考えたこと2

2024.9.24から、今までhttp:で始まっていたリンクが、https:に変わります。申し訳ありませんが、リンクが見られないときは、httpsに変えてみてください。
CALENDAR
<< July 2008 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
+SELECTED ENTRIES
+RECENT COMMENTS
+CATEGORIES
+ARCHIVES
+PROFILE
+OTHERS
Ebony and Ivory
今日何気なくクルマでステレオをつけたら、この曲が流れてきた。

スティービー・ワンダーのベストアルバムに入っている曲。

"Ebony and Ivory"。
ポール・マッカートニーとのデュエットだ。
ビッグスターの共演ということで、チャートで1位になった曲。

調べると、リリースは1982年だった。
ぼくがまだ25歳の時!
そんなに昔だったのか…。

この曲は歌詞がいい。

Ebonyは黒檀、ピアノの黒鍵のことであり、Ivoryは象牙、ピアノの白鍵のこと。

"Ebony and Ivory"とはピアノの黒鍵と白鍵のことになる。

単純な歌詞だが、意味深い。

黒人と白人を黒鍵と白鍵にたとえて、「EbonyとIvoryはキーボードの上でとなりどうし。完璧なハーモニーの中で一緒にいる。ぼくらにできないはずはない(why don't we?)…」というような意味の歌だ。

これをスティービー・ワンダーとポール・マッカートニーが歌う。

1982年らしく、間奏は当時はやっていたシンセサイザーらしいポコポコした音。

この曲で、ピアノの黒鍵がエボニー、白鍵がアイボリーという色だと覚えた。

エボニーは「真っ黒の」、アイボリーは「象牙色の」という色の名前でもある。

曲も歌詞も二人の共作になっている。
演奏も二人だけでやったとのこと。

You Tubeでビデオクリップを見ることができるが、鍵盤のセットの上に座って歌うポールは若くて、まだビートルズの頃の面影が残っている。

 どんな人にも、いいところと悪いところがある。
 ぼくらは一緒に生きることを学ばないといけない…

こういうポップスを聞くと、うれしくなる。






| | 音楽 | 22:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
三番街
大阪に出張した。

元来の方向オンチもあって、地理がわからないところに行くと、本当に困る。
御堂筋、堺筋、長堀橋、本町…、けっこう近いところなのだろうが、大阪の地名には馴染みがなく、わからない。

そういうときに役に立つのが、地下街。

何といっても、天井からサインボードがぶら下がっていて、どっちに行ったらよいか、すぐわかる。

特に今日みたいに暑い日は、日光に当たらないというだけでも助かる。

三宮の地下街が「さんちか」。
神戸なら地理はわかるが、それでも地下街を歩く。

梅田は「三番街」。
ここのレストラン街やキディランドにはよく行った。
キディランドで買ったキティの爪切りは、壊れてしまったが、まだおいてある。

三番街のオープンはぼくが小学校の頃だったと思う。
調べてみると1969年。小学校6年か…。

うちの父は本町で勤めていたが、どういうワケか、三番街がオープンの時に阪急が作ったソノシートをもらって帰ってきた。
駅で配っていたのか、それとも仕事の関係でもらったのか…。

「川が流れる」地下街ということで、できた当初は川が地下街を流れていたのだ。
それを歌った歌だった…と思う。

イタリアの名所みたいに、川には5円玉が沈んでいたりした。

今日も三番街をウロウロしたが、今でも1時間に一度テーマソングが流れている。
今風の歌で、テーマソングにしてはいい歌だ。
でも、あのソノシートの歌とは違う。

なぜか、そのソノシートを何度も聞いた覚えがある。
あれもいい歌だった…と思うのだが。思い出せない。

神戸の住民にとっては、盛り場といえば三宮だが、梅田だけは大阪といっても、阪急や阪神一本で行ける身近な場所だ。

阪急沿線だったぼくにとっては、大阪といえば三番街。

ここだけは、遠く離れたホームグラウンドだった。




| | 考えたこと | 00:01 | comments(2) | trackbacks(0) |
Good news
アメリカのドラマでは、時々ハッとする会話がある。

英語ではどう言っているのかわからないのだが…。(吹き替えだった)

いろいろあって、傷心の同僚に仲のよい友だちが聞く。

「何かほしいものは?」

その答えは…。

「いい知らせ」

これはきっと"Good news"と言っているのだと思う。

「それはないなあ…」ということでドラマは続いていったのだが、何ということのないシーンに、感心してしまった。

言葉が違うと、世界の切り取り方が違うのだと誰かが書いていたが、まさにその通りだと思う。

ほしいものは、"Good news"。

ぼくの言葉の引き出しには、この会話はなかった。

いいニュースを聞きたいときに、「何かいいことなかった?」という言い方はあっても、「何かほしいものは?」と聞かれて、返事に"Good news"というような言い方はあるのだろうか…。

「いい知らせ」

それにあたる日本語がないから、そのセリフにハッとしたのだと思う。

Good news…いい言葉だ。



| | 考えたこと | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
島国
ミス・マープルは、セント・メアリ・ミードというイギリスの街に住んでいる、年配の女性である。
彼女は自分の経験を生かして、いろいろな事件を解決していく、名探偵でもある。
アガサ・クリスティが、エルキュール・ポアロと並んで作りだした、すばらしい人物。

BBCのテレビシリーズをやっていた。

庭に座って、編み物をしながら、事件の推理をする。

けっこうなお年だから、編み物にはメガネが必要だ。

やっぱり、鼻メガネである。
これが、似合う。
小さめのメガネだが、手許を見るために鼻の上に乗せている。

Joan Hicksonという俳優がやっていたのだが、この人はクリスティから、年をとったらミス・マープルを演じてほしいと言われていた由。
残念ながらもう亡くなられた…。

こんな人物を作り出したクリスティはすごいと思う。
イギリス人はフィクションの才能があるのではないか…。

おりしも、ハリー・ポッターの最終話が発売されたところ。

彼もイギリスの生まれ。

日本にも昔から小説の文化がある。
源氏物語など、すばらしいものだ。

今はアニメやマンガで世界を席巻している。

回りを海で囲まれた環境は、フィクションを生み出す想像力を生み出すのではないか…。

島国根性などと言われるが、そんな共通点があるのではないか…と思う。

何の根拠もないのだが、だれか調べてくれないかな。

とりとめのないハナシで申し訳ありません…。


| | 考えたこと | 21:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
軽装
以前、アメリカに出張したときのこと。

「今日はカジュアルデーなので、スーツとネクタイは無しで…」と言われる。

はるばる日本から来てプレゼンするのに、何となくノータイははばかられたが、同行したアメリカ人は知っていたらしく、ゴルフでもプレーするようなスタイルになっている。

何となくしまらないな…と思いつつ、ネクタイを外して仕事をしたが、聞きに来る社員たちを見ると、ジーパンの人もいれば、Tシャツの人もいる。

日本ではカジュアルデーと言っても、ジーパンはやめておこうとか、Tシャツはダメとか、そういう不文律があったりする。
カジュアルとは何か?というハナシだ。

今日もある会合に呼ばれて行ったのだが、案内状に「当日は軽装でおいで下さい」と書いてあった。

これが、難しい…。

今やクールビズなどと言って、公式の場でもノータイ・半袖が当たり前の時代になった。(もちろん、揺り戻しもあるのだが…)

主催者がエコにからんだところだったので、この猛暑でもあり、休日でもあり、まあいいか…と思ってノータイ、半袖で出かけた。

受付に行くと、どうも雰囲気がアヤシイ。
みんなスーツを着てネクタイしているではないか…。

おまけに、花の付いた紅白の名札を渡され、会合が始まったら来賓の席に座ることになってしまった。

もちろん、ネクタイをしていない人などいない。

ひぇー、という感じだった。

もちろん、だからといって何か言われるわけではないが、名刺を出すたびに「いや〜、こんな格好で失礼します…」ということになる。

「軽装で…」と案内するなら、主催者も軽装で来てもらわないと…と思ってもあとの祭り。

TPOを考えて行間を読まなかった自分が悪いのだと思う。

会合自体は楽しく過ごせてよかったのだが、「軽装」は難しいことがわかった。

来年は失敗しないぞ…。





| | 考えたこと | 23:04 | comments(2) | trackbacks(0) |
iPhone
ソフトバンクが発売した、アップルのiPhone。

レビューを見ていると、極端に分かれているようだ。

すでに日本の携帯の文字入力に慣れてしまった人たちにとっては、iPhoneのタッチパネルでの入力は非常に遅くなるという。
インターネットにつながると言っても、日本の携帯でもつながるわけで…。
要は大きな画面とボタンのないハード構成をどう見るか、ということだろう。
もちろん、サイズも大きい。
iPodやその他のプレーヤーをもっている人にとっては、2台もいらない。
カバンに入れておくならともかく、身につけて持ち歩くのはつらい。
Edyやワンセグに対応しないというのもある。(個人的にはこれはなくてもよいが…)
あれだけの画面をバックライトで照らすのだから、電池もすぐになくなるのではないか。
そうそう、ストラップを通す穴がないとも書いてあった。
おそらく、アップル本社では、日本の携帯文化におけるストラップの意味がわかっていないのだろう。

一方熱狂的なファンもいる。

以前書いたが、Macは宗教であり、熱狂的な信者がいる。
アップル製品全般に言えることだが、信者にとってはアップルだから良い、というリクツになる。

たしかに、タッチパネルを指でつまむ動作で画面が変わったり、持ちかえたら画面の向きが自動で変わったり、いろいろなアップルらしい機能が満載である。

そういうのが好きな人にとっては、これぞ待っていた電話…ということになるのだろう。

ぼくも、昔はMacを使っていたので、その気持ちはわかる。

でもなあ…、携帯電話としてはどうかと思う。

あれは、あくまで携帯音楽プレーヤーに電話がついた、という代物で、電話は「ついで」のものだ。

ソフトバンクはiPhoneを発売するために、かなりシンドイ契約をアップルと結んだようで、儲けるのはアップルだけ…ということになるのかもしれない。

日本でのiPhoneの位置づけはまだ決まっていない。
今のところ話題先行である。

1年後、どうなっているだろうか…。

ぼくは、そんなに大成功をおさめることはないと思う。

みんながほしいのは、やっぱり電話とメールが便利な携帯電話であって、電話とメールができる携帯音楽プレーヤーではないはずだ。

1年後が楽しみだ。


| | 考えたこと | 00:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
バイオリンとストリングス
バイオリンは、ソロとユニゾンの両方が楽器として使われる。

ユニゾンといっても、大人数だ。
バイオリンが集まると、ストリングスという名前になる。

ギターを大人数集めても、ギターだろうと思う。

でも、バイオリンが集まると、ストリングスになる。

なぜだろう…。

バイオリンはフレットがないから、音程が人によって微妙に違うことと、弓で弾くために、持続音が出せるからだろう。
だから、何人もで弾くと、音が厚くなる。
微妙に違う音程が、うなりを生じているから、別の楽器のような音になる。
わざわざ、元の音の周波数を揺らして音を厚くする「コーラス」というエフェクターと同じことを、実際の楽器でやっているということだろう。(というより、コーラスというエフェクターは、このストリングスの効果から作られたのかもしれない)

電子キーボードには、必ずストリングスという音色がある。

ポップスにはストリングスの音色がつきものだ。

松任谷由実の「卒業写真」。

最後のコーラスのところ。

 あなたは 私の 青春そのもの…

ここでストリングスの高い音が出てくる。

バリー・ホワイトの「You're the First, the Last, My Everything」という曲。
大好きな曲だが、ビートをきかせたドラムスの裏で、ストリングスのフレーズが流れる。

Wham!の「Last Christmas」。
細かいリズムのストリングスによる伴奏が曲を引き立たせている。

挙げれば、きりがない。

バイオリンのソロもいいが、ユニゾンで弾くストリングス…これは本当に贅沢な楽器だと思う。



| | 音楽 | 00:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
ボス シカゴ市長R.デイリー
ボス シカゴ市長R.デイリー マイク・ロイコ 平凡社

大好きなコラムニスト、マイク・ロイコの本を探していて、古本を見つけた。

この本はマイク・ロイコが1973年に書いた、シカゴの市政の内幕を暴いた本。

マイク・ロイコは、コラムの名手だが、この本では辛口の批評を控え、どちらかというと淡々とシカゴの市政を20年以上牛耳ってきた、R.デイリー市長の行状を書いている。

いかにデイリー市長が集票マシーンを操ってきたか、いかに黒人をひどい目にあわせてきたか、どんなふうに有力な投票者に利益誘導してきたか…、こんなことがまかり通っていいものか、と思わされる。

このデイリー市長のワンマンさにも驚くが、彼が持っている集票力を期待して、民主党の大統領候補までが彼にすり寄るところまで描かれている。

この本を読んで、民主党に対するイメージが変わってしまった。

しょせん、政治家は票がほしい。それがどんなふうに集められた票であっても、票がほしいのだろう。

そして、アメリカも日本も、似たようなものだ…と思った。

何せ、この本で描かれたデイリー市長は結局5期21年市長を務め、その後は息子がいまだに市長をやっている、ということなのだから。

ネットで見ると、デイリー市長はいろいろな功績を残している…となっている。
空港やビルなどの整備…、それは事実なのだろう。

ロイコ氏のこの本をもってしても、デイリー市長の座は安泰だったということなのか。

悪いヤツほど、いいこともするということなのかもしれない。

ぼくは、てっきり本の最後にデイリー市長が失脚するものとばかり思っていた。
でも、そんなヤワなヤツではなかったということだ。

それほどまでにすごい地方政治のボスだったのだろう。

マイク・ロイコがこの本を書くのは勇気が必要だったはずだ。

アメリカでも、大統領選で票を動かすことができるボスは、何があっても生き延びられ、賞賛されるということなのか…。

そういうことがわかる本でした。






| | | 22:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
レッスン!(Take the Lead)
アントニオ・バンデラス主演の映画。

社交ダンス教室の教師が、ふとしたことから、ニューヨークのスラム街の高校でダンスを教えるというストーリー。

「天使にラブソングを」とか「陽だまりのグラウンド」とか、この手の映画は多い。

社交ダンスを通じて、人を信頼することや礼儀正しくあることを教える。

アントニオ・バンデラスの洗練された動きがすばらしい。

何より、社交ダンスを通じて変わっていく生徒を見ているとうれしくなる。

少し固いことを言うと、こういう映画は、何かを一生懸命やるということが、人を育てる…ということを描いている。
それが、ゴスペルのコーラスであったり、野球であったり、そして社交ダンスであったりする、ということだ。
何でもいいのだ。

そして、それが見ている人の心を打つというのは、そこになにがしかの真実があるということだろうと思う。

そういう経験が人に自信を与え、生きることに価値を見出し、自分の人生を大切にすることにつながるのだと思う。

コーラスや社交ダンスでそんなに簡単に人が変わるのか?と言われると、たしかにそうだと思う。
だからこそ、映画で描かれる「主人公=教える人」は、いろんな意味ですばらしい人として描かれていると思う。

やっぱり、教える人が大事なのだ。

こんな映画を見ていると、今の教育の問題は指導要領や方針の問題ではなく、「教師」の問題なのだと思わされる。

あまりにも本質的すぎて、なかなか議論できないが…。

だいたい、世の中にそんな「すばらしい人」がたくさんいるワケがないのだ。
さらに、その「すばらしい人」が教師を目指すとはかぎらない。

だから、映画の中にそのような「すばらしい人」が何度もカタチを変えて描かれるのだと思う。

これも一つのファンタジーなのだろう。



| | 映画・舞台 | 18:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
アツイ
猛暑である。

昼間ちょっとそこまで行くだけでも、覚悟がいる。

アスファルトの地面は60度以上あるだろうか。
本当に暑い。

書くと、「暑い」「あつい」「アツイ」…3種類ある。

字面で暑さが違う。

「あつい」と「暑い」はどっちが暑い感じがするか…。難しいところ。
「暑い」の方が、「あつい」よりも暑い感じがする。
「日」が二つも入っているからか…。

しかし、「アツイ」が一番直接的な感じで、猛暑の暑さには合っているような気がする。

なんでだろう。

カタカナは直線が多くて、字面がすっきりしているので、直接的に伝わるのかなと思っている。

暑い、暑い、暑い。
あつい、あつい、あつい。
アツイ、アツイ、アツイ。

やっぱり、「アツイ」が一番暑いような気がする。

それにしても、アツイ。

暑苦しい文章で申し訳ありません。


| | 考えたこと | 19:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
清水義範の作文教室
清水義範の作文教室 清水義範 早川書房

文字通り、作家の清水義範が小学生に作文を教えるという本。

この人は、教育大を出て、先生の免許を持っている。
東京在住だが、弟が名古屋で塾をやっており、そこの生徒に作文の添削する。
その生徒たちの文章の成長と、作者が「作文」に対する思いを綴った本。

小学生だが、みんな上手に書く。

読んでいて一つ感心したのは、学校でやる作文のどこがいけないか、という点。

読書感想文のことが書いてあった。

読書感想文というのは、作文のジャンルの中でも、難しいものだという。
それを小学生に書かせる、というのがマチガイ。

それよりも、自由に題から作らせて、書かせるべき、というのが作者の意見。

なるほど、この本に出ている小学生たちの作文を読んでいると、自由に書くということはすばらしいことだと思う。
どんどん上手になっていく。

作者の添削もすばらしいんだろうと思うが、最初はぎこちなかった子どもたちが、本の中盤ではのびのびと文章を書いているのがわかる。
家族のこと、友だちのこと、何かを観察したこと、シリーズものの小説…、面白い。

「何を書いてもいい。ただし、読み手に伝わるように書く」という方針が子どもたちを育てていくのがわかる。

最後の章で作者は言う。

「論理的思考力がちゃんとあるか、説明力、描写力はどうか、言葉は豊かか、ユーモアがあるか、そして正しい文章と文字が書けるか。それらすべてが、作文からはうかがえるのである。」

「ということは、作文をうまく指導することができれば、一見遠回りのようではあるが、国語の大変有効な教育になるわけである。私はそう思うのだ。」

ぼくらの小学生の頃は、週に1時間は作文の時間があった。
でも、それは今はない。
夏休みの読書感想文や遠足の感想文だけだ。

たしかに、たくさんの作文を読むのは大変だし、それを評価するのも大変だろう。

でも、母が取っておいてくれた小学校の頃の作品があるが、それには赤ペンで先生の感想が書いてあったり、いいところに線を引いてほめていてくれたりする。
その作文を見ると、ふだんは思い出さない先生の顔も浮かべることができる。
ありがたいなあ、と今でも思うのだ。

ぼくも清水義範に賛成。



| | | 00:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
ネコはどうしてわがままか
ネコはどうしてわがままか 日高敏隆 新潮文庫

日高敏隆は動物行動学者。
この人の本は面白い。

ドーキンスという人の書いた、「利己的な遺伝子」という本の翻訳者の一人。

以前、「春の数えかた」というエッセイ集も読んだが、この本もそれと同じようなエッセイ集。

第1部は春、夏、秋、冬の生き物風物詩、第2部は「いきもの」もしょせんは人間じゃないの!?という構成。

題名を見て買った。
本当にネコはわがままだと思う。
人間に媚びたりしない。
我関せず…というふうに生きているように見える。

それは、どういうことなのか…というようなことがたくさん書いてある。

「金網製パイプのモグラのトンネル」というエッセイには…

「かつてイギリスに、モグラについてこんな疑問をもった人がいた。「モグラは地面の下で一生懸命、土を掘って歩き、どこかでミミズに出会ったらそれを食べる。そんなことでちゃんと労力に見合っているのだろうか?」というのだ。
いかにも資本主義の生みの親であるイギリス人らしい発想だった。それで、その人はモグラの生活をくわしく調べてみた。」

こんな書き出しである。

モグラのことも面白いが、作者が面白がっているのは、「イギリス人」であるように見える。
動物行動学者は、人間の行動も面白がって見ている。

「スズメのお宿の謎」には…

「スズメはいつも人間の近くにいるような気がするが、じつは人間をたいへん警戒している。人がたえず出入りする家の入り口などには、絶対に巣をつくらない。ツバメはスズメのこの性質の裏をかいて、できるだけ人の出入りの多い家の軒下に巣をかけているのである。鳥たちの世界も、なかなか複雑なのだ。」

なるほど。そういえばそうかもしれない。

「ネコはどうしてわがままか」には…

「ライオン、トラ、そして、ネコなど、世界にネコ族のけものはたくさんいるが、共通しているのは単独性の動物だということである。ネコ族で群れをつくるのはライオンぐらいしかいない。ネコ、つまりイエネコも、本来、単独性の動物である。このことがネコのネコらしさ、ネコとイヌのちがいを生む一番の根源になっている。」

要は、ネコは一匹で単独に暮らしたがっている…らしい。

人間を親とすると、イエネコは子であり、子が泣くと親は飛んでいくが、親が泣いても、子はこない。だから、飼い主が呼んでも、ネコは来ない…ということだ。

動物から昆虫まで、作者の目はあらゆる生き物に注がれる。

楽しい本だった。


| | | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
コバルト・アワー
このところ、ユーミンの古いアルバムを聴いている。

なかでも、コバルト・アワーはいい。
1975年とは思えない。

ストリングスとエレピ、鈴木茂のクリーンなギター、モータウン風のコーラス…。

「コバルト・アワー」のイントロの飛行機の音、転調の連続のメロディ。
「卒業写真」や「何もきかないで」のギターは、レス・ポールを思わせる、メロディックなソロ。
「ルージュの伝言」…最初は「ルージュ」の意味がわからなかった歌詞。街は「Ding Dong」遠ざかっていくのだ。
「少しだけ片想い」という気のきいたタイトルと、イントロのギター。
「雨のステイション」の二声のコーラス…

他にもたくさんアルバムはあるけど、ぼくはこれがベストアルバムだと思う。

これが、1975年。

吉田拓郎が、「人間なんて」を歌い、「シクラメンのかほり」がレコード大賞。

いかにユーミンが新しかったんだろう…と思わされる。

いい曲は他にもたくさんある。
でも、アルバムは、これが一番。

凝ったコードと、そうは思わせないわかりやすいメロディ、バラエティに富んだリズム…。

あのピンク色のイラストのジャケットもよかった。

1975年…まだ、LPレコードの時代だったんだから…。



| | 音楽 | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
Dog's eye
うちの犬はボールが好きだ。

ボールを蹴ると、追いかけていく。
動くものを追いかけるのは犬の習性らしい。

ボールを蹴ろうとすると、その方向を予測して動く。
それが、サッカーのバックスのような動きになる。
なかなかスルドイ動きで、よくボールを止める。

少々のフェイントではだまされない。

こちらの動きをよく観察している…と感心する。

しかし、よく考えたら、地上数十センチに視点があるのだ。

身体全体の動きなど見ていない。

足とボールの位置関係だけを見ている。

だから、いくら右を指してから、左の方に蹴ってもそんなことにはだまされない。

それはそうだろう。
あくまで、蹴るという行為は、身体の向きよりも、足を上げた方向でほぼ決まる。
そこしか見ていないから、ボールの方向がわかるのだ。

優秀なバックスの選手は、普通の人よりも視点が低いのかもしれない。

Dog's eyeで見ていると、止めやすいのではないか。

一度、ゴールライン上に犬を立たせて、人間とどちらが蹴る方向を予測するのがうまいかやってみる、という企画はどうだろう?

もちろん、身長の問題でボールを止めることはできないにしても、蹴る方向を予測するのは犬の方がうまかったりしないだろうか…。

きっと、素人の人間よりは犬の方が強いと思うのだが…。



| | 考えたこと | 20:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
ナレーション
NHKの朝のドラマ、今回は東京制作の「瞳」というタイトル。

北海道から出てきた孫娘が、東京下町の祖父の家に住み込んで、祖父とともに里親となって子どもたちを育てながら、ブレイクダンスの教室に通う…というドラマ。

西田敏行、前田吟、木の実ナナという芸達者の役者が出ている。
主人公もまあまあ、子役も上手で役者は申し分ないのだが…。

ナレーションがひどかった。

とにかく、解説をする。
里親制度をはじめ、状況設定の解説が長々と入る。

まるで、小学校の道徳番組のようなナレーション。

マトモな脚本なら、ドラマの中の状況や会話で見ている人にわからせるのが普通。
クルマで音だけ聞いていたら、よくわかる。
とにかく、ナレーションが長い。

ナレーションで説明するというのは、脚本の失敗だと思う。
一日15分のドラマだからいくらかは仕方ないと思うが、あまりにもひどかった。
見ている人のレベルがよほど低いと思っているのか…。

…と思って見ていたら、ナレーションがほとんどなくなった。
さすがに視聴者から文句が出たのだろう。
それとも、もう説明することがなくなったのか。

前の「ちりとてちん」がよかったのに(ナレーションは主人公の目線で、回想するところだけに使われる)、今回はちょっと失敗。

ついでにひと言…。

前田吟は、寅さんの義理の弟(さくらの婿)でおなじみだ。
ようやく、あの役の影は薄くなったが、彼を見るとまだ寅さんを思い出す。

思わず、久しぶり!と心の中で声をかけた。


| | 考えたこと | 18:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
パックマン
昭和50年代後半。

インベーダーゲームから始まって、いろいろなビデオゲームが出てきた。
その中にパックマンというのがあった。
迷路状の通路にある点を、パックマンが食べながら進む。
追いかけてくるヤツにつかまったら負け…そんなゲームだったと思う。

そのパックマンに似たものがある。

偏微分の記号。「∂」ラウンドディーというらしい。
高校で習う微分は「d」を使うのだが、偏微分というヤツはラウンドディーを使う。

ずっとサボっていた数学の授業に行ったら、黒板にラウンドディーがたくさん書いてあった。
あれは何や?と友だちに聞くと、偏微分の記号だという。

結局、偏微分というものとはお近づきになれないままだったが、仕事を始めてから、あの記号に会うことがあった。
あれを見るたびに、当時はやっていたゲームを思い出し、「パックマン」と呼んでいた。
まったく理解できないままこの年になる。

こないだ、食卓の上に置いてあった長男のプリントにもこの記号があって、その問題にマルがついていた。

完全に追い抜かれたなあ…と思う。

そんなことがたくさん出てくる。


| | 考えたこと | 10:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
ウィンブルドン
ウィンブルドンの男子シングルス決勝。

今やっているが、どちらが勝つのか…。

ぼくとしては、フェデラーに勝ってほしい。
蝶のように舞い、蜂のように刺す…これがフェデラーのテニス。

一方ナダルはパワーだ。

今ではめずらしい、片手打ちのバックを使うフェデラー。
そんなに鍛えられた身体には見えないが、みごとなラケットさばきで、淡々と相手の苦しいところをついていく。

勝てば6連勝。

あと2時間ほどで勝負がつくが、これぞプロスポーツという試合。

どちらが勝っても、スゴイ。

昔は、ボルグ対マッケンロー。
夜中までテレビの前を離れられなかった。

タイブレイクで、最後にボルグがとって、コートの上に倒れ込んだ場面は忘れられない。

こんな試合ができるプレイヤーは、ラッキーなんだろう。

どっちもがんばってほしい。






| | 考えたこと | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロッキー・ザ・ファイナル
ビデオを見た。
ロッキー・ザ・ファイナル。

レンタルビデオでずっと見てきたが、一つ飛ばして、ファイナルを見たことになる。

よかった。

ファンタジーみたいなものだろう。
50歳を越え、妻を亡くし、レストランを経営するロッキーが、現役のチャンピオンと試合をする。
エキシビジョンマッチとはいえ、マトモに試合ができるわけはないのだ。

昔トレーニングで走った道を、老いぼれの捨て犬を連れて、走り、階段を上がっていく。
もうスパーリングの練習もできない。

それでも、「思い」を残したまま生きていくわけにはいかない。
親父から独立して、自分を見いだせない息子もいる。
もう一度だけ、リングに上がらなければいけないのだ。

レストランの経営で生きていくことはできる。
客に、昔話をして、一緒に写真を撮って、そして、亡き妻エイドリアンの墓にバラを置き、語りかける…毎日同じことの繰り返し。

そして、最後のリングに上がり、現役チャンプと戦う。

勝敗は問題ではない。
最後まで立ちつづけ、リングに思いを残さないこと。

昔のトレーナー、エイドリアンの兄、息子、友だちに囲まれて、リングを去っていくロッキー。

ロッキー・ザ・ファイナル。

題名にふさわしい映画だった。



| | 映画・舞台 | 17:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
演歌のスピリット
今日は学生のライブを聴いた。

なに系と言ったらいいのか、カテゴリーが難しい。
少しエスニックな感じで、ポップという感じではない。
昔の五輪真弓みたいな感じ…と聞いていたのだが、それにしてはドラムスの音が大きい。ロックといえば、ロックなのだが。
何といえばいいのだろうか…。

70年代のフォークというのは、まずはアメリカのコピーで始まり、カントリーからの流れで曲ができていた。
その後、ロックというのが出てきたが、これにはいろいろな定義があるらしい。
ひと言で、ロックとは何か?というのは難しいようだ。

ぼくは、ロックというのは60年代に出てきた、黒人のブルースを発祥とする音楽…というような感じかなと思う。
その意味では、ビートルズは最初からロックの香りがするポップスだったのではないかなあ、と個人的には思っている。

話がそれたが、今日のバンドはそういうものでもない。
確かにうるさいほどのドラムスとシャウトするボーカルは、ロックという感じがするものの、もっと東洋風のものだった。

もちろん、東洋にはロックはないなどと言うつもりはない。

今日の東洋風というのは、聞いていて直感的に思ったことで、説明が難しい。

でも、今これを書いていて思い当たるのは、リズムはエイトビートや16ビートであっても、あの歌は、演歌の香りがする…だから東洋風と感じたのだろうと思う。

聞いている学生たちからは、声援が起きていたし、ライブハウスでも活躍しているバンドらしいから、それなりの支持を得ているのだろう。

今の若い人たちは演歌など全く聞かない。

五木ひろしや森進一、都はるみ、八代亜紀など、全く知らない。
うちの子どもたちは、「和風」という言葉で形容したりする。

若い人が演歌を聴かなくなったのは事実だが、演歌のスピリットは生きているのではないか。

去年の冬、親しい人たちで寿司屋に行って、座敷で河豚を食べたとき、店の中では演歌がかかっていた。
あー、こんな夜は演歌がしみるなあ…などと言いながら、酒を飲んだ。
これがぼくらの演歌に対する感覚。

でも、今日の学生のバンドを聞いて、彼らも日本人であり、バスドラのリズムが効いた、シャウトする音楽ではあっても、演歌のスピリットがそこに生きている…そんな気がした。

そういう意味では、これこそ日本のロックなのかもしれない。




| | 考えたこと | 23:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
半分
今年も半分以上過ぎた。

毎度書いているが、早い。

この調子で年をとっていったら、あっという間に60の大台に乗る。

年が明け、桜を見て、梅雨を迎え、暑い夏、虫の声、そして師走。

人生は短い。
そんなことを考えるのが五十代…フィフティーズだろう。

竹内まりやの「人生の扉」では、陽気にはしゃいでた幼い日は遠く 気がつけば五十路を越えた私がいる と歌われる。

そうだよね、と言いたくなる。


今日はビールとワインで酔っぱらった。

時には楽しい酒で、つかの間時間を止める。

くだらなくて、有意義なハナシ。飲み屋談義。

そんな時間があれば、年をとるのも楽しいだろう。

どれだけそんな時間が持てるのか…。

わからないが、楽しみにしよう。




| | 考えたこと | 01:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
イタチの道
会社に入ってから、この言葉を知った。

イタチは同じ道を通るのを嫌うということらしい。

入社してから数年間、毎月一度は神戸から茨城県の土浦というところまでクルマで出張していた。
クルマで出張していたというより、クルマを運んでいたというべきか…。
運がよければ、二人で一台、たいがいは一人一台で走った。

朝早く吹田のパーキングに集合して、12時間以上かけて走る。

用賀インターから、都心を抜ける首都高速が渋滞して、大変だった。
当時はまだ首都高6号向島線が、向島までしか開通しておらず、そこで降りて水戸街道を走る。

首都高の箱崎で大渋滞し、そして向島から松戸、柏、取手、牛久、土浦まで、今考えたよく一日で走っていたと思う。

何年か経って、いろいろと新しい道ができ始めた。
都心をドーナツ状にして、広がっていく道が整備されていた頃だ。
つくばの博覧会もあったし…。

新しい道ができると、当時の課長が、こっちの方が早く着く…ということで、そっちを通っていこうということになる。
みんな無線を積んで走っていたので、交信しながら走るとはいうものの、交通量が多いのでぴったり一緒に走ることは難しい。

ぼくは方向オンチなので、できるだけ知らない道は通りたくなかった。
少々時間がかかっても、知っている道を…と思っていたのだ。

逆に課長は知らない道を走るのが好きだった。
この道を通ると早い…と言って、道を変える主義だ。

時々、間違う。
間違っても、元の道に引き返そうとしない。
間違ったまま進み、目的のルートに戻ろうとする。

Uターンは御法度である。

前置きが長くなったが、それを称して「イタチの道」という。

「課長はイタチの道やからなあ…」

今日は懐かしいフレーズを思い出した。




| | 考えたこと | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
年をとる
年をとるのを意識するのは、どんな時だろう。

年齢が増えていくことが年をとることなのだが、それはあくまで物理的な基準でしかない。

20歳、30歳、40歳、50歳と年をとってきたが、20歳から30歳は(今から思えば)そんなに年をとったという意識はなかった。
単に、二十代ではなくなる、という寂しさくらいだった。

40歳はちょっとこたえた。
十代の頃に想像できるのが、30歳くらいまでの自分だったような気がする。
それを越えてしまったという感じ。
自分が40歳のおじさんになるとは、思わなかったという感慨。
でも、結果的にはまだ若い。

50歳は本当に年をとったと思う年齢ではないか。
否応なく意識させられるのは、老眼鏡。
近くの文字が見えない。電車で本が読めない。
ひょっとしたら、もともと眼鏡をかけている人はそうでもないのかもしれない。
ぼくは全く眼鏡をかける習慣がなかったので、本当に不便。
その不便さが年齢を意識させる。

もう一つは、疲れだろう。
身体を使うと、2日後にくる。
何で痛いのか、わからない。
この感覚は、きっと40代の人にはわからないだろう。
最初は、次の日に何ともないので、大丈夫…と思っているだけに、2日目はこたえる。

覚えているはずのことが出てこない。
あれ、あれ…といいつつ、思い出せない。
役者の名前や映画のタイトル、作家の名前や本の題名、昔の友だち…。

そんな些細なことで不便だったり、困ったりすることが、一番年齢を感じさせる。
それが年をとるということかもしれない。


でも、これは自分がまだ51歳だからそう思っているのであって、きっと60歳になったら、50歳など若い若い…と言うのだろう。
今から想像できる。

もうこれからは、坂を下っていくばかり。

いいことも書いておこう。

いやなことは、忘れやすくなった。
何かをあきらめることに寛容になった。
少しは世の中のことがわかってきた。
でも、わからなくてもいいや、とも思えるようになった。
永遠とか、無限とかいう言葉より、そのうちとかぼちぼちとかいう言葉がよくなった。
神さまに親近感が出てきた。
思っていてもできないことの方が多いことがわかった。
人生が有限であることがわかった。
自分がロクでもないやつだとわかった。

年をとったという意識は、いい方にもあるということで、引き分けか。

どれが勝ちで、どれが負けで、どれが引き分けなのか…よくわからないけど。


| | 考えたこと | 23:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
雪国
国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国だった…

今、「お言葉ですが」という高島俊夫のシリーズの最新刊(文庫)を読んでいるが、その中に川端康成の「雪国」の英訳が出てくる。
それ自体が話題ではなく、本では「国境」を「こっきょう」と読むのか、「くにざかい」と読むのか…ということが話題になっている。

ぼくが面白かったのは、その読み方ではなくて、この英文そのものだった。

この、有名な「雪国」の書き出しの部分は英語では、

 "The train came out of the long tunnel into the snow country."

と訳されているとのこと。

普通の日本人なら、この部分の主語は"I"になるのではないか。

どう考えても、この部分は汽車に乗っている人の思いが書かれているのだと思う。

「私は長いトンネルを抜けて、汽車が雪国に入ったことに気づいた」というような英文が自然だと思う。

もちろん、英訳をした人は英語を母語とする人だろうし、日本語にも通じている人だろう。

その思いもわかった上で、この英文が自然なのかもしれないし、ひょっとしたら「私は…」というニュアンスを含んでいるのかもしれない。

それでも、どうも納得できない。

こういう事例をみると、一つの言葉をもう一つの言葉に置き換える(翻訳する)という作業は、とても難しい…というより、不可能なのではないかと思ってしまう。

それが文学だから…、だとは思うのだが。




| | 考えたこと | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |