考えたこと2

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名探偵のコーヒーのいれ方
名探偵のコーヒーのいれ方 クレオ・コイル ランダムハウス講談社

マンハッタンのコーヒーハウス、「ビレッジブレンド」が舞台。
主人公はこの店のマネージャー、クレア・コージー。以前の夫がコーヒー豆の買い付けに世界を飛び回っている。
その夫の母親がビレッジブレンドのオーナーである。

主人公がニュージャージーから、このマンハッタンに戻ってくるところから、物語は始まる。

ミステリとしてはさほどこみ入ったものではないが(充分に楽しめるけど)、とにかくコーヒーについて語られるところが魅力的な本。

出てくるコーヒーの種類も豊富。

ギリシャ・コーヒー、トルコ・コーヒー、ダブル・エスプレッソ、ダブル・トールラテ、トリプル・エスプレッソ、グランデ・イタリアンロースト、カプチーノ、モカチーノ、スキニー・ヘーゼルナッツ・キャップ、カフェ・カラメル、カフェ・キスキス、アメリカーノ、グランデ・スキニー、モカミント・キャップ、バニラ・ラテ、モカ・ボッチ…。

読んでいると、コーヒーが飲みたくなることは間違いない。

コーヒーハウスにたちこめる、あのにおいが漂ってくるようだ。

「カウンターのむこうから見ると、いともかんたんそうに見える。けれどグルメコーヒーをつくる人のうち、どのくらいの人が知っているのだろうか。エスプレッソひとつとっても、品質を左右する要素は四十以上もある。たとえばエスプレッソマシンの汚れ、コーヒーの粉の量、粒子の大きさ、粉を押し固めたときの密度、その形、吸水量、水質、水圧、水温、抽出時間。これ以外にも完璧なエスプレッソの抽出を阻もうとする要素はおよそ三十ある。」

「エスプレッソを抽出するとき、わたしはコーヒー豆をうんと細かく挽いてフィルターにできるだけ固く押しこむ。こうすれば抽出のスピードを抑えることができる。噴出口からエスプレッソがジャーッと流れ出ることはなく、たとえていうと、熱いハチミツが”たらたら”こぼれるように出てくる。この液体には粉末状のコーヒーから抽出された油分だけが溶けている。これに対し、ふつうにいれたコーヒーには、単に成分が溶け出しているだけ。
 質の高いエスプレッソというからには、エスプレッソマシンからたらりたらりと出てくる美しい赤褐色のクレマだけで構成されているべきだ。クレマとはコーヒーが泡だったもの。うまく抽出されたエスプレッソになるかどうかを左右する最大の決め手となるのが、このクレマだ。粉状のコーヒーから油分が抽出されていないものは、エスプレッソとはいえないのだ。」

今日、この本に載っているレシピにしたがって、オレンジスライスとシナモン、ホイップクリームを使ったコーヒーを作ったが…。
やはり、プロに任せないと、おいしいコーヒーは飲めないのかもしれない。

コーヒー好きの人にはオススメのミステリです。


| | | 23:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
ぼくらの時代
なぜかはわからないけれど、時々頭の中に流れる歌がある。
誰しもいくつかのレパートリー?があるのだろうが、最近よく頭の中で流れるのは、オフコースの「ぼくらの時代」という歌。

リフレインの部分の歌詞が、

 もうそれ以上そこに立ち止まらないで
 ぼくらの時代が少しずつ今も動いている

というもの。

あまりはやった歌ではないのだが、どういうわけかこの歌はよく覚えている。
リフレインのあと、最初はこんな歌詞だ。

 あの頃に戻ってやり直したいこと
 誰にでもそれぞれ心の中に

 時は移りゆくもの明日を見つめて
 あの頃は時々ふりむくだけにして

この歌は、小田和正が古い世代に向けて作った歌のように見える。
ずっとそう思ってきた。
こんな歌詞が続く。

 あなたの時代が終ったわけでなく
 あなたがぼくたちと歩こうとしないだけ

 ああ 心を閉じて背を向けるひとよ
 ぼくらのことばに耳を傾けて

今になって、この歌の「あなた」は同世代のことだろう…と思うようになった。
この頃、若者の「しらけ」が言われていた時代だった。
しらけてないで、頑張ろう…という意味だったのかもしれない。
作られたのは1980年だから、今から27年前。小田和正が30代の前半である。
もう学園紛争も落ち着いて、あれは一体何だったんだろう…という世相だったと思う。

いったい何をしてきたのか…という思いの中で、「あの頃」にとらわれず、明日を見つめて、自分の信じる道を行こう、という歌だったのだろう。

今になって、ようやくわかった。

まだしばらくは頭の中で流れていると思う。






| | 音楽 | 20:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
行くべきか、行かざるべきか
子供のつき合いで、99年からずっと名探偵コナンの映画を見てきた。
この映画シリーズ、けっこう面白くて、楽しめる。

「世紀末の魔術師」というのが最初に見た映画だった。
怪盗キッドという仇役(というか、もう一人の主人公)が出てきて、けっこう面白かった。
それ以降、毎年4月の終わりになると、土曜日か日曜日の朝早く起きて、1回目の上映を見に行くというのが年中行事になった。

回を追うごとに、凝ったシーンが出てくるようになった。
3次元のアニメーションも使われるようになると同時に、コストダウンのためか、タイトルバックに中国の制作者が入るようになった。
コンピューターで描くようになって、設備さえあればどこででも品質を保って作れるようになったということだろう。
アニメーションというモノは、すごく労働集約的な産業で人手がないと作れないから、グローバルにアニメーターを広げていかないとコストが下げられない…何となく悲しい状況だが、そんな世相も映しながら8本の作品を毎年見てきた。

ところが、今年は次男も中学2年になり、友達と見に行くという。
長男は、もう見に行くこと自体、どうしようかな…という感じである。

ということは、見に行きたいなら、一人で行かないと…ということになってきた。
ビデオになってから、見たらいいというようなものだが、何となく見に行きたい気持ちがある。

