考えたこと2

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リュック文化
朝の時間に電車に乗ると、とにかくリュックが多いのに驚く。
若い女性でもリュックを持っている。
昔は遠足の時しか持っていかなかったのに、今の流行りは何なんだろうと思う。
しかも、若い人だけではなく年寄りまで持っているから驚く。

ファッションのサイトを見ても、リュックのブランドなどが紹介されている。
リュックと言えば、山登りのグッズだったのに、えらいものだ。
なんでそんなに人気があるんだろうか。

たしかに、両手が空くというのはメリットだ…、と書いて、ハタと思い当たった。
若い人たちは両手が必要なのだ。
リュックばやりの原因は「スマホ」だと思う。

ガラケーの時代は片手でできたが、スマホは両手が必要だ。
片手で持って、もう片方の指で操作する。
だから、ショルダータイプや片手がふさがるカバンは敬遠されるのだと思う。

さらに、今は営業などの外回りの人たちは会社でタブレットを持たされている。
そういうこともあるのか、ビジネスマンすらリュックスタイルが多い。
なるほどなあ、必要に迫られて、リュックになっているのか…。
どうにも、スーツにリュックというのは違和感があるが、仕方ないのかもしれない。
今はショルダーバッグにもなり、リュックにもなるというマルチなカバンもできている。

もちろん、学生もリュックだ。
通学しているところを見ると、学校でも推薦しているのかもしれない。

1つ困るのが、リュックを背負ったままだとジャマになることだ。
特に電車の中など、無駄なスペースができる。
あれを前に回して吊り革を持っている人など、感心する。
なかなかいい文化だと思う。
中には、後ろに背負っているものを、前で持つための仕組みが組み込まれいるリュックもある。
電車通学の学生などは、学校でそういうのを選ばせるべきだと思う。
そうすれば、混んだ電車の中でも共存できる。

早くそういう文化も込みで流行ってほしいものだ。


| | 考えたこと | 22:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロボコップ
朝のBSニュースを見ていたら、スペインの会社が作ったロボット警官のニュースが出てきた。
ネットで検索すると、すでにドバイ警察で採用されたとのこと。
2030年までにドバイの警察官の25%をロボットに置き換える予定らしい。

このロボコップは市民からの通報を受けて捜査を開始することもできるし、罰金を支払わせることもできるし、警察情報にアクセスすることもできる。
市民の側から見れば、警察本庁に行かなくても、このロボットを通じて情報にアクセスできたりするということだ。
ペッパーのように胸についているモニターで、尋ねられた道を示すこともできるし、複数言語に対応するらしい。

もちろん、カメラを内蔵していて、顔認識してデーターベースに問い合わせることもできる。
こういうロボットが市内をうろうろしていると、指名手配犯はシンドイだろう。
こいつは手配写真を忘れないし、優秀な顔認識ソフトなら、少々変装していても見破る。

なんと、ドバイ警察では、2年後には犯罪捜査用に人間が運転して操作する時速80kmで走る、体長3メートルのロボットを導入するとのこと。
これはスゴイ。
体長3メートルというと、どの方向に長いのかわからないが、かなりデカい。
時速80キロ出るということなら、走って逃げるのは不可能だ。
どの程度小回りが利くのか、わからないが…。

映画のロボコップは殉職した刑事の脳を使って、身体を機械にしていた。
あの映画は1987年のB級映画だったが、人気が出て続編も作られた。
あそこまではまだ無理だが、かなり現実が近づいてきたということになる。
撃たれても大丈夫、というのが犯罪捜査には心強い。

爆弾処理ロボットというのがあるが、あれはリモコンで遠隔操作をするものだったが、これは台数からいっても自分で動けるタイプだろう。

いよいよ、ロボットが人間の代わりになる時代が来た。
日本は若い人が減って、働き手が不足する。
ちょうどいい時代になる。

そのうち、派出所に行ったらロボットがいる、という時代になる。

アトムのようなロボットなら、いいのだが…。

| | 考えたこと | 22:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
ラストダンスは私に
最近、由紀さおりに凝っている。
この人はやっぱり歌がうまい。
Voice?というアルバムに入っている曲を、もう1曲アマゾンでポチってしまった。

坂本冬実とのデュエット。
「ラストダンスは私に」という昔のアメリカのポップスだ。
昭和の頃、越路吹雪が岩谷時子の訳詩で歌った。
アメリカではドリフターズというコーラスグループがヒットさせた曲。
残念ながら英語で聞いた覚えがない。
それほど日本語での曲がヒットしたということだ。

1コーラス目を由紀さおりが歌って、2コーラス目を坂本冬実が歌う。
二人でハモるのではなく、一人ずつ歌っている。
もちろん、サビは二人で歌う。

これを聞くと、完全に貫禄が違うなあと思う。
由紀さおりの方が、歌がうまい。

クルマの中で次男に聞かせると、ダイナミックレンジが違うなあ、という感想を言った。
由紀さおりの方が声の大小の幅が広い。
声が小さくても、よく聞こえてくる。

お腹から声が出ているんだろう。
坂本冬実も、うまいのだが、やっぱり喉で歌っているという感じ。
こうやって比べるとよくわかる。
ムリして歌っていない、という余裕がある。

こないだはこの曲を持って行って、ギターのレッスンをしてもらった。
単純なコードで弾ける曲だが、このバージョンはラテンっぽいアレンジ。
先生にかかると、どんどん感じが出てくる。
1コーラス目と2コーラス目でメロディーは同じでも、コードが微妙に違う。
凝ったことをやっている。

さらに、和音の上の部分と、ベースの動きが違う。
今の流行りの音楽とは違って、ドンシャリ(低音部と高音部が強調されている)のサウンドではなく、昔の歌謡曲の伴奏だ。
声がよく聞こえる。

やっぱり、こういうのは聞いていて気持ちがいい。

さすが由紀さおり。



| | 考えたこと | 22:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
人生の満足度
人生の満足度を測るテストというのがあるらしい。
エド・ディーナーというアメリカのイリノイ大学の先生が考案した。

質問は5つ
1.ほとんどの面で、私の人生は私の理想に近い
2.私の人生はとてもすばらしい状態だ
3.私は自分の人生に満足している
4.私はこれまで自分の人生に求める大切なものを得てきた
5.もう一度人生をやり直せるとしても、ほとんど何も変えないだろう

これらの質問に点数をつける。
1点 全く当てはまらない
2点 ほとんど当てはまらない
3点 あまり当てはまらない
4点 どちらともいえない
5点 少し当てはまる
6点 だいたい当てはまる
7点 非常によく当てはまる

評価の基準
30点以上:人生満足度が非常に高い
25〜29点:満足(人生が順調)
20〜24点:平均的な満足度
15〜19点:やや満足度が低い
10〜14点:不満
5〜9点:不満がとても強い

過去の調査では、日本の大学生の平均が約18〜22点、アメリカの大学生は約23〜26点だったとのこと。
日本人は低めに出るということか、それとも本当に満足していないのか…。
でも、主観的には日本の大学生は満足度が低い。
日本の方が同質性が高いから、人と比べやすいからかもしれない。
人と比べてしまうと、上を見てしまい、満足度が低くなるのだろう。

こないだの大統領選挙では、アメリカの大学生は民主党のバーニー・サンダースびいきが多いと聞いた。
公立大学の無償化を主張し、格差の縮小を掲げたからだ。
2011年には、ウォール街でデモもやっている。
1%の富裕層が2割の富を持っていっている、ということで、We are the 99% というスローガンだった。
今のアメリカの若者は格差に対して怒っている。
それでも、人生の満足度は日本より高い。

絶対的な格差でいうと、アメリカが圧倒的に大きい。
日本の問題は、所得中間層の没落だ。
1992年をピークに、中間層の所得がずっと下がり続けていて、こないだ書いたように、実質所得が広い範囲で下がっているという事実。
実際、子どもの6人に一人が相対的貧困状態。
相対的貧困とは、「その社会で大多数が「当たり前」と思っている生活ができず、社会参加ができない人の割合。今の日本の子どもなら、ご飯を食べ、友達と遊び、勉強し、望めば高校や大学に挑戦できる、といったことができない状態を指す」とある。
この状態を見て育ったのが今の若い人たち。
高齢化率も高く、選挙をやっても、自分たちの意見が通らないと諦めているということもあるのかもしれない。

これじゃあ、満足度は下がるわなあ。

恐いのは、アメリカの若者がサンダース支持をしたり、ウォール街でデモをしたりして、意思表示しているのに対して、日本の若者はそんな意思表示もせず、こっそり「人生の満足度が低い」ということだ。

これはぼくら年寄りが何とかしないといけないぞ。
| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
銀二貫
銀二貫 高田郁 幻冬舎時代小説文庫

NHKでやっている土曜時代劇「みをつくし料理帖」が面白いので、元となる小説の作者、高田郁の本を実家で借りた。
この「銀二貫」というのも2014年にテレビ化されていた。
また再放送しないかな。

「銀二貫」というのは、大阪の寒天商が天満の天神さんに寄進しようとして持っていたお金。
それがひょんなことから、京都で主人公を助け、大阪に連れ帰り、丁稚として使うためのお金に化ける。
口うるさい番頭や気のいい丁稚仲間、寒天職人などに育てられ、一人前の寒天商になっていく主人公。
途中何度かの火事があり、焼け出されたりするが、二十数年を経てようやく銀二貫を天満の天神さんに寄進できるようになるという話。
もちろん、寒天を使った料理屋の娘とのロマンスもある。
なかなかいい本だった。

