考えたこと2

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クレイジーケンバンド
「香港的士」がよかったので、クレイジーケンバンドのCDを借りに1年ぶりくらいでTSUTAYAに行った。
かろうじてまだ会員証は有効だったので、ラッキー。

J-Popのところを探したがクレイジーケンバンドは見当たらない。
置いていないのかと思ったら、「あの頃」というコーナーがあって、どちらかというと中高年向けの棚にあった。
けっこうな枚数があって、その中からベスト盤の「鶴」と「亀」の2枚と「Spark Plug」というCDを借りた。
しかし、ライブツアーもやっているまだまだ現役のバンドが「あの頃」という棚にあるとはなあ。
そういえば、YouTubeでライブ映像を見たが観客はまだ若かったような気がするが、40代以上だったかもしれない。
自分を中心に若いとか年寄りだとか判断してしまうと間違う。
最近はドームや武道館でライブをしないと現役と見なされないのだろうか。

それにしても、CDの棚が減ったのに驚いた。
ネットに移行しているんだろう。
聞きたい曲だけ買うということもできるようになったから、TSUTAYAは流行らないのかもしれない。

このバンド、オフィシャルホームページに「1997年の春頃、横浜本牧の伝説的スポット「イタリアンガーデン」にてヌルッと発生。“歌うメロディー・メイカー”横山剣の脳内に鳴りまくってるゴキゲンにソウルフルな音楽をブレなく再生する事のできる東洋一のサウンド・マシーン!」と書いてある。
20年のキャリアだ。

曲を聞いていると横浜をテーマにしたものが多く、香港とアメ車が好きだというのが伝わってくる。
リーダーの横山剣というのがケンバンドのケンだろう。
このバンド、ホーンセクションやコーラスの感じはソウルミュージックを意識しているが、中には歌謡曲の感じがある。
やぼったい感じがなんともいえない魅力になっている。
時にコブシを転がして歌う横山剣は、ほとんどの曲を作詞・作曲しているが、ソウル調あり、フォーク調あり、歌謡曲調あり、中には演歌調の曲もある。
みんなのうたの曲も1曲あった。
何とも言えず、昭和なのだ。

きっとウチの息子達が聞いたら、昭和のニオイがする、というだろう。

でも、ノリはいいし、一度ライブに行ってみたいと思って11月の神戸講演を調べたらもうすでに売り切れだった。
実はこのバンド、神戸の西原商会という食品商社の社歌を作っていて、それをCDでリリースしている。
その西原商会も協賛だった。
けったいな会社だ。
いや、けったいなバンドかな。

まあ、ライブは次の機会にしよう。

このバンドは中毒性があるぞ。



| | 音楽 | 20:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
香港的士
香港的士(ホンコンタクシー)という曲にハマっている。
クレイジーケンバンドという、名前だけは聞いたことがあったバンドの曲。
別に興味はなかったのだが、偶然つけたBSの音楽番組でやっていた。
ボーカルが特徴的。ぼくはあまり好みではないがバックの演奏と何とも言えない香港の感じがいい。
このバンド、だいぶキャリアも長くて業界内のファンも多いらしい。
あのユーミンもファンだという。

香港には1980年代の終りに出張で行ったが、当時の香港は不思議なところだった。
まだイギリスが統治している時代。
でも、イギリスは統治はするが、香港の人にだいぶ任せている感じだった。
1997年に返還が予定されていたからだろう。

良くも悪くも、エキゾチックな猥雑さがあった。
すごく高いレストランがあるかと思えば、安い屋台もある。
外を歩いていると、夜にワゴンにたくさんブランド物の腕時計を入れた人に呼び止められたりした。
本物なら全部を合わせると総額で億に届こうかという値段だ。
当時はだいぶ厳しくなったようだったが、それでもそんな模造品の商売をやっている人もいた。

家庭で料理するよりも屋台で食べたほうが安い、というところ。
その当時オフィスで働く香港人の女性が言っていた。
だから、女性も働きやすいというようなことを言っていたと思う。

ちょうど日本はバブルの絶頂期。
今と違って、日本中がやたら元気だった。
その勢いで行った出張だったなあ。

この曲はこの頃の感じを出している。
何となくいい加減で、明るい所だった。
ブルース・リー、ジャッキー・チェンなど映画も盛んだ。

若い香港人は、今の体制なら一つの中国になるのを嫌がっているようだ。
それはそうだろうなあ。
自由の中で育ち、教育を受けた世代だ。

2047年には、中国の体制になることが決まっているが、どうなるんだろうか。
その時まで共産党一党独裁は続いているのだろうか。
あと30年ほど。

ぼくはその瞬間を見ることはできないと思うが、どうなるのかなあ。

まあ、香港的士でも聞いておこう。


| | 音楽 | 23:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
テレビ公開討論
アメリカの大統領選挙はいよいよ佳境に入ってきた。
あと1ヶ月ちょっとで選挙。
これだけ長い期間で候補者が意見を述べ、言い合い?をすると否が応でも関心が高まる。
選挙費用は膨大だろうが、少しは日本も見習ったらいいと思う。
地方選挙など、一般の市民は全く知らない人が短い期間で低い投票率で選ばれてしまう。
あれなど、もっとマスコミが討論会をやったらいいのだと思う。
そのために受信料を払っているのではないか。

それはともかく、ワールドニュースなどで見ると、ヒラリーがちょっと優勢だったと思う。
これも、たくさんのスタッフが想定問答を考え、何度も練習をし、服装・髪型・態度に至るまでチェックをして、選り抜きのスピーチライターがシナリオを考えてやっているんだろう。
そういう意味では、ヒラリーの方がスタッフも揃えているし、練習も積んだ感があった。
常に笑顔を絶やさず、あまりトランプの挑発に乗らなかったようだ。

一方、トランプは大統領という職を意識して、いつもの舌鋒鋭い下品なツッコミは控えた。
それはもちろん大統領選ということだから当然なのだが、それを抑えた時に代わりになるものがなかったという感じだ。
共和党内の候補者選びの時に言っていたような言い方は、大衆には受けるが今回は大統領選だから仕方なかったんだろう。

いろんな論評が早くもネットに出ているが、東洋経済の記事にこう書いているところがあった。

「一方で、クリントンは長時間の準備と練習を重ねており、その成果は明らかだった。今回、一つ分かったのは、トランプは、自分の主張を一方的に展開することは得意だが、相手の主張に対し、ロジカルに反駁する1対1の討論は実に不得意だということだ。
相手の主張を覆すだけの正確な情報もロジックも持ち合わせていないし、マルチイシューを複合的、多層的に論じることができない。だから、常にシングルイシューに絞り、小学生レベルの言葉で、がなり立て、相手を圧倒しようとする。学校にいるいじめっ子と同じ、と言われるゆえんだ。」

たしかに共和党の候補者は多かったし、その中でトランプは抜きん出て目立っていた。
白人の低所得者層に訴えるものがあったからだ。
従来の政治家にはない魅力があったんだろう。

でも、1対1での討論は不得意だったのか。
なるほど、ビジネスで成功をおさめた(一説にはそれも怪しいという人もいるが)彼は、練習などというかったるいものは嫌いだろう。
テレビ界で成功したという実績もある。
だから、そんなに練習しなかった。

彼の得意なのは、「わかりやすい」ことだ。
メキシコ移民のことにしても、貿易協定のことにしても、それによって損をした人の事しか言わない。
簡略にするために、ウソも混じっている。
それが多くの支持を得たから、ここまで来たということだ。

でも、現実の政治はいろんなことが絡み合っていて、ややこしい。
ヒラリーは、そういう側面を見せて優位に立ったと思う。

トランプは討論会後には「勝った」と言っているが、後2回の討論会をどうしようかと考えているだろう。
出ないほうがいいという意見もあるらしい。

でも、大統領になるには、出て言い負かさないといけないということはわかっているだろう。
次回はもっと修正してくると思う。

他国の大統領選挙だからこそ、岡目八目で見ていられる。

| | 考えたこと | 21:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
自動運転
アメリカではGoogleが自動運転車の路上試験を行っている。
動力がモーターになったことで、自動車業界の参入障壁は大幅に下がったのだろう。
エンジンを作るのは部品点数も多いし、組み立てるのも大変だからなあ。
とりあえず、お金さえあればモーターの自動車を作るのはかなり楽になる。
変速機も要らないし、電圧だけでの制御ならわりと楽だ。
その代わり、レーダーをたくさん備え、カメラも付いていて回りの状況を判断し、GPSの信号にしたがって目的に行く。

Googleのとりあえずの目標は、シティコミューターみたいなクルマに見える。
買い物に行くとか、近くで人と会うとか、そういう時に呼び出して乗って行き、目的地に着いたら乗り捨て、お金は距離に応じてクレジットカードで落ちる、というような感じだろう。
それらのクルマが街なかを走り回り、クルマは所有するものからシェアするものに変わっていく、というのが未来像だ。

その、Googleカーが先日事故を起こしたとのこと。
でも、それは信号が青になって6秒たってから発進したところ、右側から信号無視をして走ってきたクルマに当たったらしい。
全てはカメラに記録されているだろうから、当てたドライバーは申し開きもできないだろう。

けが人はいなかったらしいが、Googleのクルマはいろんな装備が付いていて、値段が高いからどうなるんだろうか。
すごく高い信号無視になったのかもしれない。

今回の事故で、Googleは事故の94%は人為的ミスだから、これからも自動運転技術の開発を行っていく、という発表をしたらしい。
それは納得がいく。
人間が運転するから、事故は多い。
それは事実だろう。

おそらく、自動運転車が走り回る未来は、事故は激減するはずだ。
そういう未来に生きる人達はハッピーかもしれない。
保険会社の収入も激減するだろう。

でもなあ、免許を取って、クルマを初めて運転した時の感激は忘れられない。
最初に友人3人で買った軽自動車で夜中走り回った経験は、自分で運転し、意のままに動くものを手に入れた、という感動だった。
今の車よりも不便で、冬の朝はなかなかエンジンがかからないとか、夏はエアコンがなくて窓を全開にしても暑かったとかそういうことがあっても、やっぱりクルマを運転する楽しさがあった。

いくつかの記事でも、クルマを運転する楽しさはどうするのか、ということが書いてあった。

今の免許保持者の中には、運転が面倒くさいという人もいるだろうが、運転が楽しいという人は一定数いるだろう。
そこらあたりの折り合いをどうつけてくれるのかとぼくも思う。

そういう人たちは地下に潜って、夜中にこっそり改造車で走り回るという時代になるんだろうか。
あながち想像できない未来でもない。

| | 考えたこと | 21:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
入試改革
以前の日経の大学関係の記事で、私立大学連盟の会長が、もっと私学にも補助金をという意見を書いていた。
いつもこの手の話になったら出てくる、OECDの「学生一人当たりの公財政支出」で日本は最低水準、というグラフが載っていた。
しかし、今回はそこに国立大学と私立大学の学生一人当たりの支出額のグラフが出ている。
それを見ると、国立大学の学生にはOECDトップクラスの支出があった、ということだ。
ということは、2割の国立大に支出が偏り、8割の私立大にはもっともっと支援が必要、ということを言っている。

この会長が言う、私立大学のほうが圧倒的に学生数が多く、人数的に日本を支えているというのはわかる。
しかし、私学のやっている入試が日本の教育を歪めてきたのも事実。
50代以上の世代はわからないかもしれないが、今の文系私立大学の入試は英語と国語と社会(いずれか1科目)だけやっていればクリアできる。
下手をすると、英語と1科目でもOKの大学も多い。
3科目でクリアできないところはごくごく一部の難関大のみだ。

さらに、今の高校生の約半分は、古い世代が考えているところの入試を受けない。
推薦やAOという道で大学に入るのだ。
短期大学などはほとんど全部が推薦で入学者を集めている。
大学では半分まで、と決まっている推薦入学の基準がないためだ。

文科省の平成26年度の学校基本調査によると、大学生の総数が252万人、うち私学に行っている学生が198万人。
そのうち文系学部に行っている人が143万人くらいだから、大学生全体でいうと、57%の学生が私立文系と言える。
でも、実際に私立大学の場合は一般入試が半分程度で、あとは推薦、AOだから注意が必要だ。
下位校になればなるほど一般入試で入る人は少ない。
推薦、AOというのはどんなものか、というのはこのページを見てみてほしい。

50代以上の人たちが考える「推薦入試」というのは、成績が良く、家庭の収入が低い、昔でいう「優秀な苦学生を支援する」というようなものだろう。
残念ながら、今の推薦入試は違う。
大学数が増えるのと同時に推薦入試の概念が拡張され、今や自己推薦も可という学校もある。

文科省の指導で、推薦入試は定員の半分まで受験生を取ることが出来る。
このページに推薦・AOの問題点などが書いてある。
多くは学力や態度に関するものだ。
推薦やAOで入ったら授業についていけない、という感じのものが多い。

それもあるだろうが、ぼくは思春期の高校生が先生に文句が言えないということがあると思う。
指定校推薦でも、公募推薦でも、評定平均値が何点以上という枠になる。
いいところに推薦されるためには、評定平均値を上げないといけない。
当然、試験の成績、普段の提出物、課外活動などが評価される。
早く済ませて楽になりたいという生徒の意識と、楽に指導したいという先生の思惑がここで一致する。
推薦で入ろうと思うと、先生の機嫌を損ねてはダメだ。
どうしても「推薦」という行為に恣意的な部分があるからだ。
先生の顔色を見る生徒が増えているということが、大学卒業後指示待ち体質の若者が増えたなどと言われることにつながっているのではないか。
高校の先生は楽になったと思うが、人格形成上いいことだとは思えない。
イエスマンを育てている事の不具合はあまり取り沙汰されないが、その問題はきっとあると思う。