鉄腕アトムに始まり、鉄人28号、スーパージェッター、おばけのQ太郎、W3(ワンダースリー)、ビッグエックス、リボンの騎士、パーマン、忍者ハットリ君、ジャングル大帝…数えればきりがないほど、アニメを見てきた。
小学校の頃からのアニメファンである。

マンガは中学校の途中で全く興味がなくなり、それ以来ほとんど買ったこともないし、読まなくなった。しかし、アニメは一緒になってみてしまう。ハウス名作劇場、こちら亀有公演前派出所、ちびまるこちゃん、あたしンち、クレヨンしんちゃんなど…。

最近、アニメが減って、残念である。下らないバラエティばかり増えてきた。アニメの方がよほどマシだ。

というワケで、今年は名探偵コナンの映画「紺碧の棺」、もう封切られたがどうしよう…。

行くべきか、行かざるべきか…。

子供には、オトナ一人で行ったら、変なヤツやと思われるで…と言われているのだが。



| | 考えたこと | 23:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
トルコ行進曲の謎
知っている曲なのに、わからないということがある。

こないだ、ギターの先生が指の訓練用に譜面を書いてくれた。
旋律自体はそんなに複雑ではない。
先生に合わせて、譜面を見ながら弾いた。
どこかで聞いたようなメロディだが、なるほど指の訓練にはいいかな、という曲だ。

何度か弾いて練習したが、何の曲かはわからなかった。

ところが、先生が最終的にはこんな感じで…と言いながら速く弾いたら、突然それがトルコ行進曲の一節であることがわかった。

「あれ、これはトルコ行進曲ですね。」

「そうそう。これは速く弾かないと、トルコ行進曲に聞こえないから、速く弾く気になる練習曲です。」

なるほど、たしかに速く弾くとちゃんとトルコ行進曲になるのに、普通に弾くと全くわからない。

家に帰って、子供に聞かせたが、全くわからなかった。
トルコ行進曲だ、と言って弾いても、ぼくの弾く速さでは全くトルコ行進曲の一節には聞こえないとのこと。

よくできた練習曲だ…と感心した。

ぼくが小学生の頃、ウチの目覚まし時計が鳴らしていたのが、トルコ行進曲だった。
毎朝、トルコ行進曲のオルゴール音が鳴っていた。
数年間、ほぼ毎日聞いていたのに、速さが変わると全くわからなくなるのだ。

曲のテンポを変えると、わからなくなる曲というのがあるのだろうが、これほどわからない曲はないと思う。

その理由はわからない。

モーツァルトはわかって作ったのだろうか…??



| | 音楽 | 00:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
経営者の条件
経営者の条件 P.F.ドラッカー ダイヤモンド社

ダイヤモンド社からは以前しつこく通信教育の勧誘を受けて、こんな会社のものは二度と買わないと思ったのだが、どうしても読みたかったので仕方なく買ってしまった。
ドラッカーの入門書としては最も基本的なものとのこと。

「普通のマネジメントの本は、人をマネジメントする方法について書いている。しかし本書は、業績をあげるために、自らをマネジメントする方法について書いた。」

とまえがきに書かれている。

章立ては、

第1章 成果を上げる能力は修得できる
第2章 汝の時間を知れ
第3章 どのような貢献ができるか
第4章 強みを生かせ
第5章 最も重要なことから始めよ
第6章 意志決定とは何か
第7章 成果を上げる意志決定とは何か
第8章 成果を上げることを修得せよ

となっている。なじみのない人には、見るからに面白くなさそうな本に見えるだろう…。

でも、ドラッカーの面白いところは、誰が読んでも納得できるやさしい書き方をしているところだと思う。
主に組織のことについて書いているが、それは普遍性のあるものであり、別に組織のマネジメントいうようなことに関わっていない人でも、読むことで頭がスッキリする。
実例に裏打ちされた内容が大半であり、読んでしまうと当たり前のことだと思える。
だが、その当たり前のことをわかるように書く、というのがすごいことだ。

「知力や想像力や知識は、あくまでも基礎的な資質である。それらの資質を成果に結びつけるには、成果をあげるための能力が必要である。知力や想像力や知識は、成果の限界を設定するだけである。」

なるほど…と思う。実際、たくさんの優秀な官僚が、驚くほど愚かなことをやってきたという実例を見ても、この言葉は当たり前だと思う。
しかし、それをこんな風に明確に書けるというのはすばらしい。

まず、何が成果かということだ。

「医者は、自らの態勢を整え、仕事を組織化する能力において、特に優れているわけではない。しかし、成果をあげることに大きな困難を感じる医者は、ほとんどいない。」

患者の病気を治すことが成果であることがハッキリしている、病院やクリニックは、成果が明確だという。

「医者の場合には、仕事の流れに身を任せることが正しい。入ってきた患者に「どうしました」と聞く医者は、自分の仕事に関係のある答えを期待できる。「眠れません。三週間も寝つきが悪いんです」という訴えが、優先して取り上げるべき問題を教えてくれる。診察ののち、その不眠症が、はるかに深刻な病気の症状の一つにすぎないと判断した場合でも、何はともあれ、何日かぐっすり眠れるよう処置してやることができる。
 しかし、エグゼクティブに対しては、日常の仕事は、ほとんどの場合、本当の問題どころか、何も教えてくれない。医者にとって患者の訴えが重要となるのは、それが患者にとって重要な問題だからである。これに対し、エグゼクティブは、はるかに複雑な世界と対峙している。何が本質的に重要な意味をもち、何が派生的なものにすぎないかは、個々の事象それ自体からは、知る由もない。
 症状についての患者の話が、医者の手がかりになるのに対し、個々の事象は、エグゼクティブにとって問題の徴候ですらないかもしれない。
 したがって、日常の仕事の流れに任せて、何を行い、何に取り組み、何を取り上げるかを決定していたのでは、日常業務に自らを埋没させることになってしまう。たとえ有能であっても、いたずらに自らの知識と能力を消費し、あげることのできた成果を捨てることになってしまう。
 エグゼクティブに必要なものは、本当に重要なもの、つまり貢献と成果に向けて働くことを可能にしてくれるものの判断の基準である。しかし、そのような基準は、日常の仕事の中からは見いだせない。」