この高田郁という人は、もともとマンガの原作者をしていたとのことで、絵になる小説を書く人だ。
大阪が舞台ということもあり、馴染みのある地名が多かったからかもしれないが…。

作中の料理は必ず自分で作ってみる、ということらしい。
解説に書いてあった。
そういう研究熱心さが小説の中にも現れている。

それにしても、新しくできた文庫は字が大きい。
ページ数の割にはすぐに読める。
文字の量が半分とは言わないが、だいぶ少ないと思う。
老眼対応だ。

若いころに読んだ文庫本は、今よりももっと字が小さかった。
日本全体がまだまだ若かったんだろう。
ページ数を減らして、紙の値段を安くして、本を出すという文庫の位置づけもある。
ネットで調べると昔は文字フォントが7.5ポイントだったとのこと。
それが今は9.25ポイントまで大きくなっているらしい。
時代小説など、高齢者の方が読者が多いから、ページ数が増えて値段が上がっても字を大きくする方が江手に取ってもらいやすいということだ。

やっぱり字が大きいと読みやすい。

時代は変わったなあと、時代小説を読んで思った。


| | | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
2065年の自分
こないだ、人口統計の資料を見て、2065年という記事を書いた。
ぼくは2017年に60歳になったので、2065年というと生きていれば108歳になる。
万が一つにも、ぼくがその時に生きているというようなことはないと思うが、今の医療の進歩はすごい。
IPS細胞を使って臓器を作れば、それを使って生き延びることができるようになる。
細胞が死ぬというメカニズムが明らかになれば、死を遅らせることもできるかもしれない。
それと同時に、年をとっても元気でいられるような技術も出てくるかもしれない。

そうなると、超高齢化も恐くない。
何歳になっても、働けばいいのだ。
遠い将来は、生涯現役ということになるだろう。
70代は言うに及ばす、80代もまだまだ仕事ができる年齢になると、生産年齢は高くなってもへっちゃらになる。

しかし、もしそうなったら、人間は早く死にたいと思わないのだろうか。
人類が生まれて、まだ経験したことがない時間だ。

元気なのは40代までで、50歳になったらもうぼちぼち、というのが江戸時代あたり。
そこから明治、昭和を経て60歳に上がった。
それが平成になって65歳になった。
もう70歳も時間の問題だ。

「働く」ということに対する意識が変わらないといけないだろう。
年をとっても、働けてよかった、と思えるかどうか…。
年をとっても、働かないといけない、ということになりそうだ。
昔は60歳で定年だったのだ、というのが語られるようになるかもしれない。

年寄り、というのは何歳からになるのだろうか。
自殺率は増えるんだろうか。
疑問は尽きない。

そのころには地球の人口が増えて、食べ物が不足しているかもしれない。
昆虫食もできているかな。
主食がハエ、というのもイヤだろうなあ。

そうなると、戦争が起きているかもしれない。
増えすぎた種は滅亡に向かうということもある。

ぼくらは、例外的に平和で豊かな時代を生きることができた。
最近の20年間に生まれた人は、生まれた時から右肩下がりだ。

朝のドラマで昭和40年代をやっているが、それが今から40年以上前になる。
みんなで一緒に仕事をして、仲間がいてよかったとか、一生懸命働く人を見るのは楽しいとか、そういう価値観が語られる。
それはまだ今も若い人たちに通用すると思うが…。

2065年にはどうなっているだろうか。
興味は尽きない。

| | 考えたこと | 23:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
アトム・ザ・ビギニング
NHKで土曜日の23時から、アトム・ザ・ビギニングというアニメをやっている。
手塚治虫の鉄腕アトムの誕生前の物語。

アトムを作った天馬博士、アトムの親代わりのお茶の水博士の2人が大学生。
研究室で2人でロボットを作っている。
そのロボットの名前がA-10-6(エイテンシックス)という。
こないだ気づいたのだが、これはA(ア)10(ト)6(ム)、エイテンシックスはアトムの語呂合わせだった。

おそらく、時代は2030年くらい。
手塚が昭和30年代にアトムを描いた時、アトムが誕生すると考えたのが2003年。
そのころは充分に未来だと思ったが、もう来てしまった。

今、もう一度アトムの生まれる前の時代を描く。
オリジナルでは、天馬博士の息子が死んで、その代わりにアトムを作る。
人の心を持ったロボットだ。
でも、死んだ息子とは違うということで、博士はどこかに行ってしまう。
残されたアトムはお茶の水博士に育てられる。

アトム・ザ・ビギニングでは、天馬くん、お茶の水くんが出てくる。
A-10-6はたぶんアトムの元になるロボットだろう。
人工知能で人の心を持たせている。
天馬はどちらかというと機能派で、お茶の水は人情派。
鉄腕アトムの世界を予告しているようだ。

今、AIがブームになって、ぼちぼちアトムの世界が現実に考えられるようになってきた。
タイムリーなアニメだ。
どれほどの視聴率を稼いでいるのかわからない。

アトムを知っているぼくは、見ていて面白いが、知らない世代はどうなんだろうか。

ガンバレ、A-10-6。

| | 考えたこと | 01:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
弱い巨人
今年の読売巨人軍は弱い。
29勝36敗と大きく負け越し、順位は4位だ。
一時は最下位も見えた。
今もトップの広島に11.5ゲームも差をつけられている。

阪神が弱いのには慣れっこだったが、今年はなぜか強い。
金本監督のやり方がいいんだろうか。
よくわからないが、結果論では好調だ。

しかし、昔巨人が弱い時期があった。
長嶋が川上から引き継いだ頃だ。
あのときはだいぶマスコミでも騒がれたと思う。
今も騒いではいるが、あくまでも一部のネットの上で、そんなにテレビやラジオでヤイヤイ言っているわけではない。

世の中の巨人に対する興味が減っている。
野球の人口が減っているのだ。
今や圧倒的にサッカーの方が人気がある。
高齢者のファンはいるが、声が小さくなっている。
だから、巨人が弱くても普通に過ぎていく。

もちろん、高橋監督はシンドイだろうが、70年代の長嶋監督に比べるとだいぶマシだろう。
それこそ、ワイドショーのネタになっていたと思う。
これが野球の今の位置づけだ。

NHKのBSで大リーグの中継をやっているが、そっちの方が面白い。
試合のテンポは速いし、プレーも見ていてすごいと思う。
そういうファンの心理の変化もある。
つまり、日本の野球は、大リーグの下だという意識ができた。
日本で実績を積んだ選手は、大リーグに行く。
今やそれが当然なのだ。
たとえそれが巨人軍だったとしても、そう思うだろう。

そんな風に野球はサッカーに負けて競技人口が減り、ファンの人口も減り、さらにファンの意識も変わってしまった。

ぼくが小学校の頃、グローブとバットを持って原っぱに集まり、巨人の星を見て、野球をした。

もうすぐ、そんな時代があった、という話になる。

ぼくは今でもやっぱり野球の方が面白い。


| | 考えたこと | 00:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
最新のコピー機
昨日は最新のコピー機を操作する機会があった。
以前から新しいコピー機は「帳合い」「ホチキス止め」などができるということだった。
それ自体は、もう10年ほど前のことだ。

大学というところは、とにかく紙が多い。
授業資料を配るとか、生徒への注意喚起のチラシとか、すぐに数百枚単位になる。
だから、ニーズはすごくある。
でも、その頃は値段的に、小規模大学で1台程度入ったらいい方、という感じだった。

しかし、その後10年ほど経って、価格も安くなり、大きさも小さくなった。
10枚両面コピーのホチキス止めで100部、などあっという間だ。
それも、パソコンの資料なら、ネットワークでデーターを送っておいて、コピー機のところに手ぶらで行ってピックアップするだけでいい。
スゴイ世の中になったものだ。
長い目で見ると、コピー機の変更でパートさんが一人か二人仕事を失ったと思う。

もちろん、コピー機はネット対応なら、契約次第でメンテナンスは勝手にしてくれる。
コピー機が、もうトナーを替える時期だということになったら、勝手にサービスマンを呼んで交換を依頼するのだ。
大昔、メインフレームのコンピューターが自己診断して、調子が悪い基盤を勝手にサービスマンを呼んで交換する、というのにビックリしたが、今はいたる所でそんなことが起こっている。
そういえば、自動販売機の飲み物の交換もネットワークでやるので、トラックの周回はだいぶ合理化されたらしい。
機械に指示されて人間が動く、というチャップリンが描いたモダンタイムスの世界はもう日常的になった。

あらゆるものがネットワークにつながる、というのがIoTの意味だ。
そのうち、家電製品も無線を通じてネットワーク対応になるだろう。
エアコンや空気清浄器のフィルターや、定期点検が必要な家の設備など、全てのものが対象になる。
そのインターフェースがスマホになるかもしれない。
外部との通信はそこで一括でやろうという算段だ。
あらゆる製造業が、サービス業へ転換するというのは、そういう時代だからだ。
そのうちクルマもそうなるだろう。

まだぼくはやっていることの意味がわかるが、そのうちわからなくなるだろうと思う。
ヨボヨボの年寄りになったら、もう無理だ。
昔はよかったと思う。
技術の進歩が遅かった。
だから、自分の知識が陳腐化するのが遅い。

えらい世の中になってきたと改めて思った。


| | 考えたこと | 21:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
変わる言葉
言葉は変わっていくというのは、英語の世界でも同じだ。
英語のツイッターのページで、フォローすべき人、というのが推薦されるが、それが「Who to follow」と書いてあるとのこと。
Wall Street Journalの記事にあった。

whomという言葉、用法は「先行詞が人の場合の関係代名詞の目的格」と書いてある。
つまり、「Who to follow」というのは、文法的には「Whom to follow」と書くのが正しい。
ぼくらもそう習った。
この記事でもそう指摘している。

記事によると、英語ネイティブからみるとwhomは「堅苦しい」感じがするらしい。
そこにwhoを使うと、くだけた感じ、フレンドリーな感じになるという。
英語でもどんどんリズムを重視するような傾向にあるらしく、語呂も関係する。
「Who to follow」の方が「Whom to follow」よりも言いやすい。
まあ、その感じはわかる。

日本語でも「そういうこと」というのを「そうゆーこと」というような表記をしていることがある。
個人的には、これはちょっとなあ、と思うが、違和感がない世代もあるんだろう。
「かっこいい」を「かっけー」と書いたり、「おまえら」を「おめーら」と書いたりするのも、最近見る。
どんどん話しやすいように変化していくのだろう。

実際、古い時代からいうと、そういう変化を遂げてきたのだ。

そのうち、音を伸ばす「−」が多用されて、上の文章は、

「じっせー、ふりーじでーからゆーと、そーゆうへんかをとげてきたのだ」と読む日が来るかもしれない。
その時代の人たちにとっては、普通のことであり、古語辞典に昔はこう読んだという解説が出る。

昔の時代を生きた人からすれば、今の言葉がそうなっている。

何ともいえんなー。


| | 考えたこと | 22:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
小学校の英語教育
2020年から小学校で本格的に英語をやる、ということが決まっている。
でも、小学校の先生は英語の教育についてほとんどは素人。
ALT(外国語指導助手)がつくことになっているが、年を取った先生はシンドイだろう。

教科書はどんなものになるんだろうか。
中学校との連携はどうなるんだろうか。

ぼくが一番不思議なのは、小学校の教員養成課程がそれに先立って変わらないことだ。
文科省の資料を見ると以下のようなことが書いてある。

外部専門機関と連携した英語担当教員の指導力向上
 ・地域「英語教育推進リーダー」養成・悉皆研修
 ・受講した教員・児童生徒のアンケート・検証・改善
 ・県の「英語教育改善プラン」策定・公表(H28年度〜)
  (教員の英語力・指導力の目標設定・公表・検証・改善を含む)
教員養成の抜本改善
 ・コアカリキュラム開発・検証 ・今後の養成課程制度の改善
  小学校英語教科化に対応した中学英語免許状取得支援(H28年度新規要求)
 ・小学校各校一人の中核教員の専門性向上
教員の採用改善
 ・英語力の条件の見直しを県へ要請、取組把握・公表・改善
外部人材の活用(ALT等)
 ・JETプログラム、専門性の高い非常勤講師、地域人材活用

指導力を向上させるために研修するとか、リーダーを育成するとか書いてあるが、肝心の教員養成の抜本改善はまだまだこれからだ。
この文科省の体質はどうにかならないんだろうか。
まず、先生を変えて、そのうえで教育を変える。
それでゆとり教育も失敗した。
このままなら、今回の英語教育も失敗する。

教育に携わったことがある人なら、「先生」の重要性はよく知っているはず。
学校の価値は「先生」の価値とほぼ等価だと思う。
いい先生に習えば、いい生徒が育つのは誰しも思っていることだろう。

小学校の何年の時のあの先生がよかったとか、中学であの先生に出会ったのが転機だったとか、高校のあの先生に会わなかったらとか、大学の研究室のあの先生の一言がとか…、そういうことだ。
誰しも、記憶の中に「恩師」とまではいかなくても、「あの先生」の言葉を覚えていたりするはず。
そういう先生を増やさないといけないのだ。

ましてや今回は今までやっていなかった科目を教えるのだ。
入口の大事さは教育学者でなくてもわかるだろう。
中1で英語を嫌いになる、というショックを和らげるために小学校に英語を導入する。
その対策が、中1の英語の課程を勉強することとは…。
今の英語教育と同じことをやろうとしているんだろうか。
小学校で習うべき英語とはどういうものがいいのか、その答えは考えてないんだろうか。

何かを新しく教える時は、先にその「何か」を教えられる人を養成する、という当たり前のことだ。
今から採用試験の「英語力の条件の見直し」などやっていて間に合うのか。
先生を変えていかないと、アクティブ・ラーニングなど掛け声倒れで終わり、なにをやっているのかわからなくなるに違いない。

せめて民間資格の英検やTOEICの最低限度を決めて運用するなど、文科省が主導でやるべきだと思う。

そして、それが教員の質を上げ、全体を底上げできればと願う。


| | 考えたこと | 13:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギターケース
こないだ大阪に行った帰り、8時前の帰りの電車で2人、ギターケースを持っている人を見た。
一人はソフトケースでガットギターが入っているようなタイプ。
もう一人はフォークギターのハードケース。
どちらもぼくより年上と思われる男性。

今から演奏に行くのか、それとも帰りなのかはわからない。
どちらもあまり年季の入っていないケースだった。

最近ヤマハがネットの宣伝で、「昔やろうと思っていたギターをもう一度」というようなのがある。
それをよく見るせいか、この人たちは「もう一度」のクチか、それとも…と思ってしまった。

ぼくが中学の頃はフォークソングのブームだった。
中学校から帰るとき、すれ違う大学生の中にギターケースを見ない日はなかった。
それほどのブームだった。
よく、あのケースの中には何も入っていないとか、食器のフォークが入っているのではないか、とか言ったものだ。

今日電車で見た2人は、ぼくよりちょっと年上。
ちょうど中学の頃、すれ違った大学生の年代だ。
ずっとギターを弾いてきたのか、それとも「もう一度」のクチか…。

いったいどんな曲をやるんだろうか。
当時の曲だろうか、それとも今の曲だろうか。
アメリカのフォークだろうか、それとも日本のフォークだろうか。

「もう一度」のニーズはたしかにあるんだろう。
あるからこそ、ヤマハが宣伝している。
「はじめよう、ギター女子」というのもあった。

この調子でヤマハがプロモーションすると、またギターが流行るかもしれない。

そんなことはないか…。


| | 考えたこと | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
文科省に欠けているもの
文科省に欠けているのは、省名にも含まれている「科学」の考え方だと思う。
教育について、もっと科学的に考えないといけない。
今の世の中は「エビデンス・ベースド」の世界。
「エビデンス・ベースド」というのは、「科学的根拠」のことだ。
当の文科省が、大学に対して「質の保証」を言っており、それはある程度数値に基づくものを求めている。

教育経済学とい学問があって、それはまさに「教育を経済学で捉え、エビデンス(科学的根拠)から教育を考える学問」ということだ。
それを修めている中室牧子という人が、講演会で言っている。
長くなるが、その講演を聞いていたい人の記事を引用すると、

「米国をはじめとする欧米では既にエビデンスベースト(evidence based)の教育経済学的なアプローチから先行研究が進んでおり、「どこに投資するのが費用対効果が良いのか?」については既にある程度答えが出ているそう。
 では、一体どこに投資すべきなのか。
 それはずばり「幼児教育」と「教員の質を高める」の2点に尽きるとのことでした。
 教育において、最も収益率が高いのは「就学前から小学校低学年にかけて」で、教育のシナジー効果を期待できるから。
 かけ算が分からなければ因数分解は分からない。
 因数分解が分からなければ微分積分は分からない。
 だからこそ、国民全体のアウトプットを最大化するためには、幼児教育や初等教育が重要なのだそう。
 さらに、その教育効果を最大化するために最も重要な要素は「教員の質を高める」こと。
 「元々の学力水準が同じ子どもを、能力の高い教員が教えた場合、子どもたちは1年で1.5年分の内容を習得し、能力の低い教員が教えた場合、0.5年分しか習得できなかった」という研究結果が出ているなど、能力の高い教員は、子どもの不利な環境を帳消しにしてしまうほどの効果を持つのだとか。」

中室准教授のことは今までに2回書いた。
いずれも教育に対する科学的なアプローチについてのことだ。

この人の言っていることはまっとうだし、その通りだと思う。
勉強は積み上げであり、最初でつまづくと後でわかる、というのは不可能。
そして、それを教える人が優秀かどうかがキーになる。
まさに、アメリカの研究結果の示す通りだ。
実際に20歳を超えた学生を見ていて、それを痛感する。


自分でも同じことばかり書いていると思う。
でも、本当にそう痛感するから仕方ない。

それらの科学的根拠を出さずに、小学校で英語を教えるとか、プログラミングを教えるとか言っている。
幼児教育、初等教育の教育課程は変えないし、そこを教える人たちへのプライドやリスペクトをもっと持たせるようにできないものか。
本当に優秀な人が、幼児教育や初等教育の先生をやることはできないのか。

極論すれば、学校は「先生」なのだ。
設備や立地や伝統など関係ない。
それがぼくが10年間教育に関わって思ったこと。

そこを政策目標にしないと、よくならない。


| | 考えたこと | 21:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
トヨタの危機感
トヨタの社長、豊田章男社長が6月14日の株主総会で涙ぐんだという記事があった。
ちょっと前まで好調だったが、業績が厳しいことだけでなく、将来の不安が見えているからだろう。
2期連続の営業利益減になる予想。
ハイブリッドで勝ってきたが、足元が揺らいでいる。

予想外のバッテリーやモーターの技術の進歩によって、モーター駆動のEVの未来が開けてきた。
燃料電池車は分が悪い。
さらに、自動運転の技術競争だ。
これはメインプレーヤーが業界の外にたくさんいる。
ITやセンサーの企業と、ソフトウェアの企業がメインだ。

グーグル、アップル、ウーバーなどは自動車を所有するものから社会でシェアするものに変えていこうと考えている。
株主総会でも「15年から20年先をどうみているのか」「IT企業の自動車参入は手ごわそうだが、どう対抗していくのか」「自動運転の開発は他社より進んでいるのか」「50年先を見据え、資金をどう使うのか」などの質問が飛んだとのこと。

まさに、自動車業界は100年に一度の変革期にいるといっていいと思う。
経営課題は山のようにある。
さらに、今まで車を作ってきたという実績もある。
アメリカのテスラのように、その実績がない企業がEV専業でクルマを作って成功している。
実績は変革期には邪魔になることもある。

ぼくは個人的にはトヨタは嫌いだが、それでもトヨタが負け組になるのは困る。
今の巨人のように、実際に弱くなってしまうと、嫌うことができない。

記事の最後に「誰が味方で誰が敵か見えない将来。答えがない中で、もがくトヨタ経営陣と、エールは送っているが不安そうな株主の姿が明らかになった。」と書いてあった。

日本の国益を考えても、トヨタには頑張ってほしい。


| | 考えたこと | 21:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
ニュースとは
ネコの動画は面白い。
どういう意図でネコ自身がやっているのかはわからないが、人間がそこにつけた説明とセットで見ると、面白い。
ついつい見てしまう。

フェイスブックでペットのニュースのようなサイトもフォローしているが、そこの画像もイヌよりもネコが多い。
たしか、ペットの数も日本ではネコがイヌを抜いたはず。
ネコ人気は高い。

Webのニュースの編集をやっている人が、今の若い人たちには「Webニュース」というものの意味が変わってきている、ということを言っていた。
それは、Webニュースサイトがページビュー(PV)という「そのページがどれだけ見られたか」という数字を追い求めるがあまり、取材もせずに書けるような記事が増えてきていることが原因だという。
たしかに、Web上ではそういう数字が明確に出る。
簡単にPVが取れ、広告収入が入る、ということでネコ動画が増えているということだ。

そのために、制作側の編集者が取材し、事実を集め、吟味して記事にする、という本来の役目が変化しているという。
今やPVが稼げれば構わない、という風潮。
だから、編集者は単なる記事の入稿係になってしまった。

ネコ動画はもちろんニュースではないが、そういうものが氾濫し、若い人のニュース観が変わってきているように思えるらしい。
なかでも炎上ネタなどの、「感情的なコミュニケーション」というものが増えているという。
たしかに、そういうものがニュースになるが、それは誰かが感情に任せてつぶやいたり、ブログに書いたりしたものが発端。
それを「ニュース」と呼ぶことに違和感があるという。
その通りだと思う。

炎上という行為が、感情に任せた行為であり、炎上すればするほど事実から遠のいていく。
トランプ氏が大統領になったのも、そういう感情をテレビだけでなく、ツイッターで煽った面が大きかったと思う。

本来、ニュースというのは感情を排し、事実を淡々と伝えるところから始まるものだ。
そこに、感情が追加されるのは、伝えてからのこと。
それがどんどんセンセーショナルになっていっているのは事実。
テロなどのセンセーショナルな事件が増えているのもあるだろう。
でも、地上波のワイドショーなどでは、ニュースに対してコメンテーターが偏った意見や感想を話したりして、視聴者の感情を煽っている。
ネットに負けないように、そういう動きをしているんだと思う。

こういう状態が続くと、ヨクナイ。
もっと客観的に事実を報道しないとと思う。

Webだけでなく、メディア全体に言えることだと思う。



| | 考えたこと | 19:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
京阪電車
こないだ京阪電車に乗った。
生まれてから、ほとんど乗る機会がなかった。
考えてみると、今まで電車では神戸と尼崎の間を往復しただけ。
それもほとんど阪急か阪神電車。
京都に通っていたときはクルマだった。

京阪電車は新鮮だった。
この電車、ちょっとサイズが小さいなあと思う。
線路幅が狭いのと、カーブなどが多くて一両の電車も短くなっているらしい。

それと、社内のアナウンスが違う。
阪急や阪神は「ドアが開きます」というアナウンスだが、京阪は「ドアを開けます」という。
「左側のドアを開けます」と言われると「お、注意せなあかん」と思う。
ぼくが慣れていないからそう思うだけかもしれないが、注意喚起のためのアナウンスならこちらのほうがいいと思う。
「開きます」というと、なんか自然に開く感じだが、「開けます」というと意志を感じるからだ。

しかし、長いこと関西に住んでいても、京阪、南海、近鉄にはほとんど乗らない。
職場が神戸と京都だったこともあり、大阪の南には馴染みがないからだ。
京都に勤めていた10年間は、もっぱらクルマだったし。

転勤もなかったし、ある意味平穏無事な人生だった。
出張でよく行ったところといえば、茨城県のつくば市、豊田市、広島市、浜松市、九州の都城市、北海道の札幌、旭川、岡山県の津山市あたりだ。
それも点での移動で、線でつながっていない。
新幹線やクルマ、フェリーなどで行って帰るだけ。
出張だから当然か。

普通の人の人生は、転勤をして住むところが増えたとしても、そんなにたくさんの場所を訪れることもない。
そう思うと、ぼくなどわりと多いほうかもしれない。

京阪電車に乗って、そんな事を考えた。


| | 考えたこと | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
瞑想流行り
最近カナダのマイクロソフトのチームが研究した結果というのが面白い。

それによると、金魚の集中が続くのが9秒だという。
人間は何秒か?ということになるが、驚くなかれそれは8秒らしい。
金魚以下の集中力ということになる。

脳波を測って出した結果らしい。
金魚の脳波はどうやって測ったのかは書いてないが…。

もっと興味深いのは、2000年当時は12秒だったヒトの集中力が、13年経って8秒に落ちたということだ。
これは世の中の情報化が進んだからだと説明している。

記事を引用すると、

「まず、われわれを取り巻く情報量そのものが、飛躍的に増大した。米調査会社IDCによれば、1年間に生み出されるデジタルデータ量は、2000年の62億ギガバイトから、13年は4.4兆ギガバイトと約700倍に膨れ上がった。今後も増え続け、20年には、44兆ギガバイトまで膨らむと推定されている。

 さらに、LINEやツイッターをはじめとする、SNSの新たなコミュニケーション手段が登場したことも、集中力の持続時間の低下に拍車を掛けた。

 何かに取り掛かっている際に、SNSの通知音に呼ばれて作業を中断するのは、日常ではありふれた光景になった。総務省によれば、SNS利用者の平日の平均利用時間は70分を超えたという。

 多様な情報の処理に追われる現代のビジネスパーソンは、同時に複数の仕事をこなすマルチタスクが当たり前。例えばビジネスパーソンはメールチェックを平均で1時間に30回もしているそうだ。」

ということらしい。

もともとは電話と違って気が向いたときに見ればいいと思っていたメールだが、今やビジネスではすぐに開いて応答しないといけないという感じだ。
LINEなどは既読したかどうかもわかるから、ややこしい。
学生諸氏はそれで悩んでいるとも言う。

2000年当時、どこかのセミナーに会社から行かせてもらったが、70年代と比べるとエンジニア一人の抱える課題が何倍にもなっている、ということだったはず。
逆に言うと、デジタル化でできたツールがあるからこそ、それだけの課題をこなせてしまうということだろう。

必然的に考える時間が減り、細切れに情報を処理しないといけない。
それが脳の負荷を大きくしているんだろう。

それに有効なのが瞑想だという。
グーグルなどの会社も取り入れている由。
それだけ頭を休ませないと、いい考えが出てこないということかもしれない。

エライ時代になったものだ。
ぼくはその移り変わる時代を見てきた。
でも、デジタル化が進んでいく時期はもう学校法人に変わっていたから、そこはあまり経験していない。
学校法人はその当時まだパソコンが一人一台になったところ、という感じだった。
情報など取らなくても学生さえ来ればいいということで、お気楽なところでもあったなあ。

実際に民間企業で働いている人たちは、そういう情報に埋もれている。

そこをブレイクスルーするのは、やっぱり社員教育だろう。

頑張ってほしい。


| | 考えたこと | 21:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
ぼくと僕
文章を書くときに注意することがある。
それは、漢字が多くなりすぎないこと。
これが意外に効果がある。

漢字というのは表意文字だから、それを使うと意味が伝えられるので、文章を短くすることができる。
ぼくもできれば文章は短い方がいいと思う。
しかし、そのために漢字を使うのはできるだけ避けたほうがいい。
漢字が増えると、意味がわかりにくくなるからだ。

「短文」と「短い文」は同じ意味だが、「短文」と書くと「たんぶん」という言葉を頭の中で「みじかい文」と翻訳しないといけない。
それなら、最初から「短い文」と書いたほうが伝わりやすい。
その上で、余計なところを削るほうがわかりやすい文章が書けると思う。