今やかなり成績の悪い生徒でもどこかの推薦を受けることができる。
それだけ全入化が進んだということだ。
その場合、もちろん専願になる。
下位の大学はそうしてでも枠を埋めたいのだ。
だから、昔のように「推薦入試は成績のいい人が受けるもの」というのは、今は違うということだ。

AO入試は何度か書いたが、やりようによっては一番まともな入試だと思う。
どういう定義かというと、「出願者自身の人物像を学校側の求める学生像(アドミッション・ポリシー)と照らし合わせて合否を決める入試方法である。」というもの。
学力だけでなく、こういう活動をしている人とか、こういう志を持っているとかいうところで入学を決めるということ。
そのために、学生像確認のための面接を行うのが特徴。

でも、下位の大学ではあまり機能していない。
さらに、AO入試は一般入試の扱いになるので、推薦入試だけでは定員の半分までしか取れない学生を、一般入試の前に半分を超えて志願者を取ることができる。

本来なら、AO入試は各大学の腕の見せ所、という感じになる。
国立大がやっている一芸入試なども、これに近い。
ところが、ちゃんとアドミッション・オフィスを置いて、いい学生を取るために一年中高校を走り回り、頑張っている学校はほとんどないだろう。
今の日本のAO入試は、一般入試を受けたくない志願者の抜け道になっているという感じだ。
それが証拠に、AO入試で入った学生の退学率が高かったりする。
求める学生像に合致するなら、退学などしないはずだ。

文科省は大学入試改革をやっているが、そんなことをやらなくても、推薦入試とAO入試を合計して定員の20%以下にしないと補助金をカットする、というだけでも大きな変革になる。

来年度からでもやると言えばいいのだ。
そんなことは大学関係者ならわかっているはず。
経営の問題など関係なく、入試改革というならそうすべきだ。

そして一般入試の回数を減らし、科目を増やして、記述式の試験を実施する。
それをやってから、私学の助成を増やせばいい。
それこそ真の入試改革だ。


| | 考えたこと | 22:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
ネコノミクス
ネコの飼育数がイヌを上回ったというニュースをだいぶ前に見たが、実際ネコの人気が高い。
記事によると、ネコの経済効果は直接的なエサ代とかが年間で1兆円を超え、ネコ関連のコンテンツで30億、ネコの観光効果(たま駅長など)が40億らしい。
さらに、それに付随する経済効果を入れると、2兆3千億ということだ。

ちなみに、グーグルでネコ動画という文字を入れて検索すると、725万件、イヌ動画なら92万6千件だったから、一桁違う人気。
人口の高齢化が進み、共働き世代が増え、イヌよりもネコのほうが飼いやすいということもあるんだろうが、それにしても飼育数ではそんな差はないのに、この人気は何だろうと思う。

ぼくらが小さい頃は圧倒的にイヌだった。
名犬ラッシーや名犬リンチンチンなど、テレビでもイヌだ。
まあ、それはそうだろう。ネコにはなかなか芸はできない。
超犬リープというマンガもあった。
ネコの動画は多いが、どちらかというと演技という感じではないから面白いのだ。
撮影のシナリオにしたがって動くなどということなら、イヌでないとダメだろう。

ネコが出て来たものというと、ハリーとトントという老人とネコの映画か、三匹荒野をゆくというディズニーの映画。
007の悪役が飼っていたのも白いネコだった。
でも、60年代、70年代は圧倒的にイヌだった。

今でもソフトバンクの父さんのように、マスコミで出てくるのはイヌだが、個人が動画を投稿できるようになったのが大きな違い。
そういう個人の投稿サイトではネコが多い。

人口動態の変化を経て、今はネコがペットの主役になった。
これからますます高齢化が進み、手のかかるイヌよりもネコの方が増えてくるだろう。

でもぼくは単にネコは手がかからないから、増えているだけではないと思う。
イヌほど飼い主に依存しないという、性格的なものもあるんだろう。
ペットに従属を求める人が減って、大げさに言えば独立を求める人が増えているんだと思う。
イヌのように単に言うことを聞くだけではなく、ある程度は勝手気ままにふるまう、という感じがいいのだ。
極端に言うと、ペットというより同居人ということだろう。

そういう状況だろうから、ネコが増えているのだと思う。
もちろん、経費が安いとか手がかからないということもあるだろうが…。

結局は一人で寂しい人が増えているのかもしれない。
| | 考えたこと | 20:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
有識者会議
有識者会議というのはコトバンクによると、「各界を代表する学識経験者や実務経験者などで構成される会議。主として国・地方自治体などの諮問機関として設置される。経済界・学界・関連団体・文化人・マスコミなど多様な分野を代表する識者が選ばれ、幅広い観点から議題について検討する。」という定義。

この9月に文科省は「国立教員養成大学・学部、大学院、附属学校の改革に関する有識者会議」というのを設置した。
13日に初会合を開いたとのこと。
ちょっと気になって会議のメンバーを見てみた。
こういうのも調べたら官庁のページですぐに検索で出てくる。
グーグルに感謝。

結果は、中学校長1名、高専関係1名、教育大・教育関係者9名、その他の大学関係者2名、新聞社1名、市長1名という感じ。
その他の大学関係者も調べてみると、教育学関係者だった。
結局新聞社の1名と市長(この人は企業出身)の1名だけが教育関係以外。
構成員15名のうち、13名が今の教育関係者だった。

今の教育の問題は外から見ないとわからないと思う。
教員養成大学というのは、小中高校の先生を養成するところ。
学校の問題は、先生の問題でもある。
今の学校に問題が多いのは誰もがわかっている。
それを改善するためには先生の改革をしないといけない。
それはさすがに文科省もわかっているのだろう。
だからこそ、教員養成大学の改革を考えたということだ。

しかし、教育関係者ばかりではたして改革ができるだろうか。
こと教育というのは国民全てが関係するものだ。
だから、教育をする側だけでなく、教育を受ける側や教育の結果(卒業生)を受け入れる側なども入らないと問題点が明らかにならないし、どこをどう変えるべきなのかすらわからないだろう。

それほど今の教育の問題は根が深い。

本当に有識者を集めるのなら、教育関係者は半分以下にして、それ以外の人たちを集めないとダメだ。
最初に方向を決めるための会議だからなおさらだ。

教育関係者はすべからく文科省の影響下にある。

それではダメだろう。
ずーっと長いこと問題だったことが変わらないのだから…。


| | 考えたこと | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
ら抜き言葉
ら抜き言葉を使う人が増えているらしい。
文化庁の「国語に関する世論調査」で「見(ら)れる」「出(ら)れる」は「ら抜き」を使う人が多かったとのこと。
「ら」を抜くのは、「見られる」というと「見ることができる」という可能の意味と、「誰かに見られる」という受動の両方の意味があるから、より意味をはっきりさせるために「ら抜き」になるという分析結果。

なるほど、そういう気もする。
ぼくは、可能の意味の時に「ら抜き」をやっているように思う。
「見れる」というと、「見ることができる」という可能の意味になるから、限定できる。
それが「ら抜き言葉」のメリットだろう。
つまり、見ることができる、という時には「見れる」、人から見られるという時には「見られる」を使うことが多いということだ。

ちなみに、ブログを「見れる」で検索したら、1件だけ出てきた。
話し言葉なら使うが、書き言葉だとまだ使わないという感じだ。

ややこしいのは、そこに敬語が絡む場合。
「見られる」という言葉は、「見る」の尊敬語にもなるのでそこに敬語の意味もあり、この時は「見れる」ではダメだ。
「見られますよね?」などという言い方は可能の意味なのか、尊敬の意味なのかわかりにくい。
「ご覧になりますよね?」と言えば尊敬に限定されるが、でも「見られますよね?」も使うような気がする。
でも、普通は敬語を使う時に「ら抜き」はしないと思う。

調べると、「ら抜き」の対象になるのは可能動詞だそうだ。
Wikipediaによると、「可能動詞は「〜できる」(可能)という意味を含む動詞である。可能動詞は五段活用の動詞だけから作られるが、それを五段活用以外の活用をする動詞についてまねたのが、いわゆる「ら抜きことば」である。」ということらしい。
五段活用以外というと、下一段活用とか、上一段活用、カ行変格活用、サ行変格活用などがある。
もうここまで来るとチンプンカンプンになってしまう。

中学の国語の時間に、日本語の文法は習ったような気がするが、ほとんど覚えていない。
覚えても役に立たないからだと思う。
ぼくの印象では、根本的なルールみたいなのがなくて、取ってつけたような分類をして、それが場合の数だけあるぞ、という感じ。
でも、エライ人達が考えてそうなっているんだから、仕方がない。
まあ、とりあえず話せるし書けるから、必要ないと思うのだ。

でも、外国人にとって、日本語は習いにくいだろうなあ。
英語に比べて、文法がよくわからないからだ。
おまけに覚えないといけない文字数が多い。
平仮名とカタカナ、その上漢字がある。
日本にいる外国人で、話せて書ける人を見ると、ホントにエライなあと思う。
こんなの、生まれた時から話しているからわかるので、後から覚えるのは至難の業だろう。

でも言葉はどんどん変わっていく。
そのうち、「ら抜き言葉」は正しい表現になるんだろう。
違和感がある人がいなくなれば、それらは古語になってしまうからなあ。



| | 考えたこと | 00:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
楽器の影響
カナダの研究結果によると、幼少期に楽器を練習すると頭がよくなるということらしい。
幼少期というのは14歳までがリミットだ。

ぼくはちょうど14歳からギターを始めた。
中学2年の時。家にあったガット・ギターでベッツイー&クリスの「白い色は恋人の色」を弾いたのが最初だったと覚えている。

そして、唯一ギターだけは下手の横好きで続けてきた。
使ってるのはガット・ギターからフォーク・ギターに変わり、今はメインはエレキ・ギターだ。
ほとんど音を出さずに弾いているのだが…。
練習という意味ではほぼ10年、月に2回ジャズ・ギターを習いに行っている。
でもバンドを組んだこともないし、人前で演奏したこともほとんどない。
単に弾いているだけだ。

研究結果によると、「音楽活動は認識能力のトレーニングに適しており、小さい頃だけでなく大人になってからも脳に柔軟さを与える」という。
その上、「年をとってから認識能力が落ちてきたときにも役に立つかもしれないということになります」とのこと。
いいことずくめだ。

寿命にはあまり関係ないかもしれない。
どこかで、ミュージシャンは普通の人より25歳早く死ぬと言われていた。
単に楽器を弾くのならいいのだが、ミュージシャンとなると産みの苦しみもあるだろうし、そのためにドラッグに入り込む人も多いからなあ。

好きで弾いている程度でいいのかどうかはわからない。
もっと真剣に練習を積まないといけないのかもしれない。
たしかに、そんなに認識能力が人より秀でているとは思えないが…。

でも、楽器をひくのは楽しい。
最近は1人で弾いていても、いろんな機器を使えばアンサンブルもできる。

それがいいことなら、言うことなしだ。

認知症の予防にもなるかもしれないなあ。

| | 考えたこと | 20:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
ジャニーズのお家騒動
今週の文春にジャニーズ事務所のメリー喜多川副社長の記事が出ていた。
そこに書いてあったのが、ファンクラブの延べ人数。
それによると、トップの嵐が約200万人、2番手のSMAPが100万人、全部で15のファンクラブの人数を合計すると、600万人くらいいるのではないか、という。

こないだ書いたように、ジャニーズの肝はファンクラブ。
とにかくファンを大事にして、ファンクラブ経由でないといろんなことが制約を受けるようにしている。
これはメリー副社長の方針だったという。
だから、インターネットは敵だ。
インターネットではジャニーズのタレントの画像はなかなか見られないようにさせている。
グッズは全国4店舗しかないジャニーズショップに行かないと買えない。
北海道のファンは修学旅行で東京に来て、一生に一度そのショップで買えばいいという考え方。
その方針がファンの飢餓感を煽り、ショップには列ができている。

メリー副社長は若い子にお金を使わせてはいけない、と考えているという。
だから、コンサートのチケットの転売を防止するためにいろんなことをやっている。
平成の宗教であるジャニーズにしては、ファンクラブのメンバーは機会均等、公平公正でなければならないのだ。

今のジャニーズをここまでにしたのは、メリー副社長が作り上げたファンクラブのシステムだと思う。
黙っていても、年間240億程度が入ってくる。
もちろん、それを維持するためには営業努力が必要だと思うが、アナログだがよくできたシステムだと思う。
その感覚が宿敵であるSMAPのマネージャーとは合わなかったんだろう。
メリー副社長はSMAPのマネージャーをあまり歯牙にかけていなかった感はあるのだが…。

その不仲が、メリー副社長の娘のジュリー喜多川にも引き継がれたらしい。
ここに来て、事務所の後継者争いの様相になる。
SMAPはその後継者争いの犠牲なったということだろう。

どこの会社でも創業者社長の後継者問題というのはもめるものだ。
男ならともかく、女系になるとよけいに泥沼になるだろうなあ。
メリー副社長は後継者については、自分の90歳が節目だと言っているらしい。

文春によるとメリー副社長の90歳の誕生日が今年の12月26日で、奇しくもその日がSMAPの番組の最終回の日だという。

SMAP問題は来年も続くだろうなあ。

| | 考えたこと | 21:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
GPの意味
民間企業から大学に転職して、最初は大学業界というのは開かれているなあというのが印象だった。
どの大学でも、何かを聞きに行ったら教えてくれるし、それをホームページや文科省のサイトで公表していていたりする。