目の前の仕事をするだけは、成果をあげるために何をしたらよいのかわからない…というのは、多くの組織で起こっていることだと思う。
多くの場合は、「何をしたらよいのかわからない」と思うことすら難しいことになっているだろう。

組織というとたいそうに聞こえるが、何人かのメンバーで何かをしようとしている団体なら、どこでも当てはまるし、自分が管理者であろうとなかろうと、ここに書かれているような問題は存在する。

「しかも、組織の内部には、成果は存在しない。すべての成果は、外部の世界にある。」

「根本的な問題は、組織にとって最も重要な意味を持つ外部の出来事が、多くの場合、定性的であり、定量化できないというところにある。それらはまだ、いわゆる「事実」にはなっていない。「事実」とは、つまるところ、だれかが分類し、レッテルを貼った出来事のことである。
 定量化のためには、概念がなければならない。そして、無限の出来事の集積から特定の出来事を抽出し、名称をつけ、数えなければならない。」

そのとおりだと思う。
ここでも、読んだ後で当たり前だと思うことが書かれている。
しかし、読む前には、そのことを当たり前だと思うことすら難しい。
そこに、読んだら頭がスッキリする、という「ドラッカー効果」がある。

「コンピュータは論理の機械である。まさにそれが強みであって、同時に限界である。外部の重要な事象は、コンピュータやなんらかのシステムが処理できるような形では、把握できない。しかし、人間は、特に論理的には優れてはいないが、知覚的な存在である。そしてまさに、それが強みである。」

成果をあげるために身につけるべき習慣は…

1.何に自分の時間がとられているかを知ること。
2.外部の世界に対する貢献に焦点を当てること。
3.強みを基準に据えること。
4.優れた仕事が際だった成果をあげる領域に、力を集中すること。
5.最後に成果をあげるよう意志決定を行うこと。

これが、この本に書かれていることである。

「よくマネジメントされた組織は、退屈な組織である。そのような組織では、真に劇的なことは、昨日の尻ぬぐいのためのカラ騒ぎではない。それは、明日をつくるための意志決定である。」

本当にそのとおり!
騒ぎが起こるような仕事はヨクナイのだ。
お祭りと意識してやるなら良いが、騒ぎが起こり、うまく収拾できたら、それを成果とするような組織がたくさんあると思う。
本当は、騒ぎが起こらないことが第一なのだ。

「いかに地位や肩書きが高くとも、努力に焦点を合わせたり、下に向けての権限を重視する者は、他の人間の部下であるにすぎない。これに対し、いかに若い新入りであろうとも、貢献に焦点を合わせ、結果に責任を持つ者は、最も厳格な意味において、トップマネジメントである。組織全体の業績に責任を持とうとしているからである。」

人事についても、うならせるようなことが書かれている。

「他人に成果をあげさせるためには、決して、「彼は私とうまくやっていけるか」を考えてはならない。「彼はどのような貢献ができるか」を問わなければならない。また、「何ができないか」を考えてはならない。常に「何を非常によくできるか」を考えなければならない。特に人事では、一つの重要な分野における卓越さを求めなければならない。」

これは、できるようで、なかなか出来ないことだと思う。
特に、日本のような合意形成型の気持ちが強い組織では、難しいだろう…。

人事考課のところで、トップの重要性が書かれている。

「部下、特に頭の切れる野心的な若い部下は、力強い上司をまねる。したがって、組織において、力強くはあっても腐ったエグゼクティブほど、ほかのものを腐らせる者はいない。
 そのような人間は、自分の仕事では成果をあげることができるかもしれない。ほかの人間に対し影響力を与える力のない地位におくならば、害はないかもしれない。しかし、影響力のある地位に置くならば破壊的である。
 これは、人間の弱みがそれ自体、重要かつ大きな意味をもつ唯一の領域である。
 人間性や品性は、それ自体では何もなしえない。しかし、それらがなければ、他のあらゆるものを破壊する。したがって、人間性や品性のかかわる欠陥は、単に仕事上の能力や強みに対する制約条件であるにとどまらず、それ自体が、人を失格にしてしまうという唯一の弱みである。」

この部分は、非常に主観的な表現だが、トップの重要性のうち、大きなものだと思う。
一つの分野における卓越さというものとのバランスということが、現実的には問題になると思う。

政府のような機関がやっていることについて、こんなことが書いてある。

「あらゆる計画は、急速にその有用性を失うものであり、したがって、生産的であり必要であることが証明されないかぎり、必ず破棄されなければならないという考え方こそ必要とされている。さもなければ、政府は、規則や規制や書式によって社会を窒息させつつ、自らの脂肪によって自らを窒息させてしまう。」

もちろん、政府機関だけに言えることではないが、どこにでも多かれ少なかれ「前例主義」というものがあるだろう。
それに対する警鐘だと思う。

意志決定のところには、こんな言葉ある。

「何が受け入れやすいか、また何が反対を招くからいうべきではないかを心配することは無益であって、時間の無駄である。心配したことは決して起こらず、予想しなかった困難や苦情が突然、ほとんど対処しがたい障害となって現れる。換言するならば、「何が受け入れやすいか」という問いからスタートしても、何も得るところはない。
 それどころか、通常、この問いに答える過程において、重要なことを犠牲にし、正しい答えはもちろん、成果に結びつきうる答えを得る望みさえなくしてしまう。」

この言葉は耳が痛い。
合意を形成することだけが目的になってしまっている会議がいかに多いか…。
問題を解決するためにやっているはずなのに、合意さえ形成されればよいというヤツだ。
国会の議論なども、ほとんどがそうなってしまっているのではないか…。