ネットで調べたら、いろんな人が同じことを言っていて、文章における漢字の比率は2割くらいがわかりやすい、と書いてあるところもあった。

「平易な文章記述の為には、鋭意漢字を減少させて記述するのが良い。」と書くと漢字が52%。

「わかる文章を書こうと考えたら、できるだけ漢字を減らして書くのがよい。」と書くと漢字は24%。


極端な例だが、漢字が少ないほうが読みやすく、目に入ってくるのがわかる。
漢字が多いと、必要以上に難しくなってしまう。
漢語は硬い。和語は優しい。
漢字が多いと、いかにも「難しいことが書いてあります」という風になる。

経験上は、削るところはあとでいっぱい出てくるので、まずわかりやすく書いてみることだ。

エントリーシートなどでは、意味を伝えることが一番大事になるので、こういう工夫が大切。

ぼくが「僕」と書かないのは、そういう意味だ。

| | 考えたこと | 20:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
逢いたくて逢いたくて
園まりが歌ってヒットした昭和の歌謡曲。
宮川泰の作曲、岩谷時子の作詞だ。

こないだNHKラジオの文化講演会で、由紀さおりが日本語のアクセントについて講演していた。
それによると、当時の歌謡曲は日本語のアクセントに、わりと忠実に作られていたとのこと。
この「逢いたくて逢いたくて」もそういう部類の曲だという。

それに対して、最近の曲はそうではない。
「世界に一つだけの花」はなかなか歌いにくい曲だったとのこと。
これは日本語の自然なアクセントにはなっていないメロディーだから、難しいらしい。
「セかいに ヒとつ ダけの ハな」というように、頭にアクセントが来るメロディーになっている。
こういう曲は、歌いにくいと由紀さおりは言っていた。

ニューミュージックという言葉ができた頃から、そういうことが始まっていたのだろう。
日本語の歌詞を洋楽のように唄うという感じだ。
日本の音楽がモダンになった要因の一つかもしれない。

70年代からそう動きがあったんだろう。

でも、「赤とんぼ」の歌詞は二行。
行間に味わいがある、という。
そう言われると、そんな気がする。

新しいものをずっと追いかけて、この年になった。
しかし、古いものにも良さはある。

童謡唱歌をたくさん歌ってきた人の言葉には、説得力があった。

由紀さおりの「逢いたくて逢いたくて」は、ジャジーなアレンジ。
思わず1曲購入してしまった。

昨日、ギターのレッスンに行ったら、先生も誰かに頼まれて由紀さおりの「逢いたくて逢いたくて」の楽譜を作ったとのこと。
依頼した人は、由紀さおりのバージョンでやりたい、と言っていたらしい。

「おお、いま旬なんですね」と話がはずんだ。

先生と意気投合して、ぼくはうれしかった。



| | 考えたこと | 20:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
役に立つ勉強
小学校、中学校で習うことについて書いてある記事を見た。

それによると、小学校で習うことは社会生活を営んでいく上で欠かせないという。
これがないと、自立するのすら厳しい。
漢字、分数、割合など。

中学校では、どちらかというと科学的な自然観・社会観を身につける上で、最低限度のものを学ぶということになる。

「例えば、銅が酸化するとき銅8g:酸素2gで10gの酸化銅ができるとか、そういう細かい知識は社会人になった今、忘れているけども、なんとなく金属と酸素がくっつくときは割合があったよな、みたいな自然観が、習った人の心には沈殿する。その程度でよい。」

「たぶん、中学程度で習うことを、自分の自然観や社会観として身につけたら、かなり科学的な物の見方ができるようになると思う。さらに、具体的内容も忘れていなければ、これだけで知識上は自立した大人として十分やっていけると思う。」

今、大学生を見ていて、これらの小中学校で習うことが、ちゃんと定着していないことがわかる。
就職筆記試験で割合や百分率で苦労する学生がいる。
もちろん、文系の学生だが、入試から数学をなくしてしまっていいのかと思う。

そういう学生は、中学でも苦労したんだろう。
言われるように、中学で習うことをちゃんとやっていたら、科学的なものの見方ができると思うが、そこが危機的な状況になっている。
今就職の現場で求められているのは、論理的に書いたり、話したりすることだ。
事実と意見を区別したり、原因と結果を分けて話したりすることがなかなかできない。

これらは、中学までの勉強がある程度ちゃんとできていたら、身につくのではないかと思う。
逆に言うと、発達的な観点からみて、中学卒業までにある程度社会的、自然科学的な見方を身につけないといけない、ということだ。
それこそが、義務教育の役割だと思う。

そういう意味では、義務教育で習う内容は、「役に立つ勉強」だ。
それ以降は直接役には立たない、と記事の中でも言っている。

その「役に立つ勉強」が今軽んじられていると思う。
そこがちゃんとできないまま、高校や大学に進学してしまっても、それこそ役に立たない。(この際、なぜちゃんとできなくても進学できるかは置いておく)

だから、力を入れるべきは義務教育なのだと思う。
そこがちゃんとしてないのに、高等教育に力を入れてもほとんど効果がない。

大学の無償化よりも、そちらが先だ。


| | 考えたこと | 23:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
残りの時間
一日は誰にとっても24時間。
年令を重ねると、その時間がだんだんと気になってくる。

若い頃は、時間を意識しない。
意識しないというのは、自分の時間に終りがあるということを思わないということだ。
いつか、という時間があると思っている。

いつかこれをしよう。
いつかこの本を読もう。
いつかあれを買おう。

そのいつかは決まっていないが、「いつか」来ると思っている。
それが「若い」ということだ。

50代に読もうと思って買った本が、読めないままたくさん置いてある。
俗に言う「積んどく」というやつだ。
買ったときには、その本に興味があって、いつか読もうと思ったものばかり。
特に仕事がらみのものは、今更読んでもなあ、と今になって思う。

よくあれだけ本を買ったものだと思う。
毎日少しずつ読めばいいとも思うのだが、最近は老眼がひどくなったのと、横になったら眠くなるのが手伝って、なかなか本を読む気にならない。
こういうのを老いの繰り言というのだろう。
ここのところ、もう買うのをやめたから、あまりたまらないが…。

人生の時間は有限だ。
そんな当たり前のことがわからないかった。

これから先は、あとさきを考えて行動しないとなあ。



| | 考えたこと | 00:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
2065年
4月に国立社会保障・人口問題研究所が2065年までの人口推計を出した。
2065年というと、今から48年先。
ぼくは間違いなくこの世にいないが、今20代の子供たちのほとんどはまだこの世を見ているだろう。

高齢化がどんどん進むのは既定路線。
2065年には15〜64歳の生産年齢人口は4割減るらしい。
現在が7700万人で、それが4500万人になる。
もちろん総人口も減って、1億2千万から8800万人になる予想だ。
65歳以上の高齢者は現在4人に1人程度の27%だが、それが高いほうの予想では、41.2%、すなわち 2.4 人に1人になるという。
ほとんど2人に1人が高齢者。
男性の平均寿命が83歳、女性は90歳を超える予想だ。

これはすごい数字だ。
どうしたって、生産年齢の人たちが支えられる数字ではない。
2065年には、働ける人は70歳を超えても働かないといけなくなる。
60歳や65歳で定年して、あとは年金で、などと言っておられない。
そうやって、生産年齢人口を増やさないといけない。
厚労省は年金100年安心と言っていたが、この予想を見てもそう言うんだろうか。

日本は戦後奇跡的な高度成長をしたが、あの原因も戦後の人口の増加が大きかったのかもしれない。
GDPが増えるためには、国内の人口は大きな要因だ。
人が増えれば消費も増えるし、生産も増える。
もちろん、技術の進歩や輸出の努力、勤勉な国民性も大きかっただろう。
でも、それだけではなかった。

追いかける立場はまだ楽だ。
先を見て、真似をして頑張ればいい。
そこは日本人は精一杯頑張った。
でも、追いつき、追い越して、追われる立場になってしまった。
それとともに、人口減少し、高齢化の波に追われているのが実情。

高齢化に耐えて、生産を高めるためには、人工知能やロボットの力を借りるしかない。
身体に装着するようなロボットスーツのようなものも入る。
それでどれだけの人が、生産に寄与できるかだ。

世界のトップランナーとして、高齢化社会に突入する日本。
追いつくべき手本もない。
未知の領域に突入する。

日経には成長阻害、と書いてあったが、それをどう乗り越えるのか。
今から考えないといけないぞ。



| | 考えたこと | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
インドの電気自動車
トヨタとホンダについては、痛いニュースがあった。
インド政府が「2030年までに国内で販売する自動車を全て電気自動車に限定する」という。

トヨタとホンダはハイブリッドの時代がもっと長く続くと思っていただろう。
その分、動力がモーターのみの電気自動車の開発は遅れている。
もっとも、スバルやマツダなども同じことだ。
エンジンに依存している会社は「やばい」ということになる。

新興国が電気自動車に走るのは当然だろう。
国内にエンジンやその部品を作っている会社がまだまだ少ない。
これから投資するとしたら、電気自動車になる。
それを促進させよう、という作戦だ。
モーターで走る自動車を作り、インフラを整備し、次のモータリゼーションのメインプレーヤーの一人になれるかもしれない。

この分なら中国も同じような目標を出すかもしれない。
すでに中国は2015年には世界最大の電気自動車市場になり、世界の電気自動車生産の3分の1を担う世界最大の生産国になったらしい。
販売されているEVの40%は2人乗りの3メートル以下の小型車らしいが、そこで生産ノウハウを積めば一大産業になるだろう。
なんせ12億人が住んでいるんだから、需要は大きい。

すでに日本で完成車を作っている会社は、車を作るというノウハウはあるが、一方でエンジンという過去の遺産を清算しないといけない。
これが大変だと思う。
特にトヨタなど、系列を作り、それを最適化するようなヒエラルキーを作ってきた会社などはシンドイだろう。
だから、社内でも「エンジンをどうする」という議論が今でもされているはずだ。

エンジンを作るためには、非常に精密な加工が必要だ。
それができる会社が、エンジンをやめてしまうと廃業せざるを得ない。
その加工の技術を別のところで活かさないといけない。
それらの会社は、現在エンジンの部品を作りながら、どうしようかと模索しているに違いない。

それがロボット産業なのか、飛行機なのか、ロケットなのか、それとも新しいものなのかはわからない。

今働き方改革と言っているが、日本の基幹産業である自動車が今どういう位置づけにあって、何が必要なのか、そのために何を支援するべきか、考えないといけない。
場合によっては、市場からの退場を促進することになるかもしれない。
しかし、それによって新しい仕事が作られるのなら、それも致し方ないと思う。

今必要なのは、これからの日本の産業のデザインだと思う。

少子高齢化の中で、ぼくらの子供が年寄になるころには2人に一人が高齢者ということに近づいていく。

農業はどうあるべきか、ものづくりはどうあるべきか、サービス業はどうあるべきか、そこにITをどう絡めていくのか、そんなことを考えないといけないと思う。

| | 考えたこと | 23:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
中年ニート
OECDの統計では「ニート」というのは「働いておらず、教育や職業訓練を受けていない15〜29歳の男女」ということだ。
その定義では日本のニート率は低く、OECDの平均以下になる。
しかし、中高年のニートということになると、日本は多いということだ。
「失われた20年」に社会に出た人たちが、もう40代〜50代。
それらの人たちの中には、働くチャンスを逸した人も多い。

2016年の調査によると、35〜59歳の“中年ニート”は123万人もいて、統計に表れるニート(15〜34歳)の57万人の2.2倍の規模に達するらしい。
ただでさえ労働力人口が減っているのに、普通なら働き盛りの年代を含めて123万人も「ニート」状態だ。
この中年ニートは2010年から5%増えた。

世の中は人手不足だというが、こんなに働けない人がいる。
みんながみんな、働く気力もなく、働けない人ばかりではないだろう。
でも、無職の期間がどんどん長くなると、あきらめムードにもなる。

ニートからの脱出」というサイトがあって、ずっと読んでいたら、「これは大変だ」と思う。
とにかく、短期のアルバイト(1日のもの)から始めるしかないという感じだ。
新卒の就活でつまづいてしまった時は、きっと来年は何とかなると思っていた人もいるだろう。
そのうち、社会との接触を避け、人と話さなくなり、部屋にこもるようになる。

サイトには「とにかく散歩すること」と書いてあった。

こういう人たちは、まだ親の収入で食っているんだろう。
そういえば、アメリカにはニートはいない、という記事を見たことがある。
原則、18歳になったら親から自活を要求されるというのが伝統らしい。
ニートというのは、日本の家族関係の伝統も尾を引いているのだ。

40代以上は、雇われることはできない、とも書いてある。
つまり、どこかに勤めることはできない、ということだ。
ぼくは幸いにしてそういう人を知らない。
でも、高齢ニートの人は現実に何十万人もいる。

このまま放置はできない。

この人手不足の時に、もったいない労働力だ。
こういう時こそ、公的支援が必要だろう。

尼崎の市議会選挙の時には、誰も言っていなかったが…。


| | 考えたこと | 21:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
イギリスの強さ
ロンドン橋のテロリズムで、1枚の写真が悲しみの中に笑いを誘っているとのこと。
観光地ではビールの値段も高く、避難するために走っている群衆の中に、ビールのジョッキを持って逃げている人が写っていた。
その写真がネット上で広まり、その写真を見てイギリスの人たちが「笑い」で癒やされている、というニュースが出ていた。
確かに、バッグと飲みかけのビールを持って走っている姿は、何ともオカシイ。

なんとロンドン橋近辺では、1杯6ポンド(900円くらい)もするらしい。
それを聞くと、持って逃げたくなる気持ちもわかる。

この写真を見て、イギリスのコメディアンがこう言っていた。
「悲しみや怒りをやめるべきだ。それこそ、テロリストが狙っているものだから。笑って、お前たちは俺達の感情をかえることはできない、このビールを持って逃げる男を止めることはできないんだ。それが自然で健康的な反応だ。」
こういうユーモアの感覚はイギリス人にしみついているらしい。

第2次大戦でイギリスが孤立状態に陥ったとき、新聞の見出しに「ヨーロッパ大陸が孤立した」というような言葉が載った。
本当はイギリスが孤立して困っているのに、そういう見出しを出す。
困ったときにも、それを笑い飛ばす余裕がある。
日本人に欠けているものだろう。

こういう写真が出たら、日本では「それを報道すること自体が不真面目だ」という声が出る。
みんなが悲しんでいるのに、そんな写真を出すな、という風潮だ。

でも、ぼくはこういう写真が出て、笑っているイギリス人の方が強いと思う。

テロリズムは非日常の極致だ。
それに対抗するのは、その反対側の日常だろう。
日常の中にあるものは、笑いだ。

ユーモアこそ、テロに対抗する精神だと思う。


| | 考えたこと | 21:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
メールの効率化
世界のIT企業のトップに位置する会社といえば、グーグル、と答える人が大半だろう。
ユニークな入社試験をやったり、立派なカフェテラスが無料でサービスされたりして、遊び心を大切にしている会社のように見える。
それでいて、人工知能などの技術で世界をリードしている。
そのグーグルではあまり電子メールは使われていないらしい。

会社勤めをしていた2000年当時、メールの量はどんどん増えていた。
自分宛のメール、自分が写しでもらうメールなど、何人もの人からメールが来た。
自分の仕事と直接関係している人の数は、ざっと見積もって50人程度。
その周辺で知っている人がさらに50人程度。
その人たちが直接発信するメールもあれば、その人たちが写しでもらったメールを転送してくれたりする。
夜帰る前にメールチェックして、朝になると未読のメールがある。
昼にかけて、どんどん来る。
メールのチェックで日が暮れる、という状態。

その分、電話は鳴らなくなった。
FAXも激減した。
実際、膨大なFAXをコピーして配布するパートさんもいなくなって、人件費は減った。

ITによる効率化は、そういう進み方をする。
中抜きをしていくのだ。
仕事と仕事の間の処理をなくしていく。

ある時、ぼくらよりももっと大量のメールが届く人と話していたら、その人は差出人で読むメールを決めている、とのことだった。
朝会社に来て、メールを見て、まず読まずに捨てるメールを処理する。
宛であろうが、写しであろうが、構わずに差出人を見て自分が必要と思う人からのメールを残して、他はみんなゴミ箱行き。
そういうやり方をしても、まだまだ何十通も残る…ということだった。

たしかに、部下が増えるほどメールの数は増える。
今までなら紙で送っていたり、電話をしたりしていたことがメールに置き換わった。
紙の時代なら、もったいないから順番に判子を押して回していたような文書も、メールなら同報だ。
社内を飛び交う情報は、見えなくなったが、どんどん増えた。
今はみんなどうしているのかわからないが、メールの処理は大変な仕事になっている。
自分なりの方法で分類して、対処しているんだろう。

しかし、Gメールを開発したグーグルで、メールがあまり使われていないというのには驚いた。
てっきりメールが飛び交っていると思っていた。

グーグルの担当者はメールでいちいちやるのは遅いという。
会議をしたら、共有文書の上に会議をしながら報告書を作っていくらしい。
会議のメンバーがみんなスクリーン上の共有ドキュメントを見ていて、各々書いていくということらしい。
なるほど、それなら会議が終わると同時にみんなが納得できる議事録ができる。

クラウドをどんどん利用して、進捗管理なども共有している文書上で行う。
そうすれば順調に進んでいれば、ミーティングは必要ない。

一つのものをクラウド上で共有することで、問い合わせのメールも減るし、会議も減る。
これがクラウドの力だろう。

また、社内に小さなミーティングができるスペースがあって、そこで会って話ができるようになっているらしい。
それはなぜかというと、「顔を合わせて話すほうが早い」ということだ。
ほんの10分会えば、ムダなメールの長いやり取りなど不要になることも多い、という。
その通りだと思う。

メールは便利だが、手間がかかる。
そのために、社内クラウド上で文書を共有する。
ちょっとした時間でも会って話ができるスペースがある。

なるほど、そういうことか。
仕事でメール疲れをしている人は多いと思う。
それを解決するには、共有文書を作ること、そして、手間を厭わず会って話をすることだ。

メールは持ち帰り文化だという。
それをやめて、その場で解決しようというのがグーグルのやり方。

なかなかエライ。


| | 考えたこと | 00:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
尼崎市市議会選挙結果
昨日の選挙の結果が出た。
ぼくは知らなかったが、尼崎市の市議会の最大多数の党は公明党だった。

公明党が12人、維新の会が7人、自民党と共産党が6人ずつ、社民党が2人、民進党とNHKから国民を守る党が各1人、無所属が7人というのが内訳。

とにかく、公明党は強い。現職8人と新人4人全て当選。それも上位で当選だ。
民進党は悲惨だ。一人だけ。だいたい、民進党の候補者が出ていない。
自民党は現職4人と新人1人が落選。落選の現職2人は80歳以上だから、仕方ないというところか。
そのうち一人は87歳だから、落とした市民はまっとうだと思う。
おかげで、当選候補の平均年齢は54歳になった。
しかし、安倍政権の支持率から考えると、自民党はもう少し当選してもいいと思うが、それとこれとは違うんだろう。
自公の政権は公明党に負っているのかもしれない。

NHKから国民を守る党から1人当選したのはビックリだ。
やっぱり、いちばん一生懸命選挙を戦っていたという事実が、人を動かしたのかもしれない。

トップ当選が5106票、最下位当選が2083票。
41名は多すぎるのではないか。
これといった争点もないし、無風と言ってもいいような静かな選挙だった。
これでは投票率42%も致し方ない。

選挙に行っても行かなくても、別に変わらないと思う人が多いから、投票率が低くなる。
議会が何を目指すのか、あれだけ国政で揉めている人たちが、お互いに市政に関しては何の争いもないように見える。

これでは地方が落ちぶれていくのも当たり前だ。

とりあえず、市議会当選の方々は頑張ってほしい。

当選者の面々は以下。

当選 5,108票 福島 さとり 52 公明党 現 尼崎市議会議員
当選 4,770票 光本 圭佑 37 日本維新の会 現 尼崎市議会議員
当選 4,489票 土岐 良二 48 公明党 現 尼崎市議会議員
当選 4,311票 中尾 健一 52 公明党 新 無職
当選 4,307票 広瀬 若菜 37 日本共産党 新 日本共産党専従職員
当選 4,078票 東浦 小夜子 55 公明党 新 無職
当選 4,064票 真鍋 修司 53 公明党 現 尼崎市議会議員
当選 4,053票 蛭子 秀一 55 公明党 新 無職
当選 4,006票 藤野 勝利 54 公明党 新 無職
当選 3,899票 開 康生 59 公明党 現 尼崎市議会議員
当選 3,814票 前迫 直美 59 公明党 現 尼崎市議会議員
当選 3,776票 真田 泰秀 52 公明党 現 尼崎市議会議員
当選 3,764票 杉山 公克 59 公明党 現 尼崎市議会議員
当選 3,759票 安田 雄策 64 公明党 現 尼崎市議会議員
当選 3,678票 明見 孝一郎 46 民進党 現 (株)クボタ社員
当選 3,650票 須田 和 60 無所属 現 尼崎市議会議員
当選 3,475票 北村 保子 76 自由民主党 現 学校法人からたち幼稚園園長
当選 3,349票 真崎 一子 59 日本共産党 現 尼崎市議会議員
当選 3,182票 丸岡 鉄也 57 自由民主党 現 自営業(自動車整備業)
当選 3,179票 西藤 彰子 49 日本維新の会 新 無職
当選 3,016票 小村 潤 41 日本共産党 新 日本共産党尼崎地区委員会職員
当選 2,953票 辻 信行 46 日本維新の会 新 日本維新の会尼崎市政対策委員
当選 2,790票 小西 逸雄 44 自由民主党 新 小西学建設工業(株)取締役
当選 2,780票 武原 正二 39 NHKから国民を守る党 新 無職
当選 2,731票 佐野 剛志 45 自由民主党 新 (株)Izox代表取締役社長
当選 2,715票 松沢 千鶴 62 日本共産党 現 尼崎市議会議員
当選 2,648票 徳田 稔 69 日本共産党 現 尼崎市議会議員
当選 2,643票 別府 建一 50 日本維新の会 新 (株)ランドビルド代表取締役
当選 2,509票 山崎 憲一 50 無所属 新 無職
当選 2,485票 岸田 光広 50 自由民主党 現 尼崎市議会議員
当選 2,409票 林 久博 53 無所属 新 飲食店Qくらぶ代表
当選 2,387票 川崎 敏美 63 日本共産党 現 尼崎市議会議員
当選 2,378票 綿瀬 和人 40 社会民主党 現 尼崎市議会議員
当選 2,315票 酒井 一 66 無所属 現 尼崎市議会議員
当選 2,297票 都築 徳昭 64 無所属 現 尼崎市議会議員
当選 2,262票 上松 圭三 70 無所属 現 (株) 尼崎米類酒販取締役
当選 2,249票 宮城 あや 53 社会民主党 現 尼崎市議会議員
当選 2,094票 北村 章治 55 無所属 現 関西電力(株)社員
当選 2,092票 久保 高章 56 日本維新の会 現 (株)栄和代表取締役社長
当選 2,091票 波多 正文 69 自由民主党 現 浄土真宗本願寺派正光寺住職
当選 2,084票 安浪 順一 61 日本維新の会 元 (株)西日本テクノ取締役
当選 2,083票 楠村 信二 48 日本維新の会 現 尼崎市議会議員







| | 考えたこと | 22:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
尼崎市議会選挙
今日は尼崎の市議会選挙だった。
夕方投票所に行ったが、国政選挙に比べてガランとしていた。
数人が投票所の前にあるポスターで、投票する人の名前を決めていた。
見ていた人は、どこの党に属しているか、ということで探していた。
ぼくも同じく、そうした。

以前に比べて、選挙のビラも少なく、選挙カーもほとんど見なかった。
毎日駅のロータリーのところで朝夕誰かがボソボソを話していただけだ。

見ていると、せっかくの市政選挙だから、尼崎市にはこういう問題があるとか、こういう施策が必要だとか、どこに意見の対立があるのか、どういう問題があるのか、そういうことを知らしめるチャンスなのに、その類の話は全く聞こえない。
聞こえてきたのは国政の話。
少なくとも、そんなことは市政には関係ない。
それを訴えても、市議会で変えることなどできないからだ。

速報によると有権者数38万人に対して、投票者数が16万人。投票率が42%ということだ。
尼崎市では昭和の時代まで、50%を超えていたが、平成になってからは半分に満たない。
ここのところ、ずっとそうだ。
時代的には、景気が悪くなってからのほうが、投票率が低い。

地方では首長が未投票で決まるところもある。
地方自治はどうなっているんだろうか。

国政であれだけ対立している野党だが、対立している雰囲気ではない。
市政の問題点すら見えない。
議員のみなさんは尼崎市をどうしていきたいのか、もっと訴えたくないのだろうか。
待機児童や産業の育成、教育など、問題点はいろいろとあると思う。
どこに、どんな問題がある、というのを明らかにするのも市議会議員選挙の役割だと思うのだが、そうでもないらしい。
投票率が上がると、自分の身が危なくなると思って、波風を立てようとはしないのか、と勘ぐりたくなる。

そういえば、NHKから国民を守る党だけは、聴取料の不払いを必死で訴えていた。
なんでその一点で党まで作るのか、わけがわからなかったが…。

61人立候補して42人が通る。
結果はどうなるのだろうか。

候補者はこんな人たちだった。

安田 雄策 64 男 公明党公認 現 尼崎市議会議員
安浪 順一 61 男 日本維新の会公認 元 (株)西日本テクノ取締役
開 康生 59 男 公明党公認 現 尼崎市議会議員
丸岡 鉄也 57 男 自由民主党公認 現 自営業(自動車整備業)
丸山 孝宏 55 男 自由民主党公認 現 丸山酒販(株)代表取締役社長
岸田 光広 50 男 自由民主党公認 現 尼崎市議会議員
久保 高章 56 男 日本維新の会公認 現 (株)栄和代表取締役社長
宮城 あや 53 女 社会民主党公認 現 尼崎市議会議員
光本 圭佑 37 男 日本維新の会公認 現 尼崎市議会議員
広瀬 若菜 37 女 日本共産党公認 新 日本共産党専従職員
弘中 信正 64 男 無所属 現 尼崎市議会議員
高岡 一郎 80 男 自由民主党公認 現 尼崎市議会議員
佐藤 貴志 53 男 日本共産党公認 新 日本共産党尼崎市地区委員会職員
佐野 剛志 45 男 自由民主党公認 新 (株)Izox代表取締役社長
山崎 憲一 50 男 無所属 新 無職
寺坂 美一 41 男 無所属 現 尼崎市議会議員
寺本 初己 87 男 自由民主党公認 現 尼崎市議会議員
酒井 一 66 男 無所属 現 尼崎市議会議員
小西 逸雄 44 男 自由民主党公認 新 小西学建設工業(株)取締役
小村 潤 41 女 日本共産党公認 新 日本共産党尼崎地区委員会職員
松岡 洋司 46 男 無所属 新 松岡紙工従業員
松沢 千鶴 62 女 日本共産党公認 現 尼崎市議会議員
松田 光夫 71 男 幸福実現党公認 新 無職
上松 圭三 70 男 無所属 現 (株) 尼崎米類酒販取締役
上村 富昭 66 男 自由民主党公認 現 尼崎市議会議員
森村 さやか 56 女 無所属 新 無職
真崎 一子 59 女 日本共産党公認 現 尼崎市議会議員
真田 泰秀 52 男 公明党公認 現 尼崎市議会議員
真鍋 修司 53 男 公明党公認 現 尼崎市議会議員
須田 和 60 女 無所属 現 尼崎市議会議員
杉山 公克 59 男 公明党公認 現 尼崎市議会議員
西藤 彰子 49 女 日本維新の会公認 新 無職
川崎 敏美 63 男 日本共産党公認 現 尼崎市議会議員
前迫 直美 59 男 公明党公認 現 尼崎市議会議員
中川 景太 31 男 無所属 新 (株)東京リーガルマインド講師
中村 聡 40 男 無所属 新 (株)オレンジペコ−代表取締役
中尾 健一 52 男 公明党公認 新 無職
長崎 寛親 48 男 日本維新の会公認 現 尼崎市議会議員
津田 加寿男 62 男 自由民主党公認 現 尼崎市議会議員
辻 信行 46 男 日本維新の会公認 新 日本維新の会尼崎市政対策委員
田中 淳司 42 男 無所属 現 尼崎市議会議員
田中 文三 39 男 無所属 新 合同会社W&SUN代表
都築 徳昭 64 男 無所属 現 尼崎市議会議員
土岐 良二 48 男 公明党公認 現 尼崎市議会議員
東浦 小夜子 55 女 公明党公認 新 無職
藤野 勝利 54 男 公明党公認 新 無職
徳田 稔 69 男 日本共産党公認 現 尼崎市議会議員
楠村 信二 48 男 日本維新の会公認 現 尼崎市議会議員
波多 正文 69 男 自由民主党公認 現 浄土真宗本願寺派正光寺住職
樋口 孝平 45 男 無所属 新 司法書士
蛭子 秀一 55 男 公明党公認 新 無職
武原 正二 39 男 NHKから国民を守る党公認 新 無職
福永 展己 53 男 自由民主党公認 新 福永政治経済研究所(株)代表取締役社長
福島 さとり 52 男 公明党公認 現 尼崎市議会議員
別府 建一 50 男 日本維新の会公認 新 (株)ランドビルド代表取締役
北村 章治 55 男 無所属 現 関西電力(株)社員
北村 竹師 66 男 無所属 現 尼崎市議会議員
北村 保子 76 男 自由民主党公認 現 学校法人からたち幼稚園園長
明見 孝一郎 46 男 民進党公認 現 (株)クボタ社員
綿瀬 和人 40 男 社会民主党公認 現 尼崎市議会議員
林 久博 53 男 無所属 新 飲食店Qくらぶ代表
| | 考えたこと | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
みをつくし料理帖
土曜日にやっているNHKの時代劇を見ている。
今のシリーズは「みをつくし料理帖」というドラマ。
ヒロインは黒木華。
この人は、地味な顔だが役どころがハマるといい味を出す。

大阪から出てきたヒロインが、江戸で小さな料理屋で料理人として健闘する。
わりと大阪弁が上手だと思ったら、大阪出身だった。

「料理は料理人の器量しだいや」という心意気がいい。
今日は「みつば」を使ったお膳を考案していた。

バックの音楽もいい。
ちょっとディキシー風の、クラリネットやサックスをフィーチャーした音楽。
今までの時代劇とはちょっと違う。

一時は地上波から時代劇は消えたが、高齢化を反映してかまた少しずつ戻ってきた。
ぼくは時代劇が好きだ。
現代劇だと、いろんなややこしい状況が考えられるが、時代劇ならシンプルだ。
スマホも電話も電報もラジオもテレビもパソコンもない。
庶民が情報を伝えるのも知るのも口伝えだ。
世間は狭いし、人間関係は限られる。
動向を知ろうと思ったら、後をつけるしかない。
SNSもメールもない。

そういう中のドラマは、シンプルな人間模様だ。
現代はややこしくなりすぎた。

調べてみると、みをつくし料理帖は文庫で全10巻だった。
読んでみたい。

明日ブックオフに行ってみよう。


| | 考えたこと | 22:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
勉強ができる子ども
知らなかったが、去年の12月に「勉強できる子卑屈化社会」という本が出ていた。
著者の前川ヤスタカ氏は現在上海在住のビジネスマンで、インターネットでいろんなものを発信している物書きとのこと。

その人が自身の著書に関して書いてある記事を読むと、なるほど、そうかもなあ、と思わされる。

著者が問題としているのは、スポーツや音楽のできる子は素直に「すごいね」と言われるのに、勉強ができる子に対してはみんなが素直に「すごいね」とは言えないという風潮。
特にテレビがそういう情報を発信しているという。

芦田愛菜という子役が、名門中学に合格したときに「勉強させられて可哀想。親の言いなり可哀想。」という声が上がった、という。
著者は、勉強ができる子は、できれば楽しい、楽しいからやる気になるという天使のサイクルを回しているだけで、「させられている」という批判は当たらないと反論している。
「勉強は無理やりやらされるもの、スポーツは自主的にやるものというイメージがついてしまっていますが、そうではないのです。」ということだ。

テレビがいつまでも「勉強のできる優等生」をバカにし続けることで、勉強ができることに罪悪感を覚える子供が出てくる、逆学歴差別、というものがあるという。
だから、勉強ができると肩身が狭い、という状況ができた。
挙句の果てに、「学業は学生の本分。それを頑張っているにもかかわらず、「勉強できても将来役に立たないぞ」「勉強できるのと頭がいいのは違うぞ」と聞き飽きた忠告をしてくる大人がたくさんいます。」とのこと。
さすがに、こうなると問題だろう。

自分を振り返っても、たしかに、そういう感じはあったかもしれない。
「ガリベン」という言葉がある。
もう、死語になっているのかもしれない。
ネットによると、受験戦争という言葉が消えたと同時に、ガリベンも消えたということだ。

この「ガリベン」という言葉は、どちらかというと蔑称だった。
あいつは「ガリベン」や、と言われると、勉強ばっかりしているからダメ、というニュアンス。
そう言われるのがイヤだから、わざと勉強していないようにふるまうというのは、ぼくの世代、みんなの心にあったと思う。

遊びに誘われて、「勉強しなあかんから」というのは禁句。
どちらかというと、遊んでいるのに成績がいい、というのが理想だとみんな思っていた。
だから、そういう時は、なんやかや言い訳を考えていたような気がする。
そういう美学があった。

たしかに、テレビの学園ものなどもそうだった。
ラグビーやサッカーでチームプレイをすることこそが、「青春」だということだ。
日本人にそういう「ガリベン=かっこ悪い」という認識があったんだと思う。
そして、そういう勉強を第一にやる子を「勉強ばっかりする」ということだけで、バカにする風潮はあったと思うし、ぼくもその片棒を担いでいたと思う。

著者が問題にしているのは、まさにそういう「先入観」なのだ。
小林よしのりが書いていた、「東大一直線」というマンガも、その価値観の上にあった。
だから、こういう価値観はもう50年以上続いているのだと思う。
そこにこそ、問題があるということだ。

筆者は「先述したようなドラマやバラエティでの悪意あるステレオタイプ描写だけでなく、「正月返上で白球を追う野球少年の汗は美しいとされる一方、必勝のハチマキをしめて正月返上で勉強する子は可哀想」というような印象も、テレビや雑誌が紋切り型に提供し続けてきたものです。このような手垢のついたイメージはもう脱するべきだと思うのです。」という。

そうかもしれない。
言われてみれば、その通り。

しかし、この先入観の元は何なんだろう。
そこを突き止めないと、一朝一夕には解決しない問題だと思う。
何でスポーツは練習ばかりして上手くなってスゴイと思われ、勉強はダメなのか。

記事の中にこうある。

「メディアが振りまく勉強に対するネガティブな印象や誤解は、世の中に蔓延し、勉強を頑張っている子の心を少しずつ削ります。」

何で勉強だけ、特別なんだろうか…。






| | 考えたこと | 00:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本の問題
こないだBSでやっていた番組で、統計の数字が出ていた。
2000年対比でみると、日本の今の勤労者世帯の可処分所得は、50万円以上減っている。
全世帯の消費支出を見ても、40万円以上の減少だ。
使えるお金が月に4万円ほど減っている。

もちろん、全世帯平均だから凸凹はあるだろう。
しかし、この十数年で非正規の労働者が増えていることを考えると、その影響は大きいと思う。
だから、どちらかというと若い世代の世帯の減り代が大きくなっているんだろう。
その証拠に、子どもの貧困率は今や6人に1人だという。
若い人はどんどん貧しくなっていっている。

衣食住の消費の中味を見ると、圧倒的に減っているのが「衣」だ。
月額32%(5032円)も減っている。
着るものは安くなった。
ユニクロやしまむらというような店ができた。
靴やスーツも専門店で買うと安い。
今やブランド品の衣料などはよほどのことがなければ買わない。
それまで主な購買者であった、若い人たちも無理をしない。

「住」が18%(4506円)、「食」が4%(2087円)の減少。
やっぱり食べるものは、そんなに減らせない。
本は通販にかなり販売を取られたが、食品スーパーはなくならない。

小遣いや交際費が33%(23492円)の減少。
法人の交際費も減っているから、飲み屋がどんどん大衆的になった。
座っただけで何万円というような、法人相手の店は多くは店じまいしたんだと思う。
会社の宴会でも、二次会はカラオケボックスで、というようなところも増えた。
財布の中味が少なくなったから、仕方がない。
それ自体は悪いことではないが…。

さらに、教育や娯楽関連費が18%(10191円)減った。
義務教育が劣化した分、塾にはお金がかかる。
少なくとも貧困で6人に1人は塾に行けないのだろう。

デフレというのは、そういうことの結果だと思う。
値段が安くないと買わない、ということだ。
もちろん、将来に対する不安もあるとは思うが…。

幸い日本は少子高齢化、人口減少で需要は減少している。
供給能力はグローバル化等で変わらないから、モノが溢れて安くなるのはマクロ経済学の基本だ。

日銀は長らくゼロ金利を続け、金融緩和しているが、そんなことをしても対策にならない。

いつになったら、第三の矢は放たれるんだろうか。
規制を緩和して、既得権を潰し、若い人たちが自由に経済活動できるようにしていかないと、手遅れになるぞ。



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