民間企業では考えられない。
特に私立大学はお互いに受験生を奪い合っており、エリア内ではもろに競争相手だ。
民間なら同業他社に「どうやって売っているんですか?」「次の新製品はなんでしょうか?」などという質問をすることは考えられない。
聞きに行くこともあり得ない。
それは営業上、技術上の秘密だからだ。
当たり前すぎることだが、大学業界はそれがないということに驚いたものだ。
実際幾つかの大学に見学に行き、ヒアリングしたこともある。
まあ、教育業界だから、お互いに教育をよくするのは当然、という了解があるのだろうと思っていた。

GPという文科省の特別補助の枠組みがある。
これは国際基督教大学の絹川先生の発案によるものらしい。
当初は「特色ある大学教育支援プログラム」という名前で始まり、2年目から特色GPという名称に変わった。
その初代実施委員会の委員長をやったのが絹川先生。
GPの定義は「教育改革の参考となる「優れた取組」を見つけ出すうえで、国立・公立・私立といった枠にとらわれることなく広く公募し、申請のあった取組の中から特に優れた取組を選ぶこととしています。これは各大学等が積極的に教育改革に取り組むことのできる環境、つまり「競争的環境」を整えることで教育改革への動機づけ、インセンティブを与え、互いに切磋琢磨することを目的としています。」と書いてある。
始まって数年、絹川先生の講演を聞きに行って、先生がぼやくのを聞いた覚えがある。

GPは”Good Practice”の略で、各大学がやっている「良い取り組み」を紹介するというもの。
絹川先生は、こういう良い取り組みをやっているので、お金を出してよその大学に紹介してどんどんやればいい、という意図で提案したという。
必然的に、良い取り組みがいくつか出たら、あとはまねするだけなのでやめてもいいというのが意図だったという。
それがいつまでも終わらない。
役人に予算をつけたら、ずっとやる、ということの典型だ。
今やGPの発表会に呼ばれていくことがあるが、小学校の総合学習の発表みたいなものだ、という発言もあった。
今回そういう発言をネット上で探したが、公式には見つからなかったが…。

実際、GPを獲得して、各大学で発表会をやっていたりするが、まあやらないよりはマシという程度のものが多いと思う。
なかには義務だから仕方なくやるという学校もあるだろう。
また、毎年年度末に他大学のGPの報告書が送られてきたりするが、不要に立派なものが多い。
ぼくが見てびっくりしたのは、ケース付きの厚み3センチはあろうかという立派な想定の報告書。
これはもらった予算を使い切るために作ったんだろうなあ、と同情するのだが、一方でムダな補助だと思う。
こんなので大学の図書館は蔵書がいっぱいになって困っている。
それなら、電子書籍で出したらいいのだが、それでは値段が安くなるから予算がはけないのだろう。

そこでぼくは気づいた。
大学が教育について開かれているのは、教えても真似できないことがわかっているからだ。

金沢工業大学という教育熱心な大学がある。
北陸に骨を埋めるつもりの教員だけを雇い、学長を筆頭に教育に熱心な大学だ。
そこを見学に行ってスゴイなあと思った。
設備や開室時間など、金があれば真似できるものもあれば、厳しい初年次演習プログラムなど、やる気になったらお金がなくてもカリキュラムを変えて真似できるものもある。
でも、未だにそれらをやっているのは金沢工業大学だけだろう。
行った時に聞いたら、いろんな大学から非常にたくさん見学に来るとのこと。
低い偏差値の理系大学としては、就職率が高く、実績も出ている。

見学を終えてレポートを書き、こういうことをやらないといけないと言っても、それだけだ。
学長に話しても「それはいい」というだけで、展開されない。
学内に回覧してもうんともすんとも反響がない。
結局何も変わらない。
ぼくは就職支援を始めて1年目だったが、不思議だった。

何で大学はよその大学の真似ができないのか。
結局は民間のように、共通の目標を持って組織で仕事をしていないからだ。
いざ何かを変えようとしても、そんな面倒くさいことはやりたくない、という教員が反対する。
もちろん、理由はいろんな名目を立てる。
曰く、学生がついていかないとか、ウチの大学では連携がうまくいかないとか…。
下位の学校では、教員は個人商店で、組織で働いているという気がない。
何かというと、それは教授会で決めようという。
それは文字通り、教授会で決めるということだ。
誰が決めたかという責任はうやむやになる。
そしてやらないことを決める。

上位の大学の事情はわからないが、偏差値50以下の学生を大量に受け入れている大学はもっと組織的に仕事をしないといけない。
何でも教授会の協議で決めず、もっと組織の原理で決めないといけないと思う。
特に人事は学長の専権事項にしないといけない。
それは大学になじまない、という人はいるだろうが、下位の大学はもはやその人達の考えている大学ではないのだから。

ウチは入試が成立していないのだから、入った学生をまじめに教育しないといけません、というようなことがミッションにならないといけない。
私学はみんな立派な「建学の精神」というのを持っているが、それに基づいてまじめに教育をしないと、出口(就職)で学生は困っているのだ。

どの学校にも教育熱心な先生は1割か2割はいるだろう。
でも、個人の努力ではどうにもならない。
組織的に教育することが、いい大学の真似をするためには必要なのだ。

それでこそGPの意味がある。
残念ながら、GPはまだ続いているが…。


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BABYMETAL
最近、海外で大成功したバンドというと、BABYMETALだという。
ぼくも二度ほどテレビで見た。

メタルというジャンルの音楽は、ぼくはあまり聞かない。
ファッションは黒い革ジャン、黒いブーツで金属のアクセサリーを付けて、音楽的には高い声でシャウト調のメロディ、とにかくバスドラ、ベース、ギターの低音弦が強調され大音量、テクニカルな速いソロが多用される、という音楽。
男女とも化粧して、顔に絵を描いていて、悪魔風のメンバーがいたりする。(BABYMETALは普通のメイク)
技術的には高いレベルが要求されるのだが、とにかくぼくにとってはうるさい。
聞く方も、縦ノリ(その場で跳びはねるタイプ)が多い。

そんなジャンルのメタルだが、そこにアイドル風の女の子が組み合わされたのがBABYMETAL。
演奏は本格的なバンド。
海外で大人気だ。
もちろん日本でも人気があるが、WOWOWでやっていたコンサートはスゴイ。
イギリスやアメリカでコンサートをやっている。

ボーカルがYUIMETAL、ダンスがメインの2人がSU-METALとMOAMETALという若い女性3人組と、バンドのユニットがBABYMETALだ。
日本語の曲、英語の曲の両方ともやる。
「Gimme Chocolate!!」という曲が結構いい。
要は、アイドルらしい可愛らしい曲をメタルアレンジで本格的なメタルバンドの演奏でやる。
ダンスなどは日本のアイドル風。
このアンバランスが海外で受けたのかなと思う。

海外の本格的なメタルバンドのメンバーが、「BABYMETALには驚いた」とか、「あれはスゴイ」などと言っている。
実際、すごい数の聴衆が聞きに来て、ノッているのだ。

パフュームのメタル版という感じ。
演出家は同じらしい。その人がこないだのクローズアップ現代プラスで、リオのオリンピックの終わりの東京への引き継ぎのパフォーマンスに関わった人だ。
リンクを貼ったYoutubeのコメントもみんな英語だし、中には"This is why Japan will rule the world one day!"という書き込みもあった。
「これだから、日本がいつか世界を征服するぞ」というような意味だろう。

ああいう日本の「かわいい」感じが受けているのだろう。
英語でも日本語の「かわいい」を"cute"とか言わずに、"kawaii"という言葉をそのまま使ったりしている。
日本人の「かわいい」の感覚は"cute"などという言葉では表せないニュアンスがあるらしい。
それが今のアニメなどのクールな感じにもつながっているようだ。
あるサイトでは、「かわいい」が「21世紀に入って世界に最も広まった日本語」とも書いてあった。

日本風の「かわいい」BABYMETAL。
このままブレイクし続けると、2020年にはオリンピックのオープニングに出演するかもしれない。
一度見ておかれたほうがいいと思います。

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高齢者のトートロジー
トートロジーとはA=Aというように絶対に正しい命題のことだ。
単純なのは、イヌはイヌだ、というようなもの。
そんなの当たり前、と思うのだが意外によく使われる。

元気な年寄りを見ていると、そのトートロジーを感じてしまう。
仕事が休みの時に、平日午前中にスポーツジムに行くことがあるが、来ている人たちはほとんど高齢者。
ジムに来るくらいだから元気だ。
ロッカーが近くのおじさんたちは、たいがいはもう仕事していない年齢。
でも、元気だからジムに来ている。
午前中にマシンで歩いて、筋トレをして、人によってはフィットネスのクラスに出て、お風呂に入って帰る。
女性陣と違って、あまりみんなで一緒に昼ごはんを食べるとか、仲良くなるとかいうことはしない。
ロッカーやジムで一言、二言会話をする程度。

男性の平均寿命が女性より短いのは、こういう行動様式にも原因があるんだろうと思う。
そういうぼくも、ジム友達などいない。
昭和の男性はそういう価値観で生きている。

前にも同じようなことを書いたが、こないだロッカーで「腹減ったなあ。なんで腹減るんやろなあ」という声を聞いた。
誰かが「そら、生きとったら減るで」と応える。
「そうやなあ、生きとったら減るわなあ。なんで生きとるんやろなあ」と言う。
「そら、生きとるから生きとるんやろ」と応える。

これがトートロジー。
「生きているから、生きている」
論理的に言うと、AだからAだ、といっているので意味が無いとされる。

でも、このトートロジーには深い感慨がある。
方丈記の無常観に通じるものがあると思う。
「生きているから生きている」という無常。
世の中、何も確かなものはないが、生きているものは必ず死ぬというのが無常観だが、それを反意的に表しているんだと思う。

それはそれで悪いこととは言えない。
少しでも長く元気でいて、家族に迷惑をかけずにいたい、という思いだろう。
でも、そういうことを思ってしまう晩年というのはどうなんだろうと思う。
本当の無常を味わうのはもっと後でもいいのではないか。

まだ元気なら、働かないと。
その機会を奪っているのは年金制度と定年制度。
そこが問題になってくる。

早く改革しないと間に合わないぞ。

| | 考えたこと | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
「みんなの意見」は案外正しい
「みんなの意見」は案外正しい ジェームズ・スロウィッキー 角川文庫

最近、ダイバーシティという言葉をよく聞く。
「多様性」と訳されるが、これは主に企業の人事畑で使われるような言葉。
組織の中の多様性は大事だ、というような感じ。
その多様性がなぜ大事なのか、ということの答えがこの本。

「はじめに」のところで、牛の見本市の場面を例に引く。
雄牛の重さを当てるコンテストが行われ、それに800人がエントリーしたという。
畜産農家や食肉店の人間が多かったとはいうものの、800人もいると家畜の重さについてほとんど知らない人もいて、その人たちが一票を投じた。
イギリスの科学者ゴールトンは、みんなの平均的な意見よりも専門家の意見のほうが正しい、ということを検証しようとして、この投票の結果を見た。

「ゴールトンはグループの平均値が、まったく的外れな数値になると予想していた。非常に優秀な人が少し、凡庸な人がもう少し、それに多数の愚民の判断がまざってしまうと、結論は愚かなものになると考えたからだ。だが、それは間違いだった。予想の平均値は1197ポンドだったが、実際の重さは1198ポンドだったのである。血統の善し悪しに関係なく、「みんなの意見」はほぼ正しかった。」

「プリマスでゴールトンがその日偶然発見したことは、この本の核心にある単純だが力強い真実である。適切な状況下では、集団はきわめて優れた知力を発揮するし、それは往々にして集団の中で一番優秀な個人の知力よりも優れている。優れた集団であるためには特別に優秀な個人がリーダーである必要はない。集団のメンバーの大半があまり知識がなくても合理的でなくても、集団として賢い判断を下せる。一度も誤った判断を下すことがない人などいないのだから、これは嬉しい知らせだ。」

もちろん、集団の狂気という言葉もあるし、過去の事例を見れば集団的にヒドイことをした例もある。
それらは、集団が賢くあるための条件を満たしていなかったからだ。

「集合的にベストな意思決定は意見の相違や異議から生まれるのであって、決して合意や妥協から生まれるのではないから、多様性と独立性は重要だ。認知の問題に直面した賢明な集団は、メンバー全員にとってハッピーな結論に到達するべく、各人に意見を変えるよう求めたりしない。その代わり、市場価格や投票制度などを使って集団のメンバー個人の意見を集約し、集団全体としてみんなの意見を明らかにするよう試みる。逆説的な感じもするが、集団が賢い判断をするためには、個々人ができるだけ独自に考えて、行動することが不可欠である。」

ここで多様性ということが出てくる。
集団で最も適切なことを決めようと言う時には、多様性(と独立性)が大事なのだ…、というよりそういう多様性のある組織を作らないと、集合知が使えなくなるということだろう。
だから、組織には多様性が必要ということになる。

特に日本の場合、高度成長期は欧米という目標があって、それにキャッチアップするということだったから、暗黙の合意や妥協を備えた組織でやってこられたが、その目標を達成して、新たな目標を立てる段階になった時、合意と妥協の組織ではダメになったんだと思う。
グーグルのような多様性を持って、自ら理想を掲げ、何でもやってみるというような、緩い縛りの組織が必要になってくるんだろう。