コンピュータの発達と、現場主義の重要性についても、書かれている。

「コンピュータの到来とともに、このことは、ますます重要になる。意志決定を行う者は、行動の現場からさらに遠く隔てられることになるからである。彼らは、自ら出かけていって、自らの目で行動の現場を見ることを当然のこととしないかぎり、ますます現実から遊離することになる。
 コンピュータが扱うことのできるものは抽象である。抽象されたものが信頼できるのは、それが具体的な現実によって確認されたときだけである。この確認がなければ、抽象は人を間違って導く。
 自ら出かけていって、自らの目で確かめることは、意志決定の前提となっていたものが有効であるか、それとも、それらが陳腐化しており、意志決定そのものについて再検討の必要があるかどうかを知るための、唯一の方法ではなくとも、少なくとも最良の方法である。」

現地現物主義…大事な言葉だと思う。なつかしい言葉だ…。

そして、意志決定の際の「事実」と何かについて、すごい言葉で書いてある。

「意志決定は判断である。それは、選択肢からの選択である。しかし、意志決定が、正しいものと間違ったものとの選択であることは稀である。せいぜいのところ、ほとんど正しいものと、おそらく間違っているものとの選択である。
 それよりもはるかに多いのは、一方が他方よりも、おそらくかろうじて正しいということさえいえないような二つの行動からの選択である。
 意志決定に関する文献のほとんどは、「まず事実を探せ」という。しかし成果をあげる意志決定を行うエグゼクティブは、事実からスタートなどできないことを知っている。だれもが、自分の意見からスタートする。しかし意見は、未検証の仮説にすぎず、したがって当然現実に対して検証されなければならない。
 何が事実であるかを確定するためには、まず有意味性の基準、特に評価の基準についての決定が必要である。これが成果をあげる意志決定の要であり、通常、最も判断の分かれるところである。
 また成果をあげる意志決定は、意志決定に関する文献の多くが説いているような事実に関する合意からは生まれはしない。正しい意志決定は、共通の理解と、意見の衝突と対立、そして競合する複数の選択肢についての真剣な検討から生まれる。
 最初に事実を把握することはできない。有意性の基準がなければ、事実というものはありえない。事象そのものは、事実ではない。」

最初の方にも書いてあった通り、「事実」というのは、誰かが分類してレッテルを貼ったもの…ということだ。

現実は複雑であり、どこから光を当てるかで、意味は変わってくる。
正しい方向から光を当てる、ということが大事だということだろう。
事実とは、現実の解釈の一つであり、その解釈の基準をもっていなければ、そもそも事実を認めることすらできない、ということだ。
これは、東洋的な考え方だと思う。
ドラッカーが日本のことをよく知っていたことの効果なのだろうか…。

意志決定の最後の段階について、また当たり前のことが書かれている。

「ここでついに、意志決定には、判断力と同じくらい勇気が必要であるということが明らかになる。薬が苦くなければならないという必然的な理由はない。しかし一般的に、良薬は苦い。同じく、意志決定が苦くなければならないという必然的な理由はない。しかし一般的に、成果をあげる意志決定は苦い。
 ここで絶対にしてはならないことがある。「もう一度調べよう」という誘惑に負けてはならない。それは臆病者の手である。そして臆病者は、勇者が一度死ぬところを一〇〇〇回死ぬ。」

ドラッカーらしい、組織論が最後の部分にある。

「組織は、優秀な人たちがいるから成果をあげるのではない。組織は、組織の水準や習慣や気風によって、自己開発を動機づけるから、優秀な人たちをもつことになる。そして、そのような組織の水準や文化や気風は、一人一人の人間が自ら成果をあげるエグゼクティブとなるべく、目的意識をもって体系的に、かつ焦点を絞って自己訓練に努めるからこそ生まれてくる。
 現代社会は、存続するためとまではいわなくとも、機能を続けるためには、組織の成果をあげる能力、その活動と成果、その価値と水準、そしてその自己規律に大きく依存する。
 今日、組織の活動は、経済的分野、さらには社会的分野さえ超えて、教育、保健、知識の分野において、決定的に重大な意味をもつようになった。しかも、組織のうち重要なものは、ますます知識組織となってきた。すでにそれらの組織は、多くの知識労働者を雇用している。」

「少なくとも一九世紀には、肉体労働者は経済的な目的だけをもち、経済的な報酬だけで満足すると信じられていた。しかもそのような考えは、人間関係学派が明らかにしたように、事実とはほど遠いものだった。賃金が最低生活基準を超えた瞬間、そのようなことはもはや事実ではなくなった。
 知識労働者も経済的な報酬は要求する。報酬の不足は問題である。しかし、報酬の存在だけでは十分ではない。知識労働者は、機会、達成、自己実現、価値を必要とする。しかるに知識労働者は、自ら成果をあげるエグゼクティブにすることによってのみ、それらの満足を得ることができる。」

これが、1966年に書かれた本である。
ドラッカー博士はすごいと思う。

| | | 01:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
音はそこにあるのに…
人間、慣れ親しんだパターンというのがあって、一度はまるとなかなか抜け出せない。

今日のギターのレッスンで、スティービー・ワンダーのSir Dukeという曲の間奏の部分をやった。
前からうまく弾けなかったのだが、さすがに先生が弾くのを見ると、なるほど!と思う。

ギターという楽器は、同じ音が違う弦で出せる。
ラの音は、3弦の2フレットでもいいし、4弦の7フレットでも、5弦の12フレットでもいい。
ミの音は、4弦の2フレットでもいいし、5弦の7フレットでも、6弦の12フレットでもいい。
だんだん音が高くなっていくフレーズでは、どこで弦を変えるのかで、指の動きは変わってくる。
次の音を考えて、押さえる場所を決めなければならない。

ところが…いつものパターンというヤツがジャマをする。
こういう音づかいの時は、こういう指の動きと覚え込んでいるパターンがあるのだ。

どうしてうまく弾けないのかと思ったら、先生と指の動きが違う。
そこに同じ音があるのに、違うところを押さえているので、次の音にうまく移動できない。

すぐそこに、同じ音があるのに、次の音に行きにくいところの音を押さえていた。

そうか…とわかったら、楽に弾けるようになった。

長いこと弾いてはいるが、使いこなせていないということだ。

そこに同じ音があるから、自由に動ければいいのに、それができない。

使いこなすということは、決まった動きから離れて、自由に動けることなのだ。

自由に動ける…それができたらうまくなれるだろう。


| | 考えたこと | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
いい一日
ここのところ、本を読む時間が増えた。(その分、ギターの時間が減ったのだが…)
1週間に1冊以上のペースだ。

