考えたこと2

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IMV
一昨日は大阪の計測器の商社に行った。

30年近く前に、IMVという日本のメーカーの周波数分析機という計測器を使っていた。
振動を測る機械である。
入社して最初の仕事だった。

モノにはそれぞれ振動しやすい周波数があって、叩いたりすると、その周波数の振動が大きく出てくる。
その周波数を解析する機械だった。

何でそんなことを思い出したかというと、その商社の取扱品目の中にIMVという名前があったのだ。

商社の人に、IMVの周波数分析機、なつかしいですねえ…と言うと、古いですなあ…という返事。

70センチx40センチくらいの盤面に、ボタンとスイッチが50個以上ついていた。
目盛りのついたダイヤルもあった。

使いはじめる30分以上前に電源を入れ、ウォームアップしておかないと、測定値がズレる…と先輩に言われて、出社すると同時に実験室を開けて、スイッチを入れていた。

CRTや液晶の画面があって、結果がそこに出てくるというようなハイテク機器ではない。
アナログのかたまりで、出力は背面にある端子の電圧で表される…と言ってもワケがわからないだろうなあ。
そこにX-Yプロッタという機械をつないで、ペンを動かしてグラフを描くのだ。
あとでそのグラフを鉛筆と定規でトレースして、報告書にする。

当時、日本に数台しかない機械…ということだった。
昭和50年当時にしたら結構な投資だったんだと思う。

まる2年ちょっと、その機械のお世話になった。

週のうち半分はIMVを動かして、振動を解析していた…といってもワンパターンの使い方だったし、測定の意味もわかっていなかった。意味がわかったのは、そこからさらに数年後くらいだったか。
でも、かなりその機械とは仲良くなった。何せ最初は測定を始めるための調整(キャリブレーションという)だけで半日以上かかっていたのが、30分くらいでできるようになったのだから…。
当時、IMVは重々しく測定室のど真ん中に鎮座していた。
そうこうするうちに、別の部署がアメリカで設計されたデジタルの測定器を買って、その便利さに驚いた。
1980年代に入って、時代はどんどん進み出した。

結局ぼくがその仕事を離れてから1年ほどして、IMVはデジタルの最新機器に置き換えられた。
それからは、誰でもが使える機械になって、測定する日の朝にわざわざ電源を入れることもなくなったし、すぐにテストできるし、夕方X-Yプロッタのグラフを実験室から事務所に持って上がって残業でトレースする手間もなくなった。

あの機械はなつかしい。
気むずかしい友達みたいなものだ。
会社に入って、最初に苦労させられた仕事だったが、ワケもわからずつき合っていた。

奥行きが80センチくらいはあったと思う。結構な場所を取っていたのだ。
IMVが撤去された測定室はすごく広くなって、便利でキレイになった。

デジタル化され、便利で使いやすくなるのはいいことだと思う。

でも、アナログも捨てがたい。
世の中の現象は全てアナログなのだから、0と1で割り切れるものではないのだ。

IMV、なつかしい名前だ。

知る人ぞ知る…のだが、ほとんどの人は知らないだろうなあ。




| | 考えたこと | 02:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
夏は来ぬ
今日は大阪に出張で、外を歩き回ったが、すごく暑かった。
アスファルトの路面付近は40度を超えているだろう。

方向オンチなので、インターネットで出した地図を見ながら、ガソリンスタンドや地元の店のおばちゃん、通行している人などに聞きながらウロウロした。
ネクタイして、上着を持って歩いていると、脱水症状になりそうだ。
早めに着いて、あまりの暑さに喫茶店に入ったら、アイスコーヒーが250円だった。さすが大阪。

ということで、もう夏だ。
夏は来ぬ…。夏が来てしまった。

「夏は来ぬ」という歌、もう若い人は知らないし、「夏は来ぬ」と言っても「夏は絹」と思うんだろうか…。
たしかに、シルクのパジャマは涼しいし、シルクのシーツもひんやりして気持ちがいい。
しかし、「絹」は「来ぬ」なのだ。

うちの子らを見ていると、履修漏れなどもあるのかもしれないが、文語体があまり通じない。
古文は習っているのだが…。

まだ、ぼくらの小さい頃は文語体が聞けた。
「天気晴朗なれども波高し」とか、「学んで時にこれを習う。また楽しからずや」とか、「ウサギ追いし彼の山」とか、「故郷は遠きにありて思うもの」とか…。
俳句や漢文もあったし、昔の小学唱歌もあった。祖母が口ずさんでいた歌(軍歌もあった)にも文語が出てきた。
今の子どもたちは、ウサギが美味しいと思うんだろう。(ぼくらも、そう思ったが)

戦前までは使っていたのだから、100年も経っていない。
それでも、もう通じなくなってきている。

そして、「ヤバイ」とか「微妙」とかいう言葉は、逆に若い人の使っている意味が通じなくなってきている。

日本語は柔軟な言葉だと思うが、変化が激しくなってきたのではないか。

「我思う。ゆえに我あり。」
「遠き山に日は落ちて 星は空をちりばめぬ」
「友あり。遠方より来たる」
「今こそわかれめ いざさらば」

そんなに難しい文語体ではないが、何となくきっぱりしていて気持ちがいい。

それにしても、「夏は来ぬ」だ。暑いというより熱いという感じ。

みなさん、夏バテには気をつけて下さい。





| | 考えたこと | 23:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
さんま
さんまの開きは好物だ。
丸サンマよりも開きの方がおいしいと思う。

さんまには思い出がある。
むかし、和歌山の新宮出身の下宿友達と食堂でさんま定食を食べた時のこと。

当時300円くらいでさんま定食が食べられた。
そんなに大きなさんまではないが、開いたさんまとみそ汁とご飯にキャベツが少し付いていたかもしれない。
さんまはうまいなあ…と言いながら食べていて、ふと見ると、彼の皿には何もないのだ。

ぼくはどちらかというと、魚はきれいに食べる方だと思っている。
骨に付いている皮みたいな身も外して食べる。
だいたい、背骨(というのかな)と、両側の身の間のところが少し残るだけだ。
ところが、彼は骨も一緒に一気に食べてしまう。
背骨も全部食べるのだ。

ビックリした。

「え、骨は?」と聞くと、「さんまは全部食べるものや」という。
そんなことあらへんやろ…と言ったが、昔からさんまは骨ごと食べているらしい。

ぼくの皿にはさんまの背骨が残り、彼の皿は何もない。

本当に新宮の人はみんな何も残さずさんまを食べるのだろうか?

海の近くの町だが、新宮では海の幸は大事に食べるのだということだろうか。

でも、それ以降、何も残さない人は見たことがない。

だれか、そんな人を見たことありますか?

確かに、300円のさんま定食で出てくるさんまなら、骨も食べられないことはないような気もするが…。

そういえば、がっしりした骨太なヤツだった。
カルシウムを充分に摂っていたのだろうか…。

もう30年ほど会っていないが、今でもまるごとさんまを食べるのだろうか?



| | 考えたこと | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
メモカード
今日は文具店に行って、新しいメモ帳を見つけた。
カード式のもの。
前から何となく気になっていて、見つけたらどうしようかな…と思っていたら、今日見つけてしまった。

メモの大きさは125x75mm(インチ表示で、5x3サイズという)。
もう一つ小さいサイズになると名刺サイズになってしまって、ちょっと小さすぎる。
そのメモカードを入れておくケースとセットで買った。

メモはリングタイプのものが好きなのだが(アメリカの刑事ドラマでは、聞き込みの時に必ずリングタイプの上綴じのものを持っている。日本の刑事ドラマではたいがい横綴じの手帳だ。あれは使いにくいだろう…。)、欠点はいい思いつきを書いても、それだけ置いておくのが難しいこと。
ちぎっても、リングタイプだから、他の用紙に影響はないのだが、ちぎったメモは保存しにくい。
それに対して、もともとカード式になっていると、要らないものは捨てられるし、必要なものは保存しやすい。

ケチって、安い方のカードを買ったら、ちょっと薄すぎて、カードという感じではなかった。
これは失敗。

昔は単語カードを作ったものだ。
大きなリングに通して、表に単語を書いて、裏に意味を書く。

今でも文房具屋で売っているが、あまり売れている様子はないなあ。
ああいうのは、作った時点で満足してしまって、覚えるところまでいかないのは事実。
でも、作った時に、少しは覚えているから、その分役に立つ。
試験が終わると用済みになる。
でも、結構たくさん作ったおぼえがある。ビニール袋に入れて置いてあったが、捨ててしまったんだろう。

ポストイットのメモ帳もこれはいいと思ったが、ポケットに入れている間にグシャグシャになってあまりヨクナイ。
置いておくべきメモは、そのままノートに貼るという作戦だったのだが、そこまでいかなかった。

今回は、どれだけ続くかわからないが、5x3サイズのカードでしばらく頑張ってみよう。
そのうち、やっぱりリングタイプのメモ帳に戻っているかもしれないが…。


| | 考えたこと | 22:52 | comments(2) | trackbacks(0) |
NHK
ぼくの通っていた小学校は、当時としては放送設備が揃っており、放送教育全国大会というイベントの時に、他の学校から授業見学に来たという学校だった。

そのためだったのか、小学校6年の時にNHKが取材に来て、1組〜4組の代表2名ずつにインタビューする、ということになったらしい。
その時に、どういうワケかぼくが1組の代表の一人になった。

すごい放送車が来て、そこから太い線を引き、朝礼台を動かしてその上にバカでかいカメラを置いて、その前に立ってインタビューを受けた。
長い時間やっていた…という記憶があるが、実際には1時間もなかったんだろう。
何故そう思うかというと、放送はほんの2〜3分だったからだ。

放送日を聞いて帰り、家で今日はテレビに出たと言って、よろこんだ。
放送日にはいさんで帰って見た。すると、映ってはいるが、ひとこと話しただけで、お世辞にもテレビに出たとは言えない状況だった。
子供心にテレビの前で恥ずかしい思いをしたことを覚えている。
よく考えたら、ろくに話してもいないのに、映るわけがないのだ。

もう一度出たのは落研の時。
こちらは教育テレビだった。
若い広場という番組で、長屋について話しあうので、長屋に関するこばなしをしてほしいという依頼があった。
その時は、休み中だったので、実家が神戸のぼくに出演のお鉢が回ってきたのだ。

大阪の馬場町にあるNHKの大阪放送局のスタジオに行った。

楽屋で着物に着替え、リハーサルをして、本番まで待っていると、ぼくだけメイクさんに呼ばれ、髪の毛をなおされた。
番組自体はマジメな内容で、昔の長屋はどんなものだったのか…というような事を、エライ先生と若い人たちが話しあうという趣向。
その導入部分に3分ほどこばなしをやる…という役回りだった。

長屋をネタにしたこばなしなど、そう面白いわけではなく、淡々と本番を演じ、終わった。

その時は家族には言わず、自分一人でこっそりオンエアを見た。

さすがに落語だから、一人で映っていた。

小学校の時の仇をとった…などとは思わず、見た時にはあの時の恥ずかしさを思い出した。
そんなこともあって、家族には言わず、一人で見たのだったか…。

帰りの車の中でふと思い出したので、書きました。

実は、あと一回、なんば花月の舞台でテレビに出たことがある。
これはまた今度書こう。


| | 考えたこと | 00:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
英和翻訳表現辞典
3年前に亡くなられたSさんの遺品としていただいた本。

Sさんは英語の達人だった。

会社に見学に来たカナダ人が、あまりにも発音がネィティブなのに感激して、お土産をもらったこともあった。
外人に、駅で三宮はどちらの方向か?と聞かれ「こっち(This way)」とひとこと言っただけで、「あなたは日本人か?」と聞かれたこともあった。
BillというニックネームがWilliamの愛称だということも教えてもらった。
めずらしい魚の名前や野菜の名前がスラスラと出てくる人だった。

以前、翻訳をされたらどうですか?と聞いたら、自分は英語は英語のまま理解するので、それを日本語に変えるのは難しいし、翻訳というのは英語ができる事も必要だが、ちゃんとした日本語を書く能力の方が大事で、それだからダメなんだと言われていた。

英文のレターを書いて、写しで送ったら、何度かに一度は「君もちゃんと書くようになったなあ」と言われたりした。
細かいところでは、たくさんマチガイがあるが、意味はちゃんとわかる…ということだった。

一番難しいのは、冠詞の"a"と"the"。日本語にはない概念なので、本当に使い方が難しい。
これはさすがにSさんでも難しかったとのこと。
どうしようもない時は、複数形で逃げたり、hisなどの代名詞で逃げたりする…ということだった。

この英和翻訳表現辞典は辞書ではなく辞典である。
数々の英語の単語を、通常の日本語で示している。
英語を、やまとことばになおす、というコンセプトだ。

高い本だが、英語のレベルが高かったSさんだからこそ、こういう本を持っておられたのだろう。

"alarm"という見出しに鉛筆でチェックが入っていた。
きっと、この訳は覚えておこうと思われたのだろう。
1ページにわたって説明が書かれており、そこにこの単語の難しさがあらわれている。
例文と訳例が載っているが、これを「警戒心を起こさせる」と訳すとよい、という記載がある。
なるほど…という言葉だ。

序文に、この本では単語の定義訳ではなく、表現訳を与え、親身な日本語に訳しやすいように…ということで作られたと書いてあった。
引く辞書ではなく、読む辞典である。

本屋で手にとっても、買っていなかっただろう。

でも、この本を読めば、英語が上手になると思う。
スゴイ本だ。

手に届くところに置いておこうと思う。

今になって、さらにSさんのすごさを思う。

| | | 00:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分の声
生まれて初めて自分の声を聞いたのは、小学校の高学年だったと思う。
5インチのオープンリールテープレコーダーというヤツが家にやってきた。
ソニーのソニオマチックというものだった。
父は全くの機械オンチだったが、同僚にそそのかされて買ってしまったんだと思う。

30センチx30センチで奥行きが15センチくらいあったかな…。
レバー式のスイッチで、Playのところにレバーをがちゃんと回すと、おもむろに動き始める。
サンプルで付いてきた5インチのテープリールを片側にセットし、テープの先をヘッドのところに手で通して、反対側の空リールに巻きつけると準備完了だ。

赤い録音ボタンを押しながら、レバーを回すと、テープが回りはじめ、赤いランプがついて録音状態になる。
メーターが付いていて、接続したマイクに向かって声を出すと針が振れた。

家族みんながそのテープレコーダーを囲み、何か言う…という、当時初めてテープレコーダーというものを見た家庭ではいずこにも見られたと思われる光景が出現する。

その時に初めて自分の声を聞いた。
話した内容から、これが自分の話している分ということはわかるが、声が違う。
たぶん、誰しもテープレコーダーの性能が悪いんだと最初は思うだろう。
ところが、聞いていた家族はオマエの声だという。
たしかに、他の人の声は、いつも聞いている声だ。
そして、みんな自分の声はオカシイという。

そうなって、ようやく、自分で聞いている声と、他人が聞いている声は違う…ということがわかるのだ。

なるほど、自分の声はのどから耳に直接入っているから、人が聞いている声とは違うのか!と感心し、みんな録音された自分の声は、ヘンな声だ…と思う。
やっぱり、生まれてからずっと聞いている自分の声と違う、ということは大変な事なのだ。

三百万年か四百万年かしらないが、その間人類は自分の声をわからないまま生きていたということだ。

そう思うと、テープレコーダーというものはすごい発明だ。

そのわりに、そこのところは評価されていないようだが…。

オープンリールテープレコーダー…なつかしい。

昭和時代でした。



| | 考えたこと | 23:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
50回目のファーストキス 50 FIRST DATES
久しぶりのロマンス映画。
コメディとしてもよくできている。

主人公が水族館で働いていて、出てくるセイウチやペンギン、イルカを見ていると楽しい。

舞台がハワイで、そののんびりした雰囲気が、少しシリアスな設定に合っているんだろう。

彼女は交通事故の後遺症で、事故のあとから、記憶が1日分しかないのだ。
何度会っても、その日初めて会った…という事になってしまう。
ドリュー・バルモアが好演。

アダム・サンドラーという主人公の男性も、いい感じ。
コメディにしては二枚目だが、いい俳優だと思う。

1日分の記憶しかないことがわかった彼女が、彼の将来のために、自分の過去の記憶を書きとめたノートから、彼の部分を捨てていく場面は名場面。

悲惨な状況ほど、コメディになるという脚本の見本のような映画。

見ていると、ハワイに行きたくなる。

人には歴史があり、それによって生きている。
そんなことも思い出させてくれる。

最後にちらっとハワイアン風のOver the Rainbawが流れる。

なかなかいい映画です。



| | 映画・舞台 | 09:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
来なくなったちり紙交換
ちり紙交換というのは、どうなったのだろう。

ポーリュシカ・ポーレの音楽をかけて来ていた、古新聞・古雑誌の回収、ちり紙交換…というやつが最近来ない。
「古新聞、古雑誌、ぼろ切れ、ダンボールなどがございましたら…」というおなじみのアナウンスだ。
あれは、どういうわけか、ロシア民謡のポーリュシカ・ポーレをかけていたなあ。あの曲が耳に残っているのは、ちり紙交換のおかげ…。

こないだ、バイクの中古ありませんか?というのが回ってきていたのを聞いて、ふと気になった。

wikipediaで調べてみると、古紙の回収価格が下落したので、あまり見られなくなったとのこと。
90年代に下落したそうだ。

当時よりもリサイクルという言葉は一般的になったので、古紙の量が増えたということか。
供給が増えると、価格が下落するという経済の基本法則が働いたのだろうか。

しかし、あの頃に比べると、企業などでの再生紙の利用は進んでいるし、名刺にも「この名刺は再生紙で作っています」などと書いているところが増えているし、需要も増えているはずだから、そんなに下落するのも腑に落ちない。

調べてみると、古紙の相場は上がっている。

http://www.koduka.co.jp/souba.html

中国やアジアでは紙の需要が高まっており、ゴミ処理場から古紙が盗まれるというような事件もある由。

それなら、なぜちり紙交換が来なくなったのだろう?

平成1年の衆議院会議の決算委員会の記録によると、草川委員という人が通産省への質問の中でこんな事を言っている。
・消費者が白い紙を好むので、トイレットペーパーには古紙を使わなくなった。
・新聞の軽量化(配達が大変なので)で古紙の利用率が下がった。

結局声高にリサイクルを唱えても、自分が買う時には白いのがいい…という事なのか。

どうも、古紙を集める経費が上がったことや、古紙の相場の変動の激しさなどが、「ちり紙交換」の商売を成り立たなくさせてしまったようだ。あんまり大手のちり紙交換業者というのはいなかったのかな…。確かに古くからある商売でもないし…。

でも、一方で古紙は需要が高まり、日本の古紙は品質がよいので、一大輸出産業になっている…という記事もあった。

結局どうなんや?というのが今日の答え。

ちり紙交換は、古紙の分別の面からも、回収率を上げるという面からも、良いことだったのに、なくなった。

どうも、不思議なことが起こっている。



| | 考えたこと | 19:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
夏休みの計画
ぼちぼち、子供らは夏休みモードになってきた。

たくさん宿題があるという。
それなら、いつまでに、どれだけの量があって、一日どれくらいやったらいい?と聞くと、とにかくやるとのこと。

計画を立てて、終える日を決めてそこから逆算し、一日の量と時間を決めたらどうか…というと、やってみないとどれだけ時間がかかるかわからないという。
だいたい、どれくらいかかるか適当に決めて、それで見積もって計画を立てて、やってみてズレがあったら、立て直せばいいというと、それに時間をかけるくらいなら、やった方がマシらしい。

スペースシャトルがどうして飛ぶのか?
それは、飛ばすためにはどうしたらいいか計画を立てて、それを実行するからで、計画がなければ絶対に飛ばない…と言ったが理解されない。

やることが大変であればあるほど、計画を立てるための時間はたくさんいる。
100のうち、30くらいが計画であっても、それはそういうものなのだ。
それが仕事であり、勉強なのだ…。

そういうことは、社会人にならないとわからないのか。

ぼくらの頃の先生は、夏休みの計画を立てなさいと言っていたと思うのだが、最近は言わないのか。

勉強そのものよりも、先のことを考えて、見積もりと計画をする…そういう事が大事なのだと思う。

計画は、できなくても見直せばいい。
もともとそういうものだ。
計画せずにできることなど、大したことではない。

もっとも、一番大事なことは、何をやるかということを自分で決めることだが、それはもっと大人になってからでいい。

計画を立てるということができていれば、社会保険庁ももう少しマトモだったはずだ。

そういう事が大事だと思えないと…あとで困ると思う。

そうではないですかね。



| | 考えたこと | 03:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
シャンソン
こないだベコーのことを書いたが、シャンソンは文字通り「歌」である。
話すように歌う。イブ・モンタンやシャルル・アズナブールなどは本当にそんな感じだ。

アコーディオンやピアノの響きがよく似合う。
リズムよりも旋律。

歌の主題は「人生」であったり、「恋」であったり、「時間」であったり、「旅」であったり…。

日本人なら、金子由香利が好きだ。
本当に話すように歌う。

「巴里の屋根の下」は代表曲だろう。

 懐かしの思い出にさしぐむ涙
 懐かしの思い出にあふれる涙
 マロニエの花咲けど
 恋しい君いずこ

 パリの屋根の下に住みて
 楽しかりし 昔
 燃える想い 愛の言葉
 やさしかりし君よ

 鐘は鳴る 鐘は鳴る
 マロニエの並木道
 パリの空 青く晴れて
 遠き夢をゆする

 マロニエの花咲けど
 恋しい君いずこ

ミシェル・ポルナレフのようなフレンチポップスというジャンルもあるが、切々と歌うシャンソンは何ともいえず心にしみる。

時々シャンソンが聴きたくなる。

CDはどこに置いたかな…。


| | 音楽 | 00:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
銀行
昨日の話の続きで思い出した。

父は銀行嫌いだった。
潰れかけた会社に来た、銀行出身の役員と馬が合わなかったのかもしれない。

バブルが崩壊し、不良債権が問題になっている時も、銀行の自己責任を批判していた。
もちろん、国民全体がバカだったのだが、銀行という産業の意味を銀行自身がわかっていなかったと思うし、ぼくも責められて当然という気はする。(今も変わっているとは思えない。)

高校時代、政経という授業があった(今もあるのかな…社会科は複雑になってしまってよくわからない)。
Y先生という、今から思うとかなり左よりの先生が担当だったが、先生は毎回誰かを担当にして、事前に与えたテーマを発表させていた。
ぼくは「信用の創造」というのがあたり、確か銀行の役割について話をした。

「信用創造」をwikipediaから引用すると…
-----------
銀行は預金を受け入れ、その資金を誰かに貸し出す。その過程で信用創造は発生する。以下は、そのプロセスの例である。

A銀行は、X社から預金1000円を預かる。
A銀行は、1000円のうち900円をY社に貸し出す。
Y社は、Z社に対して、900円の支払いをする。
Z社は、900円をB銀行に預ける。
この結果、預金の総額は1900円となる。もともと1000円しかなかった貨幣が1900円になったのは、Y社が900円の債務を負い返済を約束することで900円分の信用貨幣が発生したことになるからである。この900円の信用貨幣(預金)は返済によって消滅するまでは通貨(支払手段)としても機能する。このことはマネーサプライ(現金+預金)の増加を意味する。

さらに、この後B銀行が貸出を行うことで、この仕組みが順次繰り返され、貨幣は増加していく。このように、貸出と預金を行う銀行業務により、経済に存在する貨幣は増加する。
-----------

この過程で銀行が貸し出す先(借り手)に信用がなければ、貸してはいけないのが銀行の役割だろう。
貨幣という公共物を扱う(そういう言い方が成り立つのかどうかわからないが…)産業だから、その見極めをするのが銀行の努めでもある。
それを忘れて、それ自体は何も生み出さない「土地」というものに、バカみたいにお金を注ぎこんだのが、バブルの一つの要因だと思う。
信用創造できない先にお金を注ぎこんだ結果が「不良債権」だ。

説明が長くなった。

ぼくも銀行がキライということが言いたかった。色々な理由をつけてはいるのだが、根底には父のうらみごとを聞いたことがあるのかもしれない。
今となってはわからない。
自分自身で色々なリクツをつけてしまっているからだ。

でも、やっぱりこれも刷り込みなんだろう。

銀行関係の人、ゴメンナサイ。





| | 考えたこと | 22:39 | comments(2) | trackbacks(0) |
商社
前に書いたが、父は繊維関係の商社に勤めていた。

今でもそうだが、日本の外務省はあまり情報収集が得意でなく、海外で何かあると商社などの企業からの情報の方が確かで早い。
父は海外勤務などしたことがなかったが、ぼくが小学校の頃から、いつもそれを自慢していた。
昭和40年代はまだ日本の繊維産業が盛んで、価格と品質で競争力もあり、世界に出て行っていた時代だった。

海外で何か事件があると、ニュースで現地の情報を伝えていたが、いつもそれを見ながら「あれは日本の商社からの情報だ。日本の商社員は世界中で活動している」というようなことを得意げに言っていた。

子供心に、日本の商社員はスゴイ…と思いこんでいて、意味もわからず「商社」という言葉はぼくの語彙になった。

その後、繊維商社はバタバタと落ち目になっていく。
価格競争力がなくなり、財閥系の総合商社以外は、経営が苦しくなっていったのだ。
父の会社も落ち目の一つで、住宅ブームに乗ろうとして失敗し、事実上の経営破綻になった。
繊維メーカーと銀行から経営陣が乗り込んできて、救済されたものの、父にとっては面白くなかったに違いない。

ぼくが高校の時に、出不精の父がめずらしく一人で知床に旅行に行ったが、あれは何かのふんぎりをつけるためのものだったのではないかと思っている。
その頃からはあまり商社の自慢話は聞かなくなった。

ずっと国内勤務で商社員とはいえ海外に出たことがなかった父だが、パキスタンに現地法人の建て直しか何かの仕事で数ヶ月行ったことがある。
ちょうどぼくは反抗期だった頃で、父がいなくてちょうどよかった…と思う。
いなかった頃のことはあまり覚えていない。

当時のパキスタンはまだまだ貧しく(今もそうだが…)、水道水は飲めず、セブンアップ(なぜか、この清涼飲料水が気に入ったらしい)ばかり飲んでいたという話や、近くの町に映画を見に行こうとすると、たくさんの乞食がお金をせがんできて困ったという話など、帰ってきてから聞いた覚えがあるが、あまりよい思い出ではなかったようだ。

亡くなる数年前に、パキスタンのことを聞いたら、「二度と行きたくないなあ」という返事だった。
海外のどこでも出ていって、活躍している商社員…を自慢していたのに、やっぱり出不精の父だった。

ラクダの皮で作ったというスタンドや、象牙を埋め込んだ木の箱など、その時の土産はまだ残っている。
象牙の幾何学模様の入った木の箱は、ギターのピックや小物を入れる箱として今も使っているが、あれがパキスタンのものだということなど、うちの子どもたちは知る由もないだろうなあ…。

だから、今でも「商社」というと特別の響きがある。

商社員は世界を飛び回り、日本のために尽くしている…という刷り込みがあるのだ。


| | 考えたこと | 21:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
いとし・こいし
関西では「いとこい」と略すが、正式には「夢路いとし・喜味こいし」という兄弟の漫才師だ。
長らく活躍し、2003年に兄のいとしさんが亡くなって、聞けなくなってしまった。
亡くなる少し前まで、上方漫才まつりなどに出ていたが、いとしは舞台の袖からマイクのところまで歩いてくるのがしんどそうだった。
それでも、漫才になると声が出て、しゃべくり漫才の味を出していた。

ちょうどぼくが生まれたころから活躍を始めたと思う。
小学校のころ、父のお古のソニーのトランジスタラジオ(この言葉も古くなった)を借りて、夜中にやっている寄席の番組を布団の中にもぐり込んで聞いたのがいとこいの漫才。
笑って声が出そうになるのをおさえるのに苦労した。

いとこいと並んですごかったのが、ダイマル・ラケット。こちらも兄弟の漫才だった。
彼らの漫才はどちらかというと、荒唐無稽なネタの面白さが特徴だったが、いとこいの漫才はありふれた日常の中からネタを作り、いつの間にか引き込まれて笑ってしまうというものだ。

演目名がそれを表している。
「花嫁の父」「娘の縁談」「交通巡査」「迷い犬探してます」「親子どんぶり」など。

今の若手の漫才のように、最初からテンションをあげて話すような事はない。
いきなりマイクの前で世間話をするように始まる。

だいぶ前にNHKのラジオで特集があり、それをカセットに録音したものを持っている。
何度聞いても面白い。
その番組の中で、兄のいとしが病弱だったこと、そのため兵役を免れたこと、弟のこいしは戦争に行って、帰ってきたことなどの話があった。
焼け残った大阪の家に、軍服のこいしが帰ってきてみると、いとしと父親がちょうど出てきて、「帰ったか」「ああ」という会話をした、という思い出話が語られていた。

こいしは神戸の実家のそばに住んでいた時期があって、同じ小学校に子供が通っていた。
小学校の運動会で一度いとこい2人が揃って見ていて、あわててメモの切れはしを持っていって、サインしてもらったことを覚えている。
当時、テレビのレギュラーも持っており、人気者だった。その2人にメモの切れはしは失礼だったろうが、子供と同じ小学校の生徒ということでサインしてくれたんだろう。
そのメモの切れはしは、すでにどこかに行ってしまったが…。悪いことをした。

うちの子供が小さいころ、いとこいの漫才が好きで、よく聞いていた。
小学生にも大人にもわかる漫才という、彼らの目指すところが表れている。

戦後の上方漫才の巨匠である。

今日、いとこいの漫才全集のDVDが届いた。
付いていたリーフレットを見て、本当になつかしくなった。

今の若手の漫才とは全く違う、「しゃべくり」の芸がある。

今日は七夕。

去年の七夕には、自分の落語のことが書いてあった。
今年は漫才…。

でも、夢路がいとしく、君が恋しいという芸名にはぴったりだろう。



| | 考えたこと | 17:56 | comments(2) | trackbacks(0) |
ジルベール・ベコー
好きな歌手だった。
フランス語はわからないが、シャンソンを聴くようになったのはベコーを知ったからだ。

30代のころ、夜テレビをつけたら、偶然コンサートをやっていた。
どこかの女子大のステージで歌っていた。

水玉模様のネクタイしかしないので有名な人だ。

「そして今は」とか「詩人が死んだ時」とかいう曲。
ライブのLPレコードとCDを2枚持っている。

渋い声で、ステージを動き回りながら、話すように歌う…いや、歌うように話すというべきか。
フランス語はわからないが、とにかくすごいパワーだった。
大きな声をはりあげて歌うわけではない。
派手なパフォーマンスをするわけでもない。
水玉のネクタイをして、ステージの上で歌っている、その姿に魅了される。
5人ほどのバンドをバックに歌っているだけだが、彼の歌には力がある。

一番好きな曲は、「バラは憧れ」。
日本では、上条恒彦が歌っていた。

 永遠の誓いに 背いたこころが
 君を捨ててゆく時も
 隠しきれない悩みを誰にも
 打ち明けられない時も
 バラはあこがれ  バラはあこがれ
 バラは僕たちの夢

ベコーが作った歌だ。
原題は、"L'IMPORTANT C'EST LA ROSE"、「大事なものは、バラなんだ」という意味だと思う。
訳した時に、バラは「あこがれ」にしてしまったのだろうが、少しニュアンスが違うような気がする。

ベコーのこの唄を聞くと、サビの部分の「大事なのは、バラなんだ」というところで泣けてしまう。

18年前、大阪の小さなホールに来た時に見に行ったが、ラストでマイクを客席に向けて、この歌のリフレインの部分をみんなで唄う。
いまだに歌詞の意味は、よくわからないが、「大事なのは、バラなんだ」という気持ちが伝わってくるのだ。

2001年に亡くなってしまったが、ベコーの水玉模様のネクタイと、この歌は忘れられない。



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バカ受け
4年間落語をやったが、一度だけ、バカ受けしたことがある。
後にも先にも、その一度だけは、自惚れではなくバカ受けした。

落研では、練習と慈善を兼ねて、春休みと夏休みに各地の老人ホームを慰問していた。
「今回は、山陽方面」ということになると、神戸、岡山、倉敷、広島あたりの老人ホームにハガキを出して、慰問の依頼をし、OKの返事が来たところを3〜4人のメンバーで訪問する。
参加する部員は10名ちょっとだから、3つのチームに分かれ、一日に1〜2カ所を回るのだ。
3泊4日で行くので、十数件の老人ホームを回ることになる。

あれは、天理の老人ホームだった。
4回生の夏、最後の旅だ。

ネタは「親子酒」という酔っぱらいの親子のネタで、老人ホームでは定番のネタ。
飲み食いをしたり、酔っぱらいが出てくるネタは受けやすいので、よくやったネタだった。

場所は十二畳もあったろうか。普通の和室に座布団を敷いてもらって、そこで演じた。
噺を始めてしばらくして、酔っぱらいが出てくるところあたりで、急に受けだした。
お客さんは20名くらい。ホームの老人と職員の人たちだ。

今日はどうしてこんなに受けるのかな…と思いながらやった。
涙を流して笑っている人もいた。
途中で、一人のおじいさんが、畳の上でころげまわりながら笑いはじめ、やっている本人もビックリした。

もちろん、一緒に行ったメンバーも驚いたようで、弟子(いつもは、弟子の方が受けるのだが…)に「すごいですね」と言われた。

自分もまんざら捨てたものではない…と思っていたが、ものには理由がある。

聞いてみたら、酔っぱらいの話し方が、つい先日ホームで亡くなった酒飲みのおじいさんにそっくりだったから…とのことだった。

「そらそやなあ」と納得し、それでもこれだけ喜んでもらえのだから、やっててよかった、と納得した。

その時以外、バカ受けというのはない。(外したことは数限りなくあるが…)

あの時ころげまわって笑ってくれたおじいさんの姿は目に焼きついている。
ぼくは、亡くなったおじいさんは知らないが、きっといい人だったんだろう…と思う。
そうでなければ、あんなにバカ受けするはずがない。

その時だけのお客さんだが、あんな経験は二度とできないし、あの15分ほどの時間は、忘れられない時になった。

今でも、亡くなったおじいさんには感謝している。
いい人たちに囲まれて、幸せな最期の時を送ったにちがいない。


| | 考えたこと | 00:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
天は与えすぎることもある
三舩優子という人がいる。

こないだ、テレビを見ていたら、本のレビューの番組でやけにきれいな人が司会をしていた。
タイトルバックで名前が出たので調べてみたが、作家かと思っていたら、ピアニストだったのでビックリした。

オフィシャルホームページでプロフィールをみて、これまたビックリした。

小さい頃ニューヨークで暮らし、そうそうたるピアニスト達に師事し、大学は主席で卒業、その後ジュリアード音楽院に留学、いろいろ賞を取って、FMのパーソナリティーをやって、ブックレビューの司会もして、もちろんピアノのCDも出している。

すごい人がいたものだ。

本のレビューの番組でも、的確なコメントをし、うまく番組を運ぶ。
レビューアーの話についていくために、段ボールに入れて送られてくる本を読んでいるとのこと。

もちろん、色々と努力をしているんだろうと思うが、そうは見えない。

こういう人を見ると、「天は二物を与えず」というのは、必ずしも当たらない…と思う。
運もあるし、努力もある。
しかし、才能もある。天から与えられた贈り物だ。
英語でいうと、"gifted"ということになる。文字通り、「与えられた」「天与の」という意味。

誰しも、生まれてきたこと自体が「天から与えられた贈り物」だともいえるが、天は時々与えすぎることもあるのだろう。


| | 考えたこと | 22:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
納豆
小学校のころ、夕焼け番長というマンガがあった。

その主人公が、朝、ご飯に納豆とみそ汁をかけて食べる、というのがいつものパターン。
これがわからなかった。

納豆というと、甘納豆しか見たことも食べたこともなかったので、なんであんなものをご飯にかけるのか?と不思議だった。
しかし、その部分はストーリーとは関係なかったので、そういうヤツもいるのだろう…ということにした。

その後10年以上経って、学生食堂で初めて納豆という食べ物を見た。

昭和50年だから、1975年だ。
当時関西にはあまり納豆はなかった。
関東の下宿生が多かったからか、学生食堂には納豆があったのだ。

異様な食べ物だった。

あれを食べるのは儀式である。
中味を取り出し、引く糸をクルクルと回して取って、辛子と醤油をかけ、人によっては生卵もかける。
その上で、思い切りかき回し、ご飯にかける。

結局当時は見ているだけで、食べる勇気はなかった。
でも、あのニオイは耐えられない。

その時に、夕焼け番長が食べていたのはこれだったのか…と理解した。

その後、会社に入って、出張に行ったときに宿舎で納豆好きの人があまりにも美味そうに食べるので、一度食べてみようかな…と思い、初めてトライした。

そのうち、ニオイも気にならなくなって、普通に食べられるようになってしまった。
慣れというのはおそろしいものだ。

しかし、今になって思えば、ご飯に納豆をかけた上に、みそ汁をかけるというのは、あまりおいしそうな食べ物ではないことは想像できる。

それでも、甘納豆よりはましか。





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ネコ 2
小学校1年まで祖母の家の隣に住んでいたが、祖母の家にはとら猫がいて、そいつが好きだった。
冬はいつもコタツの布団の上で寝ており、布団をめくってやると中に入って寝ていた。
無口なネコだった。

ご飯を食べているときは、じっとみんなが食べているところを見上げている。
祖母は厳しかったので、ネコがお膳に上がろうとしたら容赦なく怒っていた。

当時はキャットフードなどなく、ご飯にカツオブシや残り物をかけたものを皿に盛ってもらって、それを食べていた。

一度、スズメを捕まえるところを見た。
姿勢を低くして、ゆっくりと近寄っていき、距離がつまったところで一気に襲いかかる。
あの時は、目を細めて布団の上で寝ているのは仮の姿…という感じだった。

首のところを掻いてやると、ゴロゴロとのどを鳴らす。

ぼくがかまってほしいと思っていても、素知らぬ顔で無視していた。
寝ているところに寄っていって、手や足を握ったり、顔を触ったりしても、面倒くさいヤツが来た…というような目で見る。
まるで、「人間はややこしい」と言っているようだった。

でも、手で顔を洗っていたり、動くものに気をとられていたりするところを見ると、別人のようだ。

そういうネコだった。
どうしても、名前が思い出せない。
彼だったか、彼女だったかもわからない。

ある日、出ていったきり、帰ってこなかった。
母が「ネコは飼い主に死ぬところを見せない」と言う。

母はネコが好きだったが、父がネコ嫌いだったので、それ以来ネコとの縁はない。

小学校の3年くらいだったか、捨て猫を拾って帰って、一晩だけ箱に入れて飼ったことはあったが…。

ネコはイヌのようには人と関わろうとしないが、そこが魅力なのだ。



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