにはびっくりした。

あれから、ずっとアルバムを出せば、必ずヒットチャートを賑わせるグループになったし、桑田自身もシンガー、ライターとして日本を代表するポップスターになった。

世良公則の方は、「燃えろいい女」あたりまでは覚えているのだが、その後しりすぼみだった。

わからないものである。

桑田はその後もヒットを出し続け、いま流行っている、「明日晴れるかな」もいい曲。
ピアノのイントロとストリングスがすごく魅力的な歌。
最後の、「明日晴れるかな」の子供のコーラスが泣かせる。

この人は、いつになっても、詞が書けそうなところが強い。
世良みたいにカリスマ性がなかったのが良かったのかもしれない。

歌詞に英語のフレーズを入れて韻を踏むようにしたのも、この人が最初だったのではないか。

80年代に彗星のごとく現れて、片方はいまも第一線で活躍し、もう一人は(活躍しているのだろうが)比較の対象にもならなくなってしまった。

才能というのは、本当にわからない。

「勝手にシンドバッド」もいい曲だったが、あの時のグループがいまも歌い続けているとは…。





| | 考えたこと | 00:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
新聞
最近、新聞が面白くなくなった。

もともと、面白いことが書いてあるわけではないのだが、少し前までは毎朝ざっと全紙面を見ることが普通だった。
それが、最近は見る気がしない。

新聞が変わったわけではない。
世相が変わった、という気はする。

ずっと同じことの繰り返しだ。
殺人、いじめ、企業の不祥事、公務員の汚職、天下り、自殺、政治とカネ、教育の荒廃…読んでも仕方ないと思う。
新聞の書き手も、記事をこなしている…という感じになっているのではないだろうか。
あ、またこれや、前と同じパターンで行こう、というヤツだ。

記名記事にして、もっと意見を書いてくれないか。

どの新聞も、発表内容を書いているだけ。記者が自分で調べて、これはオカシイというようなことは週刊誌に載る。

毎日出しているのは、テレビ・ラジオの番組欄とスポーツの結果があるからではないのか。
そういえば、以前に比べてスポーツの欄が増えたような気はする。
行政関係は、どの新聞を見てもナントカ省の発表した内容をそのまま書いてあるので、記事は大同小異になる。
だいいち、読んでいて、面白くない。

世相が変わっただけでなく、自分も変わったと思う。
どう変わったかはわからないが、ひと言でいうと「どうでもよくなった」という感じだ。
世の中がどうでもよくなったわけではない。
新聞など、どうでもよくなったのだ。

それとも…本当に最近の新聞の質が低下しているのだろうか…。

そうだとしたら、ぼくだけの問題ではないのかもしれないなあ。


| | 考えたこと | 22:49 | comments(2) | trackbacks(0) |
メガネ
40代の後半から老眼が出てきて、老眼鏡を買った。

最初はゆるくて、度数0.75というものだったが、それはもう役に立たなくなってしまった。
かけても、新聞がちゃんと読めないのだ。

だんだんと度数が高いものを買い、去年はちゃんと目に合わせた老眼鏡も作った。
(左が乱視なので、既製品では左右で見え方が違う)

いつも持ち歩くのは不便なので、既製品ですこし見えにくくなったものは置いてある。
その一つが、ついに役に立たなくなったということだ。

寝るときに本を読むので、枕もとに一つ。
仕事中に書類を読むのに、デスクの上に一つ。
休みの日に持ち歩く小さなカバンの中に一つ。
食卓のそばに一つ。

だんだんきつくなってきて、今日のはついに1.5になった。

普通に出あるくのには、メガネはあまり使わない。

でも、遠近両用のが一つあって、これは映画や舞台を見るときやセミナーなどに行ったときには必需品。
遠くもだんだんと見えなくなってきたので、これがないとシンドイ。
一時、ずっとかけていたが、かけなくても不自由はないので、持ち歩いている。
作ったときは、ずっとかけていようと思っていたのだが、それほど近視はきつくないので、何とかなる。
これは、できるだけ目立たないように、レンズにフレームがついてないものにした。
(ホワイト・ハウスに出てくる、ロブ・ロウをマネしたのだが…)

いくら目立たないと言っても、メガネというのは、顔を変えるので、面白い。

今日メガネ屋さんに行ってきたので、いろいろなメガネをかけさせてもらった。

ジョン・レノンのようなタイプの丸いメガネは似合わない。
だいたい、丸いタイプはレンズが近くて、目がレンズの中央に来ない。
大きめの丸いメガネは、漫才師風になってしまい、今ひとつだった。

横長の楕円のタイプでフレームが太く、くっきりしたものにすると、すこし柔らかい感じになるような気がした。
四角のタイプでも、だいぶイメージは変わる。
メガネ屋さんは、どれをかけても、「おお、いいですね」と言ってくれるが、ピッタリくるのはなかった。

でも、メガネを変えると、印象がだいぶ変わることは事実。

映画に出てくる人でメガネをしている人はあまりいない。
サングラスは多いけど。
こないだ書いた、「刑事物語」のアラン・ドロンのサングラスはよかった。

ヒュー・グラントがメガネをかけていたという記憶があるのだが…、ネットで探しても見つからない。
「ノッティング・ヒルの恋人」ではなかったか…。

いずれ、近眼がひどくなったら、ずっとメガネをかけなければならなくなるのだが、その時のために考えておこう。




| | 考えたこと | 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
いい考え
人は寝ているときも脳が働いているという。
気にしていることがあると、それを眠っていても考えている。

今朝、早く目が覚めた。
だんだんと眠りが覚めてくるにつれて、あれはこうしたらどうかとか、こんなやり方があるとか、そういう考えがグルグルと頭の中で回っている。
回っている中に「これはいい」というものが出てくる。
自分でも、なるほどと思って、それについて考えていたが、どうしても目が覚めてしまい、寝るときに書くために置いてあるノートに書いた。
書いたものをちぎって、カバンに入れて、洗面所に行き、朝ご飯を食べて、仕事に行った。

事務所に着いてから、もう一度ちぎった紙を見たら、思いのほか面白いことが書いてあった。
たかだか2時間ほど前のことなのに、自分が書いたとは思えないことが書いてある。

それを見ながら、こんなんどうやろ?と話してみたら、いいかな…という感じだった。

人間の脳は生きている間に1/3しか使わないとのこと。

本当はもっと眠っている間に使っていて、それがわからないだけかもしれない。

果報は寝て待てということわざは、文字通り、「眠っている間にいい考えが浮かぶ」ということか。

睡眠は少し足りなかったが、それを補って余りある今朝だった。

脳はエライ。




| | 考えたこと | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
職業的なやさしさ
今まで、職場の人からはやさしいと思われてきたと思っている。

本当にそうであったかどうかは、わからない。
気をつかうとか、思いやるとか、理解するとか、行動するとか、その時によってやさしさのカタチは違う。
自分の思いと人の思いも違う。
仕事の上では、人を理解しようとつとめてきたし、ためになることは進んでやってきたと思う。
それが裏目に出たことがあったり、長い目で見たら、それはやさしくないということもあった。
それでも、トータルな評価では、コワイと思われることはなかったと思うのだが…。

しかし、この歳になると、存在がコワイと思われることもあるようだ。

早口でまくしたてるように話すことが多いようだし、人の言うことを聞かず、先回りして話したりすることもある。
気をまわしたつもりで、結局は相手の言うことを聞いてなかったりもするようだ。
そういうのが、コワイと思われるのだろう。
悪気はないのだが…。

今から自分を変えるのは難しい。

職業的なやさしさ、というのを身につけることはできるのだろうか。

それだったら、コワイと思われても、コワイけど…と思われる方がマシだろうか。
…の部分には、何かポジティブなことが入ればいいのだ。

答えはでない。
これから、努力してみよう。

人と接するのは難しい。


| | 考えたこと | 00:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
鉄則
誰かにわかってもらいたいことを、わかってもらうのは難しい。

わかってもらいたいと思っている本人にとっては、それをわかってもらうことが当たり前だと思っている。
そして、えてして、わかっていない人にとっては、なぜそれをわかってもらいたいのかが、当たり前ではない。
そこに、難しさがある。

それが説明する本人にとって、当たり前のことであればあるほど、わかってもらうことが難しくなっていく。
説明が難しいのではない。当たり前だと思っているほどのことであれば、わかってもらおうと思うなら、わかるように説明をすることができるハズだ。
でも、その時に難しいのは、説明する本人とって、当たり前であればあるほど、なぜそれをわかることが大事なことなのか、というところが飛んでしまいがちになる、ということだと思う。

前にも書いたが、歴史を習うのは、単なる暗記であって、なんでこんな事を習わないといけないのか…と思っていた。
でも、歴史のことを知ると、それを知ることは未来のことを考えるときに大事なことだとわかる。
どうして、最初に、歴史を習うことが必要なのかということを教えてくれなかったのか…とあとで思った。
でも、教える側にとっては、そんなことは当たり前なのだ。だから、教えているのだ、ということだろう。

わかっていない人に、わかってもらおうとするときに一番大事なのは、何故それをわかってほしいと思っているのか、何故それをわかることが大事なことなのか、何のためになるのか…ということをいかにして伝えるか、ということだと思う。

人は、どうも、わかってしまうと、それがなぜ大事なのかということを忘れてしまうものらしい。
歴史の教科書が良い例だ。

わかってもらうために、一番大切なことは、わかってもらいたいことについて説明することではなく、何故それをわかることが大事なことなのか、ということなのだ。

極端に言えば、なぜそれをわかることが大事なのかが伝われば、仕事の半分以上は終わったと言っていいだろう。

でも、限られた時間の中で、わかってもらおうとすると、ついついそれをわかることが大事なのかという理由よりも、そのこと自身について説明しようとしてしまう。
そして、失敗する。