先週は、サラ・パレツキーのV.I.ウォーショースキーという女性探偵のシリーズの分厚い本を一気に読んだ。
このシリーズは文庫で全部読んでいて、すごく面白かったのだが、最新の1冊を読んでしまうのが惜しいのと、厚みに遠慮してずっと置いてあったのだ。
でも、読みはじめると面白くて、一気に読んでしまった。

今週は、幸田真音のマネー・ハッキングという小説を読んだ。これも面白くて、昨日の夜から今日の昼で読み終えた。
金融派生商品(デリバティブ)というものが一体どんなものか知りたくて、買ってあったのだが、小説は面白くなると速い。

そんなこんなで、読みたい本の棚が少し空いたので、本屋に行って久しぶりに本棚を見て歩いた。

そしたら、なんとサラ・パレツキーの最新刊が上下2冊出ているではないか!
またウォーショースキーに会えるのだ。
きっと、先週読もうと思ったのは虫の知らせだったのだ…と思いつつ、買ってしまった。

すぐそばに、「名探偵のコーヒーのいれ方 コクと深みの名推理1」という見慣れない本があって、パラパラめくっていたら面白そうだったので、これも買ってしまった。
ニューヨークのコーヒーハウスの女性店長が主人公。
さっき読みはじめたが、途中に色々なコーヒー豆知識やレシピが載っていて、楽しい。
読んでいると、コーヒーが飲みたくなる本だ。

サラ・パレツキーを読むとシカゴの寒さが、ジャネット・イヴァノビッチ(ステファニー・プラムのシリーズ)を読むとニュージャージーの猥雑さが、スー・グラフトン(キンジー・ミルホーンのシリーズ)を読むとカリフォルニアの暖かさが感じられる。
どういうわけか、女性作家のミステリは物語のスジだけでなく、背景の絵や小道具、生活が書き込まれていて、その土地の雰囲気がよくわかる。
今回のニューヨークのコーヒーショップも、マンハッタンのことがよくわかる本になりそうだ。

ミステリの本棚の裏に回ってみると、山本夏彦の新刊が出ていた。
亡くなってから、2冊目くらいの新刊かな…。
この人のコラムは本当に面白い。
こんな文章が書けたらいいなあ…と思わせる人だ。

久しぶりに本屋で買い物をして出た。

今日はすごくいい日になった。


| | 考えたこと | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
ズボンの位置
時々、不思議になることがある。

誰がいつ流行らせたのかわからないが、最近ズボンの位置がやたら低い人がいる。
若い男性の流行なのか…。

一般的な常識では、足が長い方がかっこいいと思うのだが、わざわざ足を短く見せるような履き方になっている。
極端なのは、股上の位置が低くて、足が身長の1/3くらいしかないように見えるのもある。

そういうファッション専用のジーンズらしきものもあるようだ。

グーグルで、「ズボンの位置が低い」と入れて検索してみたが、そんなに多くはヒットしない。
地域限定のものなのかもしれない。

あれは、本人もかっこいいと思ってやっているのだろうか…。

それなりの自己主張ということなのだろうか…。たしかに、気にさせることが自己主張とすれば、非常に強い主張にはなっている。

誰しも、若い時には、年寄りには理解できないようなことをするものだと思うし、別にとがめ立てする気はないのだが、どう見てもオカシイ。
だいいち、腰骨よりもはるかに下でベルトをしているので、ずり落ちてくるのではないか?

本当に不思議だ。

ぼくらが高校時代に流行ったロングヘアーとか、50年代風に髪をポマードで固めるとか、ベルボトムのジーンズ、学ランなどには、モデルがあった。
70年代のアメリカ生まれのヒッピーやミュージシャン、マンガの主人公など…あこがれがマネを生む。
そんな気がするのだが、今の低いズボンにもモデルがあるのだろうか?

見れば見るほど、わからなくなる。

これこそが、年をとった証拠なのだろうか。

べつに、本人が満足しているなら、それで構わないのだが…それにしても、不思議としか思えない。


| | 考えたこと | 00:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
マネーボール
ずっとサボっていたが、本のレビューを久しぶりに書きます。

マネーボール マイケル・ルイス著 ランダムハウス講談社

腰痛で一日寝ていることになったので、前から読みたかった本を読んだ。
「マネーボール」という本。

およそ人間の集団のやることで、明確な方向性が決まるものというのは少ない。
みんな、置かれた環境や信条、経験などが違って、こちらが良い、という方向が異なるのだ。
行政、福祉、教育、外交など、議論百出である。
だから、いろいろな規制、法律を作る。あるいは、みんなで議論する。でも、一人ひとり思いは違っていて、いくら話しあっても前に進まない。何が「良い」方向かわからないからだ。

しかし、例外はある。それがスポーツである。
スポーツには、「勝つ」という明確な方向性がある。勝つことが良いことである。
それはタイムであったり、順位であったり、得点であったり、技であったりする。
多くの美辞麗句が語られたとしても、特にプロスポーツにおいては「勝つ」ことが至上命題であり、そのために個人、組織があると言ってよい。

コンピューターとネットワークの発達で、色々なことができるようになった。
リクツでわかっていても、今までは面倒でできなかったことでも、ネットワーク上のデーターを取り込み、ノートパソコンですら解析できる。
必要なことは、勝つための数字をどう選ぶか、何を基準にするかを考えることだろう。これは、いくらコンピューターが進んでも、人間がやることだ。
そして、もっと大変なことは、それを実施できる組織を人を作ることだろう。
これこそ、本当に人間にしかできないことだ。熱意や意欲というような、およそコンピューターとはかけ離れた能力が必要となる。