この本を読むと、そういう多様性が大事だということがよくわかる。

第2章ではオールズモビルというアメリカの昔の自動車メーカーが、クルマの揺籃期に成功したPR活動の例を引いている。

「このアプローチの成功の鍵を握るのは、絶対成功しそうもないような大胆なアイディアを後押しし、積極的に投資するシステムの存在だ。また、このシステム以上に重要なのが多様性だ。これは社会的多様性ではなく、認知的多様性のことである。同じ基本コンセプトを少しずつ変えただけのアイディアよりも、発想が根本から違う多様なアイディアがたくさん出てくるように、起業家の発想には多様性が必要だ。
 それに加えて資金を持っている人の多様性も必要だ。分権化された経済のメリットの一つには、意思決定をする権力が(ある程度までは)システムの中で分散している点にある。だから、豊富な資金をもつ出資者たちがみんな似たような考えだと、せっかくのメリットも活かされない。出資者たちの考え方が似ていれば似ているほど、彼らが評価するアイディアも似通ってしまうので、一般の人の目に触れる新商品の種類やコンセプトが限られてしまう。逆に、出資者たちにも認知的多様性があれば、ものすごく過激で、ありえなさそうなアイディアに賭ける人が出てくる蓋然性は高くなる。資金調達先の多様性がアプローチの多様性につながるのだ。」

「多様性は二つの側面で影響を及ぼす。多様であることで新たな視点が加わり、集団の意思決定につきものの問題をなくしたり、軽減したりできる。
 多様性の奨励は、有権者や市場などの大きな集合体よりも小さな集団やメンバーが限定されているかっちりとした組織体にとってより大きな意味を持つ。その理由は極めて単純だ。市場などはそもそも規模が大きく、資金さえあれば誰でも参入できる。参入障壁が低いということは、すでに一定の多様性が保証されているのと同じである。
 会社などの組織の場合は、それとは対照的に認知的多様性を積極的に奨励しなければならない。特に組織が小規模であればあるほど、特定の偏向を持った少数の人物が不当に影響力を行使して、集団の意思決定を簡単に歪めることができるので、多様性を大事にしなければならない。」

ぼくがアップルよりもグーグルを信頼するのは、まさにそういうところだ。
スティーブ・ジョブズは素晴らしいデザイナーだったが、一方で専制君主でもあった。
そのやり方はどう受け継がれたのかはわからないが、長い目で見ればアップルの戦略よりもグーグルのほうが多様性という意味で優れているのだと思う。

そして専門性の危険さに警鐘を鳴らす。
ウォートン・ビジネススクールの教授J.スコット・アームストロングは「専門知識がもたらす決定的な優位性を示す研究は存在しない。専門性と正確性に相関は見られない」という結論に達したという。

「専門家はまた、自分の見解がどれくらい正しいか推し測るのが、驚くほど下手だ。彼らも素人と同じように自分の正しさを過大評価する傾向にあることがわかっている。
 経済学者のテレンス・オディアンが自信過剰の問題を調査したところ、医師、看護師、弁護士、エンジニア、起業家、投資銀行家などは、全員自分が実際に知っている以上のことを知っていると信じていた。同じように為替相場のトレーダーを対象にした最近の調査で、七割の確率でトレーダーは自分の為替相場の予測の確度を確信しているとわかった。要するに、彼らはただ間違っているだけではなくて、自分がどれぐらい間違っているかすらまったくわかっていないのである。
 これは分野を問わず、すべての専門家に共通している法則のようだ。予測を生業とする専門家の中で自分の判断の狂いを正確に測れるのは、優れたブリッジのプレーヤーと気象予報士だけだ。気象予報士が30%の確率で雨が降ると予測した日のうち30%は雨がふるのだから。」

ブリッジは勝ち負けで、気象予報士は数時間後の天気で結果が出るからだろう。
専門バカという言葉があるが、みんな経験的にはそれをわかっていても、いざ専門家のいうことを聞くと信じてしまったりする。
そこにこういう危険性がある。
だからこそ、組織は多様性を保たないといけない。

もちろん、多様性だけではイケナイと第4章で語られる。
多様であるがゆえにいろんな情報が出てくるが、それらを適切に伝え、判断するところが必要だ。
コンピューターのオープンソースであっても、諜報機関であっても、軍隊であっても優れた組織であるためには多様性だけではいけない。
逆説的ではあるが、何らかの集約のメカニズムが必要ということだ。

「分散性がすばらしいのは、独立性と専門性を奨励する一方で、人々が自らの活動を調整し、難しい課題を解決する余地も与えてくれる点にある。逆に分散性が抱える決定的な問題は、システムの一部が発見した貴重な情報が、必ずしもシステム全体に伝わらない点にある。貴重な情報がまったく伝わらず、有効にい活用されない危険性がある。
 いちばん望ましいのは個人が専門性を通してローカルな知識を手に入れて、システム全体として得られる情報の総量を増やしながら、個人が持つローカル知識と私的情報を集約して集団全体に組み込めるようになっている状態だ。こういう状態をつくりだすために、市場であろうと、企業であろうと、諜報機関であろうと、あらゆる集団は二つの命題の間でバランスをとらなくてはならない。個人の知識をグローバルに、そして集合的に役立つ形で提供できるようにしながらも、その知識が確実に具体的でローカルであり続けるようにしなければならないのだ」

こういう仕組みを持っている組織がベストということだ。

第6章では社会について、第7章では調整することについて、第8章では科学、第9章では委員会や陪審といったもの、そして第10章で企業について書いている。

そこに分散性と集約のバランスという問題への答えらしきものがある。

「意思決定の権限が本当にひろく配分された状態というのは、どんなものだろうか。
 まず、何か問題が起きた場合、できるだけ現場に近い人たちが意思決定を行うべきだ。フリードリッヒ・ハイエクは暗黙知ー経験からしか生まれない知識ーが市場の効率性に必要不可欠だと喝破した。暗黙知は曽々木の効率性にも同じくらい必要不可欠だ。
 企業のトップから下に権限を渡そうとする計画は、多くの企業でよく議論されてはいるけれど、本当の意味で従業員が意思決定に参加している状態はきわめて珍しい現象にとどまっている。しかし、分散化が役に立つことを示す証拠は数多く存在していて、この本で取り上げている実験結果だけでなく、世界中の企業の実践事例からも証拠が得られている。
 分散化のメリットは二つある。まず、責任が多く与えられれば、人々の関与度も高くなる。ある調査で二つのグループがそれぞれ部屋に集まってクイズを解き、大きな声で文章を読み上げながら構成をするという課題を与えられた。課題に取り組んでいる間、時折何の脈絡もなく大きな音が鳴るようになっていた。
 一方のグループには何もなかったが、もう一方はバックグラウンドの音が消せるスイッチが与えられていた。最初のグループと比べて二つめのグループのクイズ回答数は五倍で、校正ミスもはるかに少なかった。だが、二つ目のグループは一度も音を消せるスイッチを押さなかった。スイッチが押せるとわかっているだけで充分だったのだ。
 ほかの実験結果や実践事例にも同じような現象が見られる。自分の働く環境に関して意思決定できる権限を人々に与えると、業績が目に見えて改善するケースが多い。」

「分散化の第二のメリットは、調整のしやすさである。命令したり脅したりする代わりに従業員自身がもっと効率的に業務を行う新しい方法を発見してくれる可能性が高い。監督の必要性や取引のコストを減らし、管理職はほかのことに関心を振り分けられる。
それに対して分散化の批判として、従業員や現場の管理職に周辺環境をコントロールできる権限を与えても、結局重要な事柄を判断する権限は経営トップの手に残るというものがある。この観点に立って言えば、従業員は見せかけの権限委譲にだまされているだけだ。トップダウンの権力構造はあらゆる企業のDNAに組み入れられているので、それをなくそうという努力自体が不毛なのだ。
 まあ、そうかもしれない。誰を解雇するなんていう問題に関して、権限を委譲する余地はほとんどない。だが、このような場合を除いて考えた場合、企業が本質的に階層的でトップダウンのDNAを持った生き物だという見解はあまりに図式的に思える。ほかの組織や集団と同じように、企業もさまざまな問題を解決しなければならない。本書を通じて見てきたように、集団は分散化されたソリューションを使って、調整や協力の問題を驚くほど上手に解決できる。
 もしかすると、もっと重要な点として指摘すべきは、問題の解決に必要な知識は往々にしてその問題に直面している従業員の頭に中にあるのであって、彼らの上司の頭の中にはないという現実かもしれない。だから、従業員に問題を解決する権限を与えるべきなのである。」

「企業は仮に分散化に潜在的なメリットがあると認めても、ボトムアップ型のアプローチが認知の問題を解決するのに役立つかもしれないという意識まではなかなか持てない。認知の問題には企業の戦略や戦術の決定、新しく開発する商品の決定、新しい工場の建設、需要予測、価格設定、買収の検討といったこと全てが含まれる。こうした問題に対する最終的な答えを出すのは、CEOというたった一人の人物である場合が多い。しかし、本書を通じて主張してきたように、こうした問題こそみんなの意見に基づいて解決されるべきなのである。」

「成功が絶対に保証されている意思決定システムなどない。企業が下さなければいけない戦略上の判断は、うんざりするような複雑さを伴っている。同時に、複雑で不確実な現実に直面する一人の個人に大きな権限を与えれば与えるほど、まずい判断をしやすくなることもわかっている。だからこそ、企業における認知の問題を解決するためには、組織のヒエラルヒーを超えて発想すべきなのである。」

ぼくのいた会社では、「現地現物」を大事にしていたが、意思決定に関しても現場を離れてはいけない、ということだろう。
「現地現物」というようなスローガンだけでなく、どこまで実効性を持って現場に権限を任せたり、意思決定に際して現場の意見を率直に聞けるかといったことが大事だろう。
そういう気持ちを中間管理職がちゃんと持っているかどうか、日頃から風通しのよい関係を持っているかどうかなどに依存する。
ルールというよりも、日本的だが組織の中の個人の意識の問題だと思う。
つまり、現場に任せきってしまってもいけないし、現場の意見を聞かないで決めてもいけない。
やっぱりバランスの問題になる。
決定的な解決策はない。
古い人から順に新しい人たちに意識が伝承されていないといけない。
組織における権限委譲の問題は、結局「風土」の問題だと思う。

第11章では市場、第12章で民主主義というテーマだ。

民主主義こそ、「みんなの意見は案外正しい」という言葉そのものを信じるものだと思う。

「民主主義が存在するのは、政治への参画意識や自分たちの人生をコントロールできるという感覚を人々に与えることにより、社会的安定をもたらすためだろうか。それとも個人が自らを治める権利があるからだろうかーたとえ人々がろくでもないことにその権利を行使するとしても。あるいは民主主義が賢明な判断を下し、真実を発見する優れた手段だからなのだろうか。」

今のアメリカの大統領選挙を見ていても、今の日本の政治を見ていても、なかなか難しいと思う。
アメリカでは一般の人々が民主党のヒラリーも、共和党のトランプも、どちらの候補も嫌っている人が多いという。
また日本では年金や医療の問題を先送りし、右から左まで政治家が票欲しさに高齢者よりの政策しかやらない。
そういう意味では民主主義が機能不全に陥っているように見える。
しかし、それでも政治家は公選される方がいいのだろう。
この本は以下の言葉で締めくくられる。

「健全な民主主義は、社会契約の基礎である歩み寄りという美徳、それに変化という美徳をもたらす。民主主義の下に生まれたみんなの意見に集団の知恵が現れないこともある。けれど、民主的にみんなの意見を聞くということに集団の知恵が現れているのである。」

この本は2004年に書かれた。
著者のスロウィッツキーはニューヨーカーの金融ページのコラムニスト。

原題は"THE WISDOM OF CROUWS"。
「みんなの意見」は案外正しい、というタイトルはなかなか上手だ。

アメリカという国はいろんな人種がいる。
そういう国で何かを決めていくのは、どうやったらいいのかと考えることが多いんだろう。
こういう組織論は日本ではあまり見ない。

アメリカの多様性と日本人のそれとはだいぶ違うだろう。
アメリカのほうが日本の何倍も多様だと思う。
それはいいことなのだ、というのがこの本のメッセージ。
そういう肯定的なところが、アメリカの強さでもある。
それは真実だ。

いい本だった。


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相馬に行く 3
阪神大震災の時と違って、もともと田舎で集合住宅などなく、わりと広い住まいに住んでいた人たちが、こんなに小さなプレハブの仮設住宅に入り、ストレスが大きいみたいだと彼は言っていた。

相馬駅前に戻って、ホテルにチェックインし、夕食に行く。
相馬は港町だから、海の幸の店に行くことになった。
駅前の通りは昔風のスナックが多い。
普通の家風のところもあるし、きらびやかな店もある。

会社時代の彼は12月など飲み会ばかりの飲み助だったが、今はほとんどいかないという。
若い人たちはそんなに飲まないし、みんなクルマで来ているらしい。
そのうえ、毎日仕事で遅い。
やることはたくさんあるとのこと。

初めて行く店だというところでは目光(めひかり)の干物、ホッキの天ぷら、刺身などをたのむ。
目光という魚は初めて食べたが、干物でもとても脂が乗っていておいしい。
さすがに海のものはそこで食べないと…。
ぼくはあまり日本酒は飲まないのだが、ここの地酒はなかなかいける。

飲みながらN君の話を聞く。
去年の5月に彼の定年の送別会があったのだが、その時はまだ就職先は決まっていなかったとのこと。
東京のNPOの母体の人とスカイプで話をした程度。
全く内定などの話もなく、送別会の時は白紙の状態だったらしい。
それから正式に面接をして、ようやく決まって、相馬に行くということになった。
子供はみんな結婚もして片付いており、母親はまだ一人で暮らせるという身の上だったこともある。
それで、今は職場から歩いて5分のワンルームに奥さんと愛犬と一緒に暮らして、仕事をしているとのこと。
35歳の人がリーダーで彼はその補佐役 。
そこで若手のメンバーと頑張っている。
ここでは何でもやるんや、と笑う。

何で会社に残って65歳まで仕事しなかったのか、と聞くと最後の仕事での赴任先でいろいろと思うところがあったとのこと。
最後は海外の単身赴任だったから、考える時間は充分あっただろう。

もう一つは会社に残っても65歳までで、そこから先を考えると早く第二の人生を長くできる道を見つける方がいい、ということだ。

88歳まで元気で働く予定だ、と話す。自らプロジェクト88と名づけている。
今のNPOは1年毎に契約更新だから、とりあえず来年の9月までは大丈夫、再来年はわからない、と話す。
でも88歳まで働きたい、という。
60歳を越えたら、世のためになることで給料がもらえたらいい。
それは多い方がいいが、少なくてもかまわない。
そういう人生を過ごしたいということらしい。

会社時代にはそんな考えの持ち主には全く見えていなかったが、それはぼくが人を見る目がなかったということだろう。

翌日はクルマで朝から南相馬から浪江町へと走る。
途中、ここまで水没したとか、線量がいくらとか、いろんな掲示がある。
帰還困難地域に入ると当たり前だがゴーストタウン状態。
その手前のこの7月に戻れるようになったというところも1割程度しか帰っていないとのこと。
原発の被害は大きい。
でも、その半分以上は人災のような気がする。
いい加減に無用なデマを流すのをやめ、基準を見直したり、トップポリシーで決めていかないと手遅れになる。
もう、手遅れの感はあるが。

そこここで作業をしている。
除染の土を袋につめていたり、測量をしていたりする。
5年経っても汚染水をためている。
終わりのない仕事。
これを終わらすのは政治家の仕事だと思う。

昼はぼくのリクエストで、鹿狼の湯というところでそばを食べる。
十割とろろそばを大盛りでいただく。
東北のそばはうまい。

こちらは関西のようにうどんはなく、そば屋が多いとのこと。
相馬にも「道とん堀」というお好み焼きの店はあるが、やはり関西とは違うらしい。
もちろん、たこ焼き屋などない。

昼を済ませ中村城跡、中村神社、相馬神社参拝。
相馬神社の入り口に二宮尊徳坐像があった。
ここに本人が来ているわけではないが、弟子が来て像を作った。
彼はこちらに来てそれを知り、二宮尊徳のことを勉強したらしい。

「道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である」

非営利団体であるNPOにも、営利団体である企業にも当てはまる名言。
これを二宮尊徳が言ったという。
ぼくは学校の先生の一部が営利企業を儲け主義と嫌っていることを挙げ、「経済なき道徳は寝言」とは言えてる、と話した。
NPOも経済的な視点を持って、地域の経済を活性化するような道を模索していかないといけない、とのこと。
なかなかいいことを言う。
そういう意味で、自分がやっている企業のデーターベースをうまく使って、最終的には地域経済の発展につなげていきたいとビジョンを語っていた。

帰りのバスまで時間があるので、もう一度海岸へ。
波の音を聞きながらベンチでおっさん二人。
さすがに平日で海岸はほとんど人がいない。

今回相馬に来て、彼の仕事の話を聞いて、面白かった。
「みんな心配してるで」というと、「元気にやってる言うといて」とのこと。
実際、顔色もよく、若い人たちに囲まれ、いきいきと仕事をしているようだった。
会社のしがらみからも開放され、自分の60年の経験を活かして仕事をしている。
退社の時に、自分が35年かけてやってきたものは全て置いてきた。
そこに一抹の寂しさはあったが、結局はそんなものはなくてもどうということはない、と笑う。
自分の35年の経験こそが財産なのだ。

今は毎日昼ごはんを家に帰って食べるとのこと。
夜は1時間かけて老齢の愛犬の散歩に付き合っている。
仕事は忙しいが、一方でそういうことも、ここならできるという。

NPOに来る若い人は、ボランティアからそのまま居着くケースも多いらしい。
でも、彼らは会社の若い人とは感じが違うとのこと。
それはそうだろう。
でも、企業では若い人たちにやりがいを持たせるマネジメントこそが、今は望まれているのだと思う。
あの若い人たちを育てていくことも自分の仕事の一部だという。
やりがいはあるだろうなあ。

もう一度駅に戻って、待ち時間にフェイスブックの友だち申請をする。

相馬は遠かったが、何となく来た時よりも心は軽くなった。
代わり映えしない日常のリフレッシュができたとお礼をいう。

彼からは「遠路はるばる陣中見舞いに来て頂きありがとうごさいました。また、来て下さい。」とコメントが来た。

「次回はツアーを組んで、何人かで来るわ」と言って別れた。

いい旅行だった。

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相馬に行く 2
仙台に着くと肌寒い。
半袖の人のほうが少ない。
さすが東北だ。
在来線に乗り換え、常磐線で亘理まで行く。
さすがに電車は北国仕様だ。
停車中もドアが開閉できるように、内側も外側もドアのところにスイッチがある。
学生時代、それを知らずに待っていたら、あとから来た学生に田舎者扱いされたことを思い出す。
あれはどこに行ったときだったろう?

亘理は「わたり」と読む。
グーグルで調べてわかった。
アナウンスで相馬に行くには亘理で代行バスに乗り換え、という。

東北本線から見る仙台は都会だ。
ぼくがよく知っている名前の量販店の店舗もたくさんある。
コンビニやスーパーも多い。
さすが仙台。

岩沼駅から常磐線に入る。
二十代の頃、毎月クルマで茨城県の土浦に行っていた。
たまに仕事で遅れ、電車で行くことがあったが、その時に上野から乗ったのが常磐線だった。
夜遅くなってもホームで酒を売っていて、電車がブレーキをかけると空いたビールの缶やワンカップが転がる。
常磐線沿線の人は酒が好きなんだなあと感心したのを思い出す。

その常磐線の終着駅がここなのか。

亘理に着いて、相馬行きのバスに乗る。
雨も降ってきて、用意していたフード付きのパーカーを着た。
震災から5年経ってもまだ常磐線は開通しない。
よほど激しくやられたんだろう。
今年の12月にようやく一部開通する。

バスは途中からほとんど信号がない国道6号線を延々と走る。
回りの田んぼには稲穂が垂れていた。
途中、新地駅に止まる。駅といっても立派な町役場の前の臨時のバス停。
ここも地方公務員が一番安定した仕事なんだろう。
群を抜いて立派な建物の役場を見て驚く。

いよいよ相馬が近づいてくる。
雲が低く垂れ込めて、あいにくの天気。やっぱり雨模様だ。
駅でN君に再会。
再会といっても、今年の正月には会っているのだが…。

早速クルマでNPOの事務所のある建物に行く。
ちょうど仮設住宅のプレハブみたいなものがそのNPOの事務所。
2階建ての2階の端で夏は暑く冬は寒いという。

事務所の下がNPOが経営する食堂で、隣が支援している高校生のボランティア団体という状況。
今日は下の食堂でNくんの奥さんが働く日とのことで、まず食堂で挨拶する。
奥さんから、まさかこんな仕事をするとは思っていなかったとか、止めてほしいと義母から言われたとか、そういう笑い話を聞く。
お母さんが息子を止めてくれ、という話は彼も初耳とのこと。
でも、一緒に来て新しい友だちもたくさん出来て、若い人たちとも話ができるし、楽しいと言われた。
女性は順応性が高い。

2階の事務所に上がると、二人若い人が仕事していた。
5つの机に大きなディスプレイとキーボードが並んでいる。
新しいコピー機もあり、来客用とおぼしきソファーもある。
後で聞くと、あのコピー機は俺が入れたんやとのこと。
複合機でスキャンもできるものらしい。
そんなことに詳しいやつではなかったが、知らぬ間に勉強したんだろう。

机の前の何箱かの段ボール箱にいっぱい書類があった。
こないだやった音楽のイベントのアンケートの整理。
4000枚ほどあるという。
その結果をエクセルに入力していると女性スタッフが言う。

一人は30代の女性、もう一人は新卒で今年入ったフレッシュマン。
女性の関東人らしいハキハキしたしゃべりで、Nくんが来る前はどんな人が来るんだろうかとビクビクしていたが、来てみたらコミュニケーション能力が高く、すぐに馴染んでよかった、というような話をされた。
彼らはすぐに遅い昼ごはんに下に降りていった。

NくんがこのNPOを選んだのは、まだ何をやるか固まっていなかったから。
とにかく相馬で活動するということだった。
一応、相馬で活動している企業のデーターベースを作り、実地調査をして、経済の活性化につなげたいということはあったが、それ以外にも復興住宅に置いてある自動販売機の世話や、音楽イベントのボランティアの案内や整理、いろんなイベントの実施、行政との顔つなぎ、仮設住宅の世話など何でもやるという。

実際、あとで相馬の観光協会に行ったが、そこの人とも顔見知りになっていた。

クルマにのって太平洋岸を見にいく。NPOのタウンエースを借りている。
震災前は砂州がきれいで漁業も盛んないい港だったが、五年経ってもまだ海岸には瓦礫が打ち上げられるという。
魚もいろいろ獲れたのだが、今は放射線量が高いものもあり、まだまだ震災前には戻らない。
放射線量の基準も含めて見直さないと、いけないのではないかと思う。
伝承鎮魂会館というところに行って、引き取り手のない写真や郵便等を見た。
住所も名前もわかっていて、それでも引き取り手のないハガキは家族みんなが亡くなったのか、それとも県外に移住してしまったのか…。
津波の威力は凄い。
改めて悲惨さを知った。

その後、NPOで関わっている仮設住宅を見に行く。
ほとんどはもう空き家だが、原発の関連で避難している浪江町の人たちはまだたくさんいた。
帰るに帰れない。
仮設住宅の前の雑草は伸び放題。
まだ人がいるところの仮設の草むしり等がボランティアの仕事になるとのこと。
彼のいる復興支援センターではそういう一般のボランティアの仕事の手配は受けないが、今回の音楽イベントではそういうこともやったらしい。
AKBの卒業生のナントカという女の子が仮設住宅の外壁に描いた絵を見せてくれた。
アジカンや山田ひさしというジョッキーも来たとのこと。
山田ひさしは、てっきり元阪急のアンダースローのピッチャーだと思ったらジョッキーだった。
彼の方が今や若者に詳しい。

その3に続く…
| | 考えたこと | 19:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
相馬に行く 1
何年ぶりだろうか。
新幹線に乗っている。
最後に乗ったのは、多分2010年代だとは思うが、定かでない。
ひょっとしたら2009年あたりの東京出張だったか。
当時、学部改組の仕事で文科省に行った。
あれが最後だったかもしれない。

新大阪の駅には長らくスズキのクルマがおいてあったが、その手前にダイハツのクルマも置くようになっていた。
時代の流れを感じる。
朝8時の新大阪発はさすがにほとんどサラリーマンだ。
なかにはノートパソコンを開いている人もいるし、何かの資料を読んでいる人もいる。
でもやっぱり爆睡している人が多い。
ぼくもたいがい京都に着く頃には寝ていたなあ。

大学で勤務した10年間は、出張といっても近場ばかりだったのであまり新幹線に乗ることもなかった。
何で新幹線に乗っているかというと、定年と同時に福島県の相馬市で、柄にもなくNPOに再就職した、会社時代の友人に会いに行くためだ。
いったいどんなNPOでどんな仕事をしているのか、興味があった。
それでメールを出して、一度会いに行って仕事場を見て、どんなふうにしているのか見せてほしいと頼んで快諾された。
原発の除染などの作業を見てみたいということもある。
1泊2日の旅行はちょっと高いが、暇でもあるので、行ってみることにした。

ずっと曇りだったが、横浜から雨が降り始めた。
品川に止まり、東京に着く。
新幹線の品川という駅にはあまり馴染みがない。
鬼平犯科帳では江戸の入り口として紹介されているが、今も同じだ。
東海道の江戸を出て最初の宿場町ということだろう。

東京について、東北新幹線に乗り換える。
はやぶさという列車の名前。
ぼくは、はやぶさというと第二次大戦中の戦闘機をまず思い出す。
今となっては、その名前が第二次大戦の戦闘機と同じだと思う人はどれくらいいるのだろう。
そういうことにアレルギーがある人がだいぶ少なくなったのか、それとも単に知らない人が増えたのか。

はやぶさの椅子はリクライニングと同時に座面が前にスライドするもので、これは座り心地がいい。
新幹線はモデルチェンジでどんどんよくなる。
何かしら工夫されている。
さすがメイドインジャパンだ。

大昔の新幹線の椅子はもっと分厚くて、座りにくく、前との距離も狭かった。
軽くて強い素材ができ、ボディも薄くなり、設計技術が上がって、車内が広くなった。

まもなく大宮に着く。
埼玉はいつから平かなになったんだろうなどと考えている間に出発する。
ここまで来ると、普通の地方都市だ。
そんなに高いビルもない。

大宮を出るともう次は仙台。
8時に大阪を出て、12時には仙台に着く。
便利になったものだ。

関西人にとっては、東北は心情的な距離が遠い。
昭和54年に会社に入った頃、関西出身のサービスの人に東北に実習に行ったらあんまり大きな声で関西弁で話したら、嫌われるという話を聞いた。
実際、店を追い出された人もいたとのこと。
紀伊国屋文左衛門が江戸時代に東北から人を集めて、和歌山で酷使したということが遠い原因だと聞いた。
当時は本当にそうかもしれないと思ったし、今もちょっとそう思っている。

元いた会社は福島県に工場があったが、ぼくの担当は静岡までだったので、ほとんど行かなかった。
たぶん25年の会社人生で、10回も行っていない。

最後の数年は毎月東京に出張していたが、そこから東北には足が向かなかった。
行こうと思えばいくらでも口実はつけられたが、行かなかった。
やっぱり馴染みが薄い。

東京駅で買った駅弁を食べる。
蕎麦屋の作った天むすという弁当。
小さなおむすびが5つ入っている。
海老天が入ったもの、昆布の入ったものなど。
いかにも駅弁という感じがして、旅行気分を満喫する。
ぼくは駅弁が好きだ。

隣の二十代とおぼしき若者はカツサンドと缶コーヒー。
やっぱり駅弁は和食やろ。
世代の差を感じる。
ぼくもいつの間にか年をとって、もうすぐ還暦というところ。
自分がそんな年になることを想像していなかったなあ。

東北新幹線はトンネルが少ないからいい。
勤めているときはもっぱら通路側だったが、今回は窓側にした。
景色を見ようと思ったからだ。
サラリーマンの一線を退くと、そういう余裕もできる。
大宮を過ぎて郡山付近を通ったが、田んぼと都市と工場が混じっている。

と思っていたら、福島を通過した。
あと15分ほどで仙台。
福島と仙台は近いんだ。
実際、相馬も新幹線で仙台まで行って、戻るという行き方。
これが一番早いという。
雨は降っていないが、雲が低い。
何か東北という感じになってきた。

その2に続く…

| | 考えたこと | 01:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
テロ組織のIT技術
テロ組織のIT技術が上がってきているらしい。
Torという規格があるが、それはインターネットで接続するのを匿名化することができるもの。
それを使っていたのがテロ組織だが、最近はその監視が厳しくなってきたとのこと。

テロ組織はどうやってIT技術を使い、秘密の通信をしているのかと思っていたが、意外と市販のツールを使っているらしい。
世の中には暗号化通信ツールというものがあって、それらが使われているとのこと。
アメリカの国家安全保障局(NSA)がコメントした。

自動的に消去できる暗号化メッセージアプリや、暗号化したメールを送受信できるようにするもの、登録無しで最大8日間仮のメールアドレスを使うことができるものなどはアルカイダで使われたらしい。
GPSで自分の居場所を偽装するツールもある。
最近のテロリストはITに詳しくなっており、独自にツールを開発したりしているとのこと。
エライもんだ。

もともとは軍の情報通信が一番の秘密だった。
それに伴なって暗号の技術は進んできた。
「いつ、どこを、どれほどの勢力で攻める」ということが事前にわかってしまえば、準備できるからだ。
第二次大戦時のドイツ軍の暗号発生器エニグマの解読をめぐる戦いは、つい最近まで秘密にされてきた。
日本軍の暗号はほとんど解読されており、山本五十六が乗った飛行機が撃墜されたのも、その成果だった。

それが今はクレジットカード決済や、通常のインターネットの通信にも使われるようになった。
プライバシーは守るべき価値ということになったからだ。
企業は拠点間の通信を、VPNという技術でつないでいる。
家で仕事ができるもの、そういう技術があるからだ。
暗号化技術は、生活を便利にしようと思って作られている。

だから、そういうツールの開発をやめることはできない。
テロリスト向けに作っているわけではない。
誰もが安全に通信を行う、という価値は民主主義にもつながるものだが、それはテロリストの通信も守っている。

こうなるとややこしい。
国家安全保障局にそれを解読する権利を与えるのは、国民が嫌がるだろう。
企業も企業秘密が流出したら困る。
クレジットカードの決済情報が解読できたら、今の経済がストップするだろう。

まだ、究極の暗号である量子暗号は実用化されていないが、これができると、そもそも解読ということ自体ができなくなる。
技術の進歩は、国家にもテロリストにも恩恵を与えるんだろう。

エライ時代が来たものだ。



| | 考えたこと | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
アリス・ゴフマン
TEDでアメリカの社会学者、アリス・ゴフマンのプレゼンを聞いた。
彼女はWikipediaによると1982年生まれだから今34歳。
すごい若手の学者だ。

アメリカの受刑者数はこの40年で7倍になった。
人口10万人あたり、716人の受刑者がいる。
これはOECD諸国の中でダントツ1位。
2位は約200人のポーランドやチェコだから、2位に3倍以上の差がついている。

受刑者の多くはアフリカ系やラテン系の若者だ。
彼女はペンシルベニア大学の時に、近くの女子高生の家で家庭教師を始めた。
その少女のもとに少年院から15歳の従兄弟が帰ってきて、その子の物語を卒論にしたという経歴。
実際に犯罪が多い地域に住み、そこの子供たちがどういう行動をして、どうなっていくかを調べた。

黒人の多い地域に住んで警察が住民を取り調べたりするのを記録し、18ヶ月の間にそういうことがなかった日は5日しかなかったという。
逮捕した後に、殴る蹴るの暴力をふるうところを見たこともある。

そしてチャックとティムという18歳と10歳の兄弟の悲惨な出来事の話を始める。
一度何かで訴訟を起こされ、刑務所に入るとその後の人生が狂い始める。
裁判の費用(数百ドル)が容赦なく請求され、それを滞納するとまた犯罪者になる。
豊かな地域では取るに足りないようなことでも、そこでは犯罪になってしまう。
学校内の喧嘩が、加重暴行罪になってしまうのだ。

でも、そのおかげで犯罪率が減ったではないかという人もいる。
実際90年代、2000年代を通じて犯罪は減った。
しかし、それは低所得地域の厳罰主義によるものとはほとんど関係がない、と全米科学アカデミーが発表したとのこと。

彼女は刑事司法制度を変えるべきだと主張する。
黒人の若者をもっと信頼し、救いの手を差し伸べるべきだと。
会場から拍手が起こった。
でも、全員が拍手しているわけではない。
じっと見ている人もいる。
それほどこの問題はややこしいのだろう。

スラム地域の黒人の犯罪率は実際に高い。
しかし、それがこの刑事司法制度の結果とも言える。
オバマ大統領は、服役率の人種間差別をなくすような手段をとりはじめた。
刑務所を閉鎖し、教育にお金をかけ始めた州もでてきた。

最後に彼女は「今の若い人たちのミッションは、膨大な数の人々を投獄するのをやめ、正義に重きを置く新たな刑事司法制度を作ることなのだ」と締めくくった。

最後はスタンディングオベーションになった。
でも、複雑な気持ちで聞いた人もいるんだろう。
世の中にはそうするべきだと思っていても、一時的な傷みを我慢できない人もいるし、実際いろんな問題があってなかなかできないこともある。

しかし、そんなことは世故長けた年寄りの理屈だ。

三十代の若い社会学者の彼女には、そんなものは障壁にならない。
作るべき社会はそういう社会でなければならない、という若者の強さがあふれている。

アメリカにはいろんな悪いところもあるが、こういう若い学者がいて、自分の主張をみんなに伝えることができるのはすばらしいと思う。

日本の若者も頑張れ。

| | 考えたこと | 21:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
9.11
今日は9月11日。
アメリカ人、特にニューヨーカーにとっては忘れられない日。
あのテロから15年たった。

ナショナルジオグラフィックやヒストリーチャンネルで朝からドキュメンタリーをやっているが、あの日の様子がよくわかる。
エミー賞を取ったドキュメンタリーを放送していた。
ビルにハイジャックした飛行機で体当りするとは、恐ろしいテロだ。
手をつないでビルから飛び降りる人たちを見たという人がインタビューに答えていた。
辛くも逃げおおせた女性二人。
お互いに、自分が経験したことを知ってくれている人がいる、ということで今も親友だという。
共有できる人がいる、ということが支えになるんだろう。

ブッシュ・ジュニア大統領はこの後テロとの戦いに邁進した。
こないだ見た、オリヴァー・ストーンのドキュメンタリーでも取とりあげられていた。

あのテロは文明の先端で起こったから、克明に記録されている。
何があったかがよく分かる。
本当に悲惨だ。

でも、中東ではこんな光景に近いものが日常的に起こっているんだろう。
あのテロを行った側の論理は、やられたらやり返す、というものだった。

だからといって、テロリズムが許されるわけではない。
人間は愚かだということだろう。

冷戦後も世界のどこかで紛争は続いている。
大きな戦争は核が抑止しているが、小さな紛争はなくならない。
紛争の原因は民族や宗教、その他いろいろな利権、そして正義やイデオロギーというのもある。

いつか本当に世界中が平和になる時があるんだろうか。
民族や宗教を乗り越えて、普遍的な価値観を共有することができるんだろうか。
そういう事を考える日になった。

ドキュメンタリーを見ていると、方丈記の無常観を思う。
あの作品は平和な公家の時代から、武士の時代へと移り変わる、そんな混乱の時代に書かれた。

「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある、人とすみかと、またかくのごとし。

玉敷の都のうちに、棟を並べ、いらかを争へる、高き、賤しき、人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或いは去年焼けて、今年造れり。或いは大家亡びて、小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかに一人二人なり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ、水の泡にぞ似たりける。」

世界中の人が無常観を持てば、世の中は平和になるかもしれない。

| | 考えたこと | 20:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
ダンヒルのライター
亡くなった父はわりとヘビースモーカーだった。
ずっとハイライトだったが、途中でセブンスターに変わった。
定年を過ぎて心筋梗塞になって、バイパス手術をした。
それで長いこと吸っていたタバコをやめた。

昭和50年代、日本も豊かになってきて、喫煙者は自分のライターを持っていた。
もちろん、100円の使い捨てライターも出てきていたが、自分のライターを持っているのがステイタスだったような感じだ。
当時の中年サラリーマンは、半分くらいは使い捨てでないライターを持っていたと思う。

女性のバッグやアクセサリーと同じく、ブランド物のライターもあった。
Zippoなどのオイルライターはアメリカのもので安価だったが、ヨーロッパのダンヒルなどはガスの充填式で高かった。
今見ても、6万円くらいする。
男のおしゃれ、という感じだった。
昭和の時代、ライターだけでなく、万年筆、スーツ、ネクタイ、腕時計など、男性のおしゃれアイテムがあった。
もちろん今もあるだろうが、長らく続いた不景気で、そんなものもだいぶ減っただろう。

ライターについては、職場が禁煙になり、タバコを吸わない人も増えた。
タバコの値段も上がって、今や吸っているのは中年以降の人ばかりではないか。
その人たちも、使い捨ての100円ライターがほとんどだ。

ぼくは8年前にタバコはやめたが十数年前に父が亡くなった時、ずっと実家に置いてあったダンヒルのライターをもらってきた。
父も煙草をやめてから使っていなかったし、ぼくも使わなかったので、気になってはいたが埃にまみれ、サビでくすんでいた。
それを今日思い立って、ピカールという仏具を磨く薬品で磨き、石とガスを買ってきてもう一度火をつけてみることにした。

外観はそこそこキレイになったが、ガスを入れ、火をつけてみるとガス漏れしてすぐに使えなくなる。
綿棒でエチルアルコールを使って掃除し、爪楊枝で汚れを落とし、だいぶ苦労したがようやくまともに火がつくようになった。
まだまだガスがすぐになくなって使えなくなるが、パチンと蓋を開け、シュッとローラーを回し、ボッと火がつく一連の動きはまことに美しい。
最後に蓋をパチンと閉じる時のバネの強度も全く衰えていない。
重さといい、持った感じといい、いいものは手に馴染む。
さすが6万円のライターだ。

さて、だからといって、どうなるものでもない。
タバコはやめたから、ライターを持ち歩くわけでもない。

それでも復活したライターを見ると、何となく懐かしい。

あの時代、今より不便で貧しかったが、心は豊かだったような気がするなあ。

| | 考えたこと | 19:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
オヤカク
仕事柄就職関係の記事を見るが、こないだ初めて「オヤカク」という言葉を見た。

今年は企業研究の時間が短かったからか、手当たり次第に受けた学生も多かったようだ。
そのために、複数内定者が多いのかもしれない。
だから、企業の人事は内定者の引き止めに必死になる。
ひどい場合は、経団連の解禁前に内定出しをして確保した学生がゼロになる場合もあるんだろう。
もちろん、採用には費用がかかるから、企業によっては割りきって大手が終わってから採用しよう、というところもあるが、以前人事の担当に聞いたところ「そんな恐いことはできない」とのこと。
担当者としては、もし誰も残ってなかったらどうしよう、という気になるのだそうだ。(人数からしてそんなことはありえないが、いい人が残っていなかったら…、ということだろう)

そこで今年はオヤカク対策が大変、ということらしい。
オヤカクとは、一旦内定が出た会社に親が反対して蹴られるということがあるので、親が入社を認めているか、ということを確認することらしい。
なぜ親が反対するのか、その理由は様々だろう。
中にはもっともなものもあるのかもしれない。
でも、素材や部品メーカー、専門商社などの人からみれば、ウチはまっとうなことをしている会社なのに、「親が知らない」ということだけで反対される、という言い分もあるように思われる。

反対する親からみれば、高い学費を払ってここまで育ててきたのに、そんなわけの分からない(失礼)会社に入るのはもったいない、という気持ちなんだろう。
少子化で世帯あたりの子供の数も減って、親が関われるようになったということもあるかもしれない。

でも子供の人生は順調にいけば、親が死んでからも続く。
先のことなどわからない。
山一證券みたいに潰れる例もあるし、近くは東芝や三菱自動車、シャープのように大きな変化に見舞われる会社もある。
これから先なら、地銀など統廃合が必須の業界もある。
地方公務員も20年のオーダーで考えたら、受難の時代だろう。

だから、よほどのことがない限り、子供の責任で決めさせるほうがいいと思う。
そうしないと、ちょっとしたことが我慢できなくなったり、小さなつまづきがあって、辞めたいと思った時のハードルが下がる。
自己決定してないと、すぐ諦めてしまいがちだ。
いくら親が決めた会社でも、辞めてしまったら意味がない。
だから、最悪でもアドバイスでとどめておくべきだと思う。

HR総研というところのアンケートによると、「学生の就職先決定に影響力を持つ親向けに何らかの対策を実施しているかを聞いたところ、12%の企業が「実施する」と回答している」とのこと。
対策内容としては、親に会社情報資料やDVDを送ったり、手書きの手紙と自社商品を送るとか、実際に親を訪問するというところもあった。
大変な世の中になったものだ。

最近テレビで素材や部品メーカーなどが自社の製品の宣伝をしているところを見るが、これなども親対策の一環だろう。
親が「知らないからやめといたほうがいい」ということがないようにしている。

元々はその製品を使う会社が知っていてくれればいい、という会社だろうが、一般の人に向けても宣伝しないといけない。
それほど、いい会社でも人が来ないということだろう。
業界内の転職なら別だが、新卒となると苦しいということだ。

驚くのは、説明会に親同伴で来たり、内定承諾書を父親が持ってきたりする例もあるらしい。
もちろんレアケースだろうが、エライ時代になったものだ。

もちろん、そういう学生の評価は低くなる。
企業は自立した大人がほしいのだから。


| | 考えたこと | 21:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
上から目線
「上から目線」というのを嫌がるのは若い人ばかりかと思っていたが、最近は高齢者も嫌がるらしい。
記事をみてびっくりした。

現役の人が、退職後の人に、「どうしてますか?」と書いて年賀状を出すと、人によってはイラッとするとのこと。
「若い後輩からの上から目線」と取られる。
単なるヒガミだと思うのだが、ややこしい。

新しい辞書では「上から目線」というのは「他人を見下ろし、偉そうな態度をとること」という説明がなされている。
この場合、書いた方は偉そうな態度など取っていないのだが、受けたほうがそう感じるから仕方ない。
昔より年寄りが元気だからそうなるのか。
そういう年寄りは元気だから、まだまだ働けると思っている。
だから退職しても「働けるのに」という微妙なヒガミが残っている。
だからすぐに「若いものが何を言うか」というふうになってしまう。
受け取る方のある種のヒガミであるとするなら、円滑に事を進めようと思えば、言い方に気をつけたほうがいい。

記事には基礎編として、「目上に対し「うん、うん」「そう、そう」「なるほど」と相づちしない。」と書いてある。

なるほど、そういう言い方は聞くなあ。
ぼくが学生と話していても、そういう時がある。
ぼくは何とも思わないが、それを良しとしない人もいるだろう。
「はい」「ええ」「そうですか!」「そうですね!」が推奨されているが、確かに社会人ならそういう方がスキルが高い。

中級編として、「何かに誘われた時に、OKのつもりで「いいですよ」と返事しないこと!」とある。
これも、悪気はないのだが、人によっては上から目線と感じるだろう。
いい、悪いの判断をするのは上から目線ということになる。
これも、「最低でも「いいですねえ!」と「許諾」ではなく「同意」に。できれば「ありがとうございます!」と「感謝・喜び」の表現を添えて伝えよう。」と書いてある。

別に「いいですよ」でもいいんだろうが、「ありがとうございます」の方がすっくりいく。
誘った方も気持ちがいいだろう。

上級編は誘いを断るときだ。
「無理です」「できません」「いやです」は論外だという。
それはそうだろう。
さすがにそれはあり得ない。
露骨な拒否は上から目線度を高めるという。

まあ、ぼくならまず「すいません」と謝って「今日はちょっと…」という感じだろうなあ。
推奨されているのは、「うーん、ちょっと……、今日は、少し、難しいかも、しれませんねえ……せっかく声をかけていただいたのに申し訳ありません……」という言葉。
若い人は、これを優柔不断なおバカと思う人もいるとのこと。
本当だろうか。

若い人はもっと賢いと思うのだが…。



| | 考えたこと | 21:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
Facebookの情報
気軽にFacebookのアカウントを作り、何人かと友だちになり、気に入ったWebサイトや企業に「いいね」をして、気に入った記事にコメントしたりシェアしているが、そんなことからわかることはどれくらいあるのだろう。

ワシントン・ポストが、Facebookでターゲット広告を出す時に、どんな情報に基づいてターゲッティングできるかをリストアップしている。
それによると、思ったより多くの情報が設定されている。
Facebookに発信している情報量が多いほど、たくさんの情報がわかっている、ということだ。

もともとFacebookのアカウントを作るときに入れる情報はもちろんターゲットにされる。
年齢、性別、居住地、履歴(学校、職場など)だ。
だから、ターゲッティング広告の項目に「教育レベル」というものも存在する。
持ち家かどうか、というのも入っている。
そんな情報、、アカウントにあったっけ?

また、「誕生日や婚約、結婚、引越しなどの記念日を迎える友達がいるユーザー」、「遠距離恋愛中のユーザー」、「新しい恋人ができたユーザー」、「新しい仕事に就いたユーザー」、「婚約したばかりのユーザー」、「結婚したばかりのユーザー」、「最近引越したユーザー」、「もうすぐ誕生日を迎えるユーザー」などというのもある。
人生のイベント時には消費が伴うから、こういうのもアカウント情報や投稿内容、友だちの情報から推定してターゲットにするんだろう。

クルマ好きなら、クルマについての投稿もあるだろうから、その情報もターゲットにされる。
「車を買おうとしているユーザー」、「車の部品やアクセサリーを購入したユーザー」、「車の部品や何かしらのサービスが必要になりそうなユーザー」、「運転している車の型やブランド」、「車を購入した年」、「車齢」、「次の車を買う際の予算」、「次にどこで車を買うか」というような項目もある。
次に車を買う場所がわかっていたら、「こっちのほうが安いよ」というような広告が入るんだろうか。

クレジットカードの情報もある。
信用枠がどれくらいあるか、頻繁に使うか、種類は何かというようなもの。
一度Facebookに出ている広告経由でカードを使うと、記録されるんだろうか。

項目は全部で98もある。

ネットが出てくるまでは、誰が買うかわからないからできるだけたくさんの人に広告をしていた。
ムダを承知でやっていたのだ。
それがテレビやラジオでの広告。
でも、ネットが出てきて、グーグルが検索を使ってユーザーが興味があるものをつかみ、それを広告に利用し始めた。
だからこそ、グーグルの各種サービスが無料になる。
民放がCMが減って予算が苦しくなって、ロクな番組が作れないのも当然だ。

検索とは違って、ユーザーの日々の暮らしや社会的つながりから、何を買いそうかを考えFacebookがターゲッティング広告に使い始めた。
それがFacebookが無料であることの代償になる。

記事を見ていると、これが広告に使われるのならまあ仕方ないとも思えるが、その気になればFacebookのアカウントの持ち主の情報がこれだけわかる、ということでもある。
海外のドラマを見ていると、殺人事件の被害者のSNSから顔写真や交友関係、何に興味を持っていたかなど、パソコン1台ですぐに分析してしまう。
どこによく行くとか、日々の行動まで分かる場合もある。

ドラマでは感心しながら見るが、ちょっとこわいと言えばこわい。
無防備にFacebookなどに投稿していると、任意の第三者でもそういうことを分析しようとすればできるということだ。
日々行ったところをアップしたりしていると、行動様式もわかる。
ドラマの中では、それが誘拐につながったりする。

ぼくも時々コメント付きの記事をシェアしているが、あれは思想信条が現れているものもあるし、ヤバイかもしれない。
次に就職する時には全部消さないとダメかも。
そういえば、最近ニュースの顔写真にもFacebookからとってきたというものもあるなあ。

そんな心配もそのうち冗談ではなくなるかもしれない。

若い人たちはずっと残る投稿は嫌がり始めた。
だから、Facebookは敬遠されているらしい。
それはそうだろう。
まだまだ未来があるんだから。
若気の至りで何かをフイにするのはやめておこう。
だから、投稿してしばらくしたら勝手に消えるというSNSが人気がある。

ぼくら年寄りはもういい。
失うものはないし、あんまり影響はない。

日本ではまだまだ利用率は低く、アメリカみたいなことはないだろうが、ヘビーユーザーの人は一度この記事を見てみたらビックリするかもしれない。

記事にもあるが、驚くほどFacebookに知られている。
ということは、その気になったらハッカーにも知られるということだ。

ややこしい世の中になった。


| | 考えたこと | 00:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
高齢化のスピード
ダイヤモンド・オンラインに『日本の超高齢化を「見える化」したらやはりトンデモなかった』という記事があった。
日頃、日本が高齢化が早いと言っているが、中国も韓国も意外と早いと聞いているし、そんなに大したことはないのかな、と思ったりしている。
だから、国際比較をしたらどうなのかなと思っていたら、記事が出た。

最初に人口に対する65歳以上の比率=高齢化率の国際比較のグラフが出ている。
日本はダントツの値だ。
2015年で26.7%。2位のイタリア(22.4%)や3位のギリシャ(21.4%)を大きく引き離している。
アジアでは2位が香港の15.1%だから、本当にダントツの1位だ。
生産年齢人口が減ることを考えると、どうやって高齢者を使っていくかというのが大きな課題になるなあ。

西欧の国々は高齢化率が高く20%付近。
でも、アメリカは14.8%しかない。
寿命が短いということもあるが、移民で人口が増えているということも大きい。
国の活力という意味では移民を入れるのはいいことだと思う。
平均寿命が長らく世界一、ということがいいことだと思っていたが、必ずしもいいことばかりではないということに気づく。
寿命が長い分だけ、長く働くというシステムを作っておかないといけなかった。
こういうところでも持続可能性ということが効いてくる。

こないだ見た番組で、医療費が現在40兆円を超えたが、2020年には47兆円、2025年には50兆円を超える試算が出ているらしい。
その医療費の6割を65歳以上の高齢者が使っている。
年金だけでなく、医療費も抑制しないとイケナイ。
ぼちぼち本気で「どう死ぬか」ということを考えないと。

続いて、主要国の高齢化率の将来推計が出ている。
今世紀中は日本がトップだということだ。
中国や韓国の高齢化率は急速に上がりはするが、それでも日本よりは5〜10%低い。
日本もさすがに2040年くらいから伸びが落ち着くが、それは人口がどんどん減っていくということだ。
少産多死だから、仕方がない。
2050年には高齢化率が4割に近づく。
日本の人口の5人に2人が65歳以上ということだ。

このままいくと、確かに地方では限界集落だらけになり、自治体など要らなくなる。
公務員が減るのはいいことだが、地方の土地や資源をどう使うかというビジョンを持たないといけないのではないか。
地方創生と言ってはいるが、箱物を作ったり、ゆるキャライベントをやったりしているだけでは無理だろう。
どうやって地方を盛り立てていくのか、あるいは、いかないのか。
農業に関する規制を撤廃したり、地方で特区を作ったりできないのか。
道州制もアリだと思う。意思決定を早くしないといけない。
そういう知恵は地方公務員が出さないといけないのだが、国の交付税に頼って生きているところが多いから、難しいだろうなあ。

また、これだけ高齢者が増えるということになると、世代間の格差をどうするかということになる。
年寄りが増えて、若い人が減る。やがて人口も減る。
社会保障の仕組みを変えないともたない。
若い人の教育をちゃんとしないといけない。
高齢者が働き続けることも必要だ。

そういうことをやっていく人こそが求められると思う。

| | 考えたこと | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
アウディのサス発電
今は電動自転車でも、ブレーキをかけると止まろうとする力でを利用して発電機を回して、止まるエネルギーを電気に変えるという技術を使っている。
もちろん、ハイブリッド車や電気自動車なら当然だ。

従来のブレーキはクルマを止めるエネルギーを摩擦と熱にしていたが、それを発電機を回すエネルギーにも使うということだ。
電気自動車の普及の鍵は走行距離にある。
そのためには、モーターの消費電力を下げたり、電池の容量などを上げたりすることが必要だが、それに加えていろいろな形で走行中に電気を作ることも有効だ。
発生した電気を充電しておけば走行距離を伸ばすことができる。

今回、アウディが発表したサスペンジョンは、「道路の凹凸で生じる車体の上下運動を電力に変換する」と書かれている。
今まではオイルの流れや空気の圧縮を使って凸凹を吸収していたのだが、路面の凹凸から受ける力を発電に使うというのはいい考えだと思う。

イラストを見ると、路面の凹凸で出てくる上下動を回転方向に変えて、発電機を回すというもの。
電気をエネルギーにして走るクルマには、どんなクルマでも使える。
耐久性や性能の問題はあるだろうが、原理的には路面の凹凸を吸収するエネルギーの有効利用ということで、アリだろう。

かかるコストと実際どれだけ発電できるかという問題はあるが、これはいいアイデアだと思う。

こんな風にして、電気自動車がどんどん実用化に近づいていくのだろう。
こうなってくると、未来の道はわざと路面を凹凸にして発電させるようにつくるということもあるなあ。
そうすれば、バッテリーは小さくても道から発電して走ることができるようになる。

クルマが電気をメインで動くようになると、大きな産業の転換が起こる。
自動車はドイツの基幹産業だから、頑張っているのだろう。

日本も同じ。
産業の大転換を乗り越えて、頑張ってほしい。



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ルイス警部
「ルイス警部」はイギリスのドラマ、「モース警部」の続編。
モースの部下だったルイスが主役で、モースの死後の警察ドラマ。

モース警部と同じく、舞台はオックスフォード。
大学絡みの犯罪が多い。
ルイスもモースの影響を受けて、オペラを聴く。
元はあまり好きでなかったはずだが、モースの影響で好きになったらしい。

頭脳派のモースの代わりは部下のハサウェイ刑事。
オックスフォードの神学部を出ている。
警部と刑事の役回りが入れ替わった。

ルイスは庶民的でマジメな警官。
考えてパズルを解くよりは、足で地道に証拠を集めるタイプ。
部下の人使いはけっこう荒い。
それでも頭脳派の部下に気を使っているところはモースとは違う。

このシリーズ、モース警部と同じく時間がゆったり流れる。
90分のドラマだが、人間関係の模写や会話が延々と続く。
モースの時みたいに昼間からパブで飲むという場面はない。
それでも、イギリスのビターというビールをハサウェイと飲む場面は毎回出てくる。

イギリスのパブには大きく分けてビターとラガーというビールがある。
日本の一般的なビールはラガーだ。
冷やして出されるし、色も日本のビールの色だ。
でも、ビターは常温で出されて、色ももっと濃い。
黒ビールといった感じで、ラガーよりもコクがあって、味がある。

ルイスもハサウェイもビターを飲む。
80年当時、駐在の人に聞いたところでは、イギリスではラガーは女子や子どもが飲むもの、ということだった。
大のオトナはビターを飲むのだろう。
ドラマを見ていると、ビターが美味しそうに見える。

イギリスの夏はそんなに暑くないんだろう。
だから、常温のビールが飲める。
日本の黒ビールとも違う、イギリスのビター。

もちろん、ルイスが飲むのは1パイント(568ml)。
ハーフパイントというオーダーもできるが、彼らは1パイント単位で飲む。
値段は3ポンド〜4ポンド。今なら500円くらいか。
パブはお金と引き換えに商品をもらうので、帰りはレジによる必要がない。
だから、外の席で景色を見ながらオープンで飲める。

ドラマに出てくるオックスフォードのパブは古臭くてとても良い感じだ。

あんなところでゆっくり飲めたら、人生も楽しいだろうと思う。


| | 考えたこと | 01:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
悠久の時間
地球は何枚かのプレートで覆われており、それは移動しているというのが今の常識。
地球内部にはマントルという熱い物質が対流しており、それにしたがって動くらしい。
大陸は元は一つだったが、別れて今の姿になったということだ。
海洋開発研究機構によると、2億5千万年後には別れた大陸がまた一つになるらしい。

そう考えると、今の南シナ海や東シナ海の国境問題などバカバカしい。
世界は一つの大陸になるのだから。

オーストラリア大陸は動きが早いとのこと。
大陸の中では一番小さいからか。
毎年数センチ北に上がっているという。
数センチといっても、塵も積もれば式で長期にわたると大移動になる。
1年1センチとしても、1億年で1000キロメートルになる。
1年間に5センチなら、5000キロメートルだ。
その間には大地震とか、大噴火とか、いろんなことが起こるんだろう。
そう思うとせいぜい10万年の放射性物質の汚染などかわいいものだ。

何度か書いたが、太陽が自分の大きさを維持できなくなって膨張するのが、あと数十億年後と言われている。
2億5000万年はそれよりは短いから、まだ地球には生命がいるかもしれない。
それまでの間には、恐竜が絶滅したような小惑星の衝突もあるかもしれないから、地球上に人間が生きているとは限らない。

「悠久の時」というが、その意味は「途方も無く長い歳月」。
でもその射程には大陸移動とか、太陽の膨張とかは入らないだろう。

まあ、それならほんの短い間、地球という類まれな天体のうえで進化し、知能を持って生きることができた人間という種はラッキーだろうなあ。
これは人間中心の言い方かも知れないが…。

そう思うと、もう少し仲良くできないものかと思う。

時には悠久の時間について考えるのもいいことだ。

| | 考えたこと | 20:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
664万円
先月の日経によると、2016年度末で国民一人あたりの借金は664万円になる見込みだという。
1980年に60万円、92年に144万円、2009年に470万円を順調?に増やしてきて、今年度末には664万円という予想。
毎年赤字国債を積み上げてきて、その残高が838兆円という。
実際には国と地方の借金を合わせると1000兆円になる。
今や日本は世界一の借金大国だ。
ギリシアやイタリアより赤字は大きい。
国民総生産の倍あるのだから、よくここまでためたものだ。

記事では、三菱UFJが国債市場特別参加者(プライマリー・ディーラー)の資格を返上すると申し入れた事を書いていた。
三菱UFJはメガバンクの中でも国債をたくさん持っている。
国債は日銀に売るのだが、お金を預けたら手数料をとられるという日銀のマイナス金利は経営上許されない。
だから、国債入札で一定の落札義務を負うプライマリー・ディーラーを辞めたいということだった。
銀行も預金者から何やかやと手数料を取っているのだから、マイナス金利は日銀がお金を預かる手数料と考えたらいいと思うのだが…。

日銀は国債を国から直接買うことはできない。
この理由は日本銀行のページに書いてある。

「中央銀行がいったん国債の引受けによって政府への資金供与を始めると、その国の政府の財政節度を失わせ、ひいては中央銀行通貨の増発に歯止めが掛からなくなり、悪性のインフレーションを引き起こすおそれがあるからです。そうなると、その国の通貨や経済運営そのものに対する国内外からの信頼も失われてしまいます。これは長い歴史から得られた貴重な経験であり、わが国だけでなく先進各国で中央銀行による国債引受けが制度的に禁止されているのもこのためです。」

日銀があからさまに国の借金をするのはイケナイということだ。
間接的にやっていれば同じことだと思う。
でもそこには一定の規律がないといけない。
そこで、三菱UFJは線引きをしたい、ということになる。

三菱UFJは今や国債保有額が28兆円になっているとのこと。
だから、もういいかげんにしてくれ、と言いたいんだろう。

記事は「未曽有の量に達した日本国債の消化を支えてきた財務省・日銀・銀行の「鉄のトライアングル」。結束は静かにほころび始めた。そのことに当事者たちも気づいているが、マイナス金利で機能不全の市場がすべてを覆い隠す。「三菱UFJがプライマリー・ディーラーから抜けても国債市場への影響はありません」。財務省幹部はそう説いて回る。気づかないふりはいつまで続くのか。」と締めくくられている。

最近の日経はだいぶ政府、日銀のやり方に批判的になってきた。
いいことだと思う。
自民党のやり方は昔のバラマキに戻ってきた。
こんなことを続けていては、ダメだ。
まだ余力があるうちに新しい産業を起こさないといけない。
ばらまくのなら、教育を無償にするとか、徹底的に規制を緩和するとか、そういう分野にしないと…。

箱モノや道路にお金をかけても、成長しない。
旧民主党の唯一いいと思ったキャッチフレーズは「コンクリートから人へ」だった。
実際にやったことはむちゃくちゃだったが、あのフレーズはまっとうだ。

人といえば、教育が第一。
そこだと思うのだが…。

| | 考えたこと | 00:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
今日から9月
今年も9月が来た。
9月というと、何となく特別な感慨がある。
夏休みが終わって、学校が始まる時期で、夏の名残を惜しむ気持ちが習慣になっているからか…。
もっとも、今の学校は2学期制になっているところもあるし、行事が増えて8月の終わりに始業式をやるところも多いらしい。
今どきの子供が大きくなった時には、9月1日にぼくのような感慨はないかもしれないなあ。

2005年の5月に始めたこのブログもいつの間にか12年が過ぎた。
今日は9月の最初の記事をふりかえって書く。

2005.09.03 ディズニーランド
ディズニーランドがなぜ人気があるのかという本を読んで、従業員一人ひとりがお客様に夢を与える、という目標をもっているから、ということが書いてあったという話。
記事を印刷したものを渡されたのを思い出した。
そういえば、このころ顧客満足度という言葉が流行っていた。
難しいのは「常に変わり続ける」こと。
従業員が「夢の価値」を信じることて、誇りを持って働く、というのはスゴイことだ。
でも、今はUSJに抜かれて、ちょっと調子が悪い。
やはり、変わり続けるのは難しいということか。

2006.09.01 円と正方形
円と同じ面積の正方形が作図できない…、そんなことに2000年以上もかかった、ということに感心。
そういうことに感動する。
このころ、そういう本を読んで、はまっていたような思い出がある。

2007.09.01 エヌサン
初めて乗った軽乗用車。ホンダのN360の話。
懐かしい。
今のように誰でもエンジンがかけられる、というクルマではなく、人間味があったという話。
ホント、そうやった。

2008.09.01 バンドの寿命
サザンが解散したことについて書いた。
今は再結成しているが、この時解散した。
30年が節目かもしれない。
なかなか30年は続かないからなあ。

2009.09.01 みたく
「みたく」という言い方に違和感があって書いた。
〜みたい、という意味の「みたく」。
さすがにあれから時間がたって、違和感は減ったが、それでもやっぱり自分では使わない。
言葉についてもいろいろ書いたなあ。

2010.09.02 人間模様
入院中だった。
この前後は病院の話が続く。
若い看護婦さんの聞き上手に感心。
目の不自由なおじいさんとの会話でみせたヒューマンスキルの高さだった。
そういえばそういうこともあった。

2011.09.01 つくつく法師
最近はめったに聞かないつくつく法師。
あの鳴き声が聞こえたという記事。
つくつく法師はなぜあんなに複雑な鳴き方をするのか、調べても載っていない。
今でも調べる価値はあると思うが、答えは出ないだろう。

2012.09.01 小学校
分数ができない大学生の記事。
小学生の算数ができない状態を長らく放置していいのか、と書いている。
それは今も続いている。
そんなこともできないのに、やれ英会話だ、プログラミングだというのは本末転倒だ。

2013.09.01 シトロエン
シトロエンが作っているハイドラクティブサスの話。
プジョーグループに吸収されてしまったのは今でも残念。
ユニークなクルマを作っていたのになあ。
シトロエンのGSは今でもカッコいい。

2014.09.02 「学校は変」
東大の先生が、子どもの小学校の行って感じた違和感の話。
その先生の意見である、「どう考えても教師自身が、自分の頭で考えて発言しているとは思えません」という意見に同意。
ちゃんと考えて話せる先生がどれだけいるのか。
その問題は根が深いと思う。

2015.09.01 いじめの調査2
文科省のいじめの調査について。
いじめの調査結果が都道府県で件数に83倍の開きがあったという。
「認知件数が多い学校はいじめを積極的に把握し、解消に向けて取り組んでいるとみて極めて肯定的に評価する」という方針に賛成。
さすがにこれだけ問題が起こると、文科省の事なかれ主義(現場が迎合したことによる)ではダメということだ。
いじめはなくならないと思うが、いじめの自殺はなくさないといけない。

12年をふり返ると、思い出すことも多い。
クルマ、音楽、言葉、学校のことなど。

書くことの幅が狭くなってきたような気がするなあ。

明日からまたがんばろう。


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セルフトーク
オリンピックに出ていたバドミントンの女子シングルスの奥村選手は、コートに入る前にはっきりと言葉に出して何かをつぶやいて試合に臨む。
自分に言い聞かせる言葉だ。
前にも書いたが「ここまで来られたことに、たくさんのサポート、ファンの皆さんの声に、すべてに感謝して、この舞台を楽しもう、やりきろう、よし!」というようなことを言うらしい。
ケガを乗り越えてきた経験が、この感謝の気持ちをつぶやかせるのかもしれない。
それを五郎丸のようにルーチンにしている。

回りの人達に対する感謝をつぶやくとは、いかにも日本らしい、と西洋人は言うかもしれない。
でも、それは文化の違いであって、それが自分を鼓舞するという意味では同じことだ。

海外では心理学者がこういう研究をよくする。
セルフトークで自分を高めることができるか、というようなものだ。

イギリスの研究者は「自分を励ます独り言は実際に効果的だ」という。
記事によると、

「たいていの人は自分の能力を高めたいと考えている。「競争相手より自分のほうが優れている」と自分に言い聞かせることは米国人にとって当たり前のことであり、自信を持てない人は米国人ではないかのような印象さえ与えかねない。

 とはいえ、自分を鼓舞すれば本当により良い成果を挙げられるのだろうか。

 心理学の世界では以前から、セルフトークや自己教示、つまり望んでいない思考や行動を変えるために自分自身に語りかけることで、気持ちも切り替えられることが分かっている。

 セルフトークは認知行動療法の技術の1つで、例えば、落ち込んでいるときに「私は新しい友達をつくることができる興味深い人間だ」とか、「私は一度に1つのことに集中できる」といった言葉を自分にかければ、考え方や物事に対応する能力の修正に役立つ。」

と書かれている。

実験結果からは単純なセルフトークが効果が大きい、という。
また、努力と技術は別物であって、今回の実験は主に努力(集中力?)の部分が大きかったから、効果があったと言われている。
それはそうだろう。
全く技術的に練習していないものが、「きっとできる」というセルフトークで突然できるようになるとは思わない。

こういうのは、それなりに技術(知識でもいいと思う)を身につけ、回りからみてもポテンシャルがある、という人が効果を上げるものだと思う。
「火事場の馬鹿力」という言葉があるが、それを発揮できるかどうかは心理的なものにかかっていて、セルフトークの効果が期待できるのかもしれない。

日本人はネガティブに考えがちだ。
「もしダメだったらどうしよう」とかいう考え。
これは萎縮を生んで、悪い方に働くだろうなあ。

そうつぶやくくらいなら、「きっとできる」とつぶやく方がマシだ。
でも、今回のオリンピックで見た若い人たちは、そういうことをやっているんだろう。
もう昔の日本人ではない。

でも、吉田沙保里や福原愛はしんどかっただろうなあ。
特に吉田は試合後のインタビューが気の毒だった。
あれは責任感から、セルフトークが「負けたらダメだ」というネガティブな方向に行ったのかもしれない。
いいメンタルコーチがいたら、結果は違っていたのかもしれない。

そういう人文科学的なアプローチをもっとやらないといけないなあ。


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