今日は失敗した日だった。

自戒を込めて、もう一度書いておく。

わかってもらいたいことが、本人にとって当たり前だと思うことであればあるほど、何故それをわかることが大事なことなのか、ということに時間を割くべきだ。

それが、鉄則である。


| | 考えたこと | 23:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
ノーベル賞
だいぶ前に、水虫を治す薬を作れたら、ノーベル賞ものだ、と聞いたことがある。
それほど、難しいことなのだろうか…。

そう言われたら、これができたらノーベル賞もの…というのは時々聞く。

もちろん、ガンの征圧などはその対象になるだろう。

環境問題などはこれから増えそうな気がする。

どんなことをしたら、ノーベル賞をもらえるか、考えてみると面白い。
マジメなところでは…

・人工臓器(これは生命倫理の問題が絡むが…)
・異星人との交信
・空気中の二酸化炭素の減少
・砂漠で育つ穀物
・高能率の太陽電池
・脳のメカニズム解明
・パレスチナ問題解決
・核の廃絶

発想が貧困かな?

いくら食べても太らないポテトチップスの開発とか、カロリーのないアイスクリームとか、二日酔いしないお酒とか、食べもの関係はいろいろありそうだ。

イヌ語やネコ語の翻訳機も本格的なものになれば、受賞してもよいと思う。
(人間語翻訳機は難しそうだ)

立体ホログラフィーというか、3次元の映画も本当にできれば、すごいことだろう。

何度も書けて、クリアもできて、内容が記憶されるような電子ペーパーは欲しい。
いいのができれば、受賞させてほしい。

脈絡がなくなったが、ノーベルさんはエライ。
どこの国の人であろうと、良いものには賞金を…という心意気。

学術的なものだけでなく、工業製品にも賞を与えていたとしたら、日本はもっと取れただろう。
ソニーやホンダなど、対象企業になったはずだ。

今年は誰がとるのかな…。
田中さんのようなサプライズがあるといいのだが。




| | 考えたこと | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
ポワロ
エルキュール・ポワロは、アガサ・クリスティが作りだした探偵。

ベルギー人である。
なぜ、クリスティがポワロをベルギー人にしたのか、よくわからないが、会話の端々に出てくるフランス語は、潔癖性でキザなポワロの知性というか、「灰色の脳細胞」というキャラクターをあらわしているような気がする。

ありがとうを「メルシー」、友達を「モナミ」、ミスターを「ムッシュー」という(翻訳でルビがふられている)ポワロは、こないだ書いたフィリップ・マーロウを筆頭とするハードボイルドの探偵とは対極的な探偵だ。

お金に困っていない。
身だしなみに気を遣い、いつもきれいな格好。
美食家で、カネがないときは冷蔵庫に入っているモノで済ましたりしない。
だいたい、小説の舞台が金持ちの集まりだったり、犯人も含めて、上流階級が多い。

一人ではない。
たいがい、ヘイスティングというパートナーを連れている。
力仕事やアブナイ仕事は任せ、もっぱら知的な調査にいそしむ。

この二つは大きい違いだ。

以前、けっこうな数のクリスティのミステリを読んだ。
母がファンだったので、家にたくさんあったからだ。

オリエント急行の殺人、そして誰もいなくなった、ゼロ時間へ…。

イギリスのミステリと、アメリカのハードボイルドとは同じ探偵でも全く違う。

マーロウの事を書いたら、やっぱりポワロの事も書かないと片手落ちになる…という思いがある。

マーロウとポワロの一番の違いは、ポワロは死ぬところまで小説になっている事だと思う。
「カーテン」という作品で、クリスティは文字通りポワロの人生に幕を引く。
早くから最後の作品は書かれていて、金庫に入れられていたとのこと。

この、ちゃんと死ぬところまで書いておく、というのがイギリスらしいなあ…と思う。

カーテンが発表されたときに、ロンドンタイムズではなく、ニューヨークタイムズにポワロの死亡記事が載ったらしい。

このあたり、ニューヨーカーの洒落っ気にロンドンの人たちは悔しい思いをしたのだろうか。
英語がわかれば、当時の新聞を見てみるのだが…。

それはさておき、今の日本に、ポワロのように作品中でなくなったときに死亡記事が出るようなヒーローがいるかな…。
だいたい、作家は自分が作りだしたヒーローを死なせたりしないのか…。

名探偵コナンは死にそうにないし、古畑任三郎はせいぜい定年になるくらいだろう。

考えてもムダか…、日本の新聞社にそんな洒落っ気はないだろう。


| | 考えたこと | 22:21 | comments(4) | trackbacks(0) |
英語は合理的?
子どもが英語は合理的で、日本語は合理的でないという。

その理由は、日本語では「自分」をあらわす言葉が、「私」「ぼく」「おれ」など、いくつもあること、語順に英語ほど規則性がないことなどをあげていた。

たしかに、人称代名詞については、和洋の違いは明らかだ。
西洋の「I」や「You」という言葉はずっと変化していないらしいが、日本語では、「御前」「貴方」など場所をあらわす言葉が人をあらわす言葉になったり、「君」のように昔は高い地位をあらわす言葉がだんだんと普通の人をあらわす言葉になったりしている。

これは、だれかが言っていたが、西洋では神と人の関係が1対1なので、「神」に対する「私」はずっと変わらないのに対して、日本では「神」対「人」という概念はなく、「人」対「人」という和の中で「自分」や「他人」を区別するので、日本語の人称代名詞はたくさんあるのだ、ということらしい。すごく納得したので、よく覚えている。(そのわりに、誰が言ったかは覚えてない…)

語順に関しても、日本語や韓国語は膠着語という分類であり、「膠着」というのは、「ニカワでひっつける」という意味で、要は助詞などを使って、どんどん言葉をひっつけていく、という形式の言語だと聞いた。
それは、その通りで、「ぼくは買い物に行った」と言ってもいいし、「買い物にぼくは行った」と言ってもよい。
英語で言えば、"I went shopping."としか言えないと思う。
肯定、否定もあとでひっつける事ができるので、「ぼくは…と思う」というのを否定するのは「ぼくは…と思わない」で、肯定か否定かは文末まで保留される。
英語で言うと、肯定・否定は"I think…"か、"I do not think…"であらわす場合が多く、最初に宣言される。(もちろん、…の部分を肯定文にしたり否定文にしたりすることで、ひっくり返すことも可能だが)

そんな事があって、日本語は合理的でないという。

しかし、日本語は漢字、カタカナ、ひらかなという文字を使って、古くはアジアの言葉を、新しくは西洋の種々の概念を日本語の中に取り込む柔軟性を持っており、それが日本の文化を豊かにしている。
だから、合理的でないとは言えないのではないか?と言ってみたが、「柔軟性があることと、合理的であることは別のことだ」と言い返され、「それもそうやな」という事になってしまった。

実はぼくも若いころは、日本語は英語に比べて合理的でない、と思っていた。

でも、年をとるにつれ、必ずしもそうではない、と思うようになった。
それは日本人として、年を重ねるうちに、日本語が合理的でないと思いたくなくなったからなのか…。(これも日本語的な表現だ)

素直に同意できない気持ちになってしまう。

結局は説得することはできなかった。
内心そう思っていることは、やっぱり説得できない。

しかし、それだからといって、日本語が劣っていることはないという事だけは伝わったと思うのだが…。




| | 考えたこと | 00:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
東京ビッグサイト
仕事で東京に出張した。出張先が東京ビッグサイトというところ。
ウルトラマンに出てくる地球防衛隊の基地のような建物だった。

臨海線という電車に乗って、国際展示場前でおりる。

ビッグサイトの建物や立派な会議室にもビックリしたが、それよりも驚いたことがある。

駅をおりたところに、コンピューター関係の研究所のような建物があって、そこからたくさんのインド人(らしき人たち)が出てきたことだ。

こないだ、NHKスペシャルのインド特集で、IT関係はインドが進んでいるというのをやっていたが、本当だなあ、と思わせられる光景だった。
いかにもソフト技術者というような感じの人たちだ。

やはり、世界はボーダーレス化しているのか。
日本人よりも、高い技術を持っていて、賃金がリーズナブルなのだろうか…。

経団連は労働市場の適正化などと言っているが、あの光景を見ると、日本もよい技術者を養成しないとイケナイと思う。
理科離れなどと言っている場合ではない。

ゼロを発明した国だから、数字を扱うのは得意なのだろうが、本当に技術がなければ、雇用されないはず。

モノやサービスだけでなく、人もボーダーレスになって…世界は平和になるのだろうか。

「美しい国」などというビジョンが出て、ナショナリズム論が盛んになっている。
しかし、子どもたちの世代には世界はどうなっているのだろう。
いろいろなものがボーダーレスになったとき、「国」はどういう意味をもつのか。

こないだ、アメリカの大統領選のニュースで、今やヒスパニック、アジア系などの「マイノリティ」がすでに人口の30%になって、今や少数派とは言えない存在になっている、と言っていた。
そういえば、英語を公用語にする、と決めないといけないような地域もあるとこと。
それだけ英語を話す人が少ないということだ。

ずっと前に、100年後にはドイツにはドイツ人がいなくなる、という記事も読んだ。
トルコなどからの移民が多く、彼らは子だくさんで、ドイツ人の出生率はかなり低いから…ということだった。

日本も先進国のご多分にもれず、出生率は低い。

ITだけではなく、介護の現場ではフィリピンなどから人が入ってきていると聞く。

そういえば、バブルの頃は名古屋の駅前にイスラム系の人たちがたくさんいたなあ。

「美しい国」はこれからどうなっていくのだろう。

久しぶりに東京に行って、そんなことを考えさせられた。


| | 考えたこと | 00:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
部首
ワープロを使うようになって、漢字が書けなくなった。

手を動かさないと、やっぱりダメだ。
字を書くのは、会議や出張でメモをとったりする時くらいか…。

読むことはできても、書けない字が増えた。

こないだ、漢字検定2級の問題を見せてもらったが、読みの方はともかく、書く方は難しいなあと思った。

ただ、ひとつ不思議なのは部首についての問題である。
何のためにこの問題があるのだろう…。

漢字検定協会は、漢字に関する能力を上げようとしてやっていると思うのだが、この部首というやつ、どれほど漢字に関する能力に関係しているのか、理解できない。
にんべん、きへん、のぎへん、ぎょうにんべん、さんずいへん、しめすへん、おおざと、こざと、まだれ、やまいだれ…などの偏はわかるのだが、つくりの方がわからない。

あくび、つくえ、うけばこ、はこがまえ、つつみがまえ、いとがしら…何やネンという感じ。

これを知っていて、何かの役に立つのか?と思う。
きっと専門的には役に立つのだろうけれど、漢字検定の2級の他の問題に比べると、レベルが違うだろう。
落とすためにやっているイジワル試験ではないのだから。

実は、こないだ、漢字検定協会の営業の人と話す機会があって、聞いてみた。
その人曰く、「この部分で差がつくので、問題として入れています。でも、配点は下げてますから…」とのこと。

「こんな事、覚えても普通の人は役に立つことないでしょう?」と聞いたら、
「そうですね…」とのことだった。

学生時代に、何の役に立つネン?と思いつつやったことはたくさんあるが、この歳になってみると、やっぱりやっといてよかったと思うこともある。いまだに疑問だ。
さんずいへんは水に関係した文字とかいうことはわかるが、あくび、つくえなどは分類上そうしている、というものもあるのではないか…?

おまけに、日本では漢字の数を制限したときに字体を変えたものもあり、今や字と意味が分離してしまったものもある。

漢字検定協会がやっていることは良いことだとは思うが、部首の問題を出すのなら、部首について、もう少し啓蒙すべきだと思う。

「亜」の部首は「二」です。

これは知らなくてもいいでしょう…。



| | 考えたこと | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
アラン・ドロン
最近、フランス映画が少なくなった。
こないだTaxiというのがシリーズであったが、ロードショーで大きく取り上げられるような映画はハリウッドの映画がほとんどだ。

昭和40年代はまだフランス映画がたくさんあった。
日曜映画劇場で、ジャン・ギャバンやジャン・ポール・ベルモンド、アラン・ドロンなどが見られた。

レナウンの宣伝でアラン・ドロンが出ていたのもその頃だったと思う。
ダーバンの宣伝だったか…。

本国では、ジャン・ポール・ベルモンドの方が圧倒的に女性に人気があるという話は聞いたことがある。
ハンサムなアラン・ドロンよりも、野性的なジャン・ポール・ベルモンドの方が、マドモアゼルたちの気を引く、という事だった。

昨日、久しぶりに刑事物語というドラマ(2時間の3回シリーズ)でアラン・ドロンを見たが、年をとったなあ…。
吹き替えの野沢那智の声も、それなりに年輪を重ねていて、声優と俳優が同じように年をとったのか、と感心した。

マルセイユを舞台に、引退する刑事が、マフィアの大きな組織と孤独に戦うというドラマ。渋い役だった。
いつもノーネクタイで、ボタンダウンの上のボタンをあけて、ジャケットをひっかけている、というスタイル。
黒いサングラスがよく似合う。

朝食の時に、エスプレッソのコーヒーをカップではなくお椀に入れて、パンを浸して食べる…いかにもフランスという感じ。
フリーウェイなどなく、細い道に小さな家ばかりで、プジョーやルノーが走り回っている。
昔はヘッドライトが黄色だったが、今はその規制もなくなったようだ。

ボンジュール、ボンソワ、メルシー、オルボァ…言葉の響きが英語と違って、柔らかいような気がする。

2001年にこのドラマを撮ったときは65歳。

やっぱりスターである。あんな65歳にはなれないだろう。

エンディングに少し曖昧な余韻を残して、FINという文字が出るフランス映画。
何ともいえない味がある。

また、アラン・ドロンを見たいと思う。



| | 考えたこと | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
体育祭
昨日は子供二人の体育祭に行ってきた。
天気を心配していたが、一時中断があっただけで、何とか持ちこたえてよかった。

長男は高校3年なので、最後の体育祭になる。

ぼくにも高校3年の体育祭があった。

ぼくらの高校は、体育祭の終了後ファイアラリーという行事があって、日が暮れた後みんなで火を囲んで歌をうたうというイベントがある。(今でもやっているのかな…)

ファイアラリーで、全校生徒の前で歌をうたうのは、在校生の中から事前のオーディションで選ばれたバンド。もちろん、当時のことでフォークギターでフォークソングをうたう…という事になる。
そのオーディションに2回出た。
2年の時は、N君と2人で出て、オフコースの「でももう花はいらない」という曲をやった。
そのときは、3年生の3人組のバンドに負け(たいがい、3年生が選ばれるのだ)、出ることができなかった。

3年生の時は、クラスのまとまりが良くて、クラス全員でエントリーし、見事当選した。「岬めぐり」をやった。
ぼくはギターを弾いた。ぼくらの高校にはフォークソングをやるクラブもなく(ぼくは落語がやりたかったのだが…ここに2回ほど書いた)、当時ギターを学校に持っていくというだけで、何となく誇らしげな気分になったものだ。

今は高校生が持っているのはエレキギターがほとんどだが、当時はエレキギターは不良のやるもの…というのが世間の目だったと思う。
ちょうど、「フォーク」というのが少しは「よい子」の方に寄ってきたのが、1970年代の後半だった。

話はそれたが、高校3年の体育祭は、ぼくらのクラス、とりわけぼくにとっては、ファイアラリーに出演するというのは楽しみなイベントだった。

しかし、その日は朝から雨で体育祭は順延になって、ファイアラリーは中止になってしまった。

天気には勝てない。

もともと、運動が得意ではないぼくにとって、最後の体育祭はそれまでで一番楽しみなものだったが、朝からすごい雨で到底できるような天気ではなかったのだ。
当時から、あまり執着心が強くないぼくは、すぐにあきらめた。
それでも、一応ギターを持って登校したのだが…。

後から、何度かそのことを思う。
どうして晴れなかったのだろう…。
でも、それはそれでよかったのだ。

昨日は、子どもたちの日頃の行いが良かったのだろう。彼らの体育祭は少しの中断をはさんで、無事行うことができた。
途中の雨で生徒たちはたくさんの仕事が増えたが、それもよい思い出になるに違いない。

人生のページを繰っていくと、最後の…がいくつもある。
学生時代には最後の入学式、最後の卒業式、最後の給食、最後の春休み、最後の文化祭、最後の体育祭、最後の寄席…そして最後の出勤日、最後の花見、最後の食事、最後の言葉…。

でも、「最後の…」がわかるのは、終わってしまってからだ。
その時には、わからない。
「最後の…」などと考えずに、その時を過ごしているからこそ、わからないのだろうし、それは良いことだ。

いずれ、時間がそれを教えてくれる。



| | 考えたこと | 16:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
フィリップ・マーロウの事件
フィリップ・マーロウの事件 レイモンド・チャンドラー他 ハヤカワ文庫

この本は、レイモンド・チャンドラーが1939年に生んだハードボイルド探偵、フィリップ・マーロウを主人公にした短編集。
チャンドラーの生誕100年記念に作られたもの。
書いているのは、チャンドラーの他に15人のミステリ作家たちだ。

チャンドラー以外に知っていたのは、サラ・パレツキーだけだった。

いずれの作家も、チャンドラーを何らかの意味で崇拝しており、フィリップ・マーロウのファンであり、短編の最後に各々のマーロウ観、チャンドラー観が語られている。

実際には、チャンドラーはマーロウの短編を1作しか書かなかったらしく、それが最後に収められている。

私立探偵、フィリップ・マーロウといえば、「タフでなければ生きてゆけない。やさしくなければ生きていく資格がない。」という名文句が思い浮かぶ。
ハードボイルドの美学、という言葉を体現しているような探偵。マーロウこそ、「美学」という言葉がぴったりくる。
「美学」を言い換えると、「やせがまん」になるのかな。
この本を読むと、そう思う。

さすがに有名な作家たちだけあって、どの短編も当時のアメリカの世界に引き込まれ、マーロウの、時にシニカルで、時にロマンチックで、時に辛辣な言葉と行動に魅了される。

この中で、多くの作家たちが語っているように、チャンドラーがいなければ、このような世界は語られなかっただろうし、その後多くの魅力的な私立探偵たちは生まれなかったかもしれない。

もう一度、チャンドラーの長編を読んでみたくなった。



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金の値打ち
金といっても、カネの事ではない。
元素記号でAu、ゴールドの金のことだ。

以前、NHKスペシャルで宇宙の番組をやっていたが、その番組中で重い元素はすごく大きな爆発(温度と圧力が大きい)によってしか、作ることはできない…というような事を言っていた。

インターネットで調べると、核融合(太陽で起こっているような反応)では、鉄までの元素しかできない、と書いてあった。
だから鉄はたくさんあるのだそうだ。

鉄よりも重たい元素は、そう簡単にはできない…ということになる。

金がなぜ少ししかないのか…というのは、そう簡単に作られないから、という単純な答えになるらしい。

詳しくはこちらに…
http://www.astroarts.co.jp/news/2001/04/09gold_formation/index-j.shtml

それにしても、すごい話だ。
地球上にある金は、宇宙のどこかで破壊的な爆発によってできたものが、隕石の形で地球を形成するときに混じった、ということなのだから。

こんな事を考えていると、本当に不思議な気持ちになる。
金や銀などの金属は、この地球ができるはるか昔に、宇宙のどこかで起こった、めったにない大爆発のなごりであり、いつのことかも、どこのことかも全くわからない。

そう思うと、金は貴重だという事がよくわかる。

金が少ない理由がわかったからといって、どうなるのか…という議論はさておき、人間は、そんなことを考えつく事ができる。

その想像力には本当に感心する。

感心するのだが、もう一つの不思議が頭をもたげる。

もしも、人間が一人もいなくなっても、人間の残した考えは残るのだろうか…。
これは、まだ答えの想像もつかない問題だ。



| | 考えたこと | 00:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
Starting over
Starting overといえば、ジョン・レノンが歌っていた、すごくレノンらしい曲。

歌詞にはあまりなじみがないのだが、CMで使われたりして、サビの部分はよく知っている。

"Starting over"というと、もう一度始めようとか、最初にもどって…という感じがする。

今月から部署が変わり、初心に戻って…と思っていたら、この曲が頭の中に出てきた。

歌詞を見てみたら、実際にはラブソングで、初心に戻って…というような感じではなく、初めて会ったときみたいに…という歌だった。

始まる、というと、カーペンターズの愛のプレリュード(We've Only Just Begun)もある。
これはまさにラブソングだ。

探してみると、初心に戻って頑張ろう…というような歌はなかなか思いつかない。

ビートルズの曲をずらっと見てみたが、それらしいものはなかった。
そういうのは、なかなか歌にならないのかもしれない。

一昨日からずっと考えていたが、思いつかないところをみると、やっぱりそうなのか。

Depapepeというアコースティックの二人組の曲に、Startというのがあったが、これは歌詞がない。
曲の感じは、いかにも、もう一度始めよう!というものだ。

そういう曲を思い出したら、また書きます。




| | 音楽 | 00:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
ガンジーの言葉
去年から、飯田経夫という経済学者の本を何冊か読んだ。
前に、「経済の意味」というタイトルでここにも書いたが、この人はこれ以上豊かになることがいいことなのか?という問いを立てている。

携帯電話のサービスで、携帯サイトの中の広告をクリックすると、サイトの中で通用するオカネがもらえて、それを使ってゲームをダウンロードしたり、サイトの中のサービスを使うことができる…というものが中高生の間で流行っているらしい。

「モバイル」の頭をとって、「モバ…」という関係?がサイトの中で作られる。
「モバ日記」「モバ彼」「モバ彼女」「モバ家族」…。

携帯の画面に表示される広告をクリックして、バーチャルなオカネを手に入れて、その中でモバイルな関係を作る…。

こんなサービスが出てくるのは、豊かになった象徴だろう。
でも、これは本当に豊かになったという事なのだろうか…。

今日、子供の学校の先生が、ガンジーの言葉を引いているのを読んだ。

「文明の本義は、需要をふやすことではなく、慎重かつ果敢に、欲望を削減することにあります。ただこれのみが、真の幸福と満足を招来し、奉仕の能力を倍加するのです。(イェラバダー・マンデルから)」

日本は高度成長期に豊かになった。

ぼくらは、小学校の頃の写真は白黒だったし、セーターは母に編んでもらったものだ。
身体が大きくなると、編んだセーターをほどき、毛糸玉にして、もう一度大きなセーターを編んでもらっていた。

舗装されていない道もたくさんあったし、父親が学校行事に来ることなどなかった。

家にテレビは1台で、居間に鎮座していた。
スイッチを入れても、数十秒は待たないと見られなかったし、ガチャガチャと回すチャンネルはよく接触不良になった。
どうしても見たいマンガを見るために、チャンネルを押さえながら見ることもあった。

テレビに出てくる人はみんなエライ人ばかりだった。
クイズ番組には、ちゃんと答えられる人しか出てこなかった。
回答者が間違えた答えを笑うような番組などなかった。
豊かになったから、今のテレビ番組を見ていると、電波も無駄遣いしているように思える。

「文明の本義は、需要をふやすことではなく、慎重かつ果敢に、欲望を削減すること」
すごい言葉だと思う。

世界をあげて、どの国もみんな国民総生産を増やそうとしている。
GNPが増えることはいいことだ。

ぼくらは、豊かになって、良かったと思う。
飢える人がなくなり、みんなが食べられる時代が来たのだ。
労働時間も減り、休みも増えた。

でも、ガンジーの残した言葉は今の日本に必要とされているのかもしれない。
飯田先生も同じことを思ったのではないか。



| | 考えたこと | 23:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
年月日
フランスの刑事物のドラマを見ていたら、手がかりになる携帯電話が残されていて、そのロックを外そうとしている場面があった。

まず、生まれ年を入れてみる。1984…ダメだ。
2回失敗したら、ロックされるので、見るために電話を局に持っていかなければならない。焦る…。

生年月日は?5月22日だ。

0522と入れると思って見ていたら、2205と入力する…ビンゴ!解除された。

こんなところに違いがあるんやなあ…と感心した。

そういえば、西洋では日付を記入するときには、22nd, May, 1984というように書く。
日、月、年の順番だ。

日本では年、月、日の順番が当たり前だから、どうもピンと来ない。

5月22日なら、2205と言われても、22月がないから日が先に来たことがわかるのだが、5月10日だったら1005になって、10月5日と間違ってしまうだろう。

前に、マルとバツが通じないという事を書いたが、この日付の書式も文化の違いだろう。

月をJan、Feb、Marというように、数字でなく言葉で書くことも、日本とは違う。
日本は明治維新で太陽暦を取り入れたときに、合理化しすぎたのか、月の名前も全部数字にしてしまい、それが当たり前になってしまった。
一月、二月、三月…だ。

もともとは、睦月、如月、弥生、卯月、皐月、水無月、文月、葉月、長月、神無月、霜月、師走という名前があった。
むつき、きさらぎ、やよい、うづき、さつき、みなづき、ふづき、はづき、ながつき、かんなづき、しもつき、しわす、ということになる。
師走以外は、あまり使われることはない。

西洋では、これをまだ使っている、ということだ。
5月22日は、皐月二十二日となる。
今日は水無月二日。

西洋の人たちには、First month, Second month…というように、数字を月にしてしまう事など、考えも及ばないようだ。

ちなみに、6月「June」の由来はローマ神話の女神、ジュノーで、結婚を司る女神だから、6月に結婚する花嫁が幸せになれると言われる…という説もあるようで、もちろん、各々の月に由来がある。

日本の6月は水無月で、諸説あるようだ。田に水を引く月だから、水の月が水無月となったとか…いろいろと書いてある。

いずれにしても、月の名前が数字…というのはちょっと味気ないような気もする。

今さらもとには戻れないだろうが…。


| | 考えたこと | 18:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
世界反米ジョーク集
世界反米ジョーク集 早坂 隆 中公新書ラクレ

世界で楽しまれている、アメリカをネタにしたジョーク集。
とにかく、ブッシュの評判が悪いのには驚かされる。
イラクの失敗、単独行動主義、国連軽視など、いろいろネタがある。
良きにつけ、悪しきにつけ、超大国はネタにされるのだろうが、ブッシュジュニアになってからはひどくなったのだろう。

9.11の同時多発テロは世界を変えてしまった。
21世紀の初頭に、21世紀最大の事件が起こった…ということになってほしい。
これ以上の事件はもう起こってほしくない。

今のブッシュ政権の中核にいるネオコン(ネオ・コンサバティブ=新保守主義者)などについても解説されている。
アメリカの政治、外交、国内事情について、簡潔にまとめた解説があり、笑えるジョークがあり、楽しい本。

地球人口の5%を占めるアメリカが、世界の二酸化炭素の排出量の25%を占めているのに、京都議定書を認めなかった…というようなことも書かれている。

アメリカの軍事予算は3991億ドル(2004年度)であり、世界の軍事予算の4割以上を占め、2位のロシアの6倍以上だそうだ。
もう東西冷戦などない。

アメリカが中東やバルカン半島で使用した、劣化ウラン兵器の影響は今も深刻とのこと。
半減期は45億年らしい。

第2次大戦以降、1950年朝鮮半島、54年グアテマラ、63年ベトナム、83年レバノン、グレナダ、89年パナマ、91年湾岸、93年ソマリア、98年スーダン、99年コソボ、01年アフガニスタン、03年イラク…がアメリカが関与した戦争。
武器の輸出超大国でもある。

「ある青年が本屋に行って店員に聞いた。
「平和国家・アメリカ」という本は置いてありますか?
「ええ、あるわよ。そこのファンタジーノベルの棚に」

「ジョークの世界では、20世紀後半の主役はソ連だった。スターリンやフルシチョフは絶好の笑いの標的となり、ヨーロッパを中心として世界各国で楽しまれた。それが21世紀を迎えた今、主役はアメリカへと移行した。反米ジョークによってアメリカは世界中の人々に笑われている。」

その他にも、銃社会、訴訟の問題など、アメリカの国内問題についてもいろいろと書かれている。

このシリーズはなかなかおもしろいです。


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