この本は、メジャーリーグの野球という世界最高レベルのスポーツで、過去の因習にとらわれず、カネをかけずに勝てるチームを作るという仕事を実際にやってのけた、オークランド・アスレチックスのゼネラル・マネジャーとそのブレインを縦糸に、そして実際の選手たちや過去に野球というスポーツを解析しようとした人たちを横糸に織り交ぜて、実際の取材に基づいて書かれたドキュメントだ。

面白いのひと言に尽きる。
息もつかせず、最後まで読んでしまう。

「アスレチックスの年俸のトータルは、ヤンキースの3分の1でしかないのに、成績はほぼ同等」なのである。

「アスレチックスの成功の原点は、野球の諸要素をあらためて見直そうという姿勢にある。経営の方針、プレーのやりかた、選手の評価基準、それぞれの根拠…。アスレチックスのゼネラルマネジャーを任されたビリー・ビーンは、ヤンキースのように大金をばらまくことはできないと最初からわかっていたので、非効率な部分を洗い出すことに専念した。新しい野球観を模索したと言ってもいい。体系的な科学分析を通じて、足の速さの市場価値を見きわめたり、中級のメジャー選手と上級の3A選手は何か本質的に違うのかどうかを検証したりした。そういう研究成果にもとづいて、安くて優秀な人材を発掘して行った。
 アスレチックスがドラフトやトレードで獲得した選手の大半は、古い野球観のせいで過小評価されていたプレーヤーだ。アスレチックスのフロントは、不遇な選手を偏見から解き放って、真の実力を示す機会を与えたことになる。大げさだと思うかもしれないが、メジャー球団とは、人間社会における理性の可能性−と限界−を如実に表す縮図のようなものだ。科学的なアプローチをまのあたりにしたとき、非科学的な人々がどう反応するか−あるいは、どう反応しないか−が、野球というスポーツによってよくわかる。」

これは、すごいことだ。
コスト1/3で、同じことができる!それも、プロスポーツという明確な土俵の上で、それを示したということは、まぎれもなく本当にそれができた、ということなのだから。

主人公のビリー・ビーンは実際にメジャーリーグでプレイした選手だった。
しかし、失意の中で彼は選手を辞め、アスレチックスのフロントに入る。
古い野球観を持った(実際にはそういう人がほとんどを占めているのだが)スカウトたちと、ドラフトでどの選手を取るのかというスカウト会議の席から、物語は始まる。
そこに現れるのが、ビリーの右腕のポールである。
彼はノートパソコンをスカウト会議の席に持ち込む。彼はスカウトたちが実際に選手を見て評価するのに対して、データーだけで選手を判断する。
ポールの目の付けどころは、スカウト達とは違う。

「興味深いのは、ポールの言葉の裏に秘められた部分だ。大学生選手が四球をいくつ選んだかなど、注目する人間は普通いない。ところがポールは何よりもその点を重視する。理由はあえて説明しない。過去の記録を調べ上げ、アマチュアからメジャーリーガーになれた選手となれなかった選手を比較して、その原因を追及したということも、スカウト達にはとくに告げていない。
 足の速さ、守備のうまさ、身体能力の高さは、とかく過大評価されがちだ。しかし、野球選手としてだいじな要素のなかには、非常に注目すべきものとそうでないものがある。
 ストライクゾーンをコントロールする能力こそが、じつは、将来成功する可能性と最もつながりが深い。そして、ストライクゾーンをあやつる術を身につけているかどうか、一番わかりやすい指標が四球の数なのだ。」

これは序の口で、その後ポールは金融派生商品を開発していた連中が作った、ゲームの解析の手法を取り入れ、ゲームに対する選手の貢献度(もちろん、従来の指標ではなく、新しいもの)を数値化している。

実は、ビリーの前任のゼネラル・マネジャーがすでにそういう考え方を持っていた。
アルダーソンというゼネラル・マネジャーの作った小冊子によると、

「野球を分析して行くと、さまざまな意義深い数字が表れてくる。だが、野球において最も肝心な数字−飛び抜けて圧倒的に重要な数字−は3だ。すなわち、イニングを区切るアウト数である。スリーアウトになるまでは何が起こるかわからない。スリーアウトになってしまえばもう何も起こらない。したがって、アウト数を増やす可能性が高い攻撃はどれも、賢明ではない。逆に、その可能性が低い攻撃ほどよい。
 ここで、出塁率というものに注目してほしい。出塁率とは、簡単に言えば、打者がアウトにならない確率である。よって、データのなかで最も重視すべき数字は出塁率であることがわかる。出塁率は、その打者がイニング終了を引き寄せない可能性を表している」

アルダーソンは弁護士出身で、メジャーリーガーではない。
そのために、苦労をしている。

「メジャーチームは神聖な存在で、メジャー経験のない者は口を出せない状態だった。アルダーソンはそんな慣習はばかげている、上が決めた命令や規律がそっくりそのままいきわたるべきだと思っていた。「組織の運命を中間管理職にゆだねるなんて、ほかの世界では考えられない」
 けれどもメジャーリーグでは昔からそういう決まりになっていて、アスレチックスも例外ではなかった。中間管理職のトニー・ラルーサが、自分なりの野球哲学にもとづいて、選手のバットをコントロールしていた。選手たちにしてみれば、ファームにいるあいだは、球をよく見きわめろ、四球で出塁しろと教え込まれるのに、メジャーに昇格したとたん、本能に従ってどんどん打て、と命じられるわけだ。アルダーソンの新方式によって洗脳された選手でさえ、メジャーに上がると、監督の指示を優先した。心にわずかなひびが入ると、及び腰になり、信念が崩れて行ってしまう。…」

この、メジャー経験者でないと、実際のフィールドで口を出せない…というような慣習は閉鎖的な職場にはあることだろう。
組織のようで、組織ではない組織…。思い当たる人も多いのではないか。
そんなチームばかりだからこそ、アスレチックスの価値は動じていないのだが…。

もともと、ビル・ジェイムズという人が、野球のデーターについて調べ始めた。
彼の研究は画期的だったが、野球界からは認められなかったし、今もあまり認められているとは言えないようだ。

彼が1977年に自費出版した本について書かれた下りによると…

「エラーとは何か?第三者の目から見て、いまのはもっとまともにプレーできたはずだということを表わす、スポーツの世界において唯一主観的なデータにほかならない。試合後のロッカールームで話題に出るような、あそこでああすればよかったのに、という指摘だ。…バスケットボールのスコアラーもたしかにエラーを記録するが、このエラーは、敵にボールが渡ったことを表わしており、客観的な事実の記録である。…ところが野球のエラーは実際には行われなかったプレーをスコアラーが思い浮かべて比較し、判断を下す。まったく異例な”参考意見の記録”なのである。
 (中略)
 100年以上経ったいま、エラーという概念だけが生き延びている。誰もがわかっているはずだが、明らかなエラーをしない才能など、メジャーリーガーにとって重要ではない。極端な話、もしエラーを記録されたくなければ、動作を少し緩慢にしてボールに追いつかなければいい。
エラーをするのは、何か的確なことをした場合にかぎられる。正面に来たボールを落としたとしても、それは、的確な位置に守っていたから正面に来たのである。
 不適切なデーターは人をまどわす。まどわされた球団フロントが、選手の評価を誤り、経営方針を誤る。ジェイムズは論点を一文でこうまとめた。
 守備に関するデーターは、数字としては存在意義があっても、言語としては意味がない。
(中略)
この指摘には、エラー記録の是非よりもさらに重大な内容が含まれている。野球の選手や試合をきちんと評価するためには、肉眼だけでは無理がある、ということだ。
考えてもみてほしい。3割の打者と2割7分5厘の打者を、目で見るだけで区別することはぜったいにできない。なにしろ、2週間にヒット1本の差しかない。シーズンを通してそのチームの全試合を見ているスポーツ記者なら、ひょっとすると何か違いを感じ取れるかもしれないが、おそらく不可能だろう。10試合に1試合見る程度の平均的な野球ファンは、むろん、そんな微妙な差を見きわめられるはずがない。事実、もし年間15試合観戦するとすれば、目の前でたまたま2割7分5厘の打者が3割打者より多くヒットを打つ確率が40パーセントもある。要するに、すぐれた打者と平均的な打者の違いは、目に見えない。違いはデータの中だけにある。
 そのうえ、誰もが打者を中心に試合を眺めている。打者の動きを見つめ、スコアカードを開いて名前を確認する。三塁線に鮮やかな打球が飛び、それを三塁手が横っ飛びにつかんで一塁送球アウトにした場合、三塁手に拍手を送る。だが、打球が飛ぶ前、三塁手の動きに注目していた観客がいるだろうか?三塁手がもし打球の方向をうまく予測して守備位置をずらしていたら、2歩だけ動いて、当たり前にバックハンドでつかめただろう。そして誰も拍手しない。
 そこでジェイムズは、従来にない評価基準を作るべきだと訴える。
スコアブックからは誰が上手な野手なのか判断できないし、じかに観戦しても正しく評価できない。では、どうすればいいのだろうか?
ジェイムズによれば、答えはこうだ。
計算法を工夫するにかぎる。」

こんな事を考えた人が、1977年にはもういたのだ。
しかし、この考え方がメジャーリーグに伝わるためには、20年以上かかった。そして、今でも浸透はしていない。

ジェイムズのリクツをもとに、ポールの作った究極とも思われるゲームの解釈は以下のようなものだ。

「ポールの解釈によれば、試合中のプレーはみんな”得点期待値”というバロメーターで測れる。本当かどうかは、計算などしなくても常識でわかるだろう。球場で起こることはすべて、たとえほんのわずかであっても、チームが得点できるか否かにかかわっているはずだ。たとえ誰も気づかない程度だとしても、戦況に微妙な影響を与えている。
 たとえば、ノーアウト走者なしで打者に第1球が投じられる瞬間、得点期待値は0.55。この場面で唐突に点が入る可能性は低いので、そういう数字になる。もし打者が初球をとらえてツーベースを放ったとすると、試合の状況が変わる。ノーアウト、ランナー二塁。こんどは得点期待値が1.1に跳ね上がる。よって、先頭打者ツーベースの価値は、得点期待値で言うと0.55(=0.55から1.1への上昇分)だ。もしツーベースではなく三振という結果だったら、その打者はチームの得点期待値を約0.30まで下げることになる。アウトひとつで0.25(=0.55から0.30への減少分)下がってしまった。
 このぐらいの計算はまだ序の口だ。偶然の要素を取り除き、ひとつひとつのプレーの価値を深く理解するには、じつを言うと、実存主義的な問いを片づけなければいけない。たとえば−そもそも二塁打とはなんぞや?「バッターが打って、敵のエラーなしで二塁に到達すること」だけでは答えとして足りない。ご存じのとおり、ひと口に二塁打と言ってもいろいろある。外野手が捕れてもおかしくなかったのに二塁打になるケースもあるし、二塁打になるはずがスーパーファインプレーでアウトに終わるケースもある。幸運な二塁打、不運なアウト。つきの要素を除外したければ、ここでプラトンばりの観念論を持ち出す必要が出てくる。」

本の後半には、投手の被安打率に関する話も出てくる。
これは、一人の野球ファンが解析したデーターである。

「150年のあいだ、グラウンド内のフェアゾーンへ飛んだ打球(つまり、ファウルとホームラン以外の打球)が安打にならないようにするのは投手の能力だと評価されてきた。ヒットを多く許す投手は防御率が悪くて負け数が多い、ヒットをあまり打たれない投手こそすぐれている、と見られてきた。だが、ボロス・マクラッケン−遠からず法律事務所を辞めて、アリゾナ州フェニックスで両親とともに暮らすことになる若者−の結論は違った。ホームラン以外のフェアボールは、ヒットになろうとなるまいと、投手の責任ではない。もちろん、ホームランを防ぐことはできる。四球を防ぐこともできる。三振に取って、打球がグラウンドへ飛ばないようにすることもできる。しかし、逆に言うと、それしかできない。」

これがデーターから見た事実…ということなのだ。
そして、この事実を発見したボロスは言う。

「ボロスが発表した説が、すぐさまメジャー全球団に大歓迎される−などという展開になるはずがない。ボロス自身も、その点は先刻承知だった。「困ったことに、メジャーリーグは閉鎖的な組織なんです。新しい知識を呼び込む土壌がない。関係者は全員、選手か元選手です。よそ者の侵入を防ぐため、一般企業とは違う構造になっています。自分たちのやりかたを客観的に評価しようとしません。いい要素を取り入れ、悪い要素を捨てるという仕組みが存在しないんです。全部まるごと取り入れるか、まるごと捨てるか、どちらかです。ただし、”まるごと捨てる”のほうはめったにやりません。」ボロスは、新旧の野球観の板挟みになっている球団オーナーたちに同情する。…」

あの、合理的なアメリカ、論理的な西洋人…彼らが野球になると、こんなことになってしまう。
これではまるで戦前の日本陸軍のようだ。
だからこそ、野球はアメリカの国技たり得るのかもしれないが…。

野球のルールがわからなければ、この本を読んでも面白くないかもしれない。
でも、野球のことを知っているなら、この本は文句なしに面白いし、野球というゲームに対する見方も変わるだろう。

それにしても、すばらしい。
人間の知恵は、あらゆるものを解釈する力があるのだ…という気にさえなる。

知恵がカネに勝つ…うれしいストーリーではないか。


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発火とギックリ腰
一昨日、ウチでセラミックヒーターが発火した。
古いセラミックヒーターには気をつけて下さい。

16年前に買って、しばらく使ってなかったのだが、今年は暖冬だったのでガスのファンヒーター代わりに使っていたら、急に燃えだしたらしい。
消化器を使って、火は消し止め、事なきを得たのだが、消化器の粉がすごい。

これを書いているキーボードも、キーの下に薄いピンクの粉がたまっていて、いくら拭いても何となくざらざらしている。

粉をたくさん吸った掃除機は、調子が悪くなった。
それ以外に床、壁、机の上など、粉だらけになった。テレビやビデオなどの電気製品、パソコン、プリンターなどもかかってしまった。
こういうのは、後で被害がでたりするそうだが、消化器の被害は火災保険の適用外とのこと。
一応、パソコンは中を掃除して、バックアップを取ったのだが…。

今日はギターの掃除をした。
とりあえず、一昨日ざっと雑巾でピンクの粉を拭き取ってはいたのだが、スイッチのノブを取って、ちゃんと隙間の部分もきれいにしようとして、かがんでドライバーを使っている時に、来てしまった。
ギックリ腰である。

勤めはじめて数年経った、20代の後半に始めて腰を痛めた。
当時は力仕事と車に乗ることが多くて、それがたたったのだろう。
何度か、ギブスをして仕事をしたことがある。

今日のはひどかった。
あれは、電気が走るみたいな痛みが突然腰に来る。
痛みが来ると、動くことができない。痛い、痛いと言いながら、姿勢を変えることができないのだ。

http://www.shiatsu-k.com/treatment/index_j-1.lowerback.htmによると、

「ぎっくり腰と呼ばれるものは、急激に起きる腰痛の総称です。中でも多いのが腰椎のねんざです。腰の周りの筋肉や筋膜の一部が切れ、背骨の両脇あたりに痛みが走るものです。主な原因は、重い物を持ち上げたり、体をひねったりした時に起こるもので、腰を曲げられなくなってしまいます。 」ということらしい。

予定では、床のワックス掛けだったのだが、昼から湿布をして、カイロを入れて、腹巻きをして寝ることになった。

おかげで、面白い本は読めたが、まだだいぶ痛い。

明日にはマシになる予定だが…。


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うそ
4月1日はエイプリル・フールだった。

余裕がある頃は、明日はエイプリル・フールだから…とウソを考えたこともあった。
昔は、今よりもエイプリル・フールが盛んだった(盛んとはどういうことか、という声はあるだろうが)という気がする。

今でもないわけではないが、新聞に面白い記事があったり、ニュースでエイプリル・フールにちなんだ話があったりしたように思う。
最近はテレビをあまり見ないから、やっているのかもしれないが…わからないだけかな。

何となく世相が暗くて、エイプリル・フールどころではないのかと思う。

この日についてもいいウソとは、罪のないウソということになっている。
罪のないウソというのは、だまされた方も笑ってしまうというようなウソのことだろう。

自分のためにつくウソは、よくない。罪がある。

でも、罪のないウソもあるし、人を救うウソもある。
ウソも方便という。
英語では、ぴったりと来るものがないようだ。色々なサイトに出ているが、“The end justifies the means"という感じらしい。
結末がよければ、方法は正当化される(だから、そういうウソならよい)ということ。

ウソというと、「めぐり逢い」という映画のクライマックスのシーンを思い出す。
エンパイアステートビルの屋上で会おう、と再会を約束した男女が、結局は会えずに離ればなれになってしまう。
実際には男は会いに行って、ずっと待っていたが、女は来なかった。女は会いに行く直前に事故に遭い、行くことができなかったのだ。
おまけに、その事故のために、女は歩くことができなくなってしまう。

その二人が、時を経てもう一度会う。男が女の家に訪ねていく。
女はソファーに座ったまま、応対する。

そこで、男は「ぼくは行かなかった」とウソをつく。
女は、「私は行ったのよ」とウソをつく。

男は、女が来なかったことを知っているから、ウソをついたのだし、女は、自分が行けなかったことがわかっているから、ウソをついたのだ。

結局はそのあとハッピーエンドになるのだが、このシーンは泣かせる。

お互いに、相手を傷つけまいとして、ウソをつき合うのだ。

途中で話が変わってしまったが…いいウソもある。

いいウソをつけるのが、本当のオトナなのかもしれないなあ